大白法

平成20年8月16日号


主な記事

<1〜6面>

<7〜10面>


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法王山常説寺復帰奉告法要並びに第4代住職入院式
岩手県釜石市


7月24日、岩手県釜石市の法王山常説寺において、復帰奉告法要並びに第4代住職・上地信暁御尊師の入院式が厳粛に奉修された。

常説寺は、昭和36年1月8日、総本山第66世日達上人の大導師のもと入仏落慶法要が奉修され、初代住職・角田実道御尊師により大いに寺域が興隆した。ところが平成4年3月、同寺住職であった山本辰道が不法な手続きのもとに宗派離脱を画策し、常説寺を不法に占拠した。このため同寺信徒は、大船渡市・本寿寺の預り信徒として教化育成を受け、一日も早い返還を願い信行に励んできた。そして山本辰道の死去に伴い、7月12日午前9時より、渉外部長・秋元広学御尊師をはじめとする庶務部・渉外部の御尊師方、布教区内の住職方、弁護士立ち会いのもと、16年ぶりに当寺が宗門に復帰したのである。

復帰奉告法要並びに入院式には、東北布教区宗務支院長・楠牟礼慈宝御尊師、同副支院長・沼田凡道御尊師をはじめ布教区内外の御僧侶方が御出席。また、東北地方部より内村正昭副地方部長、細田栄司副地方部長。さらに東北布教区内の支部代表信徒、常説寺の多田礼子総代をはじめ常説寺信徒多数が参列した。

入院式は午前11時より開始され、はじめに新住職の上地御尊師の導師により、献膳の儀・読経・唱題と奉修された。次に、楠牟礼支院長より新住職の紹介並びに経過報告を交えての祝辞が述べられ、前兼務住職・佐藤御尊師の挨拶、多田総代の祝辞と続いた。最後に、上地新住職より参列の各位に対して丁重な謝辞があり、今後の決意が披瀝された。この後、本堂において記念撮影が行われ、復帰奉告法要並びに入院式はとどこおりなく終了した。




信行を磨く 『確信をもって折伏実践の時』
関西大布教区大支院長・高野法雄御尊師


御命題達成に向け全国4会場で行われた決起大会も大成功を収めることができました。しかし、決起大会は到着点ではなく、本年、「躍進の年」を勝利し、明年の御命題を達成する出発であります。いち早く開催された西日本をはじめ、全国の法華講衆が地涌倍増への闘いを大きく前進させ、大結集の推進を着実に進めていってこそ本当の成功と言えるのです。諸天の用きを呼び起こせる信行を、今こそ全法華講衆が決意し、実践することが肝要です。


命の浄化が根本

今日の地球規模で起きている天変地夭地はまことに甚大な被害を引き起こしています。個人においては心の乱れ、命の濁りによって毎日のように引き起こされる悲惨な事件、まさしく五濁悪世そのものの姿を示しています。世の識者はその原因を種々論じておりますが、根本的・具体的な解決法を提示することができません。妙法を受持する立場から考えると、重大な事件を起こした犯人に共通してみられる傾向は、その責任を社会や周りの人たちに転嫁し、手を差しのべられることを当然のことと考える、生き方に「甘え」があるように思えます。

世の中全体にこうした甘えの考えがあり、親が子供を育てる責任を教師に転嫁し、子供は思い通りにならない原因を親に求める。いかに責任を転嫁しても、そこから導き出されるものは、不満であり、恨み憎しみでしかなく、自分自身を満足させ、向上させるものは何一つとしてないことを知るべきでしょう。

正法を知らない者は命が濁り五根が濁っている故に、物事の本質を見ることができないで、判断も誤ることになり、その結果、不幸な境界に沈まなければならなくなるのです。この根本原因と解決法を知る私たちは、決して他人事と考えていてはなりません。濁った命を清浄にする唯一の方途は妙法を受持信行することであり、自らも行じ、他にも教え勧めることが、我が身の安寧と国土の安穏を築く唯一絶対の条件であります。

『聖愚問答抄』には、「病者は薬をも知らず病をも弁へずといへども、服すれば必ず愈ゆ。行者も亦然なり。法理をも知らず煩悩をも知らずといヘども、只信ずれば見思・塵沙・無明の三感の病を同時に断じて、実報寂光の台(うてな)にのぼり、本有三身の膚(はだえ)を磨かん事疑ひあるべからず」(御書408ページ)と御教示です。

病人が薬の成分などを知らなくても、医者の指示通りに服用するならば快方に向かうように、妙法の深い教理は判らなくとも、ひたすら信心を起こしてゆくならば見思・塵沙・無明の三感を同時に断ち、御本仏の絶大な功徳に浴することができるとお示しです。ところが、正法に縁しない人たちは三惑の病にかかっているので物事の道理に暗く、心根が歪み、その結果、悩み苦しみを自ら引き起こし、さらに悩み苦しみを増すことになり、六道・四悪趣から抜け出せなくなってしまうのです。

御法主日如上人猊下は昨年の夏期講習会での御講義で、「この思惑は先天的であるし、本能的なものですから、本当に命の底から直していかないとだめなのです。だから、本当にお題目でしか直りません。見思惑のなかでは特に思惑が大変なのですが、全部、お題目で直していくしかないのであります」(『功徳要文』186ページ)と、御指南です。

また、「どんなに大きな罪障を持って今世に生まれてきても、そんなものは全く問題ではありません。なにしろ、お題目は元品の無明を切る利剣なのです。我々はこの御本尊様のすごい功徳を、もっと無疑曰信の信に立って、毎日毎日、本当に朗々と題目を唱えて、元気よくやっていかなければならないと思うのです」(同189ページ)、「幸せになる条件は、もう全部そろっているのです。あとはただ信心するだけなのです。ここに我々はもっと目覚めて、信心のすばらしさを知っていかなければだめなのです」(同191ページ)と、凡夫には考え及ばないほどの絶大な御本尊様の功徳を心の底から信じ切る、あとは実際に唱題・折伏を実践することが肝心と御指南です。


甘えを排した信心

甘えは世間の人ばかりでなく、信心をする私たちの心の中にも入り込んでいないでしょうか。「これだけやっている」と自分で自分を納得させたり、他の人と比較したり、してくれないからと責任を転嫁する。信心に甘えを持ち込み、自身の境界の変わらないことを欺いても詮(せん)ないことです。現在の自分があるのは御本尊様の功徳によると知りながら、御報恩の志を忘れ、精進の心を見失った人は愚痴の人、物の道理に暗い人と同じです。せっかく利剣を持ちながらも用いなければその功は得られません。文字通り真剣な信心が今求められているのです。

自問自答する――「今やらないでいつするのか」

今こそ『立正安国論』の正義を顕揚し、池田創価学会をはじめあらゆる邪義を破折していかなかったならば、人心の荒廃はさらに進み、国土の災難は増え続けるでしょう。その時には我が身もその災いを避けることはできません。孟蘭盆(うらぼん)会の起こりとされる目連尊者の母・青提女(しょうだいにょ)が物惜しみの罪(慳貪の失)で餓鬼界に堕ちたことを知っているならば、妙法を受持しながら他の人にこのすばらしい信心を教えないということは最大の慳貪の罪になることを知らなければなりません。

再び自問自答する――「自分がやらないで誰がするのか」

下種先がないはずはありません。台湾のご信徒は買い物に行った先でも、タクシーに乗ったときでも、御本尊様に巡り合えた喜びを語り、そこから折伏が始まると聞きました。御法主日如上人猊下も私たちの周りには邪宗邪義に惑わされている人たちが大勢いると御指南されている通り、親族であれ、隣近所であれ、周りにいる人たちは正法を知らない人たちばかりと言えるのです。下種先がどうしても見つからない人は御本尊様に祈るのです。心の底から真剣に祈るならば必ず下種先が見つかります。御本尊様が見つけてくださいます。折伏する相手が現れるのです。

御法主日如上人猊下は御隠尊日顕上人猊下の御言葉を拝され、御本尊様の功徳を確信するならば自身の信心も折伏ももっと進むはずと、「この御本尊の功徳、まさに一念信解・初随喜によって、その人が信心に立った時には必ず折伏ができる」(同6ページ)ことを、『功徳要文』の御講義で私たちに御教示くださいました。

今一度、『功徳要文』を熟読し、御法主上人猊下の御意をしっかりと拝して、「条件は揃っているのです。あとは実践するかしないかにかかっている(趣意)」との御指南を胸に共々に進んでまいりましょう。




少年部大会より 体験発表 4名


◇志願寺支部 N.I.(6年生)

僕は、3歳の頃、インフルエンザの脳症(高熱が原因で起こる意識障害)にかかり、救急車で旭川赤十字病院に運ばれましたが、お医者さんは僕の体が42℃を越え、体温計ではすでに体温が計れなくなっていた事から「手遅れです、この子は助かりません」と言って治療をしてくれなかったそうです。

その頃、全国の病院では毎日、インフルエンザの脳症になった子が亡くなっていて、僕の運ばれた病院でも翌日、僕と同じ症状の子が亡くなり、当時の新聞やテレビでも放送されていました。

しかし、父と母が病院の先生に、「先生、もう一度しっかり見て、治療をして下さい、この子を助けて下さい」と必死にお願いしたそうです。それというのも救急車が到着する前、僕は、白目をむいて鼻からたんじゅうを出し意識がなくなったそうです。父が救急車を呼んでいる間、母が−20℃の屋外へ連れ出し、泣きながら必死にお題目を唱え僕の体を逆さにし、背中をぼんぼんたたいたそうです。体温計で計れなくなった僕の体を寒い外へ出し、体を逆さにし、背中をぼんぼんたたいたその処置が良かったせいで、僕の命は助かったのですが、今後どうなるかわからない僕を、旭川赤十字病院から芦別市立病院に転送し治療に当たったそうですが、治療のかいもなく、僕の体温は42℃度を越えたまま3日問、何の反応も無かったそうです。

父と母は、僕が助かったとしても重い障害が残る事を覚悟しながら、それでも僕を助けて下さいと御本尊様に必死に唱題したそうです。4日目の朝、めざめた僕がベッドの上で「お母さん」と言うと「え?お母さんがわかるの?話ができるの?」ととても驚いて、僕をぎゅっと抱きしめて泣きながらお題目を唱え、御本尊様ありがとうございますと言っていました。そして、僕にも「御本尊様が助けて下さったのよ、しっかりお題目を唱えて、御本尊様に助けて頂いた事を感謝し、お礼申し上げるのよ」と教えてくれました。僕も、お母さんと一緒にお題目を唱えて御本尊様に感謝申し上げました。その時、僕の二人のお兄ちゃん達もショックのあまり、高熱を出し僕と同じ部屋に入院していましたが、その日を境に僕達三人は元気になっていき、2週間ほどで退院できたそうです。

僕達が退院してから母は、僕が病院に運ばれた時の状況を医学書で調べて見たそうです。なぜ、あの時、お医者さんは僕が助からないと言ったのか?医学書では体温計の42℃は、生卵がゆで卵の状態になった事を意味するそうです。だから、体温計は42℃までの温度しか計れない事が書いてあったそうです。

医学書によると僕の脳は、インフルエンザの脳症になった時、ゆで卵になったはずです。でも、僕は御本尊様の御利益で助けて頂いたのです。父と母は、「助かるはずのない僕の命か助かった事、また、何の障害も残らなかった事は、御本尊様の御利益以外何ものでもない。必ず御僧侶になって、助けて頂いた命をむだにしないためにも、御本尊様のためにおつかえしていきなさい、それが本当の感謝申し上げるという意味なんです」と小さい時から教えられてきましたので、僕は御本尊様に助けて頂いた命を大切に使うためにも住職さんになって御本尊様に御奉公申し上げたいと考えています。

また、僕の通っている学校では、ほとんどの生徒が、僕が日蓮正宗の信仰をしていることを知っているので、僕の姿を通して折伏をしたいと考え、今回児童会長に立候補して当選しました。家では、折伏座談会や家庭訪問等で体験を発表したり、新しく信心した人たちに勤行を教えたりしています。そして、一日1時間の唱題と、両親が折伏している時間帯、兄弟三人で留守番をしながら、折伏が成就できますようにとお題目を唱えています。最後に、これからも御本尊様のお手伝いを喜んでさせて頂きます。


◇行道寺支部 N.O.(4年生)

私が入信したのは、まだ小さくて覚えていませんが、生まれて2カ月くらいして母が私をお寺に連れて行ってくれて、御授戒をしてもらいました。その頃のことを母に聞くと、毎日、家では朝ばんのごん行をしてはいましたが、お寺には、あまりお参りしていなかったようです。

それから、私が2才になった頃、新しい家を建てたので引っこしをすることになり、母は、お寺に行って、久野ごじゅうしょく様にお願いして、家にお経参りに来てもらいました。そのあと、1カ月くらいしてから、父の同級生でもある川野辺こう頭さんの家族が遊びに来ました。そして、いっしょにお山にいこうとさそってくれました。それがきっかけになって、少しずつお寺に行くようになりました。そして、お山にも生まれて初めて登山することができました。私はまだ小さかったので、どこに行くのも、お寺に行くのも母について行きました。

保育園の年長になった頃、私は、空手を始めました。秋に初めてのし合で3位になることができました。それから毎日、ご本尊様に向かい、朝と夜のごん行をするようになりました。半年がたって、小学校に入学してから、また空手のし合に勝ち、学校でもリレーのせん手にえらばれました。すると同じ保育園だった男の子から、「のんちゃんは、いいな」って、言われました。私は「なぜ勝てるのかって、かんたんな事だよ」と言いました。私が、「お寺に行って、ごじゅうしょく様に、南無妙法蓮華経と、お題目を唱えてもらって、自分も南無妙法蓮経と祈れば、勝てるし、えらばれるよ」と教えてあげました。

しかし、小学校二年生の頃から、少しお寺に行く回数がへってきました。三年生になると私は、新しく来た男の先生のクラスになりました。家庭訪問で、その先生が家に来た時、母はお仏だんのへやに通して話を聞いていました。でも、学校の様子のことは、あまり話さないで、自分は、創価学会の役しょくを持っていると話し始めたので、母はさい初は、「良く分かりませんね」と言っていましたが、先生が、どこのしぶかと聞いてきたので、母は「常陸大宮の行道寺というお寺です」と答えました。すると、先生は、「お寺か」と言いました。私も、となりのへやで聞いていて「お寺かってなによ」と言いました。すると、「ああ」なんて言いながら、話をそらして帰って行きました。

それから1カ月ぐらいすると、担任のいやがらせが始まりました。自分が生徒の名前シールを作りまちがえたらしく、くしゃくしゃにして私の方に投げてきました。私がさっとよけたら、後ろの男の子に当たってしまったので、二度目に投なげてきた時は、しっかりとキャッチしたら、もう投げてはきませんでした。

しかしそれからも、いろいろないやがらせがありましたが、半年がたったころ、行道寺に2代目の松尾ごじゅうしょく様が来ました。2週間くらいして、お寺のそうじと、お会式のさくらのお花作りに行った時に、ごじゅうしょく様と、こう頭さんに、私の担任の話をしました。しんけんに話を聞いて下さいました。

お会式が終わって、2週間がすぎた頃ごじゅうしょく様とこう頭さんが家にお経参りに来てくれました。その時に、私の担任のいやがらせが、エスカレートしてきたと相談したところ、私の授業さんかん日に、ごじゅうしょく様と、こう頭さんが、私のクラスを見に来て下さいました。それからは、私に対するいやがらせは、ぴたっとなくなりました。私もその時から自分なりにお寺に行って、そして家でも毎朝、毎ばん、ごん行をしてがんばって行きたいと思いました。

同じクラスの友達の家は、何回か遊びに行きましたが、学会でした。なかなかしゃくぶくはできないけれど、お題目を唱えてがんばって行きたいと思います。学校には、ほかにも、たくさんの学会の子がいるけれど、リレーでも、勉強でも負けないように、がんばりたい。それは、私は正しい信心を法華こうとして、しているので、まちがった信心をしている人に負たくないからです。終わり。


◇持経寺支部 R.S.(6年生)

私は、ご本尊様のある家に生まれ、小さい頃は両親に大石寺や持経寺に、連れて行ってもらい、遊びにも沢山連れて行ってもらっていました。でも、保育園の年長組の頃からは、お母さんとまだ赤ちゃんだった弟との3人だけで、行くようになりました。

持経寺でのお講や唱題会、少年部会などの行事には欠かさず、参詣しています。大石寺には、毎月一泊して、2回ご開扉を受けます。六壷で夕勤行をして、丑寅勤行にも必ず参加して、折伏の事をご祈念しています。

そしてもう一つ続けてやっている事があります。それは典礼院に行って、お詣りをする事です。三師塔のお詣りと、ご歴代猊下様お一人お一人のお墓にお線香をお供えし、題目三唱させて頂いています。夏はすごく暑くて、冬は手が凍りそうになります。大雨の日もありました。でも、ご歴代猊下様が、正しくこの信心を守り続けて下さったから、こうして正しい大聖人様の信心ができるのだと思うと、心をこめてお詣りができます。これからもずっと続けていきたいと思います。

私は、一年生の頃から朝夕の勤行を欠かした事がありません。勤行ができるようになったきっかけは、鼓笛隊でやる2時間の唱題でした。その唱題をやっているうちに、「朝夕の勤行は毎日やらなければ、いけないんだ」と思い、欠かさずできるようになりました。今では、3年前から行き始めた、家の近くにある妙光寺の朝詣りにも、欠かさず参詣させて頂いています。

初めて鼓笛隊コンクールに参加させて頂き、猊下様の前で演奏させて頂く事ができて、その頃から、信心の事や鼓笛隊の事を人に話せるようになりました。学校の先生にも話すと、「がんばっているんだね」「応援しているよ」と言われ、すごく嬉しかったし、話して良かったと思いました。

五年生の時、鼓笛隊コンクールと学校行事の林間学校が重なりました。でも、信心の方を選びました。学校の行事や習い事と、お寺の行事が重なってしまう事が他にも沢山ありましたが、いつも信心の方を選んできました。お寺の行事が私の中で、いつも一番になってしまうからです。

6月15日、東日本決起大会が行われました。私は鼓笛隊として参加し、精一杯演奏させて頂く事ができました。そして、この決起大会で私の願いが叶いました。それは、お父さんが参加できた事です。真剣に唱題していくと必ずその願いは叶えられる事を、私は体験する事ができました。

私のお父さんは、むかし信心に反対して、「日蓮正宗をやめないと出て行く」と言い、本当に家を出て行ってしまいました。私は、お父さんが家にいない事で、クラスの男の子に嫌な事を言われた事もありました。でも今、六年生になり、もし一緒にお父さんと住んでいたら、鼓笛隊を続ける事ができただろうか?遊びに行く方が楽しくなって、信心を怠けていたかも知れない。それに、何よりお父さんに信心の話をする事なんてなかったと思います。お父さんがいなくて、寂しい時もあったけど、今信心中心の生活ができる事に感謝しています。

いよいよ来年は『立正安国論』正義顕揚750年の大事な年です。私は必ずお父さんと一緒に登山できるように、ご祈念しています。そして、貯めていたお年玉全部を、ご供養させて頂きたいと思っています。


◇持経寺支部 R.N.(3年生)

ぼくは、小学2年生の終わりにこ笛たいに入りました。お山でこ笛たいを見た時、ぼくもやりたいなと思いました。ぼくは、2才から将棋をはじめました。目ひょうはプロ棋士になることです。だから、こ笛たいに入ると将棋ができないのは、いやだなと思いました。

ぼくは、ようち園の時から、毎月ご登山に行って、朝夕のごん行と広布唱題会、おこうと学校が休みの日は早朝ごん行もがんばりました。だけど2年生の時にお母さんが、「プロ棋士になりたければ、こ笛をやりなさい。こ笛たいに入ったら、ご本ぞん様にいのって、どんなことでもがんばれるようになるから」と言いました。それから、こ笛たいに入るために、毎日30分い上のお題目を唱えました。

お母さんに、「こう福寺でこ笛の練習をさせてもらうのだから、ご供養をするように」と言われました。ぼくは、お年玉を全部お母さんに、あずけました。練習の前の日に、ご供養をふくろに入れて、お題目三唱をしてもって行きます。

2年生の時に、覚正寺に卒たい生の出雲のお兄ちゃんと中野のお兄ちゃんが来てくれました。太こを教えてくれたり、えんそうをしてくれました。とても楽しかったです。早くこ笛たいに入りたいなと思いました。

はじめて、こ笛に行った時、木村先生がものすごくおこっていました。でも、しかられてもだれもなきませんでした。そして、みんなすごいえんそうをしていました。ぼくは、ワクワクしました。決起大会は、かっこよかったです。

ぼくは、こ笛たいに入ってから、連らく帳も、毎朝きちんと書けるようになりました。授業さんかん日に、お楽しみ会で司会もやりました。勉強も楽しくなりました。おばあちゃんも、「瑠汰はこ笛に入ったら急にしっかりしてきたね」とほめてくれました。すごくうれしかったです。

ぼくは、4月11日の僧ぞくしどう会の日に、足にけがをしました。イボがつぶれて、ものすごく血が出ました。教頭先生が一生けん命、血が止まるようにおさえてくれました。しどう会に行くので、お母さんがむかえに来ました。でも、先生は病院に行くように言いました。病院の先生は、「これは、ただのイボではありません」と言いました。ぼくは、足がいたかったけれど、しどう会に行きました。しどう会で、真けんなお題目が大切だと聞いたので、ぼくも真けんにお題目を唱えようと思いました。

次の日の朝、お母さんがご本ぞん様の前で、ぼくが、ガンかもしれないと話してくれました。そして、「真けんにお題目を唱えなさい」と言いました。ぼくは、とてもこわかったです。そして、こう福寺にこ笛の練習に行きました。ピアニカをふいている時、『ぼくは、ぜっ対に死なないぞ』と、勇気がわいてきました。

次の日、病院の先生が大きい声で、「お母さん、これは大じょうぶです」と言いました。ぼくは、少しほっとしました。4月18日にべつの大きな病院に行きました。先生は、「どこも問題ありません」と言いました。ぼくは、『やった!』と思いました。そして、なみだが出ました。ぼくは、ご本ぞん様に感しゃしました。

広布すい進会の発表が終わってから、すぐにご登山に行きました。そして、ほんもんかいだんの大ご本ぞん様にお礼を言いました。帰ってから、お父さんに、信心していないおじいちゃんの所につれて行ってもらいました。ぼくは、「いっしょに、大ご本ぞん様とげいか様に会いに行こう」と君いました。おじいちゃんは、わらっていました。ぼくは、ぜっ対に、みんなでご登山できるようにご本ぞん様におねがいしています。ご住しょく様が、ぼくの原こうをご宝ぜんにお供えしていのって下さいました。早朝ごん行の時に、ごほうびを下さいました。とてもうれしかったです。

ぼくは、今やるべき事がきちんとやれるようになりたいです。にがてな事も、ご本ぞん様にいのってがんばれるようになりたいです。これからも、こ笛たいをがんばります。




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