大白法

平成21年7月16日号


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立正安国論正義顕揚750年記念大法要より


御法主日如上人猊下御説法 立正安国論正義顕揚750年記念大法要の砌

 宗祖日蓮大聖人、『当体義抄』にのたまわく、

所詮(しょせん)妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是(これ)なり。

南岳釈して云はく「一切衆生、法身の蔵(ぞう)を具足して、仏と一にして異なり有ること無し。是の故に法華に云はく、父母所生の清浄の常の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)、亦復(またまた)是くの如し」文。

又云はく「問うて云はく、何れの経の中に眼等の諸根を説いて、名づけて如来と為(す)るや。答へて云はく、大強精進経の中に衆生と如来と同共(どうぐ)一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文。

文は他経に有りと雖も、下文(げもん)顕はれ已(お)はれば通じて引用することを得るなり。

正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居(しょご)・身土・色心・倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能(くのう)なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。

(御書694ページ)

(題目三唱)


 本日は、立正安国論正義顕揚750年記念大法要に当たり、総監・八木日照能化をはじめ宗内教師各位、ならびに法華講総講頭・柳沢喜惣次をはじめ信徒代表の各位、海外信徒代表各位、寺族代表各位には御多用のところを、わざわざ御登山御参詣され、かくも厳粛に大法要がが奉修されまして、まことに有り難く、厚く御礼を申し上げます。つきましては、今夕はただいま拝読いたしました『当体義抄』の御文について少々申し上げたいと思います。

 『当体義抄』は文永10年(1273)年、大聖人御歳52歳の時、佐渡配流中に一谷(いちのさわ)で著され、最蓮房へ与えられた御書であります。

 この前年、すなわち文永9年には「人本尊開顕の書」と言われる『開目抄』が著され、この年、文永10年には「法本尊開顕の書」と言われる『観心本尊抄』をはじめ『諸法実相抄』『如説修行抄』『顕仏未来記』等、重要御書が著されております。そうしたなかで、当抄は大御本尊を信ずる者の証得を明かされた、まことに重要な御書であり、日寛上人の『当体義抄文段』には、「相伝に云わく、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり」(文段62ページ)と仰せられいます。すなわち、『開目抄』は五重相対をもって一代諸経の勝劣浅深を判ずるか故に「教」の重に、『観心本尊抄』は受得即観心の義を明かす故に「行」の重に、当抄は三大秘法の御本尊を受持するこによって当体蓮華を証得し、我が身が即、妙法の当体と顕れることを明かされている故に「証」の重に配されているのであります。

 当体の梗概(こうがい)を申し上げれば、当抄は大きく二に分かれ、初めに所証の法を明かし、次に能証の人(にん)を明かされております。次に能証の人を明かされるなか、初めに久遠元初における如来の自証化他を明かし、次に如来在世の証得を明かし、次に末法衆生の証得を明かされ、妙法五字は末法流布の大白法であると説かれております。そのなかで本日拝読した御文は、初めの所証の法たる妙法蓮華経を明かされるなかの、信受に約すなかの一文であります。


 では、本文に入ります。初めに「所詮(しょせん)妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那(だんな)等の父母所生の肉身是(これ)なり」と仰せであります。この御文は、法華経を信ずる者の当体は、そのまま妙法蓮華経なることを示されたもので、実に当抄全体の中心であり、当抄を『当体義抄』と題し給う深意はこの御文によって明らかであります。すなわち、今日、我らが如き法華経を信ずる一惑未断の荒凡夫たる父母所生の肉身が、そのまま妙法蓮華経の当体であると仰せられているのであります。

 しかし、前段のおいて法体に約し、信と不信と簡(えら)ばず、一切衆生をはじめ十界の依正を通じて妙法蓮華経の当体であると仰せでありますが、これは総じての仰せであり、別して申せば、今この御文に「法華経を信ずる」と仰せのように、信受に約して不信謗法の類を簡び捨て、ただ妙法信受の人をもって妙法の当体とすると仰せられいるのであります。したがって、当抄を拝するに当たっては、「法華経を信ずる日蓮が弟子檀那(だんな)等」の文意をよくよく拝し奉ることが肝要であります。

 また、ここで「法華経を信ずる」と仰せられた法華経とは、一往は文上の一部八巻二十八品の法華経を指しますが、再往、大聖人の御正意は文上の法華経ではなく、法華経文底独一本門の妙法蓮華経にして、三大秘法の随一、大御本尊のことであります。これを「法華経を信ずる」と仰せられているのであります。すなわち、信受に約して三大秘法の大御本尊を信ずる大聖人の弟子檀那は、そのまま妙法蓮華経の当体であるとの甚深の意を御教示あそばされているのであります。

 したがって、その傍証として、次に南岳大師の『法華経安楽行義』を引かれ「南岳釈して云はく『一切衆生、法身の蔵(ぞう)を具足して、仏と一にして異なり有ること無し。是の故に法華に云はく、父母所生の清浄の常の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)、亦復(またまた)是くの如し』文」と仰せあそばされているのであります。

 「法身の蔵」とは、無作本有の仏体たる本法法身の秘密の蔵のことで、一切衆生の当体には、元より無作本有の仏体たる本法法身の秘密蔵を具足して、仏と一体不二にして少しも異なることがないことを、法華経には「父母所生の清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意、亦復是くの如し」と説かれていると仰せられているのであります。つまり、我らの一身の当体に具するところの眼耳鼻舌身意の六根が、直ちに無作本有の実仏と変わりないと仰せられているわけであります。なお、この『安楽行義』は『大正蔵経』等に収録されており、ここに示された御文とは少々異なっていて、異本かあるいは意訳されたものと拝されますが、今は記載の御文に従って申し上げております。

 続いて、同じく『安樂行儀』の文を挙げて、「また云はく『問うて云はく、何(いず)れの経の中に眼等の諸根を説いて、名づけて如来と為(す)るや。答へて云はく、大強(だいごう)精進経の中に衆生と如来と同共(どうぐ)一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す』文」と仰せであります。

 大強精進経の「衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なる妙法蓮華経と称す」との文は、仏界即九界、九界即仏界を述べたもので、「同共一法身」とは「同じく共に一法身なり」と読み、九界の衆生も仏も同じく共に一つの真理を体する同一体にして、清浄微妙であって比類なきをもって妙法蓮華経と称するとの意であります。

 ただし、本日拝読いたしました『当体義抄』の御文の前には、「大強精進経の同共の二字に習ひ相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。不同共は念仏者等なり、仏性・法身如来に背く故に妙経の体に非ず」(御書694ページ)とお示しのように、妙法蓮華経の当体となるためには法華経に同共して信ずることが肝要であって、理の上ではたしかに衆生は無作本有の仏体たる本法法身の秘密蔵を具足して、仏と一体不二にして異なることはありませんが、しかし、これはあくまでも理の上の法相であって、一迷未断の凡夫は法華経に同共して信じなければ、仏界即九界、九界即仏界の極理も事の上には顕れてこないのであります。つまり、法華経を信じて初めて、我ら衆生も妙法蓮華経の当体となるのであります。

 もちろん、ここで「法華経」と仰せられた元意は、法華経本門寿量品文底独一本門の妙法蓮華経にして三大秘法の随一、大御本尊のことであります。なお、大強精進経については、諸経目録のなかにはこの経名はありませんが、中国・劉栄時代の求那跋陀羅(ぐなばっだら)訳、央掘魔羅(おうくつまら)経4巻のことではないかと思われており、『法華経安楽行義』に引用された御文は、その央掘魔羅経巻三の最初の偈頌(げじゅう)と言われております。しかし、ここでは御文のまま、大強精進経のままといたします。

 次に「文は他経に有りと雖も、下文(げもん)顕はれ已(お)はれば通じて引用することを得るなり」とは、この御文意は、大強精進経は「他経」すなわち法華経以前の経ではあるが、これら他経は法華実教のための方便教であり、法華経が説かれれば、その妙旨によって引用されることは差し支えないとの意であります。例えば『立正安国論』等において、爾前諸経の薬師経、大集経、仁王経、金光明経等を引いて、謗法・謗国を証せられているのと同義であります。


 次に「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」と仰せでありますが、初めの「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は」との御文は妙因を明かし、次の「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」の妙果を明かされています。

 このうち「正直に方便を捨て」とありますが、「正直」とは権を権と知り、実を実と知り、迹を迹と知り、本を本と知り、脱を脱と知り、種を種と知ることであり、方便たる権を廃し捨てることであります。方便品の「正直捨方便」と同じ意であります。

 「但法華経を信じ」とは、三大秘法の大御本尊を信ずることであります。すなわち、次下(つぎしも)の文に「本門寿量の当体蓮華の仏」とあり、この御文から立ち還ってこれを見るとき、つぶさには、ただ法華経の本門寿量品の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱える人という意であります。

 次に妙果を示されて、「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」と仰せであります。

 「煩悩」とは見思・塵沙・無明の三惑、「業」とは五逆・十悪・四重等、「苦」とは苦果の依身。五陰。十二入等であります。この三つはお互いに因果となってよく通づる故に「三道」と言うのであります。この三道が文底下種の南無妙法蓮華経を信づることによって、凡智では到底、計り知ることができない文底秘沈の妙法の力用によって、法身・般若・解脱の三徳と転づると仰せであります。「法身」とは法身如来、「般若」とは報身如来、「解脱」とは応身如来、すなわち仏が具える三種の徳相のことで、つぶさには文底秘沈の無作三身を指すのであります。

 「転づる」とは、その体を改めず、ただその相を変ずることであります。すなわち、『本尊供養御書』に、「譬へば金粟(こんぞく)王と申せし国王は沙(いさご)を金(こがね)となし、釈摩男(しゃくまなん)と申せし人は石を珠と成し給ふ。玉泉に入りぬる木は瑠璃(るり)と成る。大海に入りぬる水は皆鹹(しおはゆ)し。須弥山に近づく鳥は金色となるなり。阿伽陀薬(あかだやく)は毒を薬となす。法華経の不思議も又是くの如し。凡夫を仏に成し給ふ」(同1054ページ)との仰せの如くであります。

 つまり一念三千の理法によれば、この三道と三徳は衆生の一念に具わり、本来、一体不二のものであります。すなわち三道によって三徳があり、三道を離れて三徳はなく、三道の本体は三徳でありますが、現実に三徳と現れないだけであり、三道を断尽くして初めて三徳を現ずるのでなく、文底下種の妙法に値い、正境を縁として、三道に転じて三徳を成ずることができるのであります。

 「三観・三諦即一心の顕はれ」とは、「三諦」とは諸法の真如実相の理を空仮中の三面から示したものであります。「三観」とは衆生が一切諸法を即、三諦なりと観ずること。この二者は能観・所観の関係にあり、「三諦」は境、「三観」は智にして、ただ法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うるときは、本地難思の境智の妙法を即、我ら一心の悟り顕し、本門寿量の当体の蓮華仏を顕すことができるのであります。

 これは、像法時代の天台は一身三観とて、空仮中の三諦を同事に体得するに当たり、巳心のこれを観ることを説かれましたが、大聖人は正直に方便を捨て、信心をもって、つまり御本尊に題目を唱えることによって、三観・三諦も一心に顕る功徳を説かれているのであります。よって、日寛上人は『修禅寺決』の、「本門実証の時は無思無念にして三観を修す」(文段622ページ)の文を挙げて、これを、「本覚無作の一心三観と名づく」(同ページ)と仰せであります。

 「其の人の所住の処は寂光土なり」とは依正不二を明かされています。すなわち「其の人」とは三道即三徳の人を指し、正報に当たります。「所住の処」等とは依報を指し、なかんずく「所住之処」の四字は依報のなかの因を示し、「常寂光土」の四字は依報のなかの果を示されているのであります。つまり、十界の依正はすべて因果の二法を具ており、依正不二なるが故に、正報の因果が倶時であれば、したがってまた依報の因果も倶時であります。故に、『法華玄義』巻七の下に、「依正因果悉く是れ蓮華の法」(学林版玄義会本292ページ)と示されているのであります。

 このことは、『立正安国論』においても、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ(やぶ)壊れんや。国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無くんば身は是(これ)安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし」(御書250ページ)と仰せられおり、依正不二の原理によって、実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依すれば、その不可思議広大無辺なる功徳によって、その人の所住の処が宝土となると仰せられているのであります。

 つまり、当抄において「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」と仰せられた文意と、『立正安国論』に示された「立正安国」の文意と同義であります。されば我ら一同、『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節の年を迎えた今、仏国土実現を目指し、この御金言を心肝に染め、立正安国の御理想実現に向かって、一意専心、一層の精進を励むことが肝要であります。

 次に、「能居(のうご)・所居(しょご)・身土・色心・倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能(くのう)なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず」と仰せでありますが、これは先の文においては、広く「其の人の所住の処は常寂光土」と仰せられおり、今、文底の意によって無作三身の依正に約してこれを釈されているのであります。

 「能居(のうご)・所居(しょご)」の「能居」とは居住する主体で、仏・菩薩・二乗等のことであります。「所居」とは仏・菩薩・二乗等が住する国土を言い、能居は正報、所居は依報で、これは無作応身の依正を顕しているのであります。「身土」とは、「身」は衆生の一身、「土」はその身が存する場所・国土を言いまして、身は正報、土は依報となり、これは無作法身の依正を顕しております。「色心」とは色法と心法のことで、色法は肉体・物質など目に見えるもの、および外形的に顕されるものを言い、心法は心の用き、精神および一切法に内在する性質を言い、これは無作報身の依正を顕しているのであります。

 故に、『三世諸仏総勘文教相廃立』には、「十界を身と為(な)すは法身なり。十界を心と為すは報身なり。十界を形と為すは応身なり。十界の外に仏無し。仏の外に十界無く依正(えしょう)不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ」(同1413ページ)と仰せられているのであります。

 されば、「能居(のうご)・所居(しょご)・身土(しんど)・色心」云々の文を大聖人の御身に拝するとき、大聖人御自身は「能居」、大聖人の住する所は「所居」にて、能居・所居共に依正不二、一体なることを顕しているのであります。また、「身土」の「身」は大聖人の御身、大聖人の住する処は「土」にして一体不二であります。

 さらに、この文においては、事の一念三千の義が明かされているのであります。すなわち、能居の身の色心とは正報の十如是にして、衆生世間・五陰世間の二千となり、処居の土の色心とは依報の十如是にして国土世間の一千となり、合わせて三千を構成していることになるのであります。

 次に「倶体倶用の無作三身」とは、「倶体倶用」とは「体」は本体、「用」は働きのことであり、理体事用・体本用末などの体と用を差別した見地に立つのではなく、本体もその用きも、即にあらず不即あらず、融にあらず不融にあらず、同にあらず異にあらず、不可思議な関連において共に欠けることなく具わっていることを言うのであります。つまり、究竟不可思議の体用を倶体倶用と言い、「倶体倶用の無作三身」とは、要するに久遠元初の本仏である無作三身如来のことを指すのであります。

 すなわち、爾前迹門におきましては法身を体となし、報身・応身を用となす故に倶体倶用ではなく、まして色相荘厳の仏においては無作三身ではありません。本門の意は三身倶体、三身倶用なるが故に「倶体倶用」と言い、名字凡夫なるが故に無作三身であります。したがって「倶体倶用の無作三身」とは、日蓮大聖人様のことを指すことになるのであります。つまり、妙法信受の不思議な力用によって、我らもまた大聖人にならい、当体蓮華仏と顕れることができるのであります。

 したがって「本門寿量の当体蓮華の仏」とは、先の文においては広く「三観・三諦」と示されましたが、今は文底の意に約して「本門寿量」と仰せられおり、「当体」とは妙法の当体にして、すなわち「本門寿量の妙法蓮華経仏」のことを指すのであります。すなわち、これ本地難思境地冥合本有無作の当体蓮華仏のことにして、本有無作の当体蓮華仏とは本門の本尊のことであります。よって、我らは強盛なる妙法信受の力用によって、本門の本尊・本有無作の当体蓮華仏と顕れることができ、その所住の処は直ちに常寂光土となるのであります。

 よって。正報たる当体蓮華仏について、「本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那の中の事なり」と仰せられいるのであります。すなわち、本門寿量の当体蓮華仏とは、不信謗法の人のことにはあらず、ただこれ大聖人を久遠元初の御本仏と仰ぐ「日蓮が弟子檀那等の中の事」であると仰せられているのであります。

 さらに「是即ち法華の当体、自在神力の顕す所の功能なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず」と仰せられて、寿量の当体蓮華仏たるには大聖人の弟子檀那に限られていることであり、それは人法一箇の大御本尊に具わる一切に通達して自在無礙(むげ)なる力用、すなわち自在神力の顕す功徳によると仰せられ、勧誡の二門のうち、初めに勧門を示され、次いでこの御本尊への絶対の確信を持って無疑曰信(むぎわっしん)の信心に立ち、自行化他の信心に励むところに御本仏の自在神力の功徳を我が身に体現することができると仰せられ、「敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず」と、誡門を示されているのであります。


 以上、御文にしたがって縷々述べてまいりましたが、本日拝読の御文を要約して申し上げますれば、この御文は、初めに所証の法たる妙法蓮華経を明かすに、信受に約して明かされているところで、総じて言えば、一切衆生は等しく妙法蓮華経の当体であるといえども、別して言えば、爾前権経の輩(やから)、不信謗法の輩は当体蓮華仏とはならず、正直に爾前迹門の謗法を捨て、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人出世の本懐たる大御本尊を無二に信ずる弟子檀那こそ当体蓮華仏と言うのである。その功能は、生死の迷いを形作る煩惱・業・苦の三道が、仏の徳相たる法身・般若・解脱の三徳と転じ、三観・三諦が即、一身に顕れて、その人の所住の処は、直ちに常寂光の功力を顕すと仰せられているのであります。

 つまり、本門戒壇の大御本尊への信心決定をもって、即身成仏の本義と仏国土の実現がかなうと仰せられているのであります。

 故に、日寛上人は『文段』において「正直に方便を捨て但法華経を信じ」以下の御文を四義具足の信心に約して、「当に知るべし、四義具足する則(とき)は成仏疑い無きなり。『正直に方便を捨て但法華経を信じ』とは、是れ信力なり。『南無妙法蓮華経と唱ふる』とは、是れ行力なり。『法華の当体』とは、是れ法力なり。『自在神力』とは、是れ仏力なり。法力・仏力は正しく本尊に在り。之れを疑うべからず。我等応(まさ)に信力・行力を励むべきのみ」(文段629ページ)と、このように仰せあそばされているのであります。

 すなわち四義具足とは、本門戒壇の大御本尊を信行するとき、我らに具する信力・行力と、御本尊にまします法力・仏力が冥合一体となることであり、境智冥合することであります。されば、御指南の「法力・仏力は正しく本尊に在り。之を疑ふべからず。我等応に信力・行力を励むべきのみ」との御文こそ本未有善の荒凡夫たる我らが成仏得道の要諦であり、三世常恒にして絶対安穏な常寂光土建設の要文でることを心肝に染め、我ら本宗僧俗は国の内外を問わず、混迷を極める今こそ、大聖人の立正安国の御精神を体し、一切衆生救済の大慈悲行たる折伏を行じ、もって本年『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節の年にふさわく、なお一層の自行化他にわたる信心に励むことこそ最も肝要であろうと存じます。

 特に、来たる7月26日には「立正安国論正義顕揚七百五十年記念75000名大結集総会」が、ここ総本山おいて開催されます。この7万5千名大結集総会は、平成14年、日顕上人より賜った御命題であり、法華講の7年間にわたる広布への戦いの結果を、仏祖三宝尊と日顕上人猊下の御照覧いただく大事な意義が存すると同時に、次なる戦いへの大出陣式でもあります。

 したがって、そこに集う7万5千名の全国僧侶ならびに法華講衆は、次の戦いにおいて中核となるべき方々であり、混迷を極める日本乃至世界の惨状を救い、全人類の幸せと全世界の平和実現のために挺身する、言わば広布の戦士であります。各位には、広宣流布の歴史に名を刻む絶好の機会を逃すことなく、元気に御参加くださるよう心から願うものであります。本日御参詣の皆様のますますの御精進を心から念じ、本夕の法話を終わらせていただきます。


 『御講聞書』にのたまわく、「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持(たも)ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御書1818ページ)。



挨拶 記念委員長 総監 八木日照御尊能化

宗祖日蓮大聖人が文応元年7月16日、『立正安国論』による正義顕揚をあそばされてから、ちょうど750年を経た本日、大聖人の御魂魄在(ましま)す霊場、ここ総本山大石寺において、正嫡(しょうちゃく)第68世御法主日如上人猊下大導師の御もと、前御法主日顕上人猊下の御臨席を仰ぎ奉り、御来賓の皆様をはじめ、全国の全教師800余名と国内外の代表信徒3300余名、並びに寺族代表各位の御参列をいただき、恭(うやうや)しく記念大法要を厳修(ごんしゅう)して篤く御報恩のまことを捧げ奉り、もって御命題の達成と一天広布へ向け、さらなる破邪顕正の行業に精進することをお誓い申し上げた次第であります。

大聖人は宗旨建立後、間もなく『立正安国論』を上奏し、第1回の国主諫暁をあそばされました。しかして御一期の御化導の深い趣旨は、ことごとくこの『立正安国論』の元意に存すると拝されます。また、御入滅に際し、御病身を押して弟子たちに『立正安国論』を講義されたと伝えられています。このようなところから、古来、「大聖人の御一生は『立正安国論』に始まり『立正安国論』に終わる」と言われております。

その『立正安国論』の内容を拝しますと、破邪と顕正の両面がございます。仏様の御心に背く邪法邪義は災難の根源である故に、ことごとくこれを破折する。これに対して、正義を顕す顕正の正とは、実乗の一善であり、その究極は大聖人御出世の本懐である本門戒壇の大御本尊に帰すのであります。

御法主日如上人猊下は、「大聖人は、『早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし』(御書247ページ)と仰せであります。世間には、池田創価学会や様々な邪宗教がはびこっており、その邪義に惑わされた人達や、そうした邪宗教の浸りきっている人達が大勢おります。特に池田創価学会に対しては、日顕上人は『現代の一凶』と断ぜられております。こうした人達に対して、不幸の根源は謗法にあることを知らしめ、謗法を責め、謗法を破折し、その謗法から救っていくことが大事であり、これが我々の自行化他にわたる信心であります。」(大白法691号)と仰せであります。私たちはこれらの人々に対し、日々怠りなく働きかけをしていかなくてなりません。

さて、御案内の通り、前御法主日顕上人から、「平成21年に、立正安国論正義顕揚750年を期して地涌倍増と大結集を(趣意)」(同608号)との御命題を賜ったのは、去る平成14年、総本山の奉安堂落慶記念大法要の折りでした。爾来7年、全宗門挙げてこの御命題を達成するべく、懸命に取り組んでまいりました。この間、御当代日如上人が御登座あそばされ、記念局の設置と事業内容の設定、結集目標も7万5千名と決定するなど、着々と具体化が進められました。同時に事業推進のため、特別御供養が募(つの)られ、全国の僧俗から護惜建立の赤誠の基づく尊い多額の浄財が寄せられ、まことに尊く有り難いことでありました。改めて厚く御礼を申し上げます。

記念事業の主なものは、御承知の通り、まず本日のこの記念大法要の奉修であり。また、来たる26日の7万5千名大結集総会であります。そして地涌倍増。これは取りも直さず折伏戦であり、全国各支部が年々誓願する折伏目標を完遂し着実に広布を進めていくことであります。次に総本山総合整備事業で、このうち塔中宿坊の全面建替え新築工事は、既に18ヵ坊が立派に完成しています。また御影堂大改修工事も、創建以来初の本格的な大工事で、既に全面解体が終了し、平成25年の完成をめざして慎重に進められています。さらに、三門の塗装工事も昨年末、1階部分が完了しました。次に出版関係は、宗門初の御書教学部辞典の編纂が教学部を中心に進められている他、海外ご信徒向けの書籍が発刊されております。さらに、大聖人配流の佐渡の地に塚原跡碑が建立され、また750年記念展が目下、山内の宝物殿で開催され、好評を博しています。以上が主な事業内容であります。

なお、昨年は御法主上人の御指南により、全国4会場で決起大会が開かれました。これは750年を迎える本年・平成21年を見据え、その気運を高めるために開催されました。その結果は、結集目標7万8千を遙かに突破する延べ8万4千余名の結集を成し遂げ、各地方共、例外なく大感動を巻き起こして大成功でありました。

さて、残るはあと10日後に控えた7万5千名大結集総会であります。このことに関しては3年前、平成18年8月以降、御法主上人の御指南により、「地涌倍増と大結集を名実ともに必ず成就なさしめ給へ」と宗門全僧俗が、毎日御祈念を続けてまいりました。加えて本年4月1日から7月9日までの100日間、宗門を挙げて真剣に1日2時間5千遍、総合計750億遍の唱題行に精進し、7万5千の完全勝利を願ってきました。必ずや仏祖三宝様の尊い御加護を戴き、大成功裡に開催できると確信をいたします。どうか最後の最後まで油断なく、そして諦めることなく、家庭訪問を徹底し、結集の啓蒙推進を図り、大歓喜で元気に登山いたしましょう。

御法主上人は、昨夜の御説法において、「この7万5千の精鋭がそのままこれからの中核となり、広布の戦士として活躍していくのである(趣意)」(同769号)と仰せあそばされました。10日後、皆さんが支部の大勢たちと連れ立って、この御山へ、御戒壇様の御もと、御法主上人そして御隠尊上人のもとへ馳(は)せ参じ、再び相まみえることを固く信じ、記念局委員長としてご挨拶といたします。




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