ツバキ大戦<第四章>


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       (三)



 1917年。ロシア。

 この年3月に起きた首都での暴動による皇帝制度の崩壊後、貴族たちブルジョワジーは臨時政府を打ち立てた。しかし、ロシア全土の労働者、農民、兵士たちはソヴィエト(評議会)へと結集し、これに対抗。 二重権力の状態の中、ロシア全土は革命の嵐に呑み込まれた。
 そして11月。モスクワ郊外――

 極寒の地は、依然として視界を埋め尽くすほどの吹雪が吹き荒れていた。風に乗って襲いかかる雪は氷の刃にも等しく、フードの下からわずかに露出した頬や首を切り裂く。 口を開ければ、そこになだれ込む空気は新鮮なだけではない。内側からすべてを凍らせようとたくらむかのように冷えきった氷の気体が、好機を逃すまいとばかりに飛び込んでくる。 襟を立て、包み込むように何重にも巻いたマフラーをひきあげて口から下の部分を隠し、毛皮のトークを目深にかぶる。防寒用のマントを、きつく体に巻きつけて、体温の流出をできる限り防ぐ。 それでも冬将軍の息吹は、そこに住まう人々を魂の奥までも凍らせてしまうかに思われた。

 だが――

 そのような厳しい雪嵐の中、彼女はまるで雪像のごとく、立ちすくんでいた。冬将軍の鋭い息吹が、その白い肌を容赦なく切り裂き、そのまぶたを覆うまつげを凍結させる。 だが、その少女は、まるで彼女自体が凍りついたかのごとく、微動だにしなかった。その、雪の合間に差し込んだ旭日のように美しく輝く淡い金色の髪の下、翡翠色の瞳がうつろにその足元に向かって落ちている。 わずかに白く煙る息が立ち上る小さな唇は青黒く濁り、かすかに震えていた。生きとし生けるもの全てに絶望したかのように、彼女は立ちすくんでいた。
 その濁った唇が、わずかに動く。かすれ、ひびわれた、うつろな声が漏れいでる。

「………隊長………」

 白い、どこまでも白い、雪原。吹きすさぶ雪によって、全てが白く、白く覆いつくされていく、世界。
 その、白い世界の中で。
 それは、まるで不吉なものであるかのように、黒ぐろとした姿を見せていた。そして、その周囲に広がる、あざやかな赤。全てを呑み込むほどの吹雪の白の中で、鮮烈なほどに毒々しく瞳を射る、赤。

「た……いちょ………う………」

 がくり、と、彼女はひざをついた。震える腕を、その、物言わぬ体へと伸ばす。厚手の皮の手袋に覆われた指先が、降り積もる雪とむくろの間に差し込まれ――

「隊長ォォォォォォ!!」

 マリアは絶叫した。魂を凍えさせるかのごとく悲痛な、叫びだった。
 あらん限りの全ての力を込めて、愛しい人のむくろを抱きしめる。その瞳に、輝くものが溢れ出る。白い肌を伝うそれはほとんどすぐに凍りつき、滑らかな肌を突き刺す刃と化す。 だが、その痛みでさえも、彼女に訪れた心の痛みに打ち消され、かき消されていた。長いまつげに涙の結晶が張りつき、こぼれ、人工の雪の欠けらとなって強風にあおられ飛んでいく。
 その、飛んでいく涙の欠けらが、ふいにキラリ、と輝いた。冬のロシアの大地に、何か光を放つものが、マリアに向かって差し向けられた。
 まばゆい。
 視界の隅にその光を捉え、マリアの顔がひきゆがんだ。溢れる涙をそのままに、マリアは顔を上げ、叫んだ。

「邪魔しないでっ!! 私と――私と隊長のことは、放っておいて!!
 私の――私の大切なひととの、最後の逢瀬を、邪魔しないで!!」

 ごうごうと、うなりさえも聞こえるほどの風が、雪を伴って吹き荒れる。その白と黒のモノトーンの景色の中――
 冬将軍の支配する、厳寒の大地に、あたかもそこだけ光がさし込んだかのような、そんな錯覚が、彼女を捉えた。驚いて、彼女は目をみはった。
 吹き荒れる風が、まるでそこだけ優しい微風となったかのように、軽やかに揺れる黄金の髪。雪よりも白くなめらかな肌。スッと通った鼻筋の下の鮮やかな紅色の唇には、かすかな微笑がただよう。 優美なカーヴを描く金色の眉。そして――バルト海のように透き通った、しかしどこまでも厳しい色をたたえた、青い瞳。
 古風な、銀色に輝く、芸術の粋を極めたかのような美しい鎧をまとい、そのくびれた腰には、精緻な細工を施した剣を帯びている。
 それはまるで神の手によって彫り造られたかのごとき、完璧な美貌の、女戦士だった。
 冷ややかな、澄み渡るほどに美しくはあったがどこまでも冷然とした眼差し。あたかも、氷でできた鎗であるかのような、鋭くも冷ややかな眼差しが、マリアの傍ら、彼女の腕に抱かれたむくろへと向けられていた。 その紅を掃いた唇が開き、声が流れ出た。その美貌にふさわしい、美しく音楽的な、だが感情の見られない、声が。

「――またひとり、勇者を見つけた」

 楽器が奏でられたかのような、美しい声が、歌うようにつむがれる。だがその青い瞳は、どこまでも厳しく、冷たい。冬将軍の息吹きよりも。

「勇者の魂が、またひとつ。――凍土の熱き勇者。その御霊よ。さあ、私と共に。勇者のみが集う、天上の宮へ。私は導こう、かの勇者の魂を。その望みのままに」

「………!!」

 マリアは息を呑んだ。その腕の中、抱きしめていた愛しい人の体が、突然、淡い光を放ち始めたのだ。かげろうのように、儚い光。だが、どこか暖かく、力強いエネルギーを持った、光。
 呆然と見ているマリアの前で、その光は、すうっとその体から離れていった。そして、ぼんやりと揺れ動きながら、ひとつの形をとろうとする。そう、人のかたち。彼女の胸の中に抱いた人の、その数時間前に見たときのままの、姿に。

「た……たい、ちょう………」

 マリアの唇がわななく。輪郭が淡くはあったが、それは確かにマリアの好きだったひとだった。そのひとだった。

「………隊長………隊長ォ!!」

 マリアは叫ぶ。その翡翠色の瞳が、狂おしいほどの心を映し出す。
 光となったひとは、おだやかに微笑んだ。まるで生きているかのように、その光は、愛しい人の笑顔を浮かべた。確かにその視線がマリアを捉え、そして、彼女を確かめた。 その男らしい顔はマリアへと向けられ、その口元がかすかに動いた。

 マリア――俺の、マリア――

「隊長……!」

 まるでその光が、言葉を発したかのように、マリアには感じられた。あるいはそれは幻聴であったのかもしれない。 だが、それはまるでそのひとそのものであるかのように、そのひとそのものの声で、そのひとそのものの心で、マリアの心に届いたのだ。

「……隊長……隊長………」

 マリアの美貌にほのかな光が宿る。嬉しさ、愛しさがこみあげる。マリアは知らず知らずのうちに、笑みを浮かべていた。

「隊長………」

「―――もう、それで十分でしょう?」

 だが。
 冷ややかな声が、マリアの笑みを強ばらせた。その翡翠色の瞳が、言葉を発したものへと向けられた。

「さあ、もう時間がないわ。天上への道は、遠く険しい。勇者の魂のみが、その大道を進むことが出来るのだから」

 黄金の髪の女剣士は、マリアがまるでいないかのごとく、その傍らに立つ光へと語りかけた。深く静かな、そして冷ややかな眼差しが、光をとらえる。

「その娘にあなたの言葉が届いたかどうかはわからないけど、それでも今生の別れは済ませたのでしょう? ――さあ、凍土の戦士。熱き勇者よ。私が導くわ。その魂の安らぎの場へ。勇者の集う天上の世界へ」

「………」

 呆然と見守るマリアの前で、その光は、やや寂しそうな微笑を浮かべた。そしてその光は、黄金の髪を持つ女性のもとへと、すうっと音もなく進んでいく。その広い背中がマリアに向けられ、その微笑がマリアの視界から隠されたとき。

「――待って! 待って、隊長!!」

 我知らず、マリアは立ち上がり、駆け出していた。その胸の中に抱いていたむくろが、どさりと雪原に落ちる。だが、それも彼女には見えなかった。 その翡翠色の瞳は、真っすぐに光と、そしてその豪奢な金髪の女戦士に向けられ、彼らの元へと彼女は駆け寄った。

「待って、待って、あなた! 私と――私と、隊長を、引き離さないでっ!! 私の隊長を、連れていかないでっ!!」

「………」

 かすかに金色の眉がしかめられた。黄金の髪の女性は、冷たい眼差しを、いぶかしげにマリアに向けた。だがそのまますぐに背を向け、光と共に歩み去ろうとする。

「待って! 待って頂戴! 私の隊長を、その光を、私から引き離さないで!! お願い、お願いだから!!」

「――!」

 ぴたり、と女性の足が止まった。そして今度こそ、かすかな驚愕と不快げな表情が、その美貌の上に宿った。光がはじけるような黄金の髪を揺らして、彼女は振り向いた。硬質の唇が開いた。

「――まさか、あなた。私が見える、というの? それに、この勇者の姿を、見ることが出来るの?」

「だめ………隊長……隊長を、返して……!」マリアは、息を弾ませながら、悲痛な叫びをもらした。 「ようやく――ようやく、幸せになれるの……そのひとは、私の大切な人なの。だから――だから、奪っていかないで!!」

「……やはり、気のせいなのかしら」小さく呟いて、女性は瞳を伏せた。「私としたことが――そのようなもの、私の声を、私の姿を見ることができるものなど、人間にいるわけはないのに……」

「――見えるわ!」

 マリアの声が、響く。再び女性は、驚愕に目を開いた。その視線を正面から受けて、マリアは頷いた。その翡翠色の瞳が、決意の色もあらわに、青い瞳を見返す。

「あなた――あなたはいったい、誰なの? 私の隊長を連れていこうとしている、あなたはいったい、誰なのっ!?」

「――これは驚いたわ」冷ややかな声が、紅色の唇からつむがれた。眉を寄せ、そのバルト海の瞳が険しい光を帯びて、マリアに向けられた。 「あなたこそいったい、誰? 私の――この私、リンデの姿を見ることができるなど、普通の人間ではないでしょう?」

「私はマリア。マリア・タチバナ」マリアは答えた。「私にはあなたが見える。あなたと、そしてその、光のような姿の、隊長を」

「マリア――タチバナ」軽く、リンデと名乗った女性は繰り返した。その瞳がゆっくりと伏せられ、その名を記憶の中から探そうとする気配があった。やがて彼女は、小さく頷いた。その唇が冷笑の形にゆがんだ。 「そう――カソリックの女信者、あの、スマとかいう女の娘。そして、わが妹の………」

「………」くっ、と、マリアは顎を上げた。その翡翠色の瞳が怒りの光を帯びた。「私の母を――侮辱、するの?」

「侮辱――そうね。そうかもしれないわね」

 だが、マリアの怒りの視線にも、リンデは冷笑をおさめようとはしなかった。いや、むしろ憐憫さえもうかがわせるような冷笑だった。

「マリア………あなたを生み出したのだから。そして――私の、妹を――」

「………?」

「知らないなら、それでいいわ。そのほうが、あなたには幸いかもしれないから」

 戸惑った表情を浮かべるマリアに、リンデは冷笑を浮かべたままで言った。

「ただ、これだけは覚えておきなさい―――あなたは、私たち死の天使の、希望。そして同時に、あがないきれない罪の象徴でもある、ということを」

「何を……何を、言いたいの………?」

「あなたが、私たちの同類だと、いうことよ」

「……同類?」

「そう」リンデの唇が、自嘲めいた微笑をひらめかせた。その青い瞳が、ほんの一瞬、またたいた。まるでその瞳に、見せたくない表情がひらめいたかのように。 「私たちと同じ――自分の愛するひとを、必ず死の世界へといざなう。愛する人へ死を運ぶ、天使。………真の勇者を探し出し、その心を奪い、魂を奪って、はるかな天上へと導くもの。
 ――そう。私たち、死天使と、同類だと言うことをね」

「死天使――」

 その不吉な言葉は、マリアの心を凍えさせた。まるで心臓に楔でも打ち込まれたかのように、マリアの体は硬直した。
 それを、冷ややかにリンデは見つめていた。その美しいかんばせには、またもとの、冷たい氷のような、感情をうかがわせない冷笑がたたえられていた。
 そして、くるり、と踵を返し、リンデは光の勇者を伴って、歩き始めた。不思議なことに、この吹雪の中、まるでそよ風さえも吹いていないかのように、彼女は歩いていた。 そしてその伸びやかな脚は、凍土を覆う雪を、ほんのわずかさえも踏み締めることはなかった。まるでそこに見えない床があるかのように、彼女は歩いていく。その黄金の髪が、豊かな光を放つ。
 呆然と、マリアはそれを見送った。その脳裏には、リンデの語った言葉が、繰り返し流れていた。

(――私たち、死天使と同じ……)

(勇者を探し――その心を奪い――魂を奪う………)

(愛する人へ、死を運ぶ、天使―――)

(死を―――死を―――死を―――)

(………私が、運んだ―――を、運んだ―――私が、死を、運んだんだ―――私が、死を、隊長に、運んだんだ―――!!)

「……いやぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!」

 再び――マリアは、絶叫した。
 それは、隊長を失ったとき以上に、悲痛な、聞くもの全ての心を凍えさせ、そして締めつけるような、そんな声だった―――




 ――それは、まさしく、夢幻のできごとだった。隊長を失った悲しみがかいまみせた、夢のようなできごとだった。
 だからこそ、マリアは、頑なに信じていた。信じようとしていた。それが、夢であることを。願っていた、夢であることを。 雪原のただなか、ほんの一瞬かいまみた、まぼろし。隊長を失ったことへの衝撃、そしてそれが、自分をかばったがゆえのことだから―――だから、このようなまぼろしを見たのだと。 自分のせいで隊長が死んだのだ、自分が隊長に死をもたらしたのだ、その罪の意識が見せた、贖罪のためのまぼろしだと――
 だが、それは現実だったのだ。あの光景も、そして、あのとき――リンデと出会ったことも。

「――言ったはずよ、マリア」

 雪原に降り立ったあのときのままの、あの、凍えるような美しい瞳で、リンデは震えるマリアに語りかけた。そのあでやかな紅色の唇は、冷ややかな微笑をあいもかわらずたたえていた。

「あなたは私と同類――愛した人に死を運ぶ、天使だと」

「いや………いや………」

「嫌ならば、それでも構わないわ」突き放したように、リンデは瞳を細めた。 「あなたが望むならば、あなた自身の手に任せてもいいかと思ったけど。………あなたは、そうするには、あまりに人間であり過ぎるから。 ならば、私があなたのかわりに、また、誇り高き戦士の魂を―――あなたの選んだ、戦士の魂を、導いてあげるから」

「だめ………だめ………! そんなことは………させないっ!!」

 叫びと共に――
 顔を上げたマリアは、抜き放ったエンフィールド・改の銃口を、死天使へと向けた――はずだった。
 だが―――

「……ど、どないしたん、マリアはん!?」

 銃口の先には、瞳を丸く見開いて、驚愕と恐怖に震えるおさげ髪の少女の姿があった。

「――こ、紅蘭っ!!」

 慌てて、マリアは射線をはずし、銃爪にかけていた指をもぎはなした。

「ご、ごめんなさい、紅蘭」

「……わ、悪い冗談やで、まったく」ほっと、胸をなで下ろして、紅蘭はぎこちない笑みを浮かべた。 「ほんま、やられるかと思ったわ。マリアはん、まるで仇を見るかのような目で、睨みはるから………」

「本当にごめんなさい、紅蘭」

 申し訳なさそうな顔で、マリアは銃をしまった。そして、軽くため息をついた。
 そんなマリアを不思議そうに、紅蘭は見た。気遣わしげに眉をひそめて、紅蘭は問いかけた。

「いったい、どないしたんや、マリアはん。なんか、おかしいで?」

「何でも……ないの」小さく微笑をたたえて、マリアは安心させるように紅蘭に笑いかけた。 だがその顔には、拭い切れない不安と怯えが、まだ残っていた。

「それよりも、紅蘭。今、私のそばに、女性がいなかった? 金髪の、若い女性が?」

「金髪の女性?」不思議そうな顔で、紅蘭は首を振った。「んなひと、おらへんで? 大体、ウチらが来てからこの店に、誰もきいへんもん」

「ごめんね、あたしの店、そんなに有名じゃないから、あまり客が来ないのよ?」

 おかしそうな顔で紅蘭に答えたのは、エレーヌだった。ばつの悪そうな顔で、紅蘭は頭を下げた。

「あや、かんにんな。ウチ、そないなつもりで言ったんやないんや。気い悪くせんといて、な?」

「わかってるわよ、ファニーガール」気のいいエレーヌは朗らかに頷いた。茶目っ気たっぷりにウインクをひとつして紅蘭とマリアの手元に珈琲とサンドウィッチを置く。 「さあ、できたわよ。マリアも、どうぞ召し上がれ?」

「ありがとう、エレーヌ」

 まだどこか強ばってはいたが、マリアは微笑みを返して、カップを手にした。珈琲のかぐわしい香りが鼻孔をくすぐる。暖かな湯気をあごにあてて、マリアはため息をひとつついた。
 一口、口に含む。広がる苦みと、暖かな味わい。翡翠色の瞳がほそまった。

(おいしい――)

 のどを通り流れ込む珈琲の暖かみが、マリアの緊張を解きほぐしてくれる。その心の痛みが、わずかに和らいだ気もする。
 だが―――
 その脳裏に再び、リンデの美貌と、そしてつむがれた言葉が甦る。

(私は――死を運ぶ、ものなのだろうか?)

(隊長――大神さん。あなたに、死を、運ぶのでしょうか……また、あの時のように………)

 ぎゅっと、マリアは瞳を閉じた。心に浮かびあがる不安を無理やりに押さえ込む。

(いえ――そんなことは、させないわ!)

 瞳を開く。その眼差しには、悲痛なほどの想いが宿っていた。まるで目の前にリンデがいるかのように、マリアは殺気をこめた眼差しを誰もいない正面に向けた。

(もしまたあなたが、私の前に現れたら―――私の、隊長を、奪おうとしたら―――私は、あらゆる手を使ってでも、それを防ぐわ。 例えそれが、私の宿命だったとしても――愛した人に死を運ぶ宿命だったとしても――私は、戦う。そして、あなたの手から、隊長を守って見せる)

(もう二度と――愛する人を、奪わせはしない!!)

 その身にまとうのは、冷気。その周囲を全て凍えさせるほどの、冷気。抑え切れない殺気と霊気が、彼女の体を取りまいた。
 その様子を、サンドウィッチをぱくつきながら、紅蘭が見ていた。薄墨色のつぶらな瞳が、気遣わしく翳った。
 そっと、紅蘭はマリアに囁くように声をかけた。

「……なあ、マリアはん」

 マリアの瞳が、紅蘭へと向けられる。その視線には、凍えるような冷気、氷の鎗のような鋭さとどこか痛ましそうなものが宿っていた。 それは、彼女自身はそうとは気づかなかったが、リンデの視線にもどこか似通ったものだった。

「――何、紅蘭?」

 その唇が紡ぐのも、同じく冷ややかな言葉。感情を感じさせない、冷たい声。
 だが、紅蘭はそのようなマリアの様子には、まったく怖じ気付くこともなかった。心配そうな顔で、紅蘭はマリアに言った。

「なあ、マリアはん。何思い詰めたような顔しとるんかウチにはわからへんのやけど、ウチらがおるんやで? そないに気ばらんと、ウチらだって、おるんやで?」

「……!」

 はっ、と、マリアの瞳が見開いた。かすかな狼狽、そして、理解とともに申し訳なさそうな表情がその麗貌に宿った。
 小さく、マリアは頷いた。その白い面に美しい微笑が浮かび上がった。

「そう――そうね、紅蘭」

「何か悩み事でもあるん?」その微笑に安堵の笑みを浮かべつつも、紅蘭は重ねて問いかけた。 「ウチらにできることやったら、相談に乗るで? マリアはんは一人やあらへんのやから」

「一人じゃ、ない、か………」くすっ、とマリアは小さく笑った。「そうね。そうだったわね。ありがとう、紅蘭」

「なんや、照れくさいな、もう」

 やや頬を紅潮させて、紅蘭が笑う。その朗らかな笑顔を見ているうちに、ようやくマリアはいつもの自分が戻ってくる感じがした。

(そう――ひとりじゃ、ない。みんながいる。いてくれる)

(だから―――)

 マリアの視線が鋭くほそまった。だが、先ほどとは違い、そこに狂おしいほどの冷気はない。力強い輝きが、その瞳には宿っていた。

(だから、あなたには渡さない。私の大事な人――隊長を、奪わせはしないわ!)



 その船は、白く優美な姿を横浜の港に横付けにしたまま、打ち寄せる波に心地よさげに揺れていた。柔らかな曲線で構成された、純白の麗鳥。 幾重にも重ねられ束ねられた帆。天へと向かって誇らかに突き上がる四本のマスト。中央部にしつらえられた三層の船室の後ろに縦に立ち並ぶ、四本の煙突。 落ち着いた白い水蒸気が、ゆっくりと立ち上る、蒸気船。
 その蒸気船のデッキの上、寒気が流れ込み、いつ雪が降ってきてもおかしくないほどにうすぼんやりと翳った寒空を見上げて、その女性は心配げに呟いた。

「マリア―――」

 その脳裏に浮かぶのは、十年以上前の風景。おそらく彼女の愛しい娘は、覚えていないだろう。あの永久凍土の村、あの、はるかな流刑地での出来事。 夢と幻の合間、記憶と記憶のはざまにある風景を。
 だが、彼女は覚えていた。彼女だけは、忘れることはないのだ。なぜならそれは―――彼女にとって、大切な日々だったのだから。 そして―――かけがえのない、愛しい娘とまで思うその少女に、彼女はすべてを託したのだから―――

「マリア………」

 両手をもみしぼり、切なげに、女性は呟いた。純白のドレスに身を包んだ彼女の周囲に、きらきらと光るものがまとわりつく。雪の精霊。寒気を呼び込み、雪を降らせる精霊が、かすかにさんざめきながら、彼女の周囲を踊り回る。

「………お願い、雪娘たち」女性は精霊たちを愛しそうに見つめて呟いた。「あなたの新しい主人を、守ってあげて。いつも彼女のそばに、彼女の心と共にあって」

 クスクスクス………

 精霊たちはさんざめく。柔らかな、蛍火のような淡い光をはなって、雪の精霊たちが、再び彼女の元を離れていく。

「お願い、雪娘たち」それを見送りながら、女性は呟いた。「私の血を――私の力を継ぐもの………私のマリアを、どうか、守ってあげて………」



 風が、吹き過ぎていった。寒空に、ちら、ちら、と舞い落ちるものが見える。
 うすぼんやりとした冬空は、ついにその身にまとっていた銀鱗を、地上へと振り落とし始めていた。帝都のそこここに立ち上る蒸気の煙がいくつかの雪片を蒸発させるが、その可憐な冬の花びらは、途切れることなく舞い降りる。 ゆるやかに空を舞い、そっと寄り添うように大地へと落ちる小さな雪。蒸気エンジンや蒸気漕から吐き出された水蒸気にほんのかすかにかげろう帝都の街を、薄く染め上げようと冬の欠けらはひっきりなしに舞い降りる。 溶かし切れない欠けらが集い、たちまちのうちに薄化粧が始まる。
 雪の舞う、冬の帝都。
 それは、蒸気の都をいっとき、幻想的な街へと変える。にぎやかなモダンジャズを流す蒸気ラジヲ。暖かな光を灯す、街灯。路面を行き交う蒸気列車も、どこかひどく切ない昔の光景のように、淡く煙る。 道を急ぐ人々も、いっときその足を止め、何かを思うかのように空を見上げ、その冬の到来を告げる使者を出迎える。いくつもの顔がほころび、あるいはかげり、再び人々は歩き出す。 だがその足どりはそれまでとは異なり、どこか郷愁をかきたてるような、さびしげな、あるいは気ぜわしげなものになっていた。
 風がまた、吹き過ぎる。葉のすっかり落ちた樹々のこずえを揺らし、せつない音をかなでさせ、通り過ぎていく。かすかにくゆる蒸気が、時折ふっとその風を揺らすが、それでも風はまた集い、流れていく。
 そんな風の中、神代はじっと、身じろぎもせずにそこに座っていた。
 赤みがかった金色の髪が、たわむれるようにまといつく風に揺れる。彫りの深い、深海のような穏やかな碧色の瞳。すっと通った鼻梁、太い、男らしい眉。 秀麗、というよりは、壮麗な顔だちは引き締まり、どこかもの憂げな表情をひらめかせていた。
 神代がいるのは、帝劇から少し離れた場所にある、彼の下宿している小さな二階建ての共同住宅の屋根だった。 背もたれ代わりに傾斜した屋根に体を預け、長い足を投げ出すような格好で、愁いを含んだ眼差しで、帝都にちらちら降りゆく雪を眺めている。 金色の髪のひと房が秀でた額にふりかかるのをわずらわしげにかきあげ、神代は、その陽気な瞳をやや翳らせた。

「………やはり、神威を動かさなければならない、か―――」

 呟く彼の声が、ふと吹き過ぎた風にまぎれた。その風は、かすかにゆらめくと、彼の周囲を戯れるように軽やかに踊った。 かすかな苦笑を浮かべ、神代はそっとその左腕をかざす。楽しげな風が、まといついてくる。

「―――おいおい。じゃれるな、精霊ども。俺もそうそう遊んでいられないのだ」 小さく、しかし、とても愛しそうに、神代は語りかけた。 「今度は、まぎれもない神の力の使い手―――しかも、相当たちの悪いしろものだ。最悪………お前たちの力も、借りなければならないかも、な」

 風は答えない。のんびりと、あるいは気ままに、神代の左腕に戯れ、その表面を撫で上げて、吹き過ぎていく。

「神威―――神のつくりしもの。神の力の宿りしもの。あれを動かせるのは………」

 太い眉がしかめられる。その彫りの深い顔に、まぎれもない苦渋の表情が浮かび上がる。ぎゅっと固く瞳を閉じ、何かを思うようにしばし沈黙していた神代は、やがてその深く穏やかな碧色の瞳を開いた。 その瞳には、何か決意の色が見てとれた。

「だが―――封印された衣よりは………まだましだ。そして………椿よりは―――俺のほうが………
 椿には―――まだ、無理だ………まして、大神では………」

ぐい、と、神代は顎をあげ、天へと視線を向けた。ゆるやかに舞う、白い冬の使者の向こう。ぼんやりと曇った天空を、睨みつけるように強い視線で眺めた。

「―――いったい、あなたは、俺に何をさせようとしているのだ!?
 この世界を―――どうしようとしているのだ? 人の住まうこの世界で………なにゆえ、神の力を示さねばならないのだ? この世界はとうに人の支えし世界となっているのだ。神の治めし世界では、もはやない。あなたほどそれを判っているひとはいないはずのに………
 ―――なぜなのだ、ミカエル!?

 答える声はない。曇天から降りゆくのは、静かなまでの白い雪の花びら。ちらり、ほらり、と舞い落ちる雪片は、神代の伸びやかな腕に、たくましい肩に、秀でた額に、静かに降り注ぐ。 軽やかな風が、たわむれるようにその雪片を吹き飛ばすが、それでもあとからあとから、雪が落ちてくる。
 街のあちらこちらから立ち上る蒸気にかき乱されながらも、その役目を淡々と果たそうとするかのように、音さえも吸い込んで雪は舞い降りてくる。
 ふうっ、と、大きく神代はため息をついた。わずかに肩をすくめ、静かに首を振り、神代は呟くように言った。

「―――まあいい。俺は、俺に与えられたことをしよう。眠れる大地を起こさず、熾を降ろさず―――見守ろう。
 あなたの愛するものを………かつて愛したものを………大切に、大切に見守ろう。
 それが、俺が出来る、あなたへの―――つぐない、なのだから………」

 ―――帝都に降る小雪が、次第に数を増していく。うっすらと、帝都が雪に覆われていく。
 すでに冬は、すぐそこまで迫ってきていた。




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