「わあ‥‥きれいだなあ‥‥」

「寒くない?‥‥一郎」

「ううんっ」

ドーンッ‥‥‥‥‥‥パチパチパチ‥‥パラパラ‥パラ‥‥

「わああ‥‥」

「ははは‥‥一郎は昔から花火が好きだったもんなあ‥‥」

「にいちゃんだって‥‥わああ‥‥」

「ふふふ‥‥」

「お母さん、お母さん、あれあれ‥‥」

ドーンッ‥‥パラ‥‥パラ‥‥



「一郎‥‥」

「あ‥‥兄さん‥‥いつ帰ってきたの?」

「ついさっき」

「‥‥そっか‥‥おかえりなさい」

「ごめんな、寝てたのに‥‥どうだ、身体の具合は?」

「‥‥うん‥‥もう随分よくなった」

「そうか‥‥」

「‥‥にい‥‥さん」

「ん?」

「今度はいつまで家にいられるの?」

「‥‥」

「僕は‥‥」

「‥‥おみやげがあるんだ。帝都で売ってる”かすてら”ってんだけど、結構う

まいらしいぜ。母さんと一緒に食べな」

「兄さんは?」

「おれは‥‥苦手なんだ、あれ」

「ふーん」

「起きられるか?」

「うん」



「あら、起きて平気なの?」

「うん」

「お藥飲まなくていい?」

「大丈夫」

「じゃあ、お茶いれようね」

「‥‥これが ”かすてら” っていうの?」

「おいしいわよ。悪いけど先に一口食べちゃった‥‥麗一はいらないって言って

るけど」

「兄さん、昔から甘いものきらいだったからね」

「っていうか、そのモソモソした感触がイマイチなじめないんだよ」

「へえ‥‥じゃあ食べてみよ」



「おいしかった。なんか気のせいか少し気分がいいよ」

「ふふっ、よかったわね」

「はあ、人の好意に甘えるのもたまにはいいのかな」

「?」

「俺の先輩、て言うか、ほとんど爺さんみたいな人だけどな‥‥こっちに帰る時

に持ってけってな。俺は嫌いだからいいって言ったんだけど、『おめえに食わせ

るわけぢゃねえ』ってね」

「へえ」

「お礼をしたほうがいいわね。麗一がお世話になってるのもあるし‥‥その方、

なにか

「好きなものあるのかしら」

「酒」

「あら、じゃあ‥‥」



「これ持っていきなさいな」

「母さん、それは‥‥」

「もう‥‥だれも飲まないしね‥‥」

「‥‥‥‥」



「兄さん、さっき言いかけたんだけど‥‥」

「うん?」

「お仕事たいへんなの?」

「‥‥‥‥」

「いつになったら家に戻って‥‥一緒に暮らせるの?」

「‥‥‥‥」

「母さんだって、一人じゃたいへんだし、僕も‥‥淋しいし‥‥」

「母さんは平気よ。麗一にはやりたいことを‥‥やっていて欲しいから‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥いえ違うわね‥‥麗一にしかできないことなのよね、きっと‥‥あなたを

必要としている人達が‥‥いるのよね‥‥」

「母さん、僕らだって‥‥」

「一郎、あなたにもわかる日が‥‥きっとくるわ」

「でも‥‥」

「‥‥一郎」

「うん?」

「これ、お前にやるよ。前から欲しがってたろ」

「懐中時計‥‥でもこれ、兄さんの宝物でしょ」

「たしか、大陸に渡った時、向こうの方から譲ってもらったって‥‥そう言って

たわよね」

「ああ‥‥一郎に持っていてもらったほうがいいような気がしてね。きっと役に

立つ時がくるよ。それに‥‥」

「?」

「いや、なんでもない。さ、もう横になったほうがいい」

「話はまだ‥‥」

「つづきは次の機会にしよう‥‥おやすみ、一郎‥‥」



『‥‥兄さん』



『‥‥麗一‥‥兄さん‥‥』



‥‥‥‥トン‥‥トン‥‥トントン‥‥



『‥‥母さん‥‥台所にいるのかな‥‥』



‥‥トントン‥‥トントン‥‥



「‥‥‥‥さん‥‥まだ寝てらっしゃるんですか‥‥」



「‥‥ん‥‥朝‥‥?‥あれ?‥‥‥ここは‥‥家じゃない‥‥な‥‥」

「大神さん、入りますよ」



『桜が‥‥』



『‥‥長い黒髪‥‥きれいな瞳だな‥‥』

「‥‥さん‥‥大神さん?」

『母さんに‥‥似てる‥‥』



「そろそろはじめようかと思って‥‥大神さん?」

「あ‥‥さくら、くん‥‥か」

「?」



ここは‥‥

そっか‥‥帝劇、か‥‥

俺の部屋か‥‥

夢だったのか‥‥

なんであの頃の‥‥



頭痛がする‥‥



「大神さん、なんか目の焦点があってませんよ。起きてます?」

「うん‥‥‥‥ん?‥‥ああーーっ、ま、まずいっ、ね、寝坊したああ、モギら

ないと‥‥」

「今日はお休みですよ‥‥もうっ、今日は舞台裏の大掃除ですよ。憶えてますよ

ね。はやく始めないと今日中に終わりませんよ」

「へ?‥‥あ‥‥そっか‥‥今日は、休み、か‥‥‥‥す、すぐに着替えて行く

から」

「みんなはもう集まってますから。先に行ってますから、はやく来てください

ね」

「うん‥‥」



夢と現実が完全にごちゃまぜになっていたようだった。



‥‥もう8年、いや9年か‥‥



結局兄である麗一と話せたのはあの日が最後だった。

朝起きると、もう兄の姿はなかった。



5歳年上の兄は中学を卒業すると、すぐに就職するため帝都に上京した。

海外にもよく渡るような仕事らしかった。

中国に渡航したこともあって、時計はその折りに入手したものらしい。

あの時は、確か一年で戻ってきたのだが‥‥



”長期出張”になるらしいと母は言った。

泣き笑いのような母の‥‥あのたまらない表情が今でも思い出される。

12歳だった自分には、勿論病弱のせいもあっただろうが、それ以上何も言わな

かった。

‥‥遠い所にいくの?‥‥もう‥‥帰ってこないの?‥‥

何も聞けなかった。何も‥‥できやしないのだから。

もしかしたら母は何か知っていたのかもしれない。

母は努めて明るく振る舞ってくれた。

父が死んでからずっと‥‥いつもそばに母がいてくれた‥‥



はやく病気をなおさないと‥‥

はやく大人にならなければ‥‥

はやく‥‥はやく‥‥



頭痛も少し治まってきたようだ。

「やっぱり風邪かな‥‥あ、そう言えば‥‥」

昨日頭の片隅に引っ掛かって‥‥

どうしても思い出せなかったこと。

俺は起き上がった。

手早く着替えを済ませる。

「うっ‥‥さくらくんに、寝間着姿を見られてしまったか‥‥情けない‥‥」



机の引き出しを開けた。

その中に小さな小箱がある。

群青の布に‥‥暁蓮さんと同じだな。

その布に包まれた箱。

布を解き、箱を開ける。

銀色の懐中時計。

兄の‥‥片身。

蓋を開けると‥‥時計盤を型取る精妙な彫刻。

その反対側。

蓋に裏側には写真を入れてある。

俺、兄、そして母の写った色褪せた小さな写真。

「これだった‥‥今の今迄、すっかり忘れていた‥‥」

しばらく眺め、ポケットに入れた。

なぜそうしたかと言うと‥‥わからない、身体が勝手にそう動いた。



「確かに、早いとこ掃除始めないと‥‥あの広さじゃ終わらないな‥‥」

何かまだ記憶の片隅にひっかかりがあるような気がしたが、とりあえず今は掃除

だ。

俺は部屋を出て、足早に舞台裏へ向かった。






一章.壊れた時計
<その1> 二日間の休演日初日に始めた舞台裏の大掃除。 花組七人がかりでも足りず、結局事務方三人娘まで駆り出されることになった。 大神とカンナが受け持つ大物のほうはタマ数が少ないのでまだよかったが、他の 少女たちの仕事になった小物の整理、その数が予想以上だったからだ。 だが一度移動したあとの床掃除は紅蘭の独壇場となった。 彼女が作り上げた”ばきゅうむくん弐号”という蓄電型自動清掃機の活躍による ものだった。壱号機は半年前の書庫整理中に大破したらしい。小型蒸気機関によ り駆動するポンプによりゴミを吸い込み、先端に取付けられた並列回転円筒で床 拭きを行うという、かなりの優れ物だった。 帝都の街灯りも熄えようとする頃に、後片付けもなんとか終わった。 花組の面々はサロンに集まった。 「大神さん、おつかれさまでした」 「みんなこそ大変だったね。舞台の小道具ってあんなにあるとは思わなかった よ」 「まったく、このわたくしが埃まみれになるなど‥‥」 「つかれたよ〜」 「どや、大神はん。うちの”ばきゅうむくん”、結構使えたやろ」 「結構どころじゃないよ‥‥ほんと、助かったあ‥‥あれ量産したら売れるよ、 絶対」 「ほんま?」 「ああ、あれがなきゃ明日までかかってたよ‥‥サンキュ、紅蘭」 「えへへ‥‥」 頬を薄く朱に染めた紅蘭は、それだけで仕事を果たした甲斐があったという感じ だ。自分の発明品を認められることが、どんな美辞麗句にも優る労いの言葉だっ た。自分にはそれしかないと、頑なに思いつづけている紅蘭にとっては。 大神は微笑みながら、ふとポケットに手を入れた。 金属の感触。 『ん?‥‥なんだ‥‥』 少女たちに見えないよう、隠れて取り出す。 『ありゃ、いつ入れたんだ‥‥』 今朝の記憶を辿った。 確かにあの箱は開けて‥‥ そのあと‥‥ 『ま、いいか‥‥待てよ、そういえばこの懐中時計、全然動かないんだったな‥ ‥そうだ、紅蘭に頼んで直してもらうか‥‥』 さりげなく紅蘭の横に腰掛け、微笑みかけると、紅蘭の頬はますます赤くなっ た。 「紅蘭、あの‥‥」 「う、うん?」 「あ‥‥」 大神は奇妙な感覚に捕われていた。 『‥‥なんだ?‥‥以前こんなことがあったような‥‥』 既視感と呼ぶには少し違和感があった。 『‥‥紅蘭の顔が?‥‥いつも見ているはずなのに‥‥』 一人の女性の美しい顔が、紅蘭のそれに重なった。 「しゃお‥‥れん‥‥さん?‥‥」 「え?」 そして‥‥今度は大神の記憶から一人の青年浮かんできた。 その人が暁蓮に重なるように見えた。 自分によく似た男。優しい瞳。微笑んでいるような気がした。 「‥‥にい‥‥さん‥‥」 「??‥‥大神‥‥はん?」 『‥‥この時計のせいか?‥‥でもなぜ‥‥』 我慢できていた頭痛が再び強さを増してきた。 不可解な感覚は消えていた。 「‥‥大神‥‥はん?」 紅蘭の目をしばらく見つめていた大神。 頭痛とともに、周囲に漂い始めた不穏な空気によって我に還った。 「少尉!」「大神さん!」「お兄ちゃん!」 「あ‥‥」 「わたくしたちも汗かいたんですのよ」 「‥‥ですよ」 「‥‥だよ」 「う、うん、みんなご苦労さま」 「‥‥それだけですの?」 「どうしたってんだ、隊長。紅蘭のこと、じーーっと見つめたりなんかしてよ」 カンナがからかうように問い糾す。 周りは、返答次第によっては‥‥という雰囲気を表にしていた。 当の紅蘭は赤く染まった顔を見られないよう、うつ向きながら耳を傾けていた。 「な、なんでもないよ」 「なんでもないのに、なんで見つめ合わなくちゃいけないんですか!?」 「そ、そんな」 「なんで、どもるの?」 「どういうことですの?」 「お、お茶、いれようか、たまには俺が、ね」 大神は準備にとりかかるべく、そそくさと席を離れていった。 ポケットから懐中時計が落ちたのも気づかずに。 「はあ‥‥」 お湯が沸くのを待ちながら、大神は溜息をついた。 『頭痛がひどくなってる。なんか身体も‥‥一服したらもう寝たほうがよさそう だな』 サロンにはいつもポットが常駐して置いてあった。 勿論紅蘭の造った、蓄電式の保温ポット。 それがたまたまお湯切れになっていた。 そのおかげで、難を逃れたことも確かだったが‥‥ 『‥‥なんか‥‥昨日からおかしいな‥‥やっぱり風邪かなあ‥‥流行ってんの か?』 頭痛がまだ直らない。 紅蘭の少し照れた顔が脳裏に浮かんだ。 ふいに重なった暁蓮の妖艶な表情‥‥ そして兄の顔‥‥まるで今の自分を鏡で見ているような‥‥そんな錯覚を持つほ どによく似た顔。 その後の奇妙な感覚‥‥ 『‥‥あれはいったい‥‥ん?』 何か香水のような薄い香りが漂ってきた。 大神は、何げなく振り返った。 マリアが立っていた。 白いブラウスに黒い短めのスカート。 大神が初めて見るマリアの装いだった。 「マリア‥‥いつからそこに‥‥」 「少し前から‥‥顔色がよくないですね‥‥」 「え‥‥あ、いや、なんともないさ‥‥」 「‥‥風邪、でも?」 頭痛は相変わらずだったが、昨日のように我慢できないほどではなかった。なる べく表情に出さずに話題を変えようと、大神は材料を思いめぐらした。答えはす ぐに見つかった。 「白いブラウス‥‥」 「え?」 「初めて見たな‥‥結構似合うね」 大神には、目の前にいるマリアが本当に美しく可憐に見えた。 薄手の白いブラウスと短めの黒いスカート。 いつものコートにも増して、その容姿をさらに美しく際立たせていた。 『‥‥なんか、いいな‥‥暁蓮さんとは‥‥違う感じの‥‥』 何よりその聖母のような柔和で可憐な表情が、大神をして、 まるで別世界にいるかのような錯覚に捕えてしまうほどだった。 気のせいか、頭痛も柔らいできたような気もする。 別世界、そう、違う世界に行った、あの人のような‥‥ 大神は暫し茫然とマリアを見つめていた。 ‥‥あやめさん‥‥ 咽まででかかったその言葉を辛うじて抑える。 「た、隊長‥‥ど、どうしました?」 「あ、あの、いつもの黒いコートも好きだけど‥‥そういうのもいいな」 「は、はぐらかさないでください‥‥た、体調の隊長が、あれ?、あ、いえ、そ の‥‥」 頬を赤く染めながらおかしなことを言うマリアに、大神は一瞬二年前の‥‥初め て出会った頃の彼女を思い出した。 それも、すぐに思い直した。 峻烈な意思の輝きを持った瞳、理性的で無駄を一切排除した立居振舞い‥‥それ は接する者に冷たく厳しい印象を与えたが‥‥ 本当はそうではなかった。 マリアは誰よりも優しく、弱い女性だった。 舞台に立つその姿とは裏腹に、表に出ることを好まない人。 いつも陰で支えてくれた人。 極寒の地で‥‥暗い世界で‥‥生きてきた、薄幸の人。 大神はいつも後悔していた。 彼女のそんな姿を戦いの中でしか見い出せなかったことを。 自分よりも苛酷な人生を歩んできた彼女に‥‥すがってしまったことを。 マリアをひどく侮辱しているような気がして。 君の背中を護らせてくれ‥‥ それは大神の口から自然に出た言葉だった。 マリアとあやめが重なって見える。 大神にはそれも自然に思えた。 「聖母と天使‥‥か」 昔見た一枚の絵を思い出して、大神は思わず口に出してしまった。 「はい?」 「あ‥‥いや、なんでもないよ」 マリアはなおもじっと大神を見つめている。 「‥‥本当になんともありませんか?」 「うん、ただ思った以上にこたえたからさ、今日の大掃除」 「‥‥‥‥」 「ん?‥‥これは‥‥」 「?」 「この香り‥‥」 マリアの存在を知らしめた、その香り。 大神はなんの気なしにマリアの襟元に顔を寄せた。 一方のマリアは接近した大神の吐息が首にかかるのを意識して、白い顔が真っ赤 に染まった。 「た、隊長!?」 「‥‥花の香りがする‥‥香水?」 「そ、掃除で、汗をかいてしまったので、そ、その、シャワーをあびて‥‥」 「いい香り‥‥どこかで‥‥この香り‥‥どこだろ‥‥」 おもむろに顔を上げると、マリアと唇が触れ合うぐらいの距離にあった。 大神の頬もマリアと同じ色になった。 「あ、あの、その‥‥ご、ごめん‥‥」 「ああ、あの、その、む、むかし、あやめさんにい、いただいたこ、香水があっ たのを思いだして、それで、わ、わた、わたしは、あああの‥‥」 マリアの顔はもう白い部分がほとんどなくなっていた。 「た、隊長、わ、わたし、あ、あの‥‥し、失礼します」 「あ‥‥」 ろれつが回らないぐらい取り乱しながら去っていくマリアを大神は茫然と見送っ た。 「マリア‥‥」 『あやめさんと同じ香り‥‥』 薄れていく記憶を確かめるように‥‥大神は目を閉じた。 ‥‥大神くん‥‥ 『あやめ‥‥さん‥‥』 大神はポットの湯気が勢いよく拭きだすのをふと見つめた。 マリアの残り香が大神の鼻孔をくすぐった。  「‥‥‥‥」 頭を軽く振り、焜炉の炎を消した。 まるで自分の中に燻り始めた想いを否定するかのように。 「うぎっ‥‥いててて‥‥な、なんだってんだ‥‥さっきマリアといたときは‥ ‥」 頭痛がまたぞろぶり返してきた。 ポットを持って大神はサロンに向かった。 マリアはテラスの前に立っていた。 街灯りも消え、窓の向こうには星のかすかな輝きだけが見えた。 バルコニーの手摺りの向こう側。 そこは街の燈がかすかに閃いていた。 夜も暖かい街。 人のあたたかさが通う街。 それも反射する劇場の室内光に埋もれて、弱々しくマリアの目に映し出された。 窓に映っているのは、聖母のような、そして少女のような微笑みの美影身。 『‥‥これが‥‥今のわたし‥‥』 大神に対する想いは一年前の大戦を経て、より強く刻みこまれていた。 それは帝国華撃団隊員として‥‥のはずだった。 それとは裏腹に、そんな枠に納まりようがない程に育まれていたことも‥‥今の マリアには否定できずにいた。 一人の女性としての自分の‥‥一人の男性としての大神への想いだった。 『隊長‥‥』 身を呈して自分を救ってくれた‥‥大神少尉。 苦しいときも、諦めず、導いてくれた‥‥大神隊長。 照れくさそうに笑っている‥‥‥‥大神‥‥さん。 『大神さん‥‥』 テラスの窓はマリアの想いを、走馬灯のように儚げに紡いでくれていた。 大神の吐息‥‥その感触を忘れないように‥‥マリアは襟元をずらした。 そのまま柔らかな胸に指を触れた。 ‥‥そして唇に。 サロンから声が聞こえた。 マリアは夢から覚めた。 引かれるように歩きはじめた。 サロンのドアノブに手を延ばしかけ‥‥止めた。 近くにいてくれるだけでよかったはず。 一緒に戦ってくれるだけで。 同じ帝劇で暮らせるだけで。 君の背中を護らせてくれ‥‥ 『わたしなんか‥‥』 マリアは俺が護る‥‥ 『わたし‥‥なんか‥‥』 笑い声が聞こえる‥‥カンナ‥‥それに、紅蘭。 少し怒った声‥‥さくらとすみれ‥‥ さけんでいるのは‥‥アイリス。 あの人も‥‥いる。 ここでいつも我に還ってしまう。 荒廃の地。 最果ての地。 雪しか降らない街。 陽のささない街。 そこで生ぬくことだけしか考えられなかった。 誰も信じられない。 だから殺す。 人を殺した。 殺しまくった。 『そうしなければ‥‥生きていけなかったのよっ!』 見殺しもした。 目の前で殺されるのを黙って見ていた。 マリアは耳を塞いだ。 『そんなに‥‥そんなに、わたしを‥‥わたしを、責めないでよ‥‥』 マリアにとって、花組はまぶしすぎた。 心の片隅に染み付いてしまった劣等感。 そんな自分に対する嫌悪。 それは大戦の間も、終わった後も、そして一年たった今でも‥‥癒えることはな かった。 みんなには‥‥そんな自分に気づいて欲しくない。 『わたしは‥‥わたしは‥‥』 マリアは耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろした。 そしてうつ向いた。 白いブラウス‥‥黒いスカート。 『無意味、よね‥‥』 マリアは顔を手で覆った。 そして迷子になった少女のようにその場にしゃがみこんだ。 吐息がふるえて声にならなかった。 『いいことなんて‥‥あるのかな‥‥』 顔を隠していた手を膝にまわす‥‥ そして顔を‥‥その膝に埋める。 『いや‥‥』 白い脚に零れるひとすじの露が、廊下の灯りを弱々しく反射した。 『だれか‥‥優しくして‥‥』 サロンと廊下を隔てるドアが、今のマリアには鋼鉄で出来ているように感じられ た。 廊下の明りがやけに薄暗く思えた。 『助けて‥‥大神‥‥さん‥‥』


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Uploaded 1997.11.01




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