「‥‥どうだ、気に入ったか、紅蘭」 「うん‥‥」 「めずらしいだろ、瑠璃色の懐中時計なんて。‥‥紅蘭が初めて触った機械が、 わたしの銀時計だっただろう。だから誕生日の贈り物は時計にしようと思ってい たのさ」 「ありがとう、おとうちゃん‥‥うれしい」 「紅蘭たら‥‥」 「‥‥とか言いながら、お父さん、娘の5歳の誕生日には時計なのよね」 「じゃあ今度都に行ったときには、わたしが洋服でも買ってきてあげるわ」 「いじれるもののほうがいいよ、よーらんおねえちゃん」 「‥‥はいはい」 「あれ‥‥なんかうらに字がほられてるよ」 「え?気づかなかったな‥‥どれどれ‥‥」 「なんて読むの?」 「‥‥”龍塵”だな」 「りゅうじん?なんのこと?」 「はて‥‥”りゅう”の”ちり”か、意味深だな‥‥ん?そう言えば‥‥」 「なに?」 「ん‥‥容蘭と芳蘭にあげた時計にも‥‥なにか字が刻み込まれていたような‥ ‥」 「そうだっけ‥‥」 「ようらんねーちゃんの、銀色なんだ‥‥おとうちゃんと同じだね」 「うーん、これは‥‥天‥‥なんだ、読めないな」 「紅蘭のと似てるね」 「ふむ‥‥”天塵”かもしれないな」 「字もそうだけど‥‥なんか形も似てる」 「‥‥言われてみれば、そうだな‥‥もらった相手が同じからかな?」 「へー‥‥」 「芳蘭の時計はどう?」 「こっちは‥‥あれ?」 「ほーらんねーちゃんの時計って、真っ赤なんだね」 「”月影”‥‥」 「なに?」 「‥‥なんでもないよ」 「?」 「‥‥おい、おい、そんなに弄ると‥‥壊れるぞ」 「こわれたら、なおせばいいよ」 「うーん‥‥実はその時計にはいわくがあってな」 「うん?」 「一度止ったら動かないと言われた。おかしな代物らしい」 「へ?‥‥あはははは、そんな、なおらないきかいなんてないよ」 「ところが、これはただの機械ではないらしいぞ‥‥」 「‥‥ふーん」 「‥‥まあ、大事に使ってくれよ、紅蘭‥‥お前が、いつか海を渡る時のため に」 「お母さあん、お父さああんっ」 「紅蘭‥‥」 「お父さんっ、み、みんなは?‥‥お母さんは?‥‥お姉ちゃんたちはっ!?」 「は、早く、逃げろ‥‥これを、これを持って‥‥」 「‥‥飛行機好きなのかい」 「はい!」 「僕も‥‥」 ジリリリリリ‥‥ジリリリ‥‥ 「うーん‥‥」 朝の‥‥5時‥‥もうすぐ30分、か‥‥ はあ‥‥ なんや‥‥夢やったんかいな。 いやな夢やったな‥‥ でも‥‥ もう少し寝とったら、あの人の‥‥ もう起きなあかんな‥‥ ちんたらしとったら、大神はんのあの時計なおせへんしな。 時計‥‥か‥‥ あん時、お父ちゃんからもろた瑠璃色の懐中時計。 ‥‥龍塵‥‥ いじりはじめたら、なんや、動かんようになってもうたからなあ‥‥ お父ちゃんの言うたとおりやった。 あれは‥‥あそこに埋めたままやな。 今でも‥‥そのまんまなんやろか。 お父ちゃんの銀時計は、あん時に壊れてもうたし‥‥ せやけど大神はん‥‥なんで容蘭姉ちゃんの銀時計持っとんのやろ。 天塵。 芳蘭姉ちゃんのあの真っ赤な時計‥‥ あれは何て名前やったかな。 容蘭姉ちゃんと芳蘭姉ちゃん‥‥二人ともあの戦火で‥‥どないなってしもたん やろ‥‥ いややな‥‥あの夢‥‥ うちはベッドから起きだした。 一階の洗面所まで降り、歯をみがき、顔を洗う。 支配人室を通り過ぎる。 『‥‥鼾が聞こえてこんな‥‥どこ行っとるんかいな』 玄関に行き新聞を読む。 いつもの日常。 変わらない朝の風景。 新聞片手にまだ寝ぼけた目で、ふと一階観客席入口を見る。 『‥‥今日で休みも終りか‥‥つまらんな』 ロビーの階段を上り、二階へ上がる。 テラスは朝日に照らされとる。 うちは窓をあけた。 『こんだけ朝はやいと、さすがに静かやな‥‥せやけど、やかましいとこやな、 銀座は‥‥もう一年以上も住んでるっちゅうのに‥‥よう馴染めんで』 そこまで考えて、うちは考えなおした。 『‥‥そないなことないか、うちの蒸気バイクもごっつう、うるさいしな‥‥ ん?』 バルコニーから右下‥‥ちょうど、劇場の歩道にあたるところ。 蒸気バイクがおいてあった。 『雨曝しにしとるんか、勿体ないなあ‥‥あれ?‥‥あれは‥‥』 ちょうど劇場の裏口‥‥なんで裏口が表にあるんか、ようわからんが‥‥厨房の 横にあるその裏口から、人影が‥‥ 『マリアはんやないか?‥‥こない朝早う、どこ行くんやろ‥‥買い出し、か な?』 窓を閉めて、サロンに行く。 『‥‥昨日は大変やったなあ‥‥すみれはんのつっこみには、ほんま適わんで』 うちはまだ寝ぼけとったのかもしれへん。 『せやけど‥‥大神はんの‥‥うれしかったなあ。大神はん‥‥』 あん時はごっつうでれでれしてもうたなあ。 ぼうっとして、泣きそうになって、ちょびっと泣いて、そいで‥‥ しばらく、サロンで大神はんの言葉に浸ってたんやけど、なんや空しゅうて‥‥ うん、やっぱ、実物見んことには。 「‥‥調子悪そうやったな。覗いてみよ」 うちはそっと大神はんの部屋に近づいた。 ドアノブに手ぇかけると、鍵はかかっとらんかった。 『‥‥あれ?』 ”ろっくまん”の出番はないみたいやった。 ‥‥あかん、それやったら犯罪やな。 大神はんを起こさんよう、静かにドアを開けた。 それは微かに‥‥ほんまに微かな‥‥香りやった。 『ん?‥‥なんやろ、これ‥‥くんくん‥‥花、かな』 えらい大事なことのような気ぃがしたけど‥‥ 取敢ず、目標を‥‥大神はんのほうを優先せんことにはな。 大神はん、汗かいとった。熱はないみたいやったけど。 『‥‥拭いといたろ』 額を、頬を、首筋を‥‥うちは、気づかれんよう優しく拭いた。 そいで、あらためて大神はんの寝顔に魅入ってもうて‥‥ はあ‥‥本物はええで。 なんや‥‥ほんま、ええ男やなあ‥‥大神はんて。 あの人によう似とるし‥‥ 優しいしなあ。 大神はん‥‥ パタ‥パタ‥パタ‥‥ コンコン‥‥コンコン‥‥ 『やばい!誰か来てもうた‥‥』 うちは思わず大神はんのベッドの下に潜りこんでしもた。 カチャ‥‥ 『‥‥だれやろ』 うちはそーっと下から覗いた。 『すみれはん‥‥』 「少尉‥‥」 ベッドの向い側に置いとる棚のガラスに、すみれはんの姿が写っとる。 だれも見てへん思てからに、すみれはん、まだ寝とる大神はんに‥‥ 『な、なんちゅうことすんねん‥‥』 「少尉‥‥」 カチャ‥‥パタン‥‥ パタ‥パタ‥パタ‥パタ‥ 「おのれ‥‥無防備の大神はんに‥‥許さへんで、あの女狐」 うちはどたまにきとった。 けど‥‥ちょびっと羨ましい気もした。 『‥‥あないなこと‥‥うちにはようけ、でけへんもんな』 うちは、なんとなく自分の‥‥唇に指を触れた。 「‥‥やって‥‥みよ、かな」 大神はんとこ近づいて‥‥顔をもう一度見て‥‥唇を見て‥‥そいで‥‥ 「‥‥‥‥」 「う‥‥ん」 『!!』 うちはあわてて大神はんの部屋飛び出してもうた。 そのまま自分の部屋にむこうて。 「はあはあはあはあ、はあ、はあ‥‥はあ」 手が‥‥身体が震えとった。 「うち‥‥なにしとんのやろ」 うちの部屋のドア、その横には鏡がついとる。 孔雀の縁取りがしてある、ごっつう値がはるもんやで。 うちは鏡に写った自分の顔を見た。 「‥‥赤くなっとる‥‥うちのアホ!」 そいで唇を指でおさえて、 「せやけど、なんや‥‥うち‥‥」 なんやまた横になりたくなってしもた。 ベッドに入った。 『‥‥ええ感じやな‥‥』 うちはほんの少しの間だけ、愛しい人の温もり、その余韻にひたった。
二章.月影の下で
<その1> 「‥‥何か言うことあるんじゃねえのか、大神」 「‥‥‥‥」 「‥‥俺には言えねえことか」 「先程の報告が全てでありますが」 「紅蘭のこともか?」 「‥‥‥‥」 「おめえの‥‥力に気づいてしまったから、じゃねえのか」 「!!!」 「紅蘭は、そのためにどっか行っちまった‥‥そうじゃねえのか」 「な‥‥」 「紅蘭は、おめえのその力を目覚めさせる‥‥その鍵を探すために‥‥行っちま ったんだろう。違うか」 「な、な‥‥」 「大神‥‥」 「‥‥‥‥」 「俺を甘く見るなよ、大神。なりはじじいでも、おめえの知らねえようなことを 俺は知ってる、腐るほどな。‥‥おめえが見たことのないようなものを、俺は見 てきた‥‥いやになるほどな」 「司令、自分は‥‥」 「‥‥一週間以内に決着つけられるか?」 「は?」 「神凪が来るまでに紅蘭を見つけられるか?」 「‥‥無理です。宛てが全くありませんから」 「では自分の仕事に集中しろ。忘れろとは言わん。紅蘭のことは‥‥神凪にまか せろ。俺から言っとく」 「しかし‥‥」 「安心しろ、神凪は信用できる。おめえは知らんだろうが‥‥いや、やめとこ う。おめえの場合、口で言うより実際に会ったほうがはええだろうしな‥‥」 「ですが‥‥」 「大神」 「は、はい」 「紅蘭は帝撃に必要な人間だ。そしておめえもな」 「‥‥はい」 「おめえの力が目覚めるのは、まだはええよ。鍵を握っているのは無論、紅蘭だ が‥‥それだけじゃねえ。おめえもなんとなく感づいてるだろ」 「な、なぜ、そんな‥‥」 「‥‥おめえのことは帝撃に配属になる以前から調べてる」 「‥‥‥‥」 「なぜ、あやめくんが紅蘭を銀座に連れてきたか、おめえ考えたことあるか」 「?‥‥それは霊子甲冑の開発と‥‥彼女の霊力が‥‥」 「大神という人材を見つけたからだ」 「はあ?」 「‥‥お前は海軍士官学校に入学して、すぐ月組に監視されていたんだよ。もっ とも神凪が隊長になる以前だから、やつは知らんはずだがな」 「な、な‥‥」 「紅蘭には帝撃研究開発陣も舌を巻くほどの技術能力もある‥‥勿論霊力もあ る。それは帝国華撃団・花組をなすための必要条件だからな。‥‥だが、本来の ‥‥紅蘭の本当の存在理由は、大神、お前そのものなんだよ」 「そ、それは、いったいどういう‥‥」 「他にもまだあるが、今は言えん‥‥紅蘭はそのために出ていった‥‥自然なこ とだ。時がくれば戻ってくる。さっき言ったように花組は7人で一つだからな。 紅蘭が戻ってきた時に全てがわかるだろう‥‥焦るんじゃねえよ、大神」 「そんなこと‥‥言われて、はあ、そうですか、なんて自分には‥‥」 「紅蘭はおめえになんか言わなかったか?」 「‥‥!」 「紅蘭のぬけた穴は、戻ってくるまで全員でカバーさせろ。舞台も‥‥戦闘でも な。本来はマリアにさせるところだが‥‥お前の判断にまかせる」 「‥‥‥‥」 「大神!」 「‥‥わかりました」 「下がっていい」 「失礼します‥‥」 大神は支配人室を後にした。 表情には動揺の色をありありと浮かべて。 「神凪の出動も有り得るか‥‥こうなると、やつを引っ張ってこれたのは幸運だ な」 米田は一人思案した。 「だが‥‥来たら来たで、やつは花組に少なからず影響を与えるだろうしな‥‥ ことに大神には‥‥ちっ、頭が痛えぜ、全く」 大神は殆ど夢浮病者のように階段を上っていた。 自分が解決すべき問題、それは既に米田には感付かれていた。 遥か以前から‥‥こうなることを知っていたかのように。 そう考えて、大神はやり場のない憤りを覚えた。 『‥‥知っていた‥‥知っていて、紅蘭を‥‥』 だが、怒りを米田に向けても仕方のないことだった。 直接の原因が自分にあることは明らかだったからだ。 『‥‥俺には‥‥何も、できないのか‥‥』 あなたは‥‥隊長失格です‥‥ 大神は拳を握りしめた。 桜の咲く春に大戦が始まった。 春が終り、梅雨の季節に入った。 マリアの様子がおかしい‥‥ そして、マリアに言われた言葉。 『‥‥そのとおりさ‥‥くそっ』 二階に上がると、話し声が流れてきた。 いつものサロン。 紅蘭はいない。 「‥‥‥‥」 大神は自分の部屋に入った。 鍵をかけた。 一人になりたかった。 その夜、大神は夢を見た。 それはあの時‥‥梅雨の季節。 子供を庇って、そして‥‥マリアを追いかけて、気を失った時に見たあの夢。 あの夢と同じ夢。 涙を流していたのは‥‥紅蘭だった。 紅蘭‥‥ 目を覚してくれる人‥‥あやめはもういなかった。 帝劇の朝は早い。 休日明け、朝7畤。 ロビーの前、売店では椿が開店の準備を始めていた。 かすみと由里も事務室に入っていた。 午前の公演が10畤に予定されていたからだ。 大神は目を覚した。 やはり昨夜もよく眠れなかった。 浅い眠り‥‥いろんな夢を見たような気がした。 「‥‥支配人はいないんだよな。マリアも‥‥紅蘭も」 大神は急いで身支度を済ませ、ロビーに向かった。 途中事務室に寄った。 「あ、おはようございます、大神さん」 「おはよう。二人とも早いね」 「なんか、目が赤いですよ、大神さん。休日はちゃんと休むためにあるんですか らね」 「あははは、確かに。ところで‥‥」 「ええ、米田支配人から聞いております。新しい支配人がいらっしゃるんでした ね。それと、マリアさんと紅蘭さんも、暫時銀座から離れると‥‥」 「新しい支配人かあ、なんか、楽しみよねぇ。神凪さん、だっけ。若くて、すっ ごいいい男らしいから‥‥はあ、はやく来ないかなあ」 「由里ったら‥‥あ、大神さん、そう言えば支配人から言われたんですけど‥ ‥」 「うん?」 「その‥‥なんか修理のことのようなんですが‥‥」 「‥‥」 「その、予算が超過した場合は大神さんの給金から天引きしろ、と‥‥なんのこ とです?」 「そ、そんな‥‥」 大神はしょんぼりして事務室を後にした。 厨房から食欲のそそる匂いがただよってきた。 覗き込むと、そこにはカンナがいた。 「よう、隊長」 「おはよう、カンナ。なんか、いい匂いがするな」 「へへへ、食ってみるかい?」 「どれどれ‥‥」 「‥‥どうだい」 「‥‥うまい。うまいよ、カンナ」 「そ、そうか」 カンナは照れて笑った。 昨日の汚名挽回といった気分だった。 「これ作るの結構時間かかるんだよ‥‥」 大神の腹から音が鳴った。 「あ、あらら。カ、カンナ、その、俺にも、もらえないかな‥‥」 「あははは。よっしゃ、一緒に朝飯といくか」 二人は窓から差し込む朝の日差しを受けて箸を共にした。 昨日は三人で。 今朝は二人で。 カンナは大神の食事する姿をじっと見ていた。 大神はそれこそ馬車馬のように喰らっていた。普段のカンナのように。 ふと顔を上げた大神とカンナの視線が交わった。 「ん?うまいぞカンナ。食わないのか」 「え?‥‥あ、ああ」 カンナは慌てて食べ始めた。 そうしているうち、さくらとアイリスも食堂に姿を現した。 「おはようございます、大神さん」 「おはよう、お兄ちゃん」 「ああ、二人とも、おはよう」 アイリスは大神の横に、さくらはカンナの横に腰掛けた。 「これ、もしかしてカンナさんの手料理ですか」 「ま、まあね‥‥ちょっと、さくらに見せるのは恥ずかしいけど、な」 「ちょっと味見させてください‥‥」 「うまいぞ、さくらくん」 「‥‥おいしい。すごくおいしい‥‥これ沖縄の?」 「あはは、ありがと。味は少し変えてあるけどね、あたいの故郷の料理さ」 「アイリスも食べる〜」 「はい、あ〜んして」 そう言って、いつもはアイリスが大神にする、その仕草を、逆に大神がしてみせ た。 アイリスは少し頬を染めながら、それに答えた。 「おいしい‥‥でもこうしてると、アイリスたち、なんか夫婦みたいだね、お兄 ちゃん」 「え?」 そこで大神は刺すような二つの視線を感じて、ゆっくり振り向いた。 「そうかいっ、ありがとよっ、アイリスっ」 「よかったわねえ‥‥アイリス‥‥ねえ、お・お・が・み・さんっ」 「そ、そ、そうだね。と、ところで、夕べはよく眠れたかい、さくらくん」 「‥‥」 「そ、その、ベッドじゃなかったし‥‥」 「わたしっ、仙台にいた頃はずーーーっと布団でしたからっ」 さくらは相変らず、じとっとした目つきで大神を睨んでいた。 「そ、そうか、そ、その、あやめさんの部屋はどう?」 「‥‥」 そこでさくらの視線はふいに和らいだ。 というより、光が無くなったような感じだった。 「どうしたの?」 「え、あ、いえ、実は‥‥よく眠れなかったんです‥‥」 「‥‥‥‥」 「なんか‥‥その‥‥」 さくらは何か言い淀んだ。 何を言えばいいのか、その大事なことが、起きたときにはすっかり消失してい た。 そんなさくらの表情を見て、大神は躊躇いながら聞いた。 「‥‥あやめさんの‥‥夢?」 「‥‥わかりません。そうだったかもしれませんが‥‥」 四人の間に無音状態がしばらく続いた。 朝の雑踏の音が食堂の中にも洩れて聞こえてきた。 「あら、みなさんおそろいで」 すみれが姿を現した。 蓬色の訪問着ではなく、元のすみれ色の着物を着ていた。 本人曰く、予備品とのことだった。 大神は現実に戻った。 「そう言えば、今日の舞台のことなんだけど‥‥」 「‥‥はい」 少女たちもいつもの表情を見せた。 「知ってのとおり、マリアと紅蘭が一時的ではあるけど、銀座から離れてしま う。そこで、彼女たちに割り当てられていた分を含めて、配役を変更する必要が あるんだ‥‥もう開演が二時間後に迫ってるのに、急ですまないんだが‥‥」 「‥‥今回の舞台はわたくしとカンナさんが主演ですから、他の方の負担も少な くて済むはずでしょう。気になさるほどのことではありませんわ」 すみれは自己主張と見せて、他の花組の少女たちの心理的負担を軽くしようとし た。 大神には、それがよくわかった。 「うん。それで‥‥マリアの配役をさくらくんが、紅蘭の部分をアイリスが受け 持ってくれないかな。‥‥セリフもそんなにないだろうし‥‥台本を見た限りで は重なることもないはずだから」 「わかりました。アイリス、楽屋にいきましょう」 「うん、じゃあね、お兄ちゃん」 「たのむよ。裏方にはもう言ってあるから」 「ではカンナさん、わたくしたちも参りましょうか。スポットライトが待ってい ますわ」 「けっ、自惚れやがって。じゃあな、隊長」 「ああ。がんばって」 大神は一人食堂に佇んだ。 考えること、悩むことはあったが、取敢ず今は帝国歌劇団の職務をまっとうしな ければいけない。 『‥‥モギリだけど』 大神はロビーに向かった。 『‥‥支配人代行っていうのもあるのか。でも一週間だけだしな』 椿に朝の挨拶をした後、大神は接客の準備にとりかかった。 『そう言えば‥‥』 大神は玄関を見た。 8時を回った時点で、扉は開けられている。 人影もちらほら見えた。 『‥‥暁蓮さん‥‥また会えるかな‥‥』 ‥‥忘れないで‥‥わたしのこと‥‥忘れないで‥‥お願い‥‥ 『はああ‥‥待ってます‥‥待ってますから』 顔が完全に緩みきっていた。 公演は無事終了した。 配役の変更をアナウンスする由里の声は、開演前の劇場内にざわめきを起こし た。 しかし始まってしまえば、それを見ている観客になんら違和感を持たせないほ ど、花組の公演は見事なものだった。 歓声とともに幕はおりた。 大神はあらためて彼女たちのことを感服して見つめ、そして少女たちを労った。 「みんな、おつかれさま」 「はああ、結構緊張しましたよ。マリアさんの役どころ難しいいんですもの」 「アイリスもつかれたよー」 「二人ともよくがんばったね。すごくよかったよ」 「ほんとに?」「ほんとですか」 「ああ」 「‥‥ちょっと!」 後ろにはすみれとカンナがまだ舞台衣装のまま立っていた。 孫悟空のカンナ、妖貴夫人のすみれ。 大神はさすがに後退りした。 「主役はわたくしですのよ」「‥‥だぜ」 そこまで言って二人は顔を見合わせた。 「‥‥主役はあたいだろうが」 「寝言は寝てからにしてくださいな。主役はこのわ・た・く・し、お客さまはこ のわたくしの華麗な演技を見にきているのですわ。少尉‥‥あ、いえ大尉、そん なお子様二人のことなどほおっておいて、このわたくしの労をねぎらって‥‥」 「なんだと、コラァ」「なんですって!」「なによー!」 「さ、さあ、み、みんな、はやく着替えて、サロンでお茶でも飲もうよ、ね、 お、俺、準備してくるから」 そう言って大神は一目散に部屋から出ていった。 警報はその時に鳴り響いた。
Uploaded 1997.11.01
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