<その3> 大神は地下格納庫にいた。 「ここにきても変化なし‥‥か」 昨夜動かした神武は、全て元の位置に固定されていた。 『おそらく紅蘭がやってくれたんだろうな』 純白の神武の前に立ち、少し思案した後、 大神はおもむろに神武に乗り込んだ。 『増幅器の力を借りてみるか』 蒸気音と共に霊子力エンジンに火が入った。 複合型霊子動力増幅器から霊子反応基盤へ霊力が流れ込む。 基盤の反応は特にこれまでと変化はなかった。 増幅器も同じ。 大神自身も霊力の向上は確認できなかった。 ただ、腹の下に溜まった得体の知れない何かが、わずかながら波立つような感触 はあった。 「‥‥だめか」 大神は神武の火を消した。 ‥‥あせったらあかんで‥‥ 「‥‥そうだな」 大神は神武から降りた。 恐らく答えは紅蘭が見つけてくれるだろう。 予感というより確信に近いものがあった。 ‥‥あの時計が鍵かもしれない‥‥ 懐中時計を見たときの紅蘭の目を、大神は思い出した。 『‥‥見覚えでもあるのか?‥‥兄さんが中国に渡った時に持ってきたものを‥ ‥』 両者を繋げるのは難しかった。中国は広すぎる。時系列的にも無理があった。 麗一、即ち大神の兄が中国に渡ったのは10年ほど前。 そのとき紅蘭は‥‥8歳‥‥9歳か? 大神の脳裏に、昨晩の、紅蘭とだぶるように見えた兄の顔が浮かんだ。 『‥‥だが‥‥完全には否定できないな‥‥』 大神は格納庫を後にした。 マリアは厨房の中にいた。 最初はボルシチを作ろうと下ごしらえをしていたが、途中で野菜スープに切り替 えることにした。 『‥‥少し軽めのほうが‥‥いいかな』 添えるのは普通のトースト、 そして築地で仕入れてきた魚介類を軽くボイルした温サラダ。 マリアの目には少し翳があったが、料理をしている間は少し気分が楽になった。 大切な人を想って。 厨房の窓の外は既に朝の雑踏は過ぎ去っていた。 少しだけ窓を開け、外の空気を吸った。 初めて作った和風の野菜スープは思った以上の出来であった。 サラダもあっさりしていて悪くない。 マリアの柔らかな口元に自然と微笑みが浮かんだ。 白く美しい顔は、薄く、ほんとうに薄く朱に染められていった。 トレーに布巾をのせ、サラダは少なめに盛り付ける。 「‥‥もう起きてるかな?」 何か‥‥特別な意味を持ちそうな言葉を口にしてしまったマリアは、思わずはっ としてトレーを放しそうになった。 苦笑する。しかし自嘲するようなことはしなかった。 ‥‥絶対に負けませんから‥‥ 昨夜のさくらの言葉。 それはなぜかマリアを勇気づけてくれた。 大神がまだ深い眠りの中にあった時間、マリアは二度、大神の部屋を訪れた。 朝5時30分‥‥紅蘭、そしてすみれが訪れる、ほんの少し前。 朝7時30分‥‥紅蘭によって起こされる30分ほど前。 ‥‥紅蘭も二度大神の部屋を訪れた。 大神の寝顔を見てマリアは、手のひらを額にあてた。 冷たい手。 大神の口元が揺らいだ気がした。 微笑んでいるような気がした。 マリアの表情に明るさが取り戻された。 『‥‥いいこと‥‥ある、かな』 マリアの瑠璃色の瞳が、海の波間に映る朝日のように彩られた。 そして厨房を後にした。 『わたしにも‥‥きっと‥‥』 カンナは一階の観客席にいた。 「明日からまた忙しくなるんだろうな‥‥」 サロンからすみれとさくらが出ていった後、ロビーの階段から降りてここに来て いた。 『‥‥気のせいだろうな』 すみれの様子が妙に気にかかったが、思い直して朝食をとることにした。 昨夜の大神のことも気になっていたが、それもあえて考えないようにした。 自分を奮い立たせるように。 「‥‥お、いい匂いがするな」 厨房で誰か調理しているようだった。 「ご相伴にあずからしてもらおうかな」 食堂の前にさしかかった時、厨房に人影を見た。 一番見知った姿。 『なんだ、マリアだったのか』 出来立ての湯気の立つ野菜スープの入ったカップ、サラダが盛り付けられた皿、 それにトースト。 マリアはトレーの上に載せて、厨房から出てきた。少し紅みを帯びた顔で。 カンナは駆け寄ろうとして‥‥やめた。 「‥‥‥‥」 何処に行くのか、聞くまでもなかった。 誰のために作ったのか、問う必要もなかった。 誰も知るはずのないマリアの心中、それをカンナだけは気づいていた。 一年前の大戦を通じて少しずつマリアは変わっていった。 そして、戦いが終わり、平穏がマリアの女性を少しずつ目覚めさせていった。 大神を見るマリアの目が、時折カンナを不可解な苛立ちに誘った。 他の誰がそうしても、カンナの心は動かなかったにもかかわらず。 マリアの姿はすぐに見えなくなった。 カンナはなぜか取り残されたような孤独感に襲われた。 「‥‥ちぇっ」 少しの間だけ俯いていたが、すぐに天を見上げ、歩きだした。 「へっ、もっとうまいもん、作ったるぜ」 カンナは厨房に入った。 アイリスはまだサロンにいた。 ひとりサロンの中をうろうろとしていた。 腕の中に‥‥ジャンポールはいなかった。 あやめの失踪。 聖魔城での戦い。 あやめの再生。 そして大戦の終結。 それらは花組全員の心に何らかの変化を与えた。 アイリスの場合、それは ”大人になった” ことだった。 勿論そのことを理解していたのは大神だけだった。 聖魔城での決戦が終わり、翔鯨丸に戻った花組。その顔は一様に晴れ渡ってい た。 失ったものもあるが‥‥それ以上のものも手に入れた。 「ご苦労だったな‥‥舵は俺がとるから、お前らは少し休め‥‥帰ったら宴会が 待ってるからな」 米田はそう言い、マリアたちはその言葉に甘えた。 翔鯨丸に備え付けの休憩室‥‥そこに向かう途中、大神はアイリスを呼び止め た。 「アイリス、デッキに行かないか。少し‥‥話しをしようよ」 「うんっ」 さくらは、すみれさえも、何の違和感も嫉妬も覚えなかった。 それはアイリスを子供と見ていたというより、アイリスにとって当然の権利だと 思えたからだ。この戦いは、わずか10歳の少女には‥‥辛すぎたと思えたから だ。 デッキの外には明るい雲が広がっていた。もう暗雲はなかった。 「えへへ、お兄ちゃんと二人きりなんて‥‥」 アイリスが言い終わらないうち、大神はアイリスを優しく抱きしめた。 「お、お兄ちゃん‥‥」 「‥‥アイリス」 「う、うん?」 「もう、二度とあんなことはしないでくれ‥‥」 「え?」 「俺は‥‥」 大神は言い淀んだ。 霊子砲の封印のため、いや、自分のために犠牲になった。 勿論それはアイリス一人ではなかった。 天使となったあやめによって、少女たちは復活を遂げた‥‥ だからいい、とは口が裂けても言えない。 花組は最早、大神にとって肉体の一部と化していた。 自分にできること、その全てを花組のために注ごうと決心した。 そして大神は、その一番にアイリスを選んだ。 それは当たり前のことだった。 もう二度とあんなことはさせまい‥‥そう心に誓った。 「お兄ちゃん‥‥」 「‥‥‥‥」 アイリスは大神の首に手を廻し、しっかりとしがみついた。 真冬の太陽が翔鯨丸の外壁に二人の‥‥ひとつの影を創った。 寒さはまるで感じられなかった。 アイリスはゆっくり腕を大神から離した。 「お兄ちゃん」 「うん」 「ごめんね‥‥約束はできないよ」 「え?」 「アイリス、まだ子供だからね‥‥約束なんてできない」 「!?」 「だめだって言われても‥‥」 「ア、アイリス」 「お兄ちゃんのためなら‥‥アイリスは‥‥」 「アイ‥‥」 アイリスは大神から離れた。 「眠くなっちゃったから‥‥アイリス戻るね」 アイリスは少し赤くなって言うと室内に消えていった。 その表情は、初めてデートした時のそれとは明らかに違う色彩を放っていた。 アイリスは迷っていた。 眠れなかったのは、すみれだけではなかった。 さくらたちに悟られないよう、サロンではお茶を飲んで大人しくしていたものの ‥‥大神の様子が気になって、いても立ってもいられなかった。 以前の彼女では考えられない自制心を持っていた。 が、一人になって、不安は急速に拡大していった。 「静かにしてれば‥‥大丈夫だよね」 そう自分に言い聞かせて、大神の部屋に行く決心をした。 そしてサロンのドアを開けた瞬間、アイリスは悲鳴を聞いた。 「さくら!?」 アイリスは駆け出した。 帝国劇場に激震が奔った。 大神は階段を駆け上がった。 一階に辿り着くと、舞台袖につづく廊下は埃が舞い上がっていた。何か床に影が 蹲っているのが確認できたが、埃でよく見えなかった。 マリアが横に来た。 「隊長、今のはいったい‥‥」 マリアはトレーを床の隅に置き、大神の視線を追った。 「あれは‥‥」 カンナもすぐに合流した。 「地震か!?」 そしてカンナも二人の視線が別にあることに気づき、それを追った。 「‥‥人、じゃねえのか」 視界が晴れてきた。 三人は同時に叫んだ 「さくら!!!」 アイリスは紅蘭の部屋の前についた。 花組の6人が向かい合わせで並ぶ部屋、その廊下の一角。 紅蘭の部屋の前の廊下は、すり鉢状にえぐられ、貫通して一階が見えた。 「‥‥な、なによ、これ」 さくらの部屋の壁も、同様にすり鉢状にえぐられていた。 廊下の中心で何か球形の力が作用し、その外周面に接する物質を切り取ったとし か思えない傷跡だった。よく見ると自分の部屋と‥‥廊下、天井‥‥広い領域が 炭化していた。 アイリスが茫然としていると、紅蘭の部屋の‥‥こちらはさくらの部屋とは対照 的に、全く無傷のドアがゆっくりと開いた。 「こ、紅蘭‥‥」 「‥‥ありがとな‥‥さくらはん」 紅蘭は少し躊躇いながら、一人頭を下げた。 「紅蘭!これはいったいどうゆうことなのっ」 「‥‥下見てみい、アイリス」 アイリスは言われるまま、穴の開いた床、そこから一階の廊下を見た。 「‥‥!、ああああっ」 「‥‥‥‥」 「さくら!!!」 アイリスは駆け出そうとして、ふいに手を捕まれた。 「待ちや、アイリス‥‥」 「離して!!」 「下には大神はんらがおる。心配せんでもええ‥‥」 「そんな‥‥なに呑気‥‥」 「アイリス!」 「なっ‥‥」 「‥‥うちが今から言うこと、しっかり聞いてや」 「!?」 「ほしたら‥‥それを大神はんに伝えるんやで、ええな‥‥」 紅蘭の目はアイリスに反駁の余地を残さないほど、真剣で悲哀に満ちたものだっ た。 大神達は床にうずくまるさくらのもとへ駆け寄った。 近づくと、さくらの下にも人がいた。 すみれだった。 二人の着物は原形をとどめないほど炭化していたが、 なぜか肉体的な外傷はほとんどなかった。 「‥‥いったい、どうしちまったというんだよ」 「‥‥とにかく治療ポッドに運ぼう。カンナ、すみれくんをたのむ」 「ああ、わかった」 大神はそこで天井に円形の穴が開いているのに気づいた。 「あそこから落ちてきたのか‥‥‥‥!」 「隊長、すみれは意識があるみたいだ‥‥おい、すみれ、大丈夫か‥‥」 「喋らせるな!‥‥マリア、行ってくれるか?」 マリアは大神の視線が上にあることを見てとり、その意図を即座に理解し、動い た。 ここにいないメンバー‥‥紅蘭とアイリスの安否の確認、そして、原因の究明。 「急ぐぞ、カンナ」 マリアは支配人室横の階段で‥‥当然ここが最も早いルートだが‥‥一瞬立ち止 り、ロビーから二階へ続く階段を目指して駆け出した。 「あいつ、なんでそこの階段使わねえんだ?」 「上と下‥‥攻撃を仕掛けるならどっちを選ぶ?、カンナ」 「‥‥そういうことか」 「それに、むこうの階段は広いから見通しもいいし、動ける。仮りに‥‥何かが いてもな」 「‥‥急いだほうがよさそうだな、隊長」 治療室に到着すると、大神はゆっくりとさくらを床におろした。 「カンナ、あと頼めるか」 「へ?」 「男の俺がさくらくんの服、脱がせるわけにもいかないだろ」 「あ、ああ、そうだな」 大神はカンナの声を聞く前に走りだしていた。 「くそっ。あたいにも残しといてくれよ、隊長」 大神は階段を一気に二階まで駆け上がろうとしていた。 マリアはロビーから。そして自分は図書室脇から。 うまくいけば挟み撃ちにできる。 『マリアが先手を打っていれば‥‥』 手摺りをさぐるようにして二階に上がると、既にマリアが紅蘭の部屋の脇に立っ ていた。 「思い過ごしのようです」 「‥‥そうか」 大神はマリアの横に立ち、すり鉢状の穴を凝視しつつ、気配をうかがった。 「アイリスと‥‥紅蘭は?」 「発見できませんでした」 「‥‥‥‥」 「‥‥隊長」 「ん」 「損傷状態から判断すると、おそらく‥‥」 「ああ‥‥」 大神にも察しがついていた。 「壁の表面が炭化しています‥‥二人の服もそうでしたが、おそらく‥‥すみれ の技によるものでしょう」 「‥‥‥‥」 「ただし、ほとんど中和されたようですね‥‥すみれの必殺技はこの程度の威力 ではありませんから」 「‥‥そうだな」 「そちらの球形に掘られた穴ですが‥‥」 「これはさくらくんだろう‥‥」 「‥‥ええ」 「破邪の力を‥‥解放したようだな‥‥」 「‥‥むしろ問題は‥‥こちらですね」 「?」 「紅蘭の部屋です」 「‥‥?」 「紅蘭の部屋‥‥外壁には殆ど傷痕がありません」 「‥‥確かに」 マリアは紅蘭のドアに手を触れた。 「何かコーティングしてますね‥‥これは」 大神も手で探りを入れた。 「‥‥たぶん壱型シリスウス硬化溶剤だ。聞いた限りじゃ、まだ試作段階のはず だが‥‥それに‥‥」 「それだけでは、すみれの‥‥さくらの力に対しては殆ど効果はありませんし‥ ‥」 マリアが代弁した。 木材等の非金属に対妖気効果を持たせるべくして生みだされたシリスウス溶剤。 もともと鉄と鉛の合金であるシリスウス鋼は、質量が大きい上に柔軟性もなく、 製造費もかかるため、霊子甲冑など機動兵器には使用できるものの汎用性がほと んどない。 壱型シリスウス溶剤は、一般建築物を対象に考案された試作品で、表面に塗布す るだけで厚さ1ミリ程で硬化し、シリスウス鋼と殆ど同一の分子構造を形成す る。微力ながらも妖力耐性を持つようになるため、戦闘服などにも応用すべく、 弾力性を有する弐型シリスウス溶剤が現在開発されている。 いずれも紅蘭のアイデアだった。 大神は紅蘭の部屋のドアを一通り眺めて‥‥ 四隅に何か紋様が施されているのを認めた。 『何だ、これは‥‥』 擦れていたため、ほとんど見分けがつかなかったが、何か文字の羅列のようにも 見えた。気になったが、取り直してドアを軽くノックし、開けた。 「‥‥‥‥」 床に開いた穴を避けるようにして、大神は紅蘭の部屋の中に入った。 異常な気配は感じられなかった。 辺りを見回して、部屋の角で目を止めた。 『龍の‥‥彫刻‥‥』 木彫りの聖獣が部屋の隅、天井の近くに据え付けられていた。 時折訪れる紅蘭の部屋。 大神は記憶を探った。 『‥‥こんな代物、いつ取付けたんだ‥‥』 部屋の四隅には全て、その方角を守護する聖獣がいた。 東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀。 「四神獣の結界か‥‥」 「‥‥なんです?」 マリアが後ろから聞いた。 「破邪の力すら‥‥及ばないって言うのか‥‥」 マリアは大神の視線を目で追った。 黒く輝く木彫りの獣たち。 「これが‥‥ですか?」 「‥‥風水、について‥‥マリアは何か知ってるかい?」 「ふうすい?‥‥いいえ」 「はやい話、自然の力のことなんだが‥‥」 「‥‥天災‥‥台風とか地震‥‥のことですか?」 「そういう現象論的なものより‥‥寧ろその素になるものと言ったほうが‥‥」 「‥‥?」 「いや‥‥俺も詳しいことは、ね‥‥」 大神は紅蘭の机の上を見た。 何か作業していた形跡があった。 『‥‥直してくれていたのか‥‥まさか、あの時計が関係しているんじゃ‥‥』 「なんだ、二人とも、ここにいたのか」 しばらくしてカンナが二階に上がってきた。 「心配することもなかったか‥‥敵じゃなさそうだな」 「‥‥まだ‥‥わからんがな」 「なかなか、すさまじい有様だな‥‥廊下は」 「そうね‥‥」 「さくらとすみれは問題なさそうだぜ。たぶん夕方までには目覚めると思う」 「そうか‥‥ありがとう、カンナ」 「ところで‥‥紅蘭とアイリスは?」 「いない‥‥」 「そっか‥‥」 カンナは嘆息した。大神の視線を感じて、少し迷ったが言うことにした。 「実は‥‥」 静まり返った劇場に、銀座の街の雑踏が染み込んでくる。 外の明かりは、窓のない、その廊下までは入ってこない。 紅蘭の部屋は、窓を覆う厚手のカーテンで妙に薄暗い。 ただ、その隙間から眩い光がドアの一部を照らす。 そこには大神が立っていた。 「‥‥‥‥」 「あたいが知っているのはここまでだよ。その後どういう展開になったのかは‥ ‥」 「あの二人が目覚めてからね‥‥」 大神は天を仰いだ。 あの時計は‥‥本当に自分に必要なものだったのか? ‥‥きっと役にたつ時がくるよ‥‥それに‥‥ 『ほんとうにそうなのか‥‥兄さん‥‥』 「隊長」 「ん‥‥」 「二人のこと‥‥それに紅蘭とアイリスのことも、たぶん心配する必要ないと思 うぜ」 「それは‥‥」 「なんか‥‥そういう気がするんだよ‥‥あたい、昔から、その、虫の知らせっ て言うのか、人一倍、感が鋭くってな‥‥」 「‥‥‥‥」 「それより、腹へってねえか?‥‥朝飯喰ってねえし‥‥」 「ん?‥‥あ、ああ‥‥そういえば、そうだな」 「あたいは途中でほおり投げてきちまったし‥‥」 「?」 カンナはニヤニヤしながらマリアを見た。 「マリア」 「え?」 「あたいにも食わせてくれねえかな。あれ」 マリアは顔を真っ赤に染めた。 先程の‥‥戦士としてのマリアはもういなかった。 「カ、カ、カンナ?」 「へっへっへ、見ちまったからなあ。隊長、どうだい?」 「へ?」 「隊長のために作った、マリアの手料理、あたいにもご相伴させてくれよ」 大神はマリアを見た。 マリアはただうつ向いて、手をもじもじさせているだけだった。 「いいね‥‥マリア、ご馳走してもらえるかな」 「‥‥はい」 三人はそろって食堂へ向かった。 アイリスと紅蘭は帝国劇場の裏口にいた。 マリアの気配を察した紅蘭が、アイリスに移動するよう促したのだ。 それに、他に何かおかしな気配も感じた。 四神獣がそれを知らせていた。 「‥‥ほんなら、頼んだで‥‥アイリス」 「‥‥」 小さなカバンをひとつ持って、紅蘭はアイリスから離れようとした。 「‥‥紅蘭!」 「?」 「‥‥待ってる‥‥から」 「‥‥」 「アイリスは‥‥待ってるからね!」 紅蘭はにっこり微笑み、そして街の雑踏のなかへ消えていった。 「‥‥待ってるから」 「‥‥うまい。おいしいよ、マリア」 「そんな‥‥ありがとうございます、隊長‥‥」 「う〜ん、確かに。‥‥こりゃ勝てねえかなぁ」 カンナはスープはどんぶりで、サラダを大皿にのせて、 それももう、ほとんどなくなりつつあった。 「マリア、おかわりしていいか?」 「え?ええ」 「‥‥‥‥」 「隊長、お身体のほうは、もう‥‥」 「あ、ああ‥‥お、おかげさまで、随分よくなっ‥‥」 「そ、そ、そうですか」 「マ、マリアこそ‥‥な、なんか、目が赤かったけど」 「い、いえ、そ、それは、もう、か、解決しま、しましたから」 「そ、そうか‥‥」 「‥‥なに二人して赤くなってんだ?」 大神とマリアはお互いにうつ向いて手のあたりに視線を漂わせた。 カンナはドカっと大神の横の席に座り込んだ。 「けっ、あたいはお邪魔虫かい」 二人は真っ赤になっていたが、食事が終わる頃には真顔に戻っていた。 「ところで、支配人には‥‥」 「俺から言っとくよ。今日の夜までには戻ってくると言っていたから」 米田は休演日の二日間、軍司令部に用事があるということで、不在だった。事務 方三人娘は、昨日の掃除の後すぐに花やしきのほうに移動していた。 「ただ‥‥二人から事情を聞かないことには」 「しかし‥‥明日から舞台が始まるってのに‥‥まいったね、こりゃ」 カンナが溜息まじりに言う。 大神も悩んでいた。 建物の損傷などではない。 さくらとすみれの怪我も勿論気になるが‥‥‥ 花組の間で‥‥何かおかしな‥‥不穏な空気が流れつつあるのではないか‥‥亀 裂が生じているのでは‥‥それが最も大きな懸案事項だった。 その確執を呼び起こしたのは‥‥あの時計なのか?‥‥それとも他に‥‥ 「‥‥夜を待とう。それまでは掃除のつづきだな。穴が開いたままでは、さすが に‥‥」 「はああ、紅蘭がいりゃあなあ‥‥」 「さあさあ、カンナ、いくわよ」 「へいへい」 掃除と仮補修は思ったよりはやく、三時間足らずで終わった。炭化した壁も完全 とは言えないものの、生活に支障をきたさない程度には修復できた。 大神は大工と左官屋を手配し、今週中に修理してもらうよう催促した。 「さくらくんには悪いが、しばらくは別の部屋で寝てもらうしかないな」 「これでは、しかたありませんからね」 「‥‥あやめさんの‥‥部屋を使わせてもらうか」 「‥‥‥‥」 「カンナの部屋はどうだい」 「うーん、ドアが少し歪んでるけど‥‥まあ、平気だな」 「マリアのほうは?」 「わたしの部屋は一番端だから大丈夫です。すみれもそうですね」 「アイリスの部屋は‥‥」 ドアノブに手をかけようとした時、ふと人の気配がした。 「お兄ちゃん‥‥」 少し表情に暗い翳を落とした美少女が、階段から姿を表した。 「アイリス!」 大神たちはアイリスのもとへ駆け寄った。大神はアイリスの身体に異常がない か、いたわるようにして様子を探った。 「なんともないようだね」 「‥‥‥‥」 「何処にいってたんだい、アイリス」 「‥‥」 「紅蘭のことなんだが‥‥アイリス、なにか知らねえ‥‥」 カンナが問おうとするのをマリアが抑える。 大神がしゃがんで視線をアイリスのそれに合わせた。 アイリスの目が何かに必死で耐えているようだった。 「どうしたんだい?」 「お兄ちゃん‥‥」 「‥‥‥‥」 「お話しがあるの‥‥いい?」 「‥‥うん。俺の部屋に行こうか」 帝国劇場が赤く染まり始めた。 劇場の窓から差し込む夕陽が、アイリスの足元から長い影を創った。 大神を見るアイリスの、その夕陽に照らされた横顔は‥‥マリアとカンナの胸の 中に微かな戸惑いを生じさせていた。 開きかけた蕾の恥じらうような美しさ、それが終わる時の到来を告げているかの ようだった。
Uploaded 1997.11.01
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