◇7万5千名大結集推進の方途 記念局副委員長・柳沢喜惣次
皆さん、こんにちは。私に与えられた課題は「7万5千名大結集総会推進の方途」であります。
大結集の意義
今年は、具体的に実現する年であります。そこで皆さん方の頭の中に、7月26日午前10時・7万5千名の大結集がイメージとして頭に描けるかどうかであります。大半の方が地涌六万大総会のことを思い出すでしょうが、それでは1万5千名足りないですね。このプラス1万5千名が頭に描けなければだめです。六万の前に三万名総会が行われ、そのときは以前の大客殿の前の広場に、1万5千名が入りました。その分が今回はプラスということですね。会場のことは記念局で十二分に勘案されていますが、そうやって考えていきますと、自分自身の頭の中にイメージが涌いてくると思います。今は「ああ、そんなものか」ぐらいで終わっていては本気になれませんからね。もっと現実的に、具体的に考えていただきたいというのが、私の願いであります。
この総会について御法主日如上人猊下は、“広布の歴史を築く新たな地涌の菩薩の大出陣式である”との仰せです。広布の歴史を築くということは、世界広布です。法華講は昔から、広宣流布ということをやかましく教えられています。自分だけでは広宣流布はできませんし、そこに、法統相続がやかましく言われるのです。さらに折伏をして、折伏された者もまた法統相続していく。それがずっと続いて来たのが広布の歴史です。これが御法主上人猊下の御指南と私は拝するものであります。
このイメージが涌かないのは、今日、ここにいるほとんどの方は昭和に入ってきてからの信心でしょう。また、かつてのあの組織では広宣流布の歴史は教えません。広宣流布という言葉だけを振り回して使っているが、その体がどういうことかは、判らないから触れていないのです。
また地涌の菩薩の出陣式というのには、地涌の菩薩と自分たちとどういう関係があるのかをよく理解しなければだめです。地涌の菩薩が末法に出てくるということと、それが、あなた方一人ひとりだということ。「我々はそんな立派な菩薩ではない」と思われるかも知れませんが、そんなことは判っています、また立派だとは申していません。その義は何かと言うと、末法において戒壇の大御本尊様に南無妙法蓮華経を唱えているということが大事なんです。『涌出品』で、お釈迦様の本に出てくる地涌の菩薩は、南無妙法蓮華経を唱えながら出てきたのではありません。しかし、釈尊滅後の末法の弘教には密接な関係があります。予証のごとく末法に、南無妙法蓮華経を唱える者が一杯出てくるということ。それがみんな日蓮大聖人様からの血脈嗣法の御法主上人猊下の流類(るるい)なんです。だから、今まで自分の頭の中に描いてきたイメージは、全部捨てなければだめです。
世の中の変化と安国論
次に50万総登山の問題です。今、世界は御法主上人猊下の御指南の通り、謗法の害毒により混乱しています。餓鬼道によって極度に混乱しているということ。そういう現状を思えば、折伏を急がなければだめです。
アメリカに端を発した金融不況、経済恐慌の問題でありますが、アジアよりもヨーロッパの被害がひどいのです。なぜかというと、あちらの国々の人は、金がさらにまた金を生むような考え方や生活をしているようです。つまり株です。アジアはかつては、利殖のために株などやって来ませんでしたが、近年は日経新聞の株の欄をOLまでが見ている。その辺からおかしくなってしまったんですが、これはごくごく最近の問題です。ところが欧米は筋金入りの資本主義で、昔から金が金を生むと。そのためには、日本が最も大事にする義理、人情よりはやはり金だと。そういうところから、世の中は混乱しています。
最近の報道を見ていますと、日本も3年ぐらい先になったら景気が回復すると言っている人もいますが、本当だろうか。信心の目で見ていますと、あれをまともに聞いていたらだめですよということです。なぜかと言うと、謗法にはこの大変化が判らないのです。我々は既に750年も前から、『立正安国論』によって教わるごとく、現状は謗法の報(むく)いですから、3年やそこらで立ち直れるような安易な問題ではありません。そこに折伏をし、題目を唱えさせる。そうすれば現状が正しく判るようになる、ということですね。そこに、大御本尊様の功徳力を今、世界の人々がみんな待っているんです。
ところが、信心していながら、そうは思えない人もいる。それは、自分も謗法と変わらないような考えで、困ったときには行政が面倒を見ていくんだと思っている。行政は面倒を見切れないのに、それでも行政に何とかしろという考えです。いつからこんなに愚(おろ)かになってしまったのかというと、敗戦後からの邪説です。このことは、一人ひとりが真剣に考えていかなければだめですよ。
そこで折伏は、今までのような考え方をまず捨てること。大聖人様は、臆病な心、また欲深い心、疑い深い心、さらにまた物を憶えようとしない心の4つを挙げておられます。そこに臆病故に最終的な責任を怖くてとらないで、他人(ひと)にやらせて上手に立ち回ろうとするその心を捨てて、真剣に御題目を唱えて折伏に励み、信心の強盛な人々と力を合わせて、支部の中を一変させていくことが大事です。
若手の育成
そうなっていくところに、若い方々がまた、出てこなければだめです。今の中学生・高校生を、まだ子供ぐらいに思っているかもしれませんが、彼らは3年もすれば青年になって、戦力です。見ていますと、今一番折伏しているのは昔からの60代、70代の方々です。入信してくるのも、その因縁ですから60代か70代。なぜ若い人たちがもっと出てこないかというと、私は年輩者に信心の魅力がないからではないかと思えるのです。
そこで、具体的に何をすべきかというと、一つ目には、支部内の組織と人間関係を総点検してみることですね。支部の一人ひとりに至るまで総点検をして、御法主上人猊下の御心を「こういうことを仰せられているんだよ」と伝えていくことが大事ですね。
二つ目には、利益を感ずる信心に励ませることです。拝んでいて利益を感じない、これは問題ですね。これだから子供にも言えないんですよ。ましてや他人に言えない。
そして三つ目には、御報恩の御講に連れ出す、また折伏に一緒に連れて行く。仏様はただ歩かせません。いろいろな姿が目に入ります。このことを『白米一俵御書』には、「まことの道は世間の事法にて候」(御書1545ページ)と仰せです。それを10年も20年もやってご覧なさい、びっくりするほど利口になります。昔から、旅すること、歩くことでいろいろな姿を目にし、それによって因果関係がだんだん、自分なりに判ってきます。
そうして、「50万総登山の達成」、「7万5千名大結集総会で広布への出陣」、「全講員が勤行唱題と折伏の実践」この三項目を毎日の朝の勤行のときに御祈念していくと、知らず知らずの間に信心のイメージが正しく涌いてきます。みんなは何かしら頭の中に、信心以外のものを自分なりに持っているんです。だけど、信心の上のイメージを正しく描けなければだめです。自分の頭の中に描いている形の中に、他人を傷つけたり、自分も愚癡(ぐち)の中に落ち込んでいたり、みんな頭の中で考えているだけだからです。考えというより、自然とそれが身体から離れない。折伏をしていきますと、そういうものをいつの間にやら捨てられて、慈念の心になっていくということであります。
以上。がんばってまいりましょう。