<その3> アイリスは夢を見ていた。 子供の頃の夢。 みんな見てる。 みんなの‥‥目が‥‥アイリスのこと‥‥ アイリスは泣いた。 一人で。 膝をかかえて。 傍には‥‥ジャンポールだけがいた。 景色が変わった。 みんな‥‥アイリスのこと‥‥みてる‥‥ あ‥‥あやめ、おねえちゃん?‥‥ ‥‥アイリス‥‥ふふっ‥‥ねえ、アイリス‥‥ さくら?‥‥あ、みんな‥‥ ‥‥アイリス‥‥アイリス‥‥アイリス‥‥ みんな、いる。 白い人。 ‥‥アイリス‥‥ お兄ちゃん‥‥ ‥‥アイリス‥‥おいで、アイリス‥‥ お兄ちゃん‥‥大好きだよ、お兄ちゃん‥‥ 「‥‥アイリス」 「アイリスっ、アイリス!!」 「あ‥‥お兄ちゃん‥‥」 アイリス機の操縦席は奇跡的に難を逃れていた。 アイリスの戦闘服は袖が切れかかっていただけだった。 「大丈夫か!?」 「‥‥うん」 「なんで‥‥こんな‥‥」 「えへへへ‥‥」 大神はアイリス機をかばうようにまわりこんでいた。 マリアとすみれが、さらにそれを包む。 「隊長、いけません。これは‥‥撤退しないと‥‥」 「まずい、ですわね‥‥さすがに」 闇はさらに拡大していた。 そして‥‥吐き出されるように‥‥そう、闇が、汚泥物を嘔吐していた。 三十‥‥いや五十体以上の甲冑降魔が目の前に出現していた。 そして‥‥その傍らに‥‥ 「‥‥また‥‥会いましたね‥‥」 白い服。 白い顔。 銀色の髪。 赤い唇。 赤い目。 猫の目。 牙。 「いや‥‥」 「すみれくん、アイリスを頼む」 「大尉!?」 『あの男‥‥どこかで‥‥』 「隊長、もう、霊力も‥‥」 花組の霊的戦闘力は、もうないに等しい状態だった。 大神は布陣を防御に切り替え‥‥それも悲惨な状況であった。 大神を先頭にマリアとすみれを紡錘形に配置した。 アイリスを護るように。 「な‥‥なんて‥‥こった‥‥」 「い‥‥や‥‥いや、だ‥‥」 司令室は、まさに冷凍室に変わったかのようだった。 冷たい汗が額をつたい‥‥そして、背中をつたった。 「大神隊長!撤退してください!翔鯨丸がそちらに向かってます!‥‥時間を‥ ‥時間をなんとか稼いで‥‥」 山崎は声にならない声で叫んでいた。 はやく、はやく、はやく、はやく‥‥ 「‥‥辛そう、ですね‥‥大神くん‥‥」 「貴様‥‥」 大神の腹の底におかしなものが波立とうとしていた。 撤退は‥‥間に合わなかった。 甲冑降魔は花組を取り囲んでいた。 「‥‥ただでは‥‥やられませんわよ」 「‥‥‥‥」 マリアは一瞬、束の間の安らぎ、その記憶が甦っていた。 舞台‥‥街娘‥‥大神さん‥‥ そして、戦士に戻った。 「‥‥隊長。残った霊力で‥‥あれしか‥‥」 「‥‥ああ」 正義降臨。 それしかなかった。 だが、たった三人で‥‥それも満身創痍の、この状態で‥‥ できるのか‥‥ ‥‥やるしかない。 「‥‥なかなか‥‥素晴らしかったですよ‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥この前の‥‥あなたの‥‥攻撃‥‥」 「‥‥?」 「‥‥少しこたえました‥‥」 「何を‥‥何を言ってるんだ?」 「‥‥でも‥‥これまで‥‥ですね‥‥」 「‥‥‥‥」 大神の中で何かが蠢いていた。 解放されることを欲していたようだった。 暗い、とても暗いものが蠢いていた。 ‥‥大神くん‥‥ 「え?」 ‥‥大神はん‥‥ 『こ、紅蘭?』 「‥‥長‥‥隊長、はやくしないと‥‥」 「あ‥‥すまん、みんな、霊力を‥‥俺に移してくれ」 「‥‥はい」 霊力の蓄積は、まるで街灯のように細く、儚げに満たされ‥‥大神の神武に集約 された。 ‥‥それは必殺技を放つまでにも至らなかった。 『これ、まで、か‥‥』 「隊長‥‥」「大尉‥‥」「お兄ちゃん‥‥」 『‥‥何を‥‥馬鹿なことを!』 大神は諦めなかった。 諦めてはいけなかった。 大神は少しの間だけ上を向いて‥‥あの人を想った。 ‥‥大神くん‥‥ そして‥‥表情を引き締めた。 「アイリスの機体は破棄する。アイリス、すみれくんの機体に移れ。左の‥‥八 時の方向だ、あそこが薄い‥‥‥‥俺が、突っ込む。その間に脱出しろ」 「!!!」 「‥‥以降の指揮権はマリアに移す。以上だ」 「い、いや‥‥」 「帝国華撃団に絶望はない!‥‥頼む、みんな‥‥」 残る霊力を全て霊子力機関部に逆流させた。 背中が蒼く‥‥そして金色に輝き始めた。 大神は奔った。 不浄の物の怪を貫く、それは金色の狼だった。 「いやあああああああああああああああああっ!!!」 アイリスが、すみれが、マリアが‥‥叫んだ。 さくらが、カンナが‥‥叫んでいた。 暗い雲が見えた。 ゴゴゴゴゴ‥‥ 世界を埋め尽くすような閃光が走った。 カッ‥‥ ガガーーーーンッ ズズーーン‥‥ 目の前に落雷が落ちた。 黒い落雷だった。光を吸収する光だった。 闇が闇を裂いた。 粉塵が舞った。 「‥‥これは‥‥」 白い影は笑みを消していた。 「‥‥‥‥」 大神は生きていた。 「‥‥俺、は‥‥う‥‥なんだ?」 大神は、目の前に突然現れた何かを見極めようと、粉塵を凝視した。 塵が何かの影を創ろうとしていた。 黒い影が現れた。 黒い人影。 「!!!」 闘っていた四人、そして司令室の三人は一斉に驚愕した。 黒い人型だった。 黒い霊子甲冑だった。 漆黒の神武が‥‥そこにいた。 ド‥‥ド、ド‥‥ドッ‥‥プッ、シューー‥‥ 背中の短い蒸気配管から神武特有の‥‥それよりも力強い勢いで蒸気が吹き出さ れた。 まとわりついていた塵が、一気に蹴散らされた。 代わって恐るべき霊力が吹き上がってきていた。 溢れる霊力に耐えかねて、黒い神武のまわりを黒い稲妻が無数に奔っていた。 光を吸収する黒い身体の‥‥赤い目だけが輝いていた。 径を縮めつつあった降魔の群れは、また広がり始めた。 破壊と破滅、そんな暗い意思しか持たない不浄の物の怪‥‥ それが、恐怖の情をそのグロテスクな顔面に表して後退した。 「‥‥待たせたな、大神」 「か‥‥神凪‥‥大佐?」 「よくやった。あとはまかせろ」 「‥‥ま、まさか、一人で?」 「まあな‥‥‥‥穴を開けるから、外へ出ろ」 「は?」 黒い神武は持っていた太刀‥‥かなり長い太刀を一振りした。 風が舞った。 黒い風だった。 それは甲冑降魔の一角に吹き付けられた。 十体あまりの甲冑降魔‥‥それは粉になって、風に散った。 「な‥‥‥‥」 「さ、はやく出な」 花組の少女たちは唖然としていた。 それは大神も同じだった。 「‥‥!、隊長、撤退を」 「あ、ああ、二人ともついてこい」 大神たちは降魔の円陣から距離をとって待機した。 ガングレーの機体、そして紫色の機体は、愛しい人に寄り添うように‥‥そし て、護るかのように、純白の神武の両側にぴたりと接着していた。 もう二度と離さないように。 「ふっ‥‥なかなか‥‥」 神凪はそれを横目で見て、口元が少し綻んでいた。 数を減らされた甲冑降魔は、その直径を狭め、黒い神武を取り囲んだ。 「‥‥どなた‥‥でしょうか‥‥」 「‥‥化け物風情が‥‥知る必要はないな」 「‥‥‥‥」 白い影は、その女のような顔に、ありありと嫌悪の表情を形作った。 「‥‥ところで、お前‥‥国産じゃないだろ?」 「!!!」 造ったことのないのが、はっきりとわかる驚愕の表情を、その白い影は浮きださ せた。 なにか、滑稽な彩りを見せた。 「あーははははは‥‥お、お前、顔、なんか変だぜ」 「‥‥これは、これは‥‥‥‥あなたも、試させて、もらいましょう‥‥」 甲冑降魔が一斉に飛び掛かった。 神凪は剣を縦に構えた‥‥ように、大神には見えた。 身体が震えた。 恐ろしく巨大な霊力が一点に集中していくのが、離れていてもわかった。 次の瞬間、黒い稲妻が周囲に奔った。 大神の無双天威とよく似た‥‥色が違う‥‥それよりも巨大で、高密度で奔る黒 い稲妻が天地を結ぶ柱のように連なった。 轟音とともに、強烈な閃光が‥‥いや巨大な黒い球形のドームが囲んだ。 思わず目を閉じた。 ものすごい衝撃が大神たちを襲った。 風が吹いた。 目を開けると、そこには‥‥ 内径3メートル、外形100メートル規模のドーナツ型の破壊孔が形成されてい た。 その領域はすみれの必殺技よりも遥かに広大で、その破壊力はカンナの、そして 大神の必殺技よりも‥‥合体技よりも遥かに強烈だった。 その残された中心部に‥‥黒い神武が立っていた。 足元に残されたアイリスの機体を護るように。 無人の山吹色の機体が‥‥まるで感謝するかのように、その単眼を輝かせてい た。 甲冑降魔は、その存在していた形跡すら、残していなかった。 「‥‥し‥‥信じ‥‥られん‥‥」 「こ、これが‥‥神凪‥‥大佐の‥‥力、なの‥‥」 「す‥‥ごい‥‥すごすぎます、わ‥‥」 「‥‥す、すご‥‥い‥‥」 司令室の三人も固まっていた。 カンナは口を開けて、端から涎が垂れ下がっていた。 さくらは手を口にあてたまま、まばたきすら忘れていた。 『‥‥これが‥‥晴海を、廃墟にした‥‥神凪、大佐の‥‥力』 山崎は椅子にへたりこんで、こちらは目をしばたいていた。 「ちっ、上野の桜を‥‥またやっちまった‥‥‥‥おい、お前」 「‥‥‥‥」 接近していたはずの白い影は、いつの間にか、穴の外周に立っていた。 表情は‥‥それに相応しく、凍り付いたような色を示していた。 「他にも色々とちょっかい出してるだろ。手を引け。これは忠告だ」 「!‥‥‥‥」 「もう消えろ‥‥舞台は引き際が肝心だぜ‥‥」 「‥‥‥‥」 「お呼びじゃねえって‥‥‥‥死ぬか?」 「‥‥また‥‥お会いしましょう‥‥」 白い影は、神凪の言葉どおり、消えた。 闇が形づくられ、それに溶け込むように。 そして、消える間際に、黒い神武をひと睨みして。 「けっ、いやらしい目つきで‥‥」 神凪は神武を下りずに、そのまま大神たちの傍らにやってきた。 漂う霊気が、他の神武とは明らかに違っていた。 「大分消耗してるな‥‥アイリス、無事かい?」 「え、え?」 「ふむ、怪我はなさそうだな。よかった」 「あ、あなたは‥‥」 「すみれくん、か。なかなかいい腕してる。風塵流も健在か‥‥」 「あ‥‥あの、神凪司令‥‥」 「お、マリアか‥‥実戦に出たのか。俺は一度花やしきに戻るから‥‥あとたの むな。夕方には劇場にいくよ。その頃には舞台も終わってるだろ。後で会おう‥ ‥じゃあな、お疲れさん」 まるで、事務整理でもした後のように神凪は翻った。 そして、やわら大神機に振り向いた。 「大神‥‥あんまり焦るなよ。また後でな」 神凪の神武は翔鯨丸に吸い込まれ、上昇していった。 「隊長、大丈夫ですか」 「え、ああ‥‥」 大神は翔鯨丸が雲間に消えるまで、その姿を追っていた。 「助かったのか‥‥」 そして、神凪が残していった巨大な破壊痕を見た。 「あ、そうだ、アイリスの機体を回収しよう‥‥マリア、風組に‥‥」 「‥‥わかりました」 「‥‥夢でも見ていた、みたいですわ」 「帰還するか‥‥はあ、なんか‥‥疲れた、な」 格納庫に戻った四人は、手荒い歓迎を受けた。 さくらは‥‥顔をぐしゃぐしゃにして大神に縋り付いて、泣いた。 「‥‥ふんっ、まあ、今回だけは特別に許してさしあげますわ」 「あぶなかったな‥‥なんともないか、すみれ」 「このわたくしが?‥‥冗談じゃありませんわ‥‥」 「‥‥手が、震えてるぜ」 すみれは先の戦闘を反芻して、恐怖していた。 死を覚悟していた。 それはマリアもアイリスも同じだった。 そして、三人は同時に大神を見た。 大神は‥‥いつもの表情に戻っていた。 泣き続けるさくらをあやす、優しい笑顔だった。 自分たちを助けるために、この人は死を選ぼうとした。 それなのに‥‥ 「‥‥‥‥」 わたしたちには‥‥この人がいる‥‥ 「帝国華撃団に絶望はない、か‥‥」 すみれはいつしか震えが止まっていた。 口元には自然と笑みがつくられていた。 「へ?なんだって?」 「カンナさん、あなた‥‥口元に、涎の跡がありますわよ‥‥まさか、あなた‥ ‥わたくしたちが華麗な戦いをしている真っ最中に、お昼寝などなさっていたの ではなくて?」 「おめえという女は‥‥」 緊張していた空気は二人の漫才で破られた。 少女たちに笑顔が甦った。 さくらも泣き笑いになっていた。 大神が髪をひと撫ですると、さくらは顔を真っ赤に染めて離れていった。 「さあ、舞台が始まるよ。みんな、行こうか」 大神が照れくさそうな笑顔で言った。 「アイリス‥‥」 「うん?」 「怪我してるかもしれないから‥‥ちょっと治療室へいこう」 「?大丈夫だよ」 「いいから‥‥みんな、先に行ってて」 大神は格納庫から上がる途中、アイリスを呼び止めた。 手をつないで大神はアイリスを地下治療室へ招いた。 歩くアイリスの表情は、恋人と連れ添う少女そのものだった。 ドアを閉め、大神はアイリスの目線の位置まで腰を下ろした。 大神はじっとアイリスの目を見つめた。 「約束まもれないよ‥‥翔鯨丸でそう言ったよね」 「!」 「憶えてるよ‥‥俺」 「‥‥お兄ちゃん‥‥ごめんね」 「俺‥‥」 大神はいきなりアイリスを引き寄せた。 優しくはなかった。 「お、お兄ちゃん!?」 「‥‥‥‥」 大神はきつくアイリスを抱きしめた。 優しくはなかった。 「お兄‥‥ちゃん‥‥」 アイリスは、ぼーっと宙を見つめていた。 そして目を閉じた。 「‥‥‥‥」 「アイリス‥‥」 大神は少し離れた。 アイリスは目をゆっくり開けた。夢を見ているような目だった。 そして‥‥大神はアイリスに口づけをした。 アイリスの‥‥唇に。 「!!!」 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 蒸気音が鳴っていた。 劇場の電力源である地下蒸気機関が駆動能力を上げていた。 開演も間近だった。 「‥‥‥‥」 大神はゆっくりアイリスから離れた。 二度と起こしてはいけなかったはずの辛い記憶。 自分にできる愛しい人へのつぐない。 それを大神はしたのだった。 アイリスの目は再び閉じられていた。 「アイリス‥‥」 「お‥‥にい‥‥ちゃん‥‥」 アイリスは夢を見ていた。 これは夢に違いない、アイリスはそう思った。 再び大神はアイリスを抱いた。 今度は優しく、とても優しく。 こわれないように。 こわさないように。 そして‥‥夢から覚さないように。 「好きだよ‥‥アイリス‥‥」 「お兄ちゃん‥‥好き‥‥大好き‥‥大好きだよ!」 アイリスは泣いていた。 それは‥‥一人の女性の涙だった。 そして‥‥アイリスは覚醒した。 公演が始まった。 少女たちが舞った。 そこにいるのは帝国華撃団・花組ではなかった。 鋼鉄の鎧は、柔らかい布に変わっていた。 花が咲いていた。 天使が舞っていた。 天使の歌があった。 紙吹雪が舞った。 公演は幕を閉じた。 大神と山崎はサロンにいた。 打ち上げ兼歓迎会の飾り付けも、なんとか様になってきていた。 「‥‥こんなものかな」 「そうですね‥‥」 心地よい時間だった。 山崎の中からは、先程の戦闘の悪夢は払拭されつつあった。 劇場はやすらぎを与えてくれる。 もう帝劇からは‥‥銀座からは離れられない。 山崎の心は、そんな想いで占められていた。 大神を見た。 劇場を陰で支える優しい青年。 帝国華撃団・花組を率いる戦士。 花組の少女たちを導く人。 闇を照らす光。 『帝国華撃団に絶望はない、か‥‥‥‥そうだな、まったく‥‥』 山崎の、大神を見る目が‥‥そして花組を見る目が、さらに、熱く、強く、そし て優しくなっていた。 「女優さんたちの出迎えと行きましょうか、大神さん」 「そうだな」 二人は舞台袖に向かった。 『バカヤローがっ!‥‥上野をオシャカにしやがって‥‥』 神凪は花やしきで受話器を耳から離して対応した。 「‥‥まあまあ、落ち着きましょうよ、米田大将‥‥しょうがないっしょ」 『しょうがないっしょ!?‥‥こ、この、ドアホッ!‥‥‥‥なんてこった‥‥ もう、しばらく花見酒は‥‥くそっ、神凪、てめえ‥‥覚悟しとけよっ!』 「へいへい‥‥ところで神埼重工のほうには‥‥」 『‥‥近日中に銀座へ送る。それと別に贈りモンもあるからな、ありがたく頂戴 しろ』 「ほほう‥‥では、わたしはこれから銀座に向かいますので。彼女たちも首を長 くして待っているでしょうからね‥‥」 『けっ、せいぜい今のうちに楽しんでおくこった。おめえ‥‥』 神凪は受話器を置いた。 「まったく、ジジイと話したって楽しくねえって。さて、と‥‥」 「みんな、お疲れさま」 「みなさん、お疲れさまでした」 「はあ、疲れましたわ‥‥ちょっとっ、そこのっ、あなたっ、夢組隊長!‥‥わ たくしの肩を揉んでくださらないこと」 「‥‥は、はい」 「はあ‥‥気持いいですわ‥‥」 「ちっ、脇役の分際で‥‥えっれえ態度でけえじゃねえの、こいつ」 「ははは、まあまあ」 山崎が牽制する。 山崎の顔は、帝国劇場職員と呼んでもおかしくないような、そんな表情をしてい た。 「ふふっ、山崎少尉、なんだか帝劇にもすっかりなじんできたようですね」 「大神さーん、おつかれさまでしたっ」 マリアとさくらがお馴染みの衣装で戻ってきた。 大神が迎えた。 「二人ともおつかれさま」 マリアとさくらが同時に頬を染めた。 そう、含羞むオンドレと照れる街娘。 「そんな、大神さんこそ」「そんな、大神さんこそ」 「え?」「え?」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 珍しい組み合わせと言えた。 東西の冷戦を先取りしたような、二人の視線があった。 オンドレの凍てつくような。街娘の燃えるような。 舞台で愛しあい、求めあった街娘とオンドレ。 舞台がはねて、いきなり破局を迎えた街娘とオンドレ。 「‥‥負けませんよ」 「‥‥どうかしら」 「あ、あの、あのさ‥‥」 大神は背中に悪寒を、額に熱を感じた。 最後に下りてきたアイリスが‥‥それを氷点下にし、火に油を注いだ。 「お兄ちゃん‥‥」 「や、やあ、アイリス、おつかれさま、よかったよ」 「うれしい‥‥お兄ちゃんが、見てると思ったから」 「アイリス‥‥」 「アイリス‥‥お兄ちゃんのために、がんばったの‥‥だから‥‥すごくうれし い‥‥」 頬を赤く染めて淑やかに応じるアイリス。 大神の背後で立ち上がる、冷気と熱風。 「‥‥大神さん」「‥‥大神さん」 「うげっ」 「どういうことでしょう」「どういうことです」 「うう‥‥」 「なぜアイリスが‥‥」「なぜアイリスが‥‥」 「さ、さあ、み、みんな、じゅ、準備の続きをしようかあ‥‥ね、ね、ね」 四日間の舞台もなんとか無事終了した。 滞りなく‥‥とは、とても言えなかったが。 しかし戦闘が断続的に入り込んでのそれは、奇跡と言えた。 初日の”西遊記”‥‥ 二日目は臨時休演。 三日目の変則”愛ゆえに”‥‥ 四日目の標準”愛ゆえに”‥‥ かなり破天荒な公演内容だったが、特に三日目の観客の受けは衝撃的だった。 花組の少女たちの表情もなんとなく明るい。 花組はサロンに集合した。 「こんなもんでいいかな‥‥後を引き継いだようなもんだけど」 「よろしいのでは」「いいんじゃないんですか」 マリアとさくらの反応は今一つクールであった。 先ほどの疑惑がまだ晴れていないようだ。 「これで、いくことに‥‥します‥‥」 サロンで行う、支配人の歓迎会の準備はほぼ完了しつつあった。 打ち上げも兼ねるということで、かなり盛大な様相を呈していた。 アイリスとすみれが行っていた飾り付けを、大神と山崎が引き継ぎ‥‥そして、 珍しく帝劇三人娘たちが料理の下ごしらえをした。 花組の面々も後に料理班に合流し、なかなか豪勢な食卓が目の前に広がってい た。 花組はサロンで待機、三人娘はロビーで出迎えとなった。 「しかし、おせえなあ‥‥あ、そうだ、隊長は詳しいかい、支配人のこと」 「俺が知ってるのは大戦前後のそれだけで‥‥さっきの戦闘で少し話はしたけ ど、とても聞ける状況じゃなかったし‥‥俺、初対面も同じだなあ‥‥‥‥山崎 は神凪大佐のこと知ってる?」 「ええ、まあ、少しは‥‥」 「どんな方ですの?」 「‥‥わたしの口から説明するより、ご自身の目で判断してください。そういう 方です。それに‥‥いえ、なんでも」 「なんだか、米田支配人みたいなこと、言うね。でも、受けた感じは、なんか、 なつかしいような‥‥」 「‥‥あの、すごい素敵な人って聞いてるんですけど‥‥どうですか」 「あ、それは間違いありません」 それまで喋っていたすみれとさくらは、いきなり無口になった。 「そういえば、大神さん‥‥」 「ん?‥‥なんだい、マリア」 「わたし、一昨日電話を受けたときに感じたんですけど‥‥」 「うん?」 「あの、なんか‥‥大神さんに似てるんですよね‥‥声とか、雰囲気が‥‥それ で、その‥‥大神さんと話しているみたいで‥‥」 「‥‥うーむ」 「へっへっへ、マリア‥‥」 「なによ‥‥」 「ちゃっかりしてるじゃねえか‥‥さりげなく隊長にアピールするなんてよ‥ ‥」 「‥‥‥‥‥‥」 マリアは真っ赤になってうつ向いてしまった。 事実を言ったのだが、結果はやはりそうなった。 そうとられてもおかしくはなかったが‥‥しかし反論できないマリアだった。 「マ、マジか、おい‥‥」 「マリアさん、たまたま街娘に当たったからといって、大尉を所有物のようにし ていただいては困りますわね。たった一度の過ちで大尉がマリアさんのものにな るだなんて‥‥見当違いも甚だしいですわ!」 「そーですよ、すみれさんじゃあるまいし‥‥」 「んぬぬぬぬ‥‥こ、この‥‥」 意外に的確なすみれのいやみを受けて、マリアはしゅんとしてしまった。 その姿が結構可愛らしく目に写った大神は、迂闊にも擁護にまわった。 「そんなこと‥‥マリアはすごく素敵だったよ」 これがまずかった。 マリアは見事に復活したが、その他は地獄の視線を浴びせてきた。 「ほー、大神さんはマリアさんと、そーゆーことだったわけですか‥‥へー‥ ‥」 「許せませんわ、許せませんわ、許せませんわ、許せませんわ、許せませんわ‥ ‥」 「お兄ちゃんの‥‥お兄ちゃんの‥‥お兄ちゃんの‥‥‥‥ばかあああっ!!」 「けっ、どうせそんなこったろうと‥‥ああ、やんなっちまうぜ、まったく、あ ーあ‥‥」 「‥‥‥‥」 「大神さん‥‥そんな‥‥人前で‥‥恥ずかしい‥‥」 「‥‥‥‥」 「ふーん、へー、いいですよねえ、ふーん、うらやましいなあ、へー‥‥」 「認めませんわ、認めませんわ、認めませんわ、認めませんわ、認めませんわ‥ ‥」 「お兄ちゃんのバカ、お兄ちゃんのアホ、お兄ちゃんのタコ、お兄ちゃんの‥ ‥」 「ああ、やってらんねえよなあ、ばかばかしくってよ、まったく、あーあ‥‥」 「‥‥‥‥」 「わたし‥‥もう少し女の子らしい可愛い服、着てみようかしら‥‥はあ、で も、どんなの選べばいいかわからないわ‥‥そうだ、今度の休みにでも、横浜に ‥‥」 「‥‥‥‥」 大気が梅雨の湿り気を帯びたような‥‥山崎は錯覚した。 じっとりと肌にまとわりつく、あの感覚。 それは視線が産み出す超常現象だった。 花組の少女たちからは虹色のオーラが立ち上っていた。 『こ、これは、いつにもまして‥‥す、すごいな』 そして、大神を見た。 「‥‥‥‥」 大神は‥‥オンドレ役の特訓時のそれに戻っていた。 哀愁を漂わせる、陸にあがった魚。 『はあ‥‥ご愁傷さま、です』 廊下をバタバタと走る音が近づいてきた。 サロンのドアを勢いよく開ける。 なんと、それはかすみだった。 恭しい普段のかすみからは、信じられない光景だった。 髪はまるで寝起きのよう、着物の合わせ目はまるですみれのよう。 「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、は‥‥んぐ、あ、あの‥‥」 花組の少女たちは、面食らっていた。 「お、おい、かすみくん‥‥」 さすがに大神も立ち直って言った。 「はあ、はあ、あの、あの、いらっ、しゃいました‥‥支配、人‥‥」 「え‥‥」 「か、神凪支配人が‥‥いらっしゃいました‥‥」 「‥‥‥‥」 冷静なかすみをも、これ程うろたえさせる男、神凪龍一。 群がる甲冑降魔を一瞬で始末した黒い雷神。 花組の少女たちは一瞬視線を合わせ、そして‥‥ ドタドタドタドタ‥‥ 一斉に我先にと駆け出した。マリアでさえも。 「お‥‥い‥‥」 大神は間抜けた表情のまま取り残されていた。 山崎は苦笑しながら見送った。 『‥‥しょうがないよな』 ロビーでは‥‥ 由里と椿が完全に凍りついていた。 「‥‥じゃ、これから宜しく頼むよ。上に行けばいいんだね」 「‥‥‥‥」 「ん?」 ‥‥ドド‥‥ドドドドド ロビーの階段を転げ落ちるように、怒涛の勢いで接近してくる帝国歌劇団・花 組。 顔はみな鬼のようだった。 「な、なんだ?」 アイリスがロビーの絨毯に脚をひっかけ、転んだのをきっかけに、全員がお約束 のように床にばらまかれた。 「う‥‥わ」 青年が先頭でうなっているアイリスのもとへ歩みよった。 「うーん‥‥」 「だ、大丈夫かい、アイリス」 アイリスが自分を抱きかかえる青年を見上げた。 「あれ、お兄ちゃん、なんで‥‥アイリスたちよりも早くついちゃって‥‥」 「いててて‥‥ん?なんだ隊長か‥‥支配人どこだよ」 「こ、この、わたくしが‥‥はっ、支配人の前で、なんというはしたない‥‥」 「んんん‥‥マリアさん‥‥お、重いです、く、苦しい‥‥」 「あ、ご、ごめんなさい、さくら‥‥‥わたし、そんな重いの‥‥‥悲しい‥ ‥」 ようやく立ち上がった花組の面々は、きょろきょろ辺りを見回した。 「神凪支配人は‥‥どこなの?」 「始めまして、花組のみんな。帝劇支配人の神凪龍一だ。未熟だけど‥‥がんば るから、よろしくな」 目の前の大神がそう言って微笑んだ。 花組の少女たちは、ぽかんとして、すぐに笑いだした。 「なにボケかましてんだよ、隊長‥‥支配人どこだよ」 「まったく‥‥わたくしたちに隠したところで、なんの‥‥」 すみれは言い留まって、じっと目の前の青年を見つめた。 なんか、いつもと違う‥‥ 「‥‥大尉。少し背が伸びました?‥‥髪も少し伸びたような‥‥」 背丈が確かに大神より高い。 マリアと同じぐらいだった。 髪は逆立っているが、これも少し長い。 それに‥‥服装がモギリ服ではなかった。 黒いスーツに黒い革靴。白いカッターシャツに黒いネクタイ。 「そう言われてみれば‥‥あれ、さっきサロンにいた時は‥‥」 「おーい、はやく支配人連れて‥‥」 階段を下りてくる大神がその途中で止った。 「‥‥‥‥」 花組の少女たちは顔色を失った。 時計の振り子のように目の前の大神と、階段の大神との間を、目線が往復した。 開いた口が塞がらなかった。 目の前の青年‥‥神凪と名乗ったその青年は、目を細めて階段の大神を見つめ た。 階段にいた大神は、そこで時間が止ったかのように固着したまま‥‥ロビーに立 つ神凪を見ていた。 目を皿のように広げて。 取り囲む花組の振り子の往復運動は止ることがなかった。 大神の時間が再開した。 ゆっくりと、本当にゆっくりとロビー中央に歩みよった。 そして神凪の前で、正面から向き合った。 そこに鏡があるとしか思えなかった。 時間が再び停止した。 花組の目線だけは、その難を逃れていた。 口を開けたまま、目だけがその往復運動を継続していた。 劇場の時計が時報を告げた。 ボーン‥‥‥‥ボーン‥‥‥‥ボーン‥‥‥‥ 時間が再び動きだした。 それは‥‥ 大神の目だった。 大神は‥‥泣いていた。 留まることを知らないように‥‥ 涙が頬をつたった。 少年の涙だった。 適えられない少年の夢が‥‥ それが適えられた涙だった。 ‥‥あせったら、あかんで‥‥ 神凪の目は‥‥優しい父親のような目だった。 ボーン‥‥‥‥ボーン‥‥ ゆっくりと流れていた時計の時報が終わった。 静寂が生まれた。 静寂が途切れた。 大神の口元が揺れた。 「‥‥会いたかった‥‥‥ずっと‥‥ずっと‥‥待っていたんだ‥‥」 神凪の口元がゆっくりと動きだした。 「‥‥大きくなったな、一郎‥‥」 大神の涙が床を濡らした。 「‥‥おかえりなさい‥‥麗一兄さん‥‥」
Uploaded 1997.11.01
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