大白法

平成21年9月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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日応上人と東都弘教
立正安国論正義顕揚750年記念展より


総本山宝物殿で行われている記念展は、8月1日に特別企画展の展示替え、同17日には写真パネルの入れ替えが完了した。

写真展「地涌倍増の歩み」では、7万5千名大結集総会の数々の場面の写真が出迎えてくれる。また、三階の特別企画展「忍難弘通の歩み」では「日応上人と東都弘教」と「忍難弘通の法難史」のコーナーが新たに設けられた。


東都弘教

徳川政権崩壊後、文明開化の新たな時代に入った日本は、明治新憲法で信教の自由が謳(うた)われたことにより、広宣流布への活路が見出された。この機を逃さじと、幕末から明治・大正にかけて御登座された御歴代上人をはじめ奉る先師方は、命をかけての申状提出や街頭布教・他門との問答など、大々的な布教活動を展開された。

中でも総本山第56世日応上人猊下は、「東京を盛んにしなければ宗門の発展はない」(観妙院指導集1−37ページ)との御意志から、単身東都に身を投じられ、妙法の弘通に全身全盆を傾注されたのである。

御登座後10年を経た明治31年、日応上人は東京における本格的な布教を実践されるべく、御当職の御法主という御立場ながら東京に赴かれ、まず浅草田原町、そして本郷西片町に移られて寺院・講中の垣根を越えた折伏の精鋭部隊とも言える法道会を設立し、近代東都の布教の第一歩を標された。以来、下谷の小島町、七軒町、森下、深川の東元町、麻布、東神奈川と拠点を転々となさりながら、孤軍奮闘して妙法の流布に挺身あそばされたのである。

当時日応上人は、「深川や蛸(たこ)一匹の浮き沈み」と御自身を諧謔(かいぎゃく)された句を詠まれているが、筆舌に尽くせぬ御苦労をものともせず、悠々として折伏と信徒の教化に努められ、自受法楽の尊い日常を送られていたと拝する。


富士派分離独立

さて、日応上人の御事績は数多くあるが、中でも特筆すべきは「富士派分離独立」である。

明治5年10月3日、官布告によって仏教各派を天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗の7宗に強制的に属させ、各宗に管長を1名置き、宗務を管理統制するという制度が定められた。

これを危惧した54世日胤上人は、同6年1月から数度にわたり教部省に「大石寺一本寺独立願」を提出。以来、55世日布上人、56世日応上人と3代・27年という長期にわたって官に対し、他門に対し、誠実・果敢に正義を貫き、明治33年9月18日、内務大臣の受理を得て、宗門積年の尽力と願いが結実し、晴れて興門派(本門宗)からの分離独立が認可され、日蓮宗富士派と公称することができた。ここに富士の清流を護り僧俗が望んできた大石寺本末の一宗独立願いが叶ったのである。

展示資料の「宣言」は、分離独立が認められたことについて、仏諸宗乃至世間に対して訴える宣言文である。

茲ニ全ク吾宗ハ 彼七山ノ牽制的繋縛ヲ寸断シテ 独立独歩ノ無障碍土二帰着、宗祖開山已来六百余年紹継セル 尊高ナル大法ノ光輝ヲ添へ 神厳ナル血脈ノ威徳ヲ揚ケ 一宗ノ綱紀ヲ振粛シ 教学ノ規模ヲ拡張シテ 以テ積年屈辱ノ面目ヲ革新スルノ大自由ヲ亨有セリ
との日応上人の御言葉に、当時の宗門僧俗の祝意が満ちている。

後年、明治45年(大正元年)6月7日、57世日正上人の代に日蓮正宗と公称することになる。明治以降、日蓮宗→日蓮宗勝劣派→日蓮宗興門派→日蓮宗富士派と宗名の変遷があるが、宗祖大聖人の正統門下が派号を称するのは分派を連想させて不都合であるとの大多数の意見により、政府に対して申請した結果、日蓮正宗公称の認可が下りたのである。

日布上人、日応上人御臨席のもと、日正上人の大導師によって厳修された宗名改称申告法要の席上、土屋慈観師(のちの58世日柱上人)から、

旧来の派号を改めて、日蓮正宗と公称するの認可を、明治45年6月7日、内務大臣に得るに至れり。是れ啻(ただ)に滔々たる他の日蓮門下と称する者と簡別し易きのみならず、全く本宗独立の体面と精神とを発揮し、名実共に相応して、正に信仰復活せるは、衷心より歓喜して止まざる所なり(中略)宗名はこれ日蓮正宗、嗣法導師はこれ日正上人、年号はこれ大正元年なり。三正契合して一貫の妙理それ顕然たり。仏意の感応誠に以て明らかなり。(法道院百年史167ページ)
との賛辞があった。

また、時代は移り、昭和14年4月に公布された宗教団体法は、日蓮宗系宗派の合同を強制するものであった。これに対して、日蓮正宗は僧俗護法会議を開催し、僧俗一丸となってこの悪法を拒否し、他の宗派が濁流に呑み込まれる中、日蓮正宗だけが、一宗としての清流を死守し、独立を勝ち得たのである。

日蓮正宗との公称にせよ、単独宗制認可にせよ、その根源は富士派の分離独立の大業にある。御法主をはじめ奉り、僧俗一丸となって清流を守るという意識と行動が宗門の危機を救ったのである。



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