<その2> 

カーテンが揺れていた。 
閉めたはずの窓が開け放たれ、白い月が窓辺に反射して部屋を薄く照らす。 
風は月明かりが招いたものなのだろうか。 
緩やかに靡く白いカーテン。 
その部屋の主と同じ色のカーテンが同じ色の月に照らされて揺れていた。 
そして月明かりは窓辺に立つその女性の影を、まさに夜の化身とでも言わんばかりに、 
悩ましげに浮かび上がらせる。 
暖かい陽の光とは対照的な位置の美しさ。夜の蝶。冬の蝶。 
金色の髪は太陽の光よりも寧ろ月明かりを愛していたかもしれない。 

冬湖は大神の部屋へ入ると、少し眩暈に似た既視感に襲われた。 
懐かしくも切なく辛い過去。 
初めて入った帝国劇場、そして大神の部屋に、妙な懐かしさを覚えて、冬湖は窓辺に 
立ち尽くしていたのだった。 
「‥‥大神一郎‥‥‥麗一様の分身、か‥‥」 
治療室で出会った大神一郎という青年。勿論初対面だった。 
勿論その兄である神凪の側近として半生を生きてきたのだから、生き写しとも言える 
弟との対面に感慨を覚えない訳ではなかった。 
だが、ただ単に似ている、ということで片づけられる事とも思えない。 
冬湖を襲った既視感は、表面的なものではなかったらしい。 
「‥‥まあいい。それは後で考えよう‥‥今は‥‥」 

大神の部屋には冬湖以外にもう一人客がいた。 
ベッドの上で眠るその少女。 
冬湖はベッドに近寄るや否や、その少女にかけられた毛布をはぎ取った。 
眠り姫、とはその少女のためにあった形容かもしれなかった。 
銀色のチャイナドレスが寝乱れて隠すべき場所をも顕にする。 
白い脚。 
白い胸元。 
昔話の眠り姫は王子様の接吻で目覚めたが、その王子がもしこの少女を目の前にした 
なら、ほんとうに接吻だけで済んだかは疑問だ。 
手に捲いた包帯が殊更に痛々しさを助長する。人間の暗い欲望を満たさずにはいられ 
ない、まさに生贄のような姿だった。 

「美しい‥‥流石に“蛇”の末裔だけはある」 
解けかかったそのチャイナドレスの胸元を、全て開ける冬湖。 
妖しすぎる白い丘陵が月明かりに浮かび上がった。 
冬湖の口元が震えた。 
「‥‥事が成就された暁には‥‥あなたは私がいただくことにしよう‥‥」 
白い丘を冬湖の掌が覆う。 
そして蠢く‥‥丘は必死になって元の形状に戻ろうと捻じり返す。 
「う‥‥」 
「‥‥素晴らしい‥‥私が女でなければ‥‥今すぐにでも‥‥」 
「‥‥ん‥‥あ‥‥」 
「ふふ‥‥そのまま‥‥口を開いていなさい‥‥杏華さん‥‥」 
「あ‥‥」 
悩ましげに震える杏華の唇、それが冬湖の言葉通りに薄く開かれたまま硬直した。 
あくまで杏華の乳房を玩びながら、冬湖は杏華の口元に自分の唇を近づけた。 
「ふ‥‥」 

唇を噛む。すると冬湖の唇に小さな紅い珠が創られた。 
冬湖の紅い唇の紅い血の珠。 

ぴっ‥‥ 
音にならない音を発して、その雫は主から離れた。 
紅い雫が。 
杏華の唇に向かって。 
空中でその紅い線は再び珠を創った。 
紅い珠が、まるでスローモーションのように落下していく。 

杏華の唇に付着する‥‥ 
その寸前。 

シュ‥‥ 
「!?」 
珠は蒸発した。 
蒸発した、というより、拡散した、という表現が正しかった。 
杏華を避けるように、その紅い霧はベッドの白いシーツをうっすらと彩った。 

「‥‥だれだ?」 
冬湖はすぐさま窓際に視線を戻した。 
先程まで自分がいたその場所に。 
冬湖の血を蒸発させたのは普通の人間には見えない光線だった。 
その光の刃、確かに見覚えがあった。 

カーテンが揺れていた。 
今度は風が導いたらしい。 
そこには人影が創られていた。 

「‥‥イケマセンヨ、冬湖サン」 
「!‥‥春蘭!?」 

蘭というよりも薔薇を思わせるような少女だった。 
静寂な美というよりも、艶やかで躍動的な美しさを放つ。 
太陽の申し子の如く、その小麦色の肌は月明かりの下ですら生き生きと輝いていた。 
カンナや玲子に近い色‥‥幻のように浮かび上がる冬湖の白い肌とはまさに対照的に。 
そして長い髪を、さくらとは違う結び方で後ろに束ね、それが緩くカールして動く度 
にバネのように弾む。強い光を放つ瞳。暗闇でもはっきりとわかる瞳だった。 

「その人に手をかけること、認められマセン」 
「何故、お前が‥‥」 
「秋緒の指示。夏海も来てマスヨ。大陸には秋緒が残りましたデス」 
「‥‥紅蘭を自分一人でガードする気か‥‥あの小僧‥‥己惚れおって‥‥」 
「アレ?‥‥もしかして、秋緒とあんまり仲良くなかったりシマス?」 
「‥‥‥‥」 
「ふ‥‥夏海は横浜に留まってマス。なんか山の手におかしな気配を感じたみたいデ 
 ス。ワタシがひと足早く銀座に来たのデスが‥‥でもラッキーでしたネ、危なくア 
 ナタに過ちを起させるところデシタ」 
「‥‥横浜?」 
「ええ、そうデス。夏海が言うには‥‥ツキカゲ、とか言ってましたネ」 
「何っ!?‥‥まさか、あの子‥‥一人で‥‥」 
「ツキカゲ‥‥そう言えば、その時計と同じ名前デスネ」 

春蘭と呼ばれた少女は無造作に冬湖の近くまで歩み寄った。 
舞台の上を女優が歩く時、恐らくはそのような歩行訓練を受けるのだろう。 
背筋をピンと伸ばし、胸をはって、視線はまっすぐ。 
そんな歩き方だった。 
冬湖の30センチほど手前で停止する。左手を腰に充てて。 
ファッションショーでもやれば様になる体裁だった。 
身長は冬湖よりも低い。すみれより若干高いぐらいか。 

「それよりもアナタデス、冬湖サン‥‥こんなこと、秋緒が知ったらタダでは済みま 
 せんヨ?‥‥秋緒は大佐よりもクール‥‥知ってるデショ?」 
「秋緒‥‥あの坊やが入って四季龍は変った‥‥いつか始末してやろうと思っていた。 
 潮時、ということね」 
「やっぱり仲悪いんデスカ‥‥でもワタシ的には、昔の四季龍など知ったこっちゃア 
 リマセーン。大佐の部下であることに変りはアリマセン、デース」 
「‥‥では、紅蘭の意志だ、と言ったら?」 
「紅蘭サンは優しいデース。アナタが“月影”を持ち出した時、あの人は自分が頼ん 
 だと言いましたデス。でもそれは嘘デス。アナタ‥‥杏華サンを処置した後‥‥さ 
 くらにまで何かするつもりデシタ、デショ?」 
「‥‥‥‥」 
「さくらはワタシの思い出。さくらは大佐の思い出‥‥さくらに手を触れること、ワ 
 タシが許しマセン」 

四季龍の春蘭。 
冬湖、夏海に次ぐ四季龍要員として、神凪はアイリスをスカウトする腹積りでいた。 
それがあやめに先をこされ、結局神凪は当時仙台に常駐させていたもう一人の部下を 
引き入れることにした。幼い頃のさくらを護る、さくらよりも幼い少女‥‥それが春 
蘭だった。勿論さくらは憶えているはずもない。 
褐色の肌はカンナと似てはいるものの、どちらかというと混血を思わせるような色。 
言葉使いが何処かチグハグなところが、余計に日本人離れした雰囲気を助長している。 
瞳は深い瑠璃色。髪は漆黒。顔立ちは南欧系の美少女。 
春蘭という名は本名ではなさそうだ。 

「う‥‥ん‥‥」 
寝返りをうつ杏華。 
月光に輝く銀色のチャイナドレスが更に乱れる。 
妖しすぎる姿態に、春蘭も暫し目を奪われた。 
「成程‥‥アナタの気持ち、わからないでもないデス、冬湖サン‥‥杏華サンは人間 
 の持つ暗い部分、暗い力を刺激する能力がありそうデス‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「アナタの血を使い、そして“月影”を使う‥‥間違えてはいけませんネ、それでは 
 “月影”の闇の力を導いてしまいマス」 
「‥‥‥‥」 
「アナタの血は‥‥アナタの“破邪の血”は危険過ぎマス」 
「!‥‥何故それを‥‥」 
「ワタシを侮ってもらっては困りマース。杏華サンは想い人のために‥‥そして紅蘭 
 サンの想い人のために目覚めるのデス‥‥それが“約束の時”‥‥神凪大佐のため 
 ではアリマセン‥‥ましてや、アナタのためでも」 
「‥‥‥‥」 
「そう‥‥大佐は既に完璧デス。日本の男、カスしかいないと思ってマシタけど、あ 
 の人はちょっと違いマース」 
「‥‥ふ」 
「でも完璧過ぎるから‥‥あの人はライバルを欲した。自分に対抗できる強者を欲し 
 た。そしてその人は‥‥実は身近にいた、デショ?」 
「‥‥お前は何もわかってないわ」 
「あら‥‥違うんデスカ?」 
「私に指図するな、春蘭‥‥死にたくないでしょう?」 
「アナタ、目の色が少し変りマシタネ‥‥だれデスカ?、入知恵したのは」 
「‥‥‥‥」 
「アイリス、ではないデショ?、あの娘には会えなかったんデスカ?」 
「‥‥時間が勿体ないわ‥‥表に出なさい」 
「そうデスカ‥‥ワカリマシタ」 

春蘭は位置を変えて、冬湖を手招きするような仕草をした。 
窓に向かって。 
「お先にドーゾ」 
「‥‥‥‥」 
ちらっと杏華に一瞥をくれる冬湖。 
それは大神が頭痛に悩まされた時‥‥帝国劇場に暁蓮が来た折りに椿に見せたあの視 
線に似ていなくもなかった。 
窓に向かい、そして飛ぶ。 
金髪が月明かりに反射して、まるで月の女神が降臨したかのような美影。 
「‥‥美しいデスネ」 
そして春蘭も飛び降りる。 

大神の部屋に再び沈黙が訪れた。 
眠る杏華の枕元に紅い時計を残して。 
  

「‥‥‥‥」 
「?‥‥どうしました、司令」 
「‥‥先に行ってろ」 
「?‥‥わかりました」 
支配人室を出た瞬間、神凪は扉の前で動きを止めた。 
不審に思った大神が訪ねるが‥‥それも神凪のことだから、と気には留めずに食堂に 
向かう面々。最後に斯波が振り返ったが、それも見えなくなってから、神凪は考え込 
む仕草を見せた。 
「冬湖のヤツ‥‥」 
  
  

『そっちに問題がないようなら、あなたも早く戻ってきて』 
「‥‥了解です、副司令。では‥‥」 
銀弓たちが帝国劇場入りした頃、可憐も葉山に到着していた。 
大神が拉致された折り、神楽と氷室が追跡に使用した単車を再度使ったようだ。 
神崎邸は以前神凪と共に来たことがあって、場所は把握していた。 
単車を止めると同時に銀座に通信を送る。マリアから返ってきた返事は決して朗報で 
はなかった。 
「すみれさんと真也くん、か‥‥迂闊だった‥‥銀座を空けるんじゃなかった」 
翔鯨丸が収容されて、まだ間も無い。 
夜だから静かなのは当たり前だが、それでもこの静けさは逆に可憐の心に騒めきを齎 
した。勿論銀座のこともある‥‥不安は不安を呼ぶ。 
可憐は呼び鈴を押した。 
『‥‥どちら様で?』 
「可憐と申します。ご主人と面会したく参上しました」 
『‥‥お待ちください』 
暫くすると門が開いた。 
入っていい、ということらしい。 
再度単車に跨がる。夜だから可憐もスカートを気にしなかったようだ。 
ス‥‥ 
「‥‥ん?」 
頬に風を感じた。気配の風、と言うべきか。 
頬に少し鳥肌立つような騒めきを催す可憐。 
周りを見渡すが‥‥誰もいない。 
「‥‥‥‥」 
五感を総動員する。可憐ならではの“第六感”も。 
それでも気配は感じ取れなかった。 
「気のせい、か‥‥」 
可憐は単車を神崎邸正面玄関に向けた。 
その可憐の後姿を見つめる瞳。 
木陰に姿を溶け込ませて、可憐の認識力をも素通りさせてしまう隠形の術。 
単車で走る可憐と並行して、同じ速度で樹木を走る。 
それも可憐に気づかれないように。 
その影は森を抜け、庭を走り抜き、神崎邸に着くや否や、二階まで飛翔した。 
「!?‥‥やはり気のせいではない‥‥」 
同時に到着した可憐が、一瞬だけその気配を捉えた。 
単車を降りて周囲を探索する。今度はかなり真面目に。 
暫くそうしていると、執事が迎えにきた。 
特に問題にならないと判断し、可憐は神崎邸に入り込んだ。 
二階のベランダから可憐の動向を伺っていたその影。 
ゆっくりと身を起す。 
「‥‥やるね‥‥可憐さん‥‥」 
月明かりが浮かび上がらせる、その姿。 
美少年?それとも美少女か?。 
アイリスよりは年上のように見え、さくらたちよりは確かに年下に見える。 
だが、その姿に女性を感じさせる要素は見出せない。かと言って男性的な逞しさなど 
も見出せない。中性的な姿。どちらかと言えば男装の少女、という雰囲気だ。 
背丈もそれほど高くはない。 
銀色の髪は月明かりが与えたと言っても信じてしまいそうだ。それほど月の色に酷似 
していた。 
それが女性である、とはっきり認識させるのが後姿と壁に写った“影”。輪郭は明ら 
かに女性のそれ、だった。 
その輪郭の一片。右手にあたる部分から影はさらに延びていた。 
それは背丈ほどもある槍。 
「‥‥出番がなければいいけど」 
  

「こちらでございます」 
「‥‥この気配‥‥」 
案内された部屋の向かい側に位置する、もう一つの客間に可憐は意識を集中した。 
三人?‥‥いや、二人、か。 
一人は‥‥女性‥‥この気配は‥‥ 
「‥‥かすみ、さん‥‥か」 
「他にもお客様がいらしております。こちらの間にて今暫く御待ちください」 
「‥‥ありがとう」 
可憐は気配を発するその客間の扉を暫し見つめて、そして踵を返した。 
かすみはともかく、今一人の‥‥“客”と執事が応えたその気配が気になった。 
何処かで感じたことがある。 
とても身近で、そしてとても危険な。 
三人いる、と勘違いしたのは、その背反する要素が気配に混じり込んでいたためかも 
しれない。 
ス‥‥ 
「‥‥だれっ!?」 
今度こそ間違いなかった。 
可憐の五感、第六感に吐息をかけるその存在。 
案内された部屋の扉を閉じた瞬間、その存在は可憐と共に客間の中に入り込んだ。 
その影がいよいよ姿を現す。 
「‥‥初めまして」 
「何者‥‥?」 
「夏海」 
「‥‥なつ‥‥み‥‥?」 
「四季龍の夏海」 
「!‥‥何故‥‥四季龍は欧州に駐在してるはずじゃ‥‥」 
「それは3年前の話‥‥大陸に残ってるのは秋緒だけ」 
「‥‥‥‥」 
「実はさっき横浜についたばかり」 
「‥‥どうして?‥‥どうして四季龍が動くの?、特令参号に四季龍は‥‥」 
「言えるのは‥‥四季龍の一部が帝撃再編に関るらしい、ってことぐらい」 
「え‥‥」 
「それは置いとこう。今はここが先だ。“風の踊り子”が居るとは驚いたけど、まさ 
 か‥‥“ヤツ”までいるとは‥‥」 
「‥‥向かいのお客さん?」 
「知ってる?」 
「いえ‥‥気配はなんとなく尋常じゃないとは‥‥」 
「‥‥知らないほうがいい。取りあえず風の少女たちを回収しよう」 
「‥‥‥‥」 

カチャ‥‥ 
向かい側の客間に動きがあったようだ。 
二人は自らの気配を殺して扉の向こうの気配を伺った。 
『おや‥‥お出かけでございますか?』 
『ええ‥‥ん?‥‥わたしたち以外にお客さんですか?』 
『はい。主人に面会だそうでして‥‥今日は予想外のお客様が目白押しです』 
『そうですか‥‥わたしは行くところがありますから。かすみ殿は‥‥』 
『わたしもこのお方についていきます』 
『そ、それは困る』 
『何故?』 
『君が‥‥あ、あなたが行くような場所ではありませんし‥‥』 
『敬語は無用です、隊長。あ、宮田さん、この人はわたくしどもを指揮する者で、月 
 村と申します。以後お見知りおきを』 
『おお、そうでございましたか‥‥ではお気を付けて』 
『はい』『こ、困るよ、かすみ‥‥』 
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 
気配が消えた。 
扉の向こうの客人は外出したらしい。 
代って執事が可憐たちの客間に入ってきた。 
「お待たせいたしまし‥‥おや、お連れ様がいたとは‥‥申し訳ありません、すぐに 
 お茶をお持ちいたします」 
執事は可憐の分のカップだけを置いて、すぐに出ていった。 
「‥‥隊長、と言ってたわね?」 
「‥‥‥‥」 
「月村、とも言ってたわね?」 
「‥‥まあね」 
「つまり‥‥客とは‥‥帝撃風組隊長・月村美影のこと、だった訳ね?」 
「‥‥らしいね」 
「銀弓くんが言ってたことも間違ってはいなかったのか‥‥知ってた?」 
「ただし、中身は少し替わってる」 
「‥‥どういうこと?」 
「それは置いとこうよ。マズイね‥‥かすみさん、て言ったかな?、風が分断されて 
 しまった」 
「‥‥確かに。どうする?」 
可憐と夏海は暫し思案したが、夏海がすぐに解答を提示した。 
そこに自分がいる理由だとも言わんばかりに。 
「ボクが行く」 
「え‥‥一人でっ!?」 
「うん。理由は簡単だ。この屋敷には彼の仲間がもう一人来ている。さっき屋敷に探 
 りを入れてみたんだけどね。それもかなりの力を持ってる‥‥直接会ってみないと 
 わからないけど」 
「‥‥‥‥」 
「ただ、戦闘になったら‥‥可憐さん、あなたは些か邪魔になる」 
「‥‥随分な言い草ね」 
「あなたの力、かなり低下してるね‥‥無理をしたんじゃない?」 
「‥‥‥‥」 
「彼らに対抗するにはそれなりの体力が必要だよ。ボクに任せて。可憐さんには他に 
 仕事があるでしょう?」 
「わたしのことは先刻ご承知って訳か‥‥でも、いくらなんでも一人では‥‥」 
「四季龍を侮ってもらっては困るな。ボクらは四人で帝撃五師団に匹敵する力がある 
 んだよ?‥‥知らない訳じゃないでしょう、秋緒と組んでるあなたなら」 
「‥‥‥‥」 
「任せておいて‥‥危険だと思ったら撤退する」 
「‥‥無理しないでよ。あなたがいくら四季龍の夏海だと言っても‥‥すみれさんや 
 真也くんまで倒されたんだからね?」 
「すみれ‥‥神崎すみれ嬢のこと?」 
「ええ、そうよ。彼女、殆ど一矢も報いることが出来ずに‥‥倒されたらしいわ。真 
 也くんも‥‥帝撃トップクラスの実力者が手も足も出せずにね」 
「‥‥なるほど」 
「だから‥‥」 
「わかってる。ボクは特攻なんていう馬鹿げた思想は持ってないよ」 
「‥‥‥‥」 
夏海は出現した方法の逆過程で姿を消した。まるで空気に溶け込むように。 
銀弓の成す隠行の術、それに勝るとも劣らない鮮やかさだった。 
『‥‥恐い子』 
いつの間にか可憐の前に置いてあった紅茶は空っぽになっていた。 
消える間際に夏海が飲み干して行ったのか。 
従って執事が再び持ってきた紅茶は無駄にはならなかった。 
  
  

雨は小降りになって、そして今はもう霧雨のようになっていた。 
雨粒が頬を叩く代りに、霧雨が体毛に絡みつくような不快感がある。 
ただ、それも二人の周辺には及んでいないらしい。 
目に見えない力が霧雨を寄せ付けない、そんな領域が形成されていた。 
暗い空、暗い雲にぽっかりと開いた穴。そこから見える白い月。 
霧雨で煙るはずの月明かりも、どういう訳か、まるで晴天のように銀座に灯を灯す。 
「‥‥もう一度言う。引きなさい、春蘭」 
「慢心は自滅を生みますヨ、冬湖サン」 
「‥‥そう」 
「でも、破邪の力、出されると困りマスネ。だからその前に勝負させてもらいマス」 
「‥‥ふ」 
目を閉じる冬湖。 
そして再び開ける。 
「‥‥滅」 
「!」 
その瞳は舞姫と同じものだった。深い湖の碧色が、瞬きで金色に変化する。 
退魔の瞳‥‥いや、舞姫と違うのは、その照準に捉えたものが如何なる属性であろうと 
消し去ってしまうことにあった。先に氷室が見たように。そこだけが正しい時間の流れ 
から逸脱し、時の彼方に風化させてしまう。 
それが冬湖の魔眼だった。 
刹那、春蘭の姿は風化した。 
先に降魔を滅した方法とは違い、粉末になってそのまま霧雨に溶け込んでいく。 
「‥‥他愛もない」 
「そうデスネ」 
「!?」 
消えたはずの春蘭がすぐに冬湖の背後に出現した。 
そしてその指先を冬湖の背中に充てる。まるで銃でも突きつけるように。 
「お返しデス」 
キンッ‥‥ 
まるで鍵盤を叩くような音が霧雨に拡散した。雨の中で響く薔薇の音楽? 
大神の部屋では見えなかったその光。霧雨に回折して、今度は肉眼でも確認できた。 
冬湖の身体を貫いたのは赤紫色の光線だった。 
血は出ない。それでも蹲る冬湖‥‥霊的な作用が働いたらしい。 
「‥‥影、か」 
「アナタのアキレス腱、それは背中。十字架の“蝙蝠”デシタネ」 
「‥‥‥‥」 
「わざとハズシマシタ、デス。アナタにはちょっと大人しくしていて欲しいだけ」 
「‥‥くっくっく」 
「‥‥?」 
「愚か者が‥‥唯一の好機を‥‥」 
「怒らせちゃいマシタ?」 
蹲ったまま冬湖再び目を閉じた。 
そしてまた再び開ける。だれも見ていない瞳は目に見えないものを追っているかのよう 
だった。そして金色の瞳が銀色に輝く‥‥神楽の瞳のように。 
「‥‥訶ッ!」 
「!?」 
冬湖に伸ばしかけた春蘭の手が、その場で凍りついた。 
身動きがとれない。 
蜘蛛の巣に搦め捕られたような塩梅だ。 
事実、春蘭の霊視には自分の周りに蜘蛛の巣が形成されているのを捉えていた。 
「あらら‥‥ド、ドウシマショ‥‥捉まってしまいマシタ‥‥」 
「‥‥本体のようね、今度は」 
「マ、マズイデース‥‥ヘマしちゃいマシタぁ‥‥」 
「くっくっく‥‥そこでじっとしてなさい‥‥」 
冬湖は苦しみながらも、うっそりと立ち上がって春蘭からは少し離れた場所まで歩いて 
行った。 
そして振り向く。 
まるで貼り付けにされた犯罪人を銃殺刑にする死刑執行人の如く。 
「‥‥さっき‥‥破邪の力を出されると困る、と言ってたわね‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「‥‥ではお望み通り、その力で始末してあげるわ‥‥」 
「マ、マジ、デスカ‥‥?」 
「ふふふ‥‥」 
両掌を前面に出す。 
神凪の八卦掌とは少し違うスタイル。 
その掌が見えなくなる‥‥掌の前の空間が光を通さない媒体で埋め尽くされたように。 
闇が集まってきたようにも見えた。 
それは鍛練室で神凪が大神と対峙した折りに見せた、あの闇にも似ていた。 
帝撃五師団の技、全てを駆使する女豹‥‥冬湖の力が再び開示される。 

「破邪剣征‥‥」 
「!‥‥ヤ、ヤバイって感じぃ」 

春蘭の瞳が赤紫色に輝いた。 
体内に蓄積した霊力、そして銀座の樹木が発する霊力までをも集約する。 
樹木が音を奏でる‥‥囁く葉の囀り、それが音楽を奏で始めた。 
それが春蘭の能力だった。自らの力に自然の力をも添加し、底なしの霊力を生み出す。 
大神の力にも似た力を以て、冬湖の暗黒霊力に対抗する。 
勿論冬湖も春蘭の力は知っていた。 
知っていながら口元には妖しい笑みが浮かぶ。 
耐えられるものなら耐えてみろ、とでも言わんばかりに。 
吸収できるものなら吸収してみせろ、と。 

「‥‥百鬼降臨ッ!」 

冬湖の掌に生まれた闇は何か禍々しいものに変化した。 
神凪が撃つ暗黒の龍とも違う。闇がそのまま闇の蛇に変化したような‥‥その暗黒の顎 
が春蘭を襲う。名前の通り、極寒の霊気を纏わせながら‥‥冥界に誘う物の怪。 
さくらが会得した破邪剣征第拾壱奥義の裏技、百花昇龍塵。そこには封印された外道の 
技がかつて存在していた。大神家の狼虎滅却・八卦炎陣と対を成すかのように。 
それは、百花繚乱・天‥‥百鬼降臨。 
「ちっ‥‥」 
刹那、春蘭の周囲に薔薇色の球体が形成された。 
かまうことなく喰らいつく暗黒の蛇。 
バチッ‥‥バチバチバチッ‥‥ 
光と闇が交錯する火花。明るく、そして暗い火花が散った。 
「く‥‥」 
「無駄よ‥‥さっさと死になさい‥‥ほらっ」 
何気なく力をこめる冬湖。すると蛇は数を増した。 
獲物に喰らいつくハイエナのような‥‥あるいはピラニアのような。 
「ちぃ‥‥これでは、吸収、出来マセン‥‥」 
必死に耐えながらも隙を見つけては光線を放つ。 
が、それも次々に現れる蛇の前ではイタチごっこ。 
赤紫色の球体が光を失いつつあった。 
そしてその径も小さくなる。もう蛇の顎は春蘭の目の前まで接近していた。 
必死に顔を背ける。 
暗く生臭い吐息がかかってくるようで、春蘭は猛烈な吐気を催した。 

「くっくっく‥‥そろそろ死ぬ‥‥ん?‥‥!」 

蛇が唐突に消滅した。 
ぐったりとする春蘭が蜘蛛の巣に絡まったまま気を失っていた。 
そして蜘蛛の巣も消滅した。 
崩れ落ちる春蘭‥‥だが、その少女は地面に横たわることはなかった。 
後ろに立っていた人が支えた。 
闇に溶け込むその黒い人が。 

「なんの真似だ‥‥これは」 
「‥‥‥‥」 
「どういうことか、と聞いてるんだ‥‥冬湖」 
「‥‥あなたには関係ありません‥‥麗一様」 
「俺がお前たちに命令したのは紅蘭のガードだったはずだが?」 
「‥‥‥‥」 
「秋緒が指示したのか?‥‥それとも紅蘭か?」 
「‥‥‥‥」 
じっと冬湖を見つめる神凪。 
冬湖は、そんな神凪の視線に耐え兼ねたのか、両手を胸に置いて下を向いた。 
「その新緑のチャイナドレス‥‥アイリスがお前に預けたんだろうが」 
「‥‥‥‥」 
「お前‥‥アイリスの気持ちまで踏みにじるつもりか?」 
「‥‥ふ‥‥ふふふ‥‥ふははははははははははははは‥‥」 
胸に添えていた両手を降ろし、そして腕組む。 
闇の哄笑が湿気ばんだ銀座の街に響いた。 
ただじっとそんな冬湖を見つめる神凪。悲しそうな表情で。 
「麗一様‥‥いえ、神凪大佐‥‥わたしは四季龍を脱退します」 
「‥‥‥‥」 
「‥‥止めては‥‥くれないのですね」 
「お前の望みなら‥‥無理強いはしないよ、冬湖‥‥ただ‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「辛かったのか?‥‥俺は‥‥優しくなかったのか?‥‥いや、確かにそうだな」 
「違うっ!‥‥あなたは‥‥あなたは‥‥優しかった‥‥」 
「‥‥‥‥」 
高らかに笑っていた冬湖も、すぐに悲しい顔色を見せた。 
それが冬湖の本当の表情だったはず。 
アイリスに見せた、あの優しくも哀しい女の顔が。 
「あなたと一緒に居られて‥‥わたしは幸せだった‥‥」 
「‥‥何故だ?‥‥何故、今になって‥‥」 
「今は、あなたの元を離れます‥‥でも、いつか必ず‥‥再び‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「あなたはわたしと‥‥そしてあのお方と共にある‥‥そういう運命なのです」 
「‥‥あのお方?」 
「あなたはこんな場所にいる人ではない‥‥そう‥‥その時は‥‥アイリスも‥‥」 
「アイリス‥‥?」 
「‥‥‥‥」 
「アイリスが‥‥欲しいのか?」 
「‥‥あの娘は‥‥わたしの心に触れた‥‥わたしの痛みを‥‥癒してくれた‥‥」 
その金色の髪は、よく見るとアイリスの髪の色にも似ていたかもしれない。 
新緑のチャイナドレスに映える色だった。 
霧雨が煙る銀座。 
灰色の街に、その春の色彩は余りにも鮮やか過ぎた。 
幻だったかもしれない‥‥ 
「‥‥お前を唆したやつの名は?」 
「あなたのよく知っておられる方‥‥すぐにわかります」 
「‥‥暁蓮か?」 
「いいえ‥‥」 
「‥‥俺の傍にいろ、冬湖」 
「え‥‥?」 
「お前は‥‥俺の傍にいればいい」 
「‥‥麗、一‥‥様‥‥」 
「アイリスにだって何時でも会える‥‥お前も変れるはずだ」 
「‥‥‥‥」 
「明日辞令を出す。お前は月組だ。銀弓をフォローしろ。俺が指示を出すから‥‥」 
「‥‥お別れ、です」 
「冬湖‥‥」 
「また会える‥‥その時まで‥‥その、時‥‥ま、で‥‥」 
「それでいいのか?‥‥仲間を捨てて‥‥思い出まで捨てて、本当にいいのかっ!?」 
「‥‥さよなら‥‥さよならっ、麗一様っ!」 

‥‥お届物は杏華さんの傍に置いてます‥‥ 
去り際に残した冬湖の言葉。 
声が震えていた。 
神凪は春蘭を抱きかかえたまま、これ以上はないほどに哀しい瞳を見せていた。 
半生を共にした腹心中の腹心。 
美しい少女だった。それが時を経て完璧な女性に変っていった冬湖。 
その時の移り変わりにいつも自分の傍にいた彼女。女性を意識しない訳ではなかった。 
だがそんな私情を挟む余地もない。そういう仕事だった。 
言わば自分の歴史の証人が‥‥遂に自分から離れていった。 
横浜での暁蓮の瞳とだぶる。 
これは運命なのだろうか‥‥闇に生きる者に安息などない、ということか。 
自分の歴史のツケが廻ってきた‥‥そういうことなのだろうか。 

「‥‥う‥‥ん‥‥」 
「大丈夫か‥‥春蘭」 
「‥‥あ‥‥あれ?‥‥大佐?‥‥ドウシテ‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「冬湖サンは?」 
「‥‥行ったよ」 
「‥‥‥‥そう、デスカ‥‥‥ワタシ、余計なこと、シマシタデスカ?」 
「いいや‥‥お前のおかげで‥‥杏華くんも、さくらくんも‥‥」 
「‥‥大佐?」 
「俺は‥‥やはり、大神のようには‥‥なれない、らしい‥‥」 
「大佐‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「‥‥泣いてる、デスカ‥‥?」 
「‥‥‥‥」 
「ワタシ、大佐のために、来ました、デス‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「ワタシは、大佐のために‥‥」 
今の神凪は帝撃司令ではなかった。 
四季龍を束ねる神凪隊長‥‥いや、それ以前の、ただ一人の青年に戻っていた。 
春蘭の胸で嗚咽を漏らす。ずっと我慢してきたこと、それが冬湖との別離で遂に 
限界に達した。絶対に見せられない。こんな姿、帝撃の仲間たちには‥‥ 
だれにも聞こえないように。必死に声を押さえて。 
「大佐‥‥」 
そんな神凪をぎゅっと抱きしめる春蘭。 
「あ‥‥」 
春蘭の目に明るい光が差し込んだ。 
目に見えない光。 
その光はすぐに翼を形成した。そして人の輪郭に。 
「アナタ、は‥‥」 
濡れた銀座の石畳の上で重なる二人を、その人型の光は優しく包み込んでいた。 
  
  

「‥‥‥‥」 
「‥‥終わったようだな」 
「司令ですね‥‥」 
「‥‥だな」 
食堂に着いてすぐ、大神、斯波、無明妃、銀弓の四人は只ならぬ気配を察した。 
自分たちに匹敵する霊力の奔流が劇場周囲を席捲していた。 
それに気づくや否や、四人は帝撃内部に染み込まないよう、結界を張った。 
理由は勿論、帝撃五師団の仲間たちに悟らせないために。 
「‥‥‥‥」 
「この一件、相当奥が深そうだ‥‥あらぬ憶測はしたくはないが‥‥」 
「‥‥明日は早めに出ますか、お二人さん。やはり横浜に解答がありそうだ」 
「‥‥ああ」「そうですね‥‥」 
「‥‥‥‥」 
三人は厨房に向かった。配膳の準備が完了していないらしい。 
大神が一人食堂に残った。 
そして窓辺に向かう。 
神凪と再会した翌日、ともに朝食をとった、その場所に。 
ただじっと食堂の窓から銀座の街並みを見つめる。 
閉じたカーテン、それを少しだけ開けて‥‥そして、その人を見つめた。 
他の仲間たちには決して見せてはいけない、その姿を。 
『‥‥兄さんを‥‥護ってください‥‥』 
大神の目尻に、うっすらと透明な珠が浮かび上がった。 
その人の‥‥自分の分身の涙に共鳴するかのように。 
  
  



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