大白法

平成19年8月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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日蓮正宗彰雲布教所の開所法要
躍進する台湾に6番目の法城


本年5月、御法主日如上人猊下初の海外御親修を賜った中華民国台湾。その喜びもさめやらぬ7月22日、日蓮正宗彰雲布教所の開所法要が、御法主日如上人猊下の御名代として海外部長・漆畑行雄御尊師の御導師のもと晴天に恵まれ、盛大に厳修された。これには、妙住寺住職・佐藤広明御尊師をはじめ日本・アジアから有縁の御尊師方が来賓として御出席。また台湾全土からは、本興院主管・石橋頂道御尊師をはじめ全主管・住職、信徒も管轄地域となる彰化県・雲林県・嘉義県・南投県をはじめ全島から約1,200名の代表信徒が勇躍参集し、同国としては第6番目の法城となる新布教所の誕生を心から慶祝した。

法要は、午前・午後の2回われた。第1回目は、主に地元信徒が参列して、現地時間午前10時より、漆畑海外部長の御導師のもと、御本尊御開扉・献膳の儀・読経・唱題と如法に奉修された。式の部に移り、許童栄副講頭の経過報告に続いて、漆畑海外部長より祝辞並びに新布教所責任者の紹介が行われ、次いで勧持院住職・渡辺定英御尊師と仏覚寺住職・合原歓道御尊師から、それぞれ祝辞が述べられた。最後に新責任者に就任された佐藤信亮御尊師から丁重な謝辞があり、法要はとどこおりなく終了した。

続いて午後2時より第2回目の法要が行われ、これには主に台湾全島、遠隔地からの信徒が大勢参列した。法要は午前の部と同じく如法に奉修され、式の部では、経過報告、海外部長の祝辞並びに新責任者の紹介に続き、正説寺住職・早瀬義久御尊師と善修寺住職・岩切耐道御尊師からそれぞれ祝辞が述べられ、謝辞をもって、法要は終了した。2回日の法要終了後、代表者による記念撮影が本堂にて行われ、夕刻には、会場を移して約400名の僧俗が一堂に会して記念祝賀会が行われ、和気藹々(あいあい)とした雰囲気の中で、改めて待望久しかった新布教所開設の喜びを分かち合った。

なお新布教所は、中山高速道の員林インターチェンジから車で約5分、台湾鉄道・員林駅からは、車で約10分の交通の便利な田園地帯にある。また堂宇は、約260坪の敷地に、1階に約500名収容の本堂並びに受付・事務所・会議室等があり、2階には庫裡を備えた堂々たる建物である。

この新布教所には、これまで台中市・妙行院と高雄市・法宣院に所属していた4県にまたがる約2,000名の信徒が所属し、その喜びは計り知れないものがあり、同地域の一層の広布前進が期待される。5月の御親修に続く、このたびの6番目の広布拠点の開設を新たな飛躍台として、台湾僧俗は平成21年の御命題達成に向けて、さらなる前進を誓い合っている。



総本山総合整備事業 塔中坊立て替え工事(第2グループ) 起工式行われる
観行坊・蓮成坊・南之坊・本住坊・本境坊


立正安国論正義顕揚750年記念局の事業のうち、総本山総合整備事業の一環である塔中坊建て替え工事の第2グループ5カ坊(観行坊・蓮成坊・南之坊・本住坊・本境坊)の起工式が、7月18日・26日の両日にわたり、大石寺執事で総本山総合整備事業・実行委員会主任委員の佐藤慈暢御尊師の導師によって執り行われた。それぞれの起工式には、大石寺執事の小川只道御尊師・関快道御尊師をはじめ内事部の役職員、各坊の住職、総本山総代、各坊の総代・役員、工事関係者など約30名が出席した。

7月18日の午前10時から観行坊、蓮成坊、南之坊、26日の午前10時から本住坊、本境坊の順で、それぞれ本堂建設予定地に設置された式場において執り行われた。式は、御本尊奉掲、読経、焼香、唱題と進められ、鍬(すき)人れの後、各坊の住職より出席者各位に丁重な謝辞が述べられ、最後に総本山総代の発声による乾杯で終了した。これから1年余の工期で竣工する予定である。

なお、第1グループ(遠信坊・浄蓮坊・久成坊・蓮東坊)の工事は、本年11月の竣工をめざして順調に進んでいる。

また、来たる12月には「立正安国論正義顕揚750年特別御供養」の第2回目が実施される。大聖人様は、「度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ」(御書1457ページ)と、御報恩のための御供養の大事を御教示されている。我々は、特別御供養の意義をしっかりと認識し、自らの信心を奮い起こして御供養に参加をさせていただこう。



夏期講習会(指導会)より

御法主日如上人猊下御指南

第5回法華講夏期講習会指導会(第9期)の砌
平成19年7月22日 於 総本山広布坊


 本日の指導会に当たりまして、一言申し上げます。

 既に皆様方には、本年「行動の年」が平成21年の御命題を名実ともに達成するために、いかに大事な年であるかは重々、御承知のことと存じます。そこで、まず自分自身に問わなければならないことは、平成14年、日顕上人猊下より「地涌倍増」と「大結集」の御命題をいただいて以来、今日に至るまで、我らはいかに闘ってきたか、御指南を忠実に守り、本当に闘いきってきたかどうか。

もちろん、各支部・各位ともに真剣に闘ってきたこととは思いますが、まず自分自身が納得できる闘いをしてきたかどうかを総括するとともに、御命題達成までのこれからの2年間をいかに闘いきっていくかをしっかりと考え、勇躍奮起していただきたいと思います。

 さて、法華経の法師品を拝しますると「穿鑿(せんじゃく)高原の譬え」が説かれています。これは、「ある人が、のどが渇いたので、高原に穴を掘り水を求めようとした。しかし、初めのうちは、掘れども掘れども乾いた土だけが出てきて、なかなか水に行き当たらない。乾いた土が出てくる間は、まだまだ水に至るまでには時間もかかり遠いが、それでも失望せずに、あきらめずに掘り進むうちに、乾いた土がだんだんと湿り気を帯びた土に変わってきた。やがて、その土が水を混じえた、軟らかな泥になってきた。泥が出るようになると、やがて水が近いことを知ることができる」(法華経328ページ)という話であります。

 これを我々の信心、なかんずく折伏に当てはめてみますと、まことに大事なことを教えられているものと思います。たしかに折伏は、順縁の人を相手としたときは一時に決まることもありますが、大方は粘り強く、あきらめず、多くの時間と労力を費やして初めて達成できるものであります。なかには、10年かかってようやく折伏が達成できた話もあります。ただいまの「穿鑿高原の譬え」にあるように、根気よく続けていくことが肝要であります。折伏を根気よく続けていくということは、結局は身体を動かしていくということにほかなりません。これはまた折伏だけに限らず、「7万5千の大結集」も「記念総登山」への取り組みも同様であります。達成を期して最後まであきらめず動くこと、これが勝利の秘訣であることを銘記していただきたいと思います。

 いつも申し上げておりますように、観念や理論だけでは何事も成就いたしません。もちろん、成仏もかないません。日寛上人の『文底秘沈抄』には、「事を事に行ずるが故に事と言うなり」(六巻抄41ページ)というお言葉がありますが、大聖人の仏法は理の仏法ではありません。まさしく「事を事に行ずる」仏法であります。

 したがって、一念三千にも理と事がありますが、理の一念三千は迹門の一念三千、事の一念三千は本門の一念三千であります。迹門の理の一念三千の仏法では成仏はいたしません。故にまた、法華経の即身成仏にも二種あり、「迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏」(妙一女御返事:御書1499ページ)と明かされているのであります。つまり大事なことは、信心とはあくまでも理論や観念ではなく体験であり、実践であるということであります。この体験、実践をとおして初めて広大無辺なる御本尊の功徳を我々はいただくことができるのであります。


 いよいよ御命題達成まであと残り2年、特に今月は大聖人様が時の最高権力者である北条時頼に対し、『立正安国論』をもって国主諌暁(かんぎょう)された、まことに意義ある月であります。

 『立正安国論』の「立正」とは、日寛上人が、「立正の両字は三箇の秘法を含むなり」(御書文段6ページ)と仰せの如く、末法万年の闇を照らし給うところの本門の本尊と戒壇と題目、この三大秘法を立つることであります。また「安国」の両字については、「文は唯日本及び現在に在り、意は閻浮及び未来に通ずべし」(同5ページ)と仰せの如く、国とは一往は日本国を指しますが、再往は全世界、一閻浮提を指しているのであります。さらにこの『立正安国論』は、その対告衆は北条時頼でありますが、実には一切衆生に与えられた折伏諌言書であります。さらにまた、一往は専ら法然の謗法を破折しておりますが、再往元意の辺は、広く諸宗の謗法を破折しておられるのであります。

 されば、今こそ、我々は、一人ひとりがこの『立正安国論』の御聖意を心肝に染め、地涌倍増の御命題達成へ向けて、三宝破壊の池田創価学会をはじめ、いかなる障魔が行く手に立ちはだかろうが、強盛なる信心をもって勇猛果敢なる折伏実践の大運動を起こしていかなければならないと存じます。

 御命題達成まであと2年と迫った今、我々に座している時間はありません。なにとぞ皆様方には、このたびの夏期講習会で学んだこと、また指導会で得たことを今度は自らの折伏実践の上に活かし、もって講中全体が一人も漏れず起ち上がり、地涌倍増、大結集の御命題を必ずや達成されますよう、心から念ずる次第であります。

 最後に、『土籠御書』にのたまわく、「法華経を余人のよみ候は、口ばかり言葉ばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候ヘ」(御書483ページ)と。この御金言を拝し、いよいよ御精進くださることを心から願い、本日の挨拶といたします。



日蓮正宗の基本を学ぼう(16)
御登山の意義について


登山の本義

日蓮正宗では、総本山大石寺に参詣することを登山(とざん)と称します。総本山大石寺には、大聖人の御魂魄(こんぱく)である本門戒壇の大御本尊と、大聖人以来の血脈相承を御所持あそばされる御法主上人猊下がいらっしゃいます。登山の本義は、大聖人の御魂魄、本門戒壇の大御本尊にお目通りし、御法主上人猊下の大導師のもと、真の世界平和と広宣流布を祈り、また私たちの罪障消滅と即身成仏を期することにあります。

大聖人は『南条殿御返事』に、「此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん・・・参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし」(御書1569ページ)と仰せです。この書は、南条時光殿が大聖人のもとに御供養の品々を送られた御返事として賜った御書です。

この御書で大聖人は、御供養のお志はたいへん尊いけれども、真の罪障消滅と即身成仏は登山参詣によって得られるから、速やかに登山参詣を期しなさいと、南条時光殿に対し、登山が遠のいたことへのご注意を促されたのです。

総本山第56世日応上人は、本門戒壇の大御本尊について、「此の御本尊は久遠の本仏日蓮大聖人の御魂(たましい)で御本体なるが故に、直々霊山に詣でヽ生身の日蓮大聖人様へ御目見し奉る事よと存じて、臨終の夕ベ迄も忘れ奉らざる様に信敬すベきなり」(日応上人全集1巻7ページ)と御指南されています。まさに戒壇の大御本尊こそ常住不滅の御本仏日蓮大聖人の御当体なのです。

南条時光殿が大聖人のもとに登山参詣を尽くしたように、私たちも戒壇の大御本尊を生身の大聖人と拝し、機会あるたびに登山参詣するよう心がけましょう。


本門戒壇の大御本尊は一切の御本尊の根源

日応上人は、「当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の御本尊の御内証を、代々の貫主職、一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り授与せしむる事なれば、各の其持仏堂に向ても直に此の御本尊を拝し奉る事よと相意得(こころえ)」(同1巻9ページ)と御指南されています。

日蓮正宗では、寺院や信徒宅など、いずれの場所に御安置されている御本尊に対しても「本門戒壇の大御本尊」と拝し奉り、御報恩謝徳いたします。その理由は、日蓮正宗の御本尊は、すべて御法主上人猊下が本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して授与された、本門戒壇の大御本尊の分身だからです。したがって、本門戒壇の大御本尊に対する絶対の信心をもって御本尊を拝することが、あらゆる功徳を享受する源泉ですから、日頃から常に総本山参詣を求めるという気持ちをもって、信心に励むよう心がけたいものです


総登山会等への参加の意義

大聖人は『上野殿御返事』に、「抑(そもそも)今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時は燃へ立つばかり思へども、遠ざかりぬれば捨つる心あり。水のごとくと申すはいつも退せず信ずるなり」(御書1206ページ)と信心の心がけについて御指南されています。

この御書も南条時光殿に与えられた御書ですが、私たちの信心ははかないもので、ややもすると怠(おこた)る気持ちが生まれてきます。「遠ざかりぬれば捨つる心あり」と仰せられた意味は、総本山および所属寺院への参詣から遠ざかっていては、仏法を捨てる気持ちが生じて、ついには退転してしまうということです。常日頃から積極的に所属寺院の行事に参加し、また総本山への参詣を志すことは、こうした意味からも非常に大切なのです。

大聖人御在世当時も、日興上人をはじめとするお弟子方が、各地で布教に当たっていました。特に南条時光殿は日興上人から常日頃より教化を受けていたのです。一方で『曽谷殿御返事』には、「今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此らは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ」(同1386ページ)とあり、百人以上の弟子・檀越(だんのつ)が大聖人のもとに集って法華経を読誦し、大聖人の法華経の御講義を聴聞していたのです。当然、南条時光殿も参加し、大聖人より直々に御講義を受けたことでしょう。

こうした大聖人御在世当時の信心を、今日の私たちの信心修行に当てはめてみると、南条時光殿が日興上人から様々な薫陶を受けたように、まずは所属寺院の御講や勉強会に参加して御住職より仏法の有り難さ、信心の大切さなどを伺って、自らの信心向上に励むことです。そして、大聖人の御もとで、直々に御講義が開かれたのと同じように、法華講連合会の総登山や、夏期講習会の登山に参加して、大聖人以来の唯授一人の血脈を御所持あそばされる御法主上人猊下より、直々に御講義を受けることです。こうしたことが現代の「一えんぶだい第一の仏事」に当たるといえるでしょう。


師弟相対の信心

日蓮正宗総本山大石寺には代々の御法主上人猊下が、師弟相対して大聖人以来の血脈相承を受け継いでこられたことにより、大聖人の仏法が寸分違わず伝えられています。したがって総本山に登山し、御法主上人猊下に師弟相対の信心を取ることはまことに重要ですから、その機会を軽んじてまなりません。

先ほどの『上野殿御返事』に、「水のごとくと申すはいつも退せず信ずるなり」と仰せられた、水の流れるようなたゆまぬ信心は、総本山参詣・寺院参詣によって得られるのです。逆に、大聖人様の「遠ざかりぬれば捨つる心あり」との御言葉は、総本山への登山参詣を軽んじ、所属寺院の信心活動か遠ざかり、自分一人で信心をしていたのでは、いずれは退転してということです。

私たちは、「水の流れごときたゆまぬ信心」を信仰の基本姿勢として据え、常に仏法を求める心、総本山参詣・寺院参詣に努めていきましょう。



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