ツバキ大戦<第参章>


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       (六)



夜のしじまは、帝都の街路を沈黙に包み込む。街灯のランプも消え、辺りは深い水の底にいるかのような静謐に満ちていた。
闇の支配する時間、帝都に動く人影はない。光の支配する世界の住人が闇の支配する時間をもその手中にするまでには、まだまだ時が必要だった。
そして――
闇の支配する時間には、闇の世界の住人が蠢くのだろう。
その小さな人影は、ゆっくりと大地に降り立った。闇にまぎれ込むように輪郭ははっきりとはしていないが、ほっそりとした手足の、小柄な体つきに見えた。
その若々しい顔に、愉しそうな笑みが浮かぶ。

「……どうだい、彼ならば文句はないだろう?」

小さな声で、彼は虚空に向けて言葉を発した。吸い込まれるように消えていくその声に、かぶさるようにもう一つの声が聞こえた。

『……あまり乗り気ではありませんがね。しかし、仕方ありません。すぐにも接触しましょうか?』

「いや、もう少し様子を見よう」

かぶりを振って、彼は再び笑みを浮かべた。

「彼にとっては、俺たちの言うことに反対する理由はない。ならば、もう少しだけ、この世界を楽しませてあげよう」

『……』

「やれやれ。君は反対するのかい?」

『反対はしませんよ、僕はね』答える声に、わずかに苦笑が混じった。 『ただ、あなたのほうが反対なのではないですか? あまりここに思いを残させないほうが、あの人のためだと思うのですが』

「そうかもしれないが、俺はどちらでもかまわないよ。君ほど、彼を心配してはいないさ」

『そういうことにしておきましょうか』

「――やれやれ。君はどうしても俺を善人にしたいらしい」

くすっと笑って、彼は虚空を睨みつけた。

「わかっているだろうね。君も俺も、今はこの身に封じられていることを」

『わかっていますよ。忌々しいことですがね』柔らかく答える声には、わずかに苦々しげな口調が混じっていた。『早くこのような身からは開放されたいですから。そのためには――』

「――そのためには、まあ、仕方ないってことで、許してもらうとするか?」

彼は低い笑い声をあげた。その瞳が、不気味に光る。

「さて、場所はここでいいんだな?」

『まあ、そのようですが……違っていても、僕は構いませんよ?』

「同感だ」

無責任にもとれる言い方で、彼は頷いた。そして、どこからともなく一本の枝を取り出し、大地にその先端を突きつけた。
そして、軽やかに彼は舞い始めた。奇妙な模様を大地に描きながら。
月は雲に隠れ、その光は大地にはほとんど届かない。光らしい光が届かない、この場所で、奇怪な舞踏を彼は続けていた。 手に持った枝から、青白い、妙にうそ寒く覚える光の粒子が散り、大地にふりかかる。そしてそれは、一つの模様を描いていった。
夜闇の中に、次第にうっすらと模様が浮かび上がる。
それは、五つの先端を持つ、星の形――五芒星を成していた。



帝都に再び魔物が現れてから、ようやく一週間が過ぎようとしていた。
いつまた魔物が現れるかとびくびくとしつつ過ごしてきた帝都の市民も、わずかばかり安堵の表情を浮かべ始め、街を行き交う人々も次第に増えてきている。 市場に響く掛け声にも威勢の良さがあらわれ始め、日々の不安を払拭するかのような明るさと活気がちらほらと出始めている。 ときには笑い声、銅鑼声、そして威勢のいい啖呵が飛び交い、そこここに満ちる喧騒、若者たちの楽しげな会話、恋人達の恋の繰り言が帝都を彩る。
華やかで、そしてどこか危うげな日々の繰り返し。
不安もあろうし、恐れも、逃げ出したい衝動もあるだろう。いつ何どき再び魔物が現れ、そのうす汚れ爛れた牙、鉤爪に、自分あるいは自分の大切なひとが殺められるとも限らない。 だが、それでも人々は前を見て生きようとしていた。 立ちこめる不安と絶望の霧を奥底へと押し込め、自分たちを守ってくれる、守ろうとしてくれる、頼りがいのある人々――帝國華撃團のことを常に思い浮かべるようにして。
彼らがいる限り、希望を捨てることはない。彼らがいてくれる限り、帝都にはまた元の平和な日々がやってくるのだ。
そう、人々は信じていた。少なくとも、信じようとしてくれていたのだった。

だが――

その帝國華撃團では、今、大きな問題が持ち上がっていたのだった……

「……やはり、大神の神武は修復はほとんど不可能、か……」

米田は大きく溜め息をついて、整備場の片隅にある整備部品の箱に寄りかかった。皺が刻まれた瞳が目の前に立つ少女に向けられる。 濃藍色の髪をおさげにし、丸い大きな眼鏡をかけた少女は、まるで自分の不手際を責められたかのように、その小柄な体をすくませた。

「すんまへん、米田はん……」

「いや、謝るこたぁねえよ。紅蘭。おめえさんが頑張っていたことは俺だって知っているんだからよ?」

笑みをその口元に押し上げて、安心させるように優しい声で米田は紅蘭に言った。 よっこらせっと立ち上がり、一見のんきそうに、白く塗装された神武へと歩み寄る。そのついでに、ぽんぽんと、紅蘭の頭を手のひらで軽く叩くのを忘れない。 それは、まるで愛しい孫娘への愛情表現のようであった。

「……にしても、大神の神武が使えねえとなると、ちいとやっかいだな」

一人ごちて、神武を見上げる。
外装および動力伝達用の基盤や排気パイプなど、ある程度の消耗品は常にこの帝劇地下整備場には揃っている。 複雑な反応基盤や蒸気併用霊子加速器なども、花やしきあるいは神崎重工の工場に頼めば、ほぼ揃えることが出来る。
だが、どうしても補えないものがあったのである。

「霊子増幅器――それも、純度97%以上の霊子水晶を用いたもの、か……」

霊力を持つ者の霊力をそのまま機関に送りこんでも、霊子甲冑は起動はしない。 人体から放出される霊力を霊子水晶によって集積、増幅させ、反応基盤を用いて霊子力機関を動かす。霊子甲冑の起動の原理は単純に言ってしまえばそのようなものである。
だが、霊子水晶の純度が低ければ霊子力機関を動かすだけの力が生まれない。
特に大神の機体には、霊力による絶対防御障壁を展開するために、特に純度の高い霊子水晶が多数用いられていた。
しかし、それも先の戦いにおいて半数以上が破壊され、特に霊力伝達の中枢部に位置する霊子増幅器に用いられている霊子水晶にいたっては、屍炎の攻撃によってほぼ粉砕されていたのである。
大神の神武を再構築――それは、もはやそう言うしかないほどに原形をとどめていなかった――するために、紅蘭は、この霊子水晶を求めて花やしき、神崎重工の倉庫と言う倉庫をひっくり返して探し回ったのである。 しかし結局、紅蘭の求めるほど高純度の霊子水晶は、見つけることが出来なかった。低レベルの霊子水晶であれば幾つもあったのだが。
霊子甲冑などというものを造っているところが他にもあれば、紅蘭とて霊子水晶を探すのを諦めたりはしなかっただろうが、少なくとも紅蘭の知る限り、情報を集めた限りでは、神武に使用できるほど高純度の霊子水晶を持つものは他にはなかったのである。

「……今ある霊子水晶だと、どんだけ性能が悪くなるんだ?」

「まあ、状況に応じてやけど……通常の40%ちょい、いうところですわ」

「……問題にもなんねえな」

性能が半分以上落ちては、あのような強敵相手に満足には戦えまい。米田は嘆息した。

「いってえ、どうすりゃあいいんだ?」

「……」

紅蘭は、しばし、躊躇うように沈黙した。その瞳が、そっと、整備場の奥へと向けられる。
そばかすのある顔に、何とも言えない表情が浮かんだ。

「米田はん……」

ひとつ溜め息をついて、紅蘭は、思い切ったように米田の背に声をかけた。

「いくつか、方法がないでもないんやけど……」

そして紅蘭は話し出した。その、方法を。
米田の顔がみるみるうちに険しくなる。その瞳が鋭く細まった。

あれを使う、か……さもなくば、あそこからあれを持ってくるか、か……」

「……やっぱり、あかんやろか?」

躊躇いがちに問いかける紅蘭に、米田は鋭い眼差しのままで答えた。

「どちらを使うにしろ、危険度はたいして変わらん。だが、この際どうこう言ってられんな。……最初のはともかく、もう一つのほうは俺が何とかしよう。風組に協力してもらわねばならんからな」

小さく、紅蘭は頷いた。その瞳が悲しそうに翳った。

「……第四の扉は、開けたらあかんね。米田はん」

「あれは、俺たちの手に負えるものじゃねえからな」

米田は軽く首を振った。その脳裏に浮かんだ光景を振り払うかのように。
そして大きくひとつ深呼吸をして、米田は気を取り直し、紅蘭に目を向けた。

「とりあえず、後のほうは任せろ」

「はい」

「あ、それからな」

指示を出しに整備場を出ようとした米田だったが、ふと思いついたように振り返った。

「一応、今ある霊子水晶の中でも最高のものを、大神の神武に取り付けておいてくれ。40%でも、0%よりはましだろうからな」

「はいな」

紅蘭が頷くのを確認して、米田は再び背を向け、整備場を出ていった。



「せいっ!!」

空気を切り裂いて鋭く突き込まれた拳を、羅閻は軽く横に流した。同時に襲いかかってくる右の上段回し蹴りをかわす。 だが、くるりと回った踵が急激に角度を変えて襲いかかってくるのに、あやうく反応し損ないかけて、羅閻は反射的に大地へと転がった。
その体勢から巨木のような脚をふりあげる。ぶおんという重く鈍い唸りを発して、その蹴りは連続攻撃をしかけてきたカンナに襲いかかった。 左腕でその回し蹴りを防ぎつつ、体を入れ替えて裏蹴りから正拳突き、右肘打ちに左足払いへと移行する。 ここで懐に入れたならば顎への突き上げから右膝蹴り、腕を捉えて回り込んでの背面投げに攻撃をつなげるつもりだったが、さすがにそう易々とはいかない。
その巨体にもかかわらず、羅閻の動きはカンナとほぼ互角……いや、それ以上に早く的確だった。右肘打ちにきた腕を捉えて引きずり込みつつ体を回転させて巻き込み、カンナの背面に左肘を突き込もうとする。 決まれば、カンナは右腕を折られた上に背後からの裏肘打ちによって昏倒は免れない。悪くすれば脊髄が砕け散る。
カンナは巻き込まれかける腕を一瞬引きとどめた後、自分から体を回転させた。さらに上体を捻りつつ左足を振り上げて羅閻の股間を狙う。 よけられたならばそのまま内股への蹴り、あるいは振りおろして続いて放つ右蹴りの威力を増加させる。
考えてやっていることではない。カンナの攻撃は全て無心からくるものだ。それだけに、熟練者でも先を読むのは難しい。

「くっ!!」

羅閻は前に出た。巨体をかがめるようにして、自分からカンナの蹴りを内股に受ける。そのまま右腕の関節を決めてへし折ろうとしたが、カンナのほうが早かった。
鋭い気合とともに放たれた左拳が、関節を決めようとした羅閻の腕に突き刺さった。同時に内側に勁が放たれる。

「!!」

羅閻のごつい顔が激痛にひきゆがんだ。カンナの腕を放し、転がって離れる。カンナの攻撃を受けた腕の反対側に掌を当てて勁を放ち、相殺させる。
ほんのわずかの間だったが、カンナにはそれで十分だった。

「一百林牌!」

拳を大地に叩き付ける。その時までに十分練っておいた霊気が、大地を震撼させた。距離があるため威力は半減するが、それでも並みの拳闘士だったらば耐えられなかっただろう。 羅閻は自分から大地を蹴り、空中に舞い上がっていた。それでも衝撃が体を襲った。

「ぐぅぅぅぅ!!」

うめき声をあげて、羅閻は大地に転がった。びりびりとした衝撃が体中を走り抜ける。だが、最後の最後で羅閻は技を放っていた。大地に転がったとき、すでに必殺技が放たれていたのである。

「羅漢・一渦衝魂!」

「うぉぉぉっ!!」

必殺技を放った体勢のままで、カンナの体が吹き飛んだ。大地を二転三転し、隅に置かれていた資材の山に激突する。いくつかの材木が崩れ落ちた。

「う……痛てててっっっ!!」

うめき声をあげて、カンナは頭をさすった。立ち上がろうとするが、体に受けたダメージはかなりのものだった。しばらくは動けない。
ようやく息を整えて、ぼろぼろになった体に鞭を打って立ち上がる。パンパンとほこりを払って、カンナは羅閻を見た。

「くっそう、またおっさんの勝ちかよっ!?」

「……さすがに最後の技は効いたがな」

羅閻はすでに立ち上がっていた。だが、その体にはまだしびれが残っている。やや顔をしかめているところを見ると、かなり痛手を負ったらしい。カンナは慌てて言った。

「おい、大丈夫か、おっさん?」

「ふん。お前に心配されるほど、やわには出来ておらんよ」

コキコキと体の各部をならしながら羅閻は笑った。呼吸を整え、内側から勁を巡らせて各部の痛みを軽減させる。鍛え上げた体はそれだけでほぼ通常通りにまで回復した。

「これで五勝三敗一引き分け、か」

「くっそう。あたいもまだまだってところか」

その割りにはさっぱりとした顔で、カンナがうなった。羅閻も笑みを浮かべる。

「だが、今のはほとんどお前の勝ちだったな」

「へへっ、まあな」

ほめられて嬉しいのだろう、カンナは軽く頬を染めて、照れくさそうに笑った。だが、負けたとしてもあまり悔しくはない。
羅閻とカンナの力は、ほとんど拮抗しており、それは結果に如実に現れていた。ほんの僅差で勝負がついている。
あの日、羅閻とであって以来、カンナは暇を見つけては羅閻と勝負をし合っていた。羅閻の身につけている技は、中国発祥の拳法に独自の格闘術を取り入れたもので、体術が中心となっている。 組み合ってからの投げ、払い、関節決めといったものが主で、打ち、突き、蹴りといった打撃系の技はあまり豊富ではなかった。そこらへんが、カンナの身につけている空手とは異なっている。 むしろ柔術に近いので、カンナのように力で押し切るタイプの者にとっては厄介な相手だった。
だが、日々を重ねるにつれてカンナも自然と体術を会得しつつあり、羅閻の方が苦戦をし始めていた。

「……それにしても、カンナはすごいな。どんどん強くなっているではないか?」目を細めて、羅閻は言った。「始めて勝負をし合ったときとは比べものにならん」

「へ、おっさんだって、どんどん強くなってるじゃねえか? それとも何か? あたいと最初に会ったときには、手加減していたってのか?」

「お前には悪かったが、実はそうだった」

小さく笑って、羅閻は肯定した。カンナの瞳が丸くなり、そして鋭く細まった。

「おい、おっさん! 勝負はいつでも真剣勝負じゃねえのかっ?」

「ああ。その通りだ。だがな」羅閻は静かな瞳で、カンナを見すえた。 「あの時お前は万全の体調じゃなかっただろう? 俺はお前とは万全の状態で勝負をしたかった。だから俺はあえて手加減した。とはいっても、手加減といえるかどうか、怪しいものだったがな」

「……」

「だがな、これだけは言っておくぞ、カンナ」真剣な顔で、羅閻はカンナを見た。 「二度目からは間違いなく、俺は本気だった。本気でお前を倒しに行った。 そして、本気の俺から、お前は三本、勝ちを取っている。俺からそれだけ勝ちを取れる奴なぞ、ほとんどいない。しかもどんどんお前は強くなっている。 さっきの勝負では、俺は殺すための技さえ使った。だが、それでもお前は立ち上がり、俺の技を受け流した」

「……」

「もし、お前が俺の技を完全に覚えたとしたら、俺はお前には勝てないだろう。認めたくはないが、な」

「……おっさん」

カンナのその綺麗な紫水晶色の瞳が、真摯な光を帯びた。

「あたい、もっと強くなれるのか? もっと、強くなれるのか?」

「おそらく、なれるだろう」

ごつごつとした顎に手を当ててさすりながら、羅閻は頷いた。

「まだまだお前の中に、何か力が眠っている気はする。俺にはそいつが何かまでは判らんが。ただ、これだけは言えるぞ、カンナ。 お前の技は剛の拳が主だが、それも極め切ってはいない。まだまだ、その真の強さまでは身につけていない。
もしもっと強くなりたければ、剛の拳の真髄を極めるか、柔の拳を習得するのだな。 まだまだ、お前が身につけられる力は、世の中にたくさんある。つまり、それだけお前はどんどん強くなれる可能性があるのだ。
それらを身につければつけるだけ、お前は強くなるだろうな」

「……まだまだ、あたいには身につけられる力がある、ってことか」

カンナの瞳が明るく輝く。少年のような端正な顔に笑みが浮かぶ。

「あはっ、おもしれえっ!! やってやろうじゃないか!!」

そう叫ぶと、カンナは立ち上がり、くるり、と羅閻に向き直った。

「おっさん、手始めはおっさんの拳だっ! 遠慮なくしごいてくれ、なっ!?」

「……やれやれ。俺も修業の身なのだぞ?」

嘆息して羅閻は立ち上がった。だが、そのいかつい顔には、苦笑とともに楽しそうな、嬉しそうな表情が浮かんでいた。 優しい眼差しが、愛弟子を見るような光を帯びて、カンナに向けられた。

「よし。では、しごくとするか。――言っておくが、俺は人に教えたことはない。口もうまくない。だから、お前には実戦で覚えてもらう。それでよいか?」

「あたいも口でとやかく言われても、わかんねえからな。願ったり適ったりだ!!」

そう言って笑うカンナの顔は、羅閻でさえも思わず見とれてしまうほどに、美しく爽やかな、輝くような笑顔だった。
それは生命の輝きなのかも知れない。
一点の曇りもない、純粋な輝き。今を最高に生きていると言う証を、その身でもって表現するかのような、若々しくも初々しい、純粋な輝きを秘めた笑顔だった。
眩しそうに瞳を細め、羅閻はそんなカンナをしばらく見ていた。 そして、じれったくなったカンナが笑みを消して不満げにあごをしゃくって催促する直前で、ようやく再び構えをとったのだった。



「……へええ。ってことは、カンナは今、あのだんなに弟子入りしてるってんだ?」

目の前に置かれた煮物から立ち上る、食欲をそそる匂いをかぎながら、邪介は面白そうにカンナを見上げた。
ほくほくとしたジャガイモに箸を突き立て、あちあちっ、と言いつつもおいしそうにほおばる。
その、いかにも子供じみた仕種に思わず微笑みながら、カンナは嬉しそうに頷いた。

「ああ。羅閻のおっさんは強えし、いろんなことを知っている。技の技術だけじゃねえ。力の使い方から、その応用まで、とんでもねえくらい、よく知ってるんだ。 あたいは、ほんと、感心しちまったぜ。全く、あたいは何にもわかっちゃいなかったんだって、思うこともあるよ」

「へええ。そりゃあすげえや」

あんまりそうは思っていない気楽な口調で相槌をうつ邪介であるが、カンナは特に気にした風もなかった。 むしろ、その気ままな態度が好ましいようで、にこにこと少年の食べる姿を見守っている。
この人懐っこく、しかもしたたかで抜け目なさそうで、どこか憎めない少年を、カンナはかなり気に入っていた。 この頃では毎日のようにこの少年と会って、食事をおごってやっている。
少年もまるで悪びれる様子もなく、カンナの好意を有り難く頂戴して、遠慮なく注文しているのだった。

「……そういや、羅閻のだんなは、今何やってるんだ?」

はぐはぐと口に肉を詰め込んだままで問いかける邪介に、カンナはにこにこしながら答えた。

「昼間はどこかの道場で稽古とかつけているらしくてよ、実入りは少ないけど楽しいとか言ってたぜ」

「あはははっ、おっさんらしいや!」

楽しそうに邪介は笑い転げた。カンナも微笑して頷いた。
その強持て顔とは裏腹に、羅閻はどうも世話好きらしい。ふと立ち寄った道場で、年少の少年達に振り回されている姿を見て、カンナは笑いの衝動を抑えるのにひと苦労したものだった。 本人は厳しい稽古をつける鬼のような指導者のつもりであったのだが、どうにも面倒見のいいところが出てしまい、少年達に懐かれ慕われているのである。
困り果てた顔で周りを囲む少年達を見ている羅閻の様子を思い出しただけでも、カンナは口元がゆるむのをおさえられなかった。

「今日は確か、二丁目辺りの空手道場で稽古つけている、とか言ってたなあ」

昨日の稽古のときにふともらした羅閻の言葉を思い出して、カンナはつぶやいた。今日はカンナは舞台稽古があり、羅閻の指導は受けられない。そのことを昨日伝えたときに羅閻が言ったのである、何かあったら二丁目の道場を訪ねろ、と。

「ふうん・・・おいら、後で行ってみるよ。おっさんがてんてこまいしているところ、見てみたいからな」

ぺろり、と前に出された料理を平らげて、邪介はにやにやしながら言った。カンナも苦笑する。

「照れまくるだろうな、おっさんのことだから。・・・まあ、おっさんに会ったら、あたいが明日稽古つけてほしいって言っていたって、言っといてくれ」

「ああ、わかった」邪介は頷いた。「伝えておくよ、カンナ」

「サンキュ」

軽く笑って、カンナは立ち上がった。懐から巾着を取り出し、小銭をつかみ出す。

「おばちゃん、代金ここにおいとくよ!・・・じゃあ、邪介。あたい、そろそろ戻るから」

「ああ。ごちそうさん、カンナ!!」

邪介はのんきそうに手を振った。カンナも笑顔で手を振り、そして食堂を出ていった。
その長身がゆっくりと銀座の街路に溶け込み見えなくなって・・・

「・・・じゃあ、おいらもいくか。羅閻のおっさんを見に」

一人ごちて、邪介は立ち上がった。顔なじみになったおばちゃんに軽く手を振って店を出る。
その時、ゆわり、と、奇妙な風が吹いた。重苦しく、どこかじめっとした風。みょうに肌寒く、何故か鳥肌立つような感触を覚える風が。

「・・・ちっ、いやな風だ。けったくそ悪い」

不愉快そうに顔を顰めて言葉を吐き出し、邪介は身を屈め、小走りに歩き出した。
たゆたった風は、かすかに、笑ったような気配を見せた。だがそれきり、その風は空気の中に溶け込んで、銀座は元の様相に戻っていった。



       (七)



かつて、彼らは友と呼び合っていた。また彼にとっては、目の前に立った男こそ、何者にも替え難い、愛する弟子でもあった。
沈黙が漂う空間で、彼らはすでに何時間も向き合い、言葉なくして語り合っていた。
そして――
ついに、彼は、決意を込めた瞳で、頷いたのだった。
その脳裏には、つい先ほど別れた、太陽のような輝く笑顔を持つ少女の姿が、浮かんでいたのかもしれない……



皇居の北北西、北の丸公園を靖国通りをはさんで向かい合った場所に、靖国神社がある。
九段坂を見下ろすように社を構えたその神社は、明冶維新前後から戦争などの国事において殉職した人々がまつられている。
明冶二年に建立されたそこは英霊達の住処ともいわれ、そこにまつられるということは、いわば「お国のために命を捨てた、全くもって素晴らしい、誇り高いひとである」という事、らしい。

「大日本帝国のため、よろこんで命を投げ出し、未来への礎となったひとたち」

……それが、この社へまつられる条件らしい。まつられた本人達はどう思っているのかは知れないが、妙なものである。 何しろ、まつられるかどうかを決めるのは生きている人々であり、彼らの勝手な解釈に従ってまつられるのだから。 もしかしたら、当人達はそのような考えではなかったのかも知れないし、死にたくもなかったかもしれないのに。
そしてまた、彼らを死なせる大本の原因となった者がしたり顔で生き残り、心にもない弔辞をのべ、形ばかりの礼をし、そしてその後はまた飽きることなく愚かな行為を繰り返し、”英霊”を増やすのを、彼らはここから見守っているのだろう。
彼らが願っているのは、国の繁栄よりも、彼らのもとに送り込まれる”英霊”が減少してくれることかもしれなかった。

「……では、”英霊”たちよ」辺りに低く響き渡るかのような声で、彼は、大地に描かれた五芒星へと、語りかけた。「おぬしたちの力を、借りるぞ……」

鈍く五芒星が光を放つ。空間がよじれ、白檀の芳香が収束する。そしてその香りに惹かれるかのように集まりくる霊を、彼は自嘲的な笑みを浮かべて見つめた。小さな呟きが、その険しい口元から漏れた。

「さて、帝國華撃團よ……見事、俺を倒してみせろ。そして……あいつを……」




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