大白法

平成19年7月16日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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大阪市淀川区・仏生山蓮華寺が宗門に復帰
厳粛に復帰奉告法要行われる


7月7日、大阪市淀川区の仏生山蓮華寺において、復帰奉告法要並びに第2代住職・長坂慈精御尊師の入院式が厳粛に奉修された。これは、元住職の久保川法章に約25年間にわたって不法に占拠されていた蓮華寺が、平成18年10月28日に宗門に返還されたことによるものである。

蓮華寺は、昭和40年11月5日、総本山第66世日達上人の大導師のもと、復興新築入仏落慶法要が執り行われた。しかし、元住職の久保川は創価学会の昭和52年路線・教義逸脱問題を起因とした自称正信会問題の中、本門戒壇の大御本尊並びに唯授一人の血脈相承を否定する異説を唱えた。これにより、久保川は昭和56年2月9日付をもって擯斥処分に付され、これまで当寺を不法に占拠していたが、このたび当寺が宗門に明け渡される運びとなったのである。

復帰奉告法要並びに住職入院式には、菅野日龍御尊能化、海外部長・漆畑行雄御尊師、庶務部副部長・斎藤栄順御尊師、大阪布教区支院長・高野法雄御尊師、同副支院長・柳坂幹道御尊師をはじめ布教区内外の御僧侶方が御出席。また、大阪地方部より茂山地方部長、住田利治副地方部長、守家末広副地方部長、さらに大阪布教区内の支部代表信徒220名、また蓮華寺の川口順総代をはじめ蓮華寺信徒多数が参列した。

入院式は午後1時より奉修され、はじめに新住職の長坂御尊師の導師により、献膳の儀、読経、唱題と奉修された。次に、高野支院長より新住職の紹介、並びに経過報告を交えての祝辞が述べられ、続いて漆畑海外部長、川口総代より、それぞれ祝辞が述べられた。最後に、長坂新住職より参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝された。こののち、本堂において記念撮影が行われ、復帰奉告法要並びに入院式はとどこおりなく終了した。

なお、昨年10月28日には返還の読経・唱題が修され、入院式の当日午前10時より、座替り式を奉修。さらに、柳坂副支院長、総代等の立ち会いのもと、事務引き継ぎが行われた。また当寺は、淀川区の妙栄寺から信徒の一部が移籍して蓮華寺所属信徒となり、宗教活動が再開された。





三重県鈴鹿市・鈴鹿山光徳寺が宗門に復帰
元所属信徒の勧誡式・入講も


6月27日、これまで自称正信会の者に不法占拠されていた三重県鈴鹿市の鈴鹿山光徳寺が25年ぶりに宗門へ返還された。

当寺は、昭和50年3月4日、総本山第66世日達上人の大導師のもと落慶入仏式が執り行われ宗教活動が開始された。しかし、創価学会の昭和52年路線・教義逸脱問題の中、元住職の林律道が自称正信会の者たちと共に本宗の金口嫡々唯授一人の血脈相承を否定し、御法主上人猊下を誹謗したのである。これによって、林は昭和57年8月21日付で擯斥処分に付されたが、これまで当寺を不法に占拠していた。そして今般、本人の死亡を機に宗門に明け渡される運びとなったのである。

返還の当日は、当寺の兼務住職である仏境寺住職・原道準御尊師が赴任し、返還の読経・唱題が修され、宗門に復帰した。翌28日は復帰の作業が行われ、次いで、午後7時より当寺元所属信徒に対して説明会が行われた。引き続き当寺所属希望者の勧誡式が修され、8名が入講した。

また、7月6日午後1時より、新たに着任された当寺第2代住職・大場一正妙御尊師の入院式が執り行われ、宗教活動が再開された。入院式には大村日統御尊能化、庶務部長・阿部信彰御尊師、渉外部副部長・梅屋誠岳御尊師、中部布教区支院長・佐々木慈啓御尊師をはじめ布教区内外の御僧侶方が御出席。また、中部地方部より太田地方部長をはじめ代表信徒多数が参列し、厳粛かつ盛大に奉修された。これを機に、擯斥僧侶により不法占拠されている各地の寺院が、早く宗門に返還されることが望まれる。




御法主日如上人猊下御言葉

7月度 広布唱題行の砌
平成19年6月30日 於 総本山客殿


 本日は、7月の広布唱題会に当たり、総本山におきましては法華講夏期講習会開催中のため、日程を一日繰り上げて行いましたところ、多数の方々が参加され、まことに御苦労さまでございます。本年「行動の年」も半年を過ぎ、いよいよ明日からは7月に入りますが、皆様方には日夜、御命題達成へ向けて御精進のことと存じます。

 さて、法華経の法師品を拝しますと、

「薬王今汝(なんじ)に告ぐ 我が諸説の諸経而(しか)も此(こ)の経に於て 法華最も第一なり 爾の時に仏、復(また)、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、我が諸説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」(法華経325ページ)
とあります。このお経文のなかで「已に説き」と仰せられいるのは、釈尊40年余年の諸経のことであります。「今説き」とは、これは無量義経であります。「当に説かん」とは涅槃経のことであります。すなわち、この御文は已今当の三説を挙げられ、これら諸経の対して法華経が最も難信難解(なんしんなんげ)である仰せられているのであります。

 なぜ、法華経が難信難解であるかについて、大聖人様は『観心本尊抄』に、

「迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉(ことごと)く随他意(ずいたい)・易信易解(いしんいげ)、本門は三説の外(ほか)の難信難解・随自意なり」(御書655ページ)
と仰せであります。すなわち、法華経は随自意の経であるが故に、難信難解、爾前諸経は随他意の経なる故に易信易解であると仰せであります。随他意というのは、仏が衆生の機根に随って説法をし、真実の法門に誘引するまで方便の教えであります。随自意とは、衆生の機根にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説かれた真実の教えであります。

 つまり、法華経は相手の機根に応じて法を説くのではなく、仏様が本来、説かんとするところの真実の教えを説く故に、難信難解なのであります。この難信難解について大聖人は『四条金御殿御返事』に「此経難持」の経文を挙げて、具体的に信心の約して次のように仰せであります。今、解りやすく申し上げますると、

「弁阿闍梨が貴殿の話として申すには、『法華経を持つ者は、現世には安穏で後生には善処に生まれると奉(たてまつ)り、既に去年から今日に至るまで如法(にょほう)に信心に励んできたが、現世安穏どころか、かえって大難が雨の如く振りかかっている』と言われたとのことであるが、これは事実であろうか。それとも弁阿闍梨の誤りであろうか。

いずれにせよ、よい機会であるからその不審を晴らそう。法華経の法師品に『此の経は信じ難く解(げ)し難い』と説かれている。この法華経を聞き受ける人は多くいても、それを身にも持ち、心にも銘記して忘れず、いかなる大難に値っても退転することなく持ち続ける人はまれである。受(う)くるは易く、持つは難いものである。されど、成仏は持つことにある。それには、大難に値うことを覚悟しなければならない。

かの見宝塔品に『速やかに無上の仏道を得る』とあるのは、大難を忍んでこの経を持つ人を指したものである(中略)また見宝塔品には『法華経は持ち難い、もししばらくでも持つ者がいれば、我一人(釈尊)が喜びたるのみにあらず、諸仏もまた歓喜する』と説かれている。

火に薪(たきぎ)を加えれば火は盛んになり、大風が吹けば求羅(ぐら)という虫はますます成長する。松は万年の長寿を持つ故に枝を曲げられる。法華経の行者は火と求羅(ぐら)のようなもので、薪と風は大難のようなものである。

法華経の行者は大難の加わるごとに信力を増すのである。法華経の行者は久遠長寿の如来であるから、修行の枝を切られたり、折られたりするのである。これらのことを思い合わせて、今後は『此経難持』の四字を暫時(ざんじ)も忘れず案じていきなさい。」(同775ページ取意)

と仰せられいるのであります。

 すなわち、法華経は難信難解の経であるから、それを持ち続けていこうとすれば様々な大難がある。しかし、大難の起こるのは、かねて法華経に「難信難解」と説かれているところである。大難が起これば起こるほど正しい法であることを確信し、妙法を持ち続けるとき、過去遠々劫からのあらゆる罪障を消滅し、即身成仏の本懐を得ることができるのである。したがって、末法においてこの妙法を持つには、もともと持ち難い法であると心を決めて、いかなる大難をも忍ぶ覚悟を持つことが大事なのであると、このように仰せられているわけであります。

 今、宗門僧俗は日顕上人よりいただいた平成21年の御命題達成へ向けて、異体同心・一致団結して前進をしておりますが、我らの行く手には、邪教・池田創価学会の妨害をはじめ、様々な困難や中傷や迫害が立ちはだかることは必定であります。また、油断をすればおのれ自身にも魔が競い起きてくることもあるでしょう。

 しかし、我々一人ひとりがいかなる困難や障害や障魔をものともせず、断固たる決意と異体同心の団結、勇気ある行動をもって立ち向かっていけば、必ず目標は達成できるのであります。むしろ、「難来たるを以(も)って安楽と意得(こころう)べきなり」(同1763ページ)との強盛なる信心に立つとき、広大なる大御本尊の功徳力によってあらゆる障魔を打ち砕き、確たる幸せを招来することができるのであります。

   大聖人は、

「敵はねら(狙)ふらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か。是れにつけても能(よ)く能く御信心あるべし」(同1292ページ)
と仰せであります。「法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か」と仰せられた御意(ぎょい)を、我々は深く拝すべきであります。要は、強盛なる信心がすべてを解決するのであります。

 いよいよ御命題達成まであと2年。皆様方にはいかなる大難、いかなる障魔が襲い来ようが、ただいまの御金言の如く、すべてを強盛なる信心によって打ち破り、もって御命題達成へ向けて勇猛精進くださることを心から念じ、本日の挨拶とします。



信行を磨く −地涌倍増と大結集− 光久日康御尊能化


提出されてより今年で748年目

今年7月16日は、宗祖日蓮大聖人が『立正安国論』を提出されてより748年目に当たります。『立正安国論』正義顕揚750年、「地涌倍増」、そして「大結集」という御命題達成の日まで、余すところいよいよ2年となりました。「光陰矢の如し」の諺通り、御法主日如上人猊下が御登座され、あっという間に1年半以上が過ぎました。「一寸の光陰軽んずべからず」の感一入(ひとしお)です。

御命題達成のために、御法主上人猊下は「講中一丸」の激を発せられ、「組織戦」の必要を説かれています。この御指南に副(そ)って、私たちは講中の原点を踏まえて、講中組織の実体を検討し、目標達成をめざし、決意をより一層強固なものにいたさねばなりません。


本来の姿

何事にも本来の姿を失った時は、やがて行き詰まりが訪れるものです。物事に行き詰まった時には、「原点に返れ」ぱいいのです。元来、反省は原点に返ろうとする用きです。原点に返る人ほど内省的になり、原点に返るほど奥が深くて味が出てまいります。

「淀みなき水に氷の張る間なし」と言います。流れる川の水は腐らず、扉の心棒は虫は喰いません。常に作動し続けていれば、自ずから清く、強くなる用きが涌出してまいります。個人も組織も例外はありません。私たちの信心はそうあるべきです。講中一同動きを止めたり、志を失うと、信心が濁ってしまいます。

御法主日如上人猊下が、「いくら信心しても、どうもうまくいかないというのは、たいていその人たちは折伏していない」(大白法701号)との御指南は、この点を厳しく指摘されたものと拝します。講中が新たな展開ができない時や、停滞している時は、本来の姿を失い、根本の法を求め続ける志も弱まっているものです。


組織論

さて各支部講中の目標は、いうまでもなく、大聖人様の仏法を信じ行じて、御法主上人猊下の御指南に随順し奉り、成仏する以外にありません。そのためには大御本尊様を信じ奉り、血脈付法の御法主上人猊下に随順していく、これが講中結成の原点でなければならないのです。この一点が組織論の基点で、すべての動きがここから涌き出てくるのです。

日因上人御消息に、講中の在り方について次のように説かれています。「結講中異体同心、未来迄も相離れ申す間敷(まじく)候。中に於て一人地獄に落ち入り候はば、講中寄り合い候て救い取るべし。一人成仏せば講中を手引きして霊山え引導すべし」と、このように仰せられ、講中組織の目的と在り方は、この短い文言に尽きます。

日因上人の仰せのごとく、講中は本来「成仏のための組織」です。成仏のために励まし支え合うための善知識の集まりであるべきです。厳しいようですが、善知識になろうという意志の弱い人は、元来は講中には入れないものと覚悟し、信心倍増の精進を励むべきと存じます。お互いが善知識ならば、「地獄に落ち入」る講員がいるならば、講中は自然と「寄り合い候て救い取る」べきです。講中で信心強盛な「一人」が「成仏せば」、他の講員を「手引きして霊山え引導」すべきです。この姿があってこそ、文字通り「成仏のための善知識の集まり」の法華講衆といえます。

組織の原理

『衆生身心御書』に、「人の使ひに三人あり。一人はきわめて小賢しき。一人ははかなくもなし、又小賢しかしからず。一人はきわめてはかなく確かなる」(御書1213ページ)とあります。これは使者としての能力の評価です。第一は賢く利口な人、第二は無能でもないが利口でもない人、第三は無知だが実直で確実なであります。

さらにこの三者の三様について、「第一の人は過ちがない。第二の人は少し小賢しいから、主の言葉に私語を加えて悪い使いになる。第三は無知だから私語を加えず、正直に主の言葉を伝えて、時として第一より上となる」と説かれています。

16世紀のイタリアのマキャベリは、リーダーの資質について、第一は自分で気づき考えの立つもの、第二は他人の考えがよく判るもの、第三は自分の考えもなく他人の考えも判らないものと分けています。つまり、自分がどうしなければならぬかを知る人と、他人の忠言を用いる人と、自ら人に忠告もできず、人の忠告にも従わない人の三種です。

特に信心面で大切なことは、知識の有無より、性情の善し悪しではないでしょうか。我執がなく、人とよく打ち解け合える性情の人は、自分の智慧が立たなくても、智者の意見をよく用いることができるから、なまじ私見が立つ人より有能にもなります。これらの人材を上手に配分し、協力させれば、人も活かされ講中も前進します。多くの人々が集まって、力を持ち寄り、協力してこそ成果が上がるものです。

これが組織の原理です。『立正安国論』正義顕揚750年、「地涌倍増」、そして「大結集」という御命題達成の日まで、全国の講中組織を充実させ、僧俗一致、一丸となって前進いたそうではありませんか。



御法主日如上人猊下御講義 『功徳要文(1)』
法華講夏期講習会第1期


皆さん、おはようございます。本年度の法華講夏期講習会に当たり、皆様方には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。

御承知のとおり、この夏期講習会は日顕上人の時からずっと続けられておりますが、この夏期講習会に参加して得た貴重な知識・体験というものを、皆様方がそれぞれの支部に持ち帰って、地域広布のため、また来たるべき平成21年の御命題の達成に資していくということが、まことに大事なことでございます。

本年度の夏期講習会は「折伏実践コース」と「折伏推進コース」という2コース制の形で進められておりますけれども、この講習会で得た体験、あるいはこれからの話し等是非、参考にしていただいて、そして広宣流布のために御精進をしていただきたいと存ずる次第でございます。昨年度、私は「折伏要文」についてお話しをさせていただいたわけでありますが、本年度は何をしようかと色々と考えまして、この「功徳要文」についてお話しをしていきたいと考えた次第でございます。

どういうところから、そのような考え方に至ったかと申しますと、平成元年の日顕上人猊下のお言葉のなかに、「特にそう折伏の進まない所は、やはりそれだけの信心修行の功徳を感じていない。もっと考えるならば、信心修行の尊さを徹底していない」(大日蓮・平成元年5月号 73ページ)と、こういうお言葉がございました。

このお言葉は実に大事でございまして、要するに、折伏が今日、思うように進まないのはなぜか。その原因を深く考えると、結局は信心修行の功徳を感じていないのではないかと、こうおっしゃっているわけです。そこで、この信心修行の功徳とは何か。もう一歩深く拝してみると、御本尊の功徳を本当に信じているかどうか、ということなのです。

このことはテキストのなかにも書いてありますけれども、テキストの22ページを開いてみてください。例えば、『可延定業(かえんじょうぎょう)御書』とございます。御文を拝読しますと、

阿闍世(あじゃせ)王は御年五十の二月十五日、大悪瘡(だいあくそう)、身に出来せり。大医耆婆(ぎば)が力も及ばず、三月七日必ず死して無間大城(むけんだいじょう)に堕つべかりき。五十余年が間の大楽(だいらく)一時に滅して、 一生の大苦三七(さんしち)日にあつまれり。定業(じょうごう)限りありしかども仏、法華経をかさねて演説して、涅槃経となづけて大王にあたえ給ひしかば、身の病忽(たちま)ちに平癒(へいゆ)し、心の重罪も一時に露と消えにき。(御書760ページ)

とございます。この御文一つを見ても、これを本当に私達が確信を持って信じているかどうか、ということなのです。

もし、妙不可不思議な現象と申しますか、そういった功徳の顕れ方も見て、それを何か勘違いをした形から、「21世紀の時代に、まさかそんなことがあろうか」などと考えたとすれば、これはやはり信心をしてる者にとってはおかしな話なのです。所詮、我々が生きても70年か80年ほどです。その間に得たわずかばかりの知恵才覚で、仏様が過去・現在・未来の三世を通達して私達にお示しくださった御金言について、またその功徳について、「はて」などと考えていたのではだめです。

この御文の意から言うならば、まさに無間阿鼻大城に堕ちるべきところを、「五十余年が間の大楽(だいらく)一時に滅して、一生の大苦三七日にあつまれり」と、このようにおっしゃっているのです。そして「定業(じょうごう)限りありしかども仏、法華経をかさねて演説して、涅槃(ねはん)経となづけて大王にあたえ給ひしかば、身の病忽(たちま)ちに平癒(へいゆ)し、心の重罪も一時に露と消えにき」と、現実にこういうことがあるのです。これが、御本尊の妙不可不思議なる功徳であり、我々凡夫が思議すべからずものなのです。

つまり、70年や80年を生きたからといっても、末法の我々は凡眼凡智なのです。それをもって「21世紀の科学の時代に、こんなことがあるはずがない」などと、偉そうに言ってみたりするのはだめなのです。このほか大聖人様は、なぜ地震が起きるかについてもお示しであります。

正嘉(しょうか)元年丁巳八月二十三日戌亥(いぬいの)刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘(かんが)へたるに、念仏宗 と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚(しんに)を作して起こす所の災ひなり。(御書760ページ)

とおっしゃっているのです。なぜ天変地夭が起こるのか、特に8月23日の大地震がなぜ起きたのか。末法の御本仏である大聖人様が諸経を開き、そして様々な経疏(きょうしょ)を挙げられて至った結論、それは「念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚(しんに)を作して起こす所の災ひなり」だとおっしゃっている。この御金言をどう拝し奉るかということなのです。

もちろん、今の科学でも色々なこと言うでしょう。それらがすべてよくないと言うのではないのですが、もう一歩踏み込んだ根本のところにおいて、なにが、原因で天変地夭等々が起きるのかを知らなければならいということです。

もっと言うならば、なぜ私達は不幸なのか。もちろん、これは仮の話しですから、皆様方が不幸なのだと言っているのではありませんよ。しかし、もしも本当に悩んでいる方がいたら、その悩む原因がどこにあるか。もう一つ奧にある、根本の原因を知らなければだめなのです。これが、みんな、なかなか解らない。

仏様は、妙法を唱えることによって煩悩・業・苦の三道を滅し、これが法身・般若・解脱の三徳に転ずるとおっしゃっている。この功徳をいかに私達が確信を持って信じ奉ることができるか。この確信があれば、自分自身の信心はもちろんのこと、折伏だってもっと進むはずではないか。おそらく日顕上人はそのように仰せられたのだと、私は拝し奉るわけなのです。つまり、もう一回申し上げるけれども、やはり信心修行の功徳、この御本尊が絶対だと思うその確信、これがあれば折伏はできるのです。

例えば、折伏一つにしても。昨日、折伏を受けた人がその翌日、その折伏をするというケースがあるのです。その折伏した方は、失礼だけれども、お経もろくに読めないかも知れない。しかし、この御本尊は絶対だと信じ切った時には、昨日、折伏を受けた人が今日、折伏するのであり、また、その功徳を感じた時にできるのです。何年も信心していて折伏ができない人もいますが、このように勢いに乗ってできる人もいるのです。

この御本尊の功徳、まさに一念信解・初随喜によって、その人が信心に立った時には必ず折伏ができる。そういう意味であると、私はこの日顕上人のお言葉を拝し奉りました。そして今日の様々な状況を踏まえ、御本尊の功徳について色々と要文を挙げさせていただきながら、それを解説的に申しますか、少しく補足的な意味でお話しをしていこうと考えた次第であります。そういうことでございますので、皆様方には、しっかりとこの要文を心肝に染めていただきたいと思う次第でございます。


◆無量義経十功徳品第三◆

さて、本年も昨年と同じように、テキストには初めに法華経の要文を挙げて、そのあとに御書を出すようにいたしております。まず法華経でありますけれども、テキストの1ページをお開けください。「無量義経十功徳品第三」とございます。

是の経は、能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発(おこ)さしめ、慈仁(じにん)無き者には慈心を起こさしめ、殺戮(せつりく)を好む者には大悲の心を起こさしめ、嫉妬を生ずる者には隨喜の心を起こさしめ、愛著有る者には能捨の心を起こさしめ、諸(もろもろ)の慳貪(けんどん)の者には布施の心を起こさしめ、驕慢多き者には持戒の心を起こさしめ、瞋恚(しんに)さかんなる者のには忍辱の心を起こさしめ、懈怠(けだい)を生ずる者には精進の心を起こさしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起こさしめ、愚癡多き者には智慧の心を起こさしめ、未だ彼を度すること能(あた)わざる者には、彼を度する心を起こさしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめ、有為(うい)を楽(ねが)う者には無為の心を志(こころざし)さしめ、退心有る者には不退の心を作(な)さしめ、有漏(うろ)を為(な)す者には無漏の心を起こさしめ、煩悩多き者には除滅の心起こさしむ。(法華経34ページ11行目)

テキストには初めに「法華経」と示したなかに無量義経を挙げておりますけれども、この無量義経というのは皆様方も御承知のとおり、法華経の開経とされるお経であります。このお経のなかには有名な、「四十余年。未顕真実」(法華経23ページ)という御文があります。あの「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」とおっしゃたお経文は、この無量義経のなかに説かれているのです。そういう意味で古来、この無量義経は法華経の開経とされているのです。

開経というのは、序分というように考えたらいいでしょう。法華経が説かれる、その序分的な意味があるのでして、そこで古来、この無量義経もほとんど法華経と同様に拝している次第であります。そういったところから、この無量義経も「法華経」として挙げているわけであります。この無量義経十功徳品には、文字どおり、十の功徳について説かれているいるのですが、この御文は、そのなかの一番最初の御文なのです。本当は無量義経の十功徳品を全部細かく拝せばよく解るのですけれども、それではあまりに時間が掛かり過ぎますので、無量義経に限っては、この十功徳品の一番目の御文だけを挙げた次第であります。初めに

「是の経は、能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発(おこ)さしめ」

とありますが、菩提心というのは悟りを求めて仏道を行ずる心のことを言います。これを厳密には「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくらさんみゃくさんぼだいしん)」と言いますが、これはまた無上道心とか、大菩提心とも言うのでありまして、この心を起こすことを「発心」と言うのであります。

ですから、「未だ発心せざる者」、そういった者には今言ったように阿耨多羅三藐三菩提心の心を起こさしめるということです。それほどこのお経、これは無量義経ではありますが、要するに法華経の功徳は大きく、自然にそういった力が、その人の命のなかに具わってくるということです。

やはり心というものが極めて大事でありまして、我々がいきていくなかで色々なことがありますけれども、心が正しくなければ物事はうまくいかない。心に向上心がなければ仕事にも手につかない、勉強も手につかないということです。ところが、この御本尊をしっかりと受持していくと自然に菩提心というものが生まれてくるわけです。これがまさに妙不可不思議な功徳なのです。

この無量義経十功徳品の御文は、法華経を信じていくことによって自然に、その人の命のなかに妙法の功徳が具わってくるということなのです。ですから勉強が嫌いな子でも、一生懸命に勤行をさせていくと勉強が好きになってくるのです。したがって親はガミガミ言ってばかりいないで、きちんと一緒に勤行したらいいのです。言わなければいけないところもありますけれども、ガミガミ言い過ぎておかしくなってしまうことあるのです。

これは話しが少し飛んでしまうけれども、日顕上人猊下もよくおっしゃているお言葉のなかにこういう話しがあります。これは二宮尊徳の話なのですが、子供を育てる秘訣についてのことです。総講頭さんや大講頭さん辺りの古い方はよく知っていらっしゃるかと思うけれども、若い人のなかには二宮尊徳のことを知らない人がいるかも知れませんね。

我々の世代は二宮尊徳といえば「ああ、あの方だ」とすぐ解るんですよ。もちろん私も実際に見たことはありませんよ。見たことはないけれども話には聞いています。その二宮尊徳の歌に、「可愛(かわい)くば 五つ教えて 三つ誉(ほ)め 二つ叱って よき人にせよ」という名言があるのです。これは子育て、教育の至言ですよ。

皆さん方は違うでしょうけれども、朝から晩までガミガミ言っていたのではだめなんですね。「おまえはだめだ、おまえはだめだ」と、十叱って一つも褒めるところがない。そのように言い続けると、本当にだめになってしまうのです。ですから、そういったことは親のほうが気をつけなければなりません。ですからまず、この話のように5つ教える。まずしっかり教えて、そしてそのなかで3つは褒めて、2つぐらいは叱るというのが非常に大事です。

最近の教育論では、ある方がおっしゃっていましたけれども、「ゆとりの教育」ということを推し進めていったら、だんだん教育が退廃してしまったということなのです。ここに学校の先生がいらっしゃったら申しわけないけれども、信心している先生はそんなことないと思いますが、きちんと教えてあげずに、子供達に「やってみろ」とか「考えてみろ」と言うことがあるらいんです。その方がおっしゃるには、知識も何も与えないで、何も解らない子供に「やってみろ」と言っても、あるいは「考えてみろ」と言ってもそれは無理です。だから、まずはしっかり教えなければいけない、とおっしゃっているのです。

そしてまた、そのなかの3つは「よくできるな」と褒めてあげて、さらに悪いことがあったら2つ叱れ、ということなのですが、これはある意味、教育論としてはまことに尊い、大事な言葉ではないかと思います。要するに、色々な人間の知恵というものが働いて、二宮尊徳のような、こういった言葉もあるわけです。

しかし、何よりも、この御本尊しっかりと信じていく。朝夕の勤行を一緒にして、一緒に親子が題目を唱え、そしてお寺に通い、少年部の活動等に参加させて、しっかりやっていくと、自然にいわゆる菩提の心、仏道を求める心、幸せ求める心、悟りを求める心が生まれてくるのです。ここの御文は、これを、言っているのです。

ですから、ガミガミ言う前に、きちんと教えてあげるべきであり、また教える前にガミガミ言ってもだめです。その根本のところで、正しい信仰を求めていけば、もっとすごい、本当の立派な教育ができると、こういうことになるわけです。

次に

「慈仁(じにん)無き者には慈心を起こさしめ」
とありますが、この「慈仁」というのは慈悲とか思いやりという意味です。慈悲の心、思いやりの心がない人には、慈悲の心が起きてくる。これは相手を思う心です。やはり折伏は慈悲行ですから、本当に相手の救っていこうという心がないと、本当に折伏はできません。やはり、しっかりと題目を唱えていくと、慈悲の心が生まれてくるということなのです。

そして

「殺戮(せつりく)を好む者には大悲の心を起こさしめ」
というなかの「殺戮」というのは、これは相手を惨(むご)たらしく殺すことを言います。最近のテレビとか新聞の報道でも、本当に悲惨な事件、目を覆いたくなるような事件が多くありますね。今、本当に私達がこの大聖人様の仏法を、正しい仏法を広宣流布し、一人でも多くの人に下種結縁して、そしてこの惨たらしい犯罪、事件をなくしていきたい。

もちろん世の中の人達もそれを撲滅しようと一生懸命にやっています。しかし、常に言うように、正法を持たなければ根本的な解決にはならないのであって、この信心を受けさせることによってまさに「殺戮(せつりく)を好む者には大悲の心」が起きる、つまりその心が大慈悲の心に変わってくるのです。

大慈悲の心というのは、人々の苦を抜こうとする、救ってあげようとする、そういう心です。醜い心が、そのような心に変わってくるということなのです。今の世の中を見ると、この信心を1日でも早く、多くの人に語っていかなければならないと強く思います。

次に

  「嫉妬を生ずる者には隨喜の心を起こさしめ」
とあるけれども、この「嫉妬」というのは、英語で言うところのジェラシーというものです。これは色々なものがあるのです。男女関係などにもありましょうし、それから人間の上下関係等も含め、様々なジェラシーという心があるわけです。しかし、この妙法蓮華経を唱えるとによって「隨喜の心を起こさしめ」る。「随喜」というのは、一つは教えを聞いて大きな喜びを感じるということなのです。それともう一つは、他の人が善行を修めるのを見て喜ぶことでもあります。

『大智度論』のなかには、自ら善行をなすよりも、他人の善行を隨喜するほうが功徳が大きいと、このようにおっしゃっているのです。つまり自行化他といいますけれども、そのうちの化他行ですね。もともと大乗仏教はこれが中心なのです。自分だけの幸せを求めるのは小乗仏教であり、そうでなくして多くの人達の幸せを求めていくのが大乗仏教なのです。その精神が隨喜という心のなかに存しているということであります。

さらに

「愛著有る者には能捨の心を起こさしめ」
とある「愛著」は欲望に執着しているということです。そういった者には「能捨」つまり愛著の心を捨てる、そういう心を起こさしめるのであります。

そして

「諸(もろもろ)の慳貪(けんどん)の者には布施の心を起こさしめ」
の「慳貪」というのは貪(むさぼ)るという意味です。自分の持っているものを惜しんで他人に与えず、また欲するものは欲望のままに、飽(あ)くなく貪り取るというのが慳貪であります。この「慳貪(けんどん)の者には布施の心を起こさしめ」る、つまり金品を施すことがいわゆる布施ということで、人に施すことができる心になるわけであります。

ただし本宗においては、例えば御僧侶にお経をあげていただいたときも、「御供養」と言います。けっして「お布施」という言葉は使いません。他宗では布施という言葉を使っているようでありますけれども、本宗では御供養と言っております。それは、僧侶個人ではなく、あくまでも仏様に捧げ奉るという意味があるのです。そういう意味で御供養という言葉を使うのです。普通、布施という言葉には「施す」という意味がありますけれども、私ども御本尊様に捧げ奉るという意味から「御供養し奉る」「御供養申し上げる」と、このように言っているのであります。

それはそれとして本題に戻りますが、まさにこの慳貪、貪る、欲するものを欲望のままに、なんでもかでも欲しがるような心のある者には、今度は逆に人に施す心を起こさしめる、こうおっしゃっているのです。

次に

「驕慢多き者には持戒の心を起こさしめ」

とあります。「驕慢」というのは驕(おご)り高ぶる心、人を侮(あなど)って勝手に振る舞うことであります。これに対して「持戒」というのは、まさに戒律を持つという意味です。つまりどういうことかと言うと、自らの生活を律して、間違いのないように努めること。また、勝手な振る舞いを律するということが持戒なのであります。ですから驕り高ぶって人を侮り、そして他に迷惑を掛けているような人も、この信心によって持戒、つまり勝手な振る舞いを律するような心に変わってきますよ、とおっしゃっているのです。

また

「瞋恚(しんに)さかんなる者のには忍辱の心を起こさしめ」
というなかの「瞋恚」というのは瞋(いか)り憎むこと。貪り・瞋り・癡(おろ)かさという三毒の一つですが、そういった心が盛んな者には「忍辱の心を起こさしめ」るということです。これは耐え忍んで心を動かさないことで、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六波羅密のなかの一つであります。

そして

「懈怠(けだい)を生ずる者には精進の心を起こさしめ」
とありますが、この「懈怠」というのは、努力も何もしないということです。努力によって悪を断ち切り善を修するわけですが、その努力をしないということです。こういった者には「精進の心を起こさしめ」る。「精進」というの精魂込めて、ひたすら進むという意味です。様々な物事を一生懸命にやっていく心を起こさしめるということです。

さらに

「諸の散乱の者には禅定の心を起こさしめ」
の「散乱」というのは、心が散り乱れているということです。心が定まらず、あっちへうろうろ、こっちへうろうろする状態の者には「「禅定の心」、禅定というのは心静かに、きちんと心身ともに動揺することなく安定した状態になることと言われております。

もし、職にも就かないで何をやってもすぐ辞めてしまうような人がいても、一生懸命に信心すれば、きちんと心が定まってきますから職業も定まってきます。そういう心が起きてくるということです。

さて

「愚癡多き者には智慧の心を起こさしめ」
とございます。この「愚癡」というのは、今の世間では不平不満をグチグチ言うことを愚癡と言っておりますけれども、仏法的に言うとそうではないのです。愚癡は無明(むみょう)という意味と同じであります。無明というのは、明かでない、物事の道理が判らない、愚かだ、ということです。この愚かな者には「智慧」、智慧というのは物事を明らかに正しく知る、悟ることであります。これは、つまり、仏法で言うと般若と同じ意味でして、ものを見通すしっかりした力が具わってくるということです。

そして

「未だ彼を度すること能(あた)わざる者には、彼を度する心を起こさしめ」
とありますが、この「度する」というのは衆生済度の「度」という意味があるのです。この「度」という字は、さんずいを入れますと「渡」という字になりますね。この「渡す」という意味と同じであります。

よく例えて言われますのが、彼岸と此岸(しがん)ですね。迷いの世界である此岸から、生死の大海を渡って彼岸に行く。このような話は、お彼岸に折りの御説法などで聞いたことがあるでしょう。こちら側の此岸の迷いの世界で、向こう側の彼岸が悟りの境界、その間に生死の大海があり、これを渡って、こちらの岸から彼(か)の岸に渡るという意味が、この度するという言葉にはあるわけです。

もちろん、本宗の立場から言うと此岸即彼岸、彼岸即此岸であります。つまり幸せは遠い世界にあるのではなくして、自分自身の命のなかに存在しているということを説くのであります。それを、爾前権経ではまだそこまで行かないから、教え方として今、言ったように、悟りの境界を彼岸に譬え、苦しみの境界を此岸に譬えて、そしてその間には生死の大海があるから、それをしっかり渡っていくということを説くわけです。

しかし、究極的に言うならば此岸即彼岸、彼岸即此岸であり、仏も地獄も全部、我が心のなかにある。一念三千、十界互具の法理から見れば、このとおり間違いないのであります。これは幸せというものが遠い世界にあると考えてしまうから、おかしくなってしまうのです。しかし、結局は自分自身なのであり、自分自身が信心で成長すれば、すべての悩みは解決していくのです。

こういうことですから、「彼を度すること能わざる」というのは、つまり衆生を救い、悟りの世界へ導くことができないということです。そういう人も、今言ったように、生死の海を渡って仏菩薩がおられる悟りの境界へと導くような心が起きてくるのです。つまり、度するということは救う、折伏するということです。だから、ある人をまだ折伏できない、救うことができないというならば、一生懸命にお題目を唱える。すると、その人を度する心が起きてくるのであります。

また

「十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめ」
というなかの「十悪」というのは、大きく分けると身口意の三業となります。まず、身体で行う悪に三つあるのです。それから口で言う悪が四つあり、そして意(こころ)の悪が三つある。それら全部で十悪と言うのです。

それでは身の三悪とは何かと言うと、殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫であります。殺生というのは、殺すこと。やはり人を殺すことは良くない。三悪の一つになります。それから次に偸盗、人の物を盗むということです。それから3番目が邪淫で、邪な男女関係を結ぶということ。これもいけないわけで、これが身の三悪であります。

次に口の悪の四つは、まず妄語。妄とはいうのは要するに「でたらめ」ということで、妄語とはうそを言うことです。それから綺語(きご)。綺語というのは、こびへつらって、内心とは違った、きれいごとを言うのです。とかく、人間はこういうことが、よくあるのです。言うなれば、身口意の三業がバラバラで、口では相手に対して「あなたは御立派ですね」と言っておきながら、心のなかでは煮えくり返るように思っている。なかなか素直になれないところが人間にはあるのです。このように綺語というのは、きれいごと言いながら内心は全く違う、心に反することを平気で言うということです。

それから悪口です。悪口を言うのは寝ていて上に唾を吐くようなものですから、やってはいけません。寝ていて上に唾を吐けば、自分にその唾がかかってくる。そのようなものだから、けっして悪口を言ってはいけないのです。特に、信心をしている者同士は、絶対に悪口を言ってはいけない。異体同心で力強く励まし合っていくことは大事だけれども、悪口はいけないのです。そして四つ目の両舌は、いわゆる二枚舌のことです。これは、こちらとあちらで違うことを使い分けて言うことです。これらが口の四つの悪であります。

次に、意の三悪というのは貪瞋痴の三毒で、貪欲・瞋恚・愚癡のことであります。

これら身に三つ、口に四つ、意に三つ、すべてを合わせて十悪となるのです。そして「十善」というのは、これの正反対のこと言うわけでありまして、十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめる、ということなのです。

さて、次の

  「有為(うい)を楽(ねが)う者には無為の心を志(こころざし)さしめ」
とあるなかの「有為」というのは、有為転変という言葉もありますように、世の中における一切の現象は因縁によって生じ、変化して、滅していく。このようなことが有為、つまり有為法ということであります。それに対しまして「無為」というのは因縁によって消滅・変化しない、まさに常住不変の真理であり、これを無為と言うのであります。ですから、ここでおっしゃていることは、目の前の一つひとつのことに執われることなく、泰然として常住不変の真理を知ることができる、ということをおっしゃっているのであります。

また

「退心有る者には不退の心を作(な)さしめ」
というのは、退く心、後退的な考え、敗北的な考え、逃避的な考え、こういった考えを持つ者に対しては「不退」つまり前進的な、積極的な考え方がが生まれてきますよ、ということですね。

それから、

「有漏(うろ)を為(な)す者には無漏の心を起こさしめ」
とありますが、此の「有漏」と「無漏」の「漏」というのは煩悩という意味なのです。ですから、有漏というのは煩悩があるという意味であります。煩悩がたくさんある人は無漏、煩悩がない状態になっていく、とおっしゃています。これも、さらに一歩深く、大聖人の仏法の上から拝し奉っていくと、煩悩即菩提・生死即涅槃という言葉を聞いたことがあるでしょう。やはり妙法と唱えていくことによって、我々の持つ煩悩がそのまま菩提に変わる。煩悩即菩提・生死即涅槃、そういう境界に立つことができるのです。こうなってきますと、それこそ人生を泰然ととしたものにできる。何が起きても微動だにしない。そういった本当に楽しい、いわゆる常楽我浄の心が生じてくるわけです。これは非常に大事なことです。この信心によって、このようになると仰せなのです。

さらに

「煩悩多き者には除滅の心起こさしむ」
は、これは前の内容に似ていますが、こういうことになるです。煩悩というのは色々ありますけれども、結論から言うならば、我が身を迷わせて正しい判断を狂わせる心の用(はたら)きであります。

では、煩悩とは何が根本となってくるのかと言えば、それが貪瞋痴の三毒なのです。さらにそのなかでも愚癡が根本です。つまり、これは物事の道理が解らない心であり、無明という物事に明るくない心と同じことですが、要するに愚癡が根本になるわけであります。すなわち煩悩は自分の自己中心的考え、それに基づく物事への執着から生じてくるのであります。

そこから考えてくると、物事の道理が解らないということは、まず一つは因果の理法が解らないということになるのです。原因があって結果がある。因果の理法というのは、仏法においては一番最初に説かれるものであります。この理屈がはっきりと解らないと、これはだめなのです。善因善果・悪因悪果なのあり、善いことを行って悪い結果は生まれないのです。また、悪いことを行って善い結果も生まれないのです。

ですから、本当に幸せになりたければ、この信心をしていくという原因、幸せの根本となる最善の原因、これをしかっりと積んでいけば必ず幸せになれるのです。こういう原理が解らないと、本当の幸せは掴めないのです。

ですから、「なんで、おれはこのなに不幸なのか。おれだって信心しているはずだ。みんなと違わないで、ちゃんとやることをやっている」というように思っている人があれば、もう少し自分自身のことを考えたらいいのです。どこかに原因があるはずです。あるいは、折伏をしていないというのが原因になっているかも知れません。

大聖人の教えは広宣流布です。広宣流布は折伏ですから、折伏を抜き取った信心というのは、我々には存在しないのです。折伏を抜き取った信心があるとすれば、それはもはや小乗仏教です。ですからお題目をしっかり唱えて、そしてその功徳と歓喜をもって折伏に打って出るということが大事なのであり、唱題が唱題だけで終わってしまってはだめなのです。

日顕上人猊下のお歌のなかに、

「かぎりなく、境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」(大日蓮 平成2年3月号72ページ)
というものがあります。このお歌は知っているでしょう。このお歌をよく拝して御覧なさい。まさにかぎりなく境界を開く題目を、一生懸命に唱える。そして常に唱えつつ、その同時進行で、広布を目指すとは折伏するということです。

つまり折伏しなくてはだめだと言っておられるのです。だから、これが唱題だけで終わってしまっては意味がないのです。日顕上人は、そのように御指南なさっているのです。近年、宗門において唱題行を御題唱あそばされたのは日顕上人でありますけれども、日顕上人はそうやって自行化他の信心を我々に教えてくださっているのですから、題目をいくら唱えても、それだけで得意になっていたのでもだめなのですよ。

もちろん題目を唱えることは立派なことです。それがいけないというのではないのです。勘違いをなさらないでください。しかし題目を唱えたならば、まさにこの御指南のとおり、題目を唱えつつ同時進行で折伏をする。そうやって広布を目指していかなければならない。こういったことがしっかり身についてくると、ありとあらゆる悩みがすべて、どんどん解決していくのです。

それができない場合は、因果の理法の因のところで、どこかに一つ自分自身が考え違いを起こしている、あるいは思い違いをしているのです。あるいは、何回も言うけれども、自分のわずかな人生で得た信心経験で「これが本当だ、これがすべてだ」などと考えていると、増上慢になってだめになってしまう。それではいけないのです。きちんと正しく御指南を拝し奉っていけば、今、我々が何をすべきかがはっきりと判るのです。

先程のお歌一つを拝しても、「かぎりなく、境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」、お題目を唱えつつ広布を目指していきなさい、自行化他にわたって題目を唱えていきなさい。つまり、唱題をしっかりして、それを元に折伏をしていけとおっしゃているのです。こういったことの実践が因になって、善い結果を招き寄せられるのです。このことを我々はよく知らなければならないと思います。


◆法華経法師品第十◆

それではあと少しだけ時間がありますので、次の御文を急いでお話ししたいと思います。

次はいよいよ法華経に入ります。この法華経法師品第十のなかには「衣座室の三軌」が説かれております。その有名な法師品のなかに、

是の法華経を未(いま)だ聞かず、未だ解(げ)せず、未だ修習すること能(あた)わずんば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提を去ること尚遠し。若(も)し聞解(もんげ)し、思惟(しゆい)し、修習することを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ。所以(ゆえ)は何(いか)ん。一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆此の経に属せり。(法華経328ページ7行目)

とおっしゃっております。最初に

「是の法華経を未(いま)だ聞かず、未だ解(げ)せず、未だ修習すること能(あた)わずんば」
とあります。これは、まず法華経を聞かない。そして「解せず」というのは理解をしない。それから「修習」というのは修めて習うということです。それをしなければ
「当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提を去ること尚遠し」
と仰せです。この「阿耨多羅三藐三菩提」というのは無上の真実なる完全な悟りという意味です。分析して言いますと「阿耨多羅」は無上、この上ないという意味で、「三藐」というのは清浄かつ偏頗(へんぱ)のないという意味。つまり正しく等しい、あるいは正偏(しょうへん)、偏(かたよ)らないという意味があります。次の「三菩提」というのは正覚、仏様の完全な悟りと言う意味です。言うなれば、全体としては仏様の完全な悟りということです。要するに法華経を聞かない、理解しない、そしてまた、それを修め言うこともしなければ悟りの境界に至らない、はなはだ悟りには遠いという事になります。しかし、
「若(も)し聞解(もんげ)し、思惟(しゆい)し、修習することを得ば」
つまり聞いて理解し、心を一つにして深く考え、そして修め習うことをしたならばということで、ここに聞・思・修ということが出てきます。聞・思・修という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、これを三慧と言います。この聞・思・修があるならば、
「必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ」
ということです。つまり三藐三菩提というのは、ごく簡単に言うと、最高の悟り、完全なる悟りということです。これに必ず至ることができる。なぜならば、
「所以(ゆえん)は何(いか)ん。一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆此の経に属せり」
と、一切の菩薩は皆、法華経に属しておるからだとおっしゃているのです。御承知のとおり釈尊の本懐は、この法華経にあるのです。四十余年の教説は未見真実の教えであり、まさにのち八年の法華経こそが本懐中の本懐であられるわけであります。そしてもう一歩深く拝して、この法華経がなぜ尊いのかというと、この法華経のなかに三大秘法が含まれているからなのです。この含まれているという意味が非常に大事なのです。

よく世間一般の日蓮宗の人達は、まず一代諸経があって、それを要約したものが法華経であり、さらに法華経を要約したものが南無妙法蓮華経だというように考えているけれども、これは逆なのです。本当は南無妙法蓮華経の三大秘法、これが根本なのです。ここから法華経へと開かれてくる。そして、この法華経から一代諸経へと開かれてくる。外側から見ていって、エキスみたいなものを取ってくるのではなく、まず、この南無妙法蓮華経が根本なのです。

だから法華経がなぜ尊いのかというと意味は、今言ったように、この三大秘法を含んでいるからなのです。まさに文底秘沈の大法がここに存するから、法華経が諸仏出世の一大事の秘法となるわけなのです。こういう意味からもう一つ深く拝して、法華経には久遠の南無妙法蓮華経が存しているのあり、法華経を拝して読むということは、その奧に根本中の根本、妙中の妙、要中の要たる妙法蓮華経が存するからであるということをよく知っていただきたいと、このように思う次第でございます。

最後の所は時間がなくて慌ててしまいましたけれども、今日はこれで時間になりましたので、これをもって講義を終了します。


最後に申し上げたいのは、平成21年まで、本当に残りあと2年になりました。時間というのは瞬く間に過ぎてまいります。どうそ、最初に申し上げましたとおり、今回の夏期講習会で学んだことを一人ひとりが必ず活かしてきって、そして広宣流布のために、また21年の御命題達成のために資していっていただきたいと思います。

この講習会は、単に参加したというだけでは本当の意味とはなりません。この講習会の内容を、皆さんが帰ったあと活かしきるところに、講習会参加の本当の意味があるわけです。御戒壇様のもとに集い、そしてみんなで勉強していく。このすばらしさが、このあとの闘いのなかに存しているということを、是非とも皆様に知っていただきたい、このようにお願いをする次第でございます。

これをもちまして本日の講義を終了したいと思います。




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