呆然と、カンナは繰り返した。信じられないものを見た思いで、カンナはただただ呆然と、羅閻の姿を見ていた。
(あきらめずに立ち向かえ……)
(お前の中には、大きな力がある――強い、力が……)
(お前は、強くなる――強くなる……)
「どうして……どうして、あんたがそこにいるんだっ!?」
瞬間。カンナの神武は、はじかれたように走り出していた。その前方に造魔が群がり来る。
『カンナっ!!』
『くっ!』
腕を振り上げ叩き付けようとした造魔を、マリアの銃撃がはじき飛ばした。ひるんだ造魔と神武の間に空いたわずかなすき間に、強引に人型蒸気が割り込む。光の剣が、まとめて数体造魔を切り裂き消滅させる。
「カンナちゃん、しっかりしろっ!」
『……頼む。神代』呟くように小さな声が、神代の人型蒸気に備えられた通信機から漏れた。 『あの大将……敵の大将は、あたいにまかせてほしい。あたいが……あたいが、倒すから……』
「……できるのか?」神代は、静かに問いかけた。「倒す意志は、あるのか? 倒そうという意志は、カンナちゃん、君にあるのか?……半端な情けは、命取りだぞ!?」
『……』
沈黙がわずかにあった。だが、その後には、はっきりとした意志を持った声が続いた。
『……ある! あたいは、あいつを倒さなければならないんだ! あたいが……あたいが、やらなければ、ならねえんだっ!!』
「……わかった。カンナちゃんに任せよう」
神代は頷いた。カンナの神武の前から人型蒸気をどける。ぎゅいん、と音を立てて、カンナの神武のカメラが神代に向けられた。その無機質なレンズの奥にあるだろう紫色の瞳を思い浮かべて、神代はにやっと笑って見せた。
「――さくらちゃん!」
『……あ、はい!』
神代の呼びかけに、慌てたような声が通信機から発せられた。すぐさまそばに桜色の神武が駆け寄ってくる。
「道を開ける。必殺技を、ここからあの親玉へ向けて放ってくれ」
『はいっ!』
くるり、と桜色の神武は身を翻す。その全身に霊気がまといつき、間髪を置かずに、その脇から一直線に美しい桜色の光が放たれた。
『破邪剣征・百花繚乱!!』
霊気の奔流がうねり、造魔の群れをはじき飛ばす。幾体かの造魔が、耐え切れずに消滅した。
「いけ、カンナちゃん! あいつは頼んだぜ!」
『……サンキュ、神代!』
呟くような声とともに、赤橙色の神武は全速で、さくらの開けた道を走り出した。
それを見送る神代の耳に、痛烈とも言えるほど鋭い声がかかった。
『なぜカンナに行かせたのですっ、神代さんっ!?』
「ま、訳ありらしいからな」瓢々とした口調で、神代はマリアの質問に答えた。「どうも、知り合いらしい」
『だからといって、カンナ一人に行かせるなんてっ!!』
激昂に近いマリアの言葉に、神代はふっと微苦笑を浮かべた。親友を気遣うマリアを微笑ましく思ったのである。
「マリアちゃんの気持ちは分かる」穏やかな口調で、神代は答えた。「けどな。カンナちゃんが言い出したことだ。カンナちゃん自身が、けじめをつけたいと言っているんだ。信じようじゃないか、カンナちゃんを」
『……』
「ただ、黙って高みの見物を気取っている暇は、俺たちにはないぜ」不適な笑みを浮かべ、強い調子で神代は言葉を続けた。 「俺たちは、カンナちゃんが戦いやすいようにしなければならねえ。そいつが今俺たちがカンナちゃんにしてやれることだぜ?」
『……分かりました。私もカンナを信じます』
マリアの静かな声が答える。その言葉の前に、小さなため息があったのは、それでもやはり親友のことを気遣ってのことだった。
マリアの気持ちを察したかどうかはわからないが、神代は妙に明るい調子で、花組の少女達に呼びかけたのである。
「さあて。カンナちゃんのために、盛大な花道を作ろうぜ。まずは周りの不粋な連中の始末だ。いくぜ!!」
「……大丈夫でしょうか、カンナさん」
通信機ごしに交わされる神代達の会話を聞きながら、椿は不安そうな顔で横に立つ大神を見上げた。翳りを帯びた薄茶色の瞳を見つめ返し、大神は微笑んで見せた。
「大丈夫だよ、椿くん。カンナならば、ね。それに……」
つと、再び眼下に広がる靖国神社の戦場を見下ろして、大神は言葉を続けた。
「カンナも、心の整理をつけたいんだと思う。神代の言う通り、けじめをつけるために、カンナは立ち向かっているんだろう。これは、カンナにしかできないことだ。俺たちが出来るのは、カンナを応援することぐらいだよ」
「そうですね……」
ぎゅっと胸の前で両手を組み、祈る気持ちで椿は眼下の、鮮やかな赤橙色の神武を見つめた。
「頑張ってください、カンナさん……」
「……どうした、帝國華撃團! この程度では俺は倒せぬぞ!」
腹の底に響くような声で、羅閻は自分に向かってくる赤橙色の神武に言った。体を入れ替え、がらあきになった背中へと容赦のない蹴りを入れる。 身を捻って直撃をまぬがれたものの、神武は体勢を崩して、大地に転がった。そのまま距離をおいて立ち上がる。
「……くっそお!!」
歯ぎしりとともにカンナは絞り出すような声で呟いた。
「あいつ、動きがよすぎる……くそう、神武に乗ってちゃあ、勝てねえかもしれねえぜ……!」
非接触型の間接操縦となり、パイロットの思う通りに瞬時に動くことが出来るようになったとはいえ、神武の動きはそれでもまだ、人間の動きほどに滑らかに動くことは出来なかった。 出来うる限りの運動性能の向上をめざして改良に改良を重ねてはいるのだが、それでも、生身の人間の反射的な動きをトレースするのは難しい。 そして、カンナのように格闘センスを磨き上げたものほど、神武の運動性能には、まだまだ物足りないものを感じてきていた。 ここ一発というときの破壊力には満足すべきものがあるのだが、跳躍や回避の動きにはまだまだ神武の動きは人間の動きほど滑らかになっていない。 そしてそれは、目の前の敵のように俊敏な動きをするものを前にしたとき、カンナの神経をささくれだたせる原因となっていた。
「くそっ、腰の動きがついて来ねえ!」
特に前回の戦闘で破壊された腰回りの機動が、修理したとはいえまだまだなじんでいない。回避行動がややずれこんでいる。眉を顰めて苛立たしげにカンナは舌打ちした。
修理を担当した紅蘭を責めるつもりはないが、やはり不満は残る。そしてそれは、カンナの攻撃を単純化させ、敵につけこむ隙を与えることに繋がった。
ふいに、敵の魔晶甲冑の姿が、カンナの視界から消えた。慌てて周囲を見回す神武のカメラの死角から、羅閻は、懐に潜り込むことに成功していた。
「羅漢・鍾力離魔!!」
必殺の一撃が、カンナの神武に襲いかかった。直径十数メートルの大地をえぐり飛ばす力が、ただ一体の神武に集中する。
「うわあああああああああっ!!」
自らの絶叫が、カンナの耳を弄した。全身に襲いかかる衝撃。目の前が暗くなる。どこかでぽきり、ぽきりと、軽い音がした。物凄い衝撃が背中から襲いかかる。 大地に叩き付けられた神武は石畳をえぐり、その特殊装甲は、無残にもひしゃげ果てた。鈍い破裂音とともに、圧縮されていた水蒸気が、熱気を伴って周囲に吹き荒れる。
『……カ……ンナ……っ!!』
ノイズ混じりの悲鳴が通信機から漏れる。だが、カンナの意識はその時、そこにはなかった。
ひしゃげた装甲の一部がカンナのわき腹を圧迫していた。唇から血が流れ落ちる。ぐふっと音を立てて血の塊を吐き出したが、それは無意識の所作だった。
閉じられたまぶたは明るい紫色の瞳を覆い隠し、力と生命力に満ちていた四肢は、ぐったりと弛緩していた。
悲痛な声が、通信機から漏れ出る。
『カン………ナさ……ん!……カ……ンナ……さん!!』
「カンナさん! カンナさん!! 返事してください、カンナさん!!!」
聞いているだけで胸が苦しくなるような悲痛な声で、必死になって椿は通信機に呼びかけていた。半分がた地面にめり込んだ神武は、破壊された排気口から噴出する水蒸気のために上空からは判然としない。 だが、襲いかかる造魔を撃退しながらも他の神武がそのそばへと駆け寄ろうと必死になっている光景が、事態が切迫していることを如実に表していた。
「カンナさん! カンナさん!!」
「……」
大神の顔も険しい。その端正な顔に焦燥が如実に現れている。握りしめた拳が震え、食いしばった歯の間から、唸るような声が漏れる。
だが、取り乱したり、激情に駆られて単身戦場へと降り立つことは、大神には許されていなかった。彼に出来たのは、背後でやはり苦渋の表情を浮かべる米田に、救護班を要請することだけだった。
そしてそれも、すぐに戦場に投入することは許されない。戦場に立つ神代がカンナを撤退させてからでなければならない。
そうしなければ、神代が帝撃に正式に入隊することは許されないのだ。
『マリアちゃん、さくらちゃん!! カンナちゃんを!!』
『了解!!』
切迫した会話が通信機ごしに伝わる。窓の外に目を向ければ、カンナと羅閻の間に神代の乗る人型蒸気が割り込み、襲い来る造魔の群れを食い止めているのが眼下に見える。 そして、黒と桜色の神武が、無残にひしゃげ地面にめり込んだ神武を抱き起こしているのも、かすかに薄れた水蒸気越しに見えた。
『カンナちゃんを撤退させる。大神、救護班を九段坂下に配置してくれ!』
「……分かった」
神代の言葉に短く大神は答えた。すぐさま連絡を取り、風組の救護班を向かわせる。
「神代さん、神代さん!! カンナさんは、大丈夫なんですかっ!?」
かみつくように問いかける椿の声に、通信機からの返答は、しばしの沈黙を伴った。やがて、冷静な声が通信機から流れた。
『……ろっ骨が三本ほどやられたようだ。まだ気を失っている。ひどい状態だが、一命は取り留めている。心配するな。大丈夫。死にはしない』
「よかった……」
わずかに、椿は安堵の吐息をついた。だが、続いて飛び込んできた声に、その幼い表情がひきつった。
『……やめ……ろ……あたいは、まだ……まだ、戦える…………戦えるんだ……』
「――カ、カンナさんっ!?」
「やめろ、カンナっ!!」
これには大神も、叫ばずにはいられなかった。
「無茶するなっ! 他の皆に任せるんだ!!」
『……へっ、隊長……冗談じゃねえぜ……あたいが、戦えるって……言ってるんだぜ……』
「無理だ、撤退しろ、カンナっ!!」
マイクをつかみ、怒鳴りつけるように命じる大神だったが、それに答えるカンナの言葉は、さらにはっきりとした拒絶を伴っていた。
『妙だな、隊長……何だか、通信機の状態がよくねえや……あんたの声が、よく聞こえねえぜ……仕方ねえ、あたいの判断でやらせてもらうぜ?』
「カンナっ! カンナっ!!」
『……へっ、隊長。やっぱ通信機、故障したようだ……ま、故障なんて、よくあることだよな?……そういうわけだ。後のこと、よろしく頼んだぜ!』
「カンナっ!!!」
大神の声に、通信機からの返答はなかった。大神は視線を窓の外、戦場へと向けた。マリアとさくらの神武にはさまれた形の神武から、誰かがよろめきながら降りるのが、かすかに見えた。
「無茶だ!……神武なしで、どうやって戦うっていうんだっ!?」うめくように呟いた大神は、すぐさま通信機に向かった。 「神代、マリア、さくらくん!! 誰でもいい、カンナを止めろ!! 止めてくれ!!」
『……ああ!』『了解しました!』『は、はいっ!』
慌てた様子でマリアとさくらが、走り出ていく人影を追う。そして神代が、その人型蒸気を人影の進路を遮るように立たせる。
だが、その一瞬だった。
『おわっ!!!』
通信機から、神代の声が響いた。いつの間にか接近していた造魔の穢らわしい腕が、人型蒸気の背を貫いていた。
「神代さんっ!!」
「しまった……っ!!」
鋭く大神は舌打ちした。カンナの行動にあせるばかりに、戦況を見ることを失念していたのである。 よく見れば、カンナを助けるためにマリアとさくらが抜けたため、まだ十数体ほど残っている造魔の攻勢を、必死になってすみれと紅蘭が支えているのだった。
「神代、大丈夫かっ!?」
『……ちょいとばかり、いいものをもらっちまったがな』苦笑混じりの、意外と元気な声が答えた。『大丈夫。少なくてもカンナちゃんよりは軽傷だ。心配ねえよ。前線を立て直すぜ』
「すまん。頼む」
貫いた腕を光の剣で切り裂き、自由を回復した人型蒸気が、造魔の一角に向かって走る。
同時に、指示があったのだろう、マリアの銃撃がすみれの間近の造魔を打ち倒し、素早く移動したさくらの剣が、紅蘭の懐に飛び込もうとした造魔を切り伏せた。
造魔の攻勢をしのいで下がったすみれと紅蘭の神武に、アイリスの回復がかかる。
それを見届けて、ようやく大神はほっと一息をついた。そして、再び鋭い眼差しになって、カンナの人影を戦場に追い求める。
いた。
再び数体の造魔に周囲を守らせた敵の魔晶甲冑にむかう、小さな人影。
巨体が激突する戦場で、その姿は、いかにも頼りなく、儚いものに思えた。
「くそっ! どうしたらいいんだっ!?」
汗をにじませて、大神は苦悩する。その瞳が、ふと、青ざめた顔で戦場を見守る椿に向けられた。その脳裏に、花やしきで語られた紅蘭の言葉がよぎった。
(――霊的防御……防御対象となる霊力保持者の霊力を高めて、大神はんのような防御障壁を展開する能力………)
(前回の戦いで――俺は、今のカンナと同じように、重傷を負っていた………だが、椿くんが現れた時には………傷もなく、霊力も、回復していた……)
(と、いうことは――)
大神の鋭い瞳が細められた。端正な顔に決意の色を浮かべて、大神は椿に近づいた。
「椿くん……頼みがある」
「……え!?」
振り向いた薄茶色の瞳をのぞき込むようにして、大神は言った。
「君の力を……この前、俺を助けたときの、あの力を、使ってくれ! カンナを、助けてくれっ!!」
「……」
大きな瞳が丸くなった。その顔が不安に曇った。
「で、でも……できるかどうか、私……まだ……」
「頼む、やってくれ!」大神は、小さな肩を両手でつかみ、叫ぶように言った。「君しか頼れない。君の力が必要なんだ!」
「……わ、わかりました……やってみます……」
小さく、呟くように椿は答えた。そして目を閉じ、神に祈るように両手を組み合わせた。
じっと、大神はその様子を見守った。焦燥が色濃く端正な顔に浮かぶ。
一心に、祈りを捧げるかのように瞳を閉じて念じる椿。気の遠くなるような時間が、過ぎたかに見えた。落ち着かなく、大神は、視線を戦場へと向けた。
だが、カンナはふらふらとした足取りで、一歩、二歩とよろめき進むばかりで、一向に回復した様子もない。
再び大神は、椿へと視線を戻した。
「椿くん! 頼む!」
だが、その声に、蚊の鳴くような頼りない声で椿は言葉を返した。
「……ご……ごめんなさい……私……私……できないみたい……!」
「できる! 君ならば、できる!!」
力強く言い聞かせるように声をかける大神だったが、椿は幼い顔に苦悶と悲しみを宿らせて、見上げてきた。その大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
「私だって……カンナさんを助けたいんです! 私だって、助けたいんですっ!! でも……でも、力がでない……でないんですっ!!!」
くしゃくしゃと顔をゆがめ、悲痛な声で椿は訴えた。
「どうして……どうして、私……私……っ!!」
「椿くん……」
うわあっと、声を上げて、椿は泣き崩れた。大神は反射的に椿を抱きしめた。小さな体から伝わってくるのは、思うように力を扱えないこと、必要とされている今この瞬間に、力を出せないことへの、憤りと悲しみ、そして苦しみの混じった声だった。
ぶるぶると震える椿の体を支えてやりながら、大神は険しい眼差しをゆるめはしなかった。
椿の不安と焦燥、思うように力が出ない事に対する苦しみと悲しみはわかる。だが、それが何の救いにもならないことは、大神は十分に知っていた。
ぎりっと唇を噛み締め、諭すように言葉をかける。
「落ち着け、椿くん。……大丈夫。きっとできる。もう一度、やってみるんだ」
「――でも……でも…………!!」
「今までに君は、二度、成功しているじゃないか。この前の戦いのとき、俺を助けてくれた。そして、花やしきでも。君ならば、きっとできる! 俺を信じて、もう一度やって見るんだ!!」
「……でも………で……も―――」
でも――あれは、大神さんだったから。私が助けたかったのは、大神さんだったから。
胸に広がる言葉を、椿は口にすることはできなかった。その言葉を口にしたとき、大切なものが壊れる気が、本能的にしたのだ。大切な、大神とのきずなが、壊れてしまう気が。
大神が花組の少女達を思う気持ちは、椿にもよくわかっていた。とても大切に、大事に、気を配り、慈しむようにして、見守ってきたのだ。
そしてそれだけに、花組の少女達をないがしろにすること、彼女たちを傷つけることを言った者に対しては、大神は容赦することはしなかった。
少なくとも、そのような者に対して向けられる大神の視線の鋭さ、冷たさ、そこに込められた軽蔑は、椿が恐怖するほどのものだった。
もしも自分がその言葉を口にしたら――大神のその冷たい眼差しが自分に向けられる。そう考えるだけで、例えようのないほどの絶望感が椿の心を凍えさせ、縮こまらせるのだ。
(嫌われたくない……嫌われたく、ない!!)
椿は、必死になって、心に念じた。眉をぎゅっと寄せ、全霊を傾けて、自分の裡に眠る力に訴えかける。
(お願い――お願い! 目覚めて、私の力。……カンナさんを、助けてあげて!)
(カンナさんを……助けて! そして、大神さんを……大神さんを、安心させて!!)
だが、椿の言葉に、反応するものは何もない。
椿の唇がわなないた。絶望と恐怖が胸中に渦巻き、心臓が締めつけられるように痛く苦しい。魂までも凍りついたかと思われるほどの絶対的な恐怖が湧き起こる。
(どうして……どうして!?)
(どうして、何も答えてくれないのっ!? どうして……私の願いを、聞いてくれないの!?)
(……それは、君の心が他を向いているからだ)
ふいに――
椿の心に、奇妙な声が、流れ込んできた。どこかで聞いたことがあるような、不思議な声。
椿は瞳を見開いた。現実には見えない何かを求めて、視線をさまよわせる。
(誰――誰なの?)
(君が知っている者――そう、知っている者だ――)
不思議な声は、わずかに苦笑をにじませて、答えた。
(それよりも――本当に、あの娘を救いたいと、君は考えているのか?)
(もちろん! もちろんですっ!!)
頷く椿だったが、不思議な声は冷徹に、否定した。
(いや、違うね……君が考えているのは、その男の関心を買いたい。男の気を引きたい。そのことだけだ)
(……そ、そんな……そんなこと、私……私……)
(そして、その手段として、あの娘の命を救おうと考えているんだ、君は)
(……い、いえ、そんなこと……考えてなんか……考えて……なんか……)
否定しようとして、椿は、思わず口を押さえた。ふと、嫌な考えが脳裏をよぎった感じがした。それを何気なく追ううちに、椿は自分の裡にあるものに、気づいた。
カンナを救うことによって大神に良く思われたい、大神に褒めてもらいたい。よくやってくれた、ありがとう、と、感謝されたい。
温かな笑顔で、優しい瞳で、自分を見てほしい。そしてその口から、自分の名前を紡ぎ出してほしい。
その全てをもって、自分を見て、自分だけを見つめて、自分の名前だけを口にして、そして……自分のことだけを、考えてほしい……
――そう。大神の笑顔、大神の感謝の言葉こそ、椿がほしいものだった。
自分を見つめる、暖かく優しい眼差し。その大きな胸の中に包まれて、そっと囁かれる労いの言葉。それこそが、椿の求めてやまないものだったのだ。
そして今、そのチャンスが、目の前にある。大神の苦しみを癒し、その瞳を、その心を、自分に向けさせることができる、チャンスが。
そう――
カンナを救うことは、大神に自分を売り込むための、単なる手段にすぎないのだ。本当の目的、椿の求めるものは、大神の笑顔、大神の眼差し、大神の心なのだから――
椿の心の中に次々と湧き起こる、負の感情。暗黒の中に蠢く、打算という名の心。
呆然と、椿は自分の心の裡を、見つめていた。混乱。そして震え上がるような恐怖が、椿を打ちのめした。
(そんな……私、そんな……)
自分の中に見いだしてしまった、そのような醜い心に、反射的に椿は目をそらした。こらえきれず瞳を閉じ、その思いを打ち消そうとする。
(だめだ。否定してはいけない……)一転して、優しい口調で、不思議な声が響いた。
(君の暗い面を、否定してはいけない。否定することは、暗い面をさらに深く広くしてしまうことになる。
その心の奥深くへともぐりこませ、くぐもらせ、そして淀んだ醜いものへと変質させて、その暗い面はそのうちに、君の心を蝕んでしまうことになるんだ。
だから、否定してはならない。ありのままを、君は受け入れるんだ。そう――)
(君は――君は、自分の心に立ち向かわなければならない。 自分の中の、表と裏。明るい面と暗い面を、ともに見すえ、受け入れなければならない)
(そうすれば……君は、君の裡に眠る力を、君のものにすることが出来る。だから……落ち着いて、考えるんだ)
(考える――? 何……を?)
(君の、心の向き。魂の向き。そして、その心の先にあるものをだ)
優しい声は、まるで暖かな光のように、椿の心を照らした。不思議と椿は、心が落ち着くのを感じた。
先ほどまでの焦燥感が嘘のように消えうせる。瞳を閉じて、椿は心に響く声に耳を傾けた。
(そう、それでいい……そう、静かに、考えるんだ。感じるんだ。君の心を。君の力を)
(私の心――私の、力――)
呟く椿の心に、ふと浮かび上がる、大神の姿。優しい眼差しとおだやかな微笑み。力強い腕。そして、暖かな心。
(君はこの男を好いているのだろう?)
(ええ……)
素直に椿は頷いていた。まるでそれは当たり前のことのように、何のてらいもなく、椿はその言葉を受け止めていた。
(それじゃあ、この人たちは、どうだい?)
声とともに、今度は、花組の少女達の姿が、椿の心に浮かび上がった。
マリア。 | 時に厳しく、時に優しく少女達を守る、美貌の麗人。その心は、常に他の少女達への慈愛に満ち、その心を支えてくれる。 | |
さくら。 | 春の日差しを思わせる温かい笑顔。全てを包み込むような豊かな心。とても一途な、素直な心。暖かく育まれた、優しい心。 | |
すみれ。 | とても傷つきやすい、繊細な女性。言葉の刺に包まれ守られたその心は、ひどく繊細で、けれど相手を思いやる気持ちに満ちている。
| |
紅蘭。 | 夢を求め、希望を見つめる少女。あらゆることを受け入れ、そこに未来を見つける、したたかな心。
| |
アイリス。 | 無邪気さと真の気高さを持つ少女。何者にも穢されない、真っすぐな視線を持つ、光の心。
| |
そして…… カンナ。 | 陽気で健康的で、明るい心。いつも前を向いて進むことが出来る、活力に満ちた心。生きることに全てをかけて、そして振り向くことを良としない、強い心――
|
(そう――この娘たちは、君の、一部なんだよ)
不思議な声が、優しく微笑むように語りかけてくる。
(君の心の一部は、すでに、この娘たちになっているんだ。――君の中の、かけがえのない思いとともに、ね)
(そして、今――その一人を、君は、失おうとしているんだ)
はっ、と、椿は目を見開いた。思わず胸をかき抱く。鋭い痛みが、走り抜けていく。
(カンナさん――カンナさんが……!!)
(そう、彼女が傷つき、倒れようとしている)
きゅっと、胸の奥が痛む。自分の心の中の、大切なひと。自分の思いを形づくる、かけがえのないひと。強く明るい、暖かなカンナの笑顔が浮かぶ。
そしてそこに、全身をかけめぐる痛みに耐える彼女の姿が重なる。
(いや……カンナさんが、カンナさんが傷つくなんて……いやっ!!)
ゆっくりと―――ゆっくりと、椿の裡に、何かが湧き上がってきた。暖かく強く、優しい力。慈しみと愛に満ちた、気高い力。
(……カンナさんを、失いたくないっ!! 私の――私の思い、私の心の大切な一部であるカンナさん……あの人を、失うわけにはいかないっ!!)
(――そう。君の大切な一部。君を形づくるのに必要不可欠な、大切な仲間)
(失いたくない! 失うわけにはいかない! 失わせるなんて……そんなこと、させないっ!!!)
「……つ、椿、くん……!?」
大神は、思わず声をかけた。
それまで彼の胸でむせび泣いていた椿の体が、突然、まばゆいばかりの光に包まれたのだ。その小さな背中から、気高い白に輝く羽根が、ふわさっ、と広がり出てきた。
それまで一度も嗅いだことのない、清浄で、高貴な芳香があふれる。
まるでこの世界全てが浄化されたかのように、大神は感じた。思わず後ずさる。
光の羽根に包まれて、椿の全身が輝く。その小さな顔が、ふと、上げられた。視線が大神を捉える。
「……」
大神は言葉を失った。椿の薄茶色の瞳は、まるで豊かな実りを育む大地のような暖かな光を浮かべ、そしてそのそばかすの浮いた顔には、天上の女神達もかくやと思われるような、気高く凛々しくも優しい、見惚れるほどに美しい微笑が浮かんでいたのだった。
「つ……椿、くん……」
大神の背後で、やはり言葉を失っていた米田の、呟きが聞こえた。それに答えるように、椿は、軽い一瞥を米田に向け、そして、その純白の光の羽根を広げた。
そして――
天使は飛び立った。
「……そう、それでいいんだよ、椿ちゃん」
閉じていた瞳を開き、小さく苦笑して、神代はようやく目前の敵へと意識を向けた。光の刃で貫かれながらも弱々しく抵抗していた造魔は、その瞬間にかき消える。
「さて、これで勝ったな。……まあ、あとはカンナちゃんの働き次第だが――」
そして神代は、再び剣を握り直した。造魔はまだまだ周りにいくらでもいる。
ゆっくりと戦場を見回す神代の瞳に映る、体を引きずった少女の姿。だがそこに瞳を向けたとき、神代の口元がゆるんだ。
「よし……もうすぐ、終わりだな」
誰にともなく呟くと、神代は、フィナーレを早めるために人型蒸気を新たな戦場へと駆り立てた。