JAZZはマイブームでいいんです。

順三、ウエストコーストジャズに傾く。

順三は顔を上げ、彼女と視線を合わせると
「じゃあ、これいただきます。」
と云った。
「ありがとうございました。気に入ってくれたら嬉しいです。」
彼女は少し素になった様な言葉を残して
その場を離れていった。

順三は部屋に戻ると、靴下を脱ごうとして
左右違う柄のモノをはいていた事に気がついた。
こんな事を繰り返してるうちに片方だけの靴下が
沢山溢れかえる事になるのだなと思った。
CDをセットすると、もう耳馴染みになったチェットの
トランペットとヴォーカルが流れてきた。
シングス&プレイズはストリングスアレンジも混ざっていたが
シングスは全てコンボ演奏によるモノでまとまりが良かった。
順三は心地よいスイング感に身を任せ、彼の演奏に聴き入る。
スマートな音楽ではあったが、納得できる奥深さを感じた。
チェットのヴォーカルも魅力的であったが、
伸びやかで明るいトランペットは歌以上に唄っていた。
特に順三は"BUT NOT FOR ME"のトランペットソロが好きだった。
あまりにまとまったメロディなので書き譜ではないかとさえ思った。
(そう云えばHMVには演奏だけのアルバムも沢山並んでたなぁ。)
順三は今度はインストルメンタルのアルバム聴いてみる事にした。
また戸田律子にセレクトして貰う魂胆であった事は云うまでもない。

順三は次の週末、再びHMVを訪れた。
フロアに入ってすぐ彼女の姿が見つかった。
さりげなく近づき挨拶をする。
「こんにちは。」
「あ。こんにちは。こないだのCDどうでした?」
「やっぱりチェットは良いですね。1週間聴き続けでしたよ。」
「そうですか。それは良かったです。」
ごく自然な展開で凄く親しくなった様な気がした。
この流れを利用しない手はない。
順三は本題に話を進める。
「チェットのヴォーカルのないアルバムも沢山ありますよね。」
「ええ。本業はどっちかと云うとトランペットですからね。」
「演奏だけのだとどれが良いんでしょう?」
「演奏だけ…ですか?」
彼女は考え込む時、手の甲を鼻の頭に当てる癖がある様だ。
「また私の趣味になっちゃいますけど…。」
棚にならんだCDの背に目を走らせながら呟く様に云う。
順三はその姿を見つめながら「それで良いですよ。」と返して、
更に(って云うかそっちの方が嬉しいんだけど。)と云いかけてやめた。
彼女は何度かチェットの棚を繰り返して見ながら首を傾げる。
「あ、ないなぁ。私が一番好きなのは『SMOKIN』なんですけど、
どうやら品切れみたいです。」
「それは残念。」
「チェットの溌剌としたトランペットが聴けるので、
是非聴いて欲しかったんですけど…。
またタワーレコードででも探して見てください。」
「そんな事云って良いの?」
「あ。うそうそ。」
そう云って、彼女の薄い東洋的な顔には似合わないくらいの
明るい笑顔を浮かべた。
「じゃ、かわりに…。」
彼女はチェットの棚を離れて違う場所を探し始めた。
しばらく経って彼女の差し出したCDは、
GERRY MULLIGAN QUARTET / (PACIFIC)」
と云うアルバムだった。彼女の説明が加えられる。
「これは、ジェリーマリガンのリーダーアルバムですが、
チェットの初期の初々しい演奏が聴けますよ。
ウエストコーストジャズの名盤だと思います。」
順三はその時初めてウエストコーストジャズと云う言葉を知った。

家に帰って、靴下を脱ぎ左右が同じ柄である事を確認して
洗濯機に直接放り込む。
順三はCDを聴きながらジャケットを眺めた。
メンバー4人が上を見上げているモノクロ写真だ。
中央の白人がジェリーマリガンであろう事は予想がついた。
チェットは丁度上下逆さまに写っている。
あどけなさの少し残ったシャイな感じのするルックスだ。
「この顔であのトランペットとヴォーカルかぁ。…やるなぁ。」
なにが「やるなぁ」だかわからないが、
順三はチェットのトランペットソロを聴きながら
彼を自分の中でアイドル視し始めていた。
彼らの音楽は実にスマートで知的な感じがした。
マリガンとチェットの2管のハモリが実に気持ち良かった。
チェットのトランペットも若さが弾けていたし、
マリガンのバリトンサックスも低音域でありながら
不思議な程、優しく軽やかに聴こえた。
ウエストコーストジャズがどう云うモノなのか
順三は時代背景など全く知らなかったが、
ウエストコーストと云う言葉から連想される情景、
チェットやマリガンの爽やかなルックス、
そして、今流れているスマートなサウンド…、
これらを重ね合わせて、大体のイメージを作り上げていた。
それは偶然にもウエストコーストジャズの特徴を
的確に掴んでいるモノだった。
順三は更に戸田律子のイメージもダブらせて
そよかぜの様な爽やかさを感じていたが、
そんなことは知ったこっちゃない。

その後、彼は休みの日になるとHMVを訪れ、
戸田律子お薦めのアルバムを買っていった。
チェットベイカー、ジェリーマリガンに加えて
アートペッパーも紹介された。
どれも白人のいい男ばっかりだった。
既に20枚以上のCDが棚を占拠し始めている。
順三が特に気に入ったのは
ナイトライツ/ジェリーマリガン(PHILIPS)」
私は死にたくない/ジェリーマリガン(MGM)」
アニーロスは唄う
  /アニーロス・ウイズ・ジェリーマリガン(PACIFIC)」
モダンアート/アートペッパー(INTRO)」
あたりだった。
どれもパーカーの様な熱情は感じられなかったが、
アンサンブルアレンジの巧みさや
小粋なスイング感が気持ち良かった。

その日もいつもの様にHMVに向かった。
またお薦めを教えてもらおうと戸田律子の姿を探した。
しかしどこにも見当たらない。
順三は少し躊躇いながらも他の店員に尋ねた。
「すみません。戸田さんはいらっしゃいますか?」
彼に話しかけた若い女性のスタッフは、
「あ。戸田さんでしたら辞めました。」
と少し残念そうな表情を浮かべて答えた。
「え?」
順三は驚きの声をあげたきり、しばらく言葉が出てこなかった。
その様子を見た定員は
「あまりに急だったので理由も何もわからないんですが…。」
と付け加え、その場を離れた。
順三は呆然としながら失恋に近い感覚を味わっていた。

その時から、彼のウエストコーストジャズのイメージには
センチメンタルなエッセンスが少しだけ色を加えた。

(ending no.12)

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