ツバキ大戦

第四章 「麗鳥飛翔」





       (一)


 立ちこめる水蒸気が、暗闇を白くかすませて、冷たい湿った空気を生み出していた。足元の石畳もじめつき、頭上に輝くランプの光も、淡く揺れて頼りない。 遠く近く打ち寄せる波が防波堤ではじける音。蒸気船が吐き出す水蒸気にまぎれて見える、航海灯。ゆっくりと点滅する灯台の光が、時折寒々とした港湾をよぎる。

 横浜港。

 冬の訪れた極東の島国の港は、空気とともに雰囲気さえも寒々しい。 国際港とは言っても、そう頻繁に外来船が往来し出入港するわけではないし、国内を巡る汽船も、荒れはじめる冬の海を敬遠して本数が少なくなる。 この時代、むしろ長崎、佐世保や、新潟など、日本海、東シナ海に面した港のほうが、外来の船を頻繁に迎えることで活気があった。
 ボォーーーーっと、霧笛が静まり返った港に響く。寒々しい港町にふさわしく、さみしげな、どこか郷愁をさえかきたてるようなもの悲しい音。

 ゆっくりと、彼女は振り返った。その視線の先に、水蒸気にかすんで接舷されている一隻の船がある。彼女を遠いこの地へと導いてきた、蒸気船。 純白の、優美な船体。銀色に輝く、フィギアヘッド。デッキ上を行き交う船員が小さく見えるほどに巨大な船。
 その甲板上に、彼女の視線は固定されていた。
 まるで黄金のように豪奢な輝きを見せる金色の髪。目の覚めるような澄んだ美しいバルト海のような青い瞳。 純白のドレスが包み込む、優美な女性の姿が、彼女の瞳には、確かに映っていた。 そしてその女神のように麗しいかんばせに浮かぶ、心配そうな表情さえも、彼女には確かに見えた。
 あでやかな微笑が、彼女の口元に広がる。心細そうに見送る女性へ、彼女は頷いて見せた。

「心配しないで、ルーネ」美しい紅色の唇が開かれると、彼女は涼やかな声を紡ぎ出した。妹と同じく澄み渡る青い瞳に決意の色が浮かぶ。「きっと、この地にいるはず――あなたの愛する娘は」

 見送る女性が、頷きかえす。彼女は、再び軽やかに身を翻した。全身にまとった白いコートがなびく。さわさわと、黄昏の海に輝く太陽のような金色の髪が揺れる。
 軽快な足取りで去っていく姉を見送りながら、甲板上に佇んでいた女性は、そっと手を組んだ。その瞳が暗く悲しげに伏せられた。

「ご無事で、リンデ姉さま――そして、どうか、ご寛恕を……」



「――大神です、米田支配人」

「おお、待ってたぜ。入れや、大神」

 扉を叩く音とともに聞こえてきた声に、米田はまるで酔っていないかのような声で答えた。 とはいっても、机のわきにからっぽの瓶が転がり、大事そうに胸に抱えている一升瓶が半分以上減っているのを見れば、おのずとその酒量もわかろう。
 支配人室に入ってきた大神が眉をひそめるのを面白そうに眺めて、米田は小さく肩をすくめた。

「おいおい。今日ぐらいはいいだろう?」

「いつも、だと思いますが」嘆息しながら大神は答えた。「またかすみくんに、どやされますよ? 必要経費で落とすのも限度があるそうですから」

「いいじゃねえか。年寄りにはこれぐれぇしか楽しみはないんだからよぉ」

「やれやれ……」小さくため息をついて、大神は米田を見た。「ところで、何のご用でしょうか?」

「おう、そうだった。大神、こいつを見てくれ」

 とたん、米田がにかっと笑って、机の上の書類を指し示した。 妙ににこにことしている米田の様子に不審を抱きつつ、大神は言われるままに種類をとりあげ、頁をめくった。その切れ長の瞳が鋭く細まった。

「こ、これは……」

「おうよ。追加予算許可の通知、および、賢人機関からの技術協力申し入れの書類だ」

 そこには、内閣閣議において帝撃に対しての追加予算が決定したことと、それまで沈黙を保っていた賢人機関からの技術的な援助、資材の提供の申し入れがあったことが書かれていた。

「この前の戦闘が、評価されたんだ。花小路伯爵が頑張ってくれたおかげだぜ。これで帝撃も、かなり楽に戦えそうだ」

「よかったですね、長官」

 大神の顔に微笑が浮かんだ。
 靖国神社での戦闘は、内閣で揺れ動いていた議論――帝撃の組織強化、追加予算による武装強化をするべきか否か――を、一定の方向に向けさせるのに十分な理由となった。
 すなわち、

日比谷での魔物の襲撃は単発的なものではなく、同じものが靖国神社に現れたように、今後再び敵が襲来する可能性があること

襲撃が最重要防衛拠点である皇居の近辺であり、早急な防衛組織の編成と配備が必要になったこと

二度にわたる敵の襲来が人心を不安定化させ、帝國内閣に対する人民の不信頼を増長する可能性があること

 このような理由から、反対意見だったものも、帝撃に対して国家をあげて協力する必要があることを認めざるをえなかったのである。 だが、同時に、主戦論者である帝國軍人達の発言力が増したことも否めない。 帝撃が武装強化すればするほど、帝撃を帝國軍に組み込み、侵略戦争の最先鋒として他国へと送り込もうと画策する輩が出てくるのだ。
 そのことを思い、大神の顔に深い陰りが宿った。

「……これからの戦いがやりやすくなったとはいえ、難問ですね。うまく立ち回らないと、このことが後々自分たちの足元をすくうことになりかねません。 この資金援助をネタにして帝撃に貸しをつくり、あわよくば配下の者をまぎれこませる、とか――」

「あるいは、帝国軍に組み入れることをよしとしないものたちを遠ざけて、団結力を弱めたりすることも考えられるな」

「ええ」

 大神の顔に浮かぶかげりに、米田も顔を顰めて、呟くように言った。

「……まあ、おめえの心配も分からないではないが、な。とにかく、魔物を倒さないことには、戦争も平和もないんだ。 とりあえず俺たちは、魔物を倒していくことを考えよう。タカ派の連中だって、国の中に魔物が徘徊していちゃあ侵略なんていっていられねえんだからよ」

「――確かに」

 かすかにまだ陰りが残るものの、大神は表情を和らげて頷いた。
 自らの優位を確信してこその侵略行為である。誰の目にも明らかなほどに国中が揺れ動いているこの時期、とても外に対して手を伸ばすことなど出来はしない。 少なくとも、日本帝國というものに自分の将来を託しているものにとっては。

「ともかく、これでおめえの神武も、強化できるというわけだ」瞳を細めて、米田は続けた。その顔に暖かな笑みが浮かんだ。「紅蘭が喜ぶだろうよ」

「そうですね」

 この話を聞いたときのおさげの少女の反応を想像して、大神も微笑した。先の戦闘のときまでに彼の神武を完成できなかったことを、紅蘭はかなり気にしていた。 戦闘が終了したのちも、勝利したことに嬉しそうな様子はあったが、どこかそこには陰りがあったのである。

「――とにかく、そういうことだ。あとで紅蘭を寄越してくれ。足りない部品や補修部品など、すぐさま入り用なものをチェックしなけりゃならねえんでな」

「はい。わかりました」

 敬礼をして、大神は退出していった。支配人室の扉が閉ざされ、心持ち軽やかな足音が遠ざかる。
その音が、ほとんど消えなくなるのを確認して、ふいに、米田の表情が一変した。にこやかな笑みがかき消され、深刻なほどに険しい表情が浮かび上がった。

「……解せねえな、まったく」米田の視線が、手元の資料に落ちる。そこに黒ぐろと書かれた文字に目が止まる。
「賢人機関――決して一国の利害のために動くことは、ねえはずだ。いくら花小路伯爵の言葉でも、なぁんか、ひっかかりやがるぜ……」

 かつてサタンが降臨したときでさえも、賢人機関は沈黙を守っていた。 全世界の危機、ともいえる状況下で、サタンに対して有効な迎撃手段を唯一持っているはずの帝撃に対しても、何らの協力も、助言もなされなかった。
 米田はそれを、帝撃という組織が日本帝國軍の一部であると見なされたため、と、判断していたのだ。 国際的な組織である賢人機関としては、一国家の軍隊に対して協力を行うことはできない。 もしこれが許されるとするならば、各国がこぞって機関に対して協力を要請するだろう。 魔物を倒す力、あるいは技術を、世界を守るためではなく自国を守り、他国を倒すための刃となすために。
 それを防ぐために、賢人機関はあえて沈黙を保っていたのだ、と、米田は解釈していたのだが……

「……賢人機関が動かなければならないほどの危機が、迫っているということなのか? それとも……」

 喜びの表情でおさげの少女が駆け込んでくるまでの数刻、米田は、自らの思考の海に沈み込んでいった……



「……ってぇ、ことでだ。今日からこの神代も、晴れて帝國華撃團の一員として働いてもらうことになった」

「まあ、いまさらだけど、よろしくな」

 午後のお茶の時間。
 神武の修理と整備に地下整備場に籠りっぱなしの紅蘭を除いて、サロンには花組の麗しき女優たちが集まって、優雅に――あいもかわらず口喧嘩をしている紫色の着物と空手胴着姿の二人の少女を除く――歓談していた。 そのサロンの入り口に現れた米田は、大神に話したことをかいつまんで説明した後、後ろに立っていた神代を押し出した。
 前回の戦闘の功績により、軍上層部も神代の能力を認めざるを得なくなった。 また、魔物に対して有効な手段を持つことも確認されたため、軍としても帝撃へと神代が入隊することに反対する根拠を失い、ようやく神代も帝劇に居を構えることを許されたのだった。

「まあ、俺の足を引っ張らないように頑張ってくれ」

 その思惑通りに親友を帝劇に引きずり込んだ男の歓迎の言葉は、こうだった。
 それに対する新参者の殊勝な返答は、というと――

「おう。お前がどんなドジ踏もうと、ちゃあんとフォローしてやるからよ、安心しな」

 そして繰り返される不毛な応酬。

「お前がいるだけで、俺はとっても不安なんだがな」

「なんだ。俺が格好いいから、自分がもてなくなるんじゃないかって、不安なのかあ!?」

「なんだと!? 自慢じゃないが俺はお前よりずっと……」

「朴念仁が何を言うかよ!?」

「………やれやれ、また始まりやがった」

 米田が嘆息する。
 今更とはいえ大神の親友に対する口の悪さには花組の少女たちも目を丸くしたが、それでも、信頼する隊長の言葉の中に込められた親友への思いの深さを感じ取るのはさほど難しいことではなかった。

「それにしても……大神さんて、あんな人だったんですねぇ……」

 あきれ返った表情も露に、さくらが呟いた。だが、さすがにそれ以上は口には出さなかった。
 しかし、遠慮などという言葉に無縁な少女もいる。

「なんだか、子供みたい、二人とも」

 ふわふわの金色の髪をした少女は、澄んだ大きな蒼い瞳で一瞥してそう評した。内心思わず頷く少女たち。
 だが、この天使のような愛らしい少女は、さらに波紋を呼び起こす言葉を口にした。

「まるでカンナとすみれのけんかみたぁ〜い! きゃはっ!!」

「な、なんだよ、それはっ!?」

「どういう意味ですの、アイリス!?」

 明るい紫色と、切れ長の茶色の瞳が、同時にアイリスに向けられた。恐れげもなくそれを見返して、アイリスは素直に答えた。

「だってカンナとすみれ、あんな風によく喧嘩するじゃない?」

「そういえば、そっくりですね。カンナさんとすみれさんの喧嘩に……って、あわわわっ!!」

 思わずぽんっと手を叩いたさくらは、ぎろりと二対の視線に切りつけられて、慌ててソファから立ち上がって逃げ出した。
 それを追いかけ出す、空手胴着を着た少女と、紫の着物を着た少女。

「てめえっ、さくらっ! 待ちやがれっ!」

「許しませんわよっ!」

「……あ、待ちなさい、さくら、カンナ、すみれ! まだ話は終わっていないのよ!?」

 サロンから駆け出ていく三人の少女に慌ててマリアは声をかけたが、それに答える三人ではなかった。 ばたんと扉が閉められると、サロンには、マリアのほかにはあきれ返った顔の米田といまだ口喧嘩の最中の大神と神代、そして不思議そうに扉を見つめるアイリスだけが残った。

「全く、あの子たちは……」

 嘆息して呟くマリアだったが、その翡翠色の瞳は、それほど怒ってはいない。苦笑に近い暖かな光を浮かべている。
 それでも彼女には、花組の副隊長としての自負も責務もあった。幽玄な美貌をひきしめ、鋭い眼差しで、隊長とはとても思えないほどに子供の口喧嘩に夢中になっている大神を睨みつけた。

「いいかげんにおやめください、隊長!」

「大体昔からお前は――え? あ、ま、マリア?」

 慌てた様子で大神は口喧嘩をやめた。決まり悪そうに肩をすくめ、マリアのほうを向く。それを見て、勝った、といわんばかりの得意そうな顔になっている神代を、マリアは大神に向けた視線の数倍は鋭い視線で睨みつけた。

「あなたもです、神代さん! きちんと挨拶もできない人が、他人にとやかく言えるのですかっ!?」

「あははは。違いねえや」

 小さく肩をすくめて神代は苦笑しながら答えた。その言い方に、またマリアが眉を険しくする。

「神代さん!」

「わかった。悪かったよ、マリアちゃん」さすがにマリアを調戯うのは得策ではないと考えたらしい。神代は神妙な顔で、頭を下げた。 「ふざけてすまねえ。このとおり、謝るから、許してくれよ」

「神代さん。あなたは心構えからまず、直すようにしてください! 今のままでは、私はあなたを信頼することはできません」

 厳しい口調で言い諭すマリア。神代も、生真面目なマリアの様子に、それ以上ふざけることを断念したのだろう。口元を引き締め、真剣な眼差しでマリアを見た。

「わかった。貴女の信頼を得られるよう、努力しよう」

 心地よいほどの響きを含んだ声が、マリアの耳に届く。
 正面から見つめてくる、暖かな南海の碧色の瞳。彫りの深い顔は、意外なほどに形良く整っている。すらりとした長身は、マリアよりもいくぶん高い。 そのためマリアは、軽く見上げる形で神代に対していた。
 その、めったにない経験に、うろたえたのか。わずかにマリアは落ち着かなげに身じろぎした。かすかに、形の良い唇が震える。

「……わ、わかれば、よろしいのです」

 かろうじて言葉にするが、彼女にしては珍しく、無意識のうちに視線をはずしていた。気のせいかやや頬が紅潮しているようにも見受けられた。
 それを見てとったのか、神代の顔にかすかに笑みが浮かぶ。だが、口に出したのは次の言葉だけだった。

「とにかく、今後ともよろしく、マリアちゃん」

「………はい、神代さん」

 かすかに瞳を伏せ、マリアは小さく答えた。だが、自分のそんな態度に腹を立てたのか、マリアはぐい、とほっそりした顎を上げ、きっ、と睨みつけるように神代を鋭い視線で見返した。

「それと、神代さん。できれば私のことは、ちゃんづけで呼ばないで下さい。不愉快ですから」

「………」

 神代の口元がゆるむ。何かふざけたことを言いたそうな表情も浮かんだが、神代は結局、マリアに対しては真面目に応対することにしたようだった。軽く笑みを浮かべ、優しい口調で神代は答えた。

「それは失礼した。では、マリア、と呼ぶことにする。いいかな?」

「………はい。それで結構です」

 笑みも見せずに、マリアは頷いた。
 その様子を見て、からからと楽しそうに笑いながら米田はサロンの扉を開けた。

「――まあ、なんだ。これからは共に戦う仲間だ。神代もマリアも、仲良くしろよ?」

「りょーおかいっ!」

 サロンを出ていく米田の後ろ姿に、軽く手をあげてにやり、と笑って見せる神代。とたんにマリアの眉がはねあがる。

「言ったそばから、ふざけないでください!」

「――すまねえ」

 ひきっ、と笑みをひきつらせて、神代は固まったまま声を出した。そして、そのままそっと、大神の傍らに歩いてくる。大神にだけ聞こえる声で、神代はやや情けなさそうに囁いた。

「……おい、大神。俺、マリアちゃんの期待に添えられると思うか?」

「無理だな」大神の言葉はにべもなかった。「よく効く胃腸薬、教えてやろうか?」

「頼むわ……」首を振り振り、神代はため息混じりに言った。「あのぐらいであれじゃあ、これから先が思いやられるしなあ………」

「お前の根性を叩き直す、絶好の試練だと思え」

 にやにやと笑って楽しそうに言う大神に、恨みがましい目を神代は向けた。ほとんど口の中だけで、小さく独白する。

「はああ………俺はただ、椿ちゃんのそばにいたいだけなんだけどなあ………」

 ちらり、と後ろを見る神代。そこに立つ黒いコートの美女は、規律と秩序という名の獄舎の看守であるかのように、神代には思えた。

「――あ、そうだ、神代。ちょっと待ってくれ」

 元気なさそうにサロンを出ていく神代を大神は声をかけてひきとめた。軽くマリアとアイリスに挨拶して、神代のそばに歩み寄る。

「お前の部屋だが、俺のとなりの部屋だ。案内するから、ついてきてくれ」

「……隊長のとなりの部屋?」

 かすかに、マリアは眉をひそめた。連れ立ってサロンを出ていく大神と神代を見送りながら、小さな天使が、マリアの横で呟いた。

「あやめお姉ちゃんの、部屋、だね………」

 大神のとなりの部屋。そこにはかつて、麗しき女性の姿があった。優しさと強さを兼ね備えた、帝劇の守り女神。花組の少女たち全てに慕われ、彼女たちの心の支えとなってくれた、かけがえのない女性。
 その、大切な女性の、大切な思い出がつまった、大切な場所。
 それが、大神のとなりの部屋だった。

「やっぱり………」胸の中に大事そうに抱えたクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、アイリスは晴れやかに澄み渡っていた蒼い瞳を翳らせた。 「もう、もどってこないのかな、あやめお姉ちゃん………」

「………」

 黙って、マリアはアイリスのとなりに腰を下ろし、そっと、小さな金色の天使の体を抱きしめた。

 半年前。

 あやめの体内に巣くっていた殺女が覚醒したとき、その部屋はあるじを失った。葵叉丹のもとで残虐な笑みをたたえる魔女へと姿を変えたあやめは、再びこの部屋に戻ることはなかった。 そして今もなお、その部屋は、あるじを失った当時のままに、ひっそりと静かに時を過ごしている。
 そして、そんな空気を絶やさないように、花組の少女たちは入れ替わり立ち替わり、この部屋を綺麗に掃除していた。 まるで、またあるじが戻ってくる日がくるのだと、再びその部屋に華やいだ空気が流れる日がくるのだと、いうように――

 だが――

 それが単なる感傷に過ぎないことは、マリアも、そして他の少女たちも、わかっていたのである。
 あやめは戻ってこない。再び彼女たちの前に、あやめが現れることはない。もう二度と、あの女神のような微笑を見ることは、できないのだ。
 包み込むように優しくアイリスを抱きしめながら、マリアは囁くようにそっと声をかけた。

「もう、あやめは戻ってこないわ、アイリス」

 びくり、と、幼い少女の体が震える。それを柔らかく抱きしめてあげながら、マリアは言葉を続けた。

「――でもね。あやめは今でも私たちを見守ってくれていると思うの。今も、どこかで私たちのことを心配しているかもしれないわ。 だから、いつまでも悲しんでいちゃだめ。あやめに心配させないためにも、私たちは頑張らなくちゃ、ね、アイリス?
 ――それに、あの部屋も、いつまでも、空き部屋のままじゃあ寂しいと思うわ。神代さんがいらしてくれるのなら、あやめも安心してくれるでしょう。だって、あんなに騒がしいひとですものね?」

 くすっと、かすかに笑って、マリアはアイリスを見つめた。そんなマリアの顔を、アイリスも見上げる。
 青い大きな瞳が、じっとマリアを見つめてくる。その幼い顔が、柔らかな微笑をたたえた。ひどく大人びた口調で、アイリスは答えた。

「そうね、マリア。せいお兄ちゃんなら、きっとあの部屋を大事にしてくれるよ?」

「――アイリスは、神代さんをとても信頼しているのね?」

 きっぱりとしたアイリスの言葉に、マリアは軽い驚きを覚えて、小さな少女を見つめた。

「そういえばアイリスは、最初から神代さんのことを信頼していたわね。どうしてなの?」

「え?――んーと」小さく小首をかしげて、アイリスも不思議そうに考え込んだ。 「なぜかな? アイリスもよくわかんない。でもね、でも、何か、せいお兄ちゃんって、安心できるの。なんだか、いつでもアイリスたちのことを見守ってくれるみたいに思えるの。とってもとっても大切にしてくれる気がするの」

「隊長みたいに?」

 そう問いかけたマリアに対して、アイリスは、不思議なくらいきっぱりと首を振った。そのつぶらな瞳が、真剣な光をたたえた。

「お兄ちゃんとは違うの。……ううん。お兄ちゃんも同じなのかもしれないけど、違うの」

「……ちょっと待って? よく、わからないわよ、アイリス」

「だからね……」アイリス自身も、うまく言い表せないようだった。必死になって言葉にしようと、身ぶり手ぶりで伝えようとばたばたする。 「えーとね。お兄ちゃんは、こう、すぐそばにいてくれてね。あったかいの。いつでもアイリスたちの前にいて、アイリスたちを支えてくれるの。 でもね、せいお兄ちゃんはね、こう、こんな風に、アイリスたちを見守ってくれてるの。いつも気を使ってくれて、大切にしてくれるの」

 だが、やはりマリアには、アイリスの言うことは良くわからなかった。マリアにしてみれば、アイリスの表現したものはすべて大神にあてはまることばかりのように思えてならなかったのである。

「………ごめんなさい、アイリス。やっぱり私にはよくわからないわ」

「ぶう」

 アイリスは頬をふくらませて、不快を示した。金色の愛らしい眉をひそめ、しきりと首をひねっていたが、やがてようやく伝える言葉を見つけたかのように、ぱっとその顔を誇らしげに輝かせた。

「うーんと、うーんと………あ、そうだっ!! そうなんだっ!!」

「え?」

 細い瞳を丸くするマリアに、アイリスは勢い込んで、説明した。

「そうだ、そうなんだっ! あのね、あのね、マリア! せいお兄ちゃんってね、あやめお姉ちゃんに似ているのっ!!」

「………はあ?」

 ぽかん、と、マリアは丸く口を開けた。普段の彼女からはとても考えられないような顔で、マリアはアイリスを見つめた。 だが、金色の光の天使は、満足そうに満面に愛らしい笑みをたたえて、マリアを見つめていた。

「そうなの! せいお兄ちゃん、あやめお姉ちゃんと同じなのっ! だからアイリス、せいお兄ちゃんのこと、とっても信頼してるのっ!」

(……あやめと、同じ――?)

 そうだ、そうだったんだ、と一人でしきりと納得しているアイリスを見ながら、マリアはこの小さな少女の言葉を頭の中で繰り返していた。

(あやめと同じ?――どういうことなのかしら?)

 神代という男の様子を思い出す。
 軽い調子でマリアに話しかける神代。おどけた仕種で肩をすくめる神代。にやにやと品のない笑いを浮かべる神代。ふざけた言葉を交わす、神代―――

(――どこが、あやめなのよっ!?)

 思わず頭痛を覚えて、マリアは神代のことを考えるのをやめた。思い出すだけで不快を覚えてしまう。
 結局マリアは、アイリスの言った言葉を真剣に受け止めるのをやめた。
 後にマリアは、この時のアイリスの言葉を思い出し、それがまさに真実を突いていたことを知るのだが、それはずいぶん後になってからのことだった――



 梁の渡した純日本家屋の天井。和紙で包まれた古風な明かり。井げたに組まれた桟の障子窓。年代を経ていい色に染まった和箪笥に、化粧鏡。しっかりとした木の机の上には、数冊の本がきちんと並べられている。
 そこは、以前のあるじをほうふつとさせるような品々があふれていた。

「――以前、藤枝あやめさんというひとが、住んでいたんだ」

 説明する大神の声にも、郷愁が混じる。大神にとっては、あこがれの女性だったひと。その姿を思い浮かべるだけで、胸が暖かくなり、そして同時に、寂しさと切なさがこみあげる。 それを振り払うようにして、大神は神代を振り返った。

「まだ、あやめさんの住んでいたままにしてあるが、今日明日には片づける。すまないが、お前が引っ越すのは、それからにしてくれ」

「そうだな。そうしたほうがいいな」

 大神の様子に何か気づいたのだろう。神代もまた、素直に頷き、そっと優しいまなざしで部屋を見回した。
 落ち着いた雰囲気を漂わせる室内。それは、あやめという女性そのもののようにも思える。そしてそこに込められた、大神をはじめとした花組の少女たちの想い。 どれだけこの部屋の主を尊敬し、敬愛し、心の拠り所としていたのか、部外者である神代にも感じられたのだろう。軽く目を細めた神代の口元に、淡い微笑が浮かぶ。

「大切にしよう、大神。ここはお前たちにとって神聖な場所らしいからな」

「――そうしてくれれば、助かる」

 短く答える大神。そこに込められた大神の想いに気づいたのか、神代は小さく苦笑した。だが何も口には出さず、神代はゆっくりと部屋をまた見回す。その瞳が、ふと壁に飾られたものにとまる。
 円環に打ちつけられている、素朴な味わいの十字架。木彫りの花が飾られ、ラテン語か何かの文字が刻まれている、古びた十字架。
 すべてが純日本的な雰囲気を醸し出すものの中にあって、それは異様に目立っていた。
 神代の口元に、苦笑が浮かぶ。海の碧の瞳が細められ、しばしその十字架を眺めたが、それだけで神代は、くるりと部屋に背を向けた。

「……さて、と。大神」

「ん? 何だ?」

 きょとん、とする大神を、いたずらそうな瞳で見返して、神代はがしっと大神の首に腕を巻きつけた。

「この部屋の主だったっていう、その、あやめさんとか言う人と、何があったのか。じっくり聞いてあげよう!!」

「――な、ななななにぃぃぃぃっっっっ!!」

 顔を真っ赤にして、大神は狼狽した。慌てて神代の腕を振り払おうとじたばたもがく。
 だが、面白そうな話題を見つけた神代が、獲物を逃がすはずはなかった。ぐいっと両腕で大神を抱え込み、そのまま、そのとなりの部屋――すなわち、大神の部屋へとずりずりとひきずっていく。

「観念しろ、大神! こんな面白いこと、聞かずにすませられるかっ!!」

「じょ、冗談じゃないぞっ! 俺は、何も話さないからなっ!!」

「そうか」人の悪い笑みを浮かべて、神代は楽しそうに言った。「なら、さくらちゃんあたりから、聞き出そうかな? 大神があやめさんといい仲だったのかって聞けば、いろいろと教えてくれそうだし、な」

 そう聞いた大神の顔が、真っ青になる。何かひどく切実な表情で、大神は神代に懇願した。

「や、やめろ、やめてくれっ、神代っ!! ご、ごごご後生だから、それだけは、やめてくれっ! な!?」

「………どうしようかな?」

「おおおい、神代、お前、親友だろうっ!?」

 都合のいいときだけ親友と呼んでくれる大神に、神代はにやり、と笑って見せた。

「そう言うなら、洗いざらい白状してもらうぜ、大神!? 何たって、親友だものな、俺たちは? 隠し事なんて、いけないもんな?」

「…………」

 怒りと、それにまさる恐怖に、顔色を赤く青くさせる大神を、神代はぐいぐいと部屋の中へひきずりこんでいった。




 銀座の街は、ようやくかつての繁華な賑わいを取り戻していた。
 三階、四階建てのビルヂングが復旧し、店舗もどんどん開店している。レンガ造りの歩道を行き交う人々の顔は安らぎ、楽しげな会話や笑声もそこここに聞こえ始めていた。 車道には人力車、荷馬車、蒸気四輪がせわしく行き交い、真新しい街灯ランプがつややかな輝きを放っている。 敷き直された線路の上を金属音とともに通り過ぎる路面列車。その軌道上で遊んでいたらしい子供が散々に逃げていく。その幼い瞳にも、もはや脅えは現れてはいなかった。

「……よかった。みんなに笑顔が戻っていて」

 ほっ、とした様子で呟かれた言葉に、椿は、傍らを共に歩く少女に顔を向けた。その顔に笑みが浮かぶ。

「うん、そうだね、四葉ちゃん」

 茶色の瞳に映るのは、白い肌の、儚なげな美少女。 さらさらと黒紗のように流れ落ちる髪の合間に浮かぶように傾けられた小造りの繊細な顔が、やや含羞んだように椿に向けられている。 薔薇の蕾のような唇が可憐な微笑をたたえていた。
 その彼女の様子を見てとって、椿は、安心したように微笑んだ。

「でも、よかった。四葉ちゃんが元気になって。……怪我は、ひどかったの?」

 日比谷に造魔が現れたときの戦闘の後、大神の胸の中で意識を取り戻した椿は、すぐに神代に四葉の様子を訊ね、神代が四葉を運びいれた病院に問い合わせた。 病院側で説明されたところによると、怪我といっても、打ち身や切り傷など、たいしたものではないらしく、応急手当てをされ、次の日には退院できるということだったのだが、次の日に椿が病院を訪ねてみると、朝方に家族のものが現れて退院していったということだった。 そしてその日以来、四葉は帝劇に姿を見せず、椿は内心でひどい怪我を負ってしまったのではないかと心配していたのである。
 だが、今日久しぶりに顔を見せてくれた四葉の様子からは、それほどひどい怪我はないようだったので、椿はほっと胸をなで下ろしたのだった。

「たいした怪我は、しなかったの……」

 明るい表情で訊ねてくる椿に対して、四葉は小声で、申し訳なさそうに答えた。濃いまつげが落とす陰りの中に、透き通るように美しい瞳が隠れた。 やや後ろめたそうな様子で、表情を曇らせる。

「でも、お母さまが、大事をとって……ごめんなさい、椿ちゃん。会いに行けなくて」

「ううん! 気にしないでいいの、四葉ちゃんっ!」  慌てて椿は首を振った。今度は椿が申し訳なさそうな顔になる。 「私こそ、お見舞いにも行かなくて、ごめんなさい! 四葉ちゃんの家もよく分からなかったし……」

 椿は四葉の家が青山あたりにあることしか知らない。いくら聞いても、四葉は言葉を濁すばかりで、青山のどのあたりなのかも言おうとはしなかった。 そして、そのことを訊ねる度に、四葉の美しいかんばせがかき曇り、美しい薄茶色の瞳が悲しげに伏せられるのを見て、椿もそれ以上追及する気にはなれなかったのである。
 だから椿は、四葉の家のことは、ほとんど知らない。言葉の端々から、どうやらたいそう立派な屋敷に母親と住んでいるらしいことがようやくうかがえるばかりであった。

 なぜ、四葉はそれほどまで家のことを話したがらないのか。

 気にはなっていたものの、椿は、この儚げな美少女を気遣い、今までそういった話題には極力触れないようにしてきたのだった。

「ごめんなさい、椿ちゃん……」

 四葉にもその椿の気遣いが察せられたのだろう、もともと白い顔を青ざめさせ、顔を伏せて、囁くように言った。

「そうね……私、椿ちゃんに、何も話してないもの、ね……ごめんなさい」

「う、ううん、いいのっ! 別に、気にしてないから!」

 再び、椿は首を振った。そしてなぐさめるように言葉をかけた。
 この儚い美少女にあやまられると、まるで自分が言葉に尽くせないほどの手ひどい仕打ちをしたような気になってしまう。 それ以上追及しようものならば、この美少女の心はそれだけで脆くも崩れ去ってしまうのではないかとさえ思ってしまうのだ。
 そのため椿は、どうしてもそれ以上、四葉に彼女のことを聞くことが出来なかったのである。

(……それにしても、どうして四葉ちゃん、話してくれないんだろう?)

 疑問が心に残る。だが、悲しそうにうつむく四葉に対して、再度問いかけようという気に椿はなれなかった。

「……あ、列車が来た」

 チリンチリン、と鐘の音が響き、蓬色の蒸気路面列車が近づいてくる。
 かすかにさびしそうな微笑みを浮かべて、椿は四葉に目を向けた。

「じゃあ、四葉ちゃん。また、帝劇に遊びに来てね?」

「うん……ごめんなさい、椿ちゃん」

 まだ表情は曇ってはいたが、小さく頷いて、四葉は停車した路面列車のステップにほっそりとした足をかけた。うつむき加減で椿に振り返る。
 その瞳が何かを伝えたいかのように揺らめき、薔薇の花びらのような唇がかすかに開かれる。だが、結局何も言わず、四葉は黙って車両の中へと入っていった。

「じゃあね、四葉ちゃん!」

「うん」

 元気な声をかける椿に、四葉は車窓から微笑を浮かべた顔をのぞかせ、頷いた。小さく可憐な手を軽く振る。きしみ音をたてて列車が動き出す。

「またねーっ!」

 元気良く椿は手を振った。そうすれば四葉も元気になってくれる気がしたのである。精一杯背伸びをして、大きく手を振る。 走り出した路面列車の車両の中で、四葉も軽く手を振った。
 その澄み渡るような美しい薄茶色の瞳が、椿の姿を遠くに見つめる。銀座を行き来する人混みの中に椿の小柄な体が消えた後、小さく、四葉は震えた。苦しそうに美麗な顔を顰めた。
何かを思うかのように沈んだ表情のまま、四葉は路面列車の扉近くの壁に身を預けた。振動に身を任せ、瞳を閉じる。
 ボイラーから響く蒸気音。がやがやと乗客がざわめく音。チンチン、という澄んだ鐘の音。通りを行き交う蒸気四輪の騒音。
 それらのにぎにぎしい音でさえもまるで届いていないかのように、四葉の周囲には不思議な静けさが漂っていた。
 やがて、三宅坂の駅に、路面列車は到着した。そっと、まるで空気が漂うかのようにひっそりと四葉は駅に降り、三宅坂から青山へと向かう蒸気列車に乗り換える。 その間にも、四葉はその美しい表情に笑みを浮かべない。まるで深い絶望を宿らせているかのように暗い表情のままに、静けさをまとって四葉は列車の中に佇んでいた。
 三宅坂から青山方面へと続く青山通りには、獨逸(ドイツ)大使館、メキシコ公使館、支那公使館のほかに、島津邸、北白河宮邸、伏見宮邸、閑院宮邸といった国の重鎮の館がある。 そしてなにより、赤坂御所という、日本帝国としては最重要人物の住まう場所があり、この近辺は皇居に次ぐ重要防御拠点となっていた。
 過ぐる日比谷公園での戦闘の際、大手門にある憲兵隊本部は、陸軍による皇居の防御を最重要と判断して、全軍をあげてこれを守るように通達してきた。 しかし、赤坂御所近辺への魔物の侵入を阻止することも重要と判断した陸軍省は、全軍のうち三割程度を派遣、残りを赤坂御所および近辺へとまわしていた。
 この判断には、皇居防衛には帝國華撃團が出動するであるだろうという心積もりがあり、それは確かに正しかったのだが、皇居防衛をないがしろにした、ということで陸軍の上層部に対して厳しい非難がなされたものである。
 だが、近隣に住まう人々の陸軍に対する人気はいやがおうにもあがり、将兵たちも、どことなく、自分たちが守ってやっているのだという増長した態度をする者が増えていた。
 四葉の乗る蒸気列車にも、青山にある第一師団司令部にいくのか、三宅坂の陸軍省から何人かの将兵が乗り込んで来ていたが、そのうちの一人が、隣に立つ同僚をつついて話しかけた。

「……おい、見ろよ。綺麗な娘がいるぜ?」

「うん? ――ほう、なかなか。別嬪じゃないか」

 将兵たちの視線の先には、儚げな美貌の少女。静けさをまとって憂う、四葉の姿があった。

「まだ、時間はあるな――」

 ちらり、と懐中時計をとりだして時間を確かめて、その兵士はいやらしそうな笑みを浮かべた。同僚もにたにたとした顔になる。二人は何かを囁き交わし、そして熱っぽい視線で四葉を眺めた。
 そのうちに路面列車は赤坂表町を過ぎ、やがて青山三丁目の停車場にとまった。扉が開くと同時に、四葉が静かに降りていく。それを見てとって、二人は急いで列車を降りた。
 ぐるりと見回す二人の視界に、黒絹のようなつややかな美しい髪をなびかせた少女の後ろ姿が入ってくる。陸軍大学や女子学習院のある青山北町に背を向けて、少女は麻布方面へと続く道を進んでいく。 その後ろを、二人の兵士は、そっとつけていった。
 青山は、以外と閑静な町である。赤坂、乃木坂のほうにいけば軍部第一師団の駐屯する司令部があり、その近辺になれば軍関係の建物がひしめき、厳然であってもどこかにぎにぎしいのであるが、少女が歩いていくその道は住宅街であり、ほとんど人気がない。 ときおり長閑に猫が昼寝をしていたりするぐらいで、表通りの喧騒がまるで嘘のような静まった場所であった。
 さらに、少女の歩む道の先に、木々がうっそうと繁る森が見えてくる。昼間でさえも人気がまったくないであろうと誰しもが確信するほど、静まった場所。
 そう。
 か弱い少女を襲おうとたくらむ不届きものにとっては、おあつらえ向きの場所であった。

「ひひひっ……こいつあ、願ってもないぜ。襲ってくれって言っているようなもんだ」

「ああ、全くだ。ついてるぜぇ、俺たちは」

 小さく交わす言葉に、隠し切れない欲望がにじみ出る。いやらしそうに舌舐りをして、二人は、木々の繁った一角に恐れげもなく入っていく少女を早足で追いかけた。
 幾千もの枝葉によって日差しが遮られた薄暗い道。ところどころに、奇妙な四角い石が転がっている。何かを示すかのように整然と並べられた、石柱が、木々の間に見えかくれする。 黒ぐろとした、のたくるような文様が描かれた、細長い木板が、大地に突き刺さっている。
 そして――空気の中に漂う、香のかおり。成仏できない霊魂が、あてどもなくさまよう場所にふさわしい、荒寥としたなかに、奇妙に肌寒く、湿り気のある、ぬらぬらと鼻孔にねばりつくような、かおり――――

「――お、おい、ここ……」

「ぼ、墓地、じゃ、ねえのか……?」

 二人の顔に、不安そうな表情が浮かんだ。薄気味悪そうに、周囲を見回す。
 草と木々に覆われた一帯に、それこそまるで人が佇んでいるかのように林立する、墓標。打ち捨てられ、苔生した石壇。うす汚れ、梵字もかすれて読めない、卒塔婆――
 荒れ果て、訪れるものももはやいないかのように、うらさびれた、墓地。
 その一角に自分たちが立っていることに、二人の兵士はようやく気づいたのだった。

「あ……青山、墓地――?」

 薄気味悪そうに周囲をそろそろと伺いながら、片方の兵士が呟くように言った。彼の知る限り、青山界隈で墓地と言えば、青山墓地しかない。 だが、もう片方の兵士は顔をこわばらせて、首を振った。

「まさか……いくらなんでも、こんな…………こんな森なんて…………」

「…………」

 何やら得体のしれない悪寒に、二人は身を震わせた。すでに彼らには、彼らがつけ狙っていた少女がまるで溶け込むように森の中に姿を消したことも、いやそれどころか、少女の後をつけていたことでさえも、頭の中に浮かんではこなかった。 ただただ、本能的な恐怖が、頭の中をかすませる。二人は、そっと、目と目を見交わした。

「お、おい……も、戻ろうぜ?」

「あ、ああ………」

 頷きあい、そろそろと、二人がその身をもと来たほうへと戻しかけたとき――――

 ふわ、と、ふいに風が二人のたもとをすり抜けた。
 びくり、と、身を震わせて思わず後ずさる二人の頭上に、ふいに、一枚の布が忽然と現れる。
 黒い、美しい、天鵞絨(ビロード)のような光沢の、一枚の布。その裏には、まるで血のような赤い裏地がついていた。薄暗い日の光が、それによって完全に遮断される。 なめらかに、どこか優雅に、布がその端をひらめかせて、舞い降りてくる。
 そしてそれは、呆然としていた二人の兵士を、まるで抱きしめるかのように頭から包み込んだ。

「うわっ! な、なんだ!?」

「ど、どうしたんだっ!? なんだこりゃあっ!?」

 ばたばたと、二人はもがいた。かぶさった布をなんとかして取り除こうとする。だが、まるで戯れるかのように、その布は二人の体にまといついた。
 そして。
 バキバキバキッと何かが砕け散る音が、静寂の場を乱した。布越しにくぐもった絶叫が、響き渡る。まるで布ごと中のものをかみ砕いたかのように、奇妙な形に折れ曲がって、布が垂れ下がった。
 その端が、わずかにめくれる。赤い裏地のその布に並んでいたのは、一見すり鉢の中のようにざらついた、無数の小さな牙であった。
 ゴリゴリゴリと、何かをかみ砕きすりつぶす音がする。奇妙に突っ張った、腕とおぼしきものがまるで枯れ枝のように折れ曲がり、瞬く間にいびつな形へと変わっていく。 最初はかろうじて人の形をとっていた布は、骨を擂り潰し、肉を噛み砕き、暖かな血をすする、ぞっとするような音と共に徐々にその形を崩していった。 人の形から、いびつな墓標のように、そして小山が崩れるかのように、平たく、平べったく、まるで内部のものが溶けているかのようにゆっくりと、その端を広げていき――
最後にはただの敷き布のように地面にうっすらと広がった。

「……あまり、おいしくなかったのかえ? かわいい子」

 軽い、嘲笑を含んだ声が、静かに流れた。どこかいとわしいほどに艶めいた女性の声。うっそりとした木々の間に、からみつくように声が響く。
 地面に広がっていた布の中央が、ゆっくりと持ち上がる。布の形が、ゆっくりと変化する。 先ほどとは逆に、まるでその内側に何かが形づくられていくかのように、布の中央部がもちあがる。地面に広がっていた端がずるずると引きずられ、置物か何かのうえにばさりと広げられた敷き布のように、その内側に形あるものを形成していく。
 そして、ある程度形が出来たのか、広がっていた布は今度は、その端のほうから中央部へ向けて、次第に小さく縮退を始めた。それにともなって、その内部に形づくられたものが、次第におもてへと現れてくる。
 最初にすその下からのぞいたのは、ほっそりとした、白い脚だった。なまめかしいほどきめの細かな、白い肌。小さなくるぶし。どこかひどく蠱惑的なほどに美しくも艶めいた、脚。 黒い布の端の下からすらりと伸びるその脚が、かすかに身じろぎする。そのとたん、えも言われぬ程に艶めかしい色香が漂った。もしそこに誰かがいたとしたら、その白い脚の主へと襲いかかりたいという欲望を、果たして止めることが出来るだろうか。 それほどに、その光景は、人間の欲望をかきたてずにはいられなかった。
 さらに布は縮小する。次第に、そのなまめかしい脚と同じく細く美しい白い腕が現れ、伸びやかな脚は恐ろしいほどに美しい曲線を描く太ももへと続き、そしてついにはふっくらと丸みを帯びた形の良い尻へとつながる。 さらに、四肢の合間に垂れ下がる布の下に、なだらかな腹部と、形の良いふくらみをもつ胸があらわになる。
 はいつくばるように地面に四つんばいになった姿勢の、少女の姿が、その黒い布の下に出現したのである。だが、それでもその美しくも淫らな肢体を覆い隠す黒い布は、収縮をやめない。白い肌の、ほっそりとした少女の裸体がほとんどあらわになったところで、黒い布はようやく収縮するのをやめた。
 そしてそのとたんに、黒い布は、幾千幾万もの絹糸にばらけ、その少女の体を、黒い流れで覆った。まるで、黒い絹糸のような髪であるかのように。

「いいざまね――――ホホホホホ…………」

 今度はあからさまな嘲笑が、響いた。獣のように四肢をつっぱったまま、その少女は、ぐっと小さな拳を握りしめた。黒絹の髪が割れ、その下から、澄み渡るほど美しい薄茶色の瞳があらわれた。 薔薇の花びらのように可憐な唇をかみしめて、少女はぐっと、強い視線で中空を睨みつけた。

「四つんばいで、四葉。……ふふふっ、われながら、お前にぴったりの名前だねぇ。………クックククククッ!!」

「…………」

 その、あからさまな侮蔑の言葉に、少女は激しい怒りをその瞳に浮かべた。あまりの屈辱に四肢が震え、かみしめた唇から、唸り声ももれる。

「ホホホホホ……なあに、その、反抗的な顔は?」嘲笑は続く。まるで、この時を待っていたかのように。 「畜生のものとはいえ、かりそめの肉体と、お前にはもったいないほどの美しさを与えてやったと言うのに、まだわらわ――いえ、私に刃向かうつもりかえ?」

「…………」

「いやしい小姓の分際でありながらお屋形さまのお心を惑わした魔性の者であるにもかかわらず、あの煉獄のほむらの中から救い出してやった、わらわの恩義を、またお前は裏切るというのかえ?」

「…………」

「まあ、いいわ。お屋形さまが甦るまでは、お前のその力――神の力を持つものを引き寄せ、その身を封じることのできる、あやかしのものの力が必要だから。生かしておいてあげるわ。感謝しなさい。オホホホホホホ………」

「…………」

 こだまを繰り返し、嘲笑が消えていく。それをじっと、少女は屈辱に震えながら待っていた。 やがて韻々とした響きが消え去り、その場に間違いなく静寂がおとずれるにいたり、少女はぐっときつく瞳を閉じた。その紅色の唇から、悲しげなうめき声がこぼれた。

「………フゥゥ………ォォォオオ―――ァァ…………」

 人の言葉にならない、獣のような、振り絞ったようなかすれた、声だった………





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