<その4> 「ん‥‥あ‥‥あれ?‥‥ここは何処?」 「ゆ、由里さんっ」 「ちょ、ちょっと、椿‥‥」 「よかった‥‥よかったあっ」 可憐が部屋に入って来たのとほぼ同時に由里は目覚めた。 眠っていた由里をひたすらじっと見つめていた椿がうれしさの余り飛びつく。 由里本人は訳がわからない様子で、しがみつく椿をなだめつつ、ぼけっとしながら周りを 見つめていた。 「ここは葉山よ。神崎さんのお宅にお邪魔してるって訳」 「え‥‥あなたは?」 「自己紹介が遅れたわね‥‥わたしは可憐。帝撃雪組の一員よ」 「あ、わたし、風組の榊原由里です‥‥お世話になってますぅ‥‥」 「は?」 「ははは‥‥寝ぼけてるようじゃのう、榊原くん」 「ん?‥‥だれ、このお爺さん」 「ゆ、由里さんっ!」 「ほっほっほ‥‥かまわん、かまわん、確かに爺じゃからのう」 「この方は神崎忠義会長よ。あなたをずっと看護してくださってたの」 「!‥‥ご、ご無礼いたしましたっ」 「ほっほっほ‥‥どれ、目覚めのお茶でも煎れてしんぜよう」 「お、恐れいります、です」 ベッドから起き上がろうとする由里を椿が押し止めた。 心理操作を受けた以上、肉体にも当然波及しているはずだ‥‥外見上問題は確認出来ない ものの、内部に影響が出る可能性は否定出来ない。椿は由里の身体を隈無くチェックした。 忠義と重樹の会話も椿には気になっていた‥‥風の踊り子、という言葉が。 「うひゃひゃっ‥‥さ、触んないでよっ、椿‥‥うひゃっ」 「ちょっと、じっとしててくださいっ!」 「ぬはっ‥‥く、くすぐったいってば‥‥!‥‥そ、そんなとこ、触っては‥‥」 「う〜む‥‥わかんないな‥‥」 「あ、あっは〜ん‥‥か、勘弁して、ちょ‥‥椿ぃ‥‥」 風組でありながら月組の素養をも満たす少女、高村椿。 もって生まれた能力らしく、掌を向けた方向から不可視の波動を送り込み、その反射波を 受信して状態を識別する。さながらイルカが超音波を発して障害物を避けるのにも似てい た。 椿は由里の身体の至るところに掌を充てた。 やはり問題はなさそうだが‥‥下腹部のあたりに何か妙な感覚を覚えて、そこで暫しマッ サージを実施することにした椿。 「う、うひょ〜‥‥‥ひょ、ひょえええ‥‥」 「う〜む‥‥なんだろ、これ‥‥まさか、由里さん‥‥妊娠してるんじゃ?」 「ば、ば、バカなこと、言わないでよっ!」 「相手は?‥‥まさか、大神さんじゃないでしょうね‥‥」 「い、い、い、いいかげんにしてっ!」 椿のジト目を受けつつ、真っ赤になって否定する由里。 冗談で言った椿も、由里の慌てぶりを見て、こちらも少々ムッとする。 「ふんっ。別に問題ないみたいですねっ、由里さん」 「あ、当たり前でしょっ、全く‥‥人の身体を‥‥ちょびっと気持ちよかったけど‥‥」 成り行きをじっと見守っていた可憐。 椿が由里から離れたと同時に代って枕元に寄る。 「‥‥具合はどう?」 「え?‥‥ええ、バッチリ目は覚めましたよ?‥‥それより、なんでわたし、こんなとこ で寝てたんだろ」 「‥‥花やしきでのこと‥‥憶えてる?」 「花やしき?‥‥花やしきがどうかしたんですか?」 「‥‥‥‥」 「あれ?‥‥記憶がない‥‥あれれ‥‥昨日休日出勤して、そいで杏華さんに台本渡して、 そいで‥‥アパート帰って、椿が作ってくれたマズいご飯食べて‥‥」 「ムカッ」 「そいで‥‥ありゃ?‥‥家で眠って、なんでここで目を覚ますんだろ‥‥」 「‥‥‥‥」 低い天井を仰ぎ見る由里。 二階の隠し部屋に当たるその部屋は、床から天井まで180センチほどしかない。 可憐などは少ししゃがみこんで歩かないと、張りに頭をぶつけてしまう。 その天井は普通の格子状に張りが形成されておらず、何故か三角形の模様を成していた。 見ると壁もそうらしい。塗装がしてあってよく見ないとわからないが‥‥ 視線が定まらない由里をじっと見つめる可憐と椿。 「‥‥お茶を飲みなされ、榊原くん」 忠義が湯飲みを持って戻ってきた。 「熱いからの、気をつけなされ」 「あ、どもども‥‥ん‥‥ん?‥‥!‥‥マ、マズイッ!」 「ほっほっほ‥‥全部飲むのじゃよ」 「信じられないほどマズイわ‥‥何故これほどマズイのっ!?」 「ほっほっほ‥‥おかわりはどうじゃな?」 「‥‥拷問だわ」 忠義が相手をしている間に、可憐は椿を部屋の外‥‥入り口にあたる三階部分に連れ出 した。そこで耳打ちするかのように椿に囁く。 「‥‥由里さんのお腹に何があったの?」 「石みたいな感覚がありました。もっとちゃんと調べたほうが‥‥」 「石‥‥?」 「ただ‥‥なんか見られてる気がしたんですよね‥‥目のある石、みたいな‥‥」 「‥‥‥‥」 「それに‥‥柔らかくて暖かそうな感じもしました。不思議‥‥じっと見てると‥‥ま るで空に浮かんでるような感じで‥‥星空を見てるようで‥‥」 「‥‥由里さんの身体、以前からそんな感じはあった?」 「え‥‥どうだろ、わからないです‥‥‥あ‥‥そうだ、そう言われてみると‥‥一度 妙な感覚があった記憶が‥‥」 「‥‥‥‥」 「あれは確か‥‥‥大戦の、終わりに‥‥長官がミカサで特攻する直前、脱出しろって 言われて‥‥」 「‥‥動かないはずの緊急用飛行船が浮上した、とか?」 「そうそう‥‥え?‥‥ど、どうしてそれを‥‥」 「ふむ‥‥」 「?‥‥その時、なんか由里さんの様子が変だったような‥‥」 「‥‥そして、降魔の群れすら寄せ付けない激しい風が出て‥‥きたんでしょ?」 「何故それを‥‥」 「成程ね‥‥不浄の物の怪を塵に変える風神ね。風魔烈風かな‥‥?」 「ふうま、れっぷう?‥‥なんですか、それは‥‥」 「言い伝えよ。風の神様がきっとあなたたちを護ったのね」 「‥‥‥‥」 「石か‥‥まさか、賢者の石では‥‥」 「え‥‥?」 「あ‥‥何でもないわ。たぶんほっといても大丈夫だと思う。動けそうだから銀座に連 れて帰りましょう」 「‥‥ほんとに大丈夫なんでしょうか」 「たぶん、ね‥‥」 可憐と椿はすぐに由里の元へ戻った。 ただ、可憐の表情にはありありと疑惑の色が濃く現れて‥‥ 『まさか‥‥“彼女”の子孫が実在したということなのか‥‥』 再び由里を見つめる。 忠義の煎じた薬草が入った緑茶。 底が見えないほどコッテリとした、とても茶とは呼べないような茶を、苦しそうに飲み 干す由里。横でクスクス笑う椿。忠義も微笑んでいる。 『‥‥気のせいよ‥‥所詮神話‥‥創り話‥‥実在する訳が‥‥』 葉山の神崎邸から横浜方面に向かう。 山手の丘。本当なら月影を追った夏海もここに来るはずだった。 蔦の絡まる洋館はしっとりと濡れ、月明かりをも吸収する闇に埋もれていた。 部屋の薄明かりすら漏れてこない。 主を照らす薄暗い赤。赤いランプ。 「‥‥なんか‥‥寒い‥‥」 月影の置き手紙を読んだ後、暁蓮は再び自室に戻った。 横になっても眠れない。 大神の匂いがうっすらと残るベッドの上で暁蓮は悶々としていた。 暫く経つと妙な肌寒さを覚えた。決して寒い季節ではない。雨が降ったからでもない。 ベッドの上で自ら抱きしめる暁蓮‥‥ここにも自分でしか自分を愛しむことが出来ない 女性がいた。 サ‥‥ カーテンが揺れた。風もないのに‥‥ 気配がした。 音はない。が、そこにだれかがいるであろう気配を暁蓮は感じ取った。 「‥‥月影?」 返事はなかった。 「‥‥月影ね?‥‥入りなさい」 カチャ‥‥ ギ‥‥ 扉がゆっくりと開いた。 音の出ないはずの扉も、この時ばかりは無音に耐え兼ねたのか、儚い悲鳴を上げた。 立っていたのは、やはり月影だった。 「早かったわね‥‥ん?‥‥どうしたの?‥‥怪我してるの?」 「‥‥‥‥」 「黙っていてはわからないわ‥‥こちらに来なさい。手当てをしないと‥‥」 「‥‥‥‥」 月影は無言のまま暁蓮が横たわるベッドまで歩み寄った。 ゆっくりと起き上がる、群青のチャイナドレス。 チャイナドレスがずれる。 白い脚。 傍らに置いてあった救急箱を取り出す。 チャイナドレスが締めつける。 淫靡な腰を。 豊かな胸を。 白く細い腕が時折宙を彷徨う。 赤いランプが照らす横顔。 赤い唇。 濡れた唇。 「‥‥‥‥」 「困ったわ‥‥薬が切れてる‥‥包帯だけだけど、我慢してね‥‥」 白い腕。 白い指が触れる。 「‥‥‥‥」 「あなたを傷つけるなんて‥‥よほどの相手だった訳?」 赤い唇。 濡れた唇が震える。 「‥‥‥‥」 「それとも油断した?‥‥用事があるって手紙に書いてたけど‥‥まさかあなた、神凪 さんと‥‥」 白い脚。 かすみの次は暁蓮‥‥月影の手に今度は暁蓮の白い脚が触れた。 「‥‥‥‥」 「どうしたの?、黙ってちゃ‥‥!!!」 赤いランプが揺れた。 ゆらゆらと揺れる影。 「!‥‥!!‥‥や‥‥!‥‥」 「私は月影である前に‥‥月村だ‥‥人間なんだ」 「!‥‥んぐ‥‥‥!!‥‥!‥‥」 「私は‥‥」 「‥‥はあっ‥‥!‥‥ん‥‥!!‥‥や、め‥‥」 「力を与えてくれ、暁蓮様‥‥私の迷いを‥‥消し去ってくれっ!」 「!‥‥かはっ‥‥!!‥‥い‥‥!‥‥!!」 ギシ‥‥ 揺れる影。 ギシッ‥‥ギシッ‥‥ 赤いランプが震えた。 ベッドが悲鳴を上げていた。 白い脚が、白い腕が‥‥白い肌が赤いランプに照らされて宙を彷徨う。 伸ばした手が何かを求めていた。 その先には白い狼がいるはずだった。黒い龍がいるはずだった。 声にならない声を上げる。 暁蓮の叫び声は闇に溶けていった。 月影は泣いていた。 暁蓮も泣いていた。 涙はあの人のためだけに‥‥ 己に架したその約束が、儚い夢で終わるかのように‥‥ 涙がお互いの頬を濡らしていた。 月影の汗と血が暁蓮の白い肌をも濡らす。 暁蓮から流れ出る妖しくも美しい雫が月影の中の渇いた葛藤を潤していく。 そして月影は‥‥再び銀色の髪を蘇らせたのだった。 黒髪が示すのは優しさか?迷いの現れか? では悪魔に戻ろう‥‥ 風が止まった。 ピチャン‥‥ 雨音。 雫の音が響く。 龍塵が屋敷に到着する頃‥‥ 横浜の街を濡らした雨はぴたりと止んだ。 「その銀髪は‥‥」 「‥‥‥‥」 居間に入ると月影がソファに蹲っていた。 銀色の髪‥‥嘗て龍塵自身もそうだった。黒髪は転生の証だったはず。 月影は過去に戻ったのか? ‥‥いや、違った。 大陸にいた頃の破壊王が再現された訳ではない。 ただ龍塵が月影の中に見出したものは‥‥ 「な‥‥なんという、ことを‥‥」 「私は‥‥私は月影ではなくなっていた‥‥かすみに会ってしまって‥‥そして‥‥あ の少女‥‥夏海を見て‥‥」 「だ、だからと言ってっ、お、お嬢様を‥‥」 「‥‥暁蓮様は私の迷いを払拭してくれた‥‥そして、暁蓮様は‥‥普通の女性に戻る のだ‥‥何処にでもいる女性に‥‥何処にでもある幸せを手にするために‥‥」 「‥‥‥‥」 「かくなる上は‥‥私は‥‥私は、月影としての‥‥使命を果たそう‥‥私を復活させ た人‥‥暁蓮様の、ために‥‥」 「‥‥お一人で背負うつもりか、月影殿」 「龍塵殿、貴殿は正しいよ‥‥知らないうちに私は優しくなっていたのだろうな‥‥い や、弱くなっていたのか‥‥」 「‥‥‥‥」 「優しい者は罰せられる世界‥‥少なくとも暁蓮様だけは護らねばならない‥‥あの人 は私が必ず護ってみせる‥‥たとえ杏華様と決別することになったとしても」 「月影殿‥‥」 「‥‥だが‥‥まだ足りぬ‥‥あと一段階の成長が必要だ‥‥まだ、だ‥‥」 「‥‥‥‥」 月影は誤解していた。 自分の迷いを絶つためには‥‥暁蓮の持つ力を吸収するしかない。だから彼女を抱くし かないと。それに、たとえ辱められても“蛇”としての力を失えば‥‥神凪は必ず戻っ てくるはず。神凪を引き寄せるはずの暁蓮の力は、逆に想い人を遠ざけたのだ‥‥月影 はそう自分に言い聞かせた。 ‥‥勿論言い訳でしかない。 己の欲求を満たすため、己の葛藤を打破するため‥‥だから抱いたのだ。 暁蓮はかすみの代償か?‥‥否定出来ない月影。 いや、弁明であっても、結果暁蓮の運命を変えることが出来れば、と‥‥ それが誤解だった。 月影は確かに暁蓮の力を得た。 そして、暁蓮は普通の女に戻ったのか?‥‥そうではなかった。 すみれは大神を拘束する鎖の一本を解いた。そして大神もすみれに力を与えた。 暁蓮と月影も同じだった。 ベッドでぴくりともせず、俯せになって横たわる暁蓮。 群青のチャイナドレスは何処にも見えない‥‥ただ、引き裂かれた蒼い布が、散らばっ ているだけ。 白い肌がまるで夢のようにぼんやりと輝いていた。 「‥‥夕焼け‥‥小焼けの‥‥」 枕が涙で濡れていた。 透明な珠が暁蓮の長い睫毛を彩る。赤いランプに照らされたガラスの珠のように弱々し く光る。瞳も濡れていた。海のような色の瞳は闇に塗れて星空を凝縮したように見えた。 濡れた唇から哀しげに詩が漏れる。 初めて来日した時に‥‥大神が口ずさんでいた詩だった。 横浜港に停泊していた帝国海軍の練習艦。モップを持って甲板を掃除する青年‥‥魔に 取り憑かれた暴漢に襲われかけた時‥‥あの時はだれも護ってくれる者はいなかった。 その暁蓮を助けた青年。守護の狼のようだった‥‥そして、自分が慕うあの人と生き写 しの青年だった。狼は風のように去っていった‥‥照れくさそうな笑顔だけを残して。 その彼を追って‥‥その船に行き着いた。 夕陽がやけに眩しかった。 反射した陽の光が眩しかった。 青い海の上に煌めく波‥‥夕陽の赤に照らされて菫色に輝いていたんだ‥‥ 暁蓮の白い手が、その指がやっと動きだした。 大神が眠っていた、同じ白いシーツをなぞるように。 「大神、くん‥‥」 大神の幻が、先刻までそこにいた姿で‥‥暁蓮の濡れた目に映し出された。 指を移す。 大神の頬に触れる。 すると‥‥大神は微笑んだ。 幻の大神は苦痛の表情は見せなかった。 す‥‥と目を開け、そして暁蓮を見る。 「あ‥‥」 やはり微笑む大神。 「‥‥待っててくれる?‥‥わたしが生まれ変わるまで‥‥待っててくれる?」 幻の大神が暁蓮を包む。それは白色の霊力‥‥暁蓮自ら創りだした清らかな力だった。 それが暁蓮の持って生まれた力だったに違いない。 「うれしい‥‥うれしいよぅ‥‥大神くん‥‥大神、くん‥‥」 終末の赤に彩られていた暁の蓮華は、その本来の純白を手にした。 白い蓮華。 すみれが創る鳳凰蓮華‥‥その光の華のように、暁蓮は輝いていた。 「どう?‥‥動きそう?」 「はい。補助機関用の特殊燃焼炭が底を尽きかけてたんですけど‥‥流石は神崎財閥で すね、きっちり補充してくれました。なんとかなります」 「‥‥弾薬は?」 「それは大丈夫です。ただ‥‥」 「‥‥ん?」 「花やしきを出る時、結構お腹に弾丸受けたから‥‥被膜の一部が剥がれ落ちてます」 「‥‥弐型硬化溶剤、だったかしら」 「ええ‥‥予備はもうないし‥‥こればっかりは紅蘭さんがいないことには‥‥」 「う〜む‥‥」 椿と共に翔鯨丸の整備をする可憐。 予定どおり、鯨は神崎邸に預けておくしかないだろう。 他に行く宛てがある訳でもなし‥‥ 花やしきの凍結も時間の問題‥‥五師団も銀座に向かっている。取りあえず合流する手 だ。神崎邸に留まるのは危険だ‥‥敵と枕を並べるなど、寝首を掻いてくれと言ってる ようなもの。夜が明けたら打開策を検討しよう‥‥何しろ疲れすぎている。 格納庫から戻ると、真新しい服に着替えた由里が客間で二人を待っていた。 忠義が用意したらしく、まるですみれが好みそうな派手なドレスだった。 胸の部分が大きく開いているのは、やはりすみれが選んだ証か。 「どう?‥‥ちょっとはずかしいけど‥‥」 「‥‥由里さんって‥‥結構‥‥その‥‥奇麗な胸、してるんですよね‥‥」 「やだ〜、もう、椿ったらあ、そんな当たり前のこと言わないでよ〜‥‥あ〜あ、大神 さんにも見せたいなあ‥‥」 「‥‥ゲロゲロ」「ふふ‥‥」 「あれ?‥‥かすみさんは?‥‥来てないの?」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 ピンポーン‥‥ 呼び鈴が鳴った。 客らしい。 「‥‥帰ってきたかな?」 執事が迎える。 濡れたかすみ草は何処か哀しく見えるもの。 白い小さな花びらも曇った視界の中では幻のように見えてしまう。 「!」「かすみさんっ!?」 「‥‥‥‥」 今のかすみがそうだった。 背中に背負った銀髪の少年?が、まるでかすみ草の小さな花びらに乗った雨粒のように も見えてしまった。 駆け寄る可憐。椿と由里が続く。 可憐が夏海を受け取った。椿と由里がかすみを支える。 「着替えさせたほうがいいわ‥‥椿ちゃん」 「は、はいい‥‥」 かすみを更衣室まで連れていくが、足取りがおぼつかない。 夏海を背負ってここまで歩いてきたためか‥‥かすみの表情は土気色になっていた。 「夏海くん?‥‥聞こえる?、返事して」 「‥‥‥‥大丈夫だよ‥‥‥少し‥‥休めば‥‥なんとかなる‥‥」 「‥‥んな訳ないっしょ。そんな怪我して‥‥ちょっと待ってて」 かすみを椿に預け、由里は可憐と共に夏海の介護に徹した。 外傷は擦り傷程度。ただ、かなり衰弱している。怪我をしている、と由里が称したのは外傷 ではなく霊的な衰弱を見てとったからだ。 先程自分が飲んだお茶を忠義に再び依頼する。 嬉々として茶を煎れる忠義をジト目で眺めつつ、由里は湯飲みを夏海に与えた。 「‥‥さ、これ飲んで‥‥暖まるから」 「‥‥‥‥」 「どう?‥‥マズイっしょ」 「‥‥薬草の味‥‥‥栄養価は高い‥‥悪くない」 「うっそ‥‥」「ほっほっほ‥‥」「‥‥ふむ‥‥確かに大丈夫そうね」 少しだけ赤みを取り戻した夏海の顔色を見て、可憐は出発を告げた。 宿泊を薦める忠義だが、事情を説明すると暫く思案した後、車を用意すると言って客間を離 れた。かすみも着替え終えて、椿と共に玄関まで赴く。 黒いリムジン。艶消しを施しているらしく、ライトを点けなければ闇に溶け込んでしまう色 だった。先に重樹が乗った車とは違うらしい。 「さて、と‥‥椿ちゃんと由里さん、それに夏海くんは後ろに乗って‥‥」 「はい」「はいな」「‥‥了解」 「私が運転するから‥‥かすみさん、ナビお願いね」 「‥‥‥‥」 「?‥‥どうしたの、かすみさん」 「‥‥残る」 「え‥‥」 「わたし‥‥ここに残ります」 かすみが新しく着たのは朱色の振袖だった。 それもかすみの着こなしに合わせたように、前身頃を短めにし帯飾りで合わせ目を隠す。 神崎邸の衣装部屋で椿が選んだ。忠義の弁では、帝劇に関係する職員全ての衣装を取り揃え ているらしい。従って大神のモギリ服まである、という。これについてはすみれがオーダー したようだ。 「わたしは‥‥帝劇には戻りません‥‥」 「ちょ‥‥何言ってるんです、かすみさんっ」 「それがあの人の意思だから‥‥わたしがここにいれば‥‥きっと‥‥」 「‥‥あなたの想い人は‥‥あなたの元へは戻ってはこないと思う。夏海くんをここまで追 い込み、そしてあなたを捨てて行った‥‥‥月村美影は過去とも決別したのよ?」 「わかってる‥‥わかってるの。でもわたしは‥‥わたしは‥‥」 「‥‥帝撃を捨てる覚悟なの?」 「なっ‥‥そんな‥‥そんなことないですよねっ、ね、かすみさんっ」 「‥‥もしも‥‥あの人がわたしの元へ戻ってきてくれるなら‥‥その可能性が少しでもあ るなら‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥わたしは月村かすみになります」 「‥‥‥‥」「‥‥かすみ‥‥さん‥‥」 じっとかすみを見ていた由里。 かすみの姿に月影と大神がだぶる‥‥それは夢のつづきを見ているからなのか。 何かを言わなければいけない‥‥でも口には出ない。出せなかった。 ‥‥焦ったらあかんで‥‥ 内側から声が聞こえる。 その声が導く‥‥白い浜百合を。 「由里‥‥?」 「‥‥風神の祝福があらんことを‥‥汝、朱雀と共にあれ」 「由里、さん?」「‥‥‥‥」 「我は謳う‥‥我は舞う‥‥かの人を導くため‥‥汝を再び花咲く地に導かんがため‥‥」 「由里‥‥」 「‥‥行きましょう、可憐さん」 「‥‥そうね」 歩くのも難儀な夏海は、忠義自ら車に乗せた。 杖をつくのが常のはずだが‥‥実際は脚のほうも元気なのかもしれない。 「すいません、神崎さん‥‥あの‥‥」 「彼女のことは心配するな。儂に任せておけ‥‥彼のほうは重樹がなんとかするだろうよ」 「‥‥お願いします」 「ふ‥‥お茶を飲みたくなったら何時でも来なさい。鯨もいることだしのう」 「はい‥‥では、失礼します」 「かすみさんを‥‥かすみさんを‥‥お願いしますっ!」 「ああっ、心配するなっ!」 黒いリムジンはすぐに闇に溶けて行った。 姿が消えても、音が消えても‥‥かすみはじっとその行方を目で追っていた。 唇を噛んで。拳を握り締めて。震えながら‥‥ 「少し冷えてきたな‥‥お茶を煎れ直そうか、藤井くん?」 「‥‥はい‥‥はい‥‥」 「今生の別れではない。榊原くんが言ったろ‥‥君は再び帝劇に戻る運命にある、と」 「‥‥‥‥」 「そう、花組は七人で一つ‥‥風組は三人で一つ。君を欠いては風は立たんよ」 「‥‥‥‥」 「それに‥‥米田さんの指示もあるのだろう?」 「!‥‥どうして、それを‥‥」 「ふふ‥‥まあ、いいではないか‥‥さ、お茶飲もうや‥‥爺には立ちっぱなしはキツイ でのう」 「‥‥はい」 闇を走る黒いリムジン。 メータを彩るイルミネーションが可憐と助手席の由里を青白く染める。 ヘッドライトに照らされた場所だけが道標の暗い街道を疾走する。 まるでエンジンに意思が込められているかのように。 「‥‥結構スピードでますね」 「そうね‥‥これ、たぶん‥‥李紅蘭女史の手が入ってるわ」 「え!?‥‥そうなんですか?」 「たぶん、ね。わたし一度すんごいの運転したから‥‥フィーリングが似てるわ」 「ああ‥‥ハマキチ、ね」 「‥‥ハマジじゃなかったっけ?」 「あははは‥‥ハマイチ、ハマジ、だった、そう言えば‥‥次はハマサブローかっ!?」 「‥‥ハマってます、だったりして‥‥」 「ちょっと、由里さんっ、可憐さんもっ‥‥笑ってられる状況じゃないでしょっ!」 「はえ?」「ん‥‥?」 「だって‥‥だって、かすみさんが‥‥それに‥‥銀座だって‥‥花やしきだって‥‥」 後部座席で眠る夏海。 横に椿。椿は窓の外に映る何も見えない闇の世界をただじっと見つめていた。 ガラスに弱々しく反射した自分の顔しか見えないのに‥‥ 「‥‥椿」 「くすん‥‥はい?」 「かすみさん‥‥鯨に乗った時、何か言わなかった?」 「くすん‥‥はい‥‥?」 「‥‥帝国華撃団に絶望はない‥‥って」 「!」 「風には風の使命があるのよ。それを忘れてはいけない‥‥あなたも風組なら、ね」 「でも‥‥でも‥‥」 「それに、翔鯨丸と轟雷号‥‥あなた、任されたんじゃないの?、椿」 「あ‥‥」 ‥‥翔鯨丸はあなたが管理しなさい‥‥椿‥‥ かすみの言葉が過る。 「‥‥そんな‥‥そんなの‥‥」 「一人立ちする時は来る‥‥それが風組の定めなのよ」 「そん、な‥‥」「‥‥‥‥」 「留まってはいられない‥‥花組とは違うの。わかるでしょ?」 「‥‥‥‥」 「特にあなたは月組の素養まで持ってる。かすみさんはあなたに期待してるのよ」 「‥‥それはあなたも同じみたいね、由里さん」 ヘッドライトが照らす暗い道。 その道程だけを見つめていた可憐が口を開いた。 「ふふ‥‥帝撃風組の副隊長は、やはり風の申し子だった‥‥いや、風の踊り子、か」 「風の踊り子?‥‥なんすか、それ」「神崎会長と‥‥同じことを‥‥」 「ふ‥‥少しは自覚してんでしょ?‥‥さっきもかすみさんに‥‥」 「ああ、あれですか?‥‥夢見たんですよ。空飛ぶ夢」 「ふむ‥‥」「‥‥翔鯨丸で?」 「うーんとね‥‥いや、自分で飛んでたなあ‥‥なんか、だれかと一緒だったような‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥大神さん、とか?」 「う〜ん‥‥う〜んんん‥‥大神さん、かなあ‥‥大神さんかもしれないけど‥‥他にもい たような気がするなあ‥‥う〜ん‥‥」 「成程、夢が導いた、と‥‥?」「‥‥‥‥」 「う〜ん‥‥それでね、それで‥‥‥‥あ‥‥‥なんか‥‥変だ、な‥‥わたし‥‥」 「‥‥まだ眠いみたいね。少し寝てなさいな‥‥椿ちゃんも」 「う〜ん‥‥」「‥‥はい」 可憐はヘッドライトだけが頼りの暗い道を、灯が見える方向に向かって舵を向けた。 その灯は暗黒の闇に浮かぶ不夜城のようにも見えた。 帝都東京という不夜城‥‥眠らない街ではないはずなのに、それが今日に限ってやけに眩し く見える。星のようにも見えた。 仲間が死んでいくのは慣れている。 それ以上に人を殺すのにも慣れている。 そして‥‥魔界の物の怪、それを粛正するのは、最早至上の喜びと化している。 感情などなかった。 仕事と割り切っていた。 可憐はそんな自分が今更嫌になってきていた。 雪組に来て‥‥帝撃に来て、何も変らなかったはず。 勿論神凪が傍にいる時は違ったが、本質が変わる訳でもない。 それが何故、今になって‥‥ いや、理由はわかっていた。 「‥‥花組は花を齎す‥‥風は花を育む‥‥雪は‥‥雪は、なんだろ‥‥?」 思わず口遊む。 ‥‥可憐さんは優しいな‥‥ 「‥‥‥‥」 ‥‥可憐さんみたいな姉貴がいたら‥‥俺も大神隊長みたいになれたのかな‥‥ 銀弓の言葉が脳裏に浮かぶ。 そうだ。 そうなんだ‥‥ 自分と同じ道を歩ませてはいけないんだ‥‥ 「雪は‥‥春の喜びを得るためにあるんだ‥‥花を継ぐために‥‥」 暗い空を覆う厚い雲。 星は見えない。 その代りに天は地上に星を鏤めたらしい。 可憐はその地上の星に向かって、闇の中を走った。 風を乗せて。 四季を駆けた龍を乗せて。 暗夜航路の果てに。
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