<その3>



司令室に到着した頃、大神とマリアはとりあえず元の表情、帝撃隊員としての表

情に戻っていた。マリアの顔には、それまで以上に落ち着いた‥‥冷静さとは違

う、何か別の色も見え隠れしていた。



「‥‥月組を動かす以上、何か含むところがあるんだろう?」

「実際戦闘に遭遇した大神さんも、おそらくもう気付いているとは思いますが‥

‥あの外骨格、甲冑のように見える、あれです」

「‥‥」

「魔操機兵のそれに酷似している、と通信では申し上げましたが‥‥どうも材質

はさらに強固なものになっているようです。それに降魔の発生が、あのような人

為的な構造物を伴うとは、どうしても思えませんし‥‥」

「確かにね。でも、魔操機兵のものだったとしても十分脅威だよ。あれはもとも

と中身がないようなもんだったから‥‥中に降魔を詰め込んだら、それだけで戦

闘力は比較にならないぐらい上がると思う」

「ええ。それでまずは日本橋あたりから探ろうとしているんですが。あそこは‥

‥黒之巣会の本拠地があったところで、機兵の生産工場もありましたし。両者を

つなげるのは、まあ、尚早かとは思いますが」

「‥‥なるほど、ね」



大神はスクリーンを見つめるマリアの横顔に魅入った。

蛍光に反射されて、その輪郭がぼやけて、そして輝いて見えた。



‥‥大神くん‥‥

「‥‥大神さん?」

「え?‥‥あ、ああ、ご、ごめん」

「?」

『‥‥俺、いったい‥‥どうしちまったんだろう‥‥こんな状況で‥‥』



大神はマリアを見るたびに、あやめのことを思いだしてしまうのが、疑問に思え

てきていた。

それは、副司令であるからという単純な理由ではないようにも思えた。

花の香り‥‥。

そう、全てはそれから始まった。



‥‥鍵を握っているのは無論、紅蘭だが‥‥それだけじゃねえ‥‥

米田の言葉がふいに脳裏に過った。

『?‥‥なんだ?‥‥』

「それで‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥大神さん‥‥お身体の‥‥具合でも?」

「ん?‥‥あ、いや、ち、違うよ‥‥続けてくれる?」

「はい‥‥でも‥‥先の戦闘のこともありますし‥‥お休みになったほうが‥

‥」

マリアは真剣に大神を案じていた。

大神を見るマリアの目は、もう副司令のそれではなかった。

「そう、だな‥‥そうさせて、もらおうかな‥‥」

大神は司令室を退出しようとして、ふいに思いだした。

「あ、そうだ。マリア‥‥」

「はい?」

「夢組の人、だれか連絡ついたかな」

「あ、はい。実は夢組隊長が花やしきに来ていました」

「え。そうなのか」

「今は別棟の整備用格納庫にいます」

「格納庫?」

「ええ。実は彼、霊子甲冑の整備技師を兼任してまして‥‥」

「‥‥へえ」

「呼びましょうか?」

「頼むよ」



‥‥お兄ちゃん‥‥

「うん?」

大神はふいにアイリスが司令室に入ってきたものと思い、ドアに向き直った。

「あれ?」

「どうしました?」

「あ、いや‥‥今アイリスの声、聞こえなかったかい?」

「え?いいえ」

「気のせいか?」

「まもなくこちらに来るとのことです。少し待っていてください‥‥あ、あの‥

‥お茶‥‥飲まれますか?」

「え。そ、そうだね、い、いただこうかな」

「は、はい。ま、待っていてください」

大神とマリアはまたぞろ頬を染めあった。

大神には、マリアが必要なのはわかっているが‥‥それが帝撃の人間としてなの

か、わからなくなってきていた。

勿論マリアにはわかりきっていたが。



‥‥お兄ちゃん‥‥



大神はまた振り向いた。

『やはり聞こえた‥‥アイリス、どっか隠れているのか?』

大神はテーブルの下を、そして、司令室の機器類の陰を探しまくった。

「うーん」

マリアが紅茶の入ったカップを二つ持って戻ってきた。

大神は相変らずもぞもぞとなにやら探している様子だった。

「大神‥‥さん?‥‥何か探し物ですか?」

「え?‥‥いや、やっぱりアイリスの声が聞こえたんだよ。どっか隠れてるんじ

ゃないかと思ってさ」

コンコン‥‥

そのときドアをノックする音がした。

「来ました」

「え、ああ‥‥」

大神は少し頭を捻り、取敢ず席に戻った。

「入ってください」

「失礼します」

司令室に入ってきた夢組隊長。

それはカンナに黒い神武の講義を施した、あの若い技術者だった。







さくらはすみれの膝の上で安らかな寝息をたてていた。涙のあとは、すみれがき

れいに拭いていた。長い睫が少しだけ濡れていた。

「こうして寝ていると、まあ、ほんとに‥‥」

すみれは、そんなさくらを愛しそうに、優しい目でみつめていた。さくらの濡れ

たように光り輝く長い黒髪を、その白い手で撫でながら。

『‥‥かわいいですわね』

言葉にすることなど、プライドが許さなかった。自分が何をしているのか不思議

で仕方なかったが、何故かそうしなければいけないように思えた。

そうしたかった。

さくらをこのまま放っておくことなど、絶対にできなかった。さくらの中の‥‥

とても深いところにある‥‥それを垣間見てしまったから。

「わたくしは‥‥いい母親になれるかしら‥‥」

子供をいやすような微笑みが形つくられていた。

一人の青年が心の中に現れた。照れくさそうに笑っていた。すみれの頬は、急速

に赤みを増した。

「わ、わ、わたくしったら、な、なんてことを‥‥恥ずかしいですわ」

そしてさくらを見る。

撫でつづける手は休めずに。微笑みも消さずに。そして頬は赤く染めて。

「負けませんわよ‥‥」



「ああっ。疲れたぜ!」

カンナが勢いよく休憩室に入り込んできた。

すみれは、殺気のこもった視線をすかさず浴びせた。

「うっ」

さすがのカンナもさくらが寝ていることに気がついた。

しゅんとしてすみれの横に静かに移動し、そして腰掛けた。

「‥‥少しは女らしくしては‥‥いかがかしら」

すみれが小声で悪態をついた。

「‥‥けっ、わりいなっ、男みたいでよっ」

カンナも小声で応戦する。が、今ひとつ真剣ではない。

「‥‥わりいな。さくら、寝ていたんだな」

「‥‥‥‥」

「しかし‥‥おめえ‥‥」

カンナはすみれを改めてまじまじと見つめた。

いつものすみれとは明らかに違うその姿。

いつもなら、からかうはずのカンナにも、それができない雰囲気があった。

すみれはさくらを見ていた。

カンナの頬がふいに赤く染まった。

そして、自分の手を見て‥‥うつむいた。

「‥‥おめえ‥‥いい女だな」

「はあ?」

「なんでもねえよ‥‥」

「?‥‥なんですの?」

「‥‥その姿‥‥隊長にも見せてやりてえよ」

「!!!」

すみれはカンナに向き直って、顔が先程よりも更に赤くなった。

「な、な、な、なに、なにを‥‥」

「へへへ‥‥静かにしねえと、さくら、起きちまうぜ」

「く、くぉ、くおんの‥‥」

さくらがほんの少しだけ寝返りをうった。

「!」「!!」

二人は息をのんだ。

さくらは静かに寝息をたて始めた。

ほんの少しだけ笑みを増して。

「‥‥」「‥‥」

二人は罰が悪そうにしゅんとして黙りこんだ。

片隅に置いてある時計の振り子の音だけが、部屋のなかに響いてきた。

二人はさくらだけを見ていた。

カンナにも心地よい時間が過ぎていった。







アイリスは迷っていた。

以前紅蘭に連れられてきた時よりも、建物が随分大きくなっていた。

「うーん。迷っちゃったよ〜」

アイリスは大神を呼んだ。

心の中で何度も。

ふいに孤独感が襲った。

さくらのこころを読んだアイリス。

それはすみれの霊的認識力とは位置付けが異なっていた。

すみれの霊的認識力は読心のためにあるのではないが、今回は肉体的接触により

その位置にずれこむに至った。

対してアイリスの能力は、すみれのそれとは少し違う超感覚的知覚に由来するも

のであったため、精神感応を行う、即ち”心を読む”ことに不都合はなかった。



またそれほど、さくらから得られたイメージが強烈だったためでもあった。

特にその時のさくらは、こころのなかに遮蔽するもの、人を拒絶するものがなか

ったために、アイリスは容易にさくらの深層意識まで入り込むことができた。

アイリスは読心を、あやめ、米田、マリアそして大神に強く戒められていたが、

さくらの目を見たとき、アイリスのこころの中に何かが勝手に入り込んできたよ

うな錯覚があった。

アイリスは躊躇わずにさくらの深層意識に入った。

表層意識にある、日常。

花組のみんな。

大神さん‥‥お兄ちゃん。

‥‥‥‥

深く深く入り込んだ。

‥‥‥‥

お父さん‥‥

お母さん‥‥

‥‥‥‥

そこは‥‥

破滅。

え?

破滅。

破滅のイメージだった。

アイリスは驚愕した。

破滅。

荒涼とした大地。

花などない。

破壊された死の大地。

たおれる人。

‥‥さくら?

‥‥お兄ちゃん?

破滅。

破滅を予感したものなのか。

それはさくら自らがそうなるのか。

大神がそうなるのか。

誰かがそうなるのか。

全てがそうなるのか。

破滅。

死。

‥‥‥‥

アイリスの薄紅のかかった白い肌は、その血の色を失っているかのようだった。



どういうことなの?‥‥紅蘭はあのとき‥‥

大神に伝えなければいけない。

‥‥お兄ちゃん‥‥

すみれがさくらから離れたとき、アイリスと目があった。

すみれは、自分の心を読め、と言っていた。

目がそう訴えていた。

‥‥大尉に知らせなさい‥‥

‥‥大尉を連れてきなさい‥‥

すみれが見たものはアイリスが見たものと同じだった。

だがすみれの持ったイメージはより具体的だった。

破邪の血。

それはさくらが解放する力のイメージだった。

さくらの肉体が薄れていく‥‥

さくらの意識が‥‥

さくらが?

アイリスは瞬間的にすみれからそのイメージを得た。

大神に知らせなくてはならない。



‥‥お兄ちゃん‥‥







‥‥お兄ちゃん‥‥



「‥‥」

「大神大尉?」

マリアは夢組隊長の手前、そう呼んだ。

「あ、ああ‥‥失礼しました。花組隊長の大神一郎少尉‥‥もとい、大尉であり

ます」

「夢組隊長の‥‥山崎真也少尉です。よろしくお願い致します、大尉殿」

「山崎‥‥少尉ですか‥‥あ、”大尉殿”というのはよしてください」

「‥‥わかりました。大神大尉」

「山崎‥‥」

「大神大尉」

「ん?」

「山崎少尉は‥‥山崎真之介少佐の、弟さんです」

「え!?」

「‥‥」

「そうでしたか‥‥山崎という性と‥‥その顔だちから、もしやと‥‥」

「兄を‥‥知っているのですか」

「いえ。話だけです。顔は‥‥写真を見たことがありますから」

「当初は‥‥月組を希望していたのですが‥‥‥神凪大佐もおられるし、その‥

‥整備のほうも公然とできますから‥‥」

少し躊躇って話す。

「‥‥ですが‥‥結果は夢組で、しかもいきなり隊長なんて、自分は‥‥」

整備‥‥霊子甲冑の整備。

兄である山崎少佐を意識しているのだろうか。

大神はふとそう思った。

わからないわけではない。自分にも兄がいる。

消息不明という立場では‥‥同じだった。

「‥‥自分も似たようなものですよ」

「え?」

「花小路伯爵から帝撃配属の辞令を受けたときは、そりゃもう、うれしくて‥‥

ところが実際来てみると、酔っ払いの司令と、人使いのあらい隊員たちと‥‥」



そこまで言って大神は殺気を感じた。

発信元は横に座っているマリアだった。

目が薄暗い司令室で妖しく輝いていた。

「で、で、でもね、そ、その、住めば都っていうし‥‥」

マリアはまだ鋭い視線を浴びせかけていた。

大神は一度唾を音をたてて飲み込んだ。

「そ、そ、その、と、とても、た、頼りになる、隊員の方たちで‥‥その、みん

な可愛いし、あの‥‥」

最後の言葉でマリアの視線はさらに強くなった。

「い、い、いいよ、すごく、帝撃ってさ、ぁぁぁ‥‥」

大神はついに下を向いてしまった。

マリアが代わって指揮をとった。

「山崎少尉、大神大尉はこういう方ですからっ‥‥階級が上だからといって、あ

まりおかしなところを模範にされないほうがよろしいかと思いますっ」

大神を睨みつつ、滑らかでかつ激しい口調で喋りつづける。

「本来隊長というものは‥‥くどくどくど、つまり、くどくどくど‥‥要するに

‥‥」

マリアの、視線を大神のほうに完全固定したままの演説は3分ほど続いた。大神

は、説教をされている子供のように、下をむいたままひたすら恐縮していた。

「くどくどくどくど、はあはあ、はあ‥‥まったく、ちょーっと可愛い娘を見た

だけで、すーぐ鼻の下のばして‥‥だから、くどくどくどくどってば、くどくど

くど‥‥」

最早誰にも止められないところまで来ていた。

口をあんぐりと開けて見ていた山崎は、やわら笑いだした。

「?」

「あ、いえ、すいません。なんか‥‥大神大尉って聞いてたとおりの方だなあと

‥‥」

「そうでしょう!まったく‥‥」

「‥‥いえ。うらやましいです。花組の方たち‥‥タチバナ副司令も、花組です

よね」

「え?ええ、そうですが‥‥」

「失礼ですが‥‥恋人同士‥‥ですか、お二人は」

「えっ!?」

大神とマリアはお互いに見合った。

そして顔が見る間に赤くなり、そして二人とも下を向いた。

「そ、そ、そんな、恋人だなんて、そんな‥‥」

二人は、少し甲高い声で共鳴するように言った‥‥いや、最後まで言えなかっ

た。

山崎は‥‥事実、花組をうらやんでいた。

そして、一年前の大戦での勝利‥‥その立役者である大神の‥‥優しさを、そし

て力を見たような気がした。

マリアに対しても同じだった。

始めは冷たい印象を受けた。

だが事実は違う。

勿論大神の力によるところは非常に大きいが。

この女性は副司令に値する、いや、この人以外は勤まらないのではないか‥‥あ

の藤枝副司令のように‥‥いや、もしかしたら彼女以上に‥‥

山崎はそう思い始めていた。

「‥‥がんばります。自分はまだ弱輩者ですが、どうぞご指導ご鞭撻のほどよろ

しくお願いいたします」

「え、あ、ああ、こちらこそ。自分もまだ青二才だし、ま、まあ、気楽にいこ」



顔がまだ赤い大神。

まだ下を向いているマリア。

‥‥似ている。

山崎は思った。

神凪大佐と大神大尉。

大神のことは帝撃の間では有名だったし、顔写真も見ている。

実物を見て殊更にそう感じていた。

似ている‥‥外も中も。

そこまで考えて、現実に戻った。

「‥‥自分は、実はわかっておりました」

「ん?」

「自分が夢組隊長に指名されることを、です」

「‥‥」

大神とマリアは真顔に戻った。

「自分の持っている力は、所謂霊力とは少しかけ離れているところに位置してい

る、それは自覚してました。勿論霊力がないわけではないのですが、例えば霊子

甲冑を操るほど大きいものではありません。‥‥技術者といっても、兄や神凪大

佐、それに李紅蘭主任のような天才肌とは程遠いですし‥‥ですから努力はしま

した!‥‥しましたが‥‥やはり限界はあります。わかりました‥‥創りだすこ

とよりも整備するほうに向いているってことも‥‥だから、今は整備を兼任させ

てもらっています。‥‥それだけで自分は‥‥満足です」

自分のたまっていたものを全て吐き出すかのように、山崎は喋った。

大神とマリアはじっと聞き入っていた。

大神は山崎の吐露が終焉に至るのを待って、言った。

「山崎少尉、いや山崎隊長‥‥自分が今日、あなたを呼んだのは、あなたの、夢

組の力が必要になったからです」

「!」

「ご協力お願いできますか」

「‥‥」

山崎は少し待って答えた。

山崎は大神に遭えてよかったと思った。

神凪と遭えて、そう思ったように。

それは自分の過去‥‥逡巡や戸惑いの時期‥‥との決別でもあった。

「自分の力がどこまで及ぶのか不安ですが‥‥よろこんでご協力いたします、大

神隊長」

それは大人の笑みだったに違いなかった。

大神もそれに応対した。

マリアも。



‥‥お兄ちゃん‥‥



「‥‥」

大神はふと立ち上がった。

おかしい。

明らかにこれは錯覚ではない。

「大神大尉?」

「大神隊長?」

「‥‥どうも急いだほうがよさそうだ‥‥山崎隊長、実は、調べていただきたい

ことがあります。必要であれば治療をしてもらいたい‥‥もしくは対処療法を教

えていただきたい」

「それは‥‥いったい‥‥」

「自分の部下‥‥帝撃花組・真宮寺さくらに関するものです」

「‥‥!」

マリアは息をのんだ。



‥‥お兄ちゃん‥‥



神語り‥‥

大神は自分の部屋で得たアイリスの力を思いだした。

間隔が、周期が短くなってきた。

意識の中に混乱が生まれていた。

アイリスが精神的に不安定になっていた証拠であった。



お兄ちゃああん!!



「アイリス!」

大神は叫んでいた。

「隊長?」

マリアは思わず呼び親しんだ、その言葉が口から出ていた。







アイリスは廊下に佇んでいた。



司令室とは反対側のほうに来ていた。

この歳では秀逸といえる方向感覚を持つアイリスをして、迷わせる‥‥

花やしき支部はその守秘性のために規則性を持たない建築構造をしているが、そ

れも程度の問題であり、アイリスの持つ超感覚的知覚を狂わせることは、まず有

り得ない‥‥はずだった。

「グスッ、お兄ちゃーん‥‥」

アイリスは玄関近くにまで来ていた。

格納庫からの入り口とは反対側、一般事務員入り口。

「グスッ、すみれー、さくらー‥‥カンナー‥‥マリア‥‥‥‥紅蘭‥‥」

アイリスは目にたまった涙を、それでも零さないよう、必死で探した。

夜の廊下、一般入り口近くは木造であるため、歩くたびに音がなる。

ギシッ、ギシッ

「ひっ‥‥」

アイリスは後ろを振り向いた。

暗い廊下。

微かに点る灯りも吸収してしまう暗黒。

自分がやってきた先は既に見えない。

どういうわけか霊視すらきかない。

『え〜ん、お兄ちゃああん、お兄ちゃああん』

アイリスは心の中で泣いた。

あの暗闇の中へはもう戻れなかった。

出口が少しだけ明るい。

アイリスに選択の余地はなかった。

表に出よう。

とぼとぼと迷子のように歩いた。

下を向いたまま。

しかしアイリスは涙をこぼさなかった。



玄関についた。

狭い玄関だった。

すぐ横に受付があった。

だれもいない。

 「グスッ」

アイリスは扉に手をかけた。

変わった扉だった。

障子のように格子状にガラスが入れこんである。

外の様子も見える。

アイリスの背丈の位置にもガラスはあった。

外の薄明かりが玄関に入り込んでいる。

玄関には照明はなかった。

ガチャッ、ガチャッ

アイリスの小さな手が、彼女よりも少し高い位置にあるドアノブにかかる。

玄関には鉤がかかっていた。

出られない。

「グスッ‥‥お兄ちゃああん‥‥お兄‥‥」

アイリスはその時、玄関の扉の向こう‥‥花やしき入り口正面、

そこにうっそりと佇む人影を見た。

正面入り口‥‥その横に配置してある守衛所、その前。

「?‥‥」

少し表が、ほんの少し、明るく‥‥いや赤みを帯びてきた。

アイリスはふと上のガラスから表を見た。

赤い三日月。

赤。

アイリスの心のなかに一年前の記憶が甦る。

‥‥カンナと同じように‥‥

「やだ‥‥やだよー‥‥」

アイリスはもう一度元の‥‥守衛の前を見た。

いない。

人影は消えていた。

「‥‥‥‥」

アイリスはドアノブからついに手を離した。

少しだけ扉から離れた。

ふいに暗闇がつくられた。

扉のガラスが人の影を写していた。

「ひっ」

アイリスは息をのんだ。

守衛所の前にいた人影。

それがここまで移動していた。

アイリスが空を見上げている、その僅かな時間で。

逃げ出したい‥‥何処へもいけない。

「や‥‥だ‥‥」

それでも見ないではいられなかった。

背が高い。

白い服。

髪の毛が銀色。

アイリスはそこまでは見てとれた。

瞳は‥‥よく見えない。

でも‥‥こっち見てる。

なんか‥‥わらってる‥‥

格子の扉をはさんで対峙するアイリス。

アイリスのこころに不穏なざわめきがたった。

「いや‥‥いや‥‥」

道路に一台の蒸気自動車が通りかかった。

サーチライトが横からその扉にいる者の横顔を照らした。



猫の瞳。

赤い目。

狼の牙。

血‥‥



アイリスの目が限界まで開かれた。

「いやああああああああああああああああああ!!!!!」







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Uploaded 1997.11.01




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