大白法

平成21年9月16日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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近代宗門史から僧俗一致の折伏の姿を学ぶ
立正安国論正義顕揚750年記念展より


総本山宝物殿で行われている記念展は、8月1日に特別企画展の展示替え、同17日には写真パネルの入れ替えが完了した。

写真展「地涌倍増の歩み」では、7万5千名大結集総会の数々の場面の写真が出迎えてくれる。また、三階の特別企画展「忍難弘通の歩み」は、幕末・明治・大正期の宗門史を振り返る展観となっている。記念展を新たな折伏の時代の糧としていきたい。

日応上人東都弘教の志

布教や改宗が極めて困難であった徳川治世の封建時代に終止符が打たれるや、明治新憲法下で信教の自由が認められた。これにより清流を止めていた堰(せき)は切られ、門下一同が待ち望んできた広宣流布への道が開かれたのである。

この機に乗じて、幕末から明治・大正にかけて御登座された御歴代上人は、申状(もうしじょう)提出をはじめ大々的な布教活動を展開された。中でも第56世日応上人は、「東京を盛んにしなければ宗門の発展はない」(観妙院指導集1−37ページ)とのお考えから日本の新首都たる東都の弘教を志され、単身東都に赴かれて、文字通り孤軍奮闘をなさりながら、身命を賭して正法流布に尽力あそばされた。

当時東京には常泉寺・常在寺・妙縁寺という古刹があり、それぞれの寺院の講中が折伏に精励しつつ正法の外護に勤めてきたが、日応上人は今こそ大同団結して布教すべき秋(とき)であるとして、妙道講・妙典講・浄信講・正信講・清信講などの既存の講中と共に、折伏のための組織である法道会を設立し、寺院・講中の枠を超えた弘教を敢行された。この効果は如実に現れ、多くの正法帰依者を生んだ。これが核となって、平成の現在にまで脈々と法統は相続されている。


活発な布教活動

法道会設立、演説会など法道会は、日応上人のもとに立正安国・正法流布を熱望する在京の寺院と各講中有志が雲集し、信心の錬磨と折伏活動を実践する組織であった。「法道会主意書」と「法道会会則」を制定し、組織的な統制をもって活動が行われ、その内容としては、全国各所における演説会や路傍布教(ろぼうふきょう=街頭演説)などが挙げられる。講演会は、雄弁をもって知られる日応上人ご本人はもとより、阿部慈照師(後の57世日正上人)や土屋慈観師(後の58世日柱上人)、有元広賀師(後の大慈院日仁能化)、早瀬慈雄師などが登壇して、正嫡門下としての正義を大いに顕揚された。法道会初期の信徒は演説会や街頭布教によって入信した方が多いと伝えられる。

また、本宗僧俗による異流義や邪宗教との法論・問答も盛んに行われた。法論や問答には、在京の信徒はもとより関西の有力信徒も率先して臨み、堂々と正義を顕揚し、異流義や顕本法華宗などの邪宗教を完膚なきまでに破折屈伏せしめ、活気あふれる時代であった。

さて、品川妙光寺第二代住職・有元広賀師も、布教活動を活発にされている。明治39年に東京信行講、東京独一本門講、立正統一講、京橋本門講、東京青山講中などが次々と結成され、ある時は日本橋、あるいは京橋に、また芝にと、それぞれ有縁の地域において講中が率先して布教演説会を企画・開催した。これも、日応上人が東都弘教を志され、破邪顕正の師子吼をされたことに起因するのである。

妙光寺では各講中とは別に、有元師の発案によって日蓮大聖人の正義を広く一般に知らせるため有志を募り、大正4年に大聖会を設立。さらなる折伏と日蓮正宗を誹謗する輩を反駁するのに有利にと、各講中を大聖会に吸収統合しながら、布教団たる同会の発展を期したのである。そして、両国倶楽部、新橋倶楽部などを会場として計16回の定期演説会を開き、活発な活動を繰り広げた。この僧俗一丸となった折伏の大きなうねりの中、大正6年3月に、日応上人は麻布潜竜閣において東京在住の僧俗が大布教団を結成することを決定された。

日応上人は、「夫れ本市(東京)には、第二教区の教団あり、法道会あり、聞法会あり、青年団あり、神奈川正宗会あり、大聖会ありて、各法旗を樹(た)て法鼓を鳴らすと雖も、未だ意の如くならず是れ畢竟するに、其主義の同一なるにも拘わらず其割拠より生ずる弊害が存するからである」(大日蓮2−4ページ)と仰せられ、すべてを合併した形での日蓮正宗会を発足されたのである。この会の総裁は日応上人、会長は阿部法運師(後の60世日開上人)、副会長は有元広賀師が当たった。これから後、日蓮正宗の布教は激流となり、両国倶楽部、桜川亭、神山亭、松本亭、亀屋、松鶴亭、神楽坂倶楽部、高津旅館、王子町演芸館などにおいて波状的に布教講演会が開かれた。

大正12年9月1日に発生した関東大震災は、東京・神奈川を中心に深刻な被害をもたらした。在京の寺院も焼失し、多くの羅災難民が諸所を埋め尽くしたが、有元広賀師は一刻も布教の流れを止めてはならないと、早速妙光寺内に日蓮正宗布教団本部を設置し、罹災者救済にとりかかった。同年10月28日から11月中、日比谷公園で毎夜6時から9時まで屋外演説会を挙行。罹災者を慰安しながら大聖人の正義を宣伝された。さらに翌年の1月20日から一週間、日比谷公園でテント生活をしている人々に対して布教し、一同に正法に帰依するよう呼びかけた。またこの時、炊き出しをして罹災者の空腹を満たしている。

日応上人の東都弘教の一念に呼応した当時の僧俗は、憂宗護法の念を奮起させ、現在では想像もつかないほどの熱意と信念と行動力をもって、妙法流布に心血を注いだのである。

総本山第59世日亨上人は、「日応上人の東京弘教は御一生の念願であったやうに思ふ、殊に法道院(会)の建前は必死の御苦労が籠もってをる」(法道院百年史43ページ)とお述べになり、「必死の御苦労」をなさりながら布教された日応上人のお姿を偲んでおられる。さらに日亨上人は、「殆(ほとん)ど応尊(日応上人)は活動家と云えよう。総本山の法主となられるとほとんど活動はできないのが普通であるが、その前例を破って、体面も構わず何処へでも進んで折伏に出られた。その地位から余りにも布教が平民的過ぎると云うので『どうか止めてくれ』との信徒の嘆願があったほどだが、敢えて布教の第一線に立たれたのである。それで誰の力も借りないでただ一人で新しい信者を、新規の教田を開拓されようとした。それほど帝都の弘教には心血を注がれた。それが法道会の始まりである。あるときなど布教の苦心惨憺を私にもらされて『布教というものは実に大変なものだな、法門だけではどうにもならん。今後わしは直接苦しんでいる者にぶつかって布教しようと思うがどうだ』など言われることもあった」(法道院百年史78ページ)とも述懐されている。

また、近代で特筆すべきは富士派分離独立であるが、これについては本紙772号1面の「立正安国論と忍難弘通の歩み―展示資料紹介E」を、また、異流義に対する破折の様子は今号1面を参照されたい。先師先達の筆舌に尽くせぬ御苦労が宗祖大聖人の正義を護り、伝えたのである。私たちは、その御苦労を忘れ去る不知恩の輩に成り下がってはならない。


日応上人最後の御指南

明冶41年11月10日、日応上人は日正上人を57世の嗣法と定められた。日応上人は御隠居後も東都布教にかける情熱は冷めることなく、本格的な対他破折や布教講演会を頻繁に行い、さらには法義研究会も毎月開会なさっている。晩年に至るまで、布教と興学、指導と育成に尽力された日応上人は、大正11年6月11日、品川・妙光寺における日蓮正宗会総会にご臨席、大導師をお勤めになり、総裁として会員一同に訓論を示された。

「世のあらゆる邪教を撲滅して此の正義を宣伝し広宣流布の大願を成就せねばならぬ(中)予、老齢如何んともするに由なし、諸子よろしく奮闘努力以て聖祖の御金言に背くなからん事を期せよ」(法道院百年史188ページ)との御言葉が、日応上人最後の御教示であるという。この御指南を直々に拝聴して、感銘・奮起しなかった人がいたであろうか。

そして7万5千大結集の御命題を成就した現在、私たちは次なる御命題を賜った。時代は移ろうとも時の御法主上人猊下の御指南に随順し奉り、全国の僧俗が相和して「一人が一人の折伏」を実行し続ければ、宗祖大聖人の御遺命たる広宣流布と本門戒壇の建立は、必ず達成する。このことを互いに肝に銘じ、何ものにも恐れず、怯(ひる)まず、勇気をもって未来広布へ向かって邁進しよう。意を決してまず我一人立つならば、同志は必ずその後に続くのである。



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