御法主日如上人猊下御言葉
第8回 講頭・副講頭指導会の砌
平成21年8月2日 於 総本山大講堂
本日は、第8回講頭・副講頭指導会の当たり、全国より支院長・副支院長ならびに広布推進各位、また法華講連合会役員および地方部長各位、法華講支部講頭・副講頭各位には御繁忙のところをわざわざ参集いただき、まことに御苦労さまでございます。
まず初めに、先般7月26日に行われた「立正安国論正義顕揚750年記念7万5千名大結集総会」には、皆様方の強盛なる信心の結果、諸天善神も寿くなか、予定を上回る7万8423名の結集をもって見事、大成功裡に行うことができましたことを心より厚く御礼申し上げます。是非、各講頭さん、副講頭さんから、講中の皆様へ御礼を申し上げて、心から労をねぎらっていただきたいと思います。どうぞよろしくお伝えください。
さて今回、講頭・副講頭指導会を開催することになりましたのは、先程の話にもありましたように、7月26日に発表した新たなる目標に対しての心得と今後の活動について、各講頭・副講頭さん方がしっかりと認識していただき、各講中へ正しく伝えていただきたいからであります。
そこまず、一番大切なことは何か。それは次の戦いの主体となるの折伏であるということをしっかりと認識することであります。常に申し上げていますように、折伏は一切衆生救済の大慈悲行であり、仏祖三宝尊の恩をはじめとして、父母の恩、衆生の恩、国土の恩に報いる最高の報恩行であり、かつまた我が身にとっては最善の仏道修行であります。特に今日のような五濁乱漫として、世界的に天災・人災・疫病・戦争などが頻発し、池田創価学会の如き誤った考え方がはびこり、悪が蔓延し、人間が質悪や果報が低下劣悪となり、世情騒然とした状況を見るとき、これらの原因がどこにあるのかを我々はよく知らなければなりません。
『立正安国論』には、世の中が乱れる原因は、ひとえに邪義邪宗の害毒、謗法にあることを明かされ、この謗法を断たなければ世の中は絶対に幸せにはならないと仰せであります。したがって大聖人は、「早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須(すべから)く国中の謗法を断つべし」(御書247ページ)と仰せられいるのであります。
また、『顕謗法抄』には、「問うて云はく、五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕ちんことあるべしや。答へて云はく、誹謗正法の重罪なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、法華経第二に云はく『若(も)し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば乃至(ないし)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん』等云云」(同279ページ)と仰せであります。五逆罪、すなわち父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、和合僧を破り、仏身を傷つける、この五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちると言われておりますが、それ以外でも地獄に堕ちることがあるのかとの問いに対して、正法を誹謗する、つまり謗法を犯せば無間地獄に堕ちると仰せられ、謗法の恐ろしさを御教示せられているのでります。
また、『十法界明因果抄』には、「慳貪(けんどん)・偸盗(ちゅうとう)等の罪に依って餓鬼道に堕することは世人知り易し。慳貪(けんどん)等無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近(しんごん)し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能(よ)く能く恐るべきか」(同208ページ)と仰せであります。欲張りで、人のものを盗めば餓鬼道に堕ちることはだれでも知っているが、たとへ人のものを盗むようなことをしない善人であっても、謗法により、あるいは謗法の者に近づいて、その人の感化を受けることがようなことがあれば、必ず餓鬼道に堕ちると、このように仰せられいるのであります。まさに、謗法恐るべしであります。
謗法の恐ろしさについては、このほか経典、御書等にたくさん説かれていますが、謗法の害毒の恐ろしさを、我々はもっと知らなければなりません。故に、幸せになるためには、この謗法を断たなければならないのであります。謗法を断たなければ、三世にわたる本当の幸せを築くことはできないのであります。本宗において、謗法を勧誡する所以は、まさにここにあるのであります。
したがって、いかに謗法を退治し、自分自身の信心を確立し、一生成仏を遂げていくか、これが我々の信心であります。折伏を行ずるとは、この謗法を破折し、正しい信心を勧めることであります。「涅槃一日の価(あたい)を得て、以て大いに得たりと為して、此の大乗に於て、志求(しぐ)有ること無かりき」(法華経197ページ)とあります。「涅槃一日の価」とは、小乗の声聞の悟りを意味しております。つまり、直接、結果目当ての悟りであり、近視的で利己的な悟りであります。例えて言えば、雇われ人が明日への希望のないままに、ただその日一日の賃金目当てに働くようなものであります。まさしくこれは、小乗の悟りに甘んじてしまって、大乗の悟りを得ようとしない愚かな考えであります。
では、小乗の悟りとは何かといえば、それは自分一人だけの悟り、他の人の幸せを願わず、ただ自分だけの小さな、泡のような、はかない幸せを追い続ける、自分中心の悟りのことであります。大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、「善なれども大善をやぶ(破)る小善は悪道に堕つる悪道に堕つるなるべし」(御書323ページ)と仰せであります。すなわち、自分だけの幸せを求める考えは、たとえそれが善であったとしても、その善は「大善をやぶる小善」すなわち「悪道に堕つる」ことになるのであります。
結局、自分だけの信心では本当の幸せを築くことはできないのであります。自分のためだけの幸せを求める利己的な姿勢は、実は仏様が最も嫌った姿勢であります。爾前経において、二乗が「永不成仏(ようふじょうぶつ)」、すなわち、永遠に成仏できないと言われこともここに起因しているのであります。大聖人は、「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(同1594ページ)と仰せであります。「自行化他に亘る」信心とは、自らも強盛なる信心に徹するとともに、すべての人を正しい真実の道に導き、間違った教えや考えによって自分だけの幸せを求めている人、あるいは池田創価学会のような間違った謗法の教えによって、知らず知らすのうちに貪瞋痴の三毒に蝕まれ、塗炭の苦しみに喘いでいる多くの不幸な人々を救うことであります。
『曽谷殿御返事』には、「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願はヾ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(同1040ページ)と仰せであります。まさしく、謗法を責め、折伏を行じなければ、成仏ははかないことを知らなければなりません。
『善無畏三蔵抄』には、「仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども、人をたすくれば実語・軟語(なんご)なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。当世学匠等の法門は、軟語・実語と人々は思(おぼ)し食(め)したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背(そむ)く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬(あやま)りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし」(同445ページ)と仰せであります。大聖人様が、念仏に対しては無間地獄に堕ちると言い、あるいは禅宗や真言宗に対しては誤りの教であると断じて言うのは、一見すると妄語・強言のようでありますが、実には相手を救い、幸せの境界に導くための慈悲の言動であって、けっして妄語。強言ではなく、これこそ真実の言葉、相手を思う優しさを持った言葉であると仰せであります。折伏は相手の幸せを願う慈悲行であります。
そこで、講中を束ねる講頭・副講頭の折伏に対する心得として持つべきは、私は真の勇気と大御本尊に対する絶対の確信ではないかと思います。大聖人様は『教行証御書』に、「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(同1109ページ)と仰せであります。臆病では何事も成就しません。
「慈なり。故に能く勇なり」という言葉があります。慈とは慈悲、慈悲とは人々を哀れみ、楽しみを与え、苦しみを取り除くことで、『大智度論』では、一切衆生に楽を与えること、与楽を慈とし、苦を抜く、抜苦を悲としています。勇とは勇気であります。すなわち相手を思い、謗法によって知らず知らすのうちに不幸に落ち込んでいる相手の苦しみを取り除き、楽しみを与えられる真の優しさ、すなわち慈悲の心から、実は最も大きな勇気が生まれてくるのであります。ちょうど、子供を守る母親の慈愛であります。
今日、新たなる目標のもとに大折伏戦に入るとき、講頭・副講頭として求められるのは、まず、この慈悲に基づく真の勇気であります。講頭・副講頭が勇気を持って折伏を行じ、指導教師の指導のもとに実戦的に折伏の指揮を執り、異体同心して折伏を推進していけば、必ず講中全体に折伏の気運が高まってまいります。もちろん困難もあります。あらゆる障魔が競い起こることも必定であります。
しかし、「末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり」(同1762ページ)の御金言を信じ、自身の一生成仏のためには、困難や苦難が襲い来たることは、かえってそれを喜びとして迎え、一層の精進をしていくことが大事であります。困難に出遭ったとき、その難に押しつぶされているようでは、絶対に解決はできません。いかなる困難が襲い来ても、一閻浮題第一の御本尊を信じている我々は、「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(同298ページ)との確信を持って困難に立ち向かっていくことが、解決への最善の道であることを知るべきであります。この大御本尊に対する絶対的な確信が大事なのであります。
また、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」(同986ページ)と仰せの如く、魔も襲ってこないような信心をしていたのでは、過去遠々刧からの罪障も消滅できず、一生を空しく終わってしまいます。否、命終ののちに三悪道に堕ちてしまうことを、よくよく用心しなければなりません。したがって、いかなる障魔が襲い来たろうが、それに負けないで信心を貫きとおしていけば、現世はには必ず幸せを築き、三悪道の流転から逃れることができるのであります。
また、このなかで折伏の方法が解らないという人がいたら、もちろん、そのような方々は今日はおいでになっていないと思いますが、そういった心配事があるとすれば、何はともあれ動いてください。折伏はこうやったら絶対にうまくいくというような秘訣はないのでありますから、まず立ち上がって動くことであります。折伏に打って出ることであります。動けば必ず智慧が湧きます。難敵に対しても、どのような人に対しても、どうしたら折伏できるか、それを失敗からも必ず学ぶことができます。だから失敗を恐れずに、まず動くことです。まず折伏に立ち上がることであります。
しかし、動かなければ智慧も湧いてきません。例えば朝夕の勤行でも、思っただけでなんの役にも立ちません。もちろん功徳もいただけません。自分自身も変わることはありません。動かなければ何も起きないのであります。ですからまず、講頭さん、副講頭さんは立ち上がって、自ら折伏に動いていただきたいと思います。
どうぞ、講頭さん、副講頭さんには、このことを心肝に染めて、新たなる目標である、平成27年・講員の50%増を目指して、さらに平成33年の法華講員80万人達成を目指して、講中の先頭に立って戦っていただきたいと思います。講頭さん、副講頭さん方が動くことから、すべては変わります。講頭さん、副講頭さん方が動けば、その支部は必ず見違えるように変わります。否、必ず変えていただきたい。すばらしい講中に変えていただきたいとお願いする次第であります。「索(もと)めずんば何をか獲(え)ん」であります。
これからの各講中の御精進を心からお祈りするとともに、講頭さん、副講頭さん方の御健勝を心からお祈りいたしまして、私の挨拶といたします。
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