<その3> 「そろそろ来るとは思っていたよ‥‥」 「‥‥お疲れのようですね。お客さんの対応で?」 「お見通し、か‥‥」 夏海が発ってから10分もしないうちに、その屋敷の主は可憐の前に姿を現した。 花やしきでは如何なる拷問にも耐えた屈強の男が、何故か疲れた表情を見せている。 精神的な疲労が顔にありありと出ていた。 可憐の斜め横、一人用のソファに腰を降ろし、執事が運んできた緑茶を飲み干す。 「ほんと、疲れたな‥‥」 「‥‥帝撃司令は“彼”のことも既に存じております」 「‥‥そうか」 「私に権限はありませんが‥‥それでも言わせてください」 「‥‥‥‥」 「彼らには手を貸さないでいただきたい」 「‥‥それは聞き入れられない」 「‥‥‥‥」 「約束の反故は、即ちこの神崎重樹のプライドをも失うことを意味するからな」 「‥‥‥‥」 「神崎風塵流先代継承者である、この神崎重樹の名に於て‥‥そして神崎家の家長として、 この屋敷の住人に手出しすること、断じて罷り成らん」 「ふむ‥‥」 「たとえ何者であろうとも、な‥‥尤も親父はどうするか知らんがね。親父の見解が私の 意に反する場合は‥‥」 「‥‥‥‥」 「袂を分かつしかないだろうな」 「それは‥‥困りましたね‥‥」 重樹は天井を仰いだ。 高い天井。何故これほど高くする必要があるのだろう‥‥ 自分が生まれた時は、これほど高くはなかった気がする‥‥重樹は子供の頃の実家、つま りこの屋敷が新築される前の家のことを思い出していた。 何故そんなことを思い出したのか‥‥ 考えるまでもない。それは杏華のことだった。 「‥‥なあ、可憐くん」 「はい」 「不躾なことを聞く‥‥君は‥‥家族がいるかね?」 「‥‥忘れました」 「そうか‥‥すまない」 「いえ‥‥でも、どうして?」 「わたしの‥‥娘のことさ‥‥」 「娘‥‥すみれさんのこと、ですか?」 「‥‥いや、違う‥‥言い方がマズかったな。娘のような“娘”だね」 「‥‥‥‥」 「名は藤枝杏華、という‥‥」 「藤枝、杏華‥‥あ‥‥もしや、あやめさんの‥‥」 「ああ‥‥」 「彼女が‥‥?」 「‥‥‥‥」 「‥‥よもや、月村氏に関係している、とでも?」 「‥‥鋭いな」 「それが彼らを護る理由ですか?」 「‥‥‥‥」 重樹は再び執事を呼んだ。 今度はお茶ではなく、ブランデーを依頼する。 余り酒を嗜まない重樹には珍しいことだった。 「君もどうだい?」 「いえ‥‥」 重樹は可憐に紅茶を薦めた。 紅茶はすみれが自ら購入したものを重樹宛てに贈ったものだ。 誕生日のお祝いに、と‥‥よほどの客でない限り、絶対に出さないことにしている。 「成程‥‥ですが、杏華さんは帝劇に出向していると聞きました。彼女の希望がそれだっ たと司令から伺っています。月村氏がどうあれ、彼女が不幸になる要素があるとは、と ても‥‥」 「李紅蘭女史のことも、当然知ってるね?」 「え?‥‥ええ‥‥?」 「彼女‥‥幼い頃、辛亥革命に巻き込まれて家族を失ったと‥‥米田さんに聞いた」 「‥‥?」 「そして、杏華くんも‥‥彼女の履歴は不問にしてあるが‥‥それでも彼女の出生は未だ 不明のまま‥‥そのことは杏華くん自身も気にしていたよ‥‥」 「‥‥何をおっしゃりたいのですか?」 「‥‥‥‥」 「李紅蘭女史と藤枝杏華さん‥‥共通点なんか‥‥チャイナドレスぐらいしか‥‥」 「‥‥‥‥」 「神崎さん、あなた‥‥まさか、この一件が李紅蘭女史と藤枝杏華さんに起因することだ と言いたい訳では‥‥」 「そこまで言ってはいない。ただ‥‥わたしは‥‥わたしはね、杏華くんが幸せになるこ となら‥‥如何なる投資も、如何なる犠牲も惜しまないつもりだ」 「‥‥何故?‥‥何故、そこまで彼女を‥‥」 「すみれの二の舞いは‥‥もうごめんだ」 「え‥‥」 「わたしは‥‥最低の父親だったからな‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥すまん。かなり疲れてるらしい‥‥榊原くんがいる部屋には執事に案内させよう。 親父もいるはずだ‥‥」 「神崎さん‥‥」 「すまん‥‥この続きはいずれ‥‥」 可憐は重樹と共に客間を出た。 執事が迎える。枝分かれする廊下で重樹と可憐は別れようとした。 曲がり角に出現したのは、可憐が知っている長身の青年と同等の体躯を持った、屈強な 漢だった。 「おや?‥‥お出かけかな?」 「はい。月影殿が先立って出られたようですが‥‥少々気になることがございまして」 「‥‥‥‥」 「ん?‥‥ああ、紹介しよう‥‥月村くんの身内で龍塵殿とおっしゃる。こちらは可憐 さん。帝撃雪組の副隊長だ」 「おお、あなたの名は聞き及んでおります。第七特殊部隊も兼任されているとか」 「‥‥よくご存知。それと、今‥‥月影、と言いませんでしたか?」 「ええ‥‥それが何か?」 「‥‥いえ、確認したまで」 「ではこれにて‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥どうかしたのかい?」 龍塵が玄関を出たと同時に重樹は可憐に耳打ちした。 「‥‥神崎さん」 「‥‥ん」 「もう一度お願いします。彼らには手を貸さないでいただきたい」 「‥‥‥‥」 「返答はすぐに、とは言いません。ですが‥‥少なくともこのままでは、あなたは杏華 さんのために実の娘さんを敵に廻すことになりますよ?」 「‥‥‥‥」 「‥‥冷静な判断を期待しています」 葉山にほど近い神崎邸から丘を上る。 右手に本牧、左手に関内が見える頃、横浜の区域になる山の手地区。 海が見える頃には、もう外国総領事区域になり、一般人の立ち入りは禁止される。 月影とかすみを追ってきた夏海が見出した場所は、神楽と神凪が入り込んだ、あの蔦の 絡まる洋館ではなかった。 うっそうとした竹林。 夏海はその時点で認識した。 罠にかけられた、と。 かすみを同行しつつ、彼女には気づかせずに追手を撒く‥‥信じられない技量だった。 「‥‥なるほど‥‥大陸にいた頃とは違うのか」 「そういうことだ‥‥」 夏海立っている場所、その横の竹の合間から声が聞こえた。 「私が大陸にいたことを知っているのは、ごくわずかのはず‥‥」 「無の世界の使者‥‥その直属の部下、とでも言っておくよ」 「ほう‥‥これはこれは‥‥君は四季龍か?」 「‥‥‥‥」 「ふ‥‥これはいい。零四季辺境遊撃隊‥‥如何なる魔界の者をも駆逐する集団、か‥‥ 名前を聞いておこうか?」 「‥‥夏海」 「ナツミ?‥‥それは呼称だろう?‥‥本名は違う‥‥ふむ‥‥成程‥‥出身は‥‥独逸 か‥‥下衆どもが政権を握りつつある国、だな」 「‥‥否定はしないよ」 「ふ‥‥素直だな。君は‥‥そうか‥‥犠牲者、か‥‥」 「‥‥そろそろ心を読むのは止めにしたほうがいい‥‥そっちの手の内まで流れこんでく るよ?」 「ほほう‥‥そうだな、失礼した。では私も名乗ろう‥‥ご承知だとは思うが、な」 闇に溶けていたその影が姿を現した。 竹林という名のブラインドが、その影を徐々に浮かび上がらせる。 月の化身にして闇の具現者。 紅い中国服が月明かりに映える。 「昔の名は劉月鏡。今は月村美影‥‥」 「‥‥‥‥」 「その二人の意思を以て、この不浄の世界に降り立った終末の戦士‥‥それがこの月影だ」 「‥‥ふん」 「私が名乗って生き延びた者は‥‥君のボスだけ‥‥光栄に思え」 「それはこちらも同じ‥‥我は黒騎士‥‥無の世界へ導く者なり‥‥」 「‥‥ジークフリードの化身か‥‥ふふ‥‥歓迎するぞっ!」 キン‥‥ 月影が放つ暗器を事も無げに散らす夏海。 幼い体躯とは裏腹に、その巨大な双槍を軽々と振り回す様は恐ろしく違和感があった。 月影が姿を消した。 竹林に溶け込む。 それと同時に夏海は動きを止めた。 目を閉じる‥‥そして視界以外の全ての五感、第六感、霊感までをも導入する。 ピク‥‥ 物凄い風が夏海を襲った。 身体半分をずらして躱す‥‥その場所にあったのは竹の槍だった。 竹の槍は次々に夏海を襲った。それでも身体は殆ど動かさずに、必要最小限の双槍の技で 必要最小限の竹槍のみを撃つ。 ス‥‥ 双槍が最後の竹槍を撃ち返したと同時に、その紅い影は姿を現した。 キンッ! 月影が手に持っていたのは神凪の修羅王に匹敵する長さの剣だった。 その刃と夏海の双槍が鎬を削る。 ギリギリ‥‥ 「見事だ。流石は四季龍‥‥神凪大佐が選抜しただけはあるな」 「この程度なのか?‥‥これしきに神崎風塵流継承者が遅れを取るとは‥‥」 「‥‥‥‥」 「お前が神崎すみれ嬢に施した外道の技‥‥それを繰り返してみせろ」 「‥‥いいだろう‥‥後悔するなよ‥‥夏海くん、とやら‥‥」 キン‥‥ 火花を散らして離れる二人。 「狼虎滅却‥‥」 月影の瞳が真紅に染まる。 と、同時に夏海は目を閉じた。同じ技を持つ者が四季龍にいたから‥‥その対処方法も 先刻知っている。 「Twider‥‥」 「む‥‥?」 月影は掌を夏海に向けた。 掌に収束する真紅の闇‥‥仙気雷刃・天。 「‥‥八卦炎陣ッ!」 轟音を立てて放たれた烈火の牙。すみれの飛燕をも喰らった外道の炎。 軌道にある全ての竹を食い破って夏海に襲い掛かる。 目の前に迫った時、夏海は目をカッと見開いた。 「Die Walku"re!」 刹那、月影の放った炎の顎は夏海の双槍が創り出した巨大な霊波に飲み込まれていった。 死を司る女神、ワルキューレ。炎の亡霊はヴァルハラに導かれていくよりは、地獄への 迷宮に入り込んだかもしれない。 「これは驚いたな‥‥しかも、心も支配できない、か‥‥」 「冬湖、という女を知ってるか?」 「フユコ‥‥?」 「冬の湖と書く」 「湖‥‥冬の‥‥湖‥‥‥!‥‥まさか‥‥まさか、北条三古月かっ!?」 「ご名答。よくわかったね‥‥冬湖は隊長の腹心、四季龍を成す最初のメンバーだ。そ の彼女が似たような技を使う‥‥お前、冬湖から技を盗んだ訳ではあるまい?」 「ホウジョウ、ミコヅキ‥‥あの魔女が‥‥」 「魔女ではない。ミコヅキは巫女月と書くのが正しい。ホオズキと呼ばれた頃もあった みたいだ‥‥」 「あの男の‥‥末裔が‥‥四季龍の‥‥」 「冬湖は巫女の道を捨てたのさ‥‥隊長を追ってね」 「‥‥‥‥」 「隊長の技も使ったな‥‥オリジナルはないのか?」 「ふ‥‥ふふ‥‥これはいい‥‥よもや四季龍がこれほどとはな‥‥いいぞ‥‥なかな かいい‥‥」 「なければ‥‥こちらから行くけど‥‥?」 「ふふふ‥‥構わんぞ、順番は君だ‥‥来たまえっ!」 ス‥‥ 今度は夏海が消えた。 闇夜にまぎれて、竹林に溶け込むように姿を消す。 「むぅ‥‥」 そして先程月影が施した処理を、同じように月影に返す。 シュッ‥‥シュッ、シュッ‥‥ 竹槍の雨が降る。 それも数が倍増というおまけつきで。 「あまり、有り難く、ないな、これは‥‥」 「そう?」 「!」 すぐに目の前に姿を現す、その屈託の無い表情。 笑えば天使の様、だったに違いない。 その無垢な表情のまま鋼鉄の槍を突き刺す。 「‥‥っ」 「‥‥やるじゃない」 「まいったな、これは‥‥」 月影の頬にうっすらと血が滲む。 呼吸も乱れない夏海を、ただじっと見つめる月影。 「たいしたもんだ‥‥改めて敬意を表するよ、夏海くん‥‥我が奥義を使う相手に不足 はない」 「‥‥そう」 「君を倒した後、彼女‥‥冬湖さん、と言ったな‥‥彼女を迎えに行くことにしよう」 「‥‥‥‥」 「彼女は神凪大佐の元にいるべきではない‥‥私と‥‥暁蓮様と共にあるべきだ」 「‥‥寝言はいいよ。さっさと終わらせたいんだけど?」 「ふふ‥‥そうか‥‥私の天然理心流は少々クセがある。注意しろよ‥‥近藤勇の直系 だからな」 「‥‥新選組は消滅したと聞いてるけど?」 一方の月影も呼吸を乱すことなく長剣を構える。 長さは神凪の修羅王と同等だが、やはりサーベルの形態をしており、諸刃の直線を描い ている。斯波の剣を細くしたような塩梅だ。尤も斯波の剣“迦楼羅王”が身が厚過ぎる という話もあるが。 サーベルを青眼のように構えるのは違和感があったが、“クセがある”と自ら称したよ うにその構えからは太刀筋が読めそうもない。サーベルに合わせたのかもしれない。 それも月村美影の記憶が為せる技だったのだろうか。 「神凪大佐以外にこれほどの高揚を得られるとは‥‥感謝するぞ」 「‥‥‥‥」 「戦闘を再開する前に‥‥一応、聞いておこうか‥‥」 「‥‥‥‥」 「君は‥‥何故、四季龍にいる?」 「?」 「冬湖さんは神凪大佐のため、と君は言ったな‥‥では君は?‥‥君はなんのために戦 うのだ?」 「‥‥‥‥」 「わからないか‥‥では、聞き方を変えよう。私は私の大切な人のために戦っている。 私が‥‥愛している人のために、ね」 「‥‥‥‥」 「君は?‥‥君はだれのために戦うんだ?‥‥神凪大佐のためか?」 「‥‥‥‥」 「恋人か?」 「‥‥‥‥」 「仲間のためか?‥‥四季龍のためか?」 「‥‥答える必要があるのか‥‥?」 「君は‥‥だれかのために‥‥戦っているのでは、ないのか‥‥?」 「‥‥だれのためでもない。そこに戦争があるから‥‥それがボクの存在理由だ」 「なんだと‥‥」 「戦争は勝てば官軍‥‥弱い者が悪‥‥だから負けられない」 「君は‥‥」 暫し呆然とする月影。 戦いのための戦士はいやになるほど見てきた。それが戦争だったからだ。 目の前にいる天使のような存在、それが、まさか同じような存在だとは‥‥ 剣を鞘に収める。 月影は踵を返した。 「私は‥‥愚か者の烙印を押されるところだった‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥戦いの目的を持たん者を相手にする暇もない‥‥去るがいい」 「そうもいかない。お前が連れていった女性を取り戻す必要があるんでね」 夏海の言葉じりに戸惑いの色が現れた。 夏海の心に月影が落とした小波は、大きな波紋となって広がっていた。 理由を聞かれても答えることなど出来はしない。 戦いが生活の一部になっていた夏海に、戦いの理由を聞くことなど不毛なだけだった。 しかし‥‥ 「では今一度聞く。何故彼女を取り戻すのだ?‥‥何のために?」 「戦力になる」 「‥‥本気か?」 「その女性は霊子甲冑を戦場に輸送する。後方支援には不可欠だ」 「‥‥かすみを‥‥道具に‥‥するのか‥‥」 「戦いに私情は厳禁‥‥お前は最早帝撃の人間ではない。干渉は無用だよ」 「‥‥‥‥」 「戦う気がないのか?‥‥ではあの女性は返してもらう。貴様の骸と共に」 「‥‥消えたまえ」 「お前を始末した後だ」 「消えろ、と言ったぞ‥‥?」 「今、お前を殺しておかないと‥‥後々面倒なことになりそうだ」 「私を‥‥怒らせる、か‥‥」 恐るべき霊力が月影から立ち上がる。 それは神凪と対峙した折りに見せた、あの終末の力に等しかった。 「これが最後通告だ‥‥この場を去れ‥‥」 「‥‥大陸にいた頃より‥‥成長してるみたいだね‥‥」 「‥‥‥‥」 引く気配すら見せない夏海に、表情も変えない夏海に‥‥月影は逆ギレした。 何故これほど怒るのか‥‥自分でもわからない。 いや、わかっていた。理由はわかっていた。 「‥‥Das Reingold!」 夏海の双槍が衝撃波を生む。 大地を走る霊波の波しぶき‥‥それが月影を襲う。 月影は除けようともせず、また防御する気配すら見せずに、夏海の技を甘んじて 受けた。尤も、その至近距離で前触れもなく放たれた夏海の必殺技に、月影です ら対応出来たかは疑問だが‥‥ ザッ‥‥ 切り裂かれた紅い中国服。その下から現れたのは紛れもない人間の体躯。 その証拠は流れ出る紅い血だった。 月影に相応しい色‥‥真紅の血潮が服の朱にも益して鮮やかに映える。 自らの胸にあえて傷を負い、それでもなお怒りがおさまらない。 月影は仁王の如く夏海の前に立ち塞がった。 「‥‥ぬ?」 「四季龍、取るに足らず‥‥我が宿敵は、やはり、神凪龍一‥‥そして‥‥」 「‥‥‥‥」 「君、は‥‥今のまま、では‥‥すみれさん、や‥‥山崎隊長、の‥‥足下、にも、 及ばん‥‥それを‥‥証明、して、やろう‥‥」 「‥‥‥‥」 「あの世で、後悔、するが、いい‥‥」 「これが‥‥月影の力、か‥‥」 両手を翼のように広げる月影。 魔界の鳳凰が召喚されたかのように、月影の姿に結晶化する。 無論夏海も黙って見ているはずもない。が‥‥ 「Dritter‥‥!?」 構えた双槍が凍りつく。霊視を以てしても見えないプレッシャーが夏海を拘束した。 「くく‥‥迂闊‥‥」 「破・魔・鳳・来‥‥」 月影の周囲に赤黒い稲妻が奔った。 神凪が放つ無双天威と同じく、それは天地を貫く円柱に成長する。 「がっ!?」 夏海を縛ったのは毛細血管のような紅い稲妻の網だった。 それがいよいよ物理的な光量をもって視界に映し出される。 「阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿‥‥」 謳う月影。 「いかんっ、月影殿ッ!」 声を発したのは龍塵だった。 月影と夏海の間に龍塵が割り込む。 稲妻が創る円柱に押し潰されないよう、夏海は霊力で防御するのが手いっぱいだった。 それでも耐えることが出来たのは四季龍たる実力と言えた。 しかし次に待つのは‥‥ 「ニシュタ・ニルヴァーナハッ!」 カッ‥‥ 「が‥‥」「くく‥‥」 ゴゴゴゴゴ‥‥ 暗黒天球が山の手を覆う。 上野で神凪が形成した無の世界の祠、それに匹敵する大きさだった。 ビリビリビリ‥‥ 地震ではない。大気が悲鳴を上げていた。 本来あるべきではない、亜空間が割り込んでくる。それを必死に止めようと大気が震え る。 ニシュタ・ニルヴァーナハ。究竟涅槃。 般若波羅蜜多心咒の一説にも現れるこの真言は、人々を救済する者の定めを示したもの。 涅槃とは悟りの世界。仏教における究極目標とされる。 しかし己が悟りを得たからと言って、どうして人を救済出来るのか。 人を導くためには悪の世界に目を向けることも必要なのだと。そこに人がいるからだ。 故に涅槃をも超えよ‥‥と説く。 ビリビリ‥‥ビリ‥‥‥ビリ‥‥ 永遠に続くと思われた大気の振動が消えた。 大気は確かに抵抗した甲斐があったようだ。空間は元の座標を取り戻していた。 代りに失ったものもあった。 それは大地だった。 直径100メートル程に刳り貫かれた山の手の丘。 大量の土砂の行き先など、知る由もない。 無人の竹林を選んだのは僥倖とも言えた。 尤も、龍塵が中和を施さなければ、どれほどの被害を齎したかは‥‥ 刳り貫かれたボールの底に人影があった。 「ふうううう‥‥‥あ、危なかった‥‥中和して、これだ‥‥」 「‥‥う‥‥うう‥‥」 「まだ幼子ではないか‥‥」 龍塵と夏海を見下ろす月影。月の化身の様だった。 「‥‥餓鬼をかばって何とする、龍塵殿‥‥」 「何故それほど激高するのか?‥‥貴殿の相手はこのような幼子ではないはず」 「子供?‥‥無垢な顔をして平気で殺人を犯す‥‥まるで虫を潰すかのように‥‥その ような餓鬼が成長して帝都を蝕む‥‥人の世を蝕むのだっ!、人の死に何の痛みも感 じない輩だぞっ!?、ここで駆逐して何が悪いというのだっ!?」 「これはしたり‥‥子供こそが次の世代を担う至宝。子供が誤った道を歩んだ時、それ を正すのは大人の為すべきこと‥‥もし貴殿の価値観にある子供がそのような存在で あるなら、それは貴殿の周囲に悪が溢れていた、ということだ」 「‥‥‥‥」 「大陸にいた折り、殺戮に走ったのは何のためだ?、その悪を根絶するためであろう? 女子供に手を出さなかったのが何よりの証拠。その貴殿が‥‥何故今に至って幼子を 手討ちにしようというのかっ!?」 「うぬ‥‥」 「それにこの子は‥‥貴殿はこの幼子の心を読まれたのだろう?、わかっていながら何 故‥‥」 「龍塵殿は優しすぎるっ!‥‥そんなことで‥‥そんなことで紅蘭様をお護りできると 御思いかっ!?‥‥相手は神凪龍一なんだぞっ!、あやつを倒すことも出来ずに、ど うして“あの女”に立ち向かえるというのだっ!?‥‥我らが復活したのは一体何の ためだっ!?」 「優しいことは罪か?、哀れみを与える者に貴殿は罰を与えるのか?‥‥それに神凪殿 は悪ではないぞ?‥‥貴殿が一番よく知っているであろうに」 「うぐ‥‥」 「神凪殿を引き込むことに貴殿は反対しなかったであろう?‥‥それは貴殿が神凪殿を 慕っているからだ‥‥友だと思っているからだろうがっ!」 「うぐぐぐ‥‥」 「‥‥どうしたというのだ、月影殿らしくもない‥‥」 「‥‥‥‥」 「神凪殿の存在が貴殿を変えたのだろう?‥‥そして、貴殿にもあるはず。私は知って いる‥‥貴殿が暁蓮様に見せた、あの優しさ‥‥そして、すみれ殿や山崎殿に示した 優しさを‥‥」 「‥‥く、くだらん。私は‥‥私は杏華様さえいれば‥‥それでいい‥‥それでいいん だっ!、暁蓮様も、紅蘭様もっ、もともと私には関係ないっ!」 夏海の存在は月影を激しく憤らせた。 暁蓮に見せた優しさも、時の彼方に追いやってしまうほどに。 それはかつての自分にもあったものだったから。 戦いのために戦い、破壊の衝動に駆られて破壊する。 空しいとも思わない。何も考えない。何もないのだから。破壊することで自分の存在が 成り立っているのだから。何のために破壊する?‥‥それもない。 そんな自分を変えた男。 無の世界の使者との出会いが月影を変えた。 そして、あの銀色の少女に出会わなければ‥‥自分はいったい、どうなっていたのか? あの龍の化身に抹消されていたのか? 不毛な生き様のまま‥‥? 何も残さずに‥‥ たった今、自分が成した愚行に対して、正当化する弁明を必死になって模索する。 龍塵の言う言葉に反論できない。ただ、子供のように言い訳を探すだけ。 夏海と何処が違うと言うんだ‥‥? わかっている。わかっているんだ‥‥ 「月影殿‥‥」 「私は‥‥杏華様さえいれば‥‥他は‥‥いらない‥‥全て捨てたはず、だ‥‥」 月影は自分が開けた穴を忌々しげに見つめ、そして歩き去った。 竹林の傍らで眠らせたかすみの傍へ‥‥ かぐや姫は竹から生まれた。そして月へと帰る。 成長したその姫は、きっとこれほどに美しかったのだろうな‥‥月影は横たわるかすみ を哀しげに見つめ、そう感じた。 自己嫌悪の極地に至った月影、そんな自分に微笑みを見せる藤の女性。 「私の前から消えてくれ‥‥私のことは忘れろ‥‥かすみ‥‥」 「‥‥いや」 「!?‥‥ね、眠っていたのでは‥‥」 「‥‥“お茶”を飲みすぎたの」 「私の、術を‥‥退けるとは‥‥」 かすみは横たわったまま、じっと月影を見つめた。 膝を立てる‥‥着物がずれた。 かすみの白い脚が月影の視界を覆う。 そこから目を離すことが出来ない‥‥手を伸ばせば、そこに触れられる‥‥ 「‥‥‥‥」 「‥‥いいのよ」 「‥‥‥‥んぐ」 「美影、さん‥‥」 「‥‥くぅ‥‥」 必死に耐える。 薄れていた月影の理性は、その白い稜線を見て殆ど消えかかっていた。 月影の手に自らの手を添えるかすみ。柔らかく暖かい手だった‥‥最後に触れた その時の手の温もり‥‥その記憶が月影の中に鮮明に蘇る。 かすみはゆっくりと身を起した。 月影の胸に手を触れる。そこには夏海によって切り裂かれた傷があった。 「ひどい怪我‥‥」 「‥‥たいした‥‥ことは、ない‥‥だから‥‥!」 その傷に唇を触れる。 霞のような吐息が傷をくすぐる。 そしてかすみ草のような肌触りが傷を癒した。 「やめ‥‥ろ‥‥」 「あなたは‥‥優しい人‥‥」 「く‥‥」 長い髪の下から覗くうなじが、ずれた着物が胸元に創る影が、月影の視界に入り 込んだ。伸ばしかけていた手に、傷を癒すかすみの白い脚が触れていた。 動かせない。その感触から逃れられない。 かすみ草の甘い香りと柔らかさから‥‥ 「‥‥辛いんでしょ?‥‥苦しいんでしょ?」 「く‥‥」 「‥‥わたしに吐き出して‥‥わたしは‥‥わたしは全てを受け入れるから‥‥ あなたの全てを‥‥」 「く‥‥くぅ‥‥」 「美影、さん‥‥」 「‥‥くああああああああああああああああああああああああああああっ」 月影はかすみの手を振りほどいて、そして走った。 今度こそ月影は消えた。闇の中へ‥‥相応しい世界の中へと。 かすみは空を見上げていた。 霧雨はいつしか止んでいた。輝く黒髪は夜露に濡れているのではなく、雨の名残。 「‥‥あなたは‥‥わたしのもの‥‥だれにも渡さない‥‥」 瞳が濡れていたのは、雨の名残でなかった。 「う‥‥」 「‥‥大事には至っていない。よほど鍛えられたと見える」 「‥‥何故‥‥ボクを‥‥助けた‥‥」 「貴殿は成長過程にあるようだな。道程をほんの少しだけ逸れただけだ‥‥それも貴 殿の所為ではない」 「‥‥‥‥」 「銀座に行くがいい。貴殿に足りないものがそこにある‥‥狼と癒しの巫女が貴殿を 導くだろう」 「‥‥おお、か‥‥み‥‥?」 「我が名は龍塵‥‥貴殿の名は?」 「‥‥なつ‥‥み‥‥夏、海‥‥」 「夏海殿か‥‥いい名だ。神凪殿が名付けたのか?」 「‥‥‥‥」 「ふふ‥‥次はこの龍塵がお相手しよう。それまで壮健であれ」 「ま、待て‥‥」 暗闇に沈んでいく蒼い影。夏海は薄れていく視界の中で“狼”のイメージだけを残し て、そして気を失った。 巨大な祠。 銀色の髪はやはり月が落とした雫なのか。 まるで月からの贈り物がその地に落下したような結末だった。 ギ‥‥ ギィ‥‥ 木が擦れたような耳障りな音。 撓み、そして、撓る。 暗かった頃の暁蓮の屋敷のように‥‥ だがその部屋は暁蓮の部屋ほどに暗くはなかった。 明るい。 人工の照明ではなく、暖炉の炎が部屋を紅く染める。 それは暁蓮の部屋のランプとは対照的だった。 パチ‥‥パチッ‥‥ 火の粉が散る。 ギ‥‥ また木が擦れる音がした。 扉が開く。 明るい部屋に入ってきたのは‥‥金色の髪の女性だった。 その女性は新緑のチャイナドレスを着ていた。 冬湖、という名の女性。 「‥‥どうだったの?」 「‥‥‥‥」 「そう‥‥」 冬湖は暖炉の傍らに歩み寄り、そして身体を暖めるように炎の前に座った。 部屋の壁に冬湖の影が浮かび上がる。 その冬湖を見つめる、これも女性。 ギ‥‥ 木が擦れる音は、その女性が座っているロッキングチェアが奏でたものらしい。 「‥‥さみしい?」 「‥‥‥‥」 「大丈夫。もうすぐ‥‥彼は私たちの元へくる‥‥そしたら昔に戻れるわ」 「‥‥欲しいものがあります」 「‥‥言ってごらんなさい」 「あの娘が‥‥欲しい‥‥」 「‥‥‥‥」 「わたしは、アイリスが‥‥欲しい‥‥」 「そっか‥‥そのチャイナドレス、どこかで見たことがあると思ってたら‥‥」 「麗一様が欲しい‥‥アイリスが欲しい‥‥」 「‥‥大丈夫よ。自分の運気を信じなさい‥‥今ここにいる自分自身をね」 「あやめ様‥‥」 「あなたの望みはわたしが叶えてあげる‥‥彼と‥‥神凪くんと共にね」 「‥‥あやめ、様‥‥」 ギ‥‥ その椅子の主が立ち上がった。 軍服ではなく、蓬色の和服に藍色の羽織。 長い黒髪を襟元で結う姿は、まさに‥‥藤枝あやめ、その人だった。 ギィ‥‥ 再び木が擦れる音。 扉が開く音。 「‥‥あらあら、ずぶ濡れじゃないの」 「小降りにはなってきている‥‥濡れネズミになった甲斐はあったがね‥‥」 その男性は軍服を着ていた。 緑色‥‥新緑ではなく、寧ろ淡水の湖の色にも似ている。 「収穫はあった訳?」 「‥‥大陸に向かう日も近くなりそうだ」 「‥‥ふむ」 「それと‥‥君と入れ違いで花やしきに行ったんだがな、そこで面白い娘に会った‥‥昔、 君にチョッカイを出した、あの娘だな」 「はて‥‥誰かしら‥‥」 「‥‥見ろ」 青年は軍服の袖を撒くってあやめに見せた。 そこには何か太い紐で縛られたような朱の痣が残されていた。 「‥‥蛇?」 「“裏”を通って行ったのだが‥‥強引に引きずり出された。なかなかの使い手だな‥‥ 真也とも縁があるそうだ」 「‥‥神楽、ね」 「あの娘‥‥引き込めるやもしれんな。尤も、神凪を引き込んだ暁には自動的に得られる 特典か‥‥」 「なるほど‥‥でも‥‥ミコヅキ」 「え‥‥」 「あなたはどう?‥‥あなたと神楽、似てはいるけど‥‥水と油。仲良くやれる?」 「‥‥‥‥」 「いいではないか。神楽は私につかせればよい‥‥拒否するようなら‥‥喰らうまでだ」 「あら‥‥神楽は夢組隊長の“側近”よ‥‥あなた、真也くんと戦うつもりなの?」 あやめの横に立つその青年。 蓬色の和服に、その軍服は何故か妙に似合っていたのは気のせいではないだろう。 長い灰色の髪が炎の赤に照らされて神秘的な色を呈する。 名は山崎真之介と言った。 「‥‥無理だな。真也も私とは戦えまい‥‥俺に対して劣等感を持ってるからな‥‥全く いつまで経っても成長せんヤツだ‥‥」 「ふ‥‥何より無明妃が身体をはってでも止めるでしょうね」 「無明妃、か‥‥達者であればいいが‥‥」 「ふふ‥‥彼女に聞かせてあげたいわね、その言葉‥‥わたしは牙を向けられたけど?」 「‥‥‥‥」 「あなたは夢組には手を出せない‥‥まさに鬼門ね」 「私が戦う相手は‥‥やはり、大神一郎、そしてヤツか‥‥」 「‥‥‥‥」 「不服かね?‥‥大神“くん”は君のお気に入りだったな、そう言えば」 「‥‥‥‥」 「では、ヤツ‥‥斯波慶一郎はどうだ?‥‥彼は君が見つけたんだったな?」 「‥‥‥‥」 「尤も、ヤツは‥‥雪組に留まっているような男ではない。どっちに転んでも我が敵にな ることは間違いないだろう‥‥引き込むのはやめておけよ、この二人に関してはな」 「‥‥何故?」 「大神一郎は最早君が知っている頃の青臭い青年ではないぞ‥‥しかも君の“分身”が肩 入れした時の‥‥あの時の力を単独で発揮する可能性まである。危険すぎるな」 「‥‥そうかもね」 「君の気持ちはわからんでもないがな‥‥俺とて彼を知らん訳でもないんだから‥‥」 「‥‥そうね」 「それと斯波‥‥こいつも厄介だな。李暁蓮とも繋がりがありそうだし‥‥」 「‥‥‥‥」 「わかったろ、君は神凪のことだけ考えてろ。二兎を追う者は一兎をも得ず‥‥それが三 兎も四兎も追ってどうする‥‥」 「あやめ様を愚弄する気か、少佐」 「お互い様だ‥‥あやめは私の過去に触れたんだ」 「‥‥やめましょう。せっかくいい気分なのに‥‥そうだ、お茶にしましょう。さっきね、 白蓮が緑茶を入手してきたのよ」 「あ‥‥では、わたしが‥‥」 「あなたは座ってなさい。濡れてるんだから」 「あ‥‥」「どれ、私も手伝うか‥‥」 「ふふ‥‥」 真之介は踵を返してあやめに続いた。 「そうだ、冬湖‥‥」 「?」 「君の仲間に‥‥夏海、という少女がいたな?」 「‥‥それがどうかした?」 「月影に倒された」 「!」 「だが、龍塵という男に助けられたようだ。向こうに送った斥候から得た情報だ」 「夏海が‥‥まさか‥‥」 「敵に塩を送るとは‥‥なかなかどうして、容易ならざる相手のようだな」 「ぬう‥‥」 「‥‥仇討ちなどやめておけよ、冬湖‥‥昔の彼になら勝てたかもしれんがな、君の力 を以てすれば‥‥だが、今となっては相打ちが関の山‥‥しかも月影は更に強大にな る可能性が高い‥‥」 「‥‥自分の身体で確認してみるか?、山崎少佐」 「君の相手は他にいるだろう‥‥連中は私に任せておけ‥‥いいな?」 「‥‥‥‥」 言葉に出来ない歯がゆさが冬湖を襲う。 四季龍は捨てたはずなのに‥‥ 俯く冬湖を見つめる優しい瞳。 帝撃花組の前身であり、四季龍の前身でもある帝国陸軍対降魔部隊。 そのうちの二人が再び現の世に顕現する。 「月影、か‥‥真也が随分と世話になったらしいし‥‥返礼をせねばならんな、これは」 「月村くんでなければ‥‥よかったんだけど、ね‥‥」 暖炉の炎はいつしか冬湖だけを照らしていた。 ただじっとあやめの座っていた椅子を見つめる極寒の巫女、冬湖。 そして両腕で自分を抱きしめる。 いつだったか‥‥マリアが自分をそうしたように。 暖炉の炎では雪娘を暖めることは出来なかったようだ。
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