「‥‥ごめんね、すみれ」

「いや、いやよ‥‥どうして一緒にいてくれな‥‥」

「ごめんね‥‥」

「お母さま!」

「ごめんね‥‥」



「いや‥‥」



『‥‥すみれくん』



『いや‥‥え?』

『‥‥すみれ‥‥くん』

『‥‥少尉?』

『俺は‥‥』

『‥‥少尉の‥‥唇‥‥あっ‥‥』

『‥‥‥‥』

『‥‥少尉』

『‥‥すみれくん‥‥すまない‥‥』

『え?‥‥』

『‥‥すんまへんな、すみれはん』

『こ、紅蘭?』

『さよなら‥‥すみれくん』

『えっ、え?‥‥』

『大神はんは、うちのもんやで‥‥手ぇ出さんといてくれへんか』

『ど、どういうことですの!?』

『どないもこないもあるかいな‥‥あんたは大人しゅう部屋に閉じ籠っていなは

れ』

『そういうことなんだよ‥‥すみれくん‥‥』

『あんた、自分の顔、鏡でよう見てみなはれ‥‥恥ずかしゅうないんか』

『え?‥‥‥‥‥‥‥‥なに、なによ、これ‥‥』

『きゃははは。ご苦労はんでしたなあ、いままで。あとはうちにまかしとき』

『いや‥‥いや‥‥』

『へへへ、さ、大神はん、行きまひょか‥‥』

『さよなら‥‥すみれくん‥‥』

『‥‥いや‥‥行かないで‥‥少尉!』

『へへへ、ほな、さいなら‥‥』

『こ、紅蘭‥‥紅蘭‥‥許しませんわ‥‥紅蘭!』

『さよなら‥‥』

『さいなら‥‥』



「いや‥‥いや‥‥ひとりぼっちは‥‥いや!」



『‥‥すみれ‥‥さん‥‥』



「いや‥‥」



『‥‥すみれさん‥‥』

『いや‥‥え?‥‥』

『‥‥すみれさん‥‥すみれ‥‥さん‥‥』

『‥‥だれ?‥‥そこにだれかいるの?‥‥』

『‥‥すみれさん‥‥たすけ、て‥‥』

『‥‥さくらさん?』

『‥‥すみれさん‥‥すみ‥‥れ‥‥さん‥‥』

『さくらさん!‥‥どこ?‥‥どこにいるの?』

『すみれさん‥‥たすけて!‥‥すみれさああん!』

『さくらさん、待っていなさい!‥‥許しませんわよ、そこの!』

『‥‥すみれさん‥‥すみれ‥‥さん‥‥‥‥たす‥‥け‥‥て‥‥』



「さくらさん!!」



チュン‥‥チュン、チュン‥‥



「あ‥‥」



ブオーーン‥‥



「‥‥夢‥‥でしたの、ね」



わたくしの横には‥‥さくらさんが、まだ眠っていました。

「‥‥はあ」

子供のような寝顔。

わたくしは‥‥さくらさんの髪を優しく、優しく撫でました。

『‥‥わたくしがついていますわよ‥‥』



わたくしは、自分の額に汗が浮かんでいるのに気づき、優雅に拭きました。

‥‥そう、このわたくしに、汗、など似合いませんもの。

汗、努力、根性‥‥そんなものは庶民のために与えられた言葉。



さくらさんを起こさないよう、わたくしは静かにベッドから起きあがりました。



カンナさんもまだ眠っていました。アイリスを守るように。

『めずらしいですわね、鼾が聞こえませんわ‥‥』

アイリスはそんなカンナさんに縋り付くように、身体を丸めて‥‥

『‥‥アイリス‥‥』

わたくしが‥‥言付けなど頼まなければ‥‥勿論言葉ではありません。

言葉はなくともアイリスには通じます。

でも‥‥それが始まりでした。

アイリスを恐怖に陥れ‥‥少尉、いえ、大尉をあのような‥‥

「わたくしは‥‥」

わたくしともあろう者が、熟慮することもなく‥‥まるで子供みたいに‥‥

「アイリス‥‥」

わたくしの白魚のように超美麗な指先が、知らず知らず‥‥そして、拳を握り締

め‥‥わたくしのような淑女が、そのような行為に至るほど、我を失っていたの

です。

ふるふると震えてしまっていました。



紅蘭のときも‥‥わたくしは、どうしてあのような所業に至ったのか、今にして

思えば不思議で仕方ありませんでした。

霊力を‥‥必殺の風塵流奥義を、こともあろうに仲間に‥‥大切な仲間に‥‥

「‥‥‥‥」

なにかが壊しつつあるのを‥‥なにかが壊れつつあるのを‥‥わたくしの、驚異

的な、そして洗練された霊的認識能力が告げていました。



『‥‥それにしても、どうしてあのような夢を‥‥』

夢に現れた紅蘭。

それはとても‥‥言葉にするのが汚らわしいほど‥‥いやな存在でした。

『わたくしの顔‥‥‥‥はっ』

わたくしは、部屋に備え付けられている、小さな鏡を覗きこみました。

「‥‥ほっ」

鏡に写っていたのは‥‥‥‥いつもの‥‥そう、いつもの超美しく、そして超麗

しく、そして、そして、超々々可憐な、この神崎すみれ様の尊顔でした。



『しかし‥‥あの夢では‥‥』

一昨日、そして昨日と、事件が相次いだための疲れだったのでしょうか。

でも夢が何かを告げようとしている、そんな気がして仕方ありませんでした。

そうでなければ、紅蘭があのような‥‥

『まさか‥‥わたくし、心の奥底では、あのように‥‥』



「うーん‥‥」



さくらさんでした。

わたくしは、さくらさんの声で我に戻りました。

わたくしは、寝返りをうってずれた毛布を、優しく掛け直してさしあげました。



「‥‥すみれ‥‥さん‥‥」

「!」

「‥‥すみれ、さん‥‥あはは‥‥すみれ‥‥さん‥‥」

『さくらさんたら‥‥わたくしを呼んだりして‥‥』

わたくしは、ほんの少し頬を赤く染めたりしました。

いったいどんな夢を見てるのかしら、素敵な笑顔で‥‥

『かわいい、ですわね‥‥‥‥はっ、わたくしとしたことが‥‥でも‥‥』



思わずさくらさんの近く‥‥息のかかるほど近い距離まで接近していました。

甘酸っぱい‥‥みかんの香り、りんごの香りかしら?

『なんか‥‥食べてしまいたい、ですわ‥‥‥‥はっ、わたくしとしたことが‥

‥』

「‥‥すみれ‥‥さん‥‥すみれさん‥‥‥‥あははは‥‥」

「でも‥‥ちょっとぐらいなら‥‥味見を‥‥‥‥はっ、わたくしは、いったい

‥‥」



「あはは‥‥すみれ‥‥さん‥‥」

「さくらさん‥‥わたくしは‥‥」



「あはは‥‥うーん‥‥アホ」

「んがっ!!!」



花組の朝が始まりました。








三章.時を刻む者
<その1> 朝には大神もすっかり回復していた。 ただ、昨夜の記憶は、奔りだした後半あたりから、すっぽり抜け落ちていた。 大神は、自分はどうなったのか花組の少女たちに問いただしたが‥‥アイリスが 帽子掛けを幽霊と勘違いした、ということで決着をみた。 破壊された一般入り口はアイリスによるもの、そう大神には伝えられた。 それは、アイリス本人の忠言によるものだった。 「お兄ちゃんには‥‥アイリスのせいだって言って」 「アイリス‥‥そりゃ、おめえ‥‥」 「いいの‥‥」 カンナは‥‥そしてマリアも抵抗を示したが、アイリスの目を見て、そうするし かないと、これも納得したのだった。 「うーん、なんかなあ‥‥」 大神は今ひとつ釈然としない様子だったが、他にやることもあったため棚上げす ることにした。 「ところでさくらくんの‥‥げげっ!」 「‥‥」「‥‥」 振り向いた大神の前に突然、ボロボロになったさくらとすみれが出現した。 寝起きだったらしく、花やしき据置の寝巻があちこち綻んでいた。髪はボサボ サ。なぜかずぶ濡れになっている。極めつけは、すみれの目の上のコブ、さくら の口のまわりについた‥‥それは歯形だった。 「す、すみれくん‥‥さ、さくらくん、な、なんだい、それ‥‥ん、んぐ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「あはははははははは、わーはははははは、あははははははっはっはっ、はっ、 はぐっ、い、いけねえ‥‥かっ、片腹が、うぐっ、はあ、はあ、はぐっ」 カンナが臆面もなく大声で笑い続けていたが、ついにその力を使い果たしてしま った。アイリスの表情も元に戻りつつあった。二人を‥‥そしてカンナを見て。 すみれとさくらは、同じ部屋で寝ていたカンナとアイリスが起きる前に格闘の場 を移していたため、今朝は初めての対面となった。 事の顛末は次のようなものだったらしい。 すみれは、どういうつもりなのか、寝ているさくらの唇を中心に、それこそ林檎 にほおばりつくように、がぶりと噛みついた、らしい。 さくらは驚いて目を覚し、起き上がった拍子に、すみれの顔面、右目に額を直撃 した。ふたりはしばらく唸って痛みを抑えていたが、やわら睨み合い、格闘とな った。 アイリスが呻き声をあげたのを聞いた二人は、そのまま組み合う形で廊下に転が り出た。すみれのこぶ、さくらの歯形は既に形成されており、とおりがかった清 掃員が仰天して、迂闊にも二人の頭からバケツの水をかぶせてしまった。 激怒したさくらとすみれは、逃げる清掃員を追いかけ‥‥という具合だった。 「ぶっ、うぐぐ、あの、さくらくんんぐ‥‥」 大神は笑いを堪えるために必死の集中力を示したが、半ば失敗に終わっていた。 「おはようございます、大神隊ちょううわ!?」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「や、やあ、うぐっ、や、山崎‥‥た、た、隊長‥‥」 「さ、さしずめ、すみれ、おめえ、さ、さくらを押し倒そうとして‥‥い、いか ん‥‥返り討ちに、いててて、あったんだろ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「す、すみれ、おめえ、くくっくそっ、いい役どころ、ありそうだな、んぐ」 山崎はまたもや口をあんぐりと開けて二人を見入っていた。 マリアが大神の後を追って、走ってきた。 「あ、大神さん‥‥これ、お藥ですから、お食事のあとわーーーっ!!」 マリアの驚きが一番衝撃的だったと言えた。 「こ、こ、これは、い、い、いったい‥‥」 「‥‥すみれさんが‥‥」 「‥‥だまらっしゃい」 「え?」 「すみれさんが‥‥わたしを食べようとしたんです!!」 「さ、さくらさん!!」 「はえ?」 「あはははははっ、はぐっ、くっ、そ、そうだろ、うぐっ」 反応したのは、まぬけた表情で大神、やはり辛そうなカンナ。 他の三人、アイリス、マリア、そして山崎は、それぞれ笑いながら、茫然としな がら、そして、口をあんぐり開けて、見守っていた。 「すみれさんが、わたしを、わたしを‥‥」 「んぬぬぬぬ‥‥ちょっとっ、そこのっ、あなたっ、夢組隊長!」 「‥‥‥‥」 指名された山崎は相変らず口を開けっぱなしにして反応できなかった。 「ちょっと来なさい!!!」 「あ‥‥いて、い、痛い、いたたたたたた」 山崎はすみれに耳を引っ張られながら消えていった。 「じ、じゃあ、そろそろ、か、帰ろうか‥‥じゃ、マリア、あとよろしく頼む よ」 「‥‥え?‥‥あ、は、はい」 大神たちは轟雷号に乗り込み銀座へ帰還した。 大神とアイリスの顔には、明るい表情が甦ってきていた。 それはとりもなおさず、すみれ、そしてさくらのおかげだった。 山崎はすみれに、強引に轟雷号の操縦を押しつけられ、花組と同伴することとな った。 「おかえりなさい。ご苦労さまでした‥‥あら、そちらの方は?」 「ああ、紹介するよ。夢組隊長の山崎真也少尉だ。これから‥‥しばらく銀座に 駐在することになったから、ひとつよろしく頼むよ」 「始めまして。山崎と申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」 山崎の服はあちこちほつれ、顔には痣がついていた。 すみれにあらぬ嫌疑をかけられた山崎は、轟雷号の中で袋叩きにあっていた。 「‥‥わたくし、藤井かすみと申します。帝撃では機関管制を担当しておりま す。劇場では主に事務室におりますので、ご用のときはなんなりと」 「はい」 銀座に到着し地下格納庫に降りた大神が、出迎えたかすみに山崎を紹介した。 滞在理由については、かすみと勿論さくらには主旨を少しずらして説明した。 さくらの霊力低下は精神的な疲労によるもので、それを除去するのに彼を呼ん だ。 防御力のみが選択的に落ちていることが、治療に時間がかかる理由で、山崎には 銀座に長期滞在してもらうことになった、ということにしている。 意味が今一つよくわかってない反応を示すさくらに対し、すみれ、アイリス、そ して大神は一様にほっと胸をなでおろしていた。 「あとで事務室にいらしてください‥‥あ、大神さん」 「うん?」 「つい先程、米田支配人から連絡がありまして‥‥新支配人の着任が繰り上がる そうです。なんでも明後日には銀座に来るそうですよ」 「え!‥‥そうなのかい?。それはいったいどういう‥‥」 「詳細は神凪支配人から、とのことです」 「それでは歓迎の宴の準備をしなければいけませんわね」 「おおよ、なにしろ新支配人の着任なんだからな、隊長」 「アイリスも楽しみだなあ‥‥」 「そうね。素敵な新支配人かあ‥‥」 先程とはうってかわって調子のでてきた、すみれとカンナ、アイリスとさくらで あった。 「え?あ、そうだな‥‥‥‥そうだ!!」 「えっ、な、なんです」 「今日の公演は‥‥中止しないといけないんだよ!」 「ええっ!?そ、それはいったい‥‥」 「見てのとおり、カンナが怪我しちゃって‥‥すみれくんも‥‥」 「え‥‥うげっ」 「主役二人がこんなんでは‥‥そうだよ、公演中止は今日だけじゃ済まないな」 盛り上がっていたのが急降下した気分だった。 カンナとすみれはがっくりと肩を落とした。 「すみれくんの目の腫れも二、三日かかりそうだし、カンナは一週間絶対安静‥ ‥何か打開策を講じないと‥‥」 「うーん、どうしましょうか‥‥じゃあ、とりあえず事務室で‥‥」 「それなら、”愛ゆえに”で行きましょうよ、大神さん」 さくらが横から割り込んできた。 「マ、マリアさんのところを、そ、その、大神さんが‥‥」 さくらが真っ赤になって提案した。 「おーほほほほほほほほほほほほほ、さっくらさん、あなた、まさか、その顔で 大尉と愛の語らいをするつもりですの?‥‥道路工事でもしてたほうがよろしく ってよっ」 「うぐっ‥‥くぉんのクソババアは‥‥これはすみれさんがつけたんでしょっ! 責任とってくださいよ!もうっ‥‥え〜ん、お嫁に行けないわっ」 「な、なんですって?わ、わたくしに責任をとれと‥‥そ、そんな、女性同志で 結婚なんて、そんな‥‥で、でも、お付き合いから始めるのは‥‥いい、と、思 います‥‥けど‥‥」 「はあ‥‥」 大神は山崎を連れて共に事務室へ向かった。 今日はいいとしても、明日以降が問題だった。 すみれの目の腫れは明日になれば少しはひくだろうし、役どころの関係上化粧で なんとかなる。 だが、カンナについてはどうにもならない。 カンナの演じる孫悟空を見に来る子供に対して、代役などできるものでもなかっ た。 大神は頭をかかえた。 そんな折り、事務室にマリアから電話がかかってきた。 マリアは大神たちが帰還の途についた後、司令室に戻っていた。 さくらとすみれの、あれには驚かされたが、それでも安堵していた。 昨日のこともある。 マリアは心の中で、アイリスに、そしてすみれに感謝していた。 「副司令、電話です。2番でお取りください」 「もしもし、タチバナですが‥‥」 『神凪だけど‥‥』 「!」 マリアはかなり驚いた。 神凪大佐からの突然の電話。 声を聞くのは初めてだった。 無論、顔は見たこともない。 新支配人‥‥そして、新司令。 帝国陸軍の独立特殊部隊を指揮する、戦術士にして戦略士。 日本橋で助けてくれた、漆黒の霊子甲冑を駆る孤高の戦士。 群がる降魔の軍勢をたった一人で粛正し、街を一つ廃墟にした、黒い鬼神。 『実は、劇場に向かうのが早くなりそうなんだ‥‥明後日だね。それで、君は明 日にでも‥‥今日でもかまわんけど、銀座に戻ってくれないか。詳しいことはわ たしがむこうに着いてから話すよ』 「わ、わかりました。そ、そのようにいたします」 『‥‥なんか、堅いね。気楽にいこうよ』 「は、はい‥‥」 『それと‥‥花組の神武、カンナの機体か。破損したらしいね。修理は途中でい いから、銀座のほうに送っといてくれ、部品ごと。わたしがやるから』 「はい?」 『山崎も居候することになったんだろ?‥‥わたしと彼でやるよ。彼には霊子甲 冑の整備をやってもらおう‥‥長くなりそうだろうし、ね。少なくとも紅蘭が戻 るまでは居てもらわんといけないな‥‥』 「‥‥!」 マリアはまた驚いた。 自分もつい先程初めて知ったようなことを、なぜ‥‥ それに‥‥司令自ら霊子甲冑の修理をする? 紅蘭が不在であることは米田から聞いているにしても‥‥なぜそれが長くなる、 と? 『‥‥聞いてるかい?マリア』 「!!」 マリアはさらに驚いた。 マリア、と呼ばれることになんの違和感もないこと。 そして、ようやく気付いた、神凪の‥‥その声。 大神にそっくりなのを。大神が、マリア、と呼ぶその声に‥‥ 口調まで‥‥声から受ける雰囲気まで。 しかし、似ているとはいえ、なぜこれほど親近感がわくのか‥‥ 『おーい。わたしの神武はそのままでいいからね。自分で持っていくから。あと は、そうだな、大神、だな‥‥彼の神武を少しばかり弄りたいから‥‥カンナの 神武の件もあるし、花やしきの倉庫から部品を搬送してくれないかな。わたしの 名前で封印してあるもの全て』 「は、はい、わ、わかりました」 『うーん、なんでそんな堅いんだろ。今度の敵は結構歯応えありそうだろ‥‥普 段からそんな緊張してたんじゃ、つらいぜ‥‥おかしなのも居そうだしな』 「!!!」 マリアの驚きは最早決定的だった。 米田のそれとも似ている。そして‥‥ まだ月組すら把握しきれていないこと。そして昨夜のこと。 知られている‥‥ 『あ、まだあったな‥‥舞台のほうか。カンナ怪我したろ。まあ、今日は中止さ せるにしても‥‥問題は明日以降だな。マリア、君に戻れと言ったのは、その辺 もある。”愛ゆえに”だっけ、あれやってくれ。それとカンナの代役には‥‥山 崎をたてろ』 「は?‥‥山崎少尉をですか?‥‥わ、わ、わかりましたっ。お、大神大尉に は、そ、そのように伝えます」 『うーん、効果なしか。ほんと、気楽に行こうよ。なんか少尉、大尉って呼ぶの も、抵抗あるように聞こえるんだけどなあ‥‥おっと、大事なことを忘れてい た。さくらくんのことだけど、わたしが行くまでは、できうる限り彼女を戦闘に は加えるな。カンナは言うまでもなくな。まあ、明後日までだけだが』 「‥‥‥‥」 『もし参加せざるをえない場合は‥‥そうだな、接近戦闘はなるべく避けさせて くれ。大神もそう指揮したみたいだな‥‥なかなか‥‥あいつも‥‥あ、いや。 それに、いくら山崎がいても、こればかりは辛いだろうしなあ‥‥』 「‥‥」 マリアはもう驚かないことにした。 さくらのことは昨夜になって初めて発覚した。 それを‥‥さくらを除いた花組と山崎だけの箝口令がしかれてあるにも関わらず ‥‥しかも、さくらくん、と呼ぶその声、大神以外の何者でもない。 マリアは溜息まじりで応答した。 「‥‥わかりました」 『頼んだよ‥‥あのさ、マリア、君を副司令に推薦したの、実は俺なんだ‥‥ロ シアで見せた、俊敏な機動力、瞬間の判断力、それに戦術能力、期待してるぜ。 戦略‥‥作戦のほうはせめて俺にまかせてくれ、仕事なくなっちまうしね。とは 言っても、マリアには助けてもらうことになるんだろうな‥‥はははは。これか らは一緒にがんばろな、じゃあ‥‥ガチャッ‥‥ツー‥‥ツー‥‥』 神凪は最後に言葉をくずして話した。マリアを緊張からときほぐそうと。 しかし内容が逆効果だった。 マリアは電話が切られても、しばし茫然として受話器を握っていた。 「‥‥わたしのことも‥‥知られてる‥‥はっ」 マリアはふと我に還り、劇場へ繋がるダイヤルを回した。   『‥‥ということです。わたしも明日には戻りますから。みんなに伝えてくださ い』 「わかった。助かったよ‥‥舞台の道具関係のほうはやっとくから‥‥」 マリアは動揺を押さえながら、かいつまんで大神に説明した。 大神にとっては、まさに神の啓示に等しかった。 神凪のことはマリアの話からも気になったが、とりあえずは舞台だった。 「‥‥待てよ。さくらくんの顔‥‥あれ、明日までになんとかなるのか?」 『さくらの‥‥そうですね』 「それならグッドアイデアがありますよ」 横で聞いていた由里がいきなり、それこそ受話器を握る大神と口づけせんばかり の勢いで、口をつっこんできた。 「お、おい、由里くん‥‥」 「山崎さんが舞台にたつんでしょ。見たこともないのに。なら、さくらさんの役 どころ‥‥街娘をマリアさんがやって、オンドレ役を大神さんがやればいいんで すよ。きゃは、我ながら頭いいなあ」 『!!!』 電話の向こうで、マリアの息をのむ気配があった。 「お、おい、俺、舞台なんか‥‥シンデレラの王子役ぐらいしかないよ。しかも 小学生相手だし。それに、いきなり明日やれなんて‥‥」 「あら、山崎さんなんか初めてですよね?」 「‥‥‥‥」 山崎は固まっていた。 自分が舞台に?‥‥人前に立つ?‥‥それもいきなり、明日‥‥? 山崎は格納庫から上がる途中、横道にそれた時に見た、あの広大な観客席が脳裏 に浮かんだ。 自分が?‥‥あの舞台に?‥‥自分が‥‥自分が‥‥自分が‥‥ 「うーむ、既にきてるわね」 『た、た、隊長、その、わ、わた、わたしも、それしか、な、ないと思います! ‥‥そ、そうだわ、やっぱり、せ、台詞を、あ、あわせないと、まずいですよ ね!‥‥わたしっ、今日の夜には、そちらにい、い、行きますから、待っててく ださい!』 マリアの甲高い声が受話器の中で響き、そしてものすごい音をたてて電話は切ら れた。 マリアは駆けだした。そして神凪に依頼された搬送手続きと残務処理を、速攻で 片付け始めた。 大神は少し溜息まじりで受話器を置いた。 傍らには山崎がまだ固まっていた。 「やるしかないわけか‥‥じゃ、かすみくんと由里くんは、告知のほう、頼むよ ‥‥俺、事務方の手伝いができる状態じゃないみたいだしなあ」 「おまかせください。椿にも手伝ってもらいますから」 「そんじゃ行こうか、山崎‥‥ん?」 「‥‥‥‥」 大神は山崎を引きずるようにして、事務室を出た。 大神の説明が終わった後の帝劇サロン。 反応は大神の予想どおり‥‥レベルが違っていたが‥‥だった。 カンナは、致し方なし、といった顔つきだった。 ただ、山崎に視線を移すなり、何を思い付いたのか、ニヤニヤ笑みを浮かべた。 アイリスは喜色満面だった。 大神と一緒に舞台に立てること、そのものが、彼女にとっては至福だった。 対照的なのは、言うまでもなく、すみれとさくらだった。 二人の周囲に沸き上がった怒りのオーラは、静寂なサロンを席捲し、大神と固ま ったままの山崎を震撼させた。 「と、とにかく、事態は、急を要するんで‥‥協力して‥‥」 大神は気力を振り絞って声を出したが、結局最後はフェードアウトしていった。 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「お願い‥‥します‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「さあ、大道具の配置もやり直さなきゃなんねえし、さっさと動こうぜ」 「あ、カンナ、それは裏方にまかせるから、君は‥‥うっ」 未だ臨死状態の大神は必死でカンナに話かけたが、別の視線がそれを停止させ た。 「‥‥そうだな。それじゃ‥‥へっへっへ、旦那、台詞あわせにめえりましょう か?」 「アイリスも行こーっと」 少し落ち着き始めた山崎は、カンナの視線を浴びて一瞬きょとんとしながら後を 付いていった。 アイリスもステップを踏みながら走り去っていった。 サロンには怒りの波動の発信元二人と、その脅威に曝されている大神が取り残さ れた。 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「あ、あの、‥‥‥‥助けて」 三人がカンナたちに合流できたのは、この30分後だった。 大神は、全ての力を使い果たしたような、土気色の顔で台本を持った。 公演の中止と明日の演目変更は、劇場入口に来た人々に、昨日の配役変更以上の 衝撃を与えた。泣き出す子供でロビーは溢れかえり、説得するカンナの登場とあ いなった。 カンナの怪我を目の当たりにした子供たちは、少しぐずりながらも、納得して帰 っていった。 しょんぼりとした後ろ姿に、さすがのカンナも気が滅入ったようだった。 「はあ、まいったな、ちくしょう‥‥」 「‥‥しかたありませんよ、カンナさん」 宥める椿だが、効果は得られなかった。 カンナのやり場のない怒りは、必然的に一人の青年に向けられようとしていた。 連れ立ってきた親たち、花組そのもののファンの反応は少し違っていた。 大人たちの興味は、やはり大人向けの演目にあった。 無論カンナ演じる孫悟空の評判も悪くない。 しかし”愛ゆえに”は、そんな人々の最も愛すべき演目だった。 明日は絶対来る、そんな文字が顔にありありと書かれていた。 女性陣の興味は、なんといってもオンドレ役の大神だ。 モギリとして働く大神の凛々しい姿。 端正な顔立ち。耳ざわりのいい少しハスキーな声。 あの大神さんが舞台に立つなんて‥‥どうしたらいいの。 彼女たちの表情は恍惚そのものだった。 明日はいったいどんな劇になるのかしら、はあ大神さん、はあオンドレ様、とい う具合だ。 マリアも勿論いい。 しかし、今回は、そのマリアが、なんと街娘役ではないか。 昨日のマリアの降板はこのための布石だったのか。 そういう憶測まで流れ出した。 これを見逃すのは末代までの恥だ。 事務室と売り場は嵐と化した。 二度の前売券販売は、ものの数分で完了となった。 夕暮れ時、ようやく事務整理が落ち着き、手伝っていた椿が舞台袖にやってき た。 「大神さん、大神さんっ!‥‥すごい、すごいですよっ!もう、前売券、完売し ちゃいましたよっ!ものすっごい前評判!‥‥あんなの私、始めてですよっ。マ リアさんの街娘に大神さんのオンドレかあ‥‥ああ、明日はいったいどうなっち ゃうんだろう‥‥ん?」 舞台袖の演幕の陰に隠れて、それこそ草葉の陰で、大神が膝をかかえて座ってい た。 目が‥‥死んだ魚のそれだった。完全に燃焼しきった様子だった。 舞台の上では‥‥ 「オラオラオラオラーッ、そうじゃねえだろうが、ああん?やる気あんのか、コ ラァ!」 「ひ、ひいい、も、もう、勘弁して‥‥」 「こんの大馬鹿野郎がっ!時間がねえんだよっ、時間がっ!やり直しだっ、やり 直し!!」 椿は、舞台稽古でこれほどの殺気を帯びているのを始めて見た。 カンナの山崎に対する演技指導は半端ではなかった。 それを助長しているのが、舞台中央で台詞合わせをしている、すみれとさくらだ った。 二人は‥‥という状態だったために、主役格からは当然はずされ、ちょい役、し かもあまり見た目のよくない配役にまわされた。 本番ではドーランがこってりと塗られるため、二人の顔は現状でも問題ない。 勿論、そのことも気に入らなかったが、それ以上に、大神とマリアのラブラブシ ーンを目の当たりにしなければいけない屈辱が、すみれとさくらを必要以上に燃 えさせた。 「‥‥違いませんこと?‥‥さくらさん」 「‥‥これでいいんですよ」 「‥‥どうも‥‥よく‥‥わかって、らっしゃらないようですわね‥‥あなた は」 「へえ‥‥農婦役の‥‥”一瞬”しか出ない、すみれさんが‥‥よくわかります ね‥‥」 「なにかおっしゃって?‥‥撃たれて‥‥うめき声”しか”あげない、さくら一 等兵‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 交錯する二人の視線は、火花どころか稲妻をも引き寄せんばかりだった。 椿もさすがに冷や汗がたらーりと背中をつたってきた。 『‥‥明日は大丈夫‥‥よね』 そんな椿の心配をよそに、アイリスはにこにこと天使のような表情で一人芝居を 続けていた。 椿を発見し、そこに存在感を示さない大神もいることに気づき、走り寄ってき た。 「やっほー、椿っ、明日楽しみだねっ」 「そ、そうね、アイリスちゃん‥‥」 「ねっ、お兄ちゃん‥‥あれ?元気ないね」 「‥‥え‥‥あ‥‥アイリスに‥‥椿ちゃん、か‥‥」 「お兄ちゃあん、もうっ、明日はアイリスもお兄ちゃんといっしょの台詞あるん だからね。‥‥しかたないなあ。アイリス、慰めてあげる」 そう言うと、アイリスはおもむろに大神の頬にキスした。 アイリスは真っ赤になって、舞台に戻っていった。 「あ‥‥アイリス‥‥」 振り向いた大神の前にすっくと立つ黒い影。 背が高い。 大神がそれこそ天井を見上げるように振り向くと、そこには白色の麗人が立って いた。 「あ、マリア、お帰り」 「‥‥‥‥」 「ど、ど、どうし‥‥」 「‥‥わたしが来るまでもなかったのでは?」 高い天井から降り注ぐ照明は、マリアの顔にくっきりと陰影を作り出していた。 コートの下に隠された高い丘陵部も際立ち、不動の様は、まるで氷の彫刻のよう だった。 ブロンドの影に隠されたマリアの目が、発進する神武のそれのように鋭く輝い た。そして、見上げる大神の顔に冷気がかかってくる。 「ま、ま、待っていたんだよ。い、一応、その、台詞は、覚えたから‥‥さ‥ ‥」 「‥‥‥‥」 「み、みなさーん、そろそろ休憩にしませんかっ。わたし、お茶の用意をしてき ますう」 たまりかねた椿が申し出た休憩案は、あっさりと受け入れられ、大神と山崎はか ろうじて生還した。 ぞろぞろとサロンに移動する面々には、喜怒哀楽の全てがあった。 「‥‥あたいは花やしきに出かけるから、ちょっとはずさせてもらうよ」 「あ、ああ、治療のつづきがあるんだったな、カンナは」 「ん、まあね‥‥おい」 カンナは視線をぐったりする山崎に再度向けた。 「あたいが戻ってくるまで、さっきのところ、きっちり覚えとけよ‥‥」 「え‥‥」 「え、じゃねえぞ、この野郎!これで終わりだと思ってんじゃねえか、ああ!? ‥‥今日は徹夜だからな!覚悟しやがれ!」 「そ、そんなぁ‥‥」 「だまれ!‥‥さっきみてえだったら、おめえ‥‥」 「は、はいぃ!」 「‥‥ふんっ」 そう言い残し、カンナは玄関から消えていった。 サロンでの無言の休憩が終わった。 30分ほどの短い休憩だったが、大神と山崎にとって、それは永遠に続くのでは と思われた。 再び舞台に向かう。 至福と虚脱、そして殺気。 花組の長い長い夜が始まった。


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