(……くっそう! あたいたちがもっと強ければ、あの人たちをあんな顔にさせやしないのに………!)
ひびが入っただけで何とか崩壊を免れた一件の食べ物屋の窓際。
ひた、と、何かをこらえるかのように眉を険しくし、カンナはじっと、食器が片づけられた木製のテーブルを見つめていた。
脳裏に響くのは、繰り返し繰り返し聞こえてくる、断末魔の声。
痛切な、聞くものの魂を引き込むような、もの悲しい声。
(…………助けてよう…………助けてよう…………)
(……痛いよう…………苦しいよう………)
(ああっ…………溶けるよう…………溶けてしまうよう…………痛いよう……だれか…………助けてよう……)
(………熱いよう………苦しいよう…………)
(……………助けて…………助けてよう…………だれか…………だれか、助けてよう…………)
あの日――
屍炎と戦った、あの日。
魔晶甲冑へと一撃をたたき込んだカンナに襲いかかったのは、屍炎の攻撃だけではなかった。
その、透明な鱗の下に蠢く、数知れない肉の塊――ひくひくと蠢く臓器に込められた、断末魔の声。生きながら喰われ呑み込まれ融合させられた、不幸な人々の最後の怨念。
その、ぞっとするような思念が、カンナの脳裏に響き渡ったのだ。
視界に映る魔晶甲冑の鱗に、恨みを込めて見つめ返す人間の顔が重なる。爛れ落ちた腕が伸び、カンナの神武に触れようとする。なでまわそうとする。
その、あまりにもおぞましく悲しい光景に、カンナは怖じ気付いてしまったのである。悲鳴を上げて飛びのいた彼女の神武の左腕が、屍炎の攻撃で切り飛ばされたのは、その直後だった。
一見すれば、屍炎の攻撃を見切ったかにも見えたのだが、実際には、カンナはすでに戦意を喪失していたのである。
(……くっそう! あたいがあそこで怖じ気づかずにいられたら……もっと力を振るえていたらっ!!)
悔しさと情けなさに、体中が燃えるようだった。自分の不手際を、自分の中の弱さを、カンナは呪った。恐怖がこびりつき、思考が停止し、なすすべを持たずにただただ怯えるばかりだった自分を、激しくなじった。
そして、今もまだ、その時に聞こえた声、その時の恨みを呑んだ亡霊に夢まくらに立たれ、夜毎に怯える自分をあざけった。
それでも――それでも、カンナはまだ、立ち直れなかった。
悪夢は繰り返し現れ、カンナに手を伸ばす。ほとんど眠ることも出来ずに、カンナは行き場のない憤り、あせり、苦しみを、ただただ自分自身に向けることしか出来なかった。
目の下には隈があらわれ、落ちくぼんだ眼窩はうつろで生気がない。この数日で、カンナの体重はがクリと落ちた。健康的だった肉体は傍目以上に力を失っていた。
「……力が、欲しい……!!」
誰にかけた声でもない。暗く翳った顔は、木製のテーブルの上に落ちたままであり、その声は周囲に満ちる客の話し声や注文を取る声にかき消されるほど小さな声だった。
だが――
「……ねえ、力が欲しいのかい、兄ちゃん?」
面白そうな声が、カンナの脇から聞こえた。溌剌とした、やや高い声。
ぼうっとした表情のままカンナは声のしたほうに首を曲げた。
視界に入ったのは、十四、五ぐらいの少年の姿だった。
ざんばらの、あまり整っていないぼさぼさの黒い髪。色黒の肌。黒曜石にも似た澄んだ瞳がじっとカンナを見つめている。
彼女が気づいたのを見て、その口がにっと開いた。白い歯がこぼれる。
身なりは、そこら辺の少年と同じような、ひざ丈の着物である。とはいっても、粗末な感じはしない。
どこにでもいる、ありきたりの家庭の少年のようだった。
顔だちも悪くないし、なによりその全身に溢れる生気、見るもの話すものがいつの間にか顔をほころばせてしまうほどに楽しそうな様子は、どんよりと落ち込んでいたカンナをもわずかに元気づけてくれたようだった。
「……おいおい、勘違いしてもらっちゃあ困るぜ」
いつもより元気がないとはいえ、先ほどよりはずっと楽しそうに、カンナは笑った。手を伸ばし、くしゃくしゃと少年の髪をかきまわした。
「あたいは女だ。兄ちゃんはやめてくれ」
「じゃあ、姉ちゃん、かな?」
「カンナでいいよ、坊主」
「坊主はよしてくれよ。おいらには邪介(やすけ)って立派な名前があるんだ」
少年は不服そうに口をすぼめた。その仕種がまたカンナの微笑を誘う。ようやく何か暖かいものが心に満ちるのを感じて、カンナは少年に語りかけた。
「じゃあ、邪介。いっしょにメシでも喰わねえか?」
「え? ほんと? おごりだろうね?」
ぱぁっと顔を輝かせて、邪介はそそくさとカンナの向かいに座った。そういったずうずうしさが、むしろこの少年の無邪気さをよく表している感じがした。
「おばちゃん、焼き魚と芋の煮つけ、こっちね!!」
カンナの答えを聞くこともなく勝手に注文をする。だがカンナもそれを止めようとはしなかった。
奔放さと無邪気さ。
なぜかカンナは懐かしく思った。かつて、まだ沖縄で父親と共に修業をしていたころ――自分も、この少年のような輝いた瞳をしていたのではないか。 溢れかえるほどの自然の中、自分を鍛えることが楽しくて、自分の力がどんどん強くなっていくのが面白くて。
(おやじ、やったぜ! やっと石割りができたんだっ!!)
(今度はあの大岩を砕いて見せるぜっ!!)
胸に去来する、思い出。父親との、大切な思い出。
(さあ、メシにしようぜ、おやじ!!)
(なに言ってんだよ、あたいだってもう8つなんだぜ? なんだってできるさっ!)
カンナの思い出の中の父親は、苦笑していた。ごつい、荒々しい顔、怒鳴りつけ、時には殴りつける、猛々しい空手の師匠の顔
――だが、そのときだけは、カンナの父親は、優しい父親の顔であった。不器用に獲った魚を切り開くカンナを見つめて、ただ笑っていた。
そして、悪戦苦闘の末に何とか食事を作り終えたカンナの頭を、無言でがしがしとかき回していた――
ふと、目の前の少年に、その時の自分の姿が重なる。
照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに笑っていた自分。そしてそれを温かく見守ってくれていた、父親。
何となく、その時の父親の心が分かる気が、カンナはした。
「……それよりさ、カンナ」
すでにタメ口で邪介はカンナに笑いかけた。その声で、ふと、カンナは我に返る。
「ん? なんだ?」
「カンナって、強いヤツ、好きか?」
興味津々、といった感じで邪介は身を乗り出した。くすっと、カンナは笑った。
「んー、そうだな。好きだな」彼女の脳裏に、ある人物の姿が浮かび上がる。 やや照れくさそうに笑って、カンナは邪介を見た。 「強さにもいろいろあるけど、ともかく、強いヤツは好きだな」
「いろいろ?」不思議そうに邪介は首をかしげる。「腕っぷし以外に強いとか弱いとかあんのかよ?」
「まあ、な」
言葉少なに、カンナは答えた。目の前の少年には、まだわからないだろう。
何が強く、何が弱いか。どんなことが本当に強いということか。
それは、少年が成長していくうちに分かることだ、学びとるものだ、とカンナは考えていた。
「……ふうん」
少年は鼻を鳴らしたが、深く追及しようとはしなかった。何故なら、彼の目の前に、注文された料理が出てきたからだった。
「待ってました!」
香味を乗せた焼き魚を、頭から丸ごとがぶりつく。おいしそうに食べる少年を笑いながら見るカンナ。
「……カンナは喰わねえのか?」
「あたいはさっき喰ったばっかりだからな」
苦笑してカンナは答えた。少年が来る前に、すでに彼女は食べ終わり、そのままぼんやりとお茶をすすっていたところだったのだ。
「それより、そんだけでいいのか? 遠慮しなくてもいいんだぜ?」
「ほんとか!?」
もしかしたら本当に遠慮していたのだろうか。少年は魚を口の中に頬張ったまま、瞳を輝かせた。 首を曲げ、厨房に向かって大声をあげる。
「おぶぁふぁん! 焼き鳥と……」
だが、それよりも大きな声が、喧騒の中に響き渡った。
「……おい!! なんだ、この煮物は、あん!!?」
男が数人、ほぼ店の中央に立ち上がり、接客をしていた女性の胸ぐらをつかんでいた。
ひと目で、たちの悪い連中だと知れる。恐喝と暴力によって世を渡る男たち。皆それぞれに腕っぷしが良さそうな体格、そして、辺り構わずまき散らす、暴力の気。
このような輩に馴れていないのだろう、料理を運んでいた女性は恐怖に青ざめ、ぶるぶると震えていた。
周囲の客も、相手の体格と、何より人数に気圧されている。固唾を飲んで、見守るばかりだった。
「こんな臭えメシを出すたあ、いい度胸してるじゃねえか、あ!?」
「……あ……す、すみま……せん……お……お代は……け、結構、で、ですから……」
小さくなりながら謝る女性だが、男たちは全く意に介さなかった。というよりも、どうやらそれが目当てらしい。
ふん、と鼻で笑って、男の一人が勘定場に向かう。
「慰謝料を払って貰うぜ、何せ、小汚ねえメシを喰わされちまったんだからな!!」
「……ったく、てめえらのやってることこそ、臭くてメシがまずくならあ!」
吐き捨てるように呟いて、カンナは立ち上がった。面白そうに見守る少年の頭を軽く叩いてから、男たちに向く。紫水晶の瞳が険しくなった。
「おい、おまえら。いい加減にしねえかっ!?」
よく響く声が、店内にこだまする。男たちが思わず振り返る。
だが、彼らにはカンナの正体も、そしてその実力も、わかりはしなかった。一瞬呆けた顔をしたあと、ふん、と鼻を鳴らした。
「なんだよ、姉ちゃん。俺たちに何かようかい?」
「それとも、痛い目を見たい、ってのかな?」
馬鹿にした笑いが男たちの顔に宿る。
人より抜きんでた長身とはいえ、カンナの体形は、比較的すらりとしていて、一見しただけでは腕っぷしはそれほど強くは見えない。
まして、立ち上がったカンナのくびれた腰、豊かな胸が女性を如実に示しているため、むしろ男たちはいやらしい笑いを浮かべて彼女に向き直った。
「いい体してるな、姉ちゃん。そうだな、あんたがその体で払ってくれるってんなら、こんな小汚ねえやつらは許してやってもいいぜ?」
「おう、そいつはいいや」
「俺たちを相手にしてくれるってんなら、いい場所知ってるんだ。いこうか?」
げへげへと品のない笑いを浮かべる男たち。
だが、カンナの表情には、恐怖も嫌悪も浮かんではいなかった。代わりに浮かんだのは、どうしようもないほど落胆した表情だった。
(……ちぇ、腹ごなしにもなんねえかもなあ、こいつらじゃあ……)
カンナの目の前にたむろする男たちは、自分の実力を知らず、相手の実力もわからない、ただのごろつき。それ以上でも以下でもなかった。
このところ溜りにたまっていた鬱憤を晴らすために、少し暴れてみようか、と思っていたカンナだったが、相手の実力の無さを見た瞬間に、興味が失せてしまっていた。
思わずため息が出てしまう。
「……なんだよ、つまんねえな。もっと強えやつは、いねえのかよ?」
「おいおい、言ってくれるぜ」
どっと笑う男たち。もはやカンナは、憐憫の思いしか男たちには持たなかった。
だが――
「……ならば、俺が相手をしようか?」
低く響く声が、カンナの耳に入ってきた。ちらり、と声がしたほうを眺めて、カンナは思わずぴゅう、と口笛を吹いた。紫色の瞳が期待に輝き出した。
うっそりと立ち上がったのは、身の丈がゆうに2mを越えるほどの大男だった。荒々しく彫り上げたような隆々とした筋肉。
なめし革を巻きつけた腕は普通の女性の腰回りよりも太く、どっしりと地に降ろした脚は、まるで巨木がそこに生えているかのような重量感を感じさせた。
引き締まった胴。体のあちらこちらに走る、周囲より僅かに白く浮き上がった傷あと。
巌のようないかめしい顔に、存外優しそうな瞳をしていたが、その巨体からくる威圧感、そして裡に渦巻く力は、狼藉を働いていたごろつき連中とは雲泥の差だった。
「……ら、羅閻(らえん)のだんな!」
ひっ、と、男たちの顔に、まぎれもない恐怖と畏敬が現れた。数歩下がり、大男のために道を空ける。
「い、いや、だんなが出張るほどのもんじゃあ……」
「……お前たちには判らんのだろうな、あの娘の力が」
ぎろり、と、羅閻と呼ばれた男は、ころつきを睨み付けた。太い眉が険しくなる。
威圧感に圧されて、ごろつき連中はだまりこむ。羅閻はぐいっと巨体を男たちにすすめた。
「しかも、このようなくだらんざれ言で、タダ飯どころか金まで巻き上げようっていうのが、気にいらん。お前たちにはほとほと愛想が尽きたぞ」
「……じ、じゃあ、どうしようってんだい?」
「俺はタダ飯を食うために雇われた分けじゃあない。今ここでお前たちとは縁を切らせてもらう。文句はあるまいな?」
「……」
さすがに、男たちもこの大男を相手にする気はないようだった。しぶしぶながら、頷く。
羅閻はにやり、と凄みを帯びた笑みを浮かべた。
「それでは、お前たち。その娘を放して、きちんと代金を支払ってもらおうか」
「……お、おい、だんな。一転してそいつはねえぜ」男たちの一人が、うめくように言った。「だんなのことは、上には悪く言わねえ。だから、こっちは見逃してくれねえか?」
「縁を切った以上は他人だ。そして、俺はお前たちのように無抵抗の者から金品をせびるような輩は許してはおけん。他人になった以上、そのような狼藉を無視したくはないのでな。 で、どうするのだ? その娘を放すのか? それとも、俺を相手にするか?」
「……じょ、冗談じゃねえ! あんたを相手になんか、できるわけがねえよっ!!」
男たちはあからさまな恐怖を浮かべてぶんぶんと首を振った。娘の胸ぐらをつかんでいた男も、羅閻の鋭い眼光を見て、慌てて手を離す。
「それでいい。あとは代金を払って、とっとと出ていくことだな」
「……ちっ!」
舌打ちをもらしつつも、男たちは素直に代金をとりだし、叩き付けるように卓に置いて、ぞろぞろと店を出ていった。
だが、不平がつい、男たちの間から漏れる。吐き捨てるように、男の一人が呟いた。
「……け、正義漢ぶりやがって。魔物の群れにはなすすべもなかったくせによ」
「仕方ねえよ、帝国華撃團だってそうだろ? 魔物を倒したって言ったところで、被害が甚大すぎて今度魔物がまた出たらだめだっていう噂だし」
「けっ、しょせん、力のあるやつには敵わねえってことか」
男たちの言葉は、捨てゼリフではなかった。羅閻の力を恐れての、けれどどうしても口をついて出てしまった、不平不満の声だった。
だが、むしろそれだけに、その心情は他の客達とそれほど変わらなかったらしい。
男たちが出ていった後に店内にかわされる、ささやき声。
「力のあるやつが、一番か――」
「結局、自分よりも強いものには、かなわないってことだな」
「あの魔物がまた出たら、俺たちも命はないんだろうな……ちっ、へどが出るような腐れた連中だが、言ってることはあたってるぜ」
「でも、華撃團が守ってくれるわよ。また。必ず。信じましょうよ」
「……そりゃあ、俺だって信じたいぜ。けどな……それまでに、あの魔物どもを倒せるだけの、力をつけてりゃ、いいんだが……」
(力……くっそぉっっ!!……)
ぎりぎり、と、知らずのうちにカンナは歯ぎしりしていた。ぎゅっと、手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめる。
力がつくどころか、今や帝撃は戦力がかなり減退している。
酷使された神武は外装をほとんど総取り替えしなければならないぐらいのダメージを負っていたし、カンナ機は内部にまで亀裂が走っていたため、修理には時間がかかっている。
大神の機体に至っては、新たに作り直すしかない。しかも、生産のめどは全く立っていないのだ。
もし、このときに再び魔物が現れたとしたら――帝都を守り切ることは、できないかもしれなかった。
(力が……欲しい……!!)
痛烈に心に湧き上がる思い。悔しさが、カンナの心に渦巻いていた。
その時、カンナの肩に、どっしりとしたものが置かれた。思わず肩に視線を向けると、がっしりとした太く大きな手が、彼女の肩をつかんでいた。
その先をたどっていくと、そこには巨大な男が立ちはだかっていた。羅閻であった。
「あ……おっさん……」
「何をしょげた顔しているんだ?」羅閻はごつごつとした顔に笑みを浮かべて、カンナを見下ろしていた。 「どうした、俺と戦うんじゃなかったのか? それとも、やっぱり俺が相手ではつらいか?」
「あ、ごめん。そんなことはねえよ!」
ようやく我に返って、カンナは苦笑した。しっかりとした視線を羅閻に向ける。
「こっちから手合わせお願いしたかったんだ。喜んで、やるよ!!」
「だが、お前は怪我をしているじゃないか。大丈夫なのか?」
羅閻の言葉に、カンナは、自分の右手に巻かれた包帯に視線を落とした。紅蘭の怪しげな軟膏はかなりよく効いていて、それほど痛みも疼きも感じない。
だが、にじみ出していた血はすぐには止まらず、いまも包帯の表面は赤黒く変色していた。
念のため、カンナは、二、三度こぶしを握り、振ってみた。ほんのわずかに痛みが走るが、いけそうだと踏む。
「うん。心配ねえ。さっき薬を塗ったし、たいした痛みはねえよ」
「そうか。それはよかった。俺も腹ごなしに運動したかったんでな。お前の申し出、ありがたく受けさせてもらう」
「ありがてえ!!」
この大男と戦いあえば、何か得るものがあるかもしれない。漠然とした思いがカンナの心に浮き上がった。 ただ単に強い男と戦える、という気持ちからきたものかもしれなかったが、それでも悶々とひとり悩み苦しむよりは、はるかにいい。 カンナは素直に喜んだ。いそいで懐からいくばくかの金銭を取り出し、卓に置いた。
「おっちゃん、代金ここに置いておくぜ!」
「……あ、カンナ。おいらの分は?」
ずうずうしい声が脇からあがる。カンナは笑って、くしゃっと邪介の頭をかきまわした。
「心配すんな、十分あるよ。足りねえってことはないと思う。そいつを越えない限りはいくら飲み食いしても構わねえからな」
「いや。もういいぜ。これだけで」少年は卓の上にある食い物を詰め込みながら答えた。「おいらもカンナとおっさんの戦うの、見てみてえからね。面白そうだし」
「そうか。見せもんになりゃあいいけどな」笑いながら、カンナは答えた。そして羅閻を見る。「おっさんのほうはいいか?」
「ああ、構わない」こちらも勘定をして代金を手渡ししながら、羅閻は答えた。「邪魔さえしなければ、何人いようと構わない」
「そうだな」
何となく気が合いそうだ、と、カンナは嬉しく思った。大柄ながら、男の動作には歴戦の戦士を思わせる俊敏さがあることが見てとれる。 かなり手強そうな相手だった。おそらく全力で立ち向かわなければならないだろう。まして、右手に怪我をしている今は、手加減などしていたら右腕を持っていかれるのが落ちだった。
「裏通りに、適当な空き地があったぜ」お行儀悪く腹を叩いて満足そうな笑顔を見せて、少年が言った。「あそこなら結構広いから、もってこいだと思うな」
「よしわかった。案内してくれ、坊主」
羅閻があごをしゃくる。少年は頷いた。とっ、と椅子から俊敏に飛び降り、店の外へ軽やかに駆け出す。
「ついてきな、おっさん。カンナ!」
「わかった」
カンナと羅閻は、すぐさま少年の後を追い、店を出ていった。
風が鳴く。切り裂かれる空。穿たれる大地。
肉と肉がぶつかる音。鈍く震え、土が巻き上がる。がつっ、という何かを叩きつける音がする。ぶぃん、と風が逆巻くようなうなり音が耳を震わす。
日差しの中に、交差する影。ぶつかりあう体。巻き上げ、振りおろし、からめ、うがつ音。
ともに眼光鋭く、相手の戦力を奪うために、身につけた全ての力と技を繰り出し、そして相手の攻撃を受け、あるいは流す。
時にその攻撃は圧倒的な重量をもって襲いかかり、防御した体ごと大地をうがち、えぐりとる。
あるいは旋風を巻き起こし、打撃とともに生み出された斬風が肉に食い込む。衝撃が全身を駆け巡る。
心地よい刺激にも感じて、にやりと笑う。そしてまた再び、その力の全てを見せつけるかのように、肢体が宙に舞う……
それはもはや、戦いではなかったかもしれない。
高度に洗練された戦いは、ときに例えようもない美を生み出す。
ぴったりと息の合った舞踏を思わせるほどに、それは、まるで全てを計算し尽くして表した芸術にも等しい戦いであった。
数分が瞬く間に過ぎていく。だが、時間の経過さえもここでは意味をなさないかもしれなかった。
疲れを知らないかのように、戦い合うカンナと羅閻。両者の力量は、ほぼ互角であった。
「……すげえな、おっさん。あたいの攻撃があんだけ通じなかったなんて、初めてだぜ」
「……何を言うか。右手がたいして使えないくせに、俺の打撃をまともに受けて立ち上がるようなやつが!」
十分を越える攻防の末、結局二人は拳を降ろした。これ以上になれば、どちらかは確実に死ぬ。
実力が伯仲している以上、たったの一撃が雌雄を決するだろう。そしてそれは、確実に相手を死に至らしめる。
そう考えた時点で、二人の対決は終了していた。
ともに、相手を殺す気は全くない。この勝負は、相手を殺すことを目的としているわけではないのだ。
それに、これほどまで実力が伯仲している相手を、失う気にはならなかった。
これほどに力のある相手は、実に得難い存在だった。自分の力を高め、引き出してくれる相手。
死闘ではない。相手を殺しても何の意味もないのだ。武道家としての戦いは、戦士としての戦いとは違う。生死をかけた戦いとはおのずと違う。
二人とも、その気になれば相手を殺すことが出来るほどの力を持っている。だが、それを今相手に振るうことはない。この戦いは、ともに武道家としての戦い、殺し合いではないのだから。
「なんだあ。もう終わりかよ?」
つまらなそうに不平を言ったのは、邪介だった。
縦横二十mぐらいの空き地の片隅に積み上げられた材木にちょこんと座り、足をぶらぶらさせながら、少年は二人の卓越した武道家の戦いを眺めていた。
黒い瞳は楽しそうにきらきらと輝き、技のかけあい、力のぶつかりあいを楽しんでいたのだが、二人の拳が下がり、周囲に充満していた気が収束していくのに、残念そうな表情を浮かべた。
「まあ、そう言うなよ、邪介」
さっぱりとした、見ているものも気持ちの良くなるような爽やかで晴れやかな笑顔を浮かべて、カンナは少年のもとに帰ってきた。 その彼女に肩を並べるようにして、羅閻もやってくる。ごつい顔には充足した笑みが浮かび、その鋭い瞳は称賛の念を持ってカンナに向けられていた。
「その年で、しかも女の体で、よく俺にあれだけのダメージを与えられるもんだ」 その言葉には邪念はない。心からの感嘆が含まれていた。「名前を聞いてなかった。何て名前なんだ?」
「ああ、そういやそうだったな」照れくさそうに笑いながら、カンナは自分よりも背の高い男の顔を見上げた。「カンナ。桐島カンナだ。おっさんは?」
「俺は、羅閻――まあ、通り名ってやつだがな」
「通り名っていうと、本名が別にあるのか?」
「まあ、な。――もう、ずいぶん前に捨てちまったから、忘れちまったが」
羅閻は苦笑して、言葉少なに答えた。たぶん、何かしら訳があるのだろう。
だが、カンナはそんなことには興味はなかった。格闘家の世界では、強そうな名前をつけることで自分を鼓舞することはよくあることだし、実力と言うものは名前についてくるものでは決してなかったからだった。
まあ、時には勘違いしている輩もいることはいるが、目の前に立つ男は決してそのような者でないことは、先ほどの戦いで十分にカンナにはわかっていた。
「しかし、参ったな」羅閻は自分の手荷物から大判の手拭いを取り出して汗をふきながら、苦笑した。「まだまだ俺も力不足だ。こんなのでは帝国華撃團にも負けちまうな」
「――華撃團?」
同じように懐から出した手拭いで汗をぬぐっていたカンナは、羅閻の言葉に手を止めた。その紫色の瞳が、不審そうに男に向いた。
「おっさん。帝国華撃團と、戦いたいってのか?」
「まあ、な」笑いながら、羅閻は頷いた。「何しろ、帝国全土を震撼させた魔物を退治したすご腕ぞろいだからな、あいつらは。 格闘の頂点を目指すものにとっては、一度手合わせしてみたい相手だ。誰もがそう思うだろう?」
「……」
カンナの瞳が、探るような光を帯びて、羅閻に向けられた。だが、それに気づいた様子もなく、乱暴に顔を拭いながら羅閻は言葉を続けた。
「この前の日比谷での戦いのとき、俺も実際にこの目で見たが、なかなかの腕前だった。何せ、俺の技が通じなかったあの小汚ねえ魔物を、倒したんだからな。 体が震えて、仕方がなかった。本気で、あいつらを倒したいと思ったもんだ」
「そうか……そんなに強かったか?」
「ああ」深く、力強くうなづいた羅閻だったが、ふと悲しげな顔になった。「まあ、それでもひときわ大きな、薄気味悪い化け物には敵わなかったけどな」
「……」
意図したものではない。それはカンナにも十分わかっていた。だが羅閻の言葉は、カンナの最も痛いところを突いていた。 端正な顔を伏せて、カンナはぐっと歯をくいしばった。羅閻の攻撃によってもたらされた体の痛みよりも、それははるかにカンナに堪えた。
「……なあ、羅閻のおっさん」
しばらくして、呟くようにカンナは羅閻に問いかけた。汗を拭き終え、邪介の隣に体をもたれかけさせていた羅閻は、静かな瞳をカンナに向けた。
「おっさんは……夢を、見たことはあるか?」
「夢?」不思議そうな顔で、羅閻は問い直した。「どんな夢だ?」
「……」
かなりの間が空いた。だが、羅閻は催促もせずにただ黙ってカンナが語り出すのを待っていた。
その気配、優しくカンナを見守る羅閻の様子にようやく心を落ち着けて、カンナは言った。
「このごろ、夢にみるんだ。――強い、とてつもなく強くて、そして、不気味だった、あの化け物……この間帝都を襲った、あの化け物が、あたいに向かってくるんだ。
濁った目であたいを見て、腐った腕を伸ばして、けがらわしい爪を振り上げて。
そして、それだけじゃねえんだ。なんていうか――あの化け物に呑み込まれたのか、喰われたかした人々の亡霊が、青白い顔で……あたいに、向かってくるんだ。
助けてくれ…………助けてくれってな。あたいには、成仏させてやる力なんてねえのに、よ。
……あたいは、憶病になっちまったのかな? とても、怖いんだ。体が震えて、どうしようもないんだ。
くっそぉ……情けなくなっちまうぜ。あたいは、もっと強かったはずだ。少なくとも、相手を恐れることはなかったんだ。亡霊だって、怖かねえはずだったんだ。
なのに…………なのに…………」
ぐいっと、拳を握りしめる。がたがたと震え出す、カンナ。紫水晶の瞳は怯えを如実に表し、端正な顔は青ざめ、まるでか弱く幼い少女のような風情だった。
それは、常日ごろのカンナを知るものには、信じられないような姿だった。
羅閻は、黙ってカンナを見ていた。彼にとってもカンナのこのような姿は意外だった。先ほどまで自分と互角に渡り合っていた少女。
自分の剛拳を喰らいつつも敢然と立ち向かってきた少女。その彼女がこれほどまでに怯えるとは、にわかには信じられなかった。
だが、やがて羅閻は、静かにカンナの肩にそのごつごつとした手を置いた。
「……俺にはよくわからんが、怖がることは悪いことじゃないと思う。そして、お前には立派に力があるんだと思うぞ」
「……え?」
うつむいていたカンナは、その意外とも思える言葉に、びっくりして顔を上げた。明るい紫水晶の瞳が丸く見開かれる。
その綺麗な瞳を正面から向けられて、やや羅閻は照れたようだった。苦笑を浮かべてそっぽを向き、その鼻の頭をかいた。
「……ま、たいしたことじゃないし、俺もうまく説明は出来ないんだがな。
そいつら――お前の言っている、亡霊って奴らは、お前に助けてほしい、って言っているのだろう?
ならば、そいつらは、お前がそれだけの力を持っているということを信じているわけだ。少なくとも、そう思わせるだけの力が、お前にはあるはずなんだ。
お前の中に、何かが眠っている。そしてその力で、その亡霊達を浄化できるのではないかな?
少なくとも、俺はそう思うし、先ほどの戦いでも、お前の中にもっと強い力があることは感じられたんだが……」
「……ほ、ほんとかっ!?」
勢い込んで、カンナは羅閻に詰め寄った。その紫色の瞳が狂おしいばかりの希望にあふれた。
「あたいに、そんだけの力があるって、おっさん、感じられたのかっ!?」
「……まあな」少しばかりその勢いに目を丸くして、羅閻は頷いた。「俺も一応、戦いの世界に生きている。相手の力を、相手に眠っている力を感じることは出来るさ」
「そ、それじゃあ、ほんとなんだな、おっさん? あたいに、それだけの力があるってのは?」
「まだ、どう孵るかわからん力だがな」
今度は軽く微笑んで、羅閻は頷いた。カンナのあまりのはしゃぎぶりがほほ笑ましかったのだろう。大きな手で安心させるようにカンナの頭をくしゃくしゃとかきまわすと、言葉を続けた。
「今はお前は、自分の中に力があることを信じて、そいつを高めていけばいいと思う。
あせることはない。恐れも、あきらめずに立ち向かっていけばいつかは晴れる。
大事なのは、気持ちの持ちようだと、俺は思うぞ。今を不安に思ったら、不安に思わないようにすればいい。前を向いて、自分にできることを考え、恐怖を克服しようとしていけばいい。
お前はただ、前を向いていけばいい。そして、最後まで諦めずに、努力を放棄せずにいれば、きっと道は開けるさ」
「……ただ前を向いて……最後まで、諦めない……」
ぶつぶつと真剣な顔で呟くカンナを見て、自分で言っていることが恥ずかしくなったのだろう、羅閻は首筋をぽりぽりと掻いて笑った。そのごつい顔が、そうしていると妙にかわいらしくなる。
浅黒くてよくわからないが、わずかに頬が赤らんでいる気がする。
そんな羅閻の様子を見て、何となくカンナはおかしくなった。少年のような端正な顔がほころんで、白い歯がこぼれた。
「そうだな! 最後まで諦めずに努力すれば、怖くもなくなるよな!?」
「ははっ、ま、そうだろうな」
羅閻は大柄な体を丸めた。首筋をひっきりなしに掻く。よほど照れているらしかった。
「ありがとよ、羅閻のおっさん!! あたい、何だか、元気がでてきたよ。あんたに会えてよかった!」
「そ、そうか?」
その、あまりにもあけすけな感謝の言葉に、羅閻はもうたまらなく恥ずかしくなったらしい。はた目にもわかるくらいに赤くなった顔を背けて、ずんずんと、空き地の中央に歩き出す。
そして、そこから背中越しにカンナに声を寄越した。
「ついでだ、カンナ。俺のこの奥義を見ていくがいい」
「え!?」
驚きにカンナは目を丸くした。武人が自らの奥義を見せるなどということは、まずほとんどない。技を盗まれることを最も厭うからである。
もちろん、いざというときには見せざるをえないが、行きずりの他の武道家の目の前でそのようなものを見せることは、よほどその人物を信頼していなければ有り得ない話だった。
だが、空き地の中央に立った羅閻は、全くそのようなことには頓着しないようだった。軽く足を開き、ふうと小さく息を吐くと、何かに集中するように軽く目を閉じた。
そして、ゆっくりとした呼吸を数回繰り返した後、いきなりぐぐっと全身に力を込め始めた。
「……」
カンナは思わず目を見開いた。彼女の見ている前で、風が渦巻き、力が満ちあふれ始めた。
びりびりと、鈍い音がする。まるで帯電しているかのように髪が逆立つのをカンナは感じた。風の流れが、羅閻を中心にして吹き上がっているのだ。
とてつもない力が、その場に吹き荒れる。
そして、羅閻は銅鑼声とともに、技を繰り出した。
「羅漢・鍾力離魔(らかん・しょうりきりま)!!」
どおん、という爆発音を響かせて、羅閻の技が炸裂した。カンナは体が浮き上がるのを押さえ切れなかった。背後に積み上げられた材木が、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。
少年の慌てた声が聞こえた。どうやら材木が崩れたおかげで足を滑らせたらしい。カンナの足元に転がり落ちた邪介は、ばつの悪そうな顔で、立ち上がった。
だが、カンナはそんなことには気を止めてもいなかった。ただただ呆然として、目の前を眺めていた。
羅閻の立った場所を中心にして、とてつもない大穴が、彼女の目の前に広がっていた。深さは大人の背丈ほどもあり、カンナでさえも頭が出るかどうかというほど。
穴の直径は空き地の広さぎりぎりで抑えられているが、もしかしたらそれはこの目の前の大男が加減をしたからかもしれなかった。
「……ふう」
小さく息をついて、羅閻はカンナを振り返った。その厳しい顔に、わずかに照れた笑いが浮かんだ。
「まあ、こんなもんだ。さすがに人を相手に振るう技じゃあないがな」
「……すげえ、すげえよ、おっさん!!」
呆然とした表情だったカンナが、はじかれたように羅閻のところへとかけだした。その明るい瞳が尊敬に染まる。 少年のように無邪気な笑顔で、カンナは羅閻のそばに来た。
「こんなすげえ技、めったにないぜ。おっさん、すげえよな!!」
「おいおい」羅閻はわずかに苦笑した。「お前だって、このぐらいの技を持っているだろう? さっきは振るわなかったが」
「……あ、ああ、まあな」ふっと我に返って、カンナは真顔で頷いた。「あたいの技も、下手をすると人命にかかわるからな。おいそれとは出せやしねえけど……」
「俺のこの技も、そんなもんだ。ただ、この前現れた化け物相手に一度、振ったんだが……結局、あんまりダメージを与えられなかったがな」
「でも、すげえよ、おっさん。こんだけの技があるなんて」 喜びを全身で表してカンナは言ったが、ふと、不思議そうな顔になった。 「けど、どうして、あたいなんかにこんなすげえ技、見せてくれたんだ? 奥義なんてもんを、そうほいほい見せるもんじゃねえだろ?」
「それはそうだが、お前には何だか見せたくてな」羅閻の表情は穏やかだった。じっと、まるで愛弟子を見るかのような落ち着いた、優しい瞳でカンナを見た。 「落ち込んでいるお前が元気になるならば、これぐらいの奥義は見せてもいいと思ったのでな。 ――なあに、心配することはない。俺にはまだまだたくさん、奥義があるからな。こんな技の一つくらいは、見せても構いはしないさ」
「……ありがとよ、おっさん」わずかにうつむいて、カンナは言った。「何となく、元気が出てきたよ。おっさんのその心、確かに受け取ったぜ!」
「それでこそ、俺といい勝負をしたときのカンナだ」
羅閻は豪快な笑い声を上げた。さっぱりとした、頼もしい声だった。
カンナはその声を、どこか懐かしく聞いていた。とても、とても懐かしい声だった。いつかどこかで聞いたことがあるような――不思議な感覚が、カンナを襲っていた。
だがそれは、とても心地よく、カンナの裡に巣くっていたもやもやとしたものを、まるで春の日差しがうっすらと積もっていた雪を溶かすかのように、優しく、暖かく溶かしていった。