大白法

平成21年4月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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4月1日から「750億遍唱題行」開始
7万5千名大結集総会の完全大勝利を御祈念


御法主日如上人猊下の御指南により、国内の法華講員約15万人が一人1日5千遍(2時間)の唱題を百日間行うこととなった。御命題完結、7万5千名大結集総会の大成功を期すためで、全国の各末寺でも時間を定めて実行される。

既に毎日2時間、3時間と唱題を行うことが日課となっている人もあろう。しかし、これまで時間を定めてやっていなかった者が、一日の中から時間を2時間生み出して百日間やり遂げるためには、まず先に唱題の時間を決め、残りで他のことをやり切るため、現在の生活を見直さなければならないことが必ず出てくる。助走として4月1日を前に始めた人たちも、生活時間の様々な組み替えをしたり、これまで時間をかけて行っていたことの中から不必要な部分を切り捨てたり、合理化したりと、工夫を迫られたことであろう。

唱題行が一日の中心になると、生活ががらりと変わる。時間の使い方だけではない。心が変わり、何事に取り組むにもその気になれる。日一日と家庭の中も変わる。一番の変化は、今まで曖昧だった誓願が、自らの中でくっきりと際立つこと。自らが唱えた御題目によって菩提心が育まれ、救うべき人が自分にはいることを思い出し、一日一日がいかに大事だったかを思い出す。自身の立てた折伏の誓願であり、御命題達成に邁進するとの誓いを思い出すのである。

指導教師のもと、講中挙げての唱題行である。この尊い御指南により、講中が大きく変わる。全体で励んでいこうという流れに身を置ける中、人間関係までも変わり、共に励む仲間やよきライバルが出てくる。

御法主上人猊下は、本年のように未曽有の記念事業が執り行われる時を、「こうした時には内外ともに必ず三障四魔をはじめ、あらゆる困難が我々の行く手を阻みます」(大白法761号)と断言せられ、己の欲望に負けて信心が疎(おろそ)かになったり、物事の道理が判らなくなって正しい信心を妨(さまた)げられたり、身近な人や権力者によって妨げられるようなことが出てくると御指南あそばされている。

他にも、組織の要として励んでいる人に病や家庭の事情といったことで手かせ足かせをかけたり、その動揺をもって講中に揺さぶりをかけよう等と、魔も必死である。そして、この障魔の起こってくるのが下種仏法である。

そこに御法主上人猊下が、「障魔が競い起きたときこそ、大難四力度、小難数を知れず、あらゆる難を身をもって乗りきられた大聖人の御一代の御化導を拝し、我らもまた、いかなる困難・障礙にも負けず、強盛に信心を貫きとおす覚悟を一人ひとりがしっかりと持つことが肝要」(同)と仰せのように、750億遍の唱題の功徳をもってあらゆる障魔を打ち破り、あと4カ月後に迫った7万5千名大結集総会の大成功をはじめ全講員による記念支部総登山、折伏誓願達成を推し進めていこう。



海外リポート
海外信徒総登山会に向けて支部結成(シンガポール)、海外部長指導会(台湾)


今、海外の全僧俗は、本年予定されている年間5回の総登山により各回4千名の結集で2万名の大結集総会を成功させるため、それぞれの国の登山目標の達成を期して日夜精進している。


●シンガポール法華講開妙院支部結成式

3月22日、シンガポールの開妙院において、創立1周年記念法要並びに法華講開妙院支部結成式が、午前10時半と午後3時からの2回に分けて盛大に行われた。これには、海外部長・漆畑行雄御尊師が出席されたほか、近隣の国々より御僧侶が御出席。また、シンガポール各地より1,900名の信徒が参集した。

法要は、初めに開妙院主管・滝川信雅御尊師の導師により献膳・読経・唱題と如法に奉修された。

式の部では、漆畑海外部長より指導教師である滝川主管に支部組織許可書が伝達され、さらに認証状と激励文が支部役員に手渡された。続いて滝川主管よりすべての役員に対して任命状が授与され、同時に法人役員の紹介が行われた。その後、コック・シャン・チュー、ヘルマン・リー・ヤン・リムの両副講頭により制作された開妙院支部結成に至るまでの経過をまとめたビデオが放映された。

ここで漆畑海外部長より祝辞が述べられた。その中で海外部長は法華講の名称の由来に因(ちな)み、「大聖人の仏法の上から、また日蓮正宗の歴史の上からもまことに意義深い『立正安国論』正義顕揚750年の記念すべき本年、伝統ある法華講衆の一員に名を連ねた皆様は、シンガポール日蓮正宗の広布の歴史の上に、また一人ひとりの信心の歴史の上に、まことに重要な深い意義を持つことになる。その深い意義を本日の喜びと共にしっかりと胸に刻み、今後は法華講衆の自覚も新たに正法の護持弘通に精進していただきたい(趣意)」と指導・激励された。

引き続き、シャー・ケン・ヒャン講頭より、力強い決意が述べられた後、指導教師である滝川主管より丁重な謝辞と講員を激励する挨拶が述べられ、参加した信徒一同はさらなる躍進を誓い合い、法要の一切が終了した。

シンガポールにおいては、台湾では年間5回の海外信徒総登山において、各500名の参加により総勢2,500名登山の誓願を立て、その準備が着々と進められており、このたの法華講組織の結成を機にシンガポール僧俗のさらなる躍進が期待される。


●台湾本興院で海外部長による法華講役員対象の指導会

3月14日午前10時から、台湾台北市・本興院で、海外部長・漆畑行雄御尊師による海外部長指導会が開催された。

本年、『立正安国論』正義顕揚750年を記念し、海外信徒は年間5回の総登山が計画されており、各回4千名の参加で総勢2万名の大結集を予定している。この指導会は、その意義を再確認すべく開催され、併せて本年1月より新たに認証を受けた法華講役員への激励指導が行われた。これには、台湾の全僧侶と組長以上の法華講役員精鋭1,025名が台湾全土から参集した。

指導会は、二部構成で行われた。第一部は初めに林徳晃講頭、海外部主任・芝頂恩御尊師よりそれぞれ挨拶があった後、漆畑海外部長が登壇された。その中で海外部長は、本年年頭の御法主日如上人猊下の「新年の辞」を引かれ、「7万5千名大結集の御指南はそのまま海外信徒2万名の大結集登山にも当てはまり、総本山に集う2万名の海外信徒は皆、今後、広布の闘いの中核となるべき人材となる方々である」と指導、「台湾法華講の皆様には、世界各国の法華講の先駆けとして、今年の登山結集に大きな力を発揮していただきたい」と激励された。

最後に、本興院主管・石橋頂道御尊師より丁重な謝辞と登山に向けての決意が述べられ、題目三唱をもって第一部を終了した。漆畑海外部長一行は第一部終了後に退席し、帰国された。

第二部は、初めに本年総本山御誕生会に参加した2名の信徒より登山の感想が述べられ、引き続き日本国内の決起大会の模様をビデオで鑑賞した。次いで、新たに法華講役員となった3名より力強い決意が披歴され、「広布の青嵐(かぜ)」を全員で合唱した。最後に、台湾法華講指導教師である石橋主管より、新役員に対して指導・激励があり、指導会の一切が終了した。

台湾では年間5回の海外信徒総登山において、各回1千名、計5千名の登山が無事故で達成できるよう誓願を立て、僧俗が総力を結集して準備を進めている。なお、この指導会に先立ち13日には、本興院において台湾現地法人の定例理事会が漆畑海外部長御出席のもと行われた。



立正安国論記念展 展示資料(3)
天璋院篤姫と本宗信仰との関わりについて
(時々興記留/妙光寺蔵、天璋院薨去手向けの詠/霑妙寺蔵)


徳川13代将軍家定の夫人であった天璋院篤姫と、本宗信仰との関わりについて、これまで語られることは少なかったが、この記念展では関係資料が集められている。

篤姫関係で最も重要な資料は、第51世日英上人が造立された遠信坊板御本尊裏書(総本山蔵)である。そこには嘉永6(1853)年頃帰依した薩摩藩主島津斉彬公と、本宗信仰との関わりが記されている―斉彬公は養女篤姫を将軍家に輿入(こしい)れする願望を懐いていた。その祈念を日英上人に願ったが、見事にこれが成就した。そこで金子100両の御礼御供養が斉彬公より下賜された。日英上人はこの御供養を元に、遠信坊を再々興したという謂われが、裏書きに記された内容である。

間もなく斉彬公は薨去(こうきょ)するが、時は移り、日英上人が説法稿本『時々興記留』を記された万延元(1860)年の頃、天璋院が大聖人の仏法を求める姿勢は切実で真剣なものがあった。輿入れの後、間もなく夫君家定公を喪った上、江戸城の炎上があった。さらに安政の大獄、桜田門外の変と、世情の混乱も続いていた。

日英上人はこの年3月、天璋院より天下安穏の祈念をして欲しいとの願いを受けられた。そこで、3月14日より51日間、朝昼夜に分けて、日に12時間の唱題を行いつつ祈念したところ、次第に世情も平穏になった。そこで天璋院より懇(ねんご)ろなる御礼の御供養を賜ったというのが、『時々興起留』にうかがえる内容である。天璋院の大石寺信仰を、時の御法主上人が証した史料である。

文久3(1863)年に、14代将軍家茂が初めて入洛した際には、天璋院は母として、家茂の信心を励ましつつ送った書状も伝えられ(天璋院書状徳川家茂宛)、天璋院の信心の深まりがうかがえる。またこの頃、本宗に深く帰依していた人々として、斉彬公の大叔父に当たる八戸南部藩主信順公や、江戸薩摩藩邸大奥を取り仕切る小野嶋(おのしま)等もいて、天璋院の入信とその後の信心に、様々な形で影響を与えたであろう。実際小野嶋は、天璋院と常泉寺におられた日英上人との間を、取り持つ役割を果たしていた。

その後、天璋院は江戸城の無血開城に尽力したが、世上は明治維新を迎える。それとともに天璋院も表舞台から去ることになった。明治になってからは、信仰の動静をうかがう資料がこれまで見当たらないのが残念である。

明治16年11月20日、天璋院は49歳の生涯を終えたが、この時、第52世日霑上人が追悼の歌を詠んで手向(たむ)けられた。

「雪霜に 操たゆまぬ 松が枝の あはれ玉ちる 志賀の浦かぜ (妙道)」
時代が変わってもなお宗門人の心に、天璋院の清廉な信仰の姿が灯となって、燃え続けていたことは確かであろう。


※妙音注:この展示資料は7月中旬に行われる展示物の入れ替え作業までの期間限定で鑑賞できます。


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