だが――
永遠に眠りについているかに見えたそれは、その時、ふと身じろぎをした。
きしむような音を立てて、わずかに腕があがる。格子がはめ込まれた頭部に、淡い光が灯る。
赤――いや、もっと淡く、白い――茜色の光。やわらかな、どこか暖かなその光は、武骨なそれの灯す光にしては、どこか優しげだった。
何かを仰ぐように、それは頭部を上にあげた。しばし、まるで何かを見守るように宙の一点に向いたままで止まる。
だが、すぐにそれは、再び頭部を下げた。腕がだらりと垂れ下がり、その優しい茜色の光も、崩れるようにちらちらと散っていく。
そして再び、部屋に静寂が戻った――
「……隊長、ほんとうに申し訳ありませんでした」
帝撃花やしき支部。地下の医務室。
かいがいしく大神の傷の手当てをしている椿を見ながら、悄然としてマリアは頭を下げた。
だが、その翡翠色の瞳には不快そうな、というか、はっきりいってしまえばうらやましそうな心が現れている。
大神の怪我自体は、大したものではない。紅蘭の言う通り”おしおきくん”の発射した電撃は威力が小さく、軽い火傷程度で済んでいる。
だが、大神の危機を目の前で見せつけられていた椿の怒りは、その火傷の跡を見てさらにふくれあがっていた。
「いくら実験でも、程度というものがあると思いますっ!!」
綺麗な澄んだ茶色の瞳からぽろぽろと涙をこぼらせて、椿は、きっ、と少女達を睨みつけた。
日頃はどちらかというと大人しい彼女だけに、その怒った姿は歴戦の少女達でさえも黙らざるをえないほどの迫力であった。
しかも、今回はちょっとばかりやりすぎたという思いが彼女たちの中にもあるので、反論することも出来ない。
特に、本来ならば止める立場のマリアが一緒になって騒いでいたことが決定的に椿の逆鱗に触れてしまったらしい。
見ていて切なくなるようなほど悲しそうな顔で、
「私、マリアさんなら、こんな危ないことやめさせてくれるって信じてたのに……」
と言われたときには、マリア自身でなくても深く後悔してしまいたくなったものだった。
あのすみれやアイリスでさえも、椿が大神の手当てをする、と宣言したときに反対しなかったほどである。
そして今、椿は丁寧な手つきで、大事そうに大神の全身の傷に薬を縫ったりガーゼを当てて包帯を巻いたりしているのであった。
(……うう、うらやましい……)
四人の少女達のどの顔にも、そんな表情が何処かしら漂っている。 だが、椿はぷくっとふくれたまま、そんな彼女たちの視線など気にしていないかのように手当てを続けていた。
「い、いや、気にすることはないよ、マリア」
そんな少女達の間に漂う空気に気づいたのか気づかないのか、大神はあせった様子で首を振った。
「実際、怪我だってたいしたことはないし。な?」
だが、大神の言葉は手当てをしている少女の癇に触ったようだった。きっ、と面を上げた椿は、泣きそうな顔で大神を睨み付けた。じわっとまた涙が浮かんでくる。
「たいしたこと、ありますっ! もし、打ち所が悪かったら、こんなものじゃ済まないんですよっ!? わかってます、大神さん!?」
「うっ……わかった。悪かった。ごめんよ椿ちゃん。だから、泣きやんで」
またうるうるとし始めた椿を、困った顔で大神はなだめた。どうしようもない、と言いたげに、小さく肩をすくめて見せる。
椿の涙攻撃は、かなり大神にダメージを与えるようだった。
「……ところで、紅蘭」話題を変える必要を感じて、大神はしょんぼりとうなだれている紅蘭に問いかけた。「さっきのことで、何か判ったかい?」
「……あ……うん……」ひどく落ち込んだ顔で、大神を見ようともせずに紅蘭は言った。「まあ……ちょいとばかり、な……」
「へえ。さすがは紅蘭だ」
大神は大げさに感心して見せた。紅蘭の落ち込みようを思んばかってのことである。
特に今回は紅蘭自身が行った実験であり、それだけに深く傷ついていることが察せられたのだ。
紅蘭もそんな大神の気持ちに気づいたらしい。小さく、弱々しい笑みを浮かべて見せた。強ばってはいたが。
「おおきに、大神はん……」
小さく一息ついて、紅蘭は真面目な顔になった。そして、大神やマリアたちを見回して、ゆっくりと話し出した。
「椿はんの力についてやけど……とりあえず、霊力やないのは、確実やった。椿はんに向けられていた霊力感知器は、どれもほとんど変化しておらへんかった。
せやけど、奇妙なことにな、あの光の羽根が現れたとき、他の場所に向けられていた霊力感知器に反応があったんや。
けどなぁ……どうも、何と言うか、ようわからんのや」
彼女にしては珍しく、言いよどむ。その様子に不審そうに表情を曇らせて、マリアが訊ねた。
「紅蘭、あなたにしてははっきりしないわね。一体、何なの? とりあえず、状況だけ説明して」
「うん……ほな、とりあえず」
そこで一度言葉を切って、紅蘭は言葉を続けた。
「実はな……霊力が感知されたんは、大神はんのいた場所なんや。詳しく言うとな――大神はん自身なんや」
「隊長自身?」
それを聞いた瞬間、マリアをはじめとする他の人々はみな一様に呆れた顔をした。
「そ……そんなの、あたりまえではありませんの?」一同を代表するように言ったのはすみれだった。 「少尉には霊力がおありですもの。感知されて当然。――なぜそれが奇妙なことですの?」
「まあ、普通に考えれば、そうなんやけどな」
小さくため息をついて、紅蘭は説明した。
「大神はんから感知された霊力がな、ちょいとばかり、妙なんや。なんやようわからんのやけど、発生した霊力の状況が、妙なんや。
――どう言ったらいいんやろ?……そやなあ、大神はんの特殊能力、ウチらに対しての絶対霊力防御能力があるやろ? あれに、よう似とるんや」
帝撃隊長である大神には、その霊力に独特の能力がある。それは、花組の少女達の霊力波動に自分の霊力を同調させ、一瞬のうちに空間に霊力による障壁を展開する能力である。
霊力波動の一致と霊子トンネル効果による霊子エネルギー体の空間障壁展開。
これは、物理的あるいは霊的衝撃を全て完全に防いでくれる、まさに絶対防御能力であった。
「……ということは、まさか、椿の能力というのは隊長の能力と同じものなの?」
大きく目を見開いてマリアが問いかけると、困ったような表情で紅蘭は首を振った。
「そこがようわからんのや。現象としては同じものやと思うんやけど。――あの光の翼。あれが大神はんの絶対霊力防御障壁と同じ効果を示したんは、確かなんや。
けどな。そこからがわからへん。霊力のトンネル効果も感知されてへん上に、椿はん自身からは霊力が感知されてへんときとる。
霊力波動の一致も見られへんのに何であんな障壁を展開出来るんか、そこらへんが皆目見当つかへんのや。
なあ、アイリスにすみれはん。あんさんたちは、あの時何か霊力みたいなのを感じたやろか?」
「え……?」
突然話をふられて、すみれは目を丸くした。そして、よく判らないながらも黙って紅蘭の言葉を聞いていたアイリスと顔を見合わせる。
お互いの顔に否定の表情を見てとって、同時に紅蘭に向き直り、首を振った。
「せやろな」小さく肩をすくめて、紅蘭は頷いた。「霊力感知器でも、拾うたのは大神はんの霊力だけなんや。他のものは一切感知できへんかった。 それにな。大神はんから感知された霊力も、ちょいとばかりおかしいんや。何か、妙に純粋というか……エネルギー体として完全になっていると言うか」
「……もう少し、わかりやすく言ってくれない、紅蘭? 純粋って、どういう意味なの?」
「うーん。判りやすいかどうかわからへんけど、例えばや。いまウチらが使っている炭は、実は完全な炭やない。何割かは不純物が混じっているんや。
ウチが開発した高純度燃焼炭でも、1、2%ぐらいは不純物が混じってしもうてる。
ま、完全な密室、空気さえないような、ほんまもんの真空状態の密室の中でなけりゃあ100パーセント完全な炭はできへんのやろけどな。
ウチらの霊力も、実はほんの少しだけやけど、いろんな不純物が混じっているんや。
その時の感情や体調によって変化するんやけど、どうしてもエネルギー体としては不完全なものしか出せへんのや。
せやのに、あの時に感知されたんは、ほぼ100パーセント純粋なエネルギーとしての霊力やったんや。こんなもん、アイリスかて出せへんもんやで?」
「……」
「……まあ、こないなこと言ってても、しゃあないな」
黙り込んでしまった一同を見回して、紅蘭はやや苦笑を浮かべた。
「他にもいろいろわからん事があるんやけど、それは置いておいて、や。ウチの仮説を言わせてもらうと――
椿はん。あんたの力は、かなり特殊な力みたいや。
霊的防御、それも、防御対象となる霊力保持者自身の霊力を高め、純化させることで防御能力を上げたり、大神はんのような防御障壁を展開する能力。
そいつが椿はんの力やとウチは考えとる。……ただ、これは状況から推測したもんに過ぎんし、その力の源となると、未知の力やという以外にないけどな。
結局、ウチに説明出来るんは、こないなことしかあらへん。
――すんまへんな、大神はん。あんたを危ない目にあわせてもうて、得られたのがたったのこれだけやなんて……」
「……いや、何もないよりははるかに増しさ、紅蘭」
椿に手当てしてもらい包帯を巻いてもらった腕を屈伸させて動き具合を確かめながら、大神は微笑んで紅蘭に言った。
「それだけ判れば、椿くんの力の使い方も見えてくる。それに、今は詳しく調査しているほど悠長にはやっていられない。実戦で使える力であれば、それを鍛えることが最優先だ。調査はおいおいやっていけばいい」
「……ということは、大神隊長は高村椿を実戦に出すのでしょうか?」
静かに声を発したのは、それまで黙っていた由里だった。花組の少女達の後ろでじっと聞き耳を立てていたのである。
快活そうな明るい表情のかわりに彼女が今その小さな整った顔に浮かべていたのは、帝撃風組の隊員としての彼女の表情だった。
静かな、どこか作り物めいてさえ見える無機的な表情。その栗色の瞳はひたりと大神に向けられ、薄くルージュをひいた唇も真一文字に閉ざされたままだった。
そんな彼女を、花組の少女達や大神は、唖然として眺めた。
いつもの、闊達でおしゃれな、明るくにぎやかな彼女はそこにはいなかった。
常日ごろ元気な彼女しか知らない彼らにとっては、まるで別人を相手にしているかに感じられたのであった。
あっけにとられている彼らを冷たささえ感じられる瞳で見回した後、由里は再び大神に瞳を向けて、もう一度言った。
「高村椿を帝撃風組から花組へと異動するということでしょうか?」
「……あ、ああ」しばし呆然とした後で、大神は頷いた。端正な顔が真面目な表情になる。 「そのうち辞令が届くとは思うが、椿くんの異動は米田司令による決定事項になっている」
「……わかりました」
小さく、由里は呟くように言った。その表情が、瞬時に元の元気のよい娘の表情に戻った。
「ちょっとさみしいけど、米田司令の指示じゃあ仕方ないわね。椿ちゃん、頑張りなさいよ!」
「え……あ、はい」
よく状況がわかってないのか、椿はきょとん、とした顔で、とりあえず頷いた。
そんな彼女を見る由里の顔に、心配そうな、悲しそうな表情が宿る。笑顔を消し、真剣な顔で由里は大神に言った。
「大神さん。椿ちゃんを頼みますよ。……この子は、戦いには向いていないんだから。身を守る術だって、身につけていない、普通の娘なんだから」
「あ、ああ」
由里の真剣な表情に気圧されながら、大神は頷いた。確かに椿を見ていると、戦いに向いているとはとても思えない。
外見だけではなく、能力的に、そして何より性格的に、戦いに向いているとはどうしても思えないのである。
あまりにも普通であり、どこにでもいる普通の少女。剣や鎗などの武道を身につけているわけでもなく、霊力もない、ごく一般の少女。
帝撃の一員とは言っても、少なくとも椿は前線で戦うよりも後方での支援作業に向いている少女、敵をその手で殺すことなど出来ない少女だった。
そんな彼女が、戦いの場に出される。直接敵を間近にし、そして敵を殺し、その命を奪いとる行為をしなければならない場所に行く。
敵や味方の血糊にまみれ、うらみを呑んで倒れていく敵の屍をその足の元に踏みつけ、さらに血を流す行為を繰り返す。
そのようなことを考えただけで、由里は胸が押しつぶされる思いがしていた。可憐で純真、穢れを知らない無垢な少女を戦場に駆り立て、その真っ白な心を血で穢すことに対する罪悪感。
大神にも、今どんな気持ちで由里がいることかは、よくわかっていた。
大神自身でさえもその罪悪感にさいなまれているのだ、まるで姉妹のように仲のよい由里には、こらえ切れないほどの痛みと苦しみが襲いかかっていることだろう。
「……わかった、由里くん」大神は、表情を曇らせている由里の肩をそっと抱いた。切れ長の瞳を向けて、優しく答える。 「約束するよ、由里くん。椿くんを危ない目には合わせない、と。傷つけたりさせない、と」
「大神さん……」
淡く、由里は微笑んだ。栗色の瞳に信頼を込めて、由里は大神を見上げた。
「お願いしますね、大神さん」
「ああ」
大きくはっきりと、大神は頷いた。そこに込められた決意に、由里は心の底から安心したように、笑った。そして、ちょっと含羞んだように頬を赤らめて、顔を花組の少女達に向けた。
「あーあ、あたしも大神さんを好きになっちゃおうっかなぁ?」
「えええっっ!?」
いっせいに狼狽の声を上げる少女達を、由里は満足そうに見回した。くすくすっと、楽しそうな笑い声をあげる。
「冗談ですよ、みなさん。そんな怖い顔しないでよね?」
「……ま、まったく、驚かさないでくださいな、由里さん」
ほっと胸に手を当てて呟くすみれ。もちろん他の少女達の気持ちも同じだった。
まったく、ただでさえ椿という手強い恋敵が現れたばかりだというのに、ここで由里にまで参戦されたら、たまったものではない。
(……でも、注意しておくのに越した事はありませんわね)
脅かさないでくれよ、と情けない顔で言う大神をにこにこと笑ってあしらっている由里を見て、すみれは要チェック人物に彼女を加えることを決意した。
(まだまだ、わたくしにだって勝機はあるんですものっ!!)
絶対にものにしてみせますわっ!!と決意もあらわに燃えるすみれであった。しかし、彼女は気づかなかった。他の少女達とて思いは同じであることに。
(よっしゃ、ウチかて由里には負けへんで!)
(まだまだ、私にだってチャンスがあるわ、必ず!)
(お兄ちゃんには、アイリスだけを見てもらうんだもんっ!)
(……大神さん、私を守って下さいねっ!)
それぞれの思いを込めて大神を見つめる少女達。
大神の受難の日々は、深刻化しそうな気配だった。
「……よう、隊長! なあにしけた面してんだよっ!?」
「……カ、カンナ……!?」
暮れなずみ始めた空の下、帝劇に帰りついた大神たちを出迎えたのは、にこにこ顔のカンナだった。 あの、悄然としてどこか危うかった様子は、すっかり消えうせている。朗らかな笑顔を向けてくるカンナを見て、思わず大神は声をかけた。
「カンナ……君は、もう大丈夫なのか?」
「え?」きょとん、としたカンナだったが、やがて、地下での出来事を思い出したらしい。照れくさそうに頭をかいて、大神に頭を下げた。 「悪かった、隊長。あたい、どうかしてたんだ。たぶん、あせってたんだろうな。……もう、心配ねえ。あたいはもう大丈夫だ」
「……それは、よかった」
どことなく釈然としない顔で、大神は頷いた。何かにとりつかれたように血まみれの拳を振るっていた、あの時の様子を思い浮かべると、まさかこれほど早くカンナが立ち直ってくれるとは思わなかったのである。
しかし、元気をとりもどしてくれたは確かに喜ばしいことだった。すぐさま笑顔を浮かべる。
「何にしろ、吹っ切れたのならよかった、カンナ」
「……心配かけちまったみてえだな、ごめんよ、隊長」
「いや、いいさ。カンナが自信を取り戻してくれたんなら、俺には何も言うことはない」
安堵の表情で笑いかける大神を、カンナはじっと見つめた。その端正な顔が本当に嬉しそうに自分に向けられていることに気づく。
(隊長……ほんとに、心配してくれていたんだな……)
(ありがとよ、隊長……)
彼女の心に、暖かい思いが満ちた。好きになった男が、自分のことを心から心配してくれ、そして立ち直ったことを誰よりもよろこんでくれている。 それは、カンナにとっては涙が出るほど嬉しいことだった。
(こんなにこの人に心配かけちまうなんて……あたい、やっぱりどうかしていたんだな)
ようやく気づく。自分が、周りを見ていなかったことに。
そうだったのだ。自分には、頼れる人がいたのだ。苦しみを和らげてくれる人が。
(あせることはない……たた、前を向いていればいい……)
羅閻の言葉が思い起こされる。
(ほんとにその通りだよ、羅閻のだんな……)
心から、気持ち良さそうに、カンナは微笑んだ。
そしてその夜、彼女には久しぶりに、夢も見ることなくぐっすりと眠ることが出来たのだった。
「……さくらくん、いるかい?」
軽いノックの音とともに聞こえた声に、ベッドにぼぉっと横になっていたさくらは、慌てて起き上がった。
背に流れる黒髪をまとめるリボンを結わえ直し、たもとをしっかりと合わせて、深呼吸をする。
そして、できるだけ明るい声で、さくらは答えた。
「……はい、どうぞ」
「おじゃまするよ、さくらくん」
ドアを開けて入ってきた大神は、切れ長の瞳をじっとさくらに向けた。その端正な顔に浮かぶ心配げな表情に、さくらは微笑んで問いかけた。
「何かご用ですか、大神さん?」
「うん。さくらくんの様子がちょっと気になったものだから……隣、かけてもいいかい?」
「あ、はい。どうぞ」
大神はわずかに微笑んで、ベッドの端に座っているさくらのそばに歩み寄り、静かにその隣へと腰を下ろした。
わずかに汗のにおいのする、男らしい匂い。包み込むような暖かさが漂い、さくらはそっと瞳を閉じた。
(大神さん……)
そばにいるだけで、心が高鳴る。それはとても心地の良い高鳴り。あまりの心地よさに、目まいさえも覚える。
その胸に抱かれて、その優しい声を聞いて、その瞳で見つめられていられたら、どんなにいいだろう。そのぬくもりの中で眠れたらどれほど心地よいだろう。
心に湧き上がる想いに押し流されそうになりながら、さくらは瞳を開いて、大神を見上げた。
そっと、訊ねかける。
「それで、何の用でしょう?」
「うん……」大神はさくらの顔を、じっと見つめた。「紅蘭に聞いたんだが……さくらくんが、元気がないというのでね。何か、心配事でもあるのかい?」
「え……いえ、別に……だ、大丈夫ですよ、あたし」
さくらはにこっと笑って、大神に言った。
(椿ちゃんのことで悩んでいたなんて、言えないもんね)
心の中だけで、そっと思う。だって、椿ちゃんには罪はないんだし、大神さんが椿ちゃんを好きになっているとは限らないんだもの。
そんなことで落ち込むなんて、あたしらしくない。誰が誰を好きになったって、あたしが大神さんを好きなことには変わりないもの。
「ほんと、だから、心配しないで下さい!」
「それならいいんだが……」
大神はなおも心配そうに、さくらを見た。さくらは微笑んで頷いた。
「あたしは大丈夫です。でも、もし、大神さんが本当にあたしのこと、心配してくださるなら……」
そしてそっと瞳を閉じて、大神にもたれかかった。暖かな胸をその頬に感じて、さくらは幸せそうな微笑みを浮かべた。
「少し……このままでいさせてください……それだけで、あたしはどんなことからも立ち直れるんですから」
「……」
たぶん、大神の顔は赤らんでいるだろう。そう思うとさくらは何となくおかしくなった。大神のそんなところが、さくらは大好きだった。
大神の匂いがさくらを包む。それは太陽の光のような匂いだった。嫌なものを全て溶かしてくれる、暖かな光。その光に包まれていれば、どんなことにでも耐えらえれそうな気がした。
(そうだ……あたしは、この人が好きなんだ……)
大丈夫、あたしは、大丈夫だ。
さくらの心に確信が満ちる。自分のこの想いがある限り、自分はいつだって立ち直れる。
さっきまで落ち込んでいた自分がおかしくなって、さくらはくすっと小さく笑った。大神が身じろぎする。それを、さくらは自分の頭を押しつけることでやめさせた。
ここにぬくもりがある限り、自分の中には無限の力が湧いてくる。それがとても嬉しかった。
(大好きです、大神さん……)