ツバキ大戦<第四章>


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       (二)



「やっっほ〜〜〜〜っ! 大神はぁ〜ん! お早うさん!」

「……あ、ああ。紅蘭……おはよう」

 入り口から食堂へと足を踏み入れた大神は、元気いっぱいに挨拶してくる紅蘭に反射的に答えた。
 そばかすの散る小柄な顔に浮かぶ、常にないほど明るく輝くような微笑。薄墨色の瞳が大きな丸いメガネごしに大神を見つめてくる。 嬉しそうに顔をほころばせて、紅蘭は大神のもとへと小走りに駆け寄ってきた。

「な、なんだかずいぶんと嬉しそうだね、紅蘭。何かいいことでもあったのかい?」

「えへへへへ。わかります?」

「そりゃあ、それだけ嬉しそうな顔をしていれば、ね」照れたように頭をかく紅蘭を眺めて、大神は思わず苦笑しながら言った。 「それで、どんないいことがあったんだい?」

「それがな、大神はん。ようやく見つかったんや、高純度の霊子水晶がっ!!」

「ほんとかい?」

 大神の顔にも喜びの笑顔が広がった。
 屍炎との戦闘で大破した大神の神武は、霊子増幅器を破壊されて修理が不可能な状態になっていた。しかも増幅器を製造するのに必要な高純度の霊子水晶が見つからず、大神の神武は修理が完了したとしても従来の半分以下の性能しか出せないようになっていたのである。 それでも、前回の陸邪――カンナに言わせると、羅閻、という男だったらしい――との戦闘には神武の修理は間に合わず、大神は出撃を見合わせていた。
 神武の整備と修理、機能強化を一手に引き受けている紅蘭は、そのことでひどく心を痛めていた。大神が出撃できなかったのは自分のせいだったと自分を責め、このところ彼女は沈み切っていたのである。 帝撃に対する資金と技術の提供が行われることになり、紅蘭もようやく少しばかり笑みを見せるようになってはいたのだが、それでもたいていは何か思い詰めたような顔で整備場に籠って修理と改造を行っており、大神もどことなく気がかりだったのである。
 だが、今大神の目の前に立っている少女は、はちきれんばかりの笑顔を見せている。それは、久しぶりに見た、明るく朗らかな彼女本来の笑顔だった。
 大神の喜びは、だから、霊子水晶が見つかったことよりも、紅蘭が元気になったことに対するものが大きかった。

「よかった。君が元気になってくれて、ほんとうによかったよ、紅蘭!」

 思わず大神は、目の前の小柄な少女を、優しく包み込むように抱きしめた。

「あ……お、大神……はん………」

 大好きな人の胸の中に包まれて、紅蘭の顔が朱に染まった。大きく円らな瞳が信じられない、と、いったように丸くなる。 だがやがて、そっとその瞳は、長いまつげによって覆われた。そばかすの散る頬を染めて、そっと、瞳を閉じた少女は青年の胸の中に体を預けた。
 アイリスを除いて、花組で最も小柄なのは、紅蘭である。強く抱きしめたら折れそうなほどに華奢で、肉付きもかなり薄い。 幼い頃に栄養をあまりつけられなかったせいもあるのだろうが、紅蘭の姿は、数カ月後には十九になるという彼女の年齢にしては、ひどく儚く、たよりなげに大神には思えた。

(紅蘭て―――こんなに、細かったのか………)

 大神の心に、小さな驚きが走る。

(こんな華奢な体で……俺たちの神武の修理を、一手に引き受けていたのか……)

(こんなに、頼りなげで、細くて………それなのに、人一倍、明るくて………)

 その健気さに、言いしれないほどの愛しさがこみあげる。そっと、その濃藍色の髪を撫で、やさしく体から引き離す。 そして、うっとりとしたように頬を染めてうつむく紅蘭の顔を見つめながら、大神は優しく声をかけた。

「でもね、紅蘭。あまり、無茶はするなよ? 神武の修理も大事だが、君の体のほうがもっと大事なんだからね?」

「え………あ……は、はいな………」

 あまりの心地よさにぼぉっとなっていた紅蘭は、まだ夢見心地ながらも頷いた。あまり手入れをしていない髪が年齢よりも幼く見える顔にふりかかり、その合間から熱を帯びてうるんだ瞳が大神を見上げる。 紅もひいていない小さな唇が半ば開かれて、心の中の想いが吐息となってこぼれ落ちた。

「大神はん……ウチ……ウチな、大神はんのこと………」

「ん? なに?」

「………へ? ―――あ、いや、な、なんでもあらへんっ!!」

 ぼうっとなっていた紅蘭だったが、大神が不思議そうに問いかけてきたため、はっと我に返った。慌てて両手と首を振る。

「な、なんでもあらへんさかいっ! き、気にせんとき!」

「? そうか?」

 首をかしげながらも頷く大神を見て、紅蘭は安堵と、いくばくかの苛立ちの入り混じったため息をついた。

(大神はんも、もうちょいと女心ゆうのを理解してほしいわぁ……)

 けど、そないな鈍感なとこも含めて、ウチ、あんたが好きやねん…………

 そっと心の中だけで呟く。
 言葉に出せない想い。他の仲間たちの気持ちを考えると、どうしても口にはできない想い。言葉には出せない想い。
 ただ彼女の胸の中に、そっとしまいこまれたまま、おそらく一生言葉にすることはないだろう、秘めやかな想い―――

 その想いを口にするかわりに、紅蘭は、にっこりと微笑んで見せた。透き通るような、健気な笑顔だった。

「心配せんでもええよ。ウチはこう見えて、結構丈夫なんや。それに無理なんて、ウチ、しとらんもん。そやから、大神はんはなぁんも心配せんでええんや」

「紅蘭がそう言うなら、いいんだが………」

 それでもなお心配そうに顔を曇らせる大神を見て、紅蘭は急いで言葉を続けた。

「ま、そんなことはどうでもええんや。そ、それよりな、大神はん――今日、時間、あいとる?」

「え? うーん……特に今の所はないけど?」

「そやったら、なあ、大神はん。ちょいとウチにつきあってくれへん?」

「? つきあうって、どこへ?」

「あのな。今日の昼ごろ、神崎重工の船が横浜港につくんやて。それでな、その積み荷の中に、純度97%以上の霊子水晶があるって、さっき米田はんが言っとったんや。 そいつをな、ウチ、納入前に見ておきたいんねん。ええやろか?」

「米田支配人はいいって言ったのかい?」

 大神の問いかけに、紅蘭は大きく頷いた。

「うん。どのみちチェックはせなあかんし、神武の修理は最優先やからな。いいのがあったら、そのまま直にこっちに持ってきてもかまわん、言ってくれましたわ」

「そうか。よし、つきあおう!」大神も頷いて、微笑んだ。「朝飯食べたら、出かけるか。紅蘭はもう食べたのかい?」

「あ、先に頂きましたわ」

「じゃあ、支度が終わったら、知らせてくれ。俺はこの食堂にいるけど、長くかかりそうだったら部屋にいると思うから、呼びに来てくれ」

「おおきに!」

 喜びの表情を浮かべて紅蘭が食堂を出ていく。それと入れ違うようにして、食堂にマリアが入ってきた。淡い金髪をかきあげて、おだやかな微笑を浮かべて大神に挨拶する。

「お早うございます、隊長」

「やあ、マリア、お早う」

 厨房に通じるカウンターで頼んだ朝食を待つ姿勢で、大神は軽く片手を挙げて答えた。マリアも軽く会釈して、大神のもとへと歩み寄る。

「今、紅蘭が出ていきましたが、何かあったのですか?」

「ああ、それなんだけどね」

 大神はマリアに、先ほどの紅蘭との話を聞かせた。だが、かすかにマリアが眉をひそめたのに気づいて、不思議そうに問いかけた。

「ということで、一緒に行くことになったんだが……どうした、マリア?」

「え? あ、い、いえっ!!」

 奇妙に慌てた様子で、マリアは首を振った。心なしか頬が赤くなっている。だが、そのことに当然ながら大神は気づかなかった。首をひねって、さらに問いかける。

「何か不都合があるのかな? 確か、今日は他に用事もなかったと思うんだが……」

「え、あ、そ、そそそうですねっ、そうだと思いますっ!」

 一方のマリアとしては、内心穏やかではいられない。とりあえず頷きはしたものの、心の中にさざ波が立ち始める。

(それは、紅蘭は、とっても頑張ってるから……たまには、いいかもしれないけど…………)

(なんだか……くやしいわね………)

 自分の中で揺れ動く気持ちに、ふと、マリアの口元に苦笑が浮かんだ。

(私がこんな気持ちになるなんて……ふふっ、自分でも信じられないわね)

 ふと、数年前、まだアメリカで生活していた頃、頑なに人のぬくもりを拒んでいたのを思い出す。
 あれからそう月日はたってはいないはずなのに、ずいぶんと自分は変わってしまった。
 人を、仲間を思いやり、そして、心の底から信頼し、愛することが出来る人――目の前に立つ、どこまでも暖かく優しい青年と、出会うことが出来たのだ。 それはとても嬉しいことであり、そして、とても誇らしいことだった。

(――そう。私は変わったわ。この日本に来てから……隊長に、会ってから………)

(もう――四年近くになるのね。私が日本に来てから。横浜の、港に脚を降ろしたときから……)

 マリアが初めて日本の大地を踏んだ街。マリアの凍えた心を、初めて迎え入れてくれた街。それが横浜だった。
 どこかひどくアメリカを思わせる活気と喧騒に満ちた街。それでいて、奇妙に郷愁をかきたてる、懐かしい香りをその通りごとに漂わせる、不思議な街。 日本であって、日本でない―――世界、というものをまざまざと感じさせてくれる、街。

(横浜、か………)

 その街は奇妙に、大神と共通した暖かさ、懐かしさに通じるものがあった。彼女たち帝撃の少女たちを温かく迎え入れ、彼女たちをとても大切に扱ってくれる、故郷のような青年。 大神を見ていると、その横浜の街を思い出す。そしてそれは、奇妙な懐かしさをともなって、マリアの心を揺り動かした。

「あの、隊長……」思い切って、マリアは口を開いた。「私も、その……同行して、よろしいでしょうか?」

「え?――あ、うん。構わないよ、別に」

 かすかに首をかしげた大神だったが、微笑んで頷いた。

「あ、ありがとうございます」

 ほんの少し頬を赤らめながら、マリアはぺこり、と頭を下げた。その様子は、ずいぶんと年幼い少女のする仕種のように思われ、大神は思わずくすり、と笑いをもらした。

「? どうかしましたか?」

「え、あ、いや。何でもないよ」軽く笑みを浮かべたまま、大神は首を振る。「それより、早く朝食を食べてしまおう。紅蘭を待たせちゃ悪いからね」

「は、はい」

 マリアも慌てて朝食を頼み、大神のかたわらにそっと腰を下ろした。早速朝食をぱくつき始める大神を、横目でちらり、とうかがう。そこに大神がいる、というだけで、マリアはとても温かな気持ちになれるのだった。
 だが、マリアの至福のときも、長くは続かなかった。

「――あ、大神さん。よかった。ここにいらしたんですか?」

 食堂の入り口からかけられた声に、大神は、行儀悪くも口の中に食べ物を詰め込んだままで振り返った。切れ長の瞳に映ったのは、藤色の着物を着こなした、女性。穏やかな微笑が、整った美貌に浮かんでいた。

「――ふぁ、ふぁふふぃふん。おふぁひょふぉ!(あ、かすみくん。おはよう!)」

「お早うございます、大神さん。マリアさん」

 しとやかに挨拶しながら、かすみは大神たちのもとに歩み寄ってきた。にっこりと微笑をたたえて、大神を見つめる。

「お食事が終わったら、事務室のほうにいらしてくださいませんか? いろいろと手伝っていただきたいことがあるのですが」

「ふぇ?」

 もぐもぐと口を動かしながら、大神はちょっと申し訳なさそうに、目を細めた。

「ぐふぉふぇん、ふぁふふぃふん。ひょふふぁ、ひょっふぉ、ふぇふぁふぇふふんふぁ(ごめん、かすみくん。今日は、ちょっと、でかけるんだ)」

「え? そうなんですか?」

 口の中にものが入っているおかげでほとんど言葉になってない大神の言葉でも、かすみにはわかったらしい。小首をかしげ、ちょっと残念そうな顔になる。

「困ったわ。今日は神代さんも引っ越しの準備とかでお休みだし、大神さんだけが頼りなんですけど……」

「……うーん。困ったな……」

 ごくん、と食べ物を飲み下し、お茶でのどを潤してから、大神も困った顔で答えた。そんな大神を、かすみはかがみ込むようにのぞきこんた。 薄墨色の髪が流れ落ち、その下の整った美貌が翳ろう。藤色の着物の襟元の奥がちらり、と見えて、思わず大神は、ごくり、と唾を呑み込んだ。

「――何とか、なりませんか、大神さん?」

 しとやかな声が耳朶を震わせ、甘い香りがたゆたって大神の鼻孔に忍びやかに漂う。少女めいた黒目がちの瞳が潤み、紅をはいた形の良い唇が、誘うように開かれる。

(……ううっ、そ、そんな顔で、そんな声で言われたら―――)

 くらり、と頭の中がしびれるような感じがして、妙な気分が沸き起こる。だが、寒気を呼び起こすほどに冷ややかな声が聞こえ、瞬時に大神は我を取り戻した。

「――何を見つめ会っているんですか、隊長?」

「――え、わ、わわわっ! ま、マリアっ!!」

 思わず大神は、のけぞった。かすみの顔にかぶさるようにして、淡い金色の髪の氷の美貌が、ぬっと現れたのである。その翡翠色の瞳が剣呑な光を帯びているのを見て、大神の背中にどっと冷や汗がふきだした。 呼吸を整え、大神はこわばった笑顔でたどたどしく答えた。

「い、いや、そ、そんなことはないよ、うん! ――ね、そうだよね、かすみくん?」

「え? 何のことです?」

 かすみはきょとん、とした顔で、マリアと大神を見比べた。不思議そうに首をかしげる。そして、再び大神の顔をのぞき込んだ。再び訪れる、甘やかな誘惑の襟元。大神の視線がくぎ付けになる。

「よくわかりませんが――どうしたんです? 顔が赤いですよ?」

「い、いや、た、たたたたいしたことじゃない! き、気のせいだよ、うん!」

「それならいいんですが――」

 かくかくと頷くが、その視線はしっかりと襟元の奥に固定されている。マリアの翡翠色の瞳が、氷点下の光を帯びた。
 無言で、マリアは再度かすみと大神の間に顔をさしこんだ。切れ長の瞳が、こんどはかすみに向けられた。

「ごめんなさい、かすみ。隊長は私と紅蘭と、朝食がすんだら、横浜に行かなければならないの」

「そうなんですか……でも、困ったわ」ようやく体を起こして、かすみは心底困り果てた、といった感じで白い頬に手を添えた。 「今日中に仕上げないといけない仕事があるんです。明日に延ばすことはできませんか?」

「え……う、うーん……どうしよう、マリア?」

「そうですね……」

 大神とマリアは顔を見合わせた。紅蘭との約束があるとはいえ、急を要する用事ではない。それに、大神がどうしても必要、というわけではないのである。
 だが、今日まで必死になって神武の整備をしてきた紅蘭が、あれほどに望んでいるのだ。その彼女の笑顔がかき消されると思うと、とてもではないが、断れそうもない。

(それに、二回目だものな………)

 前回の戦闘が行われた日。あのときも、大神は紅蘭と約束を交わしていた。結局のところ、その約束は果たされずに終わっている。 これでまた今日も一緒に行けないとなれば、紅蘭がどれほど傷つき、落胆するか。

「困ったな……」

 大神は悩んだ。かすみの様子からすると、彼女の抱えている仕事も、半端じゃないようである。 かすみとて物分かりが悪いわけではないから、どうしてもはずせない用事というものがあれば、仕方ありませんねと笑って取り下げてくれる。 その彼女にして、ここまで困り果てた様子を見せているのだから、よほどのことなのだろう。無下に断るわけにもいかなかった。

「うーん………」

「―――なんや。悩む必要なんて、あらしまへんやろ?」

 ふいに、大神の耳に、妙ななまりの関西弁がとびこんできた。慌てて顔を上げた大神の目に映る、おさげ髪の小柄な少女の姿。
 紅蘭であった。
 そばかすの残る顔に、小さな微笑をたたえて、紅蘭は大神たちのもとに歩み寄ってくる。

「かすみはんの手伝いにいったらええやないの。ウチのほうは、ウチにまかしとき! な、大神はん?」

「紅蘭―――!」

 言葉がつまる。大神は、何と言っていいのかわからず、立ち上がった。そして、歩み寄ってきた紅蘭の笑顔をのぞき込んだ。

「でも、紅蘭―――」

「なんやの、そんな悲しそうな顔しはって! おかしなやっちゃな、大神はんも!」けらけら、と、軽やかに紅蘭は笑った。その大きな瞳が、意地悪そうに大神をのぞきこんできた。 「それとも、何? そんなに、ウチと行きたかったん?」

「……紅蘭……」

「なんか、さっきからそればっかりやん。変なの、大神はん」

 明るい表情で、紅蘭は笑い、そして、申し訳なさそうに立っているかすみに目を向けた。

「そーゆーことやから、かすみはん。遠慮なくこき使って、な?」

「――紅蘭さん。すみません」

 かすみも、大神の様子に何かただならぬものを感じたのだろう。ひどく申し訳なさそうに顔を曇らせて、深々と頭を下げた。そんなかすみに、紅蘭は手を振って笑った。

「だから、ええって! 別に、どうしても大神はんじゃなけりゃだめってわけやあらへんし。気にせんとき! 大神はんも、な?」

「………わかった」ふうっとため息をついて、大神は紅蘭を見た。「この埋め合わせは、必ずするから」

「期待せえへんけど、いちおう待っとるわ」

「ああ」

 大神は頷いた。そして、食べかけの朝食を、食欲が失せたようにとりあげて厨房に返していく。そして、とてもすまなさそうな顔のかすみとともに、食堂を出ていった。

 しん、と、奇妙な沈黙が、食堂に漂った。笑顔で手を振る紅蘭を、そっと、マリアは見た。

「紅蘭――あなた……」

 かける声もためらいがちになる。とてものことに、マリア自身が胸が痛くなる。
 その耳に、かすかに届く、うつろな声。

「……ま、こんなものやろな」

「………」

 ぐっ、と、胸がつまる思いを覚えて、マリアは胸を押さえた。その翡翠色の瞳に映る、チャイナドレスの少女の後ろ姿。

 まだふり続けていた手が、ゆっくりと降ろされる。

 後ろ手に、ほっそりした指先が、そっとからみあう。

 小さく華奢な肩が落ち、ひざがそっと合わさる。

 軽く、つま先でトン、と床を突く。

 ―――そして、ふっ、と力が抜けたように、首がかしげられた。
 キン、と、マリアは胸の奥が突っ張る気持ちがした。心の奥から思いが沸き上がってくる。
 抑え切れずに、マリアは席を立ち、紅蘭の後ろへと歩み寄った。その耳に、かすかな声が届いた。

「――心配あらへんで、マリアはん。ウチ、慣れてますさかい……」

「紅蘭――」

「まあ、単に運がない、ちゅうことですわ」

 はあ、と、大きくため息をついて、紅蘭は顔を上げた。そして、肩越しにマリアを振り返る。その口元には、苦笑じみた微笑が浮かんでいた。 大きな薄墨色の瞳が、マリアの翡翠色の瞳とぶつかる。
 とても澄んだ、胸が痛くなるほどに澄み渡った、綺麗な、とても綺麗な、清らかな瞳だった。

「こないなことで落ち込んでたら、いつまでたっても立ち直れへんわ。――なあ、マリアはん。大神はんのかわりに、ウチにつき合うてくれます?」

「わ――私で、よければ」胸をつまらせながら、マリアは答えた。「もちろん、喜んで行かせてもらうわ。……そうね。知り合いの店が横浜にあるから、お昼ご飯をごちそうするわ。どう?」

「ほんま? やったわ!」

 手をたたいて、紅蘭は喜んだ。そして、明るい表情で、マリアの顔を見た。

「ほなら、マリアはん。えらいすんまへんけど、何か軽いものだけ、食べといて下さい。ウチ、蒸気バイクの用意、してきますさかい、玄関で待っててや!」

「ええ、わかったわ」

「ほなら、ちょちょいと、持ってきますわ!」

 そう言って紅蘭は、食堂をかけ出ていった。小さな姿が消えうせる。それを見送りながら、マリアは小さく、呟いた。

「紅蘭――できるだけ、隊長のかわりをするから……だから、元気を出して、ね」



「……確かに、こいつは、凄いな……」

 事務室。
 扉を開けるなり、大神の口から漏れた言葉は、おじけが多分に含まれていた。
 目の前に広がるのは、書類の束の壁、壁、壁。どこになにがあったのか、全くわからない。 かろうじて扉から、一本のつたない道ができているが、その両側には、いったいいつどうやってこんなものを作ったのかと思われるくらいの書類がぎっしりと天井近くまで積み上がっていた。 思わず扉をそっと閉めて立ち去りたくなる。
 だが、その背後にぴたり、とついたかすみは、大神の退却を許しはしなかった。

「すみません、大神さん。こちらの手伝いをお願いいたします」

 おだやかな声でそう言って、かすみは大神の腕をひいて、事務机のひとつへと導いた。そして、優雅な仕種で、数十キロはありそうな書類の束を押しやる。

「こちらと、あと、こちらの机の上にある書類を、この分類項目にしたがって振り分けていただけませんか? それと、こちらのほうにある書類には目を通してください。帝撃関係のものですので。 あ、ちゃんと決裁済みのサインもしておいて下さいね?」

「は、はははは………」

 ひきつった顔で、大神は頷いた。逃げようとしてもこれでは書類の山を崩さなければならない。
 もし、書類の山を崩したとしたら、どうなるか………
 ぶるる、と、思わず大神は体を震わせた。そして、ふと気づいたように、回りを見回す。

「あ、かすみくん。そういえば由里くんの姿が見えないけど?」

「……あ、あたし……ここ……」

 かすかに聞こえる声。きょときょとと回りを見回した大神は、やがて、書類の山と山の間にあるかすかなすきまから、赤い帽子が見えることに気づいた。 ほとんど遭難者のうめきにも似たかすかな声が届く。

「……ふ……ふええ………かすみさぁん……ちょっと、これ………この金額……へん……」

「まあ、ほんと――しかたないわ。これはこちらで処理します。由里は、こっちのほうを――」

 すきまから差し込まれてきた書類を受け取るや、かすみはさっと目を通し、手早く赤を入れ始めた。そしてそれを持ったまま、人が通る道とはとても思えないほどに狭い通路に体を滑り込ませていった。 それはほとんど、忍者か何かのように思える仕種だった。

「……はああ」

 ため息をついて、それでも大神は、言われた通りに仕事をし始めた。少なくとも、始めなければ終わることはできない。そして、終わることができなければ寝床につくことはできないことを、大神はそれまでの経験から骨身にしみてわかっていたのだった。
 しばらく、沈黙のうちに、書類を決裁していく。時折あがるうめきともつかぬ声。それに対する、こちらはまるで疲れというものを知らないかのようなきびきびとした声。
 その地獄のような時間が、どれだけ流れたころだったか。
 ふと、大神は、自分の前に積み上げられた書類のひとつに、目が止まった。

「――ん? 何だ、これは?」

 しげしげと、見やる。帝撃関係の書類に、見覚えのあるサインがしてある。
 李 紅蘭。
 その名前に、今朝のことを思い出して顔を曇らせた大神だったが、とりあえず、中身に目を通す。そのとたんだった。

「――な、なんだってっ!?」

 思わず大神は声を上げた。驚愕の余り、その鋭い瞳が丸くなる。

「……ど、どうしたんです、大神さんっ!?」

 かすみのびっくりした顔が、わずかに標高が低くなった山のすそに現れた。だが、彼女の声にも気づかずに、大神は食い入るように書類を読み進める。そして、険しい顔で、不思議そうな顔のかすみを見すえた。

「かすみくん。これは、本当かい?」

「え?」小さく首をかしげたかすみは、そっと山すそから体をのりだし、大神の手にある書類を見た。その穏やかな美貌が、かすかに曇った。 「……あ、これですね。確かに、私たち風組が、処理しました」

「しかし、なぜ……」

 問いかける大神の視線に、かすみは顔を曇らせたまま、首を振った。

「紅蘭さんの書いてあるとおりです。花組の戦闘能力向上には、どうしても必要だと。米田総司令も、承諾なさっています」

「……た、確かに、戦闘能力はあがるとは思うが……動かせるのか?」

「私には、何とも……」困ったようにかすみは首を振った。「でも、紅蘭さんならば、動かせるようにできるとは思いますが」

「そうかもしれないが――」大神は、うめくように呟いた。
「だが、いくらなんでも、あの――あの、葵叉丹の作った、あやめさんの神威を聖魔城から運び出して改造するなんて………!!」

「……」

「大丈夫なのか、紅蘭――」大神は険しく眉をひそめて呟いた。「あれには、霊子核機関が搭載されているんだろう?――下手をすると、乗組員の霊力を、吸い取ってしまうんだぞっ、紅蘭!?」



 白濁した曇天は、帝都を離れてもまだ、ひろがっていた。身を切るような風は、冷気というよりも凍気をともなって、冷たい氷の刃をむける。 吐く息は白く、コートを着込んでいてさえも、寒さが身に染み渡る。
 暦はすでに11月に入っている。すでに冬も近い。濁った空は、いまにも氷の結晶を散らそうとしているかのように寒々しく広がっている。遠く近く打ち寄せる波は荒く激しく、厳しい冬の景色をモノトーンの色合いで染め上げていた。

「――もしかしたら、降るかもしれないわね」

 空を見上げて、マリアは呟いた。蒸気バイクのスタンドを立て、ボイラーにアイドリング用の燃焼炭をくべながら、ノースリーブのチャイナドレスの少女が答えた。

「大丈夫や。ちゃんと冬用のタイヤははいとるし、チェーンかて持っとる。オイルには凍結防止剤、蒸気シリンダーも亀裂がないかちゃんと調べとるさかい、安心してや」

「……それは、頼もしいわね」

 くすっと笑って、マリアは紅蘭へと振り返った。おさげ髪の少女の顔には、すでにあの透き通るほどに美しくも哀しい色はない。 普段通りの、元気のいい表情が浮かんでいる。どうやらバイクを飛ばしているうちに、気分を切り替えられたらしかった。

(よかった――我慢して、バイクに乗ってきた甲斐があったわ)

 ひそやかにマリアはため息をついた。
 横浜に来るまでのことは――正直言って、思い出したくない。とりあえず自分が五体満足でいられたことを神に感謝したマリアだった。

「――さあ、それじゃあ、行きましょ、紅蘭。こっちよ」

 バイクの手入れが終わったらしい紅蘭を誘って、マリアは横浜の街路を歩き始めた。
 馬車道通りから煉瓦造りの倉庫の並ぶ海岸通りを南東に下り、関内大通りを過ぎたあたりから細い路地を抜ける。本町三丁目の裏あたりに、マリアの目指すカフェがあった。

「ここよ」

 扉を開けて、マリアは紅蘭を促し、中へと入った。

「――おや、いらっしゃい、マリア」

 入ってきたマリアを出迎えたのは、カウンターの中に立った、40代ぐらいのふくよかな婦人だった。薄荷色のグレーの髪、やや赤ら顔の、気のよさそうな婦人は、暖かな笑顔を入ってきた少女たちに向けた。

「久しぶり、エレーヌ」

 マリアの顔に、懐かしさと共にくすぐったいような笑みが浮かんだ。スツールに腰を下ろして、マリアは婦人に微笑みかけた。

「ほんと、久しぶりだねえ、マリア」軽やかに笑って、エレーヌは、背後に並ぶ珈琲棚のうちの、一番左端のケースに歩み寄った。手慣れた様子で、そこにある珈琲豆と、他のいくつかの豆をミルにいれる。 「一年――いえ、もっと前になるかしらね? 確か、帝都にひどい地震がおきる前、だったからね――いつものやつでいいかい?」

「ええ、エレーヌ、ありがとう。……そうね、そんなになるかしらね」

 ふふっと、暖かな微笑を浮かべるマリア。それを不思議そうに、紅蘭は見やった。

(へええ。マリアはんも、こないな笑顔を浮かべられるひとがおったんやな……)

 そっと紅蘭は心の中だけで思った。マリアのその微笑を紅蘭は、しょっちゅう見たことがある。だがその微笑を向けられたことはない。 彼女のその暖かな微笑は、ただ、大神の前でだけ、大神に向かってだけ、現れるものだったからだ。

(それだけ、この人に心を許している、ってことやろなあ)

 そっと、エレーヌと呼ばれた婦人を見る。暖かな、安らいだ雰囲気を持った、女性。落ち着いた、すべてを包み込んでくれるような、包容力のある女性。
 そう。どことなく、母親を連想させるような、そんな女性だった。

「――それで、そっちのお嬢ちゃんは、何にするの?」

「……え? う、ウチでっか?」ふいにかけられた声に、慌てて紅蘭は答えた。「あ、う、ウチは、珈琲はようわからへんから、適当でええわ」

「あらそう?」エレーヌの顔に楽しそうな笑みが浮かんだ。「それじゃあ、あたし自慢の逸品をあげようね」

「そ、そんな、高級なもんは、ウチには似合わへんし……悪いで……」

「高級なものは、あたしんとこじゃ置いてないよ」からからと気持ちのいい笑い声をエレーヌは上げた。「あたしがあげるのは、これからあんたと知り合いになる記念の、とっておきの一杯だよ。受け取ってくれるね?」

「は、はあ……ほなら、いただきますわ」

「フフ……」

 小さくマリアは笑い声をたてた。懐かしむように、戸惑った紅蘭を見る。

(私も最初は、戸惑ったわね……)

 横浜の港について、マリアはあやめと打ち合わせるために、このカフェに立ち寄った。まだニューヨークに住んでいたころの殺伐とした雰囲気をまとっていたマリアに、この女主人は恐れげもなく近づき、そして、”とっておき”をいれてくれたのだった。 その時、マリアも、自分に接してくれるこの女性の暖かさに、戸惑いを覚えずにはいられなかったのである。
 そんな昔を懐かしみながら、マリアはエレーヌに話しかけた。

「あ、それから、エレーヌ。何か食べるものも頂戴。紅蘭、あなたも好きなのを選んでいいわよ?」

「あ、おおきに、マリアはん。ほなら、これと、えーと、これ?」

 小さなメニューを手にして、幾種類かのサンドウィッチとホットドッグを注文する紅蘭を横に、マリアはゆっくりと瞳を閉じた。暖かく優しい時間の流れに身を任せ、カフェの雰囲気を全身で感じ取る。 ふうっと、小さくため息をついて、心地よい気分を味わう。
 だが、その一瞬あとだった。
 ふいに、ぱっ、とマリアの瞳が開いた。その翡翠色の瞳が鋭くなり、端麗な美貌が引き締まった。

「――久しぶりね、マリア」

 冷ややかな――
 まるで、室内の空気がいっぺんに凍りつくかのように冷ややかな声が、マリアの傍らから吹きつけてきた。

「………!!」

 はっ、と、マリアは体を緊張させた。玲瓏とした、音楽的な声。だが一切の感情を含まない、冷ややかな声。
 その声に、彼女は聞き覚えがあった。いや、忘れたいと願い、そして事実、この時まで忘れていた声だった。二度と聞きたくない、声だった。
 震える眼差しを、マリアは傍らへと向けた。その端麗な美貌が青ざめ、硬質の唇が、かすれたように言葉を紡いだ。

「………リンデ!! いつの間にっ!?」

「いつ、あなたの横に腰かけたのか、ということかしら?」リンデ、と呼ばれた女性は、氷の欠けらを埋め込んだような冷たい視線でマリアを見ながら、言った。 「それとも、いつ、この日本とか言う島国に来たのか、という意味かしら?」

「………」

 まるで幼い少女のように怯えて震えるマリアを、リンデは静かに見すえた。光をはじくような豪奢な金髪を、優雅にかきあげる。バルト海の色の瞳が翡翠色の瞳を捉える。 そのあざやかな紅の唇が、軽く笑みを浮かべた。冷ややかな、感情がわからないほどに冷たい微笑だった。

「そんな顔をしないで、マリア。私は、あなたを連れに来たわけじゃあないのよ?」

「………」

「ようやく見つけたわ」優雅に、リンデの腕が伸ばされる。美の芸術とも思えるほどに白くたおやかな、美しい手が、マリアに向かって伸ばされる。 「やはり、この地にいたのね。ルーネのいとし子」

「………」

 顔をこわばらせ、身を引くマリア。だが、リンデの美しい繊手は、しとやかに端麗な美貌を捉えていた。そっと、いとおしそうに、その肌を撫でる。 だが、リンデの美しい顔に浮かぶのは、冷ややか過ぎるほどに冷ややかな、笑み。まるで精巧な造りものめいた、何の感情も感じられない、笑み。
 ゆっくりと、リンデの手が、マリアから離れていく。まるで石にされたかのように、マリアは顔をこわばらせたまま、身じろぎしない。
 澄みわたる冬の海の色の瞳が、かすかに笑ったように思えた。

「そう――また、見つけたの、あなたは」

 リンデの唇が、明らかな嘲笑を浮かべた。冷たい視線が、マリアを射ぬいた。

「また、愛しいひとを見つけたのね、マリア。――また、誇り高い戦士を、戦士の魂を、見つけたのね」

「………」

「いいわ。私があなたの望みを叶えてあげる。また、私が連れていってあげるわ――あなたの愛する人、勇者の魂を、私が導いてあげる―――」

「………!」

 マリアの顔から、血の気が消えていった。白い頬が青ざめ、その唇が、わなないた。

「やめてっ!!」

 魂を切り裂くような、悲痛な叫びが、その唇から迸った。淡い金色の髪をかきむしり、マリアは絶叫した。

「もうやめて! もう、私から隊長を奪わないでっ!! もう――もう、私を解放してっ!!」




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