耳を聾せんばかりの凄じい大声が、帝劇全体を揺るがせた。 ほとんど金切り声に近いその悲鳴じみた声に、サロンで優雅に紅茶を飲んでいたすみれは、思わずのどをつまらせた。 げほっ、げほっと、むせ返る。同様に紅茶を飲もうとして、その口元寸前であやうく難を逃れたさくらが、慌てた様子でティーカップを置き、すみれに駆け寄った。その小さな背中をさすってあげる。
「だ、大丈夫ですかっ、すみれさん!?」
「………だ……ゴホッ……大丈夫、ですわ……ゴホッ……」
「――ほれ、すみれ」
やれやれ、といった感じでカンナがタオルを差し出す。それを小さな口元に当てて、しばらくすみれは咳込んでいたが、ようやく一通りおさまって、繊細な貌をあげた。
「助かりましたわ、カンナさん」軽く頬を赤らめて、すみれはタオルを丁寧にたたんだ。だが、ふと小さく眉をひそめ、顔をしかめる。 「ですけど、一言言わせてもらえれば、このタオル、とおっっても、汗クサくて汚いですわよっ!?」
その台詞に、カンナの顔も強ばった。
「なんだと、てめえっ! 人が親切にタオル貸してやったんだろうがっ! だいたい、あたいはさっき地下で空手の稽古をしてきたばかりなんだ。汗臭くて当然だろうがっ!?」
「これだから野蛮人は嫌いですわ」美麗な顔を険しくして、すみれはカンナを睨みつけた。 「女子たるもの、稽古のあとはシャワーを浴びて身だしなみを整える。そのぐらい当然ではありませんこと? まったく、女としての自覚がないかたは、これだから………」
「るせーっ! あたいだってそのぐらいやってらあ! そのタオルだって、あとで洗濯しようとしてたんだ!」
「………んまあっ!! で、では、お洗濯なさる前の、汚いものをわたくしに渡したんですのっ!?」
ひきっ、とすみれの顔がひきつった。
「わ、わたくしの、こ、この、美しい貌を………こんなもので………!!」
「他になかったんだから仕方ねえだろ?」
「だからといって、だからといって………! んもう、許せませんわっ!!」
「なんだ? あたいとやるってか?」
たちまちのうちに剣呑な雰囲気になる二人。さくらは軽くため息をついた。
止める気にもなれず、割られないようにとそっとティーセットを片づける。この二人の喧嘩は、それこそ日常茶飯事なのだ。
そして、これがこの二人にとってはいいスキンシップとなっているのだから………その場に居合わせたものにとっては、迷惑以外のなにものでもない。止めるなんて、ばかばかしいことなのだった。
だが、今回はそんな日常の光景を呆然と見守っているわけにはいかなかった。邪魔にならないようにテーブルの片隅にティーセットを片づけて、さくらはため息混じりに二人に声をかけた。
「―――仲がいいのは構わないんですけど。それよりさっきの声のことが気になります。見に行ったほうがいいんじゃありませんか?」
「「誰が仲がいい(んだっ)(ですってっ)!?」」
見事に声を一致させ、それこそ鏡でも見ているかのように同時にさくらを振り向くカンナとすみれ。さくらは思わず額にほっそりした指をあてた。
(なんだか、大神さんとかマリアさんの苦労が分かる気がする………)
事務室で書類に埋もれている大神。紅蘭と共に横浜へ行っているマリア。この二人がいないと、彼女たちを止めるものはさくらしかいないのである。 ちなみにアイリスは、お昼寝の最中。あの大声にも反応しないでいるところを見ると、よほど深い眠りについているようだった。
「………とにかく、あの声は気になります。あたし、行ってみますけど」
剣呑な二対の視線に耐え切れずに顔をそらし、ソファから立ち上がって、さくらは答えを待たずにサロンから出ていこうとした。 それを見て、カンナとすみれも顔を見合わせた。
「……確かに、気になるよな?」
「……まあ、カンナさんのドラ声ほどには、わたくしは気になりませんけど?」
「――おめえ、いつかぶっとばすっ!」
「お相手さしあげてもよろしいですわよ?」
再びにらみ合う二人。明るい紫水晶の瞳と、澄んだ茶色の瞳から放たれる視線がぶつかりあう。だが、サロンのドアが閉まる音に、はっとなってさくらの後を追いかけ始めた。
「てめえとの決着は後回しだ。――まてよ、さくら!」
「その点に関しては、わたくしも異存はありませんわ。―――お待ちなさい、さくらさんっ!」
なにはともあれ、非常によく似たものどうしであるカンナとすみれだった………
「………い、いったい、何なんですか!?」
帝劇の玄関ホール。
いきなり耳元で叫ばれて、椿は思わず小さな手を耳にあて、しゃがみこんだ。頭の中に、強烈な大声が、まだ響き渡っている。幼い顔をしかめて、椿は傍らに立っていた女性を見上げた。
赤いモダンな洋装にその見事なプロポーションを包み込んだ女性。小作りの美貌に、明らかに動揺と狼狽が宿っている。ちいさな唇がぽかんと開かれ、その快活な栗色の瞳は、帝劇の玄関に向けられたまま微動だにしない。
丁寧に梳かしこんだ栗色の髪の上にのっていた赤い帽子が、わずかにずれ、床へと落ちていった。
「………ど、どうしたんですか、由里さん?」
これほどに驚いた彼女を見たことは、椿にはなかった。明るく闊達で、朗らかな微笑が浮かぶその顔がひきつり、その完璧なまでに女性的なラインを描く全身が硬直している。
あの、ミカサからの脱出のときでさえも、彼女は全く動じてはいなかったのに………
小さく首をかしげて、椿は、とりあえず床に落ちた帽子をとりあげようと手を伸ばした。だが、彼女よりも早く、他の手がその帽子をとりあげていた。
視界に、だらりと垂れ下がった片袖が見える。顔を上げた椿を、その手の持ち主の優しく明るい瞳が見つめてきた。
「――僕の方が早かったみたいだね?」
小さな笑みがこぼれる。ふりかかるように流れてくる、柔らかな声。思わず茶色い瞳を丸くした椿を軽く苦笑しながら一瞥したあと、青年は、赤い帽子をそっと、その持ち主の頭へと丁寧にかぶせた。 その青みがかった黒い瞳が、柔らかな光をたたえた。
「だめじゃないか。君の大切なものなのだろう、これは?」
穏やかな声が、紡ぎ出される。その声に、ようやくはっ、と、由里は我に返った。ほとんど飛びすさるように、青年のそばから離れる。 その顔が、かすかに赤らみ、ついで、栗色の瞳が怒りに染まった。
「大きなお世話ですっ、隊長!」
「た………隊長?」
思わずぽかん、と口を開け、椿は、隊長と呼ばれた青年を見上げた。やや茶色がかった黒い髪。聡明そうな二重の瞳。整った、秀麗な顔だち。 そしてその、だらりと垂れ下がった、左そで。
(どこかで、見たような………)
小首を傾げて、椿は、おそるおそる青年に尋ねかけた。
「あの、すみません………どなた、でしたっけ?」
「………」
奇妙な沈黙が、しばし帝劇の玄関ホールにたれ込めた。由里の顔がやや強ばる。だが、予想に反して青年の微笑は変わらない。 たれ込めた沈黙を破って、あきれたような声が、椿の耳にとどいた。
「――何や、椿はんも、忘れてもうたんかいな?」
「……あ、紅蘭さん。それにマリアさんまで。お帰りなさい!」明るい笑顔で、椿は玄関に現れた二人の女性に挨拶した。 そして、何気ない様子で、そばに立つ青年を指さす。「それより、紅蘭さんはご存じなんですか、このかた?」
「存じるもなにも………」眉を寄せ、ため息混じりに紅蘭は椿の質問に答えた。「あんたら風組の、隊長やないの?――風杜 涼はんや」
「え………?」
椿の小さな口元が、丸く開いた。大きく円らな瞳が、青年をまじまじと見つめる。そして、その幼い顔が、見事なくらいに真っ赤に染まった。
「あ、あ、ああーーーっ!!」
由里ほどではないが、大きな声がほとばしった。慌てふためいて、椿は、ぺこり、と頭を下げた。あまりの羞恥に声が震えた。
「ご、ごごごごめんなさいっっ!! 私、私―――!!」
「いや、いいんだよ、椿さん」あいも変わらず優しい微笑をたたえて、風杜は答えた。 「確か―――君が配属されてから、一回だけしか会ったことはないから。正直言えば、僕も忘れていたんだ。お互い様だよ」
「で、でも、よりによって隊長さんの顔を忘れるなんて――!」
「いいのよ、椿ちゃん! あたしたちのことを放ったらかしにしてたんだから、この人は!」
険しい表情を浮かべて由里が言った。その栗色の瞳が、激しい怒りを込めて風杜に向けられた。
「この二年ばかり、ほんと、大変だったんですからねっ! いったい今まで、何してたんです?」
「君たちには迷惑をかけて、すまない、と思っているよ」青年の顔が、ややかき曇った。 「言い訳はしない。本当にすまなかった」
「………全く、その通りですね」
静かな声が、由里のかわりに答えた。なおも言いつのろうとした由里は、その声にますます美しい顔をしかめた。黙ってその身をひるがえし、道を譲る。 それによって開かれた視界に端然と佇んでいたのは、藤色の着物姿の、美しい女性だった。
「かすみさん―――」
風杜の顔に、すまなさそうな表情が浮かんだ。整った眉がひそめられ、微笑をたたえていた口元がひきしまる。
その秀麗な顔を見返すかすみの穏やかな、柔らかな美貌は、まるで蝋で固められたかのように青ざめ、強ばっていた。
薄墨色の髪のひと房が覆う黒目がちの瞳に、静かで、穏やかな、だが、例えようもないほどの哀しみが揺れ動く。
「よく、お戻りになられましたね……風杜隊長。ご無事でなによりです」
静かで優しい、だが、どことなく空虚な声。すっ、と、優雅に近づくかすみに、風杜は、困ったような視線を向けた。
「あの………かすみさん?」
瞬間―――
バシィィィッッッ!!
思わず目をつぶって顔を背けたくなるような鋭い音が轟いた。紅蘭とマリア、そして椿の顔が、痛そうにしかめられる。
由里だけはやや眉をひそめつつも、当然とばかりにじっとそれを見守っていた。
見事なほどにくっきりと、青年の頬に、赤い手形がついていた。わずかに身をのけぞらせつつも青年は、黙ってかすみの平手打ちを、よけようともせずに受け止めた。
その青みがかった黒い瞳が、つらそうに、かすみに向けられた。
「………ひどいひとです、あなたは。―――隊長失格ですっ!!」
かすみの唇から、糾弾の声がほとばしる。由里以上に激しい怒りと、そしてどこか切ないほどに悲しい瞳が、風杜に向けられた。
「風組のみんなを………置き去りにするなんて………」
「悪かったと思っているよ、かすみさん………」
そっと、風杜は、右腕を伸ばしてかすみの髪に手を触れた。優しく、いたわるようにその髪を撫でる。黒い瞳が、気遣わしげに細められた。
「随分、心配と苦労をかけてしまったみたいだ。………ごめん、かすみさん」
「涼さん―――!!」
かすみの瞳が潤んだ。美しい透明な雫を散らせながら、かすみは青年の胸の中へと飛び込んだ。小さな唇が苦しげに開かれ、胸を突かれるような泣き声が漏れ出でた。 青年の残された右腕が、優しく、そのしとやかな女性の体を引き寄せる。薄墨色の髪に顔をうずめ、静かに、風杜は囁いた。
「大丈夫―――もう、心配かけたりしないから………君を置いていったり、しないから」
「………涼………さん………」
そっと、風杜はかすみの白い頬に手をあてた。その滑らかな肌を愛おしげに指でなぞり、その小さなおとがいを軽く上向かせる。
そして、潤んだ麗しい瞳をみながら、とても静かに、柔らかく小さな赤い唇に、優しくその唇を寄せた。
かすみの瞳から、きれいな雫が流れ、鮮やかな朱に染まった白い肌を伝い落ちていく。とても幸せそうに、かすみは瞳を閉じた。
軽く二、三回、つまびくように唇を吸った後、改めて二人は唇を重ねた。ほっそりとした白い腕が、青年の首に柔らかく絡む。優しく右腕が、その女性らしい腰を抱き寄せる。
そして、癒されない渇きをそれによってようやく潤せるというかのように、互いをおのれの中に呑み込もうとするかのように………求め合う唇が絡み合った。
「………!!」
声にならないどよめきが、その場に居合わせた他の少女たちの間に漂った。
顔を真っ赤にして、マリア、紅蘭、椿がぼうっと見つめる。由里だけがやや痛ましそうに、けれどどこかうらやましそうに頬を赤らめて見守っている。
そして―――ロビーに降りる階段でも、ちょうどいい所に間に合った少女たちが、同じく顔を真っ赤にしてぼうっとした表情で、その光景を見つめていた。
「………す、すごい。凄すぎるわ………」
「わ、わたくしも………少尉に、あんなこと、されてみたいですわ………」
「あ、あたい………おかしくなりそう………」
思わず自分の唇に指をあてる。まるでそこに、想い人の唇がそっと重ねられているかのように、くらくらっ、としびれるような甘い疼きが湧き起こる。 へたへたっ、と、腰が抜けたように座り込んで、階段の手すり越しに少女たちはそのラヴシーンを見つめていた。
いっぽう、階下。食堂に通じる廊下でも―――
「――ほう、ディープ・キスか。ずいぶんと舌使いがうまいな、二人とも。手慣れてるぜ、ありゃあ」
「………こ、神代、お、お前、なななんてことをっ! だいたい、かすみくんがそんなことをするわけが………!」
「ほう?………大神、お前、かすみくんが好きだったってえのかい? さくらが泣くぜえ?」
「し、支配人――違いますってばっ!!」
帝劇の男連中が、息をひそめて見つめていたりしたのだった。
そして―――
実に長い時間が、経過したように思えたが、それはほんの数秒のことに過ぎなかった。美貌をほてらせたかすみが名残惜しげに風杜から離れる。 その瞳が潤み、含羞んだ様子でかすかにうつむく。愛しげに優しく、もう一度軽く抱きしめて、風杜は柔らかな視線を周囲に投げかけた。
「せめて、見ないふりをしていてほしかったけれど」
「涼――か、風杜さんっ!」狼狽と恥じらいを浮かべて、かすみは慌てた様子で身を翻した。 「あ……あとで、事務室にいらして下さい。あなたのするべき仕事は、山ほどたまってるんですからっ!!」
言い置いて、そそくさ、とロビーから離れる。当然、ばったりと、廊下にたむろした男連中に出くわした。 その穏やかな美貌が、ぱあっと鮮やかな朱に染まった。
「な、ななななにをしてらっしゃるんですかっ!?」
「………い、いや、別に………」
しどろもどろに、律義に答える大神。その間に、いつの間にか米田と神代が姿をくらましていた。そのことに気づいて、大神は情けないほど慌てふためいた。
(こ、神代も支配人も………俺を見捨てたなっ!!)
とにかくその場を切り抜けなければならない。大神は、あたふたと手を振りながら、後ろへと下がっていった。
「だ、大丈夫! 俺も支配人も神代も、誰も何も見てないからっ!!」
見事なくらいに抜けた返答である。かすみの美貌が、羞恥と怒りに染まった。
「………最低ですっ、大神さんっ!!」ぷん、と顔を背けて、かすみは流れるような動作で事務室へと向かった。「まだ書類はいーっっっぱい残っていますからっ! 早く仕事をしてくれないとっ! 徹夜させますよっっっ!!」
「………何で俺だけ?」
思わず天井を仰ぎ見て、大神は脱力したように呟いた。
その背後に、ひそやかに忍び寄った影があった。
「……ねえ、大神さん?」
そっとかけられた声に、大神は思わず跳び上がった。周章狼狽、という言葉を見事にあらわしながら、大神は振り向いた。
「い、いや、違うんだ、さくらくんっ!!」
なぜか反射的に否定する大神だったが、さくらは全く追及しようとはしなかった。ハシバミ色の瞳が、ぼうっと潤んで大神を見上げた。
「あの……あたし……なんだか……」
(げっ!?)
大神の顔がひきつる。潤んだ円らな瞳。赤い小さな唇が、甘やかな吐息をもらす。きめの細かな肌がやわらかな桜色に染まり、馨しい女気が包み込む。
もどかしげに細い指が組まれた小さな手。桜色の小袖の襟元。
漂う尋常ならざる魅惑的な雰囲気に、さすがの大神も、甘い罠に捕らえられたあわれな獲物に成り下がるしかなかった。
ごくり、と、唾を呑み込む。そろそろと伸ばされた腕が、小柄な体に触れようとした、その時。
「あーっ! さっくらさんっ! 抜け駆けは許しませんわよっ!!」
甲高い悲鳴のような声が、誘惑の雰囲気をぶち破った。ちっ、と、残念そうな顔になるさくらをおしのけるようにして殺到する、少女たち。
「ああん、しょういぃーっ! わたくし、我慢できませんのう!」
「おい、すみれっ! てめえ、なに分けのわかんねえこと言ってんだっ! ………なあ、隊長、あたいと今夜、夕食を一緒に………」
「隊長っ! わ、私、折入ってお話があるんですが………っ!!」
「な、なあ、大神はんっ! やっぱ、ウチ、もう我慢できんのやっ! 一度だけでええから………ウチと、な?」
「げっ、す、すみれくんに、カンナに、マリア………紅蘭までっ!!」もみくちゃにされながら、大神は、思わず天を見上げて嘆いた。「なんで俺ばっかり、こんな目に会うんだあっ!?」
「―――先を越されちゃった………」
売店の中。さすがに商品を乱暴にかきわけるわけにもいかず、とっさのことに反応しきれなかった椿はぼうっと立ちすくんでいた。 花組の少女たちにもみくちゃにされ、いずこへかと連行される大神をうらやましそうに眺め、そして、そっと吐息をつく。
「でも―――ほんと、うらやましいな、かすみさん………」
「………どこがうらやましいのかしら、まったく!」
険しい声が、椿の呟きに答えた。えっ?、という顔で、椿は、声の主を見上げた。その茶色の瞳が、いらだたしそうに眉をしかめっぱなしの由里を認める。
「由里さん………」
「―――あ、ごめん、椿ちゃん」はっ、と我に返った様子で、由里は気まずそうな表情を浮かべた。 「別に椿ちゃんのことを怒っているんじゃないのよ? ただ、あの、しょうもない隊長のことを怒っているだけなんだからっ!!」
「………自覚はしているつもりなんだけど。すまないな」
優しい声が流れる。由里は、軽く睨みつけるように、声の主の青年を見た。その赤い唇が、冷ややかな声を紡ぎ出した。
「悪いと思っているなら、ちゃんとかすみさんを大事にして下さい! あなたのような人は、女を不幸にするんだからっ!!」
「―――肝に銘じておくよ」
青年の顔が曇る。だが、由里は冷ややかな表情を崩すことはしなかった。細いあごをしゃくり、不快げにうながす。
「………わかったら、とっとと行って下さい、かすみさんのところへ!」
「わかった」
頷いて、風杜は歩き出した。腕のない左袖がはためく。その背中を見送りながら、椿は、不思議そうに由里を横目で見やった。 ここまで不愉快そうな彼女の姿は、椿は初めて見たのだった。
(何か事情があるのかしら?)
小首を傾げて考え込むが、まったく見当がつかない。そんな椿に気づいたのか、小さく苦笑を浮かべて、由里は椿の頭を撫でた。
「ごめんね、椿ちゃん。ただ、あたし、どうしてもあーゆータイプって、許せない性質(たち)だから………」
「………」
椿の瞳に映る、栗色の髪と栗色の瞳を持つ女性。そこにたゆたう、何か不思議なほど悲しく切ない雰囲気。 常にないほど悲しげな彼女を見て、椿は、そっと小箱を差し出した。
「―――由里さん。はい、これっ!」
「―――え? 何、これ?」
大きな栗色の瞳を丸くして、由里は椿を見た。その小さな手元にのせられた、小箱へと視線を映す。
「重箱カラメルです。おいしいですよ?」
「………」
由里の瞳が、かすかに潤んだ。小作りの顔に、照れくさそうな微笑が広がった。明るい笑顔で由里は椿に頷いた。
「ありがと。いただくわ」
「はいっ! 十銭になりまーっす!」
「………お金取るの?」
ぽかん、とした由里の顔がおかしくて、椿はくすくすっと笑った。
「冗談ですよ! 試供品として、計上しておきますからっ!」
「この子はっ!」
思わず吹き出して、由里は椿の頭をこづいた。楽しそうな、心底嬉しそうな笑顔が由里の顔に広がった。
答えるように、椿の幼い顔に、輝くような笑顔が広がる。
楽しそうな笑いが、他に誰もいなくなったロビーにたゆたった。
「……さあて、すぐにでも取りかからんと、間に合わへんなあ」
夕闇が迫る地上とは裏腹に、明るい照明で照らし出された地下整備場。小脇に大事そうに霊子水晶の入った箱を抱え、紅蘭は純白の神武へと歩み寄った。 明かりに照らされ、まるでそれ自身が輝くような輝きを見せる神武。その持ち主、大切な、大切な人の笑顔を思い浮かべて、紅蘭はかすかに頬を赤らめた。 そっとそのハンガーに、霊子水晶の入った箱を置く。その視線が、ふと、隣のハンガーに向けられた。流麗な曲線を描く、菖蒲色の機体。薄墨色の瞳が、かすかに悲しそうな光を見せた。
「あやめはん………あんたの神威、手を入れさせてもらいますわ。ウチ………あんたの代わりに、必ず、大神はんを守って見せるさかい、な………」
「―――すまないが、君には神武の整備に専念してもらいたい」
小さな紅蘭の呟きを、まるで聞き取ったかのような声が、整備場内に響いた。優しく穏やかな、涼やかな声。 紅蘭はかすかに眉をひそめて、声の主へと振り向いた。
「風杜はん。―――あんた、花やしき支部に戻ったんちゃうのん?」
「あいにくと、あちらには僕の居場所はないようなんだ」
かすかに苦笑して、青年はゆっくりと整備場の中へと入ってきた。腕のない左袖が揺れる。 青みがかった黒い瞳が、薄墨色の瞳の少女を見返す。
「どうにも、すっかりのけ者にされているようだよ、僕は。―――まあ、仕方ないけどね」
「当たり前やろ?」すげなく紅蘭は答えた。「それで? ウチに何か用なん?」
「用があるのは、この子さ」
ハンガーに歩み寄り、そっと腕を差しのべたのは、菖蒲色の機体。端然と佇む、あやめの神威。紅蘭の眉が跳ね上がった。
「悪いんやけど、それはウチがやる仕事や。風杜はんは、黙って見とき」
「いや、それはできない」風杜の静かな眼差しが、紅蘭を見すえた。 「米田長官からの命令だ。僕は、この神威の専属整備士として、この帝劇に再配属された。君の邪魔はしないから、僕の邪魔もしないでほしい」
「―――何でやっ!?」
紅蘭の瞳が怒りの色に染まった。ハンガーから飛び降り、風杜のもとに駆けつける。ぐい、と、その襟元をつかんで、紅蘭は激しい口調で言った。
「この神威は、ウチにしか扱えん! ウチが扱うしかないんねん!! 他の誰にも、手ぇ、つけさせへんでっ!!」
「―――それは許可できない。紅蘭」
静かな、そして強い声が、紅蘭の耳に届いた。どれだけ興奮していようと、紅蘭にその声が届かないことはなかった。それは、彼女が、全てをかけて守りたいと願っている人の声だから。
「お―――大神、はん………」
薄墨色の瞳が、新たに現れた青年に向けられる。力が尽きたように、風杜のえりもとを締めていた腕が降ろされた。顔面を蒼白にして、紅蘭は大神を見た。
「な、なんでや………なんで、大神はん………ウチに、この子を任してくれへんのや………?」
「それは君がよく知っているだろう、紅蘭?」厳しい視線で、大神は紅蘭を見つめた。 「この神威を君が整備したいのは―――君が、この神威に乗るつもりだったからだろう? 君にしか扱えないように、調整するつもりだったからだろう?」
「………」
紅蘭の視線がそらされた。くっ、と唇を噛み締めて、紅蘭は、大神の視線を避けるように顔を背けた。
「君から米田長官に申請してあった書類を見た」
大神はゆっくりと紅蘭に歩み寄り、その肩に手をかけた。びくり、と少女の肩が震えるのを、押し止めるように強くつかむ。
「神威を持ってきたことについては、もういい。戦力不足なのは確かだし、何より米田長官が許可したことだからな。
―――だが。神威をここで整備するのが、君だけ、というのが、俺は非常に不安だった。
そして、神威の改造申請に記された、コクピット回りの改造申請数値―――あれが君の神武のものとほとんど変わらないことに気づいて、ようやく確信したよ。
紅蘭。君がこの神威に乗ろう、としていることをね」
「………」
「神威は、君には乗らせない」強い口調で、大神は断じた。「この神威は、霊子核機関を搭載している。下手をすれば、君の霊力を奪い取って、君を殺すことにもなる。そんな危ない目に、君を遭わせるわけにはいかないんだ!!」
「大神はん―――」
紅蘭の瞳が、潤んだ。大神の言葉の中に、自分を気遣う心、自分を労る心、そして、自分を思う心がこめられていることを、紅蘭は感じた。 込みあげてくる想い。とても大切な想いが、紅蘭の心に満ちあふれ、そしてのどもとを駆け上がり、言葉となって紡がれる。
「大神はん―――ウチ………大神はんのことが、好きやねん………せやから、大神はんを、危ない目に、あわせとうないんねん………!!」
「………」
「せやけど、他のみんなも危ない目にはあわせとうない………ウチが乗るのが、一番なんや!」
「………紅蘭」静かに、優しい瞳で、大神は首を振った。「俺も君のことが好きだ。それに、他のみんなだって、君のことが好きなんだ。君のその気持ちは、みんな分かってると思う。 けれど………君を失うわけにはいかないんだよ?」
「………せやけど………」言葉をつまらせながら、紅蘭は大神を見上げた。「ウチらが乗らな、大神はんが乗るつもりなんやろ? そないなこと、ウチ、させへんでっ!?」
「―――だから、俺が乗るんだ、紅蘭ちゃん」
突然聞こえてきた声に、紅蘭は振り向いた。いつの間にか神威の前面ハッチが開かれ、そこによりかかるようにして神代が三人を眺め降ろしていた。 深い碧色の瞳が、優しい光をたたえて紅蘭を見つめていた。
「神代はん………いつ、そないなとこに!?」
「君が来る前から、さ」
軽く答えた神代の言葉に、紅蘭の薄墨色の瞳が丸く見開かれた。この地下整備場には紅蘭特製の探知機が多数仕掛けられている。
それらを欺き、神威のハッチを開いて、しかもそこに乗り込むことなど、誰にも出来ないはずだった。
驚いた様子の紅蘭に、神代はかすかな苦笑を浮かべ、そして、愛しそうに神威のハッチを撫でた。
「何しろ、下手をすると、紅蘭ちゃんにいろいろと改造されちまうからな。大神に頼んで、今日だけ特別に、この神威の見張り番をさせてもらうことにしたのさ」
「………何でや、大神はんっ!」きっ、と、鋭い眼差しで、紅蘭は大神を睨みつけた。「何で、ウチではダメで、神代はんならいいんやっ!?」
「それは………」
さすがに、神代の過去を自分の口からは言えない。大神はしゅん巡した。それを見てとったのか、神代が神威の上から、のんびりと答えた。
「ちょいとワケありでね。俺はこいつとは縁があるんだ。―――正確に言えば、こいつの設計主、製作者と、な」
「な、なんやてっ!?」
「だから、今現在、こいつのことを俺ほど知っている奴はいないし、こいつを動かすのも、俺がもっとも適している」
「どういう意味や、それは?」
疑り深い顔になり、紅蘭は神代を睨みつけた。ひとつ苦笑して、神代は大神に目くばせした。かすかに躊躇ったものの、大神は頷いて、風杜を伴って地下整備場を後にする。 それを確認してから、神代は、真剣なまなざしで紅蘭に向いた。
「こいつの設計者、葵叉丹――そして、神武の設計原案を行った山崎中尉は、俺の恩人だ。俺は彼から、こいつのことについても聞いたことがあるんだ」
「………」
「大神は、あの風杜に俺のことを聞かせたくなくて、出ていったんだろうが………まあいい。あいつがいないほうが、好都合だからな」
よっ、と、声をあげて、神代は神威から飛び降りた。紅蘭の目の前に佇み、神威を見上げる。
「紅蘭ちゃんには言っておいたほうがいいな。………こいつは、この神威は、霊力を奪うだけじゃない。乗る人間の、霊体をも崩壊させ――最悪、魂さえも消滅させる」
「――な、なんやてっ!?」
驚愕の余り、紅蘭の唇から悲鳴じみた声がほとばしった。軽く苦笑して、神代はくちもとに人さし指を立てた。慌てて口をふさぐ紅蘭を見て、言葉を続ける。
「大神や君が思っている以上に、こいつはとんでもない代物なんだ。大神とて、そこまでは知らないだろう。こいつが、乗る人間にとっては、降魔以上の怪物だってことを、な」
「け、けど、神代はん……」小さく声を潜めて、紅蘭は、不安げに神代を見上げた。 「な、なんでそないなもん、あの葵叉丹が造りよったん? 自分の首を締めるだけやあらへんの? それに―――魂を消滅させる、なんて………それこそ………」
「――神衣(かむい)そのものじゃないか、と、言いたいのかな?」
「………!!」
紅蘭は慌てて口元を押さえた。そうしなければ確実に、悲鳴が上がっていたことだろう。その円らな瞳が、信じられない思いで神代を眺めた。 ぐっと声をかみ殺して、紅蘭は再度神代に問いかけた。
「……な、なんであんた………神衣のこと、知っとるんやっ!? あれは、ウチと、米田はんしか知らんはずや!!」
「―――やはり、神衣のありかは、君と米田司令だけが知っているのか」
神代の瞳が、鋭く細まった。ぐい、と、強烈な視線が、紅蘭に注がれた。思わず身を引く紅蘭に、神代は圧し殺したような声で、言った。
「紅蘭ちゃん。君にも頼む。やつを―――大神を、神衣に近づけるなっ!! あいつを神衣に乗せたらいけないんだ。あれは―――神衣は、この神威以上に危険だから、な!!」
「………」
「あいつのことを思うのなら、とにかく、どんなことをしてでも、あいつを神衣に近づけてはいけない。
あの馬鹿のことだから、神衣が使えるとなれば、自分を犠牲にしてでもあれを使うだろう。そしてそうなったら―――手遅れなんだ。
頼む、紅蘭! 大神に神衣のありかを教えるな!」
「は、はいな………」
神代の真摯なまでの視線に抗し切れず、紅蘭は頷いた。神代の言葉の端々に、神衣に対する不安がにじみ出ている。そしてそれは、紅蘭とても同じだった。 あれだけは、動かしてはならない。あれだけは。
「わかってる。ウチかて、調べたことがある。あれは………あれは人間に操れる代物やないから………!」
「よかったよ、紅蘭。君が機械に詳しくて」鋭い視線を緩め、ほっと安堵した表情で、神代は笑った。 「下手に大神の耳に入れたら、それこそあいつの命が危ない。そしてそうなったら―――大地の鳴動が始まるからな………」
その最後の言葉は、神代の口の中で消えて、言葉としては発せられなかった。不思議そうにそんな神代を見た紅蘭だったが、やがて、おそるおそる、といった感じで、問いかけてきた。
「大神はんを乗せたらあかん、ってのは分かったけど………神代はん。あんたは、この神威に乗っても、大丈夫なん? 魂を消滅させるやなんて、ウチ、思っとらんかったんやけど………」
「ああ、俺なら大丈夫さ」軽く笑って、神代はそっと、懐から聖剣を取り出して見せた。「こいつがある限り、俺は大丈夫だ。神威はこいつの霊力を喰らい、こいつの霊体を損なおうとする。俺には一切ダメージはない。だから、安心してくれ」
「そんなら、ええんやけど………」
不安がる紅蘭を優しい瞳で見ながら、神代は穏やかな口調で、きっぱりと言った。
「とにかく、紅蘭ちゃん。神威は俺が乗る。俺が乗って、大神を守ってやる。だから―――心配するな。君の、君たちの大事な大神は、俺が守ってやるから、さ………」
「神代はん………」
初めて紅蘭は、尊敬の念をこめてその名前を呼んだ。薄茶色の瞳が、美しい光をたたえて、神代の端正な横顔に注がれた。
彼女の守りたい人。彼女の全てである、愛する人。その彼を、この人は守ってくれる。守ろうとしてくれる。
嬉しそうな、晴れやかな笑顔が、紅蘭の顔に広がった。大きく頷いて、紅蘭は笑った。
「任せるわ、神代はんっ!!」