大白法

平成20年8月1日号


主な記事

<1〜6面>

<7〜8面>


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御法主日如上人猊下御言葉



平成20年度第6回法華講夏期講習会第8期の砌
平成20年7月12日 於 総本山広布坊


 本日の指導会に当たりまして、一言申し上げます。

 既に皆様方には、本年「躍進の年」が明年の御命題を名実ともに達成するために、いかに大事な年であるかは重々御承知のことと存じます。

 大聖人は『撰時抄』のなかで、「夫、仏法を学せん法は必ず先づ時を習うべし(中略)彼の時鳥(ホトトギス)は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをかくのごとし。何に況んや、仏法を修行せんに時を糾さゞるべしや」(御書834)と仰せであります。仏法においては、時を知るということはまことに大事なことであります。宗教の五綱、すなわち教・機・時・国・教法流布の前後のなかにも時が記されておりますように、時を無視して法を弘めることはできないのであります。

 故に、大聖人は『教機時国抄』に、「時を知らずして法を弘むれば益(やく)無き上、還って悪道に堕するなり」(同270ページ)と仰せであります。時を弁えずに法を弘めることは、なんの利益もないばかりか、かえって悪道に堕すると、厳しく仰せであります。逆説的に言えば、法を弘めなければならない時に法を弘めないということは、益なき上に、かえって悪道に堕するということにもなるのであります。

 そもそも、大聖人は仏法流布の時について、

我が滅後五百年が間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもって一切衆生にあたへよ。次の五百年が間は文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩等、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさづけよ。我が滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩・観世音菩薩等、法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさづけよ。末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬は浅し。其の時、上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一間浮提の一切衆生にさづくべし。(同887ページ)
と仰せであります。すなわち、仏法においては既に、正法時代、像法時代、末法時代、それぞれに弘めるべき人と法と時とは確定的に決まっているのであります。なかでも末法は、御本仏大聖人の仏法が広宣流布すべき時であり、四十余年の諸経ならびに文上の法華経では、末法の一切衆生を救済することはできないのであります。

 したがって、先程の御文のなかで「上行菩薩」と仰せられているのは、日蓮大聖人のことでありますが、しかし、上行菩薩の再誕としてのお立場は、あくまでも教相に約した外用(げゆう)のお姿であって、文底に約し、内証深秘の辺から論ずれば、大聖人は久遠元初自受用報身如来の御当体・一念三千の尊形・無作本有の本仏・末法今時の下種仏・本因妙の教主であります。すなわち、末法においては御本仏宗祖日蓮大聖人の仏法のみが、一切衆生を救済しうる大法なのであります。


 そこで、このことを充分に領解した上で、今、この時に、我々がなすべきことは何かをしっかりと考えていかなければならないのであります。

 結論から言えば、今、我々は、明年へ向けて「地涌倍増」と「大結集」の御命題、そして今回、記念局より発表した「50万総登山」をなんとしてでも達成することであります。なかんずく地涌倍増は、今日の混沌とした様々な状況から見て、最も急務とするところでありまず。その地涌倍増とは、すなわち折伏であります。

 いまさら私が申し上げるまでもなく、今、国の内外では、中国四川省での大地震をはじめ様々な災難が至る所で起きております。また、秋葉原事件のような悲惨で残酷な事件や事故が頻発しております。こうした現実を見るとき、我々はけっしてこれらを見過ごしてはならないのであります。

 大聖人は『大悪大善御書』に、「大悪興れば大善来たる」(同796ページ)と仰せであります。されば、今、この時こそ、本宗僧俗はこの御金言を拝信し、心を一つにして、立正安国の御理想実現のため、末法の一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を全世界に流布すべく、全力を傾注して折伏を行じていかなければならないと存じます。時を失して後悔するようなことがあってはなりません。

 どうぞ皆様には、御命題達成にとって最も大事な本年、一人ひとりが法華講衆の自覚と誇りと使命を持って、悔いなく闘いきっていただきたいことを心から念じ、本日の挨拶といたします。



○法華講夏期講習会指導会より 指導 法華講本部指導教師・八木日照御尊能化

皆さん、こんにちは。第6回法華講夏期講習会に、全国から、皆さん方ようこそ参加をされました。ただ今は御法主日如上人猊下から親しく御書の信行要文につきまして甚深の御指南を賜りまして、いよいよ信心を奮い起こして後半の折伏戦をがんばっていこうという意気込みに燃えていらっしゃること存じます。


本年の年頭に当たり、御法主上人猊下は二つの大事を我々にお諭しくださいました。

その一つは明年、いよいよ宗祖日蓮大聖人様が『立正安国論』の正義を顕揚あそばされてから、実に750年目というたいへん大きな佳節を迎えるに当たってのプレ大会である、本年度全国4会場における地涌倍増大結集推進決起大会の大結集であります。これは本年2月3日の西日本決起大会を皮切りといたしまして、2月24日の九州、4月29日の北海道、そして最後が先般6月15日の東日本決起大会と、いずれも完全勝利をもって盛大に勢いをもって開催され、明年へ向かって弾みのつく、すばらしい結果を見ております。どうか大会参加者全国8万4千余の人たちが立ち上がり、決河之勢いで本年後半戦を勝ち取ってまいりましょう。

7月度の広布唱題会の相におきましても、御法主上人猊下から、「全国4会場での決起大会もすべて大勝利を収めることができた。運営委員をはじめ参加者の絶大な協力の賜物である(趣意)」(大白法745号)とこのように尊い労(ねぎら)いの御言葉を戴き、まことに感激をした次第でございます。

もう一つは、本年度の折伏誓願目標の完全達成でございます。本年の「躍進の年」を迎えるに当たり、それぞれの講中におきまして、また一人ひとりが、「本年はこれだけの折伏をしっかり成就しよう」と、決意し御本尊様にお誓い申し上げた折伏について、全国の各講中が漏れなくその目標を完遂することが大事である、必ず遂げよう、こういう御法主上人猊下の御指南でございます。


さて本年「躍進の年」、折伏を成就していくために宗門といたしまして僧俗が取り組むべき三つの実践項目を、目標として掲げています。

その一つは、「総登山と大結集の推進」であります。これは、明年の『立正安国諭』正義顕揚750年の大佳節に、全国の各講中において一年を通じて記念総登山を行い、講員一人も漏れなく総本山へ、御戒壇様のもとへ、御法主上人猊下のもとへのご登山を推進するということであります。

このことにつきまして6月24日、記念局の常任委員会におきまして、明年は記念大法要や精鋭7万5千の大結集総会をはじめ、正月の初登山会、春秋の二大法要、寛師会、海外信徒総登山などすべてを網羅して、総計50万総登山を実施しようという御指南を賜りました。

つい最近の決定で、啓蒙徹底はこれからですけれども、「明年は50万総登山」と皆で意識を高め合い、講中お互いに励まし合いながら、年間を通じて記念総登山を行う。これを中心として、7月26日の精鋭7万5千の大結集、これらを含めて50万総登山を達成しようということでございます。

また大結集は、今申し上げました明年7月26日に精鋭7万5千が総本山へ大結集することでありますが、頭数だけ7万5千人集まればいいというわけではございません。精鋭とは何か、これは選り抜きの優れたすばらしい力と勢いを持った、そういう人のことを言います。我々の信心の上で言うと、一人ひとりが折伏に育成にそれぞれ精進し、がんばり切った人たちが7万5千集まるということであります。これを本年度におきまして推進していくのであります。来年その場になってあたふたと走り回っているようでは、成果はおぼつきません。本年のうちから、真剣な唱題、地道な一軒一軒の家庭訪問を積み上げて、明年の完全勝利を準備していく。その上に初めて明年の成果がはっきりと現れてくると思います。

二番目が、「真剣な勤行と唱題」であります。勤行と唱題は、我々日蓮正宗の僧俗にとりまして毎日欠かすことのできない大事な基本の修行であります。

朝の五座の勤行、夕方の三座の勤行、そして唱題行。これを欠かすことなく1年間、3年、5年と実際に身に行じて続けていくということは、よほど固い信心を持ち、毎日の生活の中できちんと時間を決めて、家族ぐるみで行っていくという習慣を、打ち立てていかなければ、なかなかできていきません。

真剣という言葉は、物事に対してまじめに本気で一生懸命に取り組むということであります。真剣勝負という言葉もあります。かつて武士の社会におきましては、真剣、つまり竹刀や木刀ではない本当に切れる刀です。その真剣で勝ち負けを争うということは、切られれば自分は死んでしまうわけですから、全神経を集中して命がけでうち向かっていく姿勢が、真剣という言葉に表されます。毎日の勤行や唱題がついつい惰性に流され、ただ何となくやればいいという感じになってしまうようではいけない。もし今朝の勤行が自分の人生最後の勤行になるという場面を迎えた時とすれば、まさに真剣という言葉の意味の重さが判ると思います。

そして三番目が、「不断の折伏と育成」ということでございます。不断というのは、絶えることのない、常にということであります。常に折伏と育成を心がけていく信心です。

「聴聞する時は燃え立つばかり思へども、遠ざかりぬれば捨つる心あり」(御書1206ページ)という大聖人様の御誡めがありますが、一年の中で思い立ったある時期、ある何日かは一生懸命やるけれども、それがなかなか長続きしない、これでは不断にはなりません。絶えることなく常に折伏と育成を心がけていくことが大切であります。

折伏により新たに御本尊様を戴く新入信の同志ができます。その場合に、その方の信心育成を、紹介者はもちろんのこと、住職をはじめ講中の役員あるいは周りの信徒の人たちがお互いに協力し合ってこまめに家庭訪問し手厚く育成をしていく。一緒に勤行をし、一緒に折伏に歩くという育成を心がけていきましょう。

一昨年、宗門として『折伏と育成について』という異体的な方法を細かく定めたパンフレットを作り、皆さん方にこれを徹底していっていただきたいということで頒布したことがございますが、どんなに一生懸命に折伏をして新たな入信者を迎えても、そこに心を込めた育成ということがなければ、地涌倍増は成し遂げられません。入信はしたけれども、一週間、十日経ち、一月経ち、半年・一年経つ間に、あの人は歓びもなくちっともお寺にも会合に出てこなくなった、名簿上だけの人になってしまったというようなことでは、せっかくの折伏も地涌倍増に繋がりません。この育成ということは根気のいることですが、本当に大事なことであります。

住職を先頭に講中の役員の人、それぞれの立場の人たちが協力し合いながら、組織を挙げて新入信者に対する育成を行っていく。あるいは新入信者ばかりでなく、入信して3年、5年、10年経つうちに我見に陥って信心の歓喜を失い、折伏への取り組みも遥かに遠のいているような人たちが講中の中にいないか、そういう人たちを見つけ、新入信者と同じように、やはり育成ということを心がけていかなければならない。これが講中の活性化、そして地涌倍増に繋がっていく大事なことであります。

これもどうかそれぞれ、ご自分の身に当てて、自分は残された半年間でこういうことを毎日・毎日やっていかなければならないという目標をしっかりと見定めて、実践いたしましょう。明年を迎えるためのこの決起大会も成し遂げ、あとは折伏あるのみ。ただ今も御法主上人猊下からこんこんと御指南がございました。どうか皆さん方、この後半戦に向かって多いに精進をしていっていただきたいと思います。


最後にもう一点申し上げます。それは特別御供養の件でございます。『立正安国論』正義顕揚の750年を明年迎えるに当たりまして、数年前から記念局が設置され、様々な記念事業が進められています。中でも総本山の総合整備事業は近来にない大事業です。

そのうち特に、総本山第17世日精上人の時代に、敬台院殿をはじめ全国のご信徒の御供養によってあの立派な御影堂が総本山の中心に建てられましたが、その御影堂の大改修工事が行われております。寛永9(1632)年に建てられた御影堂につきましては、長い歴史の中で、これまでに何度も改修工事は行われてまいりました。明治の中期56世日応上人の時代にも大々的な改修が行われましたけれども、今回はさらに学術的な検討が十分加えられ、抜本的に、全部解体した上で耐震性にも勝れた万全な工事をということで、たいへん年月も費用もかかります。しかし、平成の大改修として永く伝えられることと思います。

また、塔中宿坊の建替え工事も行われております。国内外から総本山に参詣されるご信徒の方々のため、老朽化した従来の宿坊を新たに建て替え、耐震性に勝れ安全で快適な空間を確保しようという御法主上人猊下の深い思し召しの上に、総本山の総合整備事業として進められております。既に昨年4力坊が完成し、さらに本年も来月には、観行坊をはじめとして5力坊が完成する予定です。さらにまた次々と建替え工事が進められてまいります。これらも大きな費用がかかります。

皆さん方には既に、第1回、第2回の特別御供養において、多くの浄財をお寄せいただき、たいへんありがとうございました。第3回目がいよいよ本年末に行われます。どうかこの意義を十分ご理解いただきまして、目下、国内外共に経済的にたいへんな時期ではございますけれども、篤い護法の志をもって、応分の御供養を御本尊様にお供えいただきたいと、このように心からお願いをする次第でございます。

いずれにいたしましても、我々、大聖人様の御遺命である広宣流布を進めていく者といたしましては、何と言っても折伏行が最も肝心であります。自らの罪障を消滅し、宿命を打開し、自他共にすべての人々が、活き活きとすばらしい人生を送っていける仏国士を建設していくという崇高な使命を担う我々であります。

どうかお帰りになりましたらば、この講習会での信行錬磨の功徳をもって、多くの人たちにこのことをお伝えし、共々に立ち上がって、本年後半の折伏戦をしっかりがんばってまいりましょう。





御影堂の尊厳なる意義と歴史―歴史@



御影堂の濫觴

宗門史における御影望建立の起源は、大聖人御入滅直後にまで遡ります。大聖人は御入滅に先立ち、第二祖日興上人に対し、唯授一人の血脈を相承されると共に、身延山久遠寺の別当職を譲られました。

重須談所の学頭であった三位日順師の『日順雑集』に、「聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ」(富士宗学要集2−95ページ)とあるように、身延山には大聖人の御在世当時に御影堂はなく、大聖人御入滅の後に、別当であった日興上人の指示によって、大聖人のお住まいであった住居をそのまま御影堂に改められました。

日尊師の行跡について記された『尊師実録』には、「弘安7年(甲申)5月12日甲州身延山へ登山。同年10月13日大聖人の第三回御仏事に相当するの日、始めて日興上人に対面、御影堂に出仕」とあります。即ち、「日尊師は大聖人の三回忌に当たる弘安7(1284)年10月、身延山に登山した折に初めて日興上人と対面し、御影堂に出仕した」とあり、日興上人は身延入山後、直ちに御影堂を造立されたことが判ります。

日興上人は、大聖人を末法の御本仏と拝し、信仰の対象とされたがゆえに、大聖人の御影を安置する堂宇として、御在世と変わらない大聖人に対する常随給仕をするための道場として御影堂を造られたと拝されます。


大石寺開創と御影堂建立

正応2(1298)年、日興上人は波木井実長の謗法を契機として、本門戒壇の大御本尊をはじめとして、大聖人の御霊骨や最初仏等の御宝物を捧持され、身延の山を離山あそばされました。そして、翌年の正応3年、上野郷の地頭・南条時光より寄進を受け、本門戒壇の大霊場として、四神相応の大石が原の地に大石寺を開創されます。

開創当時の大石寺にどのような堂宇が存在したかを記す文献は少なく、定かではありませんが、日興上人から日目上人に与えられた譲り状である『日興跡条々事』に、「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ、日日之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(御書1883頁)と仰せであり、さらに日興上人の御化導を拝察すれば、日興上人は大石寺開創時から御影堂を建立されていたものと拝されます。

また、日目上人の弟子である民部目盛(にちじょう)師の書状に、「明日より御堂の番にて侯」とあり、現在でも続く「御影堂番」の番役の存在がうかがえます。以降、御影堂は、意義、位置共に大石寺の堂字の中心としての役割を果たし、御歴代上人の管領のもとに新築や改修が行われていきました。ちなみに、日興上人は永仁6(1298)年に重須談所(現在の北山本門寺)を開かれた時にも即座に御影堂を建立されています。


日時上人の御影造立

さて、第三祖日目上人御遷化の後の大石寺では、東坊地いわゆる蓮蔵坊を中心とした土地の所有権を巡って係争が起きました。これをきっかけとして日郷師は大石寺を退出し、その際、あろうことか、御宝物の一部と共に御影堂に安置されていた御影を大石寺から持ち去ってしまったのです。

これを受けて第5世日行上人、第6世日時上人は東坊地の安堵と御影の返還を求め、問題の解決に心血を注がれました。しかしながら、当時の様々な問題と相まって、結局奪還には至りませんでした。

このような状況の中、日時上人は嘉慶2(1388)年10月13日、等身大の御影を造立されました。この御影の「裏書」には、


「敬白大施主
   奥州法華宗等僧俗男女
   野州法華宗等僧俗男女
   武州法華宗等僧俗男女
   駿州法華宗等
   願主卿阿闇梨日時在判
 嘉慶2年戊辰10月13日
   仏師越前法橋快恵在判」

と記されているように、仏師・越前法橋快恵の彫刻によるもので、当時の全国の僧俗が浄財を御供養されました。この御影は、現在、総本山の御影堂に御安置されています。


この頃の他門の文献に、大石寺の御影堂に関する記述が残されています。

他門流(日什門流)の日運が記した『門徒古事』によると、京都の他門の僧・玄妙日什は京都の妙顕寺が山徒に破却されたことを受け、日蓮門下に対して使者を送り、共に天秦をするよう呼びかけたようです。その要請に対して大石寺は、「御影堂を造立し侯間、隙無し(御影堂を造営中であるから余裕がない)」との理由で応じなかったとあります。

正統門流である大石寺が、他門の輩と共に天奏することは大聖人の御意に背きますから応じないのは当然ですが、「御影堂を造立し」との記述があり、大石寺が御影堂を重要な堂字と位置付けている事実を、他門も認識していたことが判ります。

妙顕寺破却が元中4(1387)年のことで、日時上人が御影を道立された前年に当たります。つまり、日時上人が御影を新たに造立された時期と、日什が天奏を呼びかけた時期がほぼ同時です。

改めて御影の裏書を見ると、「大施主」として全国の僧俗が列挙されており、御影造立が宗門を挙げての大事業であったことがうかがわれます。したがって、大石寺開創より約百年が経過して堂字の老朽化が進み、持ち去られた御影の返還の目処が立たない――この時期に御影造立と時を同じくして、御影堂も新たに建立されたことが推測されます。




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