<その4> 大神は凍り付いていた。 アイリスの意思が大神の意識に突き刺さった。 その男‥‥いや、人間ではない‥‥その者の顔が、明確な映像となって大神の網 膜に転写されていた。 「隊長!」 マリアが耐えきれず大神に叫ぶ。 大神は目を見開いて虚空を見つめていた。 停滞は空気が切れるような音とともに終わった。 「アイリーースッ!!!」 大神は叫んで駆けだした。 「隊長!!」 マリアが追う。 山崎も追った。 追い付けない‥‥奔る大神の速度は尋常ではなかった。 狼の‥‥白狼の疾駆。 マリアにはそう見えた。 大神の速度は人間の肉体が発生できるその限界領域にまで到達していた。 骨がきしみ、筋肉は悲鳴をあげる。 異形の者の顔‥‥アイリスの絶叫。 ‥‥‥‥ ‥‥優しい笑顔‥‥ ‥‥‥‥ ‥‥夕陽の中で抱きしめた優しい妖精‥‥ ‥‥‥‥ ‥‥濡れた瞳‥‥柔らかい髪‥‥華奢な背中‥‥甘い香り‥‥ ‥‥‥‥ ‥‥アイリス‥‥‥‥‥アイリス‥‥‥アイリス‥アイリス!! ‥‥‥‥ 亀裂が入った。 大神の中で何かが切れた。 激怒。 憤怒。 そんな言葉では言い表わすことのできない‥‥天を貫く怒り。 再現する一年前の悲劇。 愛しい人を凌辱する者。 大切な人を奪う者。 ‥‥異形の物の怪。 大神の顔は変貌していた。 鬼神。 怒りの鬼神。 鬼が大神の顔に出現した。 ‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥必ず殺す!! 周囲に空気が凝結するように集まってきた。 大神の中に生まれた明確な殺意は、その霊力を一瞬で必殺技の臨界値に至らせ た。 それは蓄積不能の容量にまで膨れ上がり、大気を震撼させた。霊力の奔流は雷光 となり、大神の身体を青白く輝かせていた。 大神が通過した後の窓ガラスは全て割れ、粉になり、そして蒸発した。奔る大神 を追いかけるように、壁には亀裂が奔っていった。 そして‥‥大神は叫んでいた。 狼の咆哮だった。 「タチバナ副司令‥‥」 「山崎少尉‥‥あなたは休憩室へ行ってください。そこにさくらたちが居るはず です。‥‥これは大神大尉の希望でもありますから」 「しかし‥‥」 「副司令としての命令です!」 マリアは並走する山崎にそう言って速度を上げた。 山崎は大神のこと、そしてそれを追うマリアのことを懸念した。 それは大神の見たイメージが、そのまま山崎の脳裏に映し出されたからだった。 白い妖精を襲う異形の物の怪‥‥そして絶叫。 山崎は背中に冷たい汗をかいていた。 精神感応。 山崎の夢組隊長としての真骨頂がそこにあった。 アイリスを凌ぐ読心能力、意思の伝達‥‥神語り、そして精神操作。 自らの戒律により、大神とマリアとの接見では使わうことは勿論なかった。 普段は平凡な一般人としての生活をし、そして意思の力により再起動する超感覚 的知覚。 大神が求めたのはそれだった。 大神の意思は言葉によらず、山崎に伝わった。 電源を切るかのように停止していた山崎の力は、大神の唐突な失調を以て再開し た。 妖精への蹂躙が開始される直前の、ほんの一瞬、微かに見えた温かいイメージ。 ‥‥‥‥ 大神の中で、妖精とともに舞う聖母と天使たち。 その天使の一人を山崎は拾い上げていた。 桜の花びらのイメージ。 満開の桜。桜の花の乱舞。桜の花の繚乱。 暗い雲がかかろうとしていた。 花が‥‥涸れるイメージ。 ‥‥‥‥ 山崎は、大神が先の戦闘で感じたさくらの状態を、そしてすみれが見たそれを、 比喩的ではあるが、ほぼ的確に把握していた。 別れた二人のことは、先の強烈なイメージからも心配されたが、自分が行ってど うこうなるものではなかった。 霊的戦闘力は遥にあの二人のほうが上であったのを理解していたからだ。 「‥‥急いだほうがよさそうだな。ご無事で‥‥大神隊長、副司令」 格納庫は既に数えられる程度に作業員しかいなかった。 夜になり、作業の終了した部署の灯りは、少しづつ消されていった。 山崎がいなくなった後、その場所も既に灯りは消されていた。 ちろちろと閃いていた、その黒い神武の単眼が、薄灯りに揺らめいていた。 そして‥‥大神の声とともに、その目は蒼く輝いた。 扉は崩壊していた。 アイリスの霊力は念動として解き放たれた。 薄明かりの中に漂う粉塵‥‥闇が凝縮した。 そしてそれは人の形を造っていった。 白い服は灰色に。 白い顔も灰色に。 銀の髪も灰色に。 猫の瞳はそのままに。 赤い目もそのままに。 赤い唇もそのままに。 狼の牙は‥‥魔物のそれになった。 アイリスが見た、見せ掛けの形は少しずつ綻びかけていた。 魔物の牙が生える洞窟は魔界への入り口のようだった。 それを形づくる赤い唇。 魔界の腐臭が妖精の甘い香りを侵食しようとしていた。 どす黒い妖気が白く美しい顔に襲いかかろうとしていた。 アイリスは目を背けることができなかった。 身体がガクガクと震え、止めることもできなかった。 唇がパクパクと動くだけで声はだせなかった。 孤独。 恐怖。 破滅。 花も咲かない。 破壊された死の空間。 荒涼とした死の大地。 暗黒の平原。 死。 灰色の影が動いた。 静かに音も無く。 質量を持たないかのようだった。 温度が急激に低下していくように感じられた。 空気も動かない‥‥まるで、そこに実体がないような‥‥幽鬼。 赤い唇が微かに動いたようにアイリスの目に映った。 ‥‥‥‥ その灰色の影は耳ざわりな音で、声ではなく、音でアイリスに何か言った。 赤い目の誘惑。魔界への誘い。 アイリスの目はその輝きを失いつつあった。 「い‥ゃ‥‥ぁ‥‥‥‥‥ぁ‥‥‥‥‥‥‥」 そして‥‥精神に亀裂が入ろうとした。 ガゴーーーーーン 暗黒の静寂を突き崩すような激しい音をたて、側壁が崩壊した。 再び粉塵が舞った。 粉塵は燐粉となり淡い燐光を放っているかのようだった。 その燐光は、さらに輝きを増し、さらに力強く、降り注ぐ落雷のように収束を始 めた。 それは人を形づくろうとしていた。 青白く輝く眩い霊光、暗黒を裂く凄絶な光の雷刃。 光が人をつくった。 白い背中。 広い背中。 温かい背中。 愛しい人の‥‥背中。 「‥‥お‥‥‥に‥‥い‥ちゃん‥‥‥‥お兄ちゃああああん!!!」 アイリスの精神崩壊は紙一重で停止した。 光る白狼の到来によって。 「な‥‥に‥‥‥‥」 「?‥‥なんだよ」 すみれは視線を宙に固定していた。 表情はなく、顔色が青白くなっていた。 すみれの異常に感づいたカンナがたまらず聞いた。 「おい‥‥どうしたんだ、すみれ」 「‥‥」 さくらが寝汗をかいていた。 安らぎの表情は消え、形のいい眉が歪められていた。 「さくら‥‥おい、さくら、大丈夫か」 「‥‥」 声をかけるカンナ、未だ虚空を見つめたままのすみれ。 いやな気配をカンナも感じ始めていた。 「おい、すみれ、すみれっ。しっかりしろ、すみれ!」 「‥‥!」 すみれが我に還った。 さくらを見つめる。 そしてカンナに視線を戻した。表情は緊張に彩られていた。戦闘時のそれだっ た。すみれの霊的認識力をよく知っていたカンナは、すみれの肩をがっちりと掴 んで問いただした。 「‥‥何を見た、すみれ。教えろ」 「‥‥さくらさんをお願いしますわ、カンナさん」 すみれはさくらを労るように、ゆっくり自分の膝から動かした。 しばらくさくらを優しい目で見つめ、そして立ち上がった。 動こうとするすみれをカンナが遮った。 「‥‥何処いくんだ?‥‥すみれ」 「あなたには‥‥さくらさんのことをお願いしたはずですわ」 「何処いくんだって聞いてるんだよ!」 「‥‥人手がいるようですから‥‥その助太刀ですわ」 「‥‥隊長のことか?‥‥アイリスかっ!?」 「さくらさんを一人にしておくわけにはまいりませんわ。あなたの仕事は‥‥さ くらさんを守ることです」 「それはおめえがやれ。おめえの‥‥ほうがいい。そこにはあたいがいく。場所 を教えろ」 「‥‥その傷で?」 「うっ‥‥し、心配いらねえよっ、こ、こんなの‥‥」 「ふっ、かわいいですわね、カンナさん‥‥」 「な、なにいいっ!?」 そのとき、二人の心の中に唐突に別の意識が生まれてきた。 ‥‥そこにいてください‥‥ 「?」 「あ?」 ‥‥そこを動かないでください‥‥ 「なに言ってるんだおめえ」 「あなたこそ何をおっしゃってるんですの」 ‥‥あなたがたが行こうとしている所には‥‥既にタチバナ副司令が向かってい ます‥‥ 「‥‥」 「‥‥違うな‥‥誰だ?」 ‥‥そちらに向かっています‥‥真宮寺さんの傍にいてください‥‥ 「どういうことですの?」 「頭ん中に‥‥なんだ?」 ‥‥あなたがたはそこから動かないでください‥‥ すみれとカンナは訳がわからないまま、天井を見上げて立ち尽くしていた。 大神とその灰色の影は、わずか1メートルほどの距離で対峙していた。 闇が凝集したような影、そして青白く輝く鬼神と化した大神。 その視線で見るもの全てを斬り裂くような‥‥大神の目を、それは平然と受け た。口元には笑みがつくられていた。 見るものの魂を奪うような、妖艶な笑みだった。 「‥‥‥‥」 大神は消えた。 そこに青白い残像を残して。 次の瞬間、異形の物の真下に滑り込んでいた。 「んっ!」 下から上へ落雷が走る‥‥立ち上がりつつ大神の放った颶風の上段蹴り。 それは光の軌跡だけを残して異形の影に、その顔面に突き刺さった。 通りぬけた。 そのまま大神の右脚は天高く振り上げられた。 そして神武の臨界技を見るように‥‥光の円環が収束した。 「ハァーッ!」 今度は上から下へ雷光が奔った。 桐島流沖縄空手の脚技‥‥韓国のテコンドーとは少し違う、ネリチョギと称され る必殺の踵落とし。 カンナとの組手で一度だけ体験した大神は、意識することなく‥‥意識はないに 等しい状態だったが‥‥身体が動いた。 大神は奇怪な敵に些かの逡巡も得ることはなかった。 ‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥殺す‥ それだけだった。 また通りぬけた。 異形の影はほんの少し後退していた。 振り下ろした右足が地に触れた瞬間、爆音とともに、落下した隕石が造るよう な、ドーム形の窪みが床に形成された。 間髪入れず、残る左脚で大神は一気に踏み込んだ。 大神はその蓄積不能となった有り余る霊力を左拳に移動させていた。 拳が‥‥バリバリと音をたてて蒼い稲妻を引き寄せた。 「んんぬああああーーーーっっ!!!」 狼の咆哮とともに放たれた、その蒼く輝く鉄拳。 闇を裂き‥‥耐えかねた空気とともに壁を床を天井を砕き、そして砲弾のように 異形の者の腹部へ突き刺さった。 異形の影は宙に飛び立ち、10メートル余りも後退した。 闇のなかで、それは黒い鵺のごとく緩やかに舞い降りた。 暗い闇をうっそりと照らす赤い三日月。 再び対峙した。 異形の影の赤い目は、先程とは違う色を呈していた。 口元からは笑みが消えていた。 赤い唇が動いた。 「‥‥大神くん‥‥」 その声は‥‥今度は音ではなく‥‥声で言った。 艶のある、女のような声だった。 聞くものの欲望をかりたてる、恐ろしく魅惑的で妖しい声だった。 大神の眉がピクッと動いた。 「‥‥‥‥」 「また‥‥会いましょう‥‥」 「‥‥‥‥」 「大神くん‥‥」 赤い三日月が雲間に隠れた。 さらに暗い闇が再び周囲を覆った。 異形の影は暗闇に溶け込むように消えた。 大神の網膜には、その女のような美しい顔、赤い目、赤い唇が焼きついていた。 「貴様は‥‥殺す‥‥必ず殺す!!」 異形の者が消えた後の闇にむかって、大神は呟いた。 「‥‥お兄ちゃん」 消え入るような、妖精のような、その声が後ろから聞こえた。 大神はその声を聞いたとたん、意識が遠ざかった。 地面に崩れるように倒れた。 「お兄ちゃん!」 アイリスは走った。 「お兄ちゃん‥‥」 一番大切な人に向かって。 「お兄ちゃああん‥‥」 自分を助けてくれた‥‥自分の呼ぶ声に応えてくれた、その愛しい人のもとへ。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃあああん!!」 アイリスは地面に伏っする大神に縋りついて叫んでいた。 涙が‥‥耐えていたものを全て洗い流すように、涙が留めなく溢れていた。 浅草からは距離のある青山の一角、軍用施設に取り囲まれるように 帝国軍中央司令部が建っている。 地下にある陸軍専用会議室、そこから退出する司令官格らしき年配の軍人たち。 その中に米田もいた。 米田は地下から一階に差しかかったところで呼び止められた。 それは‥‥軍隊と縁があるようにはとても見えない‥‥一人の若い美しい女性だ った。 腰まで切れ込んだ光沢のある群青のチャイナドレス。 紅蘭とは対照的な、熟成された大人の女性、その艶のある肉体が描きだす妖しい 稜線。 後ろでひとつに束ねた、ぬらぬらと輝く長い黒髪。 日本人離れした整った顔だち。 少し青みがかった濡れた瞳。 そして、少女のような張りのある艶やかで淡い薄紅色の唇。 男であれば欲望を達成せずにはおれない雰囲気を、その女は醸し出していた。 「米田大将‥‥」 「‥‥」 「これは決定事項ですので。ご協力のほど宜しくお願いしますわね」 「‥‥」 「‥‥では」 少しくせのある言葉で話すその女性は、優雅に翻り、玄関から立ち去っていっ た。 米田はしばらく見つめ、二階にある自室へ戻った。 花小路伯爵がソファに座っていた。 「どうだったね」 「‥‥神凪の着任を急がせたほうがいいかもしれん」 「では‥‥無理だったか」 「神埼の親父のほうには、花小路の旦那から頼んでもらったほうがいいな」 「そうだな。大神君のほうにはどうするね」 「‥‥いや、やめとこう。あいつらには他にやることがあるしな」 「しかし‥‥信じられんな。本採用になった場合のことを考えると‥‥」 「ああ‥‥」 米田は受話器をとった。 窓からは赤い三日月が見えた。 「ちっ、いやな夜だぜ‥‥ん?」 窓の外には、あの女性がいた。 こちらを見上げていた。口元には妖艶な笑みが浮かべられていた。 米田は一瞬何かを思いだしかけたが、軽く頭を振り、窓から離れた。 「‥‥ああ、俺だ、米田だ。神凪いるか」 『‥‥お待ちください‥‥』 「そういや‥‥旦那、花やしきのほうへはもう届いてるんだっけか」 「ん?ああ、昨日送るよう手配したからな、もう着いてるだろう。議会の説得は 大変だったが‥‥なにしろ破壊活動の主役だったからな、あの霊子甲冑は」 「ふんっ。あれがなきゃ、死人はもっと増えていたぜ‥‥‥‥神凪か?」 『お待たせしました。何か』 「悪りいが二、三日中に銀座へ行ってくれねえか。着任を早めてもらいてえ」 『何かまずいことでも?』 「まあな。その件については銀座に着き次第連絡する。異動は早ければ早いほう がいい」 『‥‥李紅蘭女史の件はどうします?』 「手隙の者‥‥お前の懐刀を使え。進捗はどうだ」 『横浜にいるらしいことまでは判明しましたが、それ以降はまだ。‥‥これは未 確認の情報ですが、彼女は中国に渡るつもりのようですね』 「わかった。とにかくおめえは手続きを急いでくれ」 『承知しました‥‥芳しくない状況下で無礼ではありますが‥‥わたしは花組の みなさんに会えるのが楽しみですよ』 「へっ、あいつらの前でその台詞を聞いてみてえもんだな。じゃあ頼んだぜ」 『わかりました。では‥‥』 米田は受話器を置いた。 しばらく会話が続いた後、二人は部屋を出た。 照明の消えた米田の部屋に、赤い三日月の薄明かりがにじんでいた。 「どうだい、マリア」 「‥‥肉体にかなりの負担がかかったから‥‥でも明日の朝には回復すると思う わ」 「グスッ‥‥お兄ちゃーん‥‥」 マリア、カンナ、そしてアイリスの三人が、花やしき治療室のポッドで死んだよ うに眠る大神を、じっと見つめていた。大神の顔からは既に鬼は消えていた。 「‥‥さくらのほうは?」 「すみれがついてるよ‥‥しかし、あの兄ちゃんが夢組隊長とはね、驚きだぜ。 しかも頭ん中に話し掛けるとは‥‥さすが隊長やってるだけのことはある」 「‥‥グスッ‥‥」 「知り合いとは思わなかったわ」 「格納庫で、ちょっとな‥‥‥‥そうだ、そこで見たんだよ‥‥」 「‥‥黒い霊子甲冑‥‥神凪大佐の神武でしょう」 「‥‥グスッ‥‥グスッ‥‥」 「なんだい、知ってたのか」 「あのね、わたし副司令なんだけど‥‥」 「あははは、そうだったな、わりい、わりい‥‥」 「‥‥グスッ‥‥お兄ちゃーん‥‥グスッ‥‥グスッ‥‥」 「‥‥‥‥」 マリアとカンナは泣き続けるアイリスを、悲痛の面持ちで見た。 アイリスは、大神の眠るポッドにぴったりと貼り付いて動こうとしなかった。 マリアもカンナも宥めることはしなかった‥‥できなかった。 全てが終わった後にマリアは辿り着いた。アイリスは泣きながら、それでもしっ かりと、事の詳細をマリアに話した。 さくらのこと。大神のこと。そして‥‥白く暗い影のこと。 「‥‥どう思う?」 「‥‥‥‥」 「昼の戦闘と関係あんのか?隊長をここまで追い詰めるとは‥‥」 「それはわたしにまかせて。‥‥カンナ、あなたにはアイリスと‥‥それにさく らのこと、お願いしたいから」 「‥‥ん、そうだな‥‥。頼りにしてるぜ、副司令」 「はいはい‥‥」 二人の表情は少しだけ和らいでいた。 それは昨日の確執が嘘のように思えるほどだった。 「アイリス‥‥そろそろ行こっか。ここにいても隊長は‥‥」 「‥‥やだ」 「アイリス‥‥」 「やだもん‥‥グスッ」 「‥‥‥‥」 カンナはおもむろにアイリスを抱きかかえた。 左腕は使えなかった。約束だから。 カンナにとっては右腕だけでもなんら問題はなかった。 アイリスは少し驚いた表情で。カンナは微笑みながら。 「アイリス、子供じゃないよ!」 「別に子供だと思ってねえよ。‥‥ただ‥‥いいじゃねえか。すみれもさくらに 似たようなこと、してたぜ。‥‥だから‥‥いいんだよ」 「‥‥そうなの?」 「ああ‥‥‥今日はあたいと一緒に寝ようぜ。すみれはさくらと寝るみたいだか らな」 「‥‥うん」 カンナはアイリスを抱いて治療室を後にした。 それを見送るマリアの表情は、聖母マリアそのものだった。 そして‥‥眠る大神に向き直って見せた、その悲しい表情は‥‥介添う恋人、そ れ以外の何者でもなかった。 『大神‥‥さん‥‥』 マリアは顔を覆った。 耐えていたものが、ふいに途絶えた。 劇場の給湯室を後にして‥‥サロンに入れず見せた涙。 それとは違う、それよりも悲しく辛い涙だった。 「‥‥どうなんですの」 「‥‥‥‥」 「ちょっと‥‥」 「‥‥いつまで‥‥ここに居ることができますか」 「は?」 「真宮寺さんのことです‥‥この方を、いつまで花やしきにおいておけますか ?」 「おいておくって‥‥あなた、さくらさんは物ではありませんわよ!」 「言葉を選んでいる余裕はありませんよ、今のわたしには」 「‥‥‥‥」 休憩室には、山崎とすみれ、そして今は安らかな寝顔のさくらがいた。 山崎は、休憩室に到着するやいなや、さくらの変調に気付いた。 そして手をさくらの額にあて、かなり長い時間何かを模索していた。 「大枠は掴めましたが‥‥対処療法に関しては‥‥正直申し上げて不明です」 「なんですって!?山田少尉、あなた夢組隊長でしょう!?」 「‥‥山崎です」 「うるさいですわっ、はやくなんとかしてくださいましっ、さくらさんは‥‥」 「‥‥優しいんですね」 「!?」 「ほんと、うらやましいですよ、大神隊長‥‥‥‥とにかく、時間を戴かないこ とには。神埼さん‥‥あなたは先にお休みください。それも義務ですよ」 「ふんっ、冗談じゃありませんわっ。さくらさんをこのままにしておくことな ど、できませんことよ。ましてや、さっき会ったばかりの、わけのわからない殿 方と二人きりになど‥‥わたくし、ここにおります!」 「‥‥わかりました。お好きなように」 そう言って山崎は再びさくらの額に手をあてた。 すみれは横からそれを見守るしかなかった。 山崎の額にはうっすらと汗がにじみ始めていた。 「あの‥‥やはり、その、さくらさんの持っている力に起因するわけですの?」 「‥‥ええ‥‥ただ‥‥少し‥‥別の‥‥要素も‥‥ありますから‥‥‥‥ふむ ‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥はふっ、これはきつい‥‥へたに弄れないな」 「?」 山崎が夢組に配属となる、その要因になった能力、精神感応。 読心‥‥大神の意識を読み取った力。 神語り‥‥カンナとすみれに意思を伝えた、遠隔通信。 そして、山崎を夢組隊長にならしめた、最大にして最強の武器、それが精神操作 だった。 武器‥‥即ち、相手の意識に自らの意思を擦り込み、自由思考を停止させてしま う力。 山崎がさくらに施しているのは、それだった。 深層意識下でさくらを翻弄する何かしらの要素‥‥それを外部から束縛し、あわ よくば除去しようと、山崎はあらゆる方向から手を入れた。自分の霊力をブレン ドする、山崎独特の方法も試した。だが、どれもうまくいかない。へたをすると 増長させてしまい‥‥最悪こちらが廃人にされてしまう恐れがあった。 現状では処置なしと判断した山崎は、とりあえず表層意識にそれが流出しないよ う‥‥そして外的摂道にそれが共鳴しないよう、深層意識のそれの周辺部、及び 顕在意識と潜在意識の境界層に、二重の念と霊力のシールドを形成させた。 拒否反応を起こさないよう、さくらの精神波長と霊的波長に合わせて。 「ふはっ、はあ‥‥やはり、原因をもっと厳密に調べないことには‥‥あの、神 埼さん」 「へ?」 「こちらに滞在することができないのであれば‥‥その‥‥」 「なんですの?」 「銀座本部‥‥帝国劇場でしたっけ?花組の本拠地は‥‥」 「そうですわ。花組の、いえ、日本が誇る歌劇界のトップスター、この神埼すみ れの、華麗にして優雅な演技を拝謁できる、日本で唯一の劇場、それが帝国劇場 ですわ!おーっほほほほほほほほほほほ」 すみれはふんぞり返って肯定した。 司令室でもそうしたように、山崎はあんぐりと口を開けてすみれを見ていた。 「そ、そうですか、それは、それは‥‥」 「‥‥なんですの、その、いまいち投げ遣りな反応は」 「い、いえ、その、わたし、舞台というものを拝見したことがありませんので‥ ‥」 「なんですって!?」 「え、え?」 「舞台を‥‥見たことが、ない?‥‥‥‥‥‥こ、この、わ、わたくしの‥‥ か、華麗でゆ、優雅な‥‥‥‥ゆ、許せませんわ‥‥あなたっ、山口少尉!」 「や、山崎ですよ‥‥」 「あなたは‥‥銀座に‥‥帝劇に来なくてはいけませんわ‥‥そう!そうです わ!あなた!川崎少尉!」 「‥‥‥‥」 「あなた、帝劇にいらっしゃいっ‥‥そう、さくらさんの治療は銀座でおやりな さい!そうですわ、それがいいですわ‥‥わたくしったら、なんて、聰明なんで しょう‥‥まったく、ただでさえ超美形で超華麗で超優雅な、このわたくしです のに‥‥天は二物も三物も四物も与えるのですね‥‥いやですわ、どうしましょ う」 「‥‥‥‥」 「‥‥返事がありませんわね」 「そ、そうですね。そうしましょう」 「決まりですわ!それでは今日はもう休みましょう。さくらさんを寝室へ連れて いってくださいませんこと、えーと、山‥‥山崎少尉」 「わかりました、神埼さん」 「‥‥すみれ、でよろしくってよ、少尉さん」 山崎はさくらを抱きかかえて、すみれとともに寝室に向かった。 自分が申し出ようとしたことをすみれに言われ、山崎は面食らった。心の中には 少し驚きと、そして何か喜びのようなものがあった。この人は‥‥自分の持って いる力よりも遥かに大きなものを持っている、山崎はそう思えた。ことさらに花 組の底力を見たような気がした。 「‥‥あら、カンナさん」 「よ‥‥」 「アイリスは‥‥寝てるみたいですわね」 「ん‥‥」 寝室の前の廊下で、花組四人と夢組隊長は再会した。 アイリスはカンナの腕の中で眠っていた。涙の跡が残っていた。 「カンナさん、アイリスのこと‥‥」 「わかってるよ‥‥おめえもどうせ、さくらとそうするんだろ」 「ま、まあ、そう、そうですわね。た、たまには、そうするのも、よろしくって よ」 「へへっ。‥‥ああ、わりいな、山崎の旦那」 「いいえ、真‥‥さくらさんは、ここでいいですかね」 「ええ‥‥ありがとうございました、少尉さん」 「いえ。では‥‥また明日。おやすみなさい」 山崎は微笑みながら司令室へと戻っていった。 すみれとカンナは、比較的短い静かな悪態の応酬の後、 すっきりした様子で眠りについた。 カンナはアイリスを抱いて。 すみれはさくらを‥‥抱きしめるように。 花やしきの長い夜が終わろうとしていた。<2章終わり>
Uploaded 1997.11.01
ふみちゃんさんの大作、「花組野外公演」第二章。 現れた敵。甲冑をまとった降魔。 かろうじて敵を退けるものの、深手を負ったカンナ。 そして、謎の神武。 さくらの破邪の血が見せた、不吉な予感。 いったい、さくらの秘密とは!? ぐいぐいと世界の中へ引きずり込まれてきます。 次の第三章も、期待大です。 みなさん、ふみちゃんさんへ、感想のメールを送りましょう!!
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