ツバキ大戦<第壱章>


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       (四)


希望の春から、躍動の夏へ。季節はうつろい、人は生きる。
瓦礫に覆われ、全ての望みを失ったかに見えた町にも、人々は戻り、暮らし始める。 生き抜こうと、生き続けようと、働き出す。 瓦礫を退け、石を組み、木を切り、再び大地におのれの場を造りあげていく。
それは、飽くなき営み。生命体としての、本能。
命のある限り、命の続く限り、繰り返されるもの。 生きる意志に支えられた無尽の力が、人々を動かしていくのだ。
この力のある限り、意志のある限り、いかなる境遇に会おうとも、人々は生き続ける。生き抜いていく。

そう――

この世界のいかなる力であっても、命のもたらす力には、及ぶべくもないのだ。



――太正十三年。三月の魔物の出現と悪魔王サタンの降臨によって阿鼻叫喚のるつぼに落としこまれた帝都も、ようやく復興のきざしを見せ始めていた。
日本政府により帝都復興のための特別予算が組まれてから、全てのものに優先して大日本鉄道の復旧活動が行われ、 東海道本線と東北本線が四月にようやく運行を開始したのが、実質的な復興の始まりであった。 これによって日本各地から、食料、衣料、医薬品といった救援物資と共に、数多くの労働者たちが、こぞって帝都へと押し寄せてきたのである。 近県はもちろん、北は青森、函館、南は博多、鹿児島からも、復興のための労働力を渇望する帝都をめざし続々とやってきた彼らは、それこそ帝都各地でもてはやされた。 東京湾港が聖魔城によって壊滅したため、海路によって帝都へやってくるものはほとんどいなかったが、 それでも五月に横浜港、川崎港、木更津港が復旧、開港すると、その数はますますふくれあがっていった。 このため、廃墟同前だった帝都各地の復興作業は、誰も予想できないくらいに早いペースで行われることになったのである。 帝都のあちらこちらで、石を組み、材木を削り、鎚をふるい、わが家とわが町並みの復興に向けて努力するひとびとの姿があり、 彼らの表情には過ぎし日々の嘆き、悲しみ、苦しみといったものよりも来たる日々への思い、望み、願いに満ちあふれていた。

そして、八月。帝都の主要な通りにあった建物もようやく半分程度修復され、帝都蒸気鉄道の線路も引き直され、あの悪夢のような凄惨な光景は、 ようやく過去のものとなりつつある――


帝都銀座四丁目。
大火に見舞われ、黒ぐろと煤けた石畳が続き、砕けた瓦礫の一部がまだ残ってはいるものの、 そこはようやく旧来の姿を取り戻しつつあった。裏道にはいればまだ、民家の多くが押しつぶされ崩れ落ちたままであったが、復旧作業は滞りなくすすめられ、 次々と新しく立て直された家々、建物が、真新しい木の香を漂わせ、冷たく清々しい礎石の肌をしっとりと見せていた。
行き交う人々は手に手にその日の食料や衣類、あるいは、建築のつなぎに使用するのか、ひとかかえもある大きな布袋を肩に担ぎ、せわしなく歩いている。 だが、過ぎし日々の悲壮で絶望的な表情はまったくなく、瞳は輝き、しっかりと前を向いている姿にはどこか雄々しくたくましい人々の生きる力を思わせた。

「……ああ、平和っていいなぁ……」

晴海通りと中央通りの交叉する一角。そこだけしっかりと立て直された、ビクトリア建築様式の建物のベランダで、 青年は眼下を過ぎる人々の姿を眺めながらつぶやいた。
面長の、整った顔だち。切れ長の瞳は優しげに細められ、のんびりとした風情でベランダの手すりに寄りかかっていたのは、帝国華撃團隊長、大神一郎であった。 だが、今の彼を見て、あのサタンとの最終決戦に見事勝利した帝国華撃團の隊長と同一人物であると、誰も想像できないであろう。 今の彼は、明るく気さくそうな青年としか見えない。むしろ、平和に慣れ親しんだ、どこにでもいる若者の姿にしか見えなかった。
そしてそれは、ベランダに近づいてきた女性にも、感じられたのだろう。

「……さっそく平和ぼけですか、隊長?」

あきれたような声が掛けられて、大神は慌てふためいた。

「あ、ま、マリア! いや、べつに、なんだ、その――」

「別に悪いと言っている訳ではありませんよ。隊長」

くすくすと、楽しそうな笑いをもらして、マリアは彼のそばに足を運んだ。夏の強い日差しに照りつけられ、わずかに目を細める。 その美貌には、優しげな表情が浮かんでいた。
かつての彼女を知るものにとっては、驚くべきことだったろう。 近寄り難い雰囲気を持つ幽玄的な麗人として、マリア・タチバナは他の花組の面々とは明らかに一線を画していた。 楽しそうな表情や、優しいほほ笑みをかいま見ることは確かにできたが、これほどまでに他人に対して心を開いている彼女の姿を見たものはだれもいない。 常に気を張り詰め、周囲に目を配り、自己と他人を厳しく律していた頑なな女性。それがかつてのマリアだった。
だが、今大神の目の前にいるのは、確かに美しく凛々しい容貌は変わらなかったが、他人が自分に近づくのを極端に嫌っていたかつてのマリアではなく、どこにでもいる普通の女性であった。

ベランダでの二人

「……銀座も、もうかなり復興してきていますね」

大神と同様に町の様子を眺めて、マリアは呟いた。

「ああ。人のたくましさっていうのかな? どんな災難がふりかかろうとも、そこからまた一歩を踏み出していく。 つくづくすごいと思うよ。ひょっとしたら、俺たちなんかよりよっぽど強いのかもしれないな、彼らは」

「そうですね。戦うことしかできない、私よりも、あの人たちのほうが素晴らしいと思います……」

わずかに眉をひそめ、自嘲ぎみに笑うマリアを見て、大神はやや顔を厳しくした。切れ長の瞳が、瞬間、帝国華撃團隊長としての瞳に変わる。

「マリア。君は、君自身が戦うことしかできない女性だと思っているのかい?  それに、戦うことしかできないことがよくないことであるなら、あの時の俺たちの戦いは、無駄だったのだと思うのかい?」

「……!」マリアは、大神の語調の強さにやや驚いたようだった。目を丸くし、小さくかぶりを振った。「い、いえ、無駄だとか、そういうわけでは……」

「なあ、マリア」大神は視線を和らげた。 「彼らに生きて欲しいために、幸せになってほしいがために俺たちは戦ったんだ。 戦う力があったら、彼らに生きるチャンスを与えてあげることが出来たんだ。それは忘れないで欲しい。
――それに君には、君たちには、彼らに生きる希望を、夢を与えてあげられる。 舞台という場で、君たちは彼らにさらに生きる力をわけ与えてあげられるんだ。 自分を卑下しないでほしい。君には彼らに希望を与える力がある、そのことを忘れないでくれ」

「……ありがとうございます、隊長」

マリアの顔に、うれしそうな輝きが宿る。大神は微笑んだ。彼女が元気になってくれたのを喜ばしく思ったのだ。 だが、マリアの視線に宿っていた、自分に対する想いには、大神は全く気づくことはなかった。 他にいくら美点があったとしても、大神の最大の欠点は、この鈍感さにあるのだろう。 それがよいのかわるいのかは、誰にも分からなかったが。

「……あ、大神さん。ここにいたんですか?」

無邪気な声が後ろからかけられて、大神は振り向いた。マリアが残念そうな表情になる。 二人きりのほのぼのとした時が終わってしまったことにたいするものだったが、鈍感な大神にはそのようなことはわからなかった。 ちょっと首をかしげたが、そのまま向き直る。彼の視線の先には、売り子の衣装を着た少女が立っていた。

「やあ、椿くん。どうしたんだい?」

気さくにたずねる。その横でマリアがこめかみを押さえた。 大神にその気は全然ないのはわかっているのだが、誰に対しても気さくで優しい瞳を向ける大神の姿は、彼に恋心を寄せるものには浮ついた軽い男に思えてしまうのだ。 時には自分だけを見ていて欲しい。そう思うのは、マリアだけではなく、さくらたち花組全員がそうであった。
そしてそれは、声をかけてきた少女にとってもそうだったようである。

「あ、お邪魔でしたか、大神さん?」

大神の横にマリアがいるのがわかって、椿は自分でも気づかないうちに声を低めて問いかけ、口をとがらせていた。その声に若干の刺があったが、それに気づいたものはだれもいなかった。

「いや、そうじゃないんだが……」大神はあせったように手をばたばたと振った。さくらに浮気がばれたかのようなリアクションである。 「あ、ところで、何かようかい、椿くん?」

「あ、えーと……おひまでしたら、お買い物につきあって欲しいんですけど……」

ちょっと狼狽して、椿は答えた。
(あれ……? 何で私、こんなにあせってるんだろ?)
小さな疑問がふと湧いたが、大神が気楽にうなづくのを見て、たちまち霧散した。

「いいよ。何か力がいる仕事なのかい?」

「あ、はい。内装に使う壁紙ができたそうなので、一緒に取りにいってほしいんです」

「そうか。まだまだ外観だけだものなぁ、ここも」

大神は、自分の立った場所を眺め渡してつぶやいた。
かつて、サタンの住まう聖魔城へ空中戦艦ミカサが突入した際、艦橋を形成していたこの大帝国劇場は、銀座を襲った魔物や発生した大火災などの被害からは免れていた。 さすがに突入の際にあちこちが崩れ落ちたりしていたものの、何とか外観と主要な部分は残っていたので、復興の際にはわざわざ聖魔城からこの建物は帝撃風組によって運搬され、元の場所に移築されたのである。
さらに壁の補修、柱の増強、基本部分の修繕と補強が行われ、銀座にある建物でも最も早く再建されていた。
それでも、内装に至っては、はがれ落ちた内壁やぼろぼろになった観客席、舞台、照明装置などの修繕がまだであり、焼け落ちた衣装やちぎれとんだ大道具、小道具といったものまで含めると、本当に大帝国劇場が再開されるのは年末あたりだろうと思わせた。
だから本来なら、大神も、その修復作業に借り出されなければならないはずなのであるが、大神が手をつけられるほど単純で力のいる仕事がほとんどないため、手持ちぶさたでこのベランダで平和ぼけしていたわけである。

「わかった。じゃあ、いこうか、椿くん」

「あ、はい!!」

気軽に大神は体を起こし、マリアにちょっと手を挙げて挨拶してから椿に歩み寄った。椿も慌てて、マリアにぴょこん、とおじぎをすると、横を通り過ぎる大神の後ろにしたがった。
一人取り残された形になったマリアは、軽く苦笑して頭を振った。さみしそうな表情がわずかにその美貌に宿ったが、それもすぐに消え、彼女はベランダから劇場の中へと戻っていった。


太正時代、まだ道路は石畳の場所は少ない。西洋文化を取り入れ、帝都でも最も繁栄していた銀座でも、大通り以外の道は、昔ながらの地面が顔をのぞかせていた。 それでも人々や人力車などが行き交う主要な道は、踏み固められて多少は歩きやすくなっている。 そう言った裏道には、道端に雑草が茂り、まだ片づけが終わっていない空き地には、近所の家の再建のための資材が山となって積まれている。 まだまだ復旧ははかどっていないのか、藍色の法被姿の職人が道をあちらこちらに駆けずり回り、互いに怒鳴りながら汗を流して働いていた。

「……ここらへんはまだ、あまり復旧していないようだね」

周囲を眺めながら、大神は隣を歩く椿へと語りかけた。壁紙をぐるぐると丸めたものを山のように積んだ荷車を引いている。 これがカンナだったら、2、3本はかついで持っていく所だが、彼女はこのところ他の家々の再建のためにあちこちで働いている。 帝劇のスタァがすることとはとても思えないことだが、「困ってる人を見ちゃあ、黙ってらんねぇんだ」と苦笑しつつ、結構楽しそうに働いているのが彼女らしい。 米田も苦笑して彼女が外で力仕事をするのを認めていた。
そのため帝劇内の力仕事に関しては、大神がほとんどを引き受けることになっている。 荷車を借りて壁紙を取りにいった椿と大神は、できるだけ車を引きやすく、しかも大通りのように人々が大勢往来するために車が邪魔になるような場所をさけて裏道を通って帝劇に向かっていた。

「ええ、そうですね」椿は、周りを見まわして、そっとため息をついた。幼い顔が悲しみに曇る。「何だか、申し訳なく思います。私たちのために、この人たちが苦労しているかと思うと」

空中戦艦ミカサが発進する際、その巨体をうずめていた部分の家々は、甚大な被害を被ることになった。 未曽有の大火と、魔物の襲来にも何とか耐えてきていた家々も、地面の底から轟音と共に上昇したミカサの霊子エネルギーにより、ほとんどがなぎ倒されていたのである。 避難勧告が出され、近隣の市民は全員引き上げてはいたのだが、あまりにもその衝撃波はすさまじく、瓦礫の荒野へと変化していたのである。

「椿くんだけが気にすることはない。これは俺たち全員の責任だからね」

大神も顔を曇らせたが、あえて元気づけるように椿の肩を軽くたたいた。
椿は顔を上げた。驚くほど澄んだ、晴れやかなほほ笑みが、その顔にひろがった。 やや上気したように頬を染めて、大神を見つめる。その笑顔には見るものを惹きこむかのような眩しいばかりの輝きがあった。

「ありがとうございます、大神さん!」

「あ……いや、お礼をいわれるほどのことじゃぁ……」

思わず椿の笑顔に見とれていた大神は、はっ、と我に返って、しどろもどろに答えた。
その様子にちょっと椿は小首をかしげたが、やがて小さくくすくすと笑いを漏らした。

「……何を笑っているんだい、椿くん?」

「あ、いえ、別に……」ややふくれて大神が問いかけるのに、椿は楽しそうな笑いをとめられずに答えた。 「大神さんて、帝撃の隊長のときはとっても凛々しくて厳しいのに、今は何だか、どこにでもいるお兄さんみたいな気がして。 ――あ、別に、悪い意味でいったわけじゃないんです。何だか、かわいくて」

「かわいい……?」 大神は複雑な表情を浮かべた。大の大人の自分に向かって年下の少女が「かわいい」と言ってくる。 妙な気分であった。
(さくらくんにも言われたことはなかったが……)
そんなにかわいいのか、俺って?
大真面目に自問する大神を見て、椿は慌てて謝った。

「あ、ご、ごめんなさい、大神さん。気を悪くなさいました?」

「いや。謝らなくていいよ、椿くん。気にしてないから」大神は笑顔を浮かべて、椿を見た。 「ただ、かわいらしい、って言葉は、椿くんのほうが似合うだろう? だから、ちょっと面食らっただけだよ」

「え……かわいらしい、ですか?」きょとん、となった椿は、次の瞬間、ぱあっと頬を染めた。首筋まで真っ赤になる。 「あ、その、うれしいです、大神さん」

「あ……あはは。そうかい?」

大神も照れたように頭をかいた。何気なく言った言葉だったのだが、本当に嬉しそうに頬を染めている椿を見ると、どうも落ち着かなくなる。 自分の言葉がどれだけ彼女に影響を与えたのか、まるで理解していなかったのだが、なぜか脳裏にさくらのふくれっ面がよぎり、大神は思わず身震いした。
その時だった。

「――よう、兄ちゃん。いいねぇ、彼女と和気あいあいって感じで。こちとらにもわけて欲しいってもんだぜ?」

やや楽しそうな声が、大神たちの後ろからかかった。 セリフ自体は、そこら辺にいるごろつきの発する陳腐なものだったが、そのくせ妙に記憶にひっかかるものを感じ、大神は後ろを振り向いた。 念のため、右腕で椿を背後にかばう。
そして、声をかけてきたものに正対して、大神はあんぐりと口をあけることになった。

誰だ、こいつは? +_+;;

「あ、お、お前っ、神代誠一郎(こうじろ・せいいちろう)!?」

「よう、久しぶりだな、大神!」

大神に声をかけてきた青年は、にっと笑った。 年の頃は大神と変わらないだろう。身長は大神よりも高い。おそらくマリアとカンナの中間ぐらいの背丈だ。 やややせぎすであるが引き締まった肢体といい、隙のない所作といい、何か武道を身につけていることがわかる。
だが、何と言っても特徴的なのは、その髪と顔だちであった。
わずかに赤みがかった金色の髪。彫りが深く、鼻筋が高く通っている。そして大神を見るその瞳は、深海のように深い碧色であった。 そう――日本人の名前ではあったが、彼は、明らかに西洋人の血をひいていたのである。
椿は目を丸くした。帝劇にはマリアやアイリスといった外国人の血を引く少女もいるし、何より客の中には、諸国の大使館の人々もいるので、 とりわけ神代の姿に驚いたのではない。彼の名前が神代誠一郎という、日本人そのものの名前であることだった。

「あ……あの、あなた、日本人ですか?」

思わず口をついて出た言葉に、一番驚いたのは椿だった。はっ、と口元に小さな手をあてる。 きょとん、とした顔で自分に向けられた神代の顔を見て、羞恥心に顔が赤らんだ。

「あ、ご、ごめんなさいっ! 私、変なことを言って!」

慌てて頭を下げる椿を見て、神代は面白そうに口元をゆるめて、大げさな身ぶりで椿に対した。

「オー、アナタガ謝ルコト、ゼーンゼンアリマセンネ! ワタシ、ニホンジン、ダイスキヨ!」

「……おい、神代。変な言葉づかいはやめろ。お前が日本人なのは俺が知っている」

「あはは、そうか? ありがとよ、大神」

軽々しい笑い声をあげて大神の背を叩く。そして改めて、椿に対した。

「オレは一応、日本人だよ。お嬢ちゃん。おやじが、アメリカ人なんだ。――ま、わけありってやつかな?」

「すみません、私……変なことを言って。誰にでも、触れられたくないことって、ありますものね……」

椿は顔を曇らせた。奇妙な影が、その幼い顔に一瞬よぎる。
しょぼん、とした顔を見せる少女を見て、神代は何か考え込むようなそぶりをみせた。 そして、椿に近づき、その小さな体をいきなりぎゅっと抱きしめたのである。

「えっ、わっ、ななな何をするんですかっ!?」

一瞬、訳が分からず目を見開いた椿だったが、見る見るその幼い顔が真っ赤になった。慌てて神代の腕を振りほどこうともがく。

「いやぁ、かわいかったもので、つい、ね」

すぐに腕をほどいて、神代は笑った。ひどく軽々しい笑い顔に、隣で大神が眉を険しくした。

「おい、神代。椿くんをからかうのはよせ。お前と違って、椿くんは純情なんだからな」

「へぇ、椿ちゃんっていうのか、お嬢ちゃんは?」神代は、にっと笑って、椿の手をとった。「どう? 大神なんかじゃなくて、俺とつき合わない?」

「え!?」目を丸くして、椿は神代を見た。「え、あの、でも、私……」

そう言って、椿は、救いを求めるように大神を見た。その表情に含まれた想いに気づいて、神代は大神に顔を向けた。

「おい、大神。おまえ、彼女にずいぶん想われているんだなぁ。うらやましいやつめ」

「え?」言われた大神のほうは、きょとん、とした表情で、神代を見返した。 「別に椿くんは、俺の彼女じゃないが……」

「……え?」面食らったのは神代だった。ぽかん、と口を開けて、大神を見、次いで椿へと顔を向ける。
そこには、ひどく顔を強ばらせた少女の姿があった。大きな瞳が揺れ、血の気が引いた小さな唇が僅かに開いて、小さな声がもれる。

「……そ、そうです……私は、別に……彼女じゃあ……」

そして、やにわにくるり、と身を翻し、椿は駆け出した。キラリ、と何か光るものがこぼれ落ちた。

「あ……椿くん!?」

慌てて声をかけた大神に届いたのは、何か苦しそうな椿の声だった。

「わ、私、先に帰ってますからっ!」

「お、おい、椿くん……」

慌てて追いかけようとして、しかし、荷車を置いていくことはできないことに気づいて、大神は躊躇った。 その間に、椿の姿は曲がり角を曲がったらしく、見えなくなってしまっていた。

「あらら、泣かせたな、大神?」

面白そうにそれを眺めていた神代は、意地悪な視線を大神に向けた。 やや呆然としていた大神だったが、やがて眉をきゅっと寄せて、神代に向き直った。

「お前が変なことを言うからだぞ!? 俺は本当に、彼女とは何でもないんだからな」

「……おいおい大神。おめえ、彼女が何で逃げ出したのか、わかんねぇのか?」

あきれ返って、神代は、大神を見つめた。大神はきょとん、とした顔で、神代に訊ね返した。

「ちょっとまて。彼女が逃げ出したのは、お前がつき合ってくれとかなんとか言ったからだろう?」

「……まじか、おい?」神代は目を丸くして大神に確認した。 「彼女が逃げ出したのは、お前に”彼女じゃない”って言われたからだろうが! そこんとこ、分かって言ってるのか?」

だが、大神にはその言葉は全く意味をなさなかった。真剣な顔で、大神は答えたのである。

「何か俺、悪いことでも言ったか? 本当のことだぞ?」

「……大神、おめえ、ほっっっっんとぉ〜に、鈍いな?」

まさかこれほど鈍いとは思わなかったのだろう。こめかみを押さえ、神代はうめいた。 椿は、大神がきっぱりと言い切ってしまった言葉に衝撃を受けたのである。 神代にはそれがはっきりわかる。いや、神代だけじゃないだろう。もしここに他の人がいたら、十中八九、大神の言葉に椿が傷ついたことがわかるだろう。 わからないのは、大神くらいのものである。
ややあって気を取り直した神代は、首をかしげて考え込む大神の背を叩いた。

「わかった。おめえがあいかわらず女心に疎いことはよぉ〜〜っくわかった。それよりもだ。大神」神代は、ふと真剣な顔で問いかけた。 「お前、海軍に入隊したんじゃなかったのか? 士官学校、首席のまま卒業したんだろ? 何でまた、こんなところでふらふらしてるんだ?」

「あ、それは……」大神の顔に、狼狽の色が走った。ほとんど隠し事が出来ない性格の彼は、思っていることがたちまちのうちに顔に出てしまう。 「えーと、つまりだな……」

それきり大神は、口をつぐんでしまった。帝国華撃團。サクラ大戦における第一の功労者である彼らのことは、一般人には決して公開してはならない。 例えそれが、旧友であってもだった。
帝国華撃團の隊長であると告げられない以上、大神が口にすることが出来たのは、表の顔のことだけだった。

「今は……その、な。大帝国劇場で、モギリやってるんだ、俺は」

「――モ、モギリだぁぁ!?」

神代の叫び声が、路地にこだまする。あんぐりと口を開け、呆けたように大神の顔を見返す。
無理もない。大神自身でさえ、最初に自分に与えられた任務が”モギリ”だと知ったときは、ショックだったのだ。 士官学校を首席で卒業、配属された海軍での見習い期間でも、彼の戦闘能力、指揮判断能力はずば抜けたものだった。 彼が転属になると知ったとき、彼の上官は本当に名残惜しそうに彼を見送ったものだった。
その彼の現在が、大帝国劇場のモギリ……
神代が驚くのも無理はなかった。ぽりぽりと頭をかいて、神代は大神を見た。

「……いったい、何やらかしたんだ? お前ほどの男が、そうそう軍をやめられるものじゃないだろうに……」

「すまない、神代。詳しくはお前にも言えないんだ、こればかりはな」

端正な顔を曇らせる大神を見て、神代は苦笑を浮かべた。

「……まあいいさ。訳ありらしいのはわかるからな」神代は軽く笑い、そして、改めて大神を見た。 「ところで、大神。この荷車、このままでいいのか?」

「あ、いかん、忘れていた!」

大神ははっと我に返り、荷車に駆け寄った。力を込めて、引っ張る。 それを見ながら、神代は興味深そうに訊ねた。

「おい、こいつを大帝国劇場に運んでいくのか?」

「ああ。帝劇の内装に使うんだ」動き出した荷車をひっぱりつつ、大神が答えたのを見て、神代は彼の隣につき、共に荷車を引き出した。 「手伝ってやるよ。旧友のよしみだ」

「すまない。助かる」

「いいってことよ」神代はにたりと笑った。「帝劇にいけば、さっきの娘に会えるだろ? 椿ちゃん、とかいう」

「――それが目当てか?」

「悪いか、朴念仁」

からからと笑って、神代は大神と共に荷車を引っ張り、路地を通り抜けていった。



       (五)


そこは、奇妙な空間だった。よじれ、うねるように周囲が揺れ動く。脈動するように壁がうごめき、ざわざわと騒がしげな声を発する。 身の毛もよだつような不快で生理的に嫌悪感を抱かせる音が周囲を埋め尽くし、共鳴し、大きくなり小さくなり、そして時に、思わず耳をふさぎたくなるような絶叫がこだまする。

ねじれた空間のすき間をうかがえば、そこに横たわる一人の年老いた人物の姿を垣間見ることが出来るだろう。
骨が浮き出、皮膚もまるでぼろきれのように黒ずんでいる。 縮れ、乱れた白髪の影に見える皺深い貌には、どれほど厳しく恐ろしい拷問をすればこのような表情になるのかと思わせるほどに奇怪にゆがみねじれた凍えるような恐怖とむごたらしいまでの絶叫が張りつけられていた。
そしてその人物の腹には、正視に耐え難いほどに奇怪で醜悪なものが置かれてあった。
紅く、禍々しいほどに黒ずんだ、珠玉。とぐろを巻くように飾られた金色の竜が、脈動するように蠢いている。そう、蠢いているのだ。 ちろちろと赤い舌を伸ばし、ゆるやかに首をもたげる。そのたびに紅く黒ずんだ珠玉が鈍く光り、そして、それが置かれている人物の体が痙攣する。 時たま、ひびわれた口から絶叫がもれ、それが周囲の空間をゆがませるのだった。

「……まだ、足りないわね」

静かな、ほとんど囁くような声が、その場に響いた。そして、黒い染みのようなものが空間に浮かぶ。 見る間にそれは実体を伴い、その空間に人の姿を形成した。
黒ぐろとした髪が長く延び、そのほっそりとした全身を包んでいる。ふくよかで成熟した女性の肢体。 夜の闇をまとったかのような黒いドレスと対照的に白く張りのある素肌。そしてそこだけ、血に塗られたかのように禍々しい赤に塗られた唇が、嘲笑を浮かべる。

「まだ、あと三百ほど必要よ。さあ、もっと造魔を。今のあなたにはそれしかできないのだから」

「……」

横たわる人物は、苦しげにうめき声を発した。何かをくりかえしつぶやく。漆黒の女性は、にたり、と紅い唇をゆがめた。笑ったのである。

「わかっているわ。契約ですもの。あなたとの。――わかっている。必ず、復讐は果たしてあげる。帝国華撃團、とやらに、ね。
だから、安心して、造りなさい。私たちの手駒、造魔を」

「……」

「わかっている。わかっているわ」

くすくすと、女は笑う。その白い美貌の影に、まぎれもない嘲弄が宿る。女が決して”契約”とやらを重要視していないことは明らかであった。 だが、横たわる人物は、そのことを確かめるすべはないようだった。繰り返し、ひびわれた唇が、つぶやきをもらす。

「……やつらに、復讐を……

にくい……にくい……にくい……!! われをたばかったあの男も……にくい……!!

帝国、華撃團……!!……にくい……にくい……!! ……やつらを、地獄へ……やつらを……やつらに……

……やつらに、復讐を……っ!!」

「わかっているわ。わかっているわ」

楽しそうに、女は笑う。まるでその人物が苦しみもだえる姿が、とても愛らしいとでもいうかのように。
女は、もう一度、にたり、と気味の悪い笑みを浮かべた。

「わかっているわ。帝国華撃團。やつらに復讐してあげるわ。――だから、安心して、造り続けるのよ、私たちの手駒、造魔を。
ねえ……天海僧正?」

いらえはない。天海と呼ばれた人物は、答えるすべを知らないかのようであった。ただただ、その唇が、痙攣するように蠢くだけだった。

帝国華撃團に、復讐を、と……

闇の女王とただのじじい(笑)



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