「はあ……さすがは、神崎重工やな」
小さく一つため息をついて、紅蘭はぐるりと周囲を見回した。作業着姿の船員が、急ぐでもなく、かといってのんびりしているわけでもなく、きびきびと働いている。 よく統制の取れた、無駄のない動き。どこかそれは、軍隊をも連想させた。
「それにしても――こう広いと、どこに何があるのか、わからないわね」
紅蘭の後ろから船倉内を見回して、マリアも呟くように言う。当惑した表情が、彼女の顔に広がっていた。
カフェを辞したマリアと紅蘭は、本来の目的である霊子水晶を求めて、横浜港の神崎重工の倉庫群のある場所に行った。
だが、肝心の霊子水晶はまだ船倉にあるらしく、作業員の一人が教えてくれた輸送船へと、彼女たちは乗り込んでいったのである。
船に乗るときにいろいろと悶着はあったが、マリアと紅蘭が帝撃のメンバーであることがわかると、船員達もそれ以上は追及しようとはしなかった。
だが、それでも船員達には、マリア達は部外者としか思えなかったらしい。案内役もつけず、勝手に探してくれ、といわんばかりにぞろぞろと彼女たちの周りから離れていってしまった。
おかげでマリア達は、まずは船倉を探して広々とした船内をあてどもなく歩くはめになり―――とりあえずは、船倉へとたどりついたわけだが。
まさか、これほど広いとは、考えもしなかった。
巨大な船体の、実に三分の二までを占める、巨大な船倉。積み荷はほとんどが蒸気機関、あるいは作業機械であり、人の背丈の数倍はあるコンテナが立ち並び、天井をクレーンが行き来している。
まさに、小さな工場の中のような光景に、紅蘭でさえもあっけにとられた表情になったものだった。
案内を乞おうにも、忙しげな船員達は、ほとんどマリア達に寄りつかない。どうにも避けられているようだった。
「――とりあえず、端から順に、見ていきましょうか?」
「でも、こないに広いと、時間ばかりかかってまうで? 何とかならへんやろか………」
マリアの提案に顔をしかめて紅蘭が答えたその時だった。
「――あれ、紅蘭じゃないか? ずいぶん久しぶりだね。元気そうでなによりだ」
突然。涼やかな声が、倉庫の入り口でぼうっと佇んでいた紅蘭とマリアにかけられた。柔らかく耳に優しく響く声に、紅蘭は眉を寄せた。怪訝そうに振り返る。
ふりむいた彼女たちの瞳に映ったのは、一人の青年だった。
年齢は、大神よりも一、二歳ぐらい上らしいが――その身にまとう雰囲気はひどく優しく朗らかで、むしろ大神よりも年下めいてみえる。整った眉目。二重瞼の、聡明そうな、やや青みがかった黒い瞳。秀麗な顔に、綺麗な微笑がたたえられている。背の丈は、マリアよりも低い。大神と同じが、それよりも小さめである。
だが、何よりも人目を引くのは、彼の――左腕、であった。着込んだ船員服の左袖が、力なく風に揺られている。均整の取れた体つきをしているだけに、そこだけが、妙に人目を引く。
そう。この青年は、左腕を失っているのだ。
「……あれま、久しぶりですな、風杜(かざもり)はん。どないしはったん、こないな場所で?」
紅蘭の顔が、驚きと嬉しさに輝いた。
「風杜――?」
駆け寄っていく紅蘭を、やや呆然としてマリアは見送った。だが、その聞き覚えのある名前に、ふと優美な眉を寄せた。記憶の中から、その名前を呼び起こす。 翡翠色の瞳が、ようやく探り当てた名前に、理解の色を浮かべた。
「もしかして、風杜 涼(かざもり・りょう)――風組隊長?」
「……あれ、マリアはん、知らんかったんかいな?」
ちょっと意外そうに、紅蘭は瞳を丸くした。そんな紅蘭を見下ろして、風杜は軽い苦笑めいた微笑を浮かべた。優しく、その残った右腕を伸ばして紅蘭の頭を撫でる。
「僕は風組だし、それに、花やしき支部にも、ほとんどいなかったからね。たぶん、風組のみんなも、僕のことは忘れているだろう」
「そういえば、そやったな」思い出すように腕を組んで、紅蘭も頷いた。「ウチも、風杜はん見たの、数えるほどやし。――いったい今まで、何してはったん?」
「まあ、いろいろと旅のようなものをしていたのさ」
穏やかな声。耳に心地よい、爽やかな声が、青年の唇から紡がれる。たとえどのように猜疑心の強いものであっても、彼の言葉を疑うことは考えられないだろう。
そしてまた、「いろいろと」とは具体的に何なのか、問いただそうとすることもないだろう。それほどに、奇妙に心にしっくりとなじむ、響きの良い声だった。
果たして紅蘭も、マリアでさえも、彼の言葉に疑問を持つことはなかった。彼のあやふやな答えを追及しようということも思い浮かばないまま、マリアは微笑を浮かべて、彼に軽く会釈した。
「初めまして。マリア・タチバナです。花組の副隊長をしています」
「初めまして、マリアさん。風杜 涼です。風組の隊長――たぶんもう解任されているでしょうが――をしていました」
柔らかな微笑。春風のような、笑顔。妙に引きつけられるものを感じて、マリアは思わず頬が熱くなるのを感じた。
意外そうに、そんな彼女を紅蘭は見つめる。かすかに、悪戯そうな笑みが紅蘭の口元に広がった。そっとマリアに近づいて、その耳元に囁きかける。
「……なんや、ひとめぼれしはったん、マリアはん?」
「な、なんてこと言うのよ、紅蘭っ!」
普段の彼女からは考えつかないくらいにひどくうろたえて、マリアは紅蘭を険しい視線で睨みつけた。幽玄な美貌が朱に染まる。愉快そうに紅蘭が笑い、小柄な身を翻してマリアから離れる。
かすかに、風杜が微笑を唇の端に浮かべた。瞳が優しく紅蘭とマリアを見比べ、和らいだ声で風杜は二人の少女に語りかけた。
「それで、君たちはいったい何しにここに来たのかな?」
「――あ、それや、それ!」紅蘭が思い出したようにぽんと手を打った。「あんな、風杜はん。ウチら、高純度の霊子水晶が入ったって聞いて、ここまで来たんや。どこにあるか、知ってはりますか?」
「ああ、それか」軽く頷いて、風杜は身を翻した。垂れ下がっていた左袖がゆうわりと波打つ。だが、それは奇妙なくらいに自然であり、彼が左腕を失っていることを、マリアも紅蘭もほとんど感じなかった。 「二人とも、ついてきて。こっちだよ」
「あ、はい」「おおきに」
隻腕の青年の後を、マリアと紅蘭は慌てて追っていった。いくつかの作業場を過ぎ、倉庫の片隅に積まれた貨物の間をすりぬける。 そして、小さな備品が整然と並べられた一角に来て、風杜は、右手で一つの箱を指し示した。
「確か、これだと思う。純度は98.92%。大きさは85×105×48。賢人機関がアメリカで手に入れたものらしい」
「そ、そないに大きいのに、純度が高いんですか? いやあ、見にきた甲斐があったわ」
紅蘭の顔が喜びに輝いた。嬉しそうにその箱を開ける。きっちりとすき間なく詰められた詰め物をどけ、大事そうにそっととりあげる。青みがかった、石版のような水晶。 透明な光がそこから溢れてきそうな感じのする、美しい水晶だった。
「こ、これやったら、大神はんの神武、今までよりもかなりパワーアップするでぇ!!」嬉しそうに顔をほころばせ、紅蘭は風杜を見た。 「な、なあ、風杜はん。ウチ、帝劇にこれを持っていきたいんやけど、かまへん?」
「僕に言われてもね。何せ、僕は部外者だから」
苦笑めいた表情で言われて、紅蘭は顔を真っ赤にした。
「あ、あいやあ。えらいすんまへん。ウチ、何か風杜はんが神崎重工の責任者のように思うてましたわ。かんにんな」
「ははは。よく間違われるけれどね」
たいして気にした風もなく、風杜は苦笑した。
「――そういえば、どうして風杜さんはこの船にいるのです?」
ふと疑問がわいて、マリアが訊ねた。紅蘭に言われてみるまで気づかなかったのが不思議だったが、それだけ風杜は、この船の空気になじんでいたのである。
この風杜という青年は、その場にいつのまにか自身をまぎれ込ませることを得意としているようだった。
問われた青年は、かすかに微笑して答えた。
「久しぶりに帝都に帰ってみようかと思ってね。ちょっと、便乗させてもらったんだ」
「いったい、どこにいたのですか?」
「世界のいろいろな所だよ、マリアさん。この船に乗ったのは、アメリカからだけれど」
「それじゃあ、帝劇にもどって来はるんですか、風杜はん?」
嬉しそうに紅蘭が言うのへ、風杜は頷いた。青みがかった瞳が優しく細められた。
「随分と帰ってないからね。米田支配人も、元気だろうか? それに、みんなも」
「みなはん、元気やで!」
悪戯そうに、紅蘭は瞳をきらめかせた。楽しそうな笑みが唇に浮かぶ。ちょっとメガネを直して、紅蘭は風杜の顔をのぞき込んだ。
「心配やったら、もうちいと腰を落ち着けたらどないや? 由里も、それに、かすみはんも、えろう心配してはったんやで!」
「かすみさんと由里さん、か……」微苦笑を浮かべて、風杜はそっと肩をすくめた。 「また、お説教を聞かされたり、怒られたり、雑用を頼まれたりするのかな。……どうも僕は、彼女たちが苦手だよ」
「まあ、由里はともかく、かすみはんはほんま心配してはったんやで? せやから、お説教ぐらいはちゃんと受けなはれ、風杜はん!」
「ああ、わかった」
仕方なさそうに風杜は頷いた。そして、紅蘭とマリアを促すようにして身を翻した。
「ついてきて。その霊子水晶を搬出する許可をもらってこなければいけないからね」
「あ、はいな!」
慌てて紅蘭とマリアは風杜の後について、船倉を出ていった。
それを見送る作業員の一人が、そっと、身を翻した。とあるコンテナの影に身を隠し、周囲を見回す。誰も見ていないことを確認して、作業員はコンテナの一部を取り外した。
中に設置されている蒸気演算機を何やら操作する。鍵盤を軽く叩き、何かを打ち込む。
やがて蒸気演算機の小さなディスプレイに、何やらメッセージが出力された。送信先の確認。それを見て、満足そうに作業員は頷いた。
その送信先は―――賢人機関、北米支部、となっていた。
帝撃の地下整備場。いつもならば霊子甲冑を修理、整備するときの騒音で満ちあふれているそこは、まるでおさげの少女の留守を悲しむかのように、沈黙に満ちていた。
整備台に並ぶ、色とりどりの霊子甲冑、神武。そのうちの一体、純白の神武は、今はその腰部から二つに分解され、ハンガーに固定されていた。
呪紋処理を施されたシルスウス鋼製の装甲は、腰部の接合部があらわになるようにはずされ、下半身へと霊力と蒸気力を伝えるパイプ、出力調整用の圧力調整弁、シリンダーがばらされて周囲に転がっている。
そして、神武の背面に、ぽっかりと空いた、すき間。霊力を集中させ、増幅させる、蒸気併用霊子増幅器が設置されるべき場所。そこには今は何もなく、ただ空虚な広がりがあるだけだった。
その背に抱える複合型霊子加速器も、腰部にある霊子増幅器に繋がる部分が完全にばらされ、神武の上半身、肩に乗りかかるように持ち上げられて固定されていた。
その、純白の神武の隣。通常であれば予備の整備台となっている場所に、それは立っていた。
緩やかな、曲線で構成された、機体。鋭い爪と、二連機銃を備えた両腕。下方にむけられて設置された複合型霊子加速器。頭部にはまる格子状の防眩窓の奥に、輝くレンズ。
重厚でありながら、どこか奇妙に人間的なフォルムを持つ、独特の機体。
神威・改。
それは、かつて聖魔城において帝国華撃團を心身ともに苦しめた、最強の魔操機兵だった。あでやかな、菖蒲色の機体。花組の全ての人々が敬愛していた女(ひと)の機体。
それは今、かつてのあるじの愛した場所に、端然と佇んでいた。
その神威に、ひとつの影が落ちた。逆立った髪の毛。端正な横顔。ひきしまった、伸びやかな長身。切れ長の、深みのある黒い瞳が、いくばくかの悲しみをこめて、その菖蒲色の神威を見上げた。
「……あやめさん。やはりあなたの神威にはこの俺が乗るのが一番なんでしょうね……」
苦笑を込めた言葉が呟かれる。だが、それに答える声が聞こえてきたことに、青年――大神は、振り向いた。
「残念だが、神威には俺が乗る。大神。お前は神武で我慢しろ」
「神代――」
切れ長の瞳が、鋭く細まった。険しい視線で、大神は神代を睨みつけた。
「お前、今、何て言った?」
「神威には俺が乗る。そう言ったんだ」
ゆっくりと歩を進め、整備場へと入ってきながら、神代は答えた。その口調には、恐れも驕りも、全くなかった。普段の彼の、あのふざけた口調ではなく、真剣な、何かを決意したかのような真摯さが込められた口調だった。
「そいつは、霊子甲冑とは違い過ぎる。大神。お前には、無理だ」
「お前――いったい、何者だ?」
眉を跳ね上げ、大神は神代に歩み寄った。端正な顔がひきしまる。黒い瞳が、鋭く切り込むように神代を睨みつけた。その全身から、緩やかに立ち上る、殺気。 軍人としての表情となって、ゆっくりと、大神は確かめるように声を出した。
「なぜ、お前が神威のことを知っている?」
「俺は俺。神代誠一郎だ。それ以外の何者でもないぜ?」かすかに苦笑めいたものが、神代の唇に宿った。 だが、その深い碧の瞳は真剣な光をたたえて、大神の強い視線に対していた。 「ただ―――そう、ただ、な。俺は、神威がどんなものか、知っているんだ。おそらく―――お前以上に」
「………」
すっ、と、大神は静かに一歩、神代へと足をすすめた。その長身にまといつくものは、静かな、霊気。切れ長の鋭い視線が、神代の顔をなぎ払う。 そして、その真一文字に引き結ばれた唇から、押し殺したような、低い声が漏れいでた。
「………それは、お前が、山崎真之介の関係者だからか?」
「………」
神代の碧の瞳が、軽く見開かれた。その眉が跳ね上がる。だが、すぐに表情を戻し、神代はまるで何でもないことのように答えた。
「――ああ、その通りだ」
「………」
ふと、かすかな微笑が、大神の口元に飾られた。切れ長の瞳が細まる。わずかに身にまとった霊気が薄らぐ。だが、それでも視線は弱めずに、大神は神代に確かめた。
「では、本当なのだな? お前が、山崎真之介―――彼の口添えで、士官学校にはいった、というのは?」
「………ああ。その通りだ」苦笑を浮かべて、神代は頷いた。「やはり………俺の経歴は、とうに調べ上げていたか」
「………」
無言で大神は頷いた。神代はやや表情に照れくさそうな笑いを浮かべた。
「まあ、俺だって、隠していたわけじゃねえからな。ちょいと調べりゃ、誰だってわかるさ」
「………あまり信じたくはなかったが、な」
眉を寄せて呟く大神から目をそらし、神代は、静かに佇む菖蒲色の神威を見つめた。
「俺が士官学校に入学できたのは――この霊子甲冑の設計を草案した、山崎真之介特務中尉の遺言によるものだ。 俺たちが士官学校に入学した年の、あの降魔戦争――あの折りに、山崎中尉は行方知れずになった。そして、山崎中尉は――」
「――葵叉丹として、いや、悪魔王サタンとして、復活」
「やはり、分かっていたのか」
かすかな苦笑をたたえて、神代は大神を見た。その碧色の瞳を見返して、大神は頷いた。
「あやめさんの日記を見たことがあって、な――風貌と年齢が奇妙に一致していた。もしかしたらそうではないかと考えてはいたのだが――それよりも、神代。お前、それも分かっていたのか? いったい、あの葵叉丹とは、お前はどういう関係なんだ?」
「ひとつ、訂正してくれ。俺は、葵叉丹ではなく山崎真之介と知り合いだった。だから、俺が知っているのは、山崎中尉だけだ。葵叉丹なぞ知らねえ」
「わかった。それで?」
「たいした話じゃあねえよ」
軽く苦笑して、神代は再び神武を振り仰いだ。その瞳が、懐かしそうな、だがひどく悲しそうな光を帯びた。
「俺のおふくろは、いわば好き者ってやつでな。まあ、良く言えば惚れっぽかったのかもしれねえけど、よ。
けっこういろんな男に恋をしちゃあ、手ひどくふられたり、あるいは金をふんだくられたりしていた。それでも懲りもせず、飽きもせず、いろいろと男を追っかけ回していた。
……そんなときに、山崎中尉――いや、当時はまだ、少尉になりたてだったかな?
ちょっとわかんねえが……とにかく、山崎真之介ってやつに会ってよ。べたべたにほれこんじまったのさ。ったく、息子と五、六歳しか違わねえってのに。
俺から見ても、あんときの山崎って男は、そりゃあいい男だった。外見だけじゃなく、男っぷりというか、中身までしっかりとしていた、いい奴だった。
自分の年齢もわきまえずに言い寄ってくるおふくろを、迷惑だったに違いねえのに、邪険にするわけでもなく、かといって情にほだされることもなく、大事にしてくれた。
俺にも、まるで兄貴みたいに、接してくれた。けっこう、嬉しかったもんだ。見てくれは日本人じゃねえこんな俺に、ほんとに親身になって接してくれた。
とはいっても、さすがにおふくろに褥に呼ばれたときは、頼むから逃がしてくれって、俺に助けを求めてきたけどな?
やっこさんには、お前も知っているだろう、藤枝あやめって別嬪さんもいたし、そこまでほだされちまったら、示しもつかなかったんだろうよ。
まあ、そんなこんなで、一年ぐらい、俺たちは山崎中尉とつき合ってたんだが―――そんな折りに、例の降魔戦争が始まった。
おふくろはまた捨てられたんだとか、戦場で死んでしまったんだとか嘆いて、そのうち気が狂って、結局新しい男を見つけることなく死んじまった。
まったく、ばかだよな。おふくろも。好きになった相手が軍人なら、覚悟ってやつを決めてなけりゃあならねえのに、よ――」
神代の瞳に、やるせないような、悲しみの影が落ちた。何のかんの言いつつも、彼が彼の母親を大事に思っていたのだ、母親を好きだったのだと、感じさせるような悲しい瞳だった。
「―――とにかく、そんなわけで、二、三カ月して山崎中尉がやってきたときには、おふくろはとっとと天国に行っていてよ。そんとき、あやめさんもいてな。
身寄りもなくぼけっとしてた俺に、やる気があるなら軍に入らないか、さすがに面倒は見れないが、推薦状ぐらいなら書いてやれるって言ってくれたんだ。
結局俺も、食いぶちに困っていたし、とりあえず飯が食えるなら、ってんで、お言葉に甘えちまった。
それからは、お前も知っての通りさ。降魔戦争の最後、山崎中尉は、行方不明。あやめさんの手で、その遺言状が公開され、俺はなんと士官学校に入学することになった。
ありがてえ話だったぜ。こんな俺を、士官学校なんかに入れてくれたんだから。―――浅草の落ちぶれた女郎の息子なんかを、よ。
俺は、とにかく山崎中尉やあやめさんに、恩を返したかった。必死で勉強もしたし、剣も銃も何もかも、必死で稽古した。南蛮人だとか後ろ指さされようが、構いはしなかった。
なのに―――情けねえよな。それでも結局、俺は教官を殴り飛ばして、とんずらしちまったんだから………恩人を裏切ってしまったんだから」
大神の脳裏に、神代が教官を殴り飛ばした、その経緯について友人たちに尋ね回ったときのことが思い起こされた。
(なんでも、組み手の最中だったらしい。やっこさんを敵視していた教官―――そう、あいつさ。あいつが、えらい気色悪い笑い声で、言ったんだ)
(―――中尉だかなんだかしらんが、よほど腑抜けの男だったのだろうな………)
(自分で囲っていた女の子供、それも、たいして自分と変わらないガキを、ほだされついでに学校に入れてやるなんて、よ。物好きというか、女好きというか)
(よほど、お前の母親の****が気に入ってたんだろう)
(それに―――なんだ? どうやら、他にも女がいたそうじゃないか?
しかも、その女も、自分の情夫の愛人を面倒みてやったっていうし………
女にうつつを抜かす腰抜け軍人と、頭の足りない尻軽女を、いったいお前はどうやってたぶらかしたんだ? 俺にも秘訣とやらを教えてくれないか、あん?)
「何て言われてもよかった――ただ、あれだけは許せなかった。俺の恩人を愚弄する言葉だけは………!!」
ぎりぎり、と、歯ぎしりする音が、大神の耳に届く。食いしばった口。強く猛々しい光を放つ、碧の瞳。
握られた拳がぶるぶると震え、その掌に爪が食い込んだのか、小さな赤い筋が一筋、ふた筋、流れ落ちる。
ぎゅっと固く瞳をつぶり、神代は、内心で爆発しかけた想いを圧し止めた。ひとつ大きく深呼吸して、再び、神代は大神を見た。
「神武――いや、霊子甲冑のことは、つれづれに山崎中尉から聞いていた。もしかしたら、中尉は俺を中尉と同じ道にすすめたかったのかもしれねえな。 そして、俺は聞いたことがある。神威――こいつについても」
「………」
「あのころはまだ、設計段階だったはずだ。神崎重工で開発、製造された霊子甲冑とは異なる進化をとげるべき、神の衣。
――そう。霊子甲冑、神衣(かむい)。 その試作機が、この神威なんだ」
「神衣――だって?」やや呆然とした様子で、大神は呟いた。「いったいお前は……」
「――言っておくが、俺だって、それ以上のことは知らないぜ?」かすかに苦笑を浮かべながら、神代は答えた。 「それに、山崎中尉は、構想だけを話してくれただけだ。実際にどのような設計をしようとしていたのかは、誰にも分からないんだ」
「………」
「――大神。山崎中尉とあやめさんの残したこの機体。こいつは、俺にとっても大切なものなんだ。だから、頼む。俺をこいつに乗せてくれ」
真摯な瞳を向けてくる神代を、大神は静かに見返した。端正な顔が曇り、そっと首が振られる。
「――気持ちは分かるが、お前には霊力がない。この神威を動かすことなど、できないだろう?」
「いや、できるんだ」
神代の瞳が、かすかに伏せられた。その右手が懐に伸ばされる。つかみ出されたのは、布きれに包み込まれた聖剣。七宝聖剣だった。
「こいつは、俺の霊力を、お前たちぐらいまで高めてくれる。俺が魔物を斬ることが出来るのは、こいつが俺の霊力を引き出せるからなんだ。 つまり――こいつを使えば、俺も霊子甲冑を動かすことが出来る」
「まさか――」とても信じられない、と言いたげに、大神は首を振った。「いくら聖剣でも、魔神器でもないものを……いや、待て! まさか………!!」
「能力的には、魔神器と同じだ。魔神器の剣――あれは、この聖剣と対になるものだからな」
すました顔で神代が頷くのを、大神は、険しい眼差しで見た。
「神代っ! いったいお前は、どこからこの剣を手に入れたんだっ!?」
「ある人から預かった。ただ、それだけだ」
そっけないほど簡潔に、神代はそれだけを告げた。米田に答えたのと同じ、言葉。だが、彼の過去を知った今、大神にもその「ある人」というのが誰なのか、うすうす感じることが出来た。 大神の顔に、懐かしさと悲しさが浮かび上がった。
「――あやめさん、か………」
「………」
沈黙でもって神代は答えた。否定も肯定もしない。だが、それだけで大神には、全てが納得できた気がした。
ひとつため息をついて、大神は神代の肩をたたいた。
「わかった。そこまで言うならば、神威はお前に譲る。だが――起動できることを証明しなければ、実戦には出さないからな」
「わかってるさ、大神」神代は、柔らかな微笑をたたえた。穏やかな、何かが取れたような顔。ひどく爽やかな微笑だった。「――そして、ありがとう、大神」
「ああ………」
大神は頷いた。だが、ふと何かを思い出したかのように首をかしげ―――神代を不審そうに見上げた。
「―――ところで、神代。お前、確か今日は引っ越しの準備とかでここにはこれないはずだったんじゃなかったか?」
「あ?」神代の顔がやや呆け、ついで、妙に慌てた様子で手を振った。「あ、い、いや、なんだ、その―――いくつか、小さなものだけ運ぼうと思ってな。来てみたんだが………」
あからさまに怪しい素振りである。考え込むように大神は首をかしげたが、ふと何かに気づいた様子で、疑り深そうに半眼で神代を睨め付けた。
「おまえ、まさか―――」
「―――あら、こんなところにいらしたのですか? お・お・が・み・さん?」
穏やかな、だが、どことなく剣呑な雰囲気を合わせ持った声が聞こえ、ぎくり、と大神は身を震わせた。 端正な顔がさあっと青ざめる。冷や汗を滝のように流しながら、大神はゆっくりと振り向いた。その唇から、震えるような声が出た。
「………や、やあ、かすみくん………い、いや、ちょっと、神威を見てみたくなって、だな………」
「まあ、そうですか」
整備場の入り口。藤色の着物をしとやかに着込んだかすみは、穏やかで優しい微笑を浮かべた。だが、その瞳はまったく笑っていない。射るような鋭い殺気を放って、大神を心胆寒からしめる。 明るい紅の唇が、咲きほころぶように開かれた。静かな声が流れた。
「それで、お気は済みましたか? ―――では、事務室に戻って下さいね。やっていただかなければならない仕事は、まだまだ限りなくありますから」
そして優雅に小首を傾げ、大神の後ろでこそこそっと逃げようとする金赤色の髪の青年を見つめる。
「まあ、神代さん。お引っ越しの準備はよろしいんですか? 帝劇に来ている暇もないということでしたのに………どうしたんです? まるで逃げるようですね?」
「ま、まさかっ! い、いや、そんなことはしねえよ!」あはははっ、と、ひきつった笑いを浮かべながら、神代はぶんぶんと首を振った。 「か、かすみちゃんみたいな美人から逃げるだなんて、そ、そんな、なあ、大神?」
「………ど、同意を求められてもこまるぞ、神代」
こちらも強ばった笑みを浮かべたままで大神は答えた。
そんな二人の青年を見比べて、事務室の女神は極上の微笑を浮かべた。
「では、大神さんははやく事務室に戻って下さいね。そして、神代さん………」スッと、すべるように神代に近づいたかすみは、にっこり、と微笑んだ。 「ずいぶん早く、お引っ越しの準備が終わったようですね? 事務室でお茶を入れますから、ゆっくりしていってくださいね?」
………仕事も、山のようにありますから―――
大神には、そのかすみの言葉に続くであろう言葉が、まるで実際にその美しい唇から流れ出たかのように聞こえた。
美しい女神に捕まった二人の青年が、観念した様子で整備場を後にしたのは、それから間もなくのことだった―――
――闇が、その洞穴の中に巣くっていた。じめじめとした壁にへばりついたコケがかすかな青白い光をぼうっと浮き上がらせる。
ぽたり、ぽたり、と天井から滴り落ちるしずくが、ぬめりとした地面のくぼみに、かすかな音を立ててはじける。
むぅっとするようなひどい湿気とともに、何か腐ったような、気分が悪くなりそうな悪臭が漂う。そして、その臭いの漂い来るほうへと目を向ければ、そこには、奇妙なものが横たわっていた。
やや奥まった洞穴の奥。まるで空間がよじれたように揺らめく壁。脈動するように、ごぼり、ごぼり、と泡立つたまり水。そして、まるで祭壇のように盛り上がった場所に、それは横たわっていた。
骨が浮き出、ぼろぼろに破れた皮膚。縦横に走る皺。黒ずみゆがんだ、老人。縮れ乱れた白髪は、もはやほんのかすかに頭部に残っているばかり。
ひび割れた唇が、かすかに震えているのが、それでもまだ彼が生きていることを示していた。
だが――眼窩にはめ込まれていたものは、とうの昔に溶け落ちたのか、ぽっかりとした空洞を見せており、その腹部――正視に耐え難いほどに奇怪で醜悪な禍玉(まがたま)は、赤黒く鈍い光を見せてはいたが、かつてのように蠢くことも何もしなかった。
とぐろを巻いた金色の竜も、まるで深い眠りについているかのように首を垂れ、その瞳を伏せていた。
「――そろそろ、限界かしら?」
蔑み切った女の声が、洞穴にかすかに響き渡った。何もない空間に、黒い染みのようなものが現れ、広がる。浮き出るように白い顔、そして、なまめかしい白い腕が伸ばされる。 黒い染みをドレスのようにまとった、黒髪の美女。ふくよかな、だが、どこまでも妖しくみだらな、見るものを欲情させるような、女の姿。血に塗られたように鈍く輝く、赤の唇が、嘲笑を浮かべた。
「天海僧正――かつて、徳川の時代を裏から操った、黒衣の宰相――」ぞくり、とするほどになまめかしくも妖しい声で、女――黒水は呟いた。 「サタン様の反魂の術も、もう限界のようね………まあ、いい。わらわ――いえ、私の愛しいお方、あの方を地獄から呼び起こすための血、魂、霊力は、徐々に集まりつつある。 もう、必ずしもお前が必要、というわけではないのだから……」
「………」
いらえはない。ひからびた老人は、もはや声をしぼり出すことも、その顔に苦悶の表情を浮かべることさえも、できそうになかった。ただ、その腹の上に載せられた禍玉のみが、かすかに輝きを増した。 金色の竜がすぐに瞳を開き、ちろちろと赤い舌を出す。わずかにあがった霊気、その生命力のほんのかけらさえも、その禍玉は、容赦なく奪った。立ち上るように力が吸い込まれ、老人の表面に、黒ずんだ死の先触れが広がる。
「けれど、お前とて無念であろう? あの、帝国華撃團に痛い目を見させることもなく地獄へと戻るのは」
赤い唇は、娯しげに微笑を浮かべた。
「そうだねぇ………最後の贄を捧げるとき、まだお前が生きていれば―――考えておきましょうか」
「………」
「それまではそうして、残り少ない力――サタン様から頂いた力を、私に与え続けるのだね」
横たわる天海からは、何も返らない。黒水はつややかな黒髪をそのしっとりとした白い手で梳いた。
ふと、黒水は何かを見つけたかのように、その小さなおとがいをあげた。赤い、濡れた唇が、やにわに大きくひきゆがんだ。暗く妖しく、ひどくゆがんだ愉悦に満ちた微笑が、そのあでやかな口元を飾った。
ククク……と、黒水は、娯しげに笑い声を漏らした。そして、こらえ切れないように、その白いのどもあらわにのけぞって、黒水は高らかに、笑声を発した。
「――いいざま。いいざまじゃっ! そう、もっとやっておしまい、魔風! その――魔性のものを、もっといたぶっておやりっ!!」
高らかな、そしてどこか調子の外れたような、狂気に満ちた笑声だった。その口から漏れる言葉は、まぎれもない毒をはらみ、怨念をはらんでいた。
呪い、憎しみ、侮蔑………ありとあらゆる負の感情のこめられた、暗く、どこまでも厭わしい笑声―――
そしてそれはなぜか、古風な………奇妙に古めかしい言葉づかいになっていた。
天海に対していたときとは異なる―――まるで、今その瞬間、何百年も昔へと時間が戻ってしまったかのような………そして、それこそが彼女本来の時であるかのような、奇妙な違和感。それが、黒水を支配していた。
狂声が、響きわたる。黒い髪をふりみだし、黒水は哄笑し続ける。まるでそれが、彼女の全てであるかのように。
ありとあらゆる憎悪、怨嗟、そしてまぎれもない怒りと侮蔑の混じった、笑声。心に刻み込んだ復讐を、いまこそ叶えたかのような、暗い満足感に満ちた、笑声。
その声は、洞穴の中をいんいんと響き渡り、共鳴し、そして耳を塞ぎたくなるほどに狂った調子を伴って、どこまでも流れていった。
「………おやおや。気を失ってしまったか」
――にやにやと見やりつつ、男は、ゆっくりとその身を起こした。
やせぎすの、ミイラのような、骨と皮ばかりの体。耳障りな、不快な嘲笑。薄黒く汚れた、ぼろぼろの布きれを身にまとい、男は静かに立ち上がる。
その黒い眼窩が、褥に横たわった小さな白い裸体を見下ろした。皮肉げな嘲笑が、その唇に浮かんだ。
「――これで、俺の力は倍増した」満足げに、男は笑った。「お前を抱けば、お前の力のひとかけらが手に入る。こんな簡単なことを、なぜ陸邪も、黒水もしないのだろうな?」
男の、きしむような声に、答えるものはない。ひどく穢らわしい笑いを浮かべて、男――魔風は、身を翻した。黒く、濁った、不潔で不快な風が吹く。
「さて。では行くとしようか。帝国華撃團――俺を喜ばせるぐらいの相手であればいいが……」
あざけるような笑いをもらし、魔風は、軽く身をひねった。巻き起こる不快な風に身を溶け込ませる。けたけたと、耳障りな笑声を残して、魔風の姿はいずこへかと消えうせた。
後に残るのは、しとげなく横たわる、白い体。なまめかしく淫美な、美しい少女の肢体。
黒くわだかまる闇の中。その白い体は、まるでそこだけが浮かび上がるように、美しい輝きを放っていた。ほっそりとした手足をだらりと力なく伸ばし、その美しくもどこかひどく蠱惑的な肢体を黒い闇にあらわにしている。
その小さな右肩に、そこだけ異常なほどに目立つ切り傷があった。古傷なのか、薄桃色の肉が盛り上がり、ほとんどふさがってはいるものの、その滑らかで美しい曲線を描く瑞々しい肢体のそこだけが異様に目立った。
その傷が原因ではないのだろうが――少女の息づかいは、苦しげであり、胸を疼かせるような熱を帯びていた。かすかに小さな頭が動く。
黒い絹糸のような美しい髪が、その少女特有の固さの残る体にばらけ、なまめかしい少女の裸体を申し訳程度に覆っている。
その黒髪の中に埋もれるような小さな貌。長い濃いまつげが震え、その薔薇色の可憐な唇が、かすかにゆがんだ。
苦しそうな、しかし、どこかひどくなまめかしくも妖しげな吐息がその可憐な唇から漏れる。
そして。
いきなり少女は、その瞳を開いた。透き通るような美しい薄茶色の瞳が、烏の濡れ羽色の髪の合間から、強い輝きをはなった。そのとたん、彼女の白い肢体が、瞬時にかき消えた。
人間、というよりもほとんど獣じみた凄じい跳躍力で、寝床から数メートル離れた場所に降り立つ。四肢を突っぱね、かるく前傾を取って、少女は薄茶色の瞳を輝かせた。
フゥ………といううなり声が、その可憐な唇からほとばしる。それに答えるように、かすかに、苦笑のようなものがその空間に広がった。
『………どうも、脅かしてしまったようですね』
もの柔らかな美声が、たゆたった。陸太郎の声だった。
『それほど警戒しないで。四葉。あなたをどうこうしようという気は、私にはありません』丁寧な口調で、陸太郎は続けた。 『私は、魔風とは違う――よく、ご存じでしょう? あなたが、私を、私たちをこのような姿にしたのだから』
「………」
少女――四葉は答えない。その薄茶色の瞳は警戒心をあらわに、周囲を睨みつける。どきりとするほどに艶めかしい肢体がぶるぶると震え、獣のようにいつでも襲いかかれるように全身を緊張させる。
『………やれやれ。そこまで怯えなくてもいいでしょうに』陸太郎の声が、嘆息をともなって流れた。 『私は肉体を持たない。魔風――あの、神の力を盗みしもののように――あなたの体を慰み弄ぶことは、できはしないのですよ?―――もっとも、たとえ肉体を持っていたとしても、私はあなたを抱く気は全くありませんが、ね』
「………」
それでも四葉は警戒心を解かなかった。唸り声はひそめられたが、探るように、その薄茶色の瞳が中空を見やる。かすかに首がかしげられ、美しい黒紗の髪が流れ落ちた。
『まあいい。あなたが私たちに心を開くことはないのは、よく承知していますから。――ですから、ただ、あなたは聞いていてくださるだけで構いません。これから私が言うことを』
「………」
少女の顔に、不審そうな表情が現れる。じっと体を固くして、少女は言葉を促すように、かすかにあごをしゃくった。
かすかに苦笑が混じった声で、陸太郎は続けた。
『実は、ひとつ確かめてもらいたいことがありまして―――』
………ただれた風が、小路に渦を巻いた。踏み固められた土を巻き上げ、埃を舞い散らせる。空から舞い落ちる小雪が、うす汚れた風に、悲鳴を上げてその白い衣を剥ぎ取られる。
路にうっすらと薄化粧を施したものも、嘲笑とともに渦巻く風に、またたくまに濁った泥へと変わっていく。車のつけたわだちの間に転がり落とされ、抵抗することもできずに蹂躙される。
その小路は、うす汚れた感のある風に思うがままに荒らされていた。けして汚い通りではないはずなのに、すえたような悪臭、あるいはひどく穢れた、それを吸うだけで何らかの病に冒されそうなほどに毒々しい風が渦巻く。
その路に一歩足を運んだだけで、気分が悪くなり、どれほど急いでいる者でもそれ以上その路を進もうという決心を鈍らせるに相違ない、瘴気の漂う小路。
非常に不快な風が、そこにはあった。
「………ク、クククク………」風の間に間に、かすかに、嘲笑が混じる。耳障りなほど、不快な嘲笑。 「さて………これで結界は完成した………あとは、やつらを呼び寄せるための餌を巻けばいい………」
ざわり、と、空気の一部が、揺れ動いた。薄黒く汚れた空気が、不意に密度を濃くする。穢れた、ぼろぼろの布きれが最初にあらわれ、やがてその内側に、骸骨のように肉片を一切まとわない、ひからびた人間が浮かび上がった。
「さあて、どれほど俺を悦しませてもらえるかな、帝國華撃團。せめて、一時なりとも、退屈をまぎらわせてもらえる相手ならばよいが」
落ちくぼんだ眼窩にはめこまれた、瞳のように黒ぐろとした勾玉。かすかに開いた口の中に、何やら小さな虫のようなものが、ざわり、ざわりと蠢く。
ゆっくりと、その男――魔風は首を巡らせた。その、見るからにひからび、骨と皮だけになったミイラとしか思えないような顔が、勾玉の瞳をかすかに動かした。
その視線の先に建つ、数棟の建物群。やや汚れた白い壁、無機的な四角い建築物。並んだ小さな窓の奥で、なにやら人影が行き交う。かすかに漂うメタノールの匂い。
魔風のミイラのような顔が、ゆがんだ喜悦にひきゆがんだ。
「――まあ、適当と言えば、適当だな。帝國華撃團、この場所に巣くうあれらを餌にしたときに、やつらがいったいどう出るか。面白そうだ………」
ふうっ、と、魔風はまた、空気の中へとその身を溶け込ませた。ただれた風が、再び戯れに小路の雪を穢れさせ、そして、その建物へと向かって吹き過ぎていった。
ちらり、ちらり、と舞い落ちる雪が、ようやくほっとしたように、純白の美しい色に小路を染め上げていく。そのいくつかは、それらの建物にも舞い落ち、広い敷地をも覆いつくそうとする。
だが、不思議なことに、その敷地の一部には、小雪は決して降り積もろうとはしなかった。まるで、決して触れてはならない、禁忌の場であるかのように。何かひどく禍々しいものがそこに巣くっているかのように。
雪は積もる、その穢れたような場所を巧みによけて。
そしてやがて黒ぐろと土が露出した部分と、白の雪に覆われた部分とが、ひとつの形を形づくった。
魔の五芒星を―――