「あ、おはよう、紅蘭」
その日、大神が食堂に顔を出したのは、いつもよりもやや遅く、すでに太陽が銀座の街路からも見上げられる位置にまで昇った頃だった。
すでにさくらたちは朝食を終え、朝の稽古に行っている。ただ、連日徹夜続きで整備場に籠り、神武の仕上げを行っていた紅蘭だけが、時間の流れに置いてきぼりにされたかのように一人ぼっちで朝食をつついていた。
大神は朝食を受け取り、気乗りしなさそうにスクランブルドエッグをつつきまわしている紅蘭の向かいに腰をかけた。
「もう皆は朝練かい?」
「そうや。ウチもこれ食べたら顔ださんとな……」
答える紅蘭の声が淀んでいる。大きなレンズの奥の瞳がやや腫れぼったい。
大神は眉を顰め、彼女の顔をのぞき込んだ。
「おい、大丈夫か、紅蘭? あまり無茶をするなよ?」
「……おおきに、大神はん。大丈夫や」
軽く笑った紅蘭だったが、それでもその様子には元気がない。大神は心配をあらわにして言った。
「紅蘭。少し休んだらどうだ? その分だと、ろくに寝ていないんじゃないか?」
「大丈夫やて! 心配せえへんで、な、大神はん」
「……」
それでも疑り深そうに自分を見つめる大神の視線を受け止めかね、深く問い詰められる前に、と紅蘭は話をそらした。
「そ、それよりも大神はん。神武の修理、何とか今日中に終わりそうや」
「それは本当かい、紅蘭?」
表情を明るくして大神は喜びの声を上げた。まともに動ける神武がわずか5機だけという状況で、もし敵の襲撃があったらと、緊張を強いられる毎日だったのである。
紅蘭も大神のそのような態度については敏感に察知しており、急ピッチで神武の修理を行っていた。
だが、部品の調達や資金繰りなどで予定よりも大幅に工数は延び、誰の顔にも焦りの色が現れていたのだった。
そしておそらく、一番焦りと周囲からかかってくるプレッシャーに圧されていたのは、この紅蘭であることは間違いなかった。
神武の整備と修繕の指揮を取り、自らも油と煤と水蒸気にまみれて作業し、そして誰も言葉にはしなかったとはいえ毎日顔を合わせる仲間からの期待をそのほっそりとした小柄な体全体で受け止めていたのだろうことは、大神にも容易に察せられた。
(……神武の修理が完了するなら、煉瓦亭にでも夕食誘おうか? 一番の功労者だからな、紅蘭は)
心の中でそっと大神は決心した。
(紅蘭が望むなら、何か買ってあげてもいいかな?)
もちろん下心、というものは、大神にはない。そんなものがあったら”鈍感”とか”朴念仁”とか”女心の分からない馬鹿”などと神代に呼ばれることはない。大神のその配慮には、労いの意味しかなかった。そしてそれがいかに罪作りなことかも、大神にはわかっていなかった。
「カンナはんの神武は、ばっちり仕上がってます。あとは大神はんのやけど、それももう最終的な組み上げと調整、検査をすますばかりやから、大した時間はかかりまへん。夜には蒸気機関に火ぃ入れられると思いますわ」
「夜か……」ちょっと考えて、大神は紅蘭に訊ねた。「もう少し早く終わらせることは出来るかい?」
「え? 早く、ですか?」
紅蘭は瞳を丸くして、大神を見た。神武の修理については、その作業内容、費用、部品の調達まで、大神はほとんど紅蘭に任せっきりであり、今まで一度も口を出したことはなかった。
それは大神には、修理については紅蘭に全てを任せるのが一番である、という、紅蘭に対する深い信用があるからであり、そしてその期待に必ず紅蘭が応えてくれるという強い信頼があるからだった。
そして紅蘭は、その大神からの期待をとても嬉しく感じ、必死になって応えていたのである。
「うーん……どうやろ……?」
眉根を寄せて、紅蘭は考え込んだ。頭の中で作業工程を練り直し、どこか省ける個所、または処置を簡単に済ませられる個所を探す。 そして、やや難しい顔ながらも、紅蘭は結局頷いた。
「まあ、ちいとばかり無理をすれば、夕方くらいには仕上がると思いますけど」
「そんな、無理をしなくていいんだけど」大神は苦笑しながら、頭をかいた。「その、さ。ここのところ紅蘭、働き詰めだったろう? 夕食でもごちそうしようかと思ったんだが……」
「え……!? ほ、ほんま!?」
紅蘭の顔が、驚きと喜びに輝いた。頬を染めて身を乗り出し、大神に問いかける。
「ほんまに、ええのん? ウチなんかで!?」
「え……あ、う、うん」あまりの紅蘭の勢いに圧されてのけぞりながら、大神は頷いた。 「紅蘭もたまには休息しなければいけないからな。……あ、でも、無理しなくてもいいぞ? 神武の修理、夜になっても構わないし」
「行きます、行きますっ!! 誰が邪魔しよっても、ウチ、喜んでお供させていただきますわ!!」
「あ、そ、そう?」
こぼれんばかりに嬉しそうに顔を輝かせる紅蘭をやや唖然として見ながら、大神は頷いた。
「じゃ、じゃあ、修理が終わったら、呼びに来てくれ。一緒に行こう」
「はいなっっ!!!」
満面に輝くような笑顔を浮かべて、紅蘭は強く頷いた。そして、先ほどまでのぐったりした様子が嘘のように、てきぱきと食器を片づけた。
「ほ、ほな、急ピッチで済ますさかい、待っててや、大神はん!!」
叫ぶように言うや否や、まるで今さっき起きたばかりのような元気に満ちあふれて、紅蘭はほとんど駆け出すようにして食器を手に食堂を出ていった。 どうやら直接厨房に持っていき、そのまま地下に直行するらしい。ばたばたと遠ざかっていく足音を、呆然として大神は聞いていた。
「……そんなに、無理しなくてもいいのに……」
思わず言葉が口に出てしまう。
「何だかかえって疲れさせてしまうことになったかなぁ……」
「そう思うんなら、しっかりと労ってやるんだな、大神」
ふいにかけられた声に、びくっとして、大神は振り向いた。その視線の先にたつ悪友の姿を認める。端正な顔が不愉快そうにしかめられた。
「なんだ、神代か。朝早くからご苦労だな」
「まあな。お前よりも俺の方が役に立っているからなあ。期待されるのも無理はないさ」
神代は自分の格好を見て、苦笑を浮かべながら応えた。
灰色に近いねず色の作業着を着て、片手にモップ、もう片手に汚れた水の入ったバケツを下げている。腰には汗を拭うための手拭い、足元は滑らないように地下足袋をはいていた。
それは、どこからどう見ても清掃要員そのものだった。
大神は、モギリや事務の手伝いのほか、主に花組の少女達の相手やら帝劇内の見回りなどを仕事にしている。
その仕事と合致しないようにと神代が頼まれたのが、帝劇内の清掃だった。
この仕事は月組が担当しているのだが、彼らには彼らで他にも仕事が山ほどある。そこで、日常的な清掃については神代が朝と夕方に行い、最も忙しくなる舞台公演期間に月組が総出で清掃を行うことになったのであった。
舞台公演がないとはいえ、帝劇内部は広いから、神代ひとりで全てを一日で清掃することはもちろん無理である。
そこで神代は人の出入りの激しい帝劇の裏側――すなわち、事務室から衣装部屋、楽屋、舞台袖にいたる部分の廊下と、食堂および二階のサロンを二回に分けて清掃することになっていた。
そして今朝も廊下の清掃を終え、花組の少女達がいなくなる頃合いを見計らって食堂の清掃に乗り出してきた、というわけであった。
「……そうしたら、寝ぼすけが一人、鎮座ましましているんだからな。やれやれ、だぜ」
「悪かったな、寝ぼすけで」
実は昨夜は夜の見回りの後、帝都の町中に出ていたのである。奇妙にざわつくような予感があり、何か起こるかとしばらく銀座の街並みを歩いていたのだが、結局得るものはなかった。
やせこけた黒猫が一匹、ひどくおびえた様子で逃げていったくらいである。
だが、確信めいたものが大神の心にはあった。近く、敵の襲撃がある。一両日中には。
紅蘭に神武の修理を早めるように言ったのも、そんな予感があったからでもあった。
「……確証があるわけじゃあないんだが、妙に気になって、ね」
「なるほどな。俺の胸騒ぎもまんざらじゃあなかったってわけだ」
驚いたことに、神代も真顔で頷いたのであった。目を丸くしている大神に、苦笑しながら神代は掃除道具を掲げて見せた。
「どうにも落ち着かなくてな。今朝はかなり早くからこの帝劇に来ていたんだ。掃除も、もうこの食堂で終わりだ」
一応まだ神代は帝劇に住み込みになってはいない。本人から帝撃へ入隊することへの了解を取り付けたとはいえ、軍上層部がこの件に関しては承認を出し渋っているのだ。
いくら神代が元士官学校の学徒であっても、その経歴と、外国の血を持つと言うことが少なからず影響を与えている。
いつ裏切られるか、諸外国に帝撃の存在とその装備などの情報が漏れないか、神経過敏になっているのであった。
「帝撃は元はと言えば、賢人機関の提案で作られた組織じゃねえか。この日本だけの部隊じゃあねえぜ!」
苦々しく吐き捨てるように言った米田の言葉が大神の脳裏をかすめる。確かに、帝撃は活動拠点を日本に置いているが、本来は国境を越えた組織として活躍すべき部隊だった。 それができないのは、主に日本の領土内で魔物の襲撃があることと、その装備の特殊さ、そして、あまりの戦果に諸外国がこの部隊に対して危機感を覚え、自国に招き入れた場合に侵略の先端として活躍されないかと懸念しているからであった。 さらに、帝國軍人の中にもこの秘密部隊を正式に軍属に加えることで外国――特に、隣国である中国に対して戦争をしかけるべきだというタカ派が増えてきており、彼らの圧力をいかにして緩和するか、米田は日々頭を悩ませていたのである。
「大きな力を持ち過ぎたのかもしれねえな」
毒づきながらも悲しそうに背中を丸める米田に、大神は何も言うべき言葉が見つからなかった。
「俺の勘だと、今日明日ぐらいには襲撃があるんじゃねえかと思う。ま、勘だがな」
自分の処遇について悩みを抱えているなどとは露ほども思わない様子で、どこか陽気で楽しそうに神代は言った。
うきうきした様子はまるでプレゼントを待ち望んでいる子供のようでさえある。大神は苦笑した。
だが、その顔がふと険しくなる。
「……今日か明日、敵が来る、か……間に合うかな」
「怪しいところだな」
神代も真面目な顔で頷いた。
すでに神武のことは神代も知っている。帝劇地下に造られた整備場にたたずむ七色の霊子甲冑の姿に、神代も最初は呆然としたものだった。
説明を受けても不思議そうな様子で首をかしげ、あまり気乗りしない様子で見上げるばかりで、結局神代は神武には触ろうともしなかった。
だが、それがこの前の戦いで活躍したものであることはわかったのだろう。次の敵の襲来までに修理と整備が間に合うのかと大神にたずねたものだった。
「なんとか今日を乗り切れば、神武を動かせるんだが……」
大神が呟いた、まさにその時だった。
敵の襲来を告げる、警報が鳴り響いたのは。
「九段坂上、靖国神社に敵が現れた」
勢ぞろいした花組の少女達と大神、そして椿と神代を見回して、常にない厳しい顔つきで米田は短く状況を説明した。
「敵の数はこの前とほとんど同じくおよそ40。幸いなことに、靖国神社内にのみ徘徊しており、周辺には散在していない。 帝都市民に死傷者はないが、混乱状態が数カ所ある。現在帝國陸軍によって市民の避難誘導、および皇居の警備が行われている」
以前の襲撃への教訓から皇居周辺に常時陸軍の部隊が配備されており、敵の襲来の発見とそれに応じた軍の展開、市民の避難誘導はかなり速やかに行われていた。
そのおかげで米田も状況を把握するのにたいして時間を要することはなく、帝撃による迎撃も余裕を持って行えそうだった。
そう。装備さえ充実していたならば。
「大神はんの神武は、七割がた組み上がったところや。出撃どころか動かすこともあきまへん」
悔しそうに唇を噛み締めて説明する紅蘭の言葉に、花組の少女達は顔を見合わせた。
大神なしで、今回の戦闘を行わなければならない。彼女たちの顔からは血の気が失せ、緊張と不安の表情が交錯していた。
「……っつうことは、俺と椿ちゃんにも、出番はないってことかな?」
緊張に顔を強ばらせて佇む椿をちらりと横目で見ながら、神代がのんびりとした口調で訊ねた。花組の少女達が鋭い視線を送ってくる。
不愉快そうな表情がちらっと数人の少女達の顔にひらめいたが、何も言葉には出さなかった。
椿はともかく神代までが帝撃の隊員となったことに、花組の少女達のほぼ全員が難色を示した。唯一喜んだアイリスを抜かして、少女達の顔には一様に強い不信感が表れていたものである。
大神とは異なり、神代はまだまだ少女達の心をつかむには至っていない。というより、はっきりと言って、信用しているのは幼いアイリスぐらいであった。
神代の瓢々とした態度、人を喰ったような笑み、軽い物腰、不謹慎というか不まじめと言うか、とにかく調子のいい神代は、どう見ても信用とか信頼とか言う言葉とは無縁の存在に思えたのである。
しかも、大神と言う、少女達にとっては絶対的な信頼対象があるため、どうしても比較をしてしまい、その結果神代の態度には不快感を覚えずにはいられなかったのだ。
そしてまた、神代としても、少女達とそれほど打ち解けようと努力する様子を見せていない。
暇さえあれば椿にちょっかいを出し、品のない笑いを浮かべるという、これ以上はないほど信頼を打ち消す態度をとるものだから、少女達ははっきり言って「ごきげんななめ」状態になっているのであった。
「――米田長官。本当にこの人を帝撃に加えるおつもりですか?」
不信と不快と不満と不平とが見事なハーモニーとなって言葉に出る。五対の苛烈な視線にさらされて、米田ほどの男がのけぞった。皺深い目を丸くして、米田はへらへらと笑っている神代を見た。
「……おい、神代。おめえ、全く信用ないんだなあ」
「そのようで。不徳のいたす限りです」悪びれた様子などどこにもないいつもの調子で神代は答えた。「まあ、俺本人としても、納得できないことじゃあないですがね」
「やれやれ。それじゃあてめえに前線指揮を任せるなんて、言えねえじゃねえか」
嘆息した米田の言葉を聞いて、花組の少女達の顔色が変わった。
「前線指揮ですって!?」
「御冗談でしょう!?」
「なんでこないなお人に?」
「やめろよな、おい」
「嘘でしょう?」
言葉は違うが、思いは一つである。あきれ果てた顔で米田は神代に言った。
「おめえ、信用されてねえだけじゃなくて、はっきり言って嫌われてるぞ!?」
「……ははは」
さすがに神代とても、これほどまでとは思わなかったようだった。冷や汗を流しながら、強ばった笑みで答える。だが、ふいにその陽気な深い碧色の瞳が真剣な光をまとった。
「まあ嫌われているかどうかはともかく……米田司令。俺を前線指揮に回すというのは、本気ですかい?」
「ああ、本気だ」
米田は頷いた。納得の行かない顔をしている少女達を見回す。
「おめえらも知っての通り、こいつは霊子甲冑なしで魔物を倒した。つまり、生身で魔物を倒せる唯一の男、というわけになる。 大神が出られない以上、前線の指揮はこいつが行うのが望ましいんだ」
「ちょいと待ってくださいや、司令」慌てた様子で神代は米田の言葉を遮った。
「生身であの魔物に立ち向かえってわけですかい? 神武は無理だとしても、何か武器がほしいですね」
「一応、紅蘭に言って、人型蒸気は用意しておいたんだが」やや意地悪そうな顔になって、米田は神代をねめつけた。 「どうした。この前の戦闘じゃあお前さん、人型蒸気だけで魔物を撃退してのけたじゃねえか? 今回は無理だって言うのかい?」
「ちょいと荷が重すぎると思いますがね」
「ほう、何故だ?」米田の瞳が鋭く細まった。「お前は、あの魔物に立ち向かえるだけの武器を持っているんじゃあなかったのか?」
「…………」神代の不適な微笑がやや強ばった。だが、おどけた様子で神代は肩をすくめて見せた。 「……まあ、司令に隠し立てる訳にもいかないですな。確かに俺は魔物を倒す武器を持ってますよ」
そして神代は、何の躊躇いもなく、懐から小さな布包みを取り出した。それは、前回の戦闘のときに人型蒸気から降りたとき、懐から出したものだった。
丁寧な手つきでそっと、布を取り除く。
「……!!」
期せずして、少女達と大神の口からため息が漏れた。
それは、黄金色にまばゆく光を放つ、剣であった。いや、正確に言えば、剣の柄であった。
うねるような精緻な竜の彫り物を施した、宝剣。
黄金の輝きを持つそれには、ルビー、瑪瑙、トパーズ、翡翠、エメラルド、サファイア、アメジストの七つの宝玉がはめ込まれていた。
そう、虹の七色の宝玉である。
「……こ、こいつはぁ……まさか……七宝聖剣……っ!?」
米田の口から、驚愕の言葉が漏れた。
まばゆく輝く七色の宝玉の剣。七宝聖剣。それは、草薙の剣とならぶ、古来から伝わる伝説の剣であった。
「……おめえ、どうしてこいつを持っている!?」
先ほどよりさらに鋭い眼差しで、米田は神代を睨み付けた。だが、神代は小さく笑みを浮かべて簡単に答えただけだった。
「ある人から預かったんですよ」
「ある人?―――誰だ、そいつは?」
「さあ? どうだっていいじゃないですか」
おどける神代だったが、その瞳には、決してその名を口に出すことはしない、という、固い決意の色がうかがえた。 米田もそれを敏感に察したのだろう、苦虫をかみ潰したような顔でにらみつけたが、結局深く追及することはしなかった。
「……まあいい。それより、神代。闇と魔を切り裂くそいつと人型蒸気があれば、おめえだって魔物の一体や二体、片づけられるだろう? 今回の戦闘の指揮は、お前が取れ」
「……それは命令ですか?」
「ああ」短く米田は頷いた。そして、唖然として二人のやり取りを見守っていた少女達を見回す。 「おめえたちも不服はあるだろうが、今回は俺の命令にしたがってもらう。いいな?」
「……了解」
唱和は、大神のときほどに揃ってはいなかった。そしてそこに込められたものも、大神のときほど絶大な信頼ではなかった。
米田は眼光鋭く、神代を睨み付けた。その視線に込められた意味を察して、神代は小さく苦笑したあと、その顔を引き締めた。
「帝國華撃團・花組。神代以下六名、出撃する!!」
びぃんと、張りのある声が、少女達の体を打った。驚きに目を見開いて、少女達はその声の主、神代をふりあおいだ。
彫りの深い、整った顔だち。すっと高く筋の通った鼻梁。深海のように深く、そしてどこか暖かな光を帯びた、碧色の瞳。
赤みがかった金色の髪のひと房、ふた房が秀でた額にふりかかり、その西洋の血を思わせる顔をあでやかに飾る。
引き締まった体つき、伸びやかな長身。人を惹きつける不思議な力に満ちあふれた、類い希な戦士。
急遽間に合わせた、大神と同じく白の帝撃の戦闘服をまとい、すらりと立つ姿は、凛々しく、どこか神々しくさえもあった。
(……こ、これが、あの調子のいい男だと言うの……?)
思わずマリアは我が目を疑った。目の前に立つ青年は、彼女の敬愛する大神と比べても引けを取らないほどに頼もしく見えた。
(いえ……見間違いよ。きっと……!! それに、実戦にでてもいないのに、大神隊長ほどの力の持ち主と、認めることなどできないわ!!)
小さくかぶりを振って、マリアは気を取り直した。その翡翠色の瞳が鋭く、神代を見つめる。
「了解。帝國華撃團・花組、出撃します!!」
ほれぼれするほど見事な敬礼をして、マリアは復唱の言葉を発した。それをきっかけとして、他の少女達も、はっと我に返り、慌てて敬礼した。
そして、きびきびとした動作で作戦室を出ていく。その後ろを神代も、まるで昔からここにいたかのように悠然とした態度で、ついて出ていった。
それを見送って、米田は鋭い視線のまま、作戦室に残った大神と椿に顔を向けた。
「大神と椿くんは、俺とともに翔鯨丸で出撃する。いいな?」
「はいっ!」
緊張した面持ちで椿が答えると、米田はわずかに表情を緩めて、あごをしゃくった。
「では椿くんは、かすみくん、由里くんとともに、翔鯨丸の出撃準備にかかってくれ」
「了解しましたっ!!」
軽やかな身のこなしで椿が作戦室をかけ出ていくのを、米田はしばらくじっと見守っていた。そして、椿の姿が完全に見えなくなってから、それまで一言も言葉を発しなかった大神を振り仰いだ。
「おい、大神。おめえの言う通りにしてやったぞ。これでいいんだな?」
「ありがとうございます、長官」
大神は深々と頭を下げた。
今度の戦いに、指揮を神代に任せようと言い出したのは、他ならぬ大神だった。
神武が完成していない以上、自分よりも神代のほうが戦闘力はある、と米田に説明したのだが、その奥に秘められたものに、米田ほどの男が察知できないはずはなかった。
苦笑して、米田は大神を見た。
「今回の戦闘は、あの神代を帝撃に迎えるにあたっての試練、というわけだな」
「…………」
「今回の戦闘に勝利できれば、神代を帝撃に迎えることに、軍上層部も反対は出来まい。あいつがどれだけの男かを見極めるための、格好の舞台と言うわけだ」
「…………」
「そして同時に、あの娘達に、神代を信頼させることもできる、か……ま、おめえらしい考えだよ」
「……自分の考えは、間違っていましたか?」
見事に考えを当てられて、大神はわずかに苦笑を浮かべて米田を見た。にっ、と笑って、米田は大神の背中を叩いた。
「いや。いい考えだ。おめえにしちゃあ上出来だ」そう言って、米田は神代達が出ていった作戦室の扉を見つめた。 「何事にも試練は必要だろう。新参者が参加するには、な。……問題は、神代がミスをした場合のフォローだが……」
「心配いりませんよ、米田司令」
わずかに微笑んで、大神は米田の危惧を否定した。
「神代は性格は最低ですが、戦闘指揮能力は高いですからね。少なくとも、花組の皆を危険にさらすことは、しないでしょう」
「……おめえも素直じゃねえなあ」
小さく呟いて、米田は暖かい視線で大神を見た。歴戦の勇士であり、人の心の機微にもたけた米田には、大神が、口で言うほど安心しているわけではないことがはっきりと分かっていた。
(自分が出撃できなくて、歯がゆい思いをしているんだろうな、こいつも)
大神の視線、その端正な顔に翳る色。巧みに隠しているようだったが、米田には大神の焦燥が手に取るように分かっていた。
(神武が完成していりゃあ、すぐさま出撃したいのだろう。そして……できることならば、こいつは、神代の隣で戦いたいのだろう)
魔物を切り倒す剣を持っているとはいえ、神代は霊子甲冑に守られてはいない。魔物のふるうたった一撃が命取りになることは、明白だった。
そして、それを承知の上であえて、大神は神代に指揮を託したのである。
そこにある親友への絶大な信頼。必ず勝ってくれる、戻ってきてくれるという、信頼。
(大神にこれほどまで信頼されている男だ。俺も神代という男を信頼してみるとするか)
心の中だけで、米田は呟いた。そして、帝撃司令官としての厳しい視線で、大神をうながした。
「さあ、ぐずぐずしている暇はねぇ。俺たちも翔鯨丸で出撃だ!!」
「はっ!!」
内心でどのような葛藤があったにせよ、敬礼したときの大神の顔には、露ほどの不安も焦燥も浮かんではいなかった。
敷き詰められた石畳の上に、その甲冑はたたずんでいた。
背の丈は四メートルほど。厚く盛り込まれた甲羅のような、ものものしい鎧をその全身にまとっている。
ややうすい緑色の重ねられた鎧は、腐った死肉に青苔がこびりついたものであった。その表面は日の光にじゅくじゅくと気色悪く光り、ぬめぬめとした湿り気を帯びて蠢いている。
だが、先の戦闘のときに現れた屍炎の魔晶甲冑のような薄気味悪さは、意外にもそれほど感じさせはしなかった。
気味の悪さよりも、その鎧をまとった者の全身から発せられる、例えようのない威圧感のほうが、見るものをして体を縮こまらせる。
ずっしりと大地に根を下ろしたような両脚。がっしりと胸の前で組まれた腕。奇妙な形状の鎧に頭からつま先まで守られ、いかつい仮面のような頬当てもつけられている。そしてその瞳にあたる個所に開いたくぼみからは、ギロリとした鋭く猛々しい眼光が漏れていた。
その巨体とあいまって、まるで天から遣わされた神将であるかのような、重々しくもどこか威圧的な甲冑であった。
「帝國華撃團、参上!!」
九段坂に六つの爆煙が上がる。翔鯨丸から降下した霊子甲冑――帝國華撃團の神武であった。その中央には、左右をマリアとカンナの神武に支えられた人型蒸気がいる。神代であった。
さすがにただの人型蒸気では、翔鯨丸からの降下はできない。着地の衝撃を緩和するために、カンナとマリアの神武がサポートしていた。
「悪いね、カンナちゃん、マリアちゃん」
「「……」」
少しも悪びれた様子のない神代の言葉に、二人は沈黙で答えた。まだ彼女たちは、神代を信頼していないようだった。
だが、神代もそれを気にした様子はなかった。めったにない真面目な顔になって周囲を素早く見回し、状況を把握する。
そこへ、朗々とした声が、響きわたった。
「帝國華撃團よ、この俺、”陸邪”を倒せるか!?」
ずしんと腹の底にまで響くような、重く猛々しい声に、帝撃のメンバーは瞬時動きを止めた。敵がその名前を明らかにするのは、今回が初めてであったからである。
前回、屍炎は、あざけり笑いとともに攻撃していただけで、その目的も、自分の名前さえも口にはしなかった。
屍炎にしてみれば、このような弱い相手にわざわざ名乗る気がなかっただけではあるが、名前も知らぬ相手と戦うことは、帝撃のメンバーにとっては落ち着かない、不気味ささえも覚えていたのである。
だが今回は、敵はその名を明らかにした。妙にほっとした空気が帝撃の少女達の間に流れる。
「油断するなっ!!」
鋭い声が、神武の通信機から少女達の耳朶を打った。はっとして、彼女たちは目の前の敵に集中する。だが、すでに造魔の一群が、地響きを立てながら彼女たちのすぐ目前にまで迫ってきていた。 穢らわしい歯茎をむきだしにし、胸が悪くなるような異臭を放つ涎を垂らす。鉤爪のついた腕を振り上げ、耳障りな唸り声を上げる。
「密集陣形!! 先頭はカンナとさくら! 右翼にマリア、すみれ!、左翼に紅蘭と俺! 真ん中がアイリスだ!」
矢継ぎ早の命令に、少女達は反射的に従っていた。まるで一体の生命体のように、迅速に陣形を形づくる。
「カンナは右前の二体、さくらは中央一体を迎撃! 紅蘭、左20度に迫撃砲斉射! マリア、左15度、敵陣の一番薄い個所にいる二体を撃て!」
「!!!」
わけも分からず、少女達は命令のままに迎撃を行った。カンナの鉄拳が造魔二体を撃砕し、さくらは抜き打ちで敵を両断する。紅蘭とマリアの射撃により、左前に突破口が開く。
「全速前進、左15度! アイリス、左右に敵が来たら攻撃! 倒さなくていい、軽く当てるだけだ!」
「うんっ!」
猛然と神武が走り出す。突破させまいと左右から襲いかかる造魔にアイリスの攻撃が加えられ、やや動きが鈍る。そこをすかさず一旋する光の剣。 神代が七宝聖剣を抜き放ったのである。七つの宝玉から放たれる退魔の光が十数メートルの剣の刃をなし、近づく造魔を切り裂き霧散させる。 その圧倒的な力に驚く暇も花組の少女達には与えられなかった。
「ようし、突破した! マリア、紅蘭、後方からの追撃を迎撃! すみれ、右側にまとまっている奴等を必殺技で攻撃!」
「了解っ!」
「はいっ! ……神崎風塵流・鳳凰の舞!!」
慌てて反転して追いすがろうとする造魔の一群にマリアと紅蘭からの砲撃が襲いかかる。同時に、右側にかたまりアイリスの攻撃を避けていた一群に、すみれの必殺技が炸裂する。
造魔の放つ断末魔の咆哮が消え去ったとき、そこには呆然とした花組の少女達の姿があった。
「……敵を15体、撃退……それも、ほんのわずかの間に……」
「……そ、そんな……」
「…………」
「呆然とするなっ! 陣形を再編するぞ。まだ敵は半分以上いるんだからな!」
ふいに聞こえた叱咤に、少女達は慌てて再び陣形を立て直した。そしてそこでようやく、少女達は、自分たちに命令を下したものが誰であるかに気づいた。
「神代さんっ!」
「やるじゃありませんの」
「……見直したで」
「……なるほど。やりますね」
「たいしたもんだぜ、神代」
「せいお兄ちゃん、かぁっこいい!」
口々に寄せられる少女達の賛辞に、人型蒸気の中で、神代は照れくさそうに鼻の頭をかいた。だが、その碧色の瞳が鋭くほそまった。
陸邪と名乗った敵の将が、手持ちの造魔の群れを再編し直し、再び攻勢に出ようとしているのを敏感に感じ取ったのだ。
「お褒めのお言葉は、あとで有り難く頂戴する」
普段の陽気な声で答えながら、神代は、七宝聖剣を振るうために前面の装甲を取り払いむき出しとなっている操縦席で軽くスティックを握り直した。
「紡錘陣形を取る。俺とカンナが先頭、さくらと紅蘭は左、すみれとマリアが右だ。アイリスは中央。それと、みんな、ダメージはないな?」
「はい!」
戦闘前とはうって変わった信頼の籠った声である。神代の唇に自然と笑みが浮かんだ。
(……なるほどね。あのひとが、禁忌に触れてでもこの娘たちを護りぬいた訳がわかるぜ)
(俺も、この娘たちを守護したくなってくる)
(例え禁断の力を解放することになっても、な……)
「さあ、もうひと頑張りだ! いくぞっ!」
「はいっ!!」
「なるほど。よく統率が取れている。いい指揮ぶりだ」
小さく呟く声が、甲冑の内部から漏れた。その鋭い瞳がやや和らぐ。だが、そのすぐ耳元で囁かれた声に、甲冑の主は凄じい殺気をほとばしらせた。
「……おいおい。敵を褒めるのは、倒してからにしてくれ」
「お前に言われなくても、やつらは倒す!」
「少しは俺にも残しておいてくれると助かるが」
「お前は黒水とやらのところへ戻っていろっ! 気が散る!」
「わかったわかった、”陸邪”どの」
明らかに侮蔑の混じった声が聞こえるや、甲冑の頭部のあたりに蠢いていた空気が揺れた。一陣の密度の濃い風が、ふいっといずこへかと飛んでいく。 それを見送って、陸邪はふと視線を足元に落とした。そこにいる小柄な影に、小さく言葉をかける。
「お前はどうする?」
「……まだ俺の出番じゃないからね」くすくすっと、おかしそうにその影は笑った。「あなたの好きにしていい。俺の目的は、あいつらを倒すことじゃあないからね。あなたと同じで」
「わかっている。お前の目的は、俺のそれとも合致しているからな」
「まあね」小柄な影は、ふと、その口調に真剣なものをにじませた。「とにかく、この忌々しい肉の衣を脱ぎ捨てて、彼を救い出さなければ」
「そのためにも、彼らには……」
「ああ……」
短く交わされる言葉。そこに込められた思いの中に、しばし二人は沈み込む。だが、その耳に届く造魔の咆哮に、甲冑をまとった陸邪は、視線を戦場へと戻した。
「そろそろ俺も出る。後のことは頼んだぞ……」
「任せろ。結果がどうなろうと、あなたは気にするな」
「頼む」
そして陸邪は、その巨木のような脚を、戦場へと踏み出した。
「……敵の親玉が動き出した。いよいよ総力戦だぞ」
通信機から伝わる神代の声に、カンナは小さく身震いした。前にいる造魔を打ち倒し、視線を敵の魔晶甲冑へ向ける。
(……よし、いけそうだ)
誰にも聞かれないように心の中だけでカンナは呟いた。
敵を、あの穢らわしい造魔の群れを前にしたとき、カンナは、再び心に脅えが走るのを感じていた。
造魔に重なるようにして、鎗を胸に突き立てられた兵士、眼球をくりぬかれたうえに腹から臓物をはみださせた兵士、おびただしい血を流し、何かを求めるかのように折れ曲がった腕を差しのべてくる兵士の姿が浮かび上がってきたのである。
(ち、ちきしょうっ! 何でまた、こんなのが見えるんだっ!? もう、あたいはもう、大丈夫じゃあなかったのかっ!?)
気味の悪い感触を胸に震えだしたカンナだったが、それでも初戦のあの戦いでは、神代の叱咤と矢継ぎ早の命令に反射的に従い、何とか敵を撃退してのけた。 そして、戦っているうちにカンナも、ようやく自分を取り戻してきていたのである。
(ありがとよ、神代のだんな)
カンナに考える暇を与えずに的確に指示を送ってくれる神代に、カンナは心の底から感謝していた。
彼女の不調を感じ取っていたとは到底思えなかったが、結果として彼女自身を初戦の恐怖と緊張から立ち直らせ、落ち着きを取り戻させたのは、確かに神代の手柄であった。
それでもいまだにカンナの瞳には、造魔に重なる、うらみをのんだ死者の亡霊が映っている。
血に汚れた包帯がたれ下がり、消し炭のように黒ぐろと焼け焦げた脚を引きずる兵士。全身に矢が刺さったままの鎧をまとった兵士。
その亡者の姿が造魔に重なる。カンナの心に脅えが走る。
だがそれでも、勇気を振り絞って、カンナは戦い続けていた。脳裏に浮かぶ、羅閻の声を頼りにして。
(……あせることはない。恐れも、脅えも、あきらめずに立ち向かっていけばいつかは晴れる)
(前を向いて、自分に出来ることを考え、恐怖を克服していけばいいのだ)
(前を向いて―――最後まで、諦めずに――)
「せいっ!!」
霊気をまとった神武の拳が、造魔の腹に深々と突き刺さる。そして、突き刺さった個所を中心にして、ぐずぐずと溶けるように、造魔の姿が崩れていく。
(あたいは大丈夫だ――大丈夫だっ!!)
唇を噛み締めて、カンナは次の相手を捜す。鋭い瞳が、敵の集団を居抜く。
その時だった。
「……マリア! 親玉が射程に入ったぞ!!」
「了解!」
通信機から交わされる言葉に、カンナは思わず敵の将のいる方向へと視線を向けていた。
苔生した屍肉の甲冑は、その周囲に幾体かの造魔を引き連れ、前面に出てきていた。造魔の群れの反応が鈍いためにあせったのかもしれない。
いつの間にかマリアの射程近く、最前線にまでその魔晶甲冑を進めてきていたのである。
マリアの神武からの正確無比の銃弾が、その魔晶甲冑へと向かって降り注いだ。
ズガガガガガッ!!
鋭い銃声とともに、着弾の音が響く。分厚い鎧がそのほとんどをはじき返したものの、魔晶甲冑は、わずかによろめいた。一歩、右足が後ろに下がる。 傾いた鎧に、紅蘭からの容赦ない追撃の砲弾が届いた。そして、鈍い音とともに、魔晶甲冑の兜が、吹き飛んだ。
「……よし、やったっ!!」
喚声が通信機からほとばしった。ほんの少しとはいえ、敵の魔晶甲冑にダメージを与えたのだ。以前の戦いではダメージ一つ与えられなかったのだから、少女達の喜びはひとしおだった。
だが―――
ただ一人、カンナだけは、言葉を失っていた。その赤橙色の神武は、まるでそこに敵がいないかのように無防備に突っ立っていた。だらり、と、両腕が垂れ下がる。
「……そ、そんな……」
わななく唇から、かすかな言葉が漏れた。カンナの紫色の瞳は、じっと、敵の魔晶甲冑に向けられていた。
「……どうしたの、カンナっ!?」
親友の状態をいち早く察したマリアが呼びかけてくる。だが、カンナはその声さえも聞こえないかのように、呆然としたままだった。
「カンナ、カンナっ!!」
「おい、しっかりしろ、カンナちゃん!!」
「どうしたんですか、カンナさん!?」
花組の少女達の声、神代のあせった声が通信機から流れてくる。
カンナはしかし、うつろな眼差しを、敵の魔晶甲冑に向けたままだった。その、血の気を失った唇から、かすかに、言葉が漏れた。
「どうして……どうしてなんだ……どうして、あんたが、そこに……」
吹き飛ばされた兜の下。
そこには、額からかすかに血を流した、羅閻の顔があったのである。