‥‥これを飛ばすんですか? そうよ‥‥ふふ、鯨とはよく言ったものね‥‥ 「空を飛ぶなんて‥‥わたしには無理ですよ」 「‥‥花を咲かせるのは澄んだ水と奇麗な空気‥‥でもその種を齎すのは風」 「‥‥え?」 「始まりがなければ先には進めないわ」 「でも‥‥」 「大地に雨を齎し命の種を育む‥‥風がなければ生命の繁栄はない」 「風が命の芽を運ぶ‥‥と?」 「そう‥‥風の踊り子が舞い、風神と雷神を招く‥‥地を治めるために‥‥」 「風の、踊り子‥‥?」 「そして、華を齎すために‥‥」 あやめさんと最初に出会ったのは大戦が始まる三年ほど前。 銀座に買い物に来たら‥‥大きな音が耳に入ってきた。 行ってみると銀座の真ん中で大がかりな建築工事の真最中。 看板を何となく見てみた。 ‥‥帝国劇場予定地。 ぼけっと横目でそれを眺めながら歩く‥‥そして、その人にぶつかった。 その人もわたしと同じように横目で歩いていて、わたしの存在に気づいてなかった。 『ご、ごめんなさい‥‥脇見してて‥‥』 『い、いえ、こちらこそ‥‥』 その人はわたしをじっと見つめていた‥‥奇麗な人だった。 『な、何か‥‥?』 『いえ‥‥人の気配に気づかなかったのは初めてだから‥‥ちょっと驚いて』 『?』 『風のような人ね‥‥あなたは』 『?‥‥??』 『‥‥あ‥‥服、よごしちゃったわね‥‥ちょっと寄ってってくれる?』 『え、あ、そんな、大丈夫ですから‥‥え‥‥寄るって‥‥』 『ここがわたしの家だから』 『‥‥え?』 『わたしは藤枝あやめと言います。この劇場がわたしの家なの。まだ未完成だけど』 『はああ‥‥あ、あの‥‥わたしは‥‥藤井、かすみ、です‥‥』 『ふふ‥‥じゃあ、中に入ってくださる?‥‥かすみさん?』 『‥‥え、あ、あの、ほんとに大丈夫ですから‥‥』 『いいから、いいから‥‥』 いろんなことを話した気がする。 あやめさんは不思議な人だった‥‥まるでお姉さんのような人だった。 そんなに年は離れてないのに、まるで母親のような雰囲気もあった。 初対面の人にこんなに親近感を抱いてしまうなんて‥‥ あの頃のわたしはあまり人付き合いが得意ではなかったから‥‥ その後もあやめさんとはよく路の真ん中で出会った。 『あ、また会っちゃったわね』なんて‥‥会う度に親近感が強まっていって‥‥ お茶を飲んだり、一緒にお買い物したり、お芝居を見に行ったり。 そして‥‥劇場が完成したらここで働いてくれない?、なんてことになっていた。 わたしは劇場の事務方として帝国劇場の職員に採用された。 勿論表向きだった。 「‥‥わたしの他に誰がこの船を?」 「それもあなたに頼みたいのよ、かすみ」 「‥‥‥‥」 「風の踊り子は見つけた。残る一人を探して欲しいの」 その三日後にわたしは一人の少女を紹介された。 わたしは事務を担当することになったが、その相棒と言うことで‥‥ その娘はまさに風を齎す少女だった。 「こんちは〜‥‥かすみさんでしょ?」 「は、はあ‥‥あ、藤井かすみです。宜しくお願いします」 「わたし、榊原由里って言います。よろしくね」 魔物を駆逐する戦士がいる。それは花の少女たち。 花を齎すには風が必要だった。そしてその風も花に愛されなければいけない。 だから風になるためにはそれなりの素養を持った女性であることが前提だった。 大戦が始まる二年前。 一人の少女がやってきた。 すごい美少女だった。 でも‥‥何故か暗い瞳。 『あの娘は“風向き”じゃないかもしれない‥‥』 そう言ってあやめさんはその美少女の風組入りを見送っていた。 やはり、もう一人はわたしが見つけなければいけないのか‥‥ ‥‥風の匂いは風を司る者にしかわからない。 ‥‥雨の匂いも、雷の予感も。 ‥‥だから雷様の申し子も、きっとあなたなら見つけられる。 鋼鉄の鎧はもう完成している。 鯨が飛び立つ日は近い。 弾丸列車も。 それを駆る者が足りない。 模擬訓練すら出来ない。勿論、教えてくれる人なんていない。 わたしは少し焦っていた。由里も同じだった。 「おや?‥‥支配人室はここじゃないのか‥‥」 そんな時に出会った‥‥あの人。 紅い服を着て、長髪を靡かせて、その人はわたしの前に立った。 由里はいない。 わたしが一人で留守番をしていた時。 「あ、あの‥‥どなた、でしょう、か‥‥」 美しい人だった。 あんな美しい男の人は初めて見た。 「自己紹介が遅れたね。月村と言います。藤枝副支配人に呼ばれたんですが‥‥」 「あ、あの‥‥と、隣です‥‥支配人室は‥‥」 「そっか、ありがとう‥‥あ‥‥ところであなた‥‥もしかして、風組の?」 「ふ、藤井です‥‥藤井、かすみ、と‥‥言います‥‥」 「かすみさん、か‥‥霞草のかすみ、かな?‥‥これから宜しくね」 「え‥‥あ、あの‥‥」 その人はにっこりと微笑んで事務室を後にした。 月村さん‥‥名前はなんて言うのかな? 月村さん。月村、さん‥‥ これから宜しく、か‥‥もしかして、一緒に仕事が出来るのかな‥‥? 「ねえ、ねえ、かすみさんっ、もう見た?、あのカッコイイ人っ」 「‥‥月村さんのこと?」 「そうそうっ!‥‥あの人ね‥‥なんと、風組の隊長さんらしいのよっ」 「え‥‥ほんと?」 「ぬふふ‥‥いよいよ春が来たって感じねえ〜‥‥さっきね、轟雷号の操縦方法、 教えてもらっちゃった」 「‥‥‥‥‥」 ちょっとショックだった。 由里には個別対応してくれてたんだ‥‥ 「翔鯨丸はいよいよ明日だって。‥‥ふふっ、遂にかすみさんの出番ね」 「‥‥え?」 「月村さん、言ってたよ?‥‥鯨を駆るのは“藤に連なる者”だって」 「‥‥藤に‥‥連なる、者‥‥」 「なんのことかわからなくてね、もう根掘り葉掘り聞いちゃった、へへへ‥‥ 藤に連なる者‥‥つまり、藤枝と藤井‥‥あやめさんとかすみさんだよ」 「‥‥‥‥‥」 嫌な言葉。 藤の華は儚い。 野に咲く華ではないのだから。 枯れた木を彩る、儚い華‥‥人の生き様を見るような、暗い華‥‥ お母さんはわたしに“かすみ”という名前をつけた。 かすみ草は決して儚い花じゃない。 かすみ草は可憐で強い花。 かすみ草は全ての花を輝かせる唯一の花。花のための花。 そう言って‥‥お母さんは‥‥ 藤に連なる者‥‥嫌な言葉。 散ることが定めの儚い華‥‥ あ‥‥ あやめさんも‥‥もしかして‥‥ あやめさん‥‥もしかして‥‥わたしのことも‥‥ 「‥‥さて、準備はいいかな?、お二人さん」 「ええ」「‥‥‥‥」 「‥‥?‥‥どうした、かすみくん?」 「え?‥‥あ、いえ‥‥なんでも、ない、です‥‥」 わたしとあやめさんは花やしきに出向いた。 そこで待ってる人がいる。鋼鉄の鯨を駆るために‥‥ 「‥‥翔鯨丸を実際に動かすには最低三人必要だ。山崎少佐の設計段階では七人 という設定だったが‥‥私が手を加えて、三人でも動かせるようにした」 「あら‥‥紅蘭が調整してたはずじゃ‥‥」 「紅蘭には他に仕事がありそうでしたからね、風組の足は風組で担当するという ことにしたんですよ。尤も、彼女のおかげで半日もかかりませんでしたが」 「なるほどね」「‥‥‥‥‥」 「具体的には航空管制と機関管制、そして兵器運用。実戦では三人がそれぞれを 個別担当する。発進及び着陸時には兵器運用担当者が機関管制と航空管制担当 を補佐するようになる」 「ふむ‥‥」「‥‥‥‥」 「由里のほうは轟雷号に集中させるから、暫くは火器運用と航空管制をわたしが 担当することになるな。かすみくんには機関管制をお願いしよう。あやめさん には操縦がメインですね‥‥そのうちかすみくんにも覚えてもらうから」 「そうね、それがいいわ」「‥‥は‥‥い」 由里‥‥ 月村さんは確かにそう言った。 呼び捨てで。 わたしのことは‥‥かすみ、くん。 「ほんとはあと一人いれば楽になるところだが‥‥ま、焦ることはないね」 もう一人、か‥‥ 未だ見つからない、最後の風組隊員。 ‥‥計器類がぼやっ輝き始めた。 鯨のお腹に飲み込まれてる気分。 何をしていいのかわからず、ただ月村さんの言われた場所に立っていたわたし。 実際に動かす訳ではなかった。 翔鯨丸が飛ぶ、それは特級指令に準ずる警戒体制が発令された時だ。 訓練は模擬だ。 実際の操作手順を行う。すると鯨は実際の動きと同様に身じろぎをする‥‥という 仕掛けを造ったらしい。 目の前の操作盤。 蒼いランプが緑色に点滅する。 その光は操作盤のあらゆる所から発した。 わたしは‥‥ほんとになんとなく‥‥その一ヶ所に触れた。 そのスイッチが一番強く光った気がしたから。 すぐに押せと‥‥声が聞こえた気がしたから。 ブ‥‥ブオオオオオンン‥‥ 『わ、わ‥‥な、何?』 「‥‥流石だな」 「‥‥え?」 「今のタイミングがベストだ。しかし、教えてないのに‥‥何故わかったんだ?」 「‥‥わ、わかりません‥‥な、なんとなく‥‥」 「ふむ‥‥風神の力か‥‥」 「え‥‥」 「今のタイミングで補助機関部からメインエンジンにトリガーをかけるようにね。 マージンは狭いから、タイミングがずれると霊子核反応が誘発しないから」 「‥‥?‥‥わ、わかりません‥‥あ、いえ‥‥わかりました」 「ははは‥‥原理は後で覚えたらいいさ。さて次は‥‥あやめさん、だな」 「ええ」 楽しかった。 訓練という名目でも、わたしにとっては生きてる喜びを実感できる時だった。 それまでの人生が色褪せて見えるほどに充実した時だった。 あやめさんがいた。 由里がいた。 そして‥‥あの人‥‥ 月村さん‥‥ 雪が舞う頃。 月村さんは滅多に姿を見せなくなっていた。 一ヶ月に一度会えればいいほうだった。 なんだろ‥‥ 銀座にいても、なんとなく落ち着かない。 事務整理をしてても、心はそこにはなかった。 『‥‥さん‥‥かすみさんっ!‥‥これ間違ってますよっ?‥‥どうしたの?』 『‥‥え?‥‥あ、ご、ごめんなさい‥‥』 そうなんだ‥‥ 考えてることと言えば‥‥月村さんのことだけだった。 会いたい。 わたし‥‥あなたに‥‥会いたい‥‥ あなたのことが‥‥ 想いは募る一方だった。 ‥‥好き。 大好き‥‥ こんなこと‥‥初めてだった。 何故だろう‥‥どうして好きになったんだろう‥‥ わからない。 どうしていいかも、わからない。 わからないけど‥‥ そうだ‥‥ きっと人を好きになるのに理由なんていらないんだ。 好きだから‥‥大好きだから‥‥ そうなんだ。 どうして欲しいか‥‥それはわかっていたんだ‥‥ ‥‥傍にいて。 いつもその笑顔が見たい。 声が聞きたい。 ‥‥わたしに‥‥触れて。 わたしを‥‥ わたしを‥‥ 「‥‥おいっ」 「‥‥え?」 「お嬢さん‥‥そっちからぶつかっといて‥‥挨拶なしかいっ!?」 わたしはぼけっとして浅草の街を歩いていた。 何故浅草に来てたんだろ‥‥? 「へぇ‥‥いい女だな‥‥ちょっと付き合ってもらおうかい?」 夜の浅草、見世通り。流石に殆どの店が閉まっていた。 仁王様を横目で見つつ‥‥ 裏通りには居酒屋がちらほら。酔っ払いに絡まれるなんて、どうかしてる。 勿論、わたしは武道の心得もあるから臆することなんてなかった。 でもその時は‥‥ 「いてて‥‥このアマ‥‥おいっ」「へへ‥‥なかなかイキがいいな」 「あ‥‥」 後ろを取られてしまった。 無心になんてなれない。合気は無の領域から力を生み出すのに‥‥ 不覚。 なんてこと‥‥力じゃ男の人には‥‥ 「は、離して‥‥」 「そんな邪険にすんなよ‥‥」 「へへへ‥‥さあさ、いいところに連れてってやっからよ」 「そこで何してんのっ!、その人を離しなさいっ!」 暗い路地裏に響く明るい声。 輪郭が浮かび上がるその姿‥‥暗い仲見世通りにぽっかりと浮かぶ燐光。 それが閃く‥‥稲妻のように。 「けっ、ガキはすっこんでろっ!」 そう、どう見ても子供だった。 「口で言ってもわからなきゃ‥‥懲らしめてやるっ!」 影が動いた。燐光を引き連れて奔る少女。 まるで稲妻だ。 稲妻の少女。 雷門を護る神様は雷神を召喚したのだろうか‥‥ 「ち、ちきしょ〜、お、覚えてろっ」 「へんっ、一昨日来やがれってんだっ‥‥大丈夫?、お姉さん」 「あ、ありがと‥‥」 「へへ‥‥お母さんと、はぐれたのがよかったのかな?」 「え‥‥?」 その子は母親と一緒に帝都に旅行に来ていたらしかった。 如何にも下町で育ったような口振に、わたしは一瞬浅草の住人かと勘違いしてた。 「あ、わたし、椿‥‥高村椿って言います。この近くの旅館に泊まってるの」 「そうなんだ‥‥おかげで助かったわ」 まだ少しぼ〜っとしていたわたしを、その子は心配してくれたようだ。 「あの‥‥よかったら一緒にごはん食べませんか?」 「え?‥‥‥そうね‥‥そうしようか」 「へへ‥‥よかった。帝都に知りあいが出来ちゃった」 最後の一人が見つかった。 13歳になったばかりの少女。 そばかすにおかっぱの髪形。 あどけない顔でも、その瞳だけは違った。闇を貫く強い光を放っていた。 椿を見るなり、米田司令は月組に配属させようと提案した。 それは間違ってはいない。椿の力を目の当たりにしたわたしにとっては‥‥ でもあやめさんが反対した。 そう、椿の力は‥‥風組でこそ、活かせるのだから‥‥ 風組は完成した。 そうだ。 決して花組にも引けをとらない。 これが風組なんだ‥‥ でも‥‥ あの人は‥‥ やっぱり今日も会えなかった。 次の日も。 その次の日も‥‥ ずっと‥‥ 「‥‥今日も‥‥来ないのかな‥‥」 「え?‥‥わたしは今日だって聞いてますよ?」 「‥‥あ‥‥あ、そうじゃなくて‥‥」 「?」 あの人には会えなかった。昨日も、一昨日も、その前の日も‥‥ だから扉をノックする音がしたとき、わたしは心臓が止まりそうになるほど驚いた。 コンコン‥‥ 「ど、どうぞ」 「失礼します」 カチャ‥‥ 鳳凰じゃなかった。 扉が開かれた刹那、入り込んできた空気。 それは紅い光ではなかった。青白い稲妻を伴っていた‥‥わたしにはそう見えた。 「大神一郎と申します、粉骨砕身の決意でがんばりますっ!‥‥あれ?‥‥ここは 支配人室じゃ‥‥あ、す、すいませんっ、間違えましたっ」 バタンッ‥‥ 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 『‥‥どなたですか?』 『大神一郎と申します、粉骨砕身の決意でがんばりますっ!、米田司令っ!』 『‥‥失礼な‥‥わたしの名前はマリア・タチバナ、ですが?』 『え‥‥し、失礼しましたぁ‥‥』 『‥‥ふん‥‥あなたが大神一郎少尉ですか』 『ごくん‥‥り、立派だ‥‥』 『‥‥何が?』 『あ、いえ、その‥‥素敵なコートですね』 『むぅ‥‥既に隊長失格』 「‥‥あの人が‥‥花組の隊長さんに、なる訳、ね‥‥」 「あ‥‥あ!‥‥お、大神さんっ、赴任届を‥‥」 そうだ。 もう一人いたんだ。 風を束ねる者は鳳凰。 ‥‥でも風を呼ぶ者は違う。風を育む者は違っていたんだ。 何もない空間に風は生まれない。 足で踏める大地があって、その地を照らす太陽があってこそ‥‥ それは花を育む者でもあったんだ。 「ねえ、かすみさん‥‥」 「‥‥え?‥‥何、由里?」 「‥‥かすみさんは‥‥月村さん、だよね‥‥?」 「え‥‥なんの話?」 「‥‥ううん、なんでもない」 由里の言葉に上の空で返事をした。 わたしは初めてその人を見た時、背中に狼の影が見えた気がした。 そう、その人の影は‥‥まるで鳳凰をも喰らうかのような覇気を噴出させていたんだ。 決して媚びない、決して妥協しない‥‥決して諦めたりはしない。 どんなに優しい笑顔を見せていても、どんなに柔らかな言葉であっても‥‥ その人の本質を、わたしは見逃しはしなかった。 きっと由里も‥‥ 花を育む庭師は風をも惹き寄せてしまったのだ‥‥ じめじめした梅雨が終わり、夏が来て、そしてその夏も終わろうとする初秋。 わたしはあまり、思い出さなくなっていた。 ‥‥あの人のことを。 わかっていた。 思い出したくなかったんだ。 思えば辛くなるだけ。 だから、わたしは‥‥ただ、今の生活に幸せを見出そうとしていた。 ‥‥大神さんもいる。 そんな秋の寂しさが香る頃‥‥ わたしの前にその人は再び姿を現した。 帝国劇場。 みんな、出かけていた。 わたしが留守番しているのがわかっていたかのように、その人は‥‥わたしのために、 劇場に姿を見せたんだ‥‥ 「‥‥風が強くなりそうだね」 「‥‥‥‥」 「かすみ草は大丈夫かな?」 「‥‥え?」 「わたしは‥‥」 「‥‥?」 「‥‥かすみ」 「!」 想いは消えていない。 忘れることなんて出来なかった。 会いたい‥‥ わたしを見て‥‥ わたしに‥‥触れて‥‥ ずっと願っていた。 あの人は‥‥最後にわたしに触れた。 わたしを‥‥いつまでも抱きしめていてくれた‥‥ そして‥‥ あの人は消えた。 もう帰らない時。 だから‥‥もう忘れるんだ。 雪が舞う。 桜が咲く。 夏の眩しい陽射しが終わると‥‥ 紅葉の季節。銀座は変わらない‥‥ また雪が舞う。 そうして‥‥あの人は記憶の彼方に去っていった。 そして‥‥ 花の咲く季節がやってきた。 それは風の季節の終わりでもあった。 風は花を齎す。 風は‥‥
十章.動きだす時計(後編)
<その1> 「‥‥‥‥‥」 「‥‥何故?」 「‥‥‥‥‥」 「どうして?‥‥どうして‥‥傍にいてくれなかったんですか‥‥?」 「‥‥‥‥‥」 雨の横浜。 静まり返った神崎邸に雨音とそしてかすみの声だけが響いていた。 ソファに座っている者はいなかった。 ただじっと立ち尽くす紅い影‥‥月影。 俯き唇を噛む。初めて見せる苦汁の表情だった。 その月影を真正面から見つめるのは、かすみ。 決して感情を表に出さない、帝撃の大和撫子。 それが‥‥涙で濡れていた。 それまで溜込んでいた想いを一気に吐出すかのように。 「‥‥席をはずすよ‥‥龍塵殿、別室へ」 「忝ない‥‥神崎殿とは私が話す故、月影殿はこの場にて‥‥」 神崎重樹と龍塵は月影とかすみを残して別室へ移動した。 サァ‥‥ 霧雨の音。 耳鳴りがするほどの無音に、雨音は優しく鼓膜を刺激した。 その音に導かれるように、かすみはゆっくりと月影に近づいた。 だが月影は‥‥ 「‥‥‥‥」 「‥‥何故?」 同じ距離を保つように後退する。 「わたしのこと‥‥もう‥‥?」 「‥‥‥‥」 「わたしじゃないの?‥‥隊長の傍にいるのは‥‥わたしではないの?」 「‥‥‥‥」 「由里、なの?」 「‥‥違う‥‥違うんだ‥‥」 「じゃあ誰?、あなたを奪ったのは‥‥だれっ!?」 顔色が変わる。 涙で濡れていたかすみの表情が激変した。 埋もれていた記憶が甦る。 燻っていた想いに再び火が灯る。 「‥‥出ていってくれないか」 「!」 「帝撃から‥‥離れて欲しい」 「出て、いけ‥‥?」 「許してくれ‥‥」 「‥‥‥‥」 「かすみ‥‥」 「わたしたちを捨てて‥‥勝手にどっか行って‥‥」 「‥‥すまない」 「‥‥今更、許してくれ、ですって?‥‥出ていけ、ですってっ!?」 「すま、ない‥‥」 「勝手なこと言わないでっ!、冗談じゃないわっ!」 「許してくれ‥‥許してくれ、かすみ‥‥」 「わたしをこんなにしておいてっ、わたしを、わたしを独りぼっちにしてっ!」 「‥‥君はひとりじゃない。由里や椿くんが‥‥」 「うるさいっ、きれい事はたくさんよっ!」 「‥‥‥‥」 「わたしはっ、あなたがっ‥‥あなたが‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥なのに、あなたは‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥傍に‥‥傍にいて欲しいの‥‥」 「あ‥‥」 「‥‥さみしいの‥‥さみしいのよ‥‥」 「かす、み‥‥」 無音。 雨音もいつしか消えていた。 雨は間違いなく降っている。だが雨音は聞こえなかった。 耳鳴りがする。 月影の耳には、ただかすみの啜泣きしか聞こえてこなかった。 「驚いたな‥‥まさか月村くんだったとは‥‥」 「月村殿と申されるのか‥‥月影殿の本名は‥‥」 「‥‥知らなかったのか?‥‥友ではないのかね?」 「友‥‥そうですな、恥ずべきことですな‥‥」 「どこかで見たことがあると思っていたが‥‥よもや帝撃風組隊長の訪問とはな。 すみれのことも知っていて当然か」 「帝国華撃団‥‥風組隊長‥‥月影殿が‥‥」 神崎重樹の口から出た言葉に、龍塵は改めて驚きを禁じえなかった。 それもむべなるかな、龍塵が月影と初めて会ったのは今朝のこと。 長い、長い一日は、龍塵をして時間感覚を狂わせてしまうほどだったから。 月影は甦った。そして龍塵も。暁蓮を護る騎士として‥‥ 紅蘭を主と慕う自分と同じく、杏華を護るために‥‥ そして、四神獣の化身として‥‥その最後の一人として、月影は龍塵の前に姿を 現した。 ‥‥友ではないのか? 友‥‥ その言葉を最後に聞いたのはいつだったのか? ‥‥いや、自分に友などいなかった。 自分は孤高の魔王だったからだ。冥界を統べる冥王だったからだ。 魔王に友などいらない。冥王に友情など不要だった。 ‥‥主に出会うまでは。 月影の過去は知らない。 知らないが‥‥心を通わせるために必要なのは必ずしも時間ではなかった。 それは、今、こうして月影と共に暁蓮のために動いていることが証明している。 魔界に生きる者として、かつてこれほどの至福の時があっただろうか。 主のために戦う。 主を護るために。 一人ではない。そして目的を共有できる仲間ができた。 口の悪い青年。風のような青年。月の雫が地に落とした影。 友、と呼んでよいのだろうか。その資格が‥‥お互いにあるのだろうか‥‥ 「‥‥お茶でも用意しよう」 「お気遣い、感謝致しまする。歓迎して頂けるのが何よりの喜び」 ‥‥が、同時に龍塵は少なからず罪悪感を覚えた。 それは重樹の言葉に対して、だった。 すみれのことを月影が知っていたのは‥‥風組隊長としてではなかったからだ。 美しい花が血で染まったこと。その担い手になったことを知ったら‥‥ 執事が緑茶を勧める。 懐かしい香りだった。 「これは‥‥緑茶ですな」 「ああ‥‥わたしはすみれと違って紅茶よりも緑茶のほうが好きでしてね」 「私も同様です。緑茶‥‥緑が私の護るべき色ですからな」 「?‥‥本題に入ろうか。今日の用向きをお聞かせ願いたい」 「お願いしたい儀ありて‥‥」 「人の義に反することなきなら承ろう。ほかならぬ月村くんの意思である上は」 「‥‥‥‥」 神崎重樹は間を置くことなく真顔に戻っていた。 神崎重工総帥としてではない、神崎風塵流先代継承者のそれに。 龍塵はお茶を一口啜って、そして真正面に座るその重樹の目をじっと見つめた。 「さるお方を‥‥こちらにお預けしたいのです」 「ほう‥‥」 「わたくしどもの主‥‥命を狙われております」 「‥‥‥‥」 「既に我等が住まいは相手方に察知されており最早一刻の猶予もありませぬ。願わ くば、神崎殿のお力をお借りできれば‥‥」 「‥‥どのような境遇かは存じぬませぬが‥‥放ってはおけませんな。月村くんが 関係するとなると尚更」 「では‥‥」 龍塵の顔が輝く。 こちらも感情を表さない者としては珍しい反応だった。 「その前に‥‥お聞きしたいことがある‥‥」 「なんなりと」 「今わたしの屋敷には藤井くん‥‥先に客間で対応した女性だが‥‥彼女以外にも 二人ほど仲間がいる」 「‥‥‥‥」 「その一人‥‥月村くんに関係するらしい事件に巻き込まれてしまったのだよ‥‥ 実はわたしも、だがね」 「‥‥‥‥」 「何かお心あたりはおありかな?」 「‥‥陸軍ですかな?」 「そのとおりだ」 今度は曇った。 龍塵にしてみれば、弁明をすることなど意に反することだが、嘘をつくことは更に 身を切られる行為だった。 勿論、主がそのように申し付けていたからだ。 まだ幼かった頃の、おさげ髪の守護天使が。 「誤解であれば、それに越したことはない。が‥‥少なくとも我々はあまりうれし くない歓迎を受けたのでな。その折りに月村くんの名が出たのだよ」 「‥‥‥‥」 「月村くんは関係ない‥‥のだな?」 「‥‥前もって言わせていただきたい。これは主とは無関係のことにつき‥‥神崎 殿のご心象を悪くされた場合は、全てこの龍塵が責任を負いまする」 「‥‥‥‥」 「神崎殿のご懸念通り‥‥今回の陸軍の騒動はこの龍塵と‥‥そして月影殿による ものです」 「‥‥‥‥」 「理由は単純でございます。我が主のため、我が主の想いを成就するため‥‥我が 主の‥‥無念を晴らすためにて」 「無念?」 「詭弁と取って頂いても結構です。我々が成さずとも、この国の亡者どもはいずれ 我が主の祖国へ侵攻するでしょう‥‥無論、我が主の国にても、そのような輩は おりまする。この度の処置はその下衆どもを共倒れさせるための策」 「祖国‥‥もしや貴殿らは大陸から来られたのか?」 「‥‥はい」 「そうか‥‥ふむ‥‥言いたいことは朧げながらわかる」 「‥‥神崎殿を巻き込んでしまったのは計算外でした。お詫びの言葉もありませぬ。 そして月影殿の‥‥お連れの方までも‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥主の過去を申し上げることだけはご勘弁を‥‥ただこれだけはご理解願いた い‥‥我が主の祖国、そして我が主の想い人の祖国‥‥その二つの祖国を案じて いることだけは確かなのです。そして我が主の想い人を傍におきたいと‥‥それ が主の願いなのです」 「‥‥だが結果として何の罪もない人々が犠牲になっているのだよ?」 「生きていくことに喜びを見出している人々がいる‥‥それは重々承知しておりま する。決して命を軽んじている訳ではありませぬ。決して‥‥」 「‥‥もう一つ」 「はい」 「貴殿らの主の名‥‥よもや李暁蓮とは申すまいな?」 「‥‥‥‥」 「‥‥そうなのか?」 「我が主は‥‥‥李、紅蘭‥‥」 「なに!?」 「そして‥‥月影殿の主は‥‥」 「‥‥‥‥」 「月影殿が‥‥かすみ殿と離れなければならなかった‥‥その理由が‥‥」 「‥‥‥‥」 「許してくだされ、月影殿‥‥」 「まさか‥‥」 「‥‥藤枝杏華様、でございます」 「!」 神崎重樹は暫し唖然として目の前の屈強な男性を見つめた。 狭すぎる。 何故、この世はこれほど狭いのか‥‥ ‥‥時計か? 時計が導いたのか? 彼女たちが卯型に搭載した、あの時計は‥‥彼らを思ってつけたのか? あの‥‥二人の少女たちは‥‥ 「杏華、くん、が‥‥」 「そしてお願いしたいのは‥‥今一人の主‥‥」 「‥‥身内、か?」 「‥‥‥‥」 重樹はソファに深く腰を沈めた。 何を考えたらいいのだろうか‥‥その判断が鈍ってくる感覚があった。 杏華の過去とどういう繋がりがあるのか。 杏華の過去はいったいどんなものだったのか。 詮索する気はない。が、それでも杏華の健気さは、いつも重樹を、そして忠義をして その苦しみの根源を解決してやりたいと思わせるほどに、か弱く儚いものだった。 だから‥‥それが出来るのであれば、過去を知ることが必要であれば‥‥ 重樹は口には出せなかった。 今一人‥‥ 同じ境遇を持つ少女。 その存在もあった。 同じチャイナドレスに身をつつんだ、おさげ髪の守護天使。 杏華よりも、もっと華奢で、もっと儚げな少女だった。 少なくとも重樹にはそう思えた。 「‥‥承知した」 「!‥‥ありがたき幸せ‥‥感謝の言葉もありませぬ」 「わたしの屋敷にいる以上、如何なる者にも手出しはさせん。約束しよう」 「この龍塵に神崎殿のお力になれることがあれば‥‥何なりと申し付け下さいませ」 「‥‥花やしきでのことは忘れよう‥‥月村くんの名は‥‥聞かなかったのだ‥‥」 重樹は立ち上がった。 「‥‥ご主人を早くお連れしなさい。そのお方は今お一人なのだろう?」 「はい‥‥」 「二階の西側の部屋を空けよう。君たちはその横の部屋に」 「忝のうございまする」 「‥‥お護りする、そのお人の‥‥名前を聞かせてもらえるか?」 「‥‥‥‥」 重樹は解答を強いることはしなかった。 龍塵が俯く様を見て‥‥静かに部屋を出た。 そして扉を閉じる刹那、その龍塵の今にも消え入りそうな微かな声が‥‥ 重樹の背中に響いた。 「‥‥蘭にございます」
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