御影堂―尊厳なる歴史と意義 歴史C―
棟梁『下山大工』石川氏について
現在の御影堂の棟札(むなふだ)によれば、この建築造営における大工棟梁(建設責任者)として「石川與十郎家次」という人物がその任に当たっていたことが判ります。また寛永12(1635)年7月に建立された内陣中央の御宮殿にも「石川久右衛門家次」の名前が記されており、両人は同一人物と見られます。また元禄年間に行われた大規模な改築修理の際にも「石川五左衛門尉重吉」(家次の次男)が棟梁として現場の指揮を執っています。
現在総本山に残されている資料によれば、この御影堂に限らず、鬼門、三門、総門、常唱堂など、判明しているだけでも江戸から明治時代にかけて行われた総本山の堂宇の造営・修理には、そのほとんどを石川姓を名乗る大工が棟梁として関わっています。
これらの人々は下山(現在の山梨県身延町下山)に住した通称「下山大工」と呼ばれた宮大工、その中でも棟梁家の一つであった石川家の一族の方々です。下山大工というのは、下山地区に住んでいた大工集団で、その歴史は古く、鎌倉時代の早い時期には既に活動を始めていたと考えられています。
この下山という場所は身延山久遠寺から数kmほどの場所で、『下山御消息』に登場する下山兵庫五郎、因幡房日永など、大聖人御在世当時から門下の存在が確認される地域です。往昔の宮大工は同じ地域に居住して技術を磨き、方々の仕事に当たったようで、現在でもその下山地区には「番匠小路」など大工町に名残のある字(あざ)名が残っています。そしてこの地より多くの優秀な大工が輩出され、中世以降の寺社建築史に大きな足跡を残しています。
さて、日興上人が民部日向・波木井実長の謗法によって離山された身延山の麓を拠点とする大工集団でありながら、なぜ長年にわたって地理的、信仰的にも遠隔地にあるはずの大石寺の造営に深く関わっているのかという疑問が浮かびます。これについて、現在でも続いている石川家の末裔では、日興上人が身延を去り、南条時光殿の懇請によって駿河国富士郡上野郷(静岡県冨士宮市上条)に赴いたとき、先祖が日興上人に随行して大石寺の基となる「六壺の間」を造立したとの伝承が語り継がれていす。(身延町誌158ページ)
即ち、大聖人の正統なる後継であった日興上人に敵対した身山が謗法となったことにより、これを機に下山大工の石川家は身山とは縁を持たず、地理的には身延山の近郊に居住しながらも、ひたすらに日興上人の赴かれた富士に信仰のよすがを求められたことが推察されます。
残念ながら、現在では下山大工と大石寺の関係に関して、江戸時代から大石寺開創までを直接的に遡ることのできる資料は残っていませんが、下山の地は重須談所の二代学頭・三位日順師の出身地であり、また現存する日興上人の御本尊の脇書には下山を居住地とする檀越の名が散見されるように、身延離山の後も下山に住した檀越が日興上人に随い信仰に励んでいたことは事実です。
中でも日興上人が文保3(1319)年4月に認(したた)められた御本尊の脇書には、「甲斐国下山車師尼(だしあま)十三年、女子久富五郎三郎入道蓮実妻也」と記されており、当時、下山に住した檀越の一人に「車師尼」(※車師とは車大工)を親族に持つ人物がいることが確認され、これらの伝承を裏付けるものと言えます。
因みに下山大工の石川家から出家され、後に大石寺の御法主上人となられたのが総本山第32世日教上人です。この日教上人について、『続家中抄』には、「釈日教、字(あざな)は文孔、本久院と号す。宝永元年甲斐国一之宮に生まる。工匠石川氏某の男なり(中略)父 随本 甲州一宮大工棟梁石川伊兵衛」(日蓮正宗聖典781ページ)とあります。
日教上人のご尊父は大工棟梁の身から晩年出家され、またご母堂も尼となられ、大石寺において亡くなられています。日教上人は、後年、ご両親の追善菩提を願い、現在の東側の裏塔中周辺に「随本坊」(現在は廃坊)を建立されています。因みにこの下山地区の一角には現在でも「大石寺日教上人」と刻まれた供養塔が現存しており、往時の大石寺との密接な関係を今に伝えています。また、大石寺墓苑には下山石川家の墓所があります。
このようにこの御影堂を建てた大工のルーツにも、大石寺草創の頃を偲ばせる破邪顕正の歴史を垣間見ることができます。