大白法

平成19年12月1日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜8面>


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総本山総合整備事業 久成坊・蓮東坊新築落慶法要より


雲一つない好天に恵まれた11月15日、総本山大石寺において、午前10時半より久成坊新築落慶法要が、また午後1時半より蓮東坊新築落慶入仏法要が、御法主日如上人猊下大導師のもと厳粛に奉修された。

立正安国論正義顕揚750年記念局「総本山総合整備事業」の一環として昨年より進められている、塔中坊建替え工事第1グループ4カ坊の後半2カ坊の落慶法要には、御隠尊日顕上人猊下が御出仕あそばされ、記念局委員長の総監・八木日照御尊能化、副委員長の重役・藤本日潤御尊能化、総本山総合整備事業委員会主任委員で大石寺執事・同主任理事の佐藤慈暢御尊師、常任委員の宗務院各部の部長・副部長、大石寺理事をはじめとする各坊有縁・代表の御尊師方が御出席された。

また、記念局副委員長の法華講総講頭・柳沢連合会委員長、同委員である大講頭の石毛連合会副委員長・永井藤蔵氏・渡辺定元氏(総本山総代)・石渡秀男氏・河原昭太郎氏、総本山総代の土橋昌訓氏をはじめ、総本山総合整備事業委員会委員の法華講連合会幹事、寺族をはじめ有縁・代表の信徒が参列した。


○久成坊新築落慶入仏法要より 祝辞 記念局委員長・八木日照御尊能化

雲一つない晴朗な好天に恵まれました本日、意義深い目師会の日に、『立正安国論』正義顕揚750年記念事業、総本山総合整備事業の一環として、先般の浄蓮坊・遠信坊に続く第2陣、当久成坊が落成をいたしまして、ここに御法主日如上人猊下大導師のもと、前御法主日顕上人猊下のお出ましを戴き、落慶法要がとどこおりなく奉修いたされまして、まことにおめでとうございます。

広々とした見事な出来上がりで、機能的にも工夫が凝らされており、さだめし全国からの登山者も喜ばれることと思います。何よりも耐震面の安全性が確保されまして、心強い限りでございます。

さて、当久成坊は正応3(1290)年、日興上人が大石寺を開創された当初、日目上人のお弟子であります日尊師の開基によるところでございます。江戸時代初期の、総本山23世日啓上人時代の記録によりますと、当久成坊は蓮蔵坊・寂日坊などと共に、本六坊の一つとして挙げられておりまして、塔中としても重要な位置にあったということが伺えます。

開基の日尊師は、日目上人の天奏のお供をして上洛の途中、日目上人が美濃の垂井で御遷化されまして、その御遺志を継いで天奏を遂げられました。また、布教の面におきましても、東北・関東・京都、あるいは山陰と広範囲にわたりまして、抜群の布教力で、他宗のお寺へ赴いてはこれを論破して、そのお寺を法華経のお寺に改宗させるというような手法で、次々とあちこちにお寺を作っていったと伝えられております。また、茨城県の古河市にある本宗寺院・富久成寺、このお寺も日尊師の開基でありますけれども、ここには大聖人様の御書『如説修行抄』を日尊師が書き写した写本が現存しております。御真筆がなくなってしまっている現在におきましては最古の写本で、たいへん貴重な存在でございます。

なお、当坊には古来、多数の総本山御歴代上人の御本尊が所蔵されておりましたが、先年、日顕上人時代にその本来の意義の上から、また安全に保管格護するという上からも、すべてこれを大坊へ奉納されました。これは観行坊の能勢順道師が率先してなされたのを見習って、この坊におかれましても、それを実行されたということであります。かつて、不慮の火災によって尊い御本尊様や古文書等が灰儘(かいじん)に帰するという取り返しのつかない事が起きたことも鑑みますと、まことに大事なことと思う次第でございます。

平成の今日、私共は2年後の『立正安国論』正義顕揚750年の佳節に、「地涌倍増」と精鋭7万5千名「大結集」の御命題を達成すべく努力精進しておるところでございますが、この日尊師の弛みない旺盛な布教力に倣って、大いに折伏に邁進し、目標達成をめざしていくことが肝要であると存ずる次第でございます。

総本山執事の要職にある住職の関師には今後共、御法主上人猊下の御もと、健康に留意の上、ご奉公第一にご精進あらんことをお祈りする次第でございます。

さらに、今後の塔中建替え工事14カ坊、御影堂の大改修の大事業を思うにつけましても、来月の10日から14日までの第2回の記念局特別御供養に篤い志をお寄せくださるよう、また一人でも多くの講員が参加するよう、啓蒙を宜しくお願いする次第であります。

終わりに、当工事についてご尽力いただいた内事部を中心とする記念局の実行委員各位、さらに施工関係者各位に深甚の謝意を表しまして、記念局を代表しての祝辞といたします。


蓮東坊新築落慶入仏法要より 祝辞 記念局委員長・八木日照御尊能化

一言、祝辞を申し述べます。たいへん穏やかな法要日和に恵まれた本日、『立正安国論』正義顕揚750年記念事業のうち総本山総合整備事業の一環として、その第4番目の坊として本日、見事にこの蓮東坊が落成をいたしまして、ただ今御法主日如上人猊下の大導師のもとに、前御法主日顕上人猊下のお出ましを戴き、晴れやかに奉修されましたことを、心からお祝い申し上げます。

当蓮東坊は大石寺が開創された正応3年から4年後の永仁2(1294)年、第三祖日目上人のお弟子でいらっしゃった三河公日蔵師によりまして開創されました。総本川第14世日主上人の御筆になる最も古い大石寺の塔中坊の絵図にもやはり現在のこの位置、久成坊の南隣りに、三河公日蔵の開基として記されております。開創後約300年を経過いたしました、織豊時代以降現在に至る400余年にわたる歴代御住職の名前が記録として伝えられております。いずれにいたしましても開創以来700年余の長い間、御戒壇様をお護り申し上げ、また、時の御法主上人猊下にお仕えしてきた数々の住職方とご信徒によって今日まで護り伝えられてきた、たいへん由緒深い坊でございます。

今日折伏の機運がみなぎり、広布へ向かって住職と檀信徒の方々が異体同心して前進する姿を、それらの先師、先輩方はいかばかり頼もしくご覧になることでありましょうか。住職の田中師は、長年宗務院庶務部にありまして万般の事務に精通し、御法主上人猊下の御信頼によくお応えをしまして、また、部長を支えて日夜精励しておられます。本日の慶事を契機といたしまして、今後共なお一層のご精進を心からお祈りをする次第であります。

この塔中坊の建替え工事は、今後1年余にわたって続けられます。そこで施工業者の方々にお願いをしたいのは、いろいろな意見を集めながら設計をしていただいておりまして、今日で4カ坊が完成いたしましたが、まだまだこれから多数の建設に係わっていただくわけです。そこで既に完成し実際に登山者を受け入れた坊について、その使い勝手をよくお尋ねになり、また調査の上、もし何か問題点や不都合がありましたら即座にそれらを改善するという姿勢で取り組んで、今後建立される分に十分反映をしていっていただきたい、そしてより完成度を高める努力を惜しまないように、ぜひお願いをしたく、このことを申し上げる次第であります。

終わりに当坊のますますのご発展をお祈りいたしまして、併せて、建設施工にかかわられた多くの関係者ご一同に心から御礼を申し上げまして、記念局を代表しての祝辞といたします。本日はおめでとうございました。




小説富士 『二箇の相承(三)』


二箇相承の傍証は、聖滅99(1380)年の、『五人所破抄見聞』に現れる。

日蓮聖人の御付嘱は、弘安五年九月十二日と同十月十三日の御入滅の時、御判形分明なり。爰(ここ)に本因妙の行者日蓮大聖人は、釈迦如来娑婆往来八千度の間は本時の寂光土に在りしが、此の界内同居の愚機の為に名字初信の行者として末法に出世し玉ふ処は今時の寂光なり。是れ即ち、我本菩薩の道を行じ、成ずる所の寿命今猶(なお)未だ尽きず(略)の御内証より出世を起し玉ふ。名字の妙法を通達し玉ひ、釈尊出世の施化には爾前四十余年にも秘し、迹門十四品の間にも秘し、本門寿量品に於ても秘密し玉ふ処の御内証たる結要五字の真文を譲り給ふと云へども、無常の相を娑婆に訓(おし)へ、一瓶(いちびょう)の法水を日興に御付嘱あり。

日興も寂を示し玉ひ、次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば、法頭にて在すなり。秘すべし、口外すべからず。六老僧ありと雖(いえど)も、法主は白蓮阿闍梨に限り奉るなり。在世には唯我一人の大導師は釈尊なり。末代には上行菩薩本門の別付嘱は唯我一人なり。争(いか)でか告勅にそむいて唯我一人の法華経を六人までに御付嘱あらんや。六人の上首は日興上人なり。例せば四大菩薩の上首は上行菩薩なるが如し。(富土宗学要集4巻8頁)

『四条金吾殿御返事』に、

正法をひろむる事は必ず智人によるべし。故に釈尊は一切経をとかせ給ひて、小乗経をば阿難、大乗経をば文殊師利、法華経の肝要をば、一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給ひき。(御書1041頁)

唯授一人のことは御書にもある。推して知るべしと言うべきか。

左京日教は、その後聖滅207年に『類聚翰集私』と聖滅208年の『六人立義破立抄私記』とに、二箇相承を全文引用しておる。そして『類聚翰集私』の四には、

日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次其の次に仏法相承して、当代法主の所に本尊の躰有るべきなり。此の法主に値ひ奉るは、聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇・結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り、信心異他なく、尋便来帰咸使見之す。何ぞ末代の我等、三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ、(略)釈尊と聖人と互為主伴したまふ事を知らざるなり。(富士宗学要集2巻309頁)

とその信心の程を表して、二箇相承に言及している。

さて先に『宗学要集』に載せるところの「二箇の相承紛失の由来」を掲載したが、これはあくまでも、北山本門寺所蔵の二箇相承が増山権右衛門によって奪われた経過であって、これが真書ということの証拠はない。或いは写しであるのではなかったかしらと、疑ってみたらどうなるか。既に聖滅300年であることを思えば、写しであっても真書同様に尊重したと思われるのである。

もし二箇相承の真書が、北山本門寺より武田勝頼の臣によって奪われたとするならば、大石寺には二箇相承が初めからなかったという矛盾が起きるのである。これは大変なことと言わねばならない。大石寺のみに、今なお二箇相承の精神が僧俗の信心に生きていることを思えば、大石寺に二箇相承の真書も写しも最初からなかったというのでは道理が通らないのである。

左京日教の二箇相承の写しは、前述の如く『富士宗学要集』に掲載しておるが、それが真書を拝見したのか、写しを写したのかは、今決定ができない。ただし、日辰伝の永禄2(聖滅278)年には、 「所謂二箇の御相承、本門寺の額、紺紙金泥の法華経、本尊十七鋪、安国論、皆悉く蓮祖の御筆跡なり」とあるから、北山所蔵の二箇の相承は写しとは言えないが、この中に本門寺の額が加わっており、二箇の御相承を「所謂(いわゆる)」と称しておるところから推理して、書面通りには受け取れぬところがある。しかも日辰は、『会津実成寺宝物記録』によると、二箇相承を写した文の末文に「此の外大石寺に一紙、御附嘱状是有り、広格異耳、要法寺日辰」とあるから、大石寺にも別に御付嘱状があったことは肯定できる。

二箇相承については、大石寺の御歴代のものとしては、第14代日主上人の書写になるものがあると伝えられるが、筆者は未見である。何故筆者が北山所伝の二箇相承に対して、真書か写しかという疑問を持つかと言えば、二箇相承は武田方に奪われて紛失したと称しながら、その後30年して、北山の養運坊日健が駿府城に奉持して徳川家康に拝見させたということの不思議さである。

日蓮校割相承文  富士郡北山村字重須、多宝富士山本門寺日蓮宗の寺領にあり。  駿府政事録に云く、慶長十六年十一月十五日、今晩不二(ふじ)本門寺、校割二箇相承、後藤庄三郎光次、御覧に備う。その詞に云く、「釈尊五十年仏法、白蓮阿闍梨日興に之れを附嘱す」云々。是を以て之を按ずるに、日蓮爾前経を捨てざる事分明なり。後来到来末派本源に暗し。而るに僅に四十余年未顕真実の一語を以て、爾前の教之れを棄損すべしと。是は祖師之本意に非るものなり。御前に於いて沙汰あり。北山本門寺当住日■云く、慶長十六年十二月法相承之儀きこしめされ、十日御尋の沙汰之れあり。その時の住持日健は眼病相わずらい、則ち役僧の養運坊を以て、同十四日駿府に着き、同十五日登城し、後藤庄三郎取次を以て上覧に備え奉う。二箇の相承文に曰く、(以下二箇相承全文を記す)。

右記の文中の、劈頭の「校割」とは引渡すことだが、我は之を与え彼は受けて双方が関係を断つの意があるから、校割は僧の用語ではなく全くの俗語であって、ここでの使用はまず不穏当であると思う。




体験発表 『支部内の怨嫉を解決して11世帯の折伏が成就』
法通院支部 T・S


唐突ですが、私は本来ならば死んでいるはずなのです。今から4年前、糖尿病がひどくなり右足の親指が腐り始め、医者からは、右足を切断しても4年はもたないと言われていたのです。人間は死んだらどうなるのだろうかと思い『大日蓮』を読んでいますと、前御法主日顕上人猊下が病について、「病気には大きく分けて身の病と心の病の二つあるが、身の病といっても心の病が原因で起こることが多い。個々人の不幸も社会的・国家的災害・疫病等もみな心の病に本当の原因があり、そこから現れてきている。仏教以外の誤った教えでは心の病を本当に治すことはできない」(大日蓮666号・要旨)と、御指南されておられました。

それから私は、朝晩の勤行・唱題とは別に1時間の御題目を唱え、糖尿病を50日で克服したのです。それ以来、現在で1,537日、1時間の唱題を欠かしたことはありません。私は一人でも多くの人を折伏しなければならないと決意しています。

折伏をさせていただけるには一つ絶対的な条件があると思います。それは怨嫉(おんしつ)があってはならないということです。怨嫉が何ものであるか私にはよく判りませんが、この怨嫉が信心の邪魔をし、折伏をさせなくするのです。


寺院参詣の困難に立ち向かう

私は弘宣寺から法通院に移籍して2年目です。去年の1月にご登山したときに御法主日如上人猊下の御指南を拝聴し、その場で決起して自分に出来ることをやろうと思いました。そして下山後、弘宣寺の御住職・佐藤見道御尊師に、「故郷の五島列島に戻ったからには、骨を埋める覚悟で信心活動をしたい」とお話し、弘宣寺の預かり信徒から、法通院への移籍をお願いしました。

法通院は、日本の一番西の五島列島にあります。福江島・久賀島・奈留島・若松島・中通島に分かれている5つの島を2つに分けて、上五島・下五島と言い、法通院は一番下の福江島にあります。信徒は上五島に11世帯、下五島に50世帯で、上五島の人はお寺まで船で行かなければなりません。宿泊費・交通費そして時間もかかり、たいへんです。そんな中で御住職・中川雄堅御尊師は、月に1回、講員さん宅を訪問して下さっています。

私も上五島で仕事があるときは、講員さん宅をなるべく訪問するようにしています。上五島の講員さんのうち、お年寄りや身体の不自由な方、病気を抱えている方は、船に乗って法通院に来られないので、「法通院に来てください。ご登山をしましょう」と言いたいのですが、、御題目を一杯唱えてください」と言うのがやっとです。

しかも、上五島には創価学会の会館があるのです。講員さんたちは「上五島にお寺があれば」との願いをもっています。そんな講員さんたちの願いが叶うように、日蓮正宗のお寺を建立したいと決意しています。毎月一回ある広布推進会には一人でも多くの人を連れていきたいのですが、船賃だけでも一人10,500円かかります。このような状況で、歯を食いしばってがんばっています。

私は法通院に移籍してすぐに、ほとんど毎日、御住職とお寺で11時から1時間の唱題を行うようになりました。そしてお寺の行事を中心に仕事を組み、その合間をみて講員さんを訪問しました。場所が判らないお宅は、御住職の奥様に案内していただき、やっと皆さんの家を覚えました。そして講員の皆さんに御題目のすばらしさを話し、私の体験を「今は、お金にも苦労しませんよ」「毎日1時間の御題目を唱えれば幸せになりますよ。御題目をしっかり唱えてください」と言って回りました。今では講員さんの半分近くが1時間の御題目を唱えていると思います。


折伏成果が出ない現状打開に奮起

しかし折伏は1世帯も成就しません。私は御題目を唱えれば折伏はどんどん成就すると考えていましたが、1年になろうとしているのに、1人も成就しないのです。折伏がゼロでは大変に申し訳ないではないかと、私独りが空回りしているようでした。法通院支部は70歳以上の人がほとんどです。このままでは20年、30年後には講員がいなくなってしまいます。そうなったら大変だと思い、役員や講員に訴え、誰がどうあろうと自分達のお寺は自分達で護らなければならないんだと言ってきました。講員の皆さんもがんばってくれましたが、成果はあがりませんでした。

昨年は滋賀県で働いている私の次男が帰省してきたので、説得して御本尊様を持たせ、何とかゼロ世帯は免(まぬが)れました。年が明け、今年こそは絶対にやるぞと心に誓いました。御題目は御本尊様に通じているはず、折伏ができないのは何か原因があると考え始めていました。

御本尊様に御題目を唱えているとき、去年の地方部別広布推進激励会で、福岡県に柳沢委員長と石毛副委員長が来られた時のことを思い出しました。「折伏ができない支部は、必ず理由がある。折伏というのは御本尊様がさせてくださる」という言葉でした。「そうか、御本尊様からお叱りをいただいているのか。何ででしょうか」と御本尊様に聞いても頭に浮かんできません。そして、地方部別地涌倍増大結集推進激励会で、大村市の聞法寺に石毛副委員長が来られることが判り、私は石毛副委員長に、御本尊様からお叱りをいただく原因といくつかの例えをお聞きしたい、と質問したところ、「講中に入ってみないと判らないが、ほとんどは怨嫉が原因である」と言われました。

私は怨嫉を講中からどのようにして消せばいいのか悩みました。まず役員の中に怨嫉がないかと考えてみると、お寺で役員会を開くときは何も問題は起こらないが、何となく暗い感じがするように思いました。「役員さんを明るくしよう。まずは自分から」と思ったとき、自分自身を見つめていくと、お寺では話せないことや御住職の前では言えないことが沢山ありました。きっと皆さんもあるに違いない、腹の中にあるものをお互い出してしまわないと怨嫉は消えないと思い、勝手に会合を開くのはどうかと思いよしたが、法通院の発展のために開くのだから御本尊様から罰を受けることはないと確信し、私の家に役員を集め、昼食をとりながら役員懇談会を開きました。

私はまず自分から腹を割って色々なことを話し、「皆さんも腹にあるものを全部出してください」と言い、折伏ができないのは、御本尊様からお叱りをいただく原因があることを話しました。すると皆さんの目の色が変わり、色々なことを言い始めました。

そのうちに皆さんの気持ちが打ち解け合い和(なご)やかな雰囲気になりました。「今の状況は私たちの宿業であり、みんなで打開しなければならない。法通院を盛り上げ、御住職を大切にしなければならない。そして言いたいことは言い、言った方も言われた方も、根に持たないこと」と結論が出ました。


折伏大前進が始動

すると、すぐに折伏大前進が始まったのです。3月14日に御住職と松村さんが1世帯、4月1日に私が1世帯です。私は、春季総登山会から帰ってすぐに折伏ができました。3月は仕事がとても忙しく、ご登山に行くかどうか迷っていました。行けば仕事がなくなることが判っており、たいへん悩みました。考えてみますとすべて御本尊様から戴いた仕事です。ご登山で仕事が無くなっても、また御題目を一生懸命唱えてがんばればいいと思い直し、行くことにしたのです。するとその日の晩に後輩から電話があり、「今仕事をしていない」とのことだったので、仕事の内容を電話で説明し、五島にすぐ来るように言い、私が総本山へ行っている間、代わりに仕事を引き受けてもらい、危機一髪で仕事が無くなるのを免れました。ご登山から帰ると、既に家内が学会員である後輩を折伏しており、とんとん拍子で折伏を成就できたのです。

それから幾日か経ち、御題目を唱えていると御本尊様の福過十号と顕(あらわ)されている所から白い玉がほろりと落ちるのを見ました。目をこすって気のせいかと思い直し、そのまま唱えていると、今度は八幡大菩薩から白い玉が飛び出し、すーっと大広目天王に入りました。

このことを家内に話しましたが、「少し頭がおかしいのではないか」と言われました。私は「明日必ずいい事がある」と言って寝ました。すると次の日、消防署から仕事の依頼の電話がありました。4月に仕事を受け、一つが終わると次から次に消防署関係の仕事がきて、もう既に来年の分の見積りまで出しています。これには家内も目を丸くしていました。

福過十号から出た白い玉はこのことだと思いますが、もう一つの玉の意味が判りません。御住職に「大広目天王の意味が判りません」と話すと、御住職は「西を護る天王だよ」とおっしゃいました。法通院は一番西にあるので、法通院を護ってくれるという意味かと思いました。

それからは、次から次へと折伏が成就し、5月13日に2世帯、6月26日に1世帯、7月に3世帯、9月15日に3世帯で現在11世帯です。怨嫉をなくすだけで、全然思いもしないところから折伏が成就したのです。

法通院は講中を皆の力で明るく盛り上げ、平成21年までには100世帯になるようにがんばっていきます。



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