ツバキ大戦<第参章>


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「……くっそう……どこに、いるんだよ……おっさん……!!」

うめき声が唇から漏れる。肺にたまりこみあげてくる血塊を、弱々しく吐き捨てる。折れ砕けた右のわき腹を押さえ、よろめきながら、カンナは霞がかる瞳をうつろにさまよわせた。 視界がゆがみ、ぼやけている。遠くかすかに、剣戟の音がする。だが、カンナの求めるものは、近くにはない。いや、視界の中に、それらしいものはなかった。

「へっ……ざまあねえや。くそっ……おっさんに、あいつに、ただの一撃も見舞っていやしねえってのに、よぉ……」

自嘲的な笑みが、唇を飾る。血にまみれた半身をひきずりながら、カンナは戦場をうろついていた。

「これまで……なのかな、あたいも……」

怪我の程度は、カンナ自身よく承知していた。右わき腹のろっ骨を数本砕かれ、右大腿部からひざ元まで裂傷が走っている。肺に血がたまっていることから、胸に内出血があるらしいことがわかる。 さらに、地面に叩き付けられたときにどこかにぶつけたのか、頭の左上あたりから鈍い痛みが伝わる。頬に流れる暖かな、しかし鉄臭い液体を感じると、どこか切っているかもしれない。
だが、いずれも致命傷ではない。手当てをすれば、助かるだろう。
しかし……こうして戦場を徘徊していては、助かるものも助かりはしない。特に右大腿部の裂傷から、かなりの血が失われている。手当てが遅れれば遅れるだけ、彼女は死へと近づいているのだ。

「うっ……くっ……!!」

間断なく襲いかかる激痛をこらえかね、カンナは、膝をついた。視界がゆがむ。悔しげに唇を噛み締める。

「ここまで、なのか、あたいは?」

薄れ始めた意識の中で、カンナはぼんやりと思った。ゆがんだ視界が、ふいに焦点を結ぶ。おぼろげに映る、羅閻との稽古の風景。
そして響く、暖かな声。

(ただ、前を向いて……お前は、進めばいい……)

前を――向いて?

(最後まで……あきらめない……)

……あきらめ……ない……最後、まで……?

情景が変わる。薄い紗のかかったような光景の中に、たたずむ、長身の人影。
鍛えられた体。切れ長の、鋭い眼差し。やや照れたような、暖かい笑顔が宿る、端正な面差しの、青年。

(……たい、ちょう……)

彼女の震える声が、青年の唇を微笑ませる。そして、かすかに開かれ、紡がれる言葉。

(――生きろ、カンナ……)

(与えられた命を……無駄にするな!)

(誇りを持て……生きることに、生き続けることに、誇りを持て!)

そして――青年に重なる、言葉。

(最後まで、あきらめるなっ!)

隊長――!

「――大神、隊長ォ!!」

カンナの唇から、咆哮のような、声がほとばしった。
そしてその時――カンナの裡から、何か、凄じい力が湧きあがった。

(……こ、これは……!?)

カンナは呆然として、自らの裡から湧きあがってくる力を感じていた。力強く、猛々しく、しかし明るく豊かな力。

(あなたに――祝福あれ!)

「……えっ!?」

ふいに聞こえてきた声に、カンナは慌てて周囲を見回した。その彼女の体をその時、優しく暖かな光の翼が包み込んだ。
みるみるうちに力が甦る。傷がふさがり、折れ砕けた骨が再生し、傷ついた肺が正常に戻る。かすんでいた意識がまるで霧が晴れたかのように澄み渡り、その拳に霊気が戯れまといつく。

「力が……甦る……!」

両足で大地をしっかりと踏み締め、カンナはぐっと握りこぶしを固めた。例えようのない喜びが満ちてくる。心湧き、力あふれ、その瞳に生気が宿る。

「グギャアアアッ!!」

造魔の一体がカンナの様子に気づいた。どんよりと濁った瞳がカンナを睨み据える。歯茎をむき出して威嚇の咆哮があがった。
そしてその声にかぶさる、兵士の影。

(……助けて……かあさん…………痛い、苦しい……)

(体が……焼けていく……ああ………熱い……!)

苦しみの声が、カンナの心を震わせる。うつろな眼窩をむけて、その兵士がカンナへと近づいてくる。

(………みずを……水を………)

(……ああ……腹に開いた穴から……水が出ていく……この……穴………なんで、どうして……)

(どうして………どうして、俺が死ななければ……ならなかったんだ………)

(……せめて……せめて……この苦しみを、渇きを……癒してくれ…………いやし……て……)

差しのべられる、炭化した腕。ぼろぼろに崩れた肉の間に見えるなまめかしい白い骨。まだ焼けてないピンク色の肉片がこびりつき、筋組織を糸のようにまとわりつかせた腕が伸びてくる。
だが―――
不思議とカンナは、取り乱すこともなかった。悲しみと、そして慈しみの光が、その明るい紫水晶色の瞳に宿った。

「――あんた、痛かったんだな。苦しかったんだな……」

「グギャオォォォォx!」

造魔が吼える。その声は、まるでカンナの言葉に応えたようにも思えた。端正な顔に憐憫の表情がのぼる。 ゆっくりと、カンナは構えた。ひじを軽く曲げた左腕を前に、そして右拳を脇のところにまで引きつける。

「……わかった。あたいが、成仏させてやる! あんたの苦しみを、解き放ってやるぜっ!!」

ハアァァァァッっと、カンナは息を吐き出した。自らに満ちてくる力を丹田に集める。その伸びやかな肢体にまとわりつくかのように、美しい赤橙色の霊気が立ち上る。

「魂よ、その源へと還れ! 導魂昇華(どうごんしょうか)!

「グギャァァァァァッ!!」

霊気をまとった拳が、美しい輝きを伴って造魔へと吸い込まれていく。ぶるり、と震えたかと思うと、その穢れた肉体が、塵のように粉々に砕け散る。その細胞のひとつひとつが、歓喜の声を上げて立ち上っていく。

(………ああ……なんて、暖かい光だ………)

(癒されていく………俺の、魂が………)

造魔に重なる兵士の顔に、穏やかな笑顔が浮かぶ。気持ちのよさそうな、何かひどく切望していたものを与えられたかのような、満たされた表情になる。

(ありがとう………ありがとう………)

(……これで……これでやっと、安らかに眠れる………)

その声――魂の声を聞きながら、カンナは瞳を閉じた。そして、魂が成仏することを、心から願った。

(今度生まれてくる時には――もっと、長生きできる世の中だったら、いいよな……)

小さく呟く。そしてふっと、瞳を上げた。
もはや、一片の恐れも、かすかな震えも、カンナは感じていなかった。 まだそこには、他の仲間達と戦っている数体の造魔が映っており、それに重なるようにして、矢ぶすまにされて血まみれになっている兵士や、袈裟懸けに切られたまま切り口を見せて徘徊する剣士の姿が映っていたが、彼女はもはや、彼らに対して恐怖を感じることはなかった。 それよりも、早く楽にしてあげたい、その魂を浄化させてやりたい、という思いが強くカンナの中に芽生えていた。

(彼らが見える――痛みに苦しみ、叫んでいる彼らが、あたいには見える………)

(……そう、彼らを救う力、彼らの魂を癒してあげる力が、あたいにあったからなんだ……だから、彼らは、あたいの目に映るんだ……)

紫色の瞳が輝く。きゅっと唇を噛み締め、カンナは、さらに彼女に向かってくる造魔の群れ……安らかな場から引き離され、魔の力によって無理矢理に甦らせられた亡者の群れへと、鋭い視線を投げかけた。

「まってろ。あたいが……あんたたちを、解放してやる!!」

強い意志が声となってほとばしった。ぐいっと瞳を凝らし、そして、カンナは大地を蹴った。伸びやかな肢体が風となり、カンナは造魔の群れに飛び込んでいった。
そしてその目指す先にたたずむ、緑色の苔のような鎧の魔晶甲冑。

「待ってろ、おっさん! あたいが、あんたも解放してやるぜっ!!」



「……何っ!?」

羅閻の口から、驚きの声がほとばしった。
尋常でない気迫と霊気をまとった少女が一人、まるで雑草を切り払うかのように造魔を倒しながら、羅閻の元へと向かってくる。
その炯々と輝く瞳が、羅閻の瞳を捉える。少年のように端正な顔に、不敵な笑みが浮かぶ。

「いくぜ、おっさん!!」

叫ぶや、少女は大地を蹴って跳んだ。まるで羽が生えているかのように軽々と造魔の群れを飛び越し、舞い降りる。 流麗な動作で降り立つや、その拳が明るく暖かな赤橙色の霊気をまとい、羅閻へと叩き付けられてきた。

「……ぐっ!!」

間断なく襲いかかる攻撃に、羅閻は歯を食いしばってこらえていた。重く激しい衝撃が、無敵のはずの魔晶甲冑を通して伝わってくる。 それも、目の前に立っているのは、少女――しかも、生身だというのに!

「やるな……カンナっ!」

猛々しい光を帯びていた瞳が、一瞬、優しく細められる。
だが、すぐに羅閻も反撃に出た。巨木にも等しい太さと重さと強さを持つ腕が、唸りをあげて少女へと襲いかかる。そこに容赦というものはまったく含まれていなかった。
一撃で確実に相手を殺す技を、惜しげもなく振るう。脛骨を狙って鉤爪を伸ばし、腹へと膝をたたき込む。四肢を捉えてへし折ろうとする。
だが、その羅閻の動きを、カンナはまるで分かっているかのように避けていた。伸びやかに舞い、一撃をたたき込むや、ひらりと体を入れ替えて、反撃をかわす。
かつてのカンナの、打撃系を中心とした攻撃ではなかった。それは、羅閻自身が、その身でもってカンナにたたき込んだ、技であった。

(――うむ。俺の技をしっかりと自分のものにしているな、カンナ)

心の奥から、喜びが湧き起こってくる。
最初、カンナを見たときから、羅閻は日比谷公園での戦闘のときに垣間見た赤橙色の神武を連想していた。
その立ち姿、構え。俊敏な動き。激烈な攻撃。流れるような美しい連続技。
カンナと拳を交えることによって、羅閻はいつしか確信していた。カンナが、帝國華撃團の一員であることを。
だが、羅閻は、カンナのその明るさ、何者にもくじけない、必死に前だけを見つめている生き方に、いつしか惹かれていた。 そして、彼女の懇願するままに、自らの手でカンナに稽古をつけ、自らの技を教え込むことまでしたのである。 今まで、人間の弟子など持たなかったにもかかわらず。

(だが――この娘ならば、よいか)

心の片隅で、不思議とすがすがしい思いで考える。
決して教え方が得手ではない自分であるのに、目の前の少女は、見事に羅閻の技を吸収し自分のものとしている。 教え込まれた技をしっかりとかみ砕き、自らの力へと、見事に昇華させている。

(いい娘だ――まっすぐな心根の、いい娘だ)

(そして――)

(いい、弟子だよ、そなたは……)

気持ちのいい思いに、羅閻はその心をゆだねる。瞳を細め、攻撃を加えてくるカンナをあしらい、思う存分、技を振るう。

(いつまでも、こうしていられたら……)

叶えられない思いを抱きつつ、羅閻は攻撃の手を休めない。ただの一撃さえもまだカンナには当たっていないのだ。というよりも、当たっていないからこそ、カンナは攻撃を続けているのだ。 たった一撃が、その命を奪う。それだけの威力が、羅閻の攻撃には宿っている。それがわかるからこそ、カンナは羅閻の攻撃を避け続け、反撃しているのだ。
だが、それでも限界はある。ほんのわずかだが、カンナの動きが鈍る。それを見逃す羅閻ではなかった。

「くらえっ! 羅漢・鍾天撃滅波(しょうてんげきめつは)っ!!」

大地に叩き付けられた拳から伝わる衝撃波がカンナに襲いかかる。身を捻り、大地を蹴ってよけようとしたカンナのがら空きの背中に、時間差をおいて放たれた二撃目が叩き付けられる。 バランスを崩して身をかがめるカンナのすぐ下から、猛然と吹き上がるような三撃目が、天へと向かってその体を突き上げた。

「ぐっ!!」

うめき声がカンナの唇から漏れる。力なく宙を舞うその姿を、羅閻は悠然と眺めていた。だが、その時だった。

「いくぜっ! 紅鶴百炎貫命波(こうかくびゃくえんかんめいは)!!」

ふいに体勢を立て直したカンナが、鋭い視線を空中から羅閻へと投げおろした。数十、いや、その名のとおり百ほどの、業火の矢が、握りしめられた拳から放たれる。 波打ち猛り狂うその炎は、まるで羽根を広げた鶴のようにも見えた。百余の炎の鶴が、甲高い鳴き声とともに、羅閻の巨体を次々と串刺しにしていく。

「ぐおおおおおおっっっ!!」

開かれた羅閻の口から、凄じい絶叫が迸った。硝子が砕け散るかのような澄んだ音を立てて、その全身にまといついていた死肉の装甲が弾けとんだ。 数百の細かな切片に粉砕されたその装甲は、日の光のもと、まるで春の日差しの中の雪の結晶であるかのように、溶け、崩れていく。 その、こぼれ落ちる細かな破片へと、まるで餌を求めるかのように炎の鶴が群れ集まってきた。穢らわしい色を見せるそのかけらを、炎の鶴は争うようについばみ、飲み下していく。瞬く間に、穢らわしい鎧はその姿を消していった。
そしてその中心に、巨大な人影が両ひざをつき倒れこんだ。

「……おっさん!」

くるり、と身を翻して大地に降り立ったカンナは、すぐさま羅閻の元へと駆け寄った。肩を支え、その巨大な体躯を起こす。
血と汗にまみれ瞳を閉じた羅閻の顔を心配そうにのぞき込む。

「おい、大丈夫か、おっさんっ!?」

「……詰めが甘いぞ、カンナ」かすかに口元をゆがめ、囁くような声で、羅閻は答えた。「これは戦いなのだ。情けをかける暇があったら、止めを刺せ」

「悪いね、おっさん。あたいはそれほど甘くないぜ?」

軽く笑って、カンナは羅閻の上体を起こした。

「止めを刺すかわりに、あんたには生き恥をさらしてもらうことにしたんだ」

「生き恥、か……」やや苦笑をにじませて、羅閻はカンナを見た。その瞳が、わずかにゆるんだ。「悪いな、カンナ。俺は生き恥は、さらせない」

「……なんだって!?」

一転して険しい表情になって、カンナは羅閻を睨みつけた。

「自決するっていうのかっ!? そんなこと、あたいがさせねえからなっ!!」

「そうではない、カンナ」

優しい眼差しで、勢い込むカンナを見つめ、羅閻は静かに答えた。

「俺は、生きてはいないんだ――いや、正確に言えば、人間としての生命体では、ないのだよ」

「な……んだっ……て……?」驚愕に目を丸くしたカンナだったが、ふと眉をひそめて叫んだ。「おい、おっさん!! あたいを馬鹿にすんじゃねえぞっ!? どっからどうみても、おっさんは生きてるじゃあねえかっ!?」

「――いや、そうではないのだ。カンナよ」

そう答えた羅閻の体が、ふいに、浮かび上がった。支えていた肩にかかる力が一瞬で失われる。その巨体は、音もなく、まるで魔法のように宙に浮いていた。
呆然と、カンナは羅閻を見上げた。そのカンナの顔をじっと見下ろしながら、羅閻は優しく、どこか重々しい声で告げた。

「吾のこの体は、かりそめのものだ。この世界に吾が在るために造った、仮のものなのだ」

「…………」

「吾は、ある者たちを探して、この人界に降り立ったのだ」ぽかん、と口を開けたまま見上げてくるカンナに苦笑して羅閻は語った。 「一人は、吾の愛弟子であり、もう一人は、かけがえのない親友だった。吾は彼らを探し、そして、わずかに残った気配を追って、この日本にやって来たのだ。 かりそめの肉体に宿り、この数年、じっくりと探し続けた。そして、彼らを見つけ出した今、もはやこの体は必要はなくなったのだ」

「…………」

「お前が吾を倒したことで、ようやく肉体の枷がとれた。これで吾は、心おきなく、彼らを救うための力になれる――礼を言わねばなるまいな、少女よ」

「……ちょ、ちょっと、あたいには何がなんだか、よくわかんねえよっ!!」

ゆっくりと、上昇を始めた羅閻に向かって、カンナはあせって声を張り上げた。

「いったいあんたは、何もんなんだっ!? おっさん、あんたはいったいっ!?」

「一つ、教えておこう」羅閻は静かにカンナに答えた。その重々しい声が、柔らかく暖かな色を帯びた。 「カンナ、”陸邪”を見つけたら、彼らを倒せ。それが彼らを救うことになる。決して情けはかけるな」

「ど……どういう、ことだ、そいつは?」

「そのうちにわかる」軽く笑みを浮かべて、羅閻はゆっくりと右腕を動かした。それに導かれるかのように、ひとつかみの雲が寄り添ってくる。 その雲に半身をゆだねて、羅閻は最後の一瞥をカンナに向けた。

「吾を救ってくれた礼は、必ずしよう。わが力が必要となったら、呼ぶがいい」

「…………」

「わが力が必要となったら、わが名を呼べ。吾はそなたにわが力を授けよう……」

「……あ、おっさん!! 待ってくれよ!!」

無駄と分かっていても、カンナは引き留めようと腕を伸ばした。もちろんそれは、天高く消えていく羅閻へと届きはしなかった。

「――いったい……何者なんだよ、あのおっさんはっ!?」

答えるものは、いない。少なくとも、彼女の周囲に集まってくる花組の仲間達の中に、その答をあざやかに示してくれるものは、いなかった。



       (八)


「……どうやら、”陸邪”は失敗したようね」

じめついた闇と魔と腐臭が漂う洞の中で、赤い唇にうっすらとした微笑を乗せて、黒水は囁くように言った。
ゆわり、と濃密な空気が蠢く。嘲笑が、姿なきものから発せられた。

「生意気なあいつも、少しは懲りるだろうよ。ついさっき出会ったけど、珍しくしょげていたぜ?」

「しょげていた――?」くすくすっと、黒水は玉の転がるような美麗な笑声を上げた。 「あの者が、そのような様子を見せることは、ありえないわね。一体何を、考えているのかしら?」

「……まあ、俺の分け身がいつもあいつを見ているからな。おかしなことがあれば、始末しても構わないぜ?」

「……それも、一興かしらね」

くすくすと笑いをこぼしつつ、黒水は、愛しげにそのほっそりとした両腕を上げた。宙天に浮かぶ、薄黒い繭を、しっとりと潤んだ瞳で見上げる。

「私の愛しいお方――もう少し、お待ち下さいませ。必ずやそのお体を、元に戻して見せましょう。煉獄で焼かれ蝕まれた、尊いお体を、きっと再びこの常世に現せましょうぞ」

「……」

繭が、やわり、と蠢く。かすかな炎が、ちらちらとその表面を戯れる。ぼうっと浮かび上がるその中に、胎児のように身を丸めた、人影のようなものがかすかに見えた。
だが、それも一瞬のこと。ねとりとしたクモの糸のようなものが淫靡な仕種でその表面をなで上げ、快楽に悶えるように芋虫のような繭が蠢く。

「ああ、愛しい御屋形様……」赤い唇がみだらに濡れる。恍惚とした表情が、その美貌を飾る。「愛しい、慕わしいおかた――お待ちくださいませ。今、しばらく……!!」

「……」

その空間に漂っていた濃密な空気が、かすかに、揺らいだ。苦笑めいたものがわずかに空気を揺るがせる。 だがその風は、結局別の一言を告げて、いずこへかと吹き去っていった。

「……次は俺の番だな」

黒水はふりかえることもしなかった。ただただ、いとおしげにその薄黒い繭を見上げているばかりだった。



じめついた洞は、地下深くにまでその暗く穢らわしい体を横たえていた。こごった空気も穢れ果て、光さえも犯されるほどの闇の世界。
そっと、彼は、その祠に近づいた。若々しい顔にかすかに笑みを浮かべて、囁くように言葉を紡ぐ。

「……彼が、倒されたよ」

ほんのわずか、時が流れる。そして答える、弱々しい声。

『――存じています。私も、見ていましたから』

声とともに、祠の扉が、かすかに開いた。だがそこに安置されていたのは、仏像でも地蔵でもない。 ぞくり、と震えが来るほどに美しい、一人の青年の姿だった。
優和な卵型の面長の顔だち。刷毛で描いたかのように通った鼻梁。闇の中でもどこか艶めいた珊瑚色を呈しているのがわかるくちびるは柔らかな微笑をたたえていたが、その瞳は長く濃いまつげに閉ざされていて見えない。 つややかに肩から胸、背中へと流れる、黒絹のような髪。白鳥のごとくほっそりとした優美な曲線を描く首筋。大陸風の道着に包まれた体は対照的に広く凛々しい。 すらりと伸びやかな脚は胡座を組み、その美しい腕は軽く印を組むように腹の前で組み合わされていた。
暗く闇に閉ざされた祠の中の、瞑目する美青年。
それは、数日前、由里の目の前に現れた、あの青年だった。
見れば見るほどに、美しい青年である。だが……奇妙なことに、その青年から、生きとし生けるものに共通の、あの、豊かにほとばしる生命力、といったものは、全く感じられなかった。 そう、まるで、精巧に造られた人形――いや、というよりも、その美しさを永遠に止めたいと願った神の手によって時を止められた人間――見えざる氷の壁によって生きたまま現世と隔絶された、人間――そのような、不可思議な印象を与えていた。
だが、祠に近づいてきた人影は、そのような感慨を抱きはしなかったようだった。軽く苦笑すると、彼は言葉を続けた。

「これでとにかく、連絡はついた。あとは、あのお方がいかように判断されるか、だが」

『あまりおしゃべりになりませんように』わずかに警戒の口調で、声が諭す。だが、青年のその美しい唇は、全く動いていなかった。 それはまるで、声を発するものがその青年の中――肉体の中に、いないかのように思われた。『妙なものがいます。お気づきでしょうが』

「魔風の一部だろう?」皮肉そうに笑って、彼は答えた。「覗き趣味なだけだ。やつは何もできないさ。俺には君がいるんだから、ね?――”陸太郎(りくたろう)”?」

『そうですね』”陸太郎”と呼ばれた声は、かすかに苦笑した。『とにかく、あまり目立たぬ動きをなさらないように』

「わかっているさ。俺は君よりも何十年も何百年も年をとっているんだからね」

『そのくせ無邪気でおられるから』今度ははっきりと苦笑が声に籠った。『今も、そのような少年の姿をなさっているし』

「これかい? ま、気に入っているからね、俺は。人界でも、この姿でいれば、怪しまれないしね」

彼は自分の全身を眺め回して、笑った。かすかに流れる声が、ほんのわずか、翳った。

『……私も、せめて肉の衣をまといたいですね。そうすれば、彼女にも……』

「まあ、しばらく待て。そのうち、俺が何とかしてみせるからね」

『……』

しばし、声は沈黙した。ゆっくりとした時を置いて、再び声が流れた。そこには、絶大な信頼が込められていた。

『……期待しています』

「ああ……」彼は、にっと笑った。老成した表情が、その若々しい顔を彩った。ゆっくりと頷いて、彼は答えた。 「俺に任せておけ。この、”邪介”に、ね……」

そう……
祠の前で微笑をたたえていたのは、カンナと羅閻との出会いの場にいた、あの少年――カンナと羅閻の決闘を観戦して楽しそうに笑っていた、あの、邪介だった。
カンナに教えられて羅閻のいる二丁目の道場へ出かけ、自分の正体を明かして救いを彼に求めた、あの少年だった。
無邪気そうな笑みを浮かべて、”邪介”は再び頷いた。

「俺と君がいれば、なんとでもなるさ……何て言ったって、俺たちは、二人で”陸邪”なんだからな」

『……』

その声に答えたのは、はっきりとわかる苦笑であった。とても楽しげな、しかしどこか悲しげな、声だった。



暖炉にくべられていた薪が、軽い音を立てて崩れた。赤からオレンジ、黄色へと豊かな色彩を乱舞させる炎を、じっと、男は見つめていた。 年の頃は40前後。彫りの深い顔だち。金茶色の髪をなでつけ、仕立ての良いダークブラウンのスーツを豊かに着こなして、男はそっと年代もののワインを注いだグラスを炎にかざした。 透き通った紅色の色彩が、薄い青色の瞳に映る。軽く笑みを浮かべて、男は、グラスに口を寄せた。芳醇な芳香を楽しみながら、舌の上で紅色の液体を転がす。
満足そうに瞳を細める男の耳に、静かな声が届いた。

「――ハーディング提督。先の戦闘での帝國華撃團についての報告が届きました」

「……そうか」柔らかな口調で、男は答えた。「それで、どうだったのかな、彼は?」

「これを――」

目に障らないようにそっと差し出された書類を、男は優雅な仕種で受け取った。ワイングラスをサイドテーブルに置き、興味もなさげにぱらぱらとめくる。 その瞳が、最後の紙に書かれた文字の上で止まった。優雅な微笑がたゆたった。

「『All’s right with the world』……世は全て事もなし、か。彼らしい」

軽やかな笑声が響く。男は満足そうに頷いて、それ以上その報告書を読もうともせずにサイドテーブルに放り出した。

「――伯爵に伝えろ。例の件、承諾した、とな」

「は」

短く答えた声の主が、静かに部屋を出ていく。気配が完全に途絶えるまで、男は楽しそうに、暖炉の中で踊る炎を見つめていた。 その唇に、皮肉そうな笑みが浮かんだ。

「そう、世は全て事もなし」再びワイングラスを手にして、男は呟いた。「事があるのは、これからだからな――」



―― 第参章・完 ――




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