薄暗い洋風の部屋、そこに赤いランプが照らされていた。

電気式ではなく、オイルで燃える一本の蝋燭に似ていた。

どのような家具が置いてあるのか、それすらも判別しがたい光量だった。

ただ、そのランプの横に置いてある洋風の椅子‥‥

そして、そこに一人の若い女性が座っていることはわかった。

赤い灯火はその女性の横顔をひどく艶めかしく照らした。

本当は少女のような薄紅色の唇が、その光で深紅に彩られていた。

「残念だったわね。でも‥‥そんなものかしら」

「‥‥予想外の‥‥お客様がいらっしゃいまして‥‥」

闇がその声を生み出した。

ただ暗闇のなかに、赤い目‥‥

ランプに照らされて赤いのではない、そんな真紅の目が妖しく灯っていた。

「‥‥黒い‥‥かたです‥‥‥‥黒い‥‥光を放っていました‥‥」

「‥‥神凪さん、でしょうね。‥‥ふふふ、いいわ、あの方‥‥素敵ですもの」



「‥‥‥‥」

「あなたは、少し休んだほうがいいかもね‥‥もう一人、呼んであるから。そう

なさい」

「‥‥お言葉ですが‥‥‥‥手におえるとは‥‥」

「大神くんはどうだったの」

「‥‥素晴らしい‥‥お人です‥‥‥‥あれが全てとは‥‥思えませんが‥‥」



「ふふふ‥‥わたしの愛しい人‥‥‥‥あああ‥‥大神くうん‥‥」

「‥‥‥‥」

「はああ‥‥でも‥‥あなた、始末しようとしたでしょ‥‥だめよ、そんなこと

許さない‥‥」

「‥‥‥‥うぐ‥‥ぐ‥‥」

「かわいいわあ‥‥欲しい、欲しいわあ‥‥あの二人、どうしても欲しい‥‥あ

ああ‥‥」

「‥‥‥‥」

「はああ‥‥欲しい‥‥欲しいわ‥‥」

女性の口元が揺れた。

手が、艶めかしく動く、その音。

「‥‥あやつは‥‥残してきたのですか‥‥」

「あああ‥‥え?‥‥ああ、あの子はね。地元を空にしておくのもね‥‥」

「‥‥紅蘭様のこと‥‥ですか‥‥」

その女性の目が妖しい光を帯びた。

妖しい笑みも消えていた。

「‥‥あの小娘のことは‥‥口にしてはいけない、そう言ったはず‥‥」

「‥‥は‥‥ですが‥‥‥‥うぐ‥‥‥‥ぐ‥‥」

「‥‥あなたは、今しばらく休んでいなさい」

「‥‥‥‥」

気配が消えた。

「‥‥いるわね?」

「ええ‥‥」

また別の気配が生まれた。

「劇場は楽しかった?」

「‥‥なかなか。最初はうまくいったんですが‥‥ガードが堅いですね」

「‥‥すみれちゃん、だったわね」

「彼女への刷込はもう厳しいでしょう」

「そう‥‥ふふふ‥‥」

「まあ、他に手ごろな獲物もいそうですし‥‥ずいぶん可愛らしい娘さんがお二

人ほど」

「‥‥さくらちゃんはまずいわよ。彼女はよしなさい」

「では‥‥」

気配が消えた。

「欲をださないことね‥‥ふふふ‥‥‥‥ああ、はやく‥‥わたしのものに‥

‥」

口元が揺れた。

舌が唇を濡らした。

妖しく動く、その手が奏でる妖しい音色。

「はああ‥‥は、ひい‥‥は、はやくう‥‥大神くうん‥‥‥‥ああ‥‥神凪さ

ん‥‥」






四章.優しい赤
<その1> 夜も更け、街灯も消えた、その日の帝国劇場のサロン。 既に就寝する時間だが、花組の少女たちは未だそこに集っていた。 「どうして、すみれさんが来ちゃうんですかっ!?」 「‥‥ふんっ。特訓ですわ」 「へええ‥‥めずらしいな、すみれ。そんな心構えだったとは、いや、おそれい ったぜ」 「‥‥ま、間違えましたわ。閑静な竹林の中で、少し考えごとを‥‥」 「‥‥せっかく‥‥せっかく、大神さんと‥‥神凪司令と‥‥」 「なんだ、さくら。おめえお呼びがかかったのか?どうだった、奥義とやらの伝 授は」 「‥‥それは、まあ‥‥一応復習して、神凪司令にご指導してもらったんですが ‥‥」 「ふんっ。あんな、すちゃらかな構えで奥義などと‥‥片腹痛いとはこのことで すわ」 「むっかーっ、あれこそが真の破邪剣征奥義なんですよっ。大体、すみれさん、 人のこと言えないじゃないですかっ。あんな猿廻しみたいな‥‥」 「‥‥今何とおっしゃいました?‥‥今、今、猿!と、あなたは‥‥」 「へえ‥‥すみれもついでに手合わせしてもらったのか?」 「ついでにぃ!?‥‥こ、このわたくしが、ついでに!と、あなたは‥‥」 「あれ‥‥マリア、どうした?‥‥なんかぼーっとして‥‥」 「‥‥‥‥」 「マリアさん?‥‥なんか元気ありませんけど‥‥」 「わ、わたくしを無視しないでぇ‥‥」 「‥‥え?‥‥え、あ、そ、そんなことは‥‥」 視線が一斉に自分に降り掛かってきたマリアは、慌てふためいて否定した。 いつもの自分とは違っていたことも‥‥その訳もわかっていながら。 「マリア、なんかあったのか?」 「え、ううん、ううん」 かぶりを振るその仕種が、以前大神が感じた‥‥神凪の歓迎会の準備の時のそれ より、遥かに可愛らしく、少女たちの目に映った。 カンナは思わず口にしてしまった。 「‥‥マリア‥‥おめえ、なんか‥‥かわいいな」 「え、ええっ!?」 「ほんと‥‥なんか、マリアさん、すごくかわいらしく‥‥どうしたんですか ?」 「な、なんでもないってば」 「‥‥その反応‥‥マリアさん、もしや大尉と‥‥それとも大佐と‥‥そうです わね?、そうなんですわね!?‥‥んぬぬぬぬ、ふ、副司令という立場を利用し た悪行の数々、最早容赦なりませんわっ!‥‥断じて許しませんわ‥‥絶対認め ませんわっ!」 頭に血が上って訳がわからないことを言うすみれを尻目に、一人真っ赤になって 俯くマリア。 まるで初恋の異性に、逆に想いを打ち明けられた少女のような、そんな表情を見 せていた。 二人とも好きな人。 二人とも大切な人。 同じ人。 「‥‥わたし‥‥どうしよう」 「‥‥そうなんですか、マリアさん」 「まさか‥‥そうなのかよ、マリア」 「‥‥え‥‥えっ?‥‥な、なに?‥‥そ、そうだ、アイリス、もう寝ましょ、 ね」 アイリスはソファに横になって眠っていた。 花やしきでの訓練は、一時間程前に終了した。 マリアよりもかなり遅く帰宅したアイリスは、サロンに着くなり深い眠りに入っ ていた。 マリアはアイリスを抱えて、そそくさとサロンを出ていった。 「‥‥やはり‥‥あったな、なんか」 「そ、そんなあ‥‥」 「許しませんわ、認めませんわ、んぐぐぐ‥‥」 しばらくして、サロンに入れ替わって一人の青年が入って来た。 「‥‥はああ、疲れた」 一斉に視線が集中する。 「な、なんだ?」 「どういうことですか、大神さんっ!」 「なんでマリアがあんなに‥‥なんかしたろ、隊長」 「許しませんわ、認めませんわよっ、大尉っ!」 「‥‥俺、神凪だって」 「えっ」「あっ」「いっ」 神凪は傍らの背の低い棚に歩み寄って、お茶を入れ始めた。 立ったまま一口飲んで、それを持ったままドアに向かった。 「あ‥‥そうだ、すみれくん」 「は、はいっ、なんでございましょう」 「さっきの鍛練のことなんだけど‥‥」 「は、はいっ」 「君は‥‥さくらくんと違って、風神流の奥義を殆ど全て受け継いでいるみたい だね‥‥」 「お、おほほほほ‥‥」「んむむむむむ‥‥」 「だが、その半分は解釈を取り違えているよ」 「んぬぬぬぬ‥‥」「あはははは‥‥」 「特に‥‥”飛燕の舞”、あれはいただけないな。あの技は”鳳凰の舞”の前駆 奥義だろ。あれがよくないから、君の鳳凰はその半分の力も出ていない」 「‥‥‥‥」「へえ‥‥」「あの威力で半分以下だって‥‥」 神凪はお茶を立ったまま啜って続けた。 「それと‥‥隠し種があるだろ」 「!」「?」「?」 「すみれくん‥‥君は、もしかして‥‥”鳳凰蓮華”を最終必殺技だと思ってな いか?」 「な、なぜ‥‥それを‥‥」 「それは違うぞ。神埼風塵流には、その上に究極奥義が存在する」 「!!!」 「ふっ‥‥教えてもらってないだろ。君のお祖父さんは封印したようだからな‥ ‥」 「‥‥‥‥」 「そうだな‥‥それを君に教えるか。なぜ俺が知ってるかは‥‥ま、お祖父さん に聞いてみることだ。しかし、それもさくらくん同様、今の技が完成されてから だ。なにしろ‥‥”鳳凰蓮華”、これも”鳳凰の舞”の完全会得がなければ成り 立たないからな」 「‥‥‥はい」 「‥‥だから、もう一度‥‥そう、明日にでも、手合わせしよう。復習だね」 「え‥‥」 「それと、さくらくんも‥‥いいかな?」 「は、はいい!」「は、はいい!」 「うん。じゃあね」 神凪はサロンを出た。 「‥‥ぬふふふふ」「‥‥ふっふっふ」 すみれとさくらは肩を奮わせて、耐えかねる喜びを身体で表現していた。 一方のカンナはやはり憮然とした表情だった。 「けっ、お嬢様はいいよな、あたいなんか‥‥」 「あ、でも、カンナさんには‥‥‥‥わたし、思うんですけど‥‥」 さくらは神妙な表情になった。 カンナは思わずさくらに見入った。 「‥‥神凪司令は、きっとカンナさんには独力で奥義を極めてほしいと‥‥そう 考えてるんじゃないでしょうか。今朝のカンナさんの表情、わたし、すごく羨ま しかったから‥‥‥‥わたしは、わたしの技は、わたし一人でできるものでは‥ ‥ないですもん‥‥」 カンナは席を立った。 「わたしは‥‥」 「‥‥悪かったよ、さくら‥‥すみれもな」 「‥‥‥‥」 「ま、お互いがんばろうぜ。敵は強力だしな!」 「は、はいっ」 「無論ですわ‥‥‥‥絶対会得してみせますわよ‥‥大佐。このわたくしが知ら ない奥義があったなんて‥‥絶対に‥‥わたくしは‥‥」 花やしきの休憩室と同じ三人。 その三人が同時に走り出した。 そして‥‥サロンの照明は消され‥‥劇場に静寂が訪れようとしていた。 ただ地下から聞こえる鉄を鍛えるような音だけが響いていた。 それは少女たちをひどく落ち着かせた。 まるで子守唄のようだった。 「アイリスの機体もバラそう。破損した左半身を‥‥操縦席前の装甲も含めて な。あとは、第二関節より下の脚部と‥‥そうだな、増幅器と基盤もはずせ」 「わかりました。大神隊長の神武は?」 「そっちはまだいい。あ、エンジンだけは下ろしといてくれ」 「了解です‥‥なんか、随分はやく仕上がりそうですね」 「ん?‥‥お前の腕だろ」 「そ、そんな‥‥」 「ふっ‥‥‥‥ん?」 神凪はふと人の気配を感じて、地下入口を振り返った。 そこには‥‥パジャマ姿のアイリスが立っていた。 神凪は手に持った部品を置き、入り口に歩み寄った。 「どうした、アイリス。‥‥眠れないのかい?」 「‥‥‥‥」 「ん?」 「‥‥‥‥」 アイリスは神凪の目をじっと見つめていた。 「‥‥‥‥」 神凪もアイリスの目を見ていた。 停滞していた時間は、アイリスの瞳の色が変わったときに破られた。 神凪の目が細く、優しく緩められた。 油で汚れた手の、残ったきれいな部分‥‥手の甲で、アイリスの頬を軽く撫で た。 アイリスは少しだけ頬を朱に染めた。 神凪の想いが伝わってきた。 「‥‥わかったよ。‥‥もう寝なさい、アイリス」 「‥‥うん‥‥おやすみなさい、お兄ちゃんのお兄ちゃん」 「は‥‥」 アイリスは走って階段を駆け上がっていった。 神凪はしばらくその後姿を見送っていた。 「‥‥お兄ちゃんのお兄ちゃん、か‥‥わるくないね」 「‥‥なんですか?」 「‥‥よーし、山崎、予定変更だ。アイリスの機体を全解体する。頭からつま先 までだ」 「ええっ!?‥‥そ、そんなことしたら、10日じゃ終わりませんよ!?」 「大丈夫だよ、お前の腕ならな。‥‥よし、大神ユニットも並行してやるぞ」 「‥‥ぐわーん」 「アイリスの機体は機関部以外は全てお前にまかせる。俺の指示どおりやれ、い いな」 「‥‥はーい。こうなりゃヤケクソだっ!」 「けけけけ‥‥待ってろ、アイリス‥‥君の願い、このお兄ちゃんのお兄ちゃん が叶えてやる」 「ふわあ‥‥異常なし、ね。地下のほうは‥‥あとは格納庫か‥‥」 大神は少女たちが就寝した後、劇場の見回りを行っていた。 音が聞こえる。 神凪と山崎だった。 『‥‥こんな遅くまでやってるのか』 二人の表情は真剣そのものだった。 昨日のあの和らいだ雰囲気はどこにもなかった。 『俺は‥‥』 「ん‥‥どうした大神」 「あ、大神さん‥‥もしかして見回りですか?」 「え、あ、うん、まあ‥‥」 大神はやり切れない気持ちになっていた。 司令自ら霊子甲冑の整備をする。 そして、夢組隊長がそれを補佐する‥‥ 『‥‥俺は‥‥なにもできないのか‥‥』 神凪が立ち上がって言った。 「‥‥見回り終わったら、即寝ろ。いいな」 「‥‥‥‥」 「大神さん、こっちはまかせて下さい。期待には答えますよ」 「‥‥‥‥」 「っつう訳だ。ほれ、早く行け」 「‥‥はい。がんばってください‥‥二人とも‥‥」 大神は肩を落として階段を上った。 『‥‥兄さん‥‥すみません‥‥‥‥山崎‥‥すまん‥‥』 大神はテラスの前に立ち、既に灯りの消えた銀座の街並みを見ていた。 さくらが‥‥マリアが、そして紅蘭が立った場所。 窓を開けて、バルコニーへ出た。 星灯りが眩しすぎるぐらい夜空を照らしていた。 雲一つない、晴れた夜。 大神の脳裏におさげ髪の少女‥‥そばかすがあって、化粧気のない、明るい笑顔 が浮かんだ。 ‥‥心配せんかて大丈夫‥‥うちにまかしとき‥‥ 『‥‥紅蘭も‥‥あんなに、がんばってたんだろうな‥‥』 大神はバルコニーの手摺りに身体をあずけ‥‥ 少しうつ向いて‥‥下を見た。銀座の街に人はもういなかった。 『‥‥知っているようで、何も知らない、か‥‥隊長失格だね、全く‥‥』 劇場のすぐ横の歩道に蒸気二輪車が置いてあった。 ‥‥うち‥‥機械いじりが大好きなんや‥‥この蒸気バイクもうちが造ったんや で‥‥ 「‥‥へえ」 ‥‥いつか‥‥大神はんを後ろに乗せたるからな‥‥ 「‥‥うん」 大神はもう一度夜空を見上げた。 星がゆっくりと動いていた。 ‥‥大神はん‥‥初飛行には‥‥うちと一緒に乗ってくれる?‥‥ 「‥‥うん‥‥うん」 大神はほんの少しだけ笑みを取り戻した。 『はやく帰ってこいよ‥‥紅蘭‥‥』 空は群青のビロードのような色をしていた。 星は宝石のように輝いていた。 もう少しだけここにいよう‥‥ 大神は目を閉じて、記憶の中の少女と語り合った。 「‥‥はあ‥‥眠れない‥‥」 さくらは眠れなかった。 部屋が違う所為、というだけではなさそうだった。 『なんか‥‥だれかに‥‥見られてるような‥‥気がする』 さくらは布団の中で何度も寝返りをうった。 自分の中の何かを覗かれている‥‥そんな気持もした。 それはある意味間違ってはいなかった。 さくらの中の深いところ、そこにある、大きなうねり。 山崎が施した防波堤。 でもそれではないようだった。 さくらは山崎の治療をある程度容認していたからだ。 自分の中にある何かを‥‥誰かが触ろうとしている‥‥そんな気分だった。 『‥‥はあ、でもマリアさん、ほんとに‥‥大神さんと‥‥なんかあったのかな ‥‥』 さくらは眠れない原因がそこにあることも気付いていた。 『‥‥マリアさん‥‥すごく‥‥かわいらしくなってた‥‥』 さくらは嫉妬した。 『‥‥マリアさん、あんな綺麗だもん‥‥わたしなんか、勝てっこないよなあ‥ ‥』 嫉妬。 『‥‥はあ‥‥大神さん、どう想ってるんだろ‥‥マリアさんのこと‥‥わたし のこと‥‥』 嫉妬。 『‥‥‥‥あきらめる?‥‥‥‥そんなこと‥‥わたしは‥‥‥‥わたしは‥ ‥』 欲望。 『‥‥マリアさん‥‥街娘‥‥すごく綺麗だったなあ‥‥‥‥わたしは‥‥』 嫉妬。 『‥‥わたし‥‥わたしは‥‥わたしだって‥‥大神さんと‥‥』 欲望。 『‥‥どうして‥‥わたしが‥‥わたしが一緒に‥‥わたしと一緒にいてくれな いの‥‥』 欲望‥‥怒り。 『‥‥わたしは‥‥大神さんのこと‥‥好き‥‥なのに‥‥邪魔して‥‥』 怒り。 『‥‥そう‥‥そうよ‥‥大神さんは‥‥そうよ‥‥わたしのものに‥‥そうだ わ‥‥』 欲望‥‥嫉妬‥‥怒り‥‥ さくらの中に自分の意思に関わらず、そんな気持が沸き上がってきた。 『‥‥そうよ‥‥大神さんは‥‥誰にも渡さないわ‥‥』 さくらの目が少しずつ違う色を放ってきていた。 『‥‥誰にもわたさない‥‥誰にも‥‥あの人は、わたしだけのもの‥‥』 さくらの表層意識の中で暗い感情が生まれ始めていた。 そして呼応するかのように、深い‥‥とても深いところにある何かが蠢いた。 『‥‥邪魔をする人は許さない‥‥大神さんはわたしだけのもの‥‥』 さくらの奥底に眠る大きなうねりは、さくらの想いに触発されていた。 山崎の施した障壁に染み込むように、それは伝搬していった。 そして‥‥内側の防波堤に亀裂が入ろうとした。 『‥‥わたしの一番たいせつな人を奪うもの‥‥放ってはおけないわ‥‥』 さくらは起き上がった。 霊剣荒鷹‥‥父の片身‥‥ さくらは枕元にいつも置いてある、それを手にとった。 ドアの横に置いていた霊剣荒鷹‥‥真打には手をつけずに。 そしてそれは‥‥さくらが通り過ぎる時‥‥鍔元から光を発した。 抜いてくれ‥‥と言っているようだった。 ‥‥君の背中は俺が護る‥‥ 『大神、隊長‥‥』 ‥‥君は俺が護る‥‥ 『神凪、司令‥‥』 ‥‥マリアは素敵だよ‥‥ 『大神‥‥さん‥‥』 ‥‥マリアは優しいね‥‥ 『レイ‥‥チ‥‥』 マリアも眠れなかった。 マリアの中で、二人の大神が照れくさそうに微笑んでいた。 『わたしは‥‥』 寝返りを何度もうった。 二人に抱かれた。 でも同じ人。 「わたしは‥‥女です」 赤子のように身体を丸めた。 「わたしは‥‥あなたが‥‥好きです」 顔をシーツに埋めた。 「わたしは‥‥あなたを‥‥護ります」 目を閉じた。 「だから‥‥わたしを‥‥護って‥‥ください」 マリアは願った。 少女のように。 マリアの前に大神がいた。後ろを振り向いて、微笑んだ。 マリアの後ろにも大神がいた。自分が振り向くと、微笑んでくれた。 『‥‥大神‥‥さん‥‥』 マリアは少女の頃と‥‥その時と同じ寝顔で、いつしか眠りについた。 「‥‥なんか‥‥眠れませんわ‥‥」 すみれも眠れなかった。 胸の中がもやもやとしていた。 気分がよくなかった。 ありえないはずの嫉妬や欲望が、唐突に沸き上がってくるような感触‥‥ なにかおかしい。 すみれの持つ霊的認識力が、盛大な音を立てて警報を発していた。 「これは‥‥おかしい、ですわね‥‥あの時と‥‥」 すみれは、自分が我を失い、結果紅蘭に与えた非道を思い起こした。 あの時と同じ感覚。 しかし、今度は完全に認識できた。 自分から生まれたものではない、と。 すみれは起き上がった。 「よし‥‥カンナ機の右腕は、これで仮止めできるな。おい山崎、これ‥‥ん ?」 「‥‥‥‥」 山崎は天井を見上げて、放心状態の様相を呈していた。 「‥‥どうした、山崎」 「‥‥こ‥‥壊れる‥‥ま、まずいっ」 「!‥‥かかったな‥‥山崎、おいっ!」 「‥‥はっ‥‥し、司令」 「一時中止だ、来いっ」 二人は地下格納庫から駆け上がった。 大神はテラスの窓を閉め、部屋に戻ろうとしていた。 「ん?‥‥あれ‥‥」 あやめの部屋から出るさくらを見つけた。 手には‥‥荒鷹を持っている。 『‥‥どこいくんだ‥‥稽古には‥‥いくらなんでも遅すぎる』 さくらは階段を下りずに自分の部屋の方向‥‥花組の女性たちの個室方向へ歩い ていった。 角に隠れて見えなくなった。 「おい‥‥さくらくん‥‥」 大神は追った。 さくらはマリアの部屋の前に立っていた。 すみれが大神の後ろに立った。 「大尉‥‥これは‥‥」 「おい、さくらくん、どうし‥‥」 さくらは振り向いた。 目の色が何か違う。 「邪魔しないで‥‥大神さん。マリアさん‥‥斬るから」 「なっ‥‥」 「マリアさん、わたしにとって邪魔な人なの‥‥マリアさんがいなければ‥‥」 「な、なに言ってるんだ、おい‥‥さくらく‥‥」 「大尉待って。これはおかしいですわ‥‥さくらさん、あなたっ、しっかりなさ い」 「あら、すみれさん‥‥あなたも邪魔なんですけど。マリアさんの次はあなたで すから」 「こ、これは‥‥いったい‥‥」 さくらは居合い抜き‥‥必殺の‥‥桜花放神の構えを取った。 大神がマリアの部屋、そのドアの前に立ちはだかった。 「さくらくん‥‥目を覚せ!」 「やっぱり‥‥やっぱり、大神さん、マリアさんと‥‥‥‥許せない‥‥殺して やる!」 さくらの霊気が必殺技を放つどころか、それ以上の‥‥破邪の力をも解放せん勢 いで膨れ上がってきた。 山崎の一番内側の結界が‥‥内側から破られた。 「どいて!‥‥大神さん、あなたはわたしのもの‥‥あなたは‥‥わたしだけの ものよ」 「‥‥ごめんよ、さくらくん」 神凪が横に立った。 そして、さくらの額に手をあてた。 「あ、司令‥‥あなたもわたしの‥‥」 さくらはそのまま倒れた。 「さくらくんっ」「さくらさんっ」 「山崎っ、追え!」 「はっ」 山崎は走った。 「大神、お前はここにいろ。すみれくん、ついてこいっ」 「いったい‥‥え?」 神凪は走りながら叫んだ。 「はやくこい!」 「わ、わかりましたわ」 「さくらくん‥‥さくら‥‥くん‥‥」 大神はさくらを冷たい床から自分の胸元へ抱き起こした。 「‥‥ふむ、やはり失敗したか‥‥やりすぎたようだ‥‥」 空から声が聞こえてきた。 「‥‥こちらのお嬢さんには、網が掛けられていたようだな」 屋根の裏に佇む黒い蟠りが囁いた。 目が‥‥赤い。 目の位置に当たる場所が赤い、と言ったほうがよかった。 「‥‥どれ、では‥‥ふむ、やはりこちらの娘が俺の好みだな‥‥」 「させると思うか」 屋根裏に山崎が立っていた。 「‥‥おや‥‥君は‥‥ん?‥‥花組の人間ではないようだね」 「人の心につけこむか‥‥下衆が‥‥」 「くくく‥‥なかなかいいもんでね、これが‥‥ん?‥‥君も近い部類か?」 「‥‥貴様‥‥生かしてはおかん!」 山崎は屋根裏を走った。 忍びのような俊足とバランス感覚だった。 ‥‥自分は‥‥格闘は‥‥弓だけですから‥‥ それは山崎ならではの謙遜だった。 弓に先駆けて、山崎は古柔術まで会得していた。 その黒い蟠りが、自分の間合いに入った瞬間、山崎は霊気を込めた颶風の蹴りを 放った。 脚は空を切った。 影は3メートルあまり後退していた。 「‥‥ふふっ‥‥」 影は地上に舞い降りた。 「また次の機会にお会いしましょうか‥‥」 「あまいですわね」 すみれが行く手を阻んだ。 「‥‥いつぞやの借り‥‥たっぷりと利子をつけてお替えししますわ‥‥」 「おや、これはこれは‥‥」 すみれは最後まで聞かず、風塵流の銀光を浴びせた。 やはり擦り抜けた。 神速の刃は旋回して間髪入れず再度影に襲いかかった。 また擦り抜ける。 「‥‥霊気を帯びた刃が通過する、わけですのね‥‥ということは、あなた、実 体を‥‥霊体も持たないのでは?」 山崎が下りてきた。 「‥‥そのようですね。意思はそこにありますが‥‥」 「くくく‥‥これは‥‥なかなか‥‥」 「では意思を実体にあわせますので‥‥すみれさん、よろしく‥‥」 「お待ちしてますわ」 「!?」 山崎はすっと影に接近すると、稲妻のような上段蹴りを入れた。 初めて見る気合いに、すみれも目を見張った。 すりぬける。 その瞬間、山崎の意思の力が解放された。 影は人の分身。 山崎の力はそれを介して伝搬することもできた。 無論直接接触による方法ほどの有効性はないが、効果はある。 「んごわっ!」 影が半分実体化した。 意思破壊と実体化の操作を共に行ったが、間接注入による干渉を受けたようだっ た。 影はまだ生きていた。 すみれがすかさず斬り込む。 影は横に飛んだ。 「ふっ‥‥手ごたえあり、ですわ」 影が身体を手にあたる部分で抑えて唸った。 「‥‥んがが‥‥俺のおほほおおお、きゃ身体ににに‥‥んぐぁ‥‥き、傷うお ‥‥」 すみれの技と霊力で付けられた傷、そこから音をたてて湯煙のごとき陽炎が立ち 上がってきた。 意思が統率されていない口調だった。 妖気が充満してきた。 影は本格的に実体化した。 実体化に伴う、巨大な妖気だった。 「‥‥きょきょ殺す‥‥きょろしてやりゅう‥‥」 さすがに山崎はこの妖気に耐えられず、動けなくなった。 すみれが前面に立ち、霊力で防御する。 「‥‥これは‥‥結構きついですわね‥‥」 すみれの力を持ってしても防ぎきれない大きさと威力だった。 必殺技を放つには霊力の蓄積が不足していた。 「‥‥死にぇ」 「お前がな」 すみれと黒い影の間に現れた黒い人。 恐るべき妖力が嘘のようにかき消されていた。 「司令!」 「き、きしゃま‥‥にゃにみょのぢゃ」 黒い影は唸った。 妖力が根こそぎ喰いつくされたような感じだった。 すぐに臨死の虚脱感が黒い影を襲った。 身体を支える力までも吸い取られていく‥‥ 目の前の黒い人が妖艶な笑みを浮かべていた‥‥すみれたちには見えない。 黒い影は動くことも‥‥話すことすら出来なくなった。 神凪は掌をゆっくりとその黒い影の頭部に充てた。 まるで子供をいやすように。 神凪の笑みがさらに妖しさを増した。 「‥‥消えろ」 「んぎゃーーーっ!!!」 影は‥‥消滅した。 密着した至近距離でカンナを壁まで飛ばした神凪の攻撃‥‥それを手加減抜き で、しかもその膨大な霊力を練り込んで放たれた、神凪の発勁。 その威力は、実体化したその物の怪を蒸発させ、そして影を地面に焼きつけたほ どだった。 三人はその影を見つめていた。 「‥‥やはり、外部から‥‥でしたのね」 「大丈夫か、山崎」 「ええ‥‥すみれさんのおかげで、なんとか」 「うふふ‥‥‥‥それにしても‥‥このような下等な輩がいるとは‥‥不愉快で すわ」 「白いやつがいたろ‥‥こいつはあの仲間だな」 「!‥‥そうなんですの?」 「こいつが一番うっとうしいヤツだったんだよ。人の精神に食い込む餓鬼だから な‥‥最低の下衆野郎だが、妖力は所謂上級降魔を凌いでいる‥‥普段は影の状 態だから、妖気すら隠すことができる‥‥それがまた面倒‥‥‥‥山崎を帝劇に 呼んだ理由は、こいつを消すためでもあったわけさ」 「そ、そうだったんですか」「‥‥‥‥」 「人の心に付け込む‥‥嫉妬、欲望、そんな暗い部分を取り込んで、正常な意思 を奪う‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「最後のくだりは‥‥ここだけの話にしよう」 三人は劇場を振り返った。 「‥‥出所は間違いなく中国だ。こいつがこっちにいる、ということは‥‥他の 連中の動きも警戒する必要があるな」 「他‥‥といいますと、どんな?」 「そうだな‥‥こいつと白いやつ以外に二匹ほどいることまではわかっている。 白いやつともう一匹は、どちらかというと正統派だな。力でくるタイプだ。あと もう一匹‥‥こいつがわからん」 「‥‥司令はなぜそのようなことをご存じなんですの?」 「‥‥俺は大陸に三年ほどいたからな。向こうにいたときに一度見たことがあ る」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「ただ‥‥その四匹だけと言う保証はできない‥‥下衆の類は腐るほどいるしな ‥‥」 「あの甲冑降魔とも関係しているのでしたわね‥‥」 「まあな‥‥‥‥中国産の畑違いの下道が、降魔を召喚するなど‥‥」 「と、いうことは‥‥」「もしや‥‥」 「ああ‥‥手引きしている人間がいそうだな‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「とりあえず劇場に戻ろう。さくらくんのことも気になる」 「そうですわね‥‥」「‥‥ええ」 「こ、これは‥‥隊長、いったい‥‥」 「こりゃ‥‥どうしたってんだ‥‥」 マリアとカンナが起き上がってきていた。 さくらは大神に抱えられて気を失っていた。 手に‥‥荒鷹を持って。 「いや‥‥さくらくん、少し疲れていたみたいだな‥‥」 「どういう‥‥」 階段を上ってくる足音が聞こえた。 「あ、司令‥‥」 「山崎」 「はい」 山崎がさくらの額に手を触れる。 表情がかなり険しい。 「‥‥あぶなかったですね‥‥二枚通過してます。三枚目も‥‥亀裂が‥‥司令 のおっしゃったように、ガードを強化しておいて正解でした。今は‥‥大分‥‥ 落ち着いていますが‥‥」 「ほっ‥‥よかったですわ‥‥さくら、さん‥‥」 「ですが‥‥なんか‥‥これは‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥成長してます‥‥わずかに、ですが‥‥」 「そうか‥‥取敢ず、部屋につれていこう。大神‥‥」 「はい‥‥」 「‥‥わたくしの部屋に連れてきてください」 「え?」 「わたくしの‥‥部屋に」 「‥‥そうだな。すみれくんに頼もう」 「いいのかい‥‥すみれくん」 「ええ‥‥」 さくらを抱きかかえて、大神と山崎はすみれの部屋に入った。 神凪と、そして茫然としているマリアとカンナが廊下に残された。 「し、司令‥‥いったい、こりゃどういう‥‥」 「ん?‥‥どうも寝ぼけて、ここを訓練室と勘違いしたらしいな」 「しかし‥‥なぜ、山崎少尉が‥‥」 「‥‥夢は‥‥人の心の奥底に眠るものを刺激することもある‥‥そういうこと さ」 「‥‥そんなものなのか‥‥しかし、それじゃ、さくらは‥‥」 「大丈夫。そのために山崎がいる」 「‥‥‥‥」 「さ‥‥二人とも、もう寝るんだ。さくらくんのことは‥‥すみれくんにまかせ よう」 「‥‥はい」「‥‥そうだな」 マリアとカンナは自室へ‥‥神凪はすみれの部屋を見つめ、そして地下へ下りて いった。 「‥‥はふっ。‥‥とりあえず、これで修復は終りです」 「‥‥さくらさんの‥‥記憶は‥‥どうなんですの?」 「‥‥どうします?」 「できれば‥‥つじつまが合うように‥‥消してもらえませんこと」 「‥‥優しいんですね、すみれさん‥‥あの時と同じ‥‥」 「ば、ばかなことを‥‥はやくお願いしますわ」 大神はすみれを見た。 すみれは大神の視線を感じて、頬を赤く染めた。 「ほんと‥‥すみれくんがいてくれて‥‥助かったよ」 「そ、そんな‥‥」 「では‥‥さくらさんが起き上がったあたりから‥‥ぼかしましょう‥‥」 すみれと大神はじっとさくらを見入った。 「ただ‥‥人との接触があったので‥‥それの代償となる要素も入れないと‥‥ お二人ともよろしいですか?」 「?」「?」 「そうですね‥‥すみれさんと大神さんの密会を目撃した、という線でいかがで しょう」 「!!」「え?」 「刀は地下に鍛練にいく途中だったので持っている。そして、なんと、真夜中に 大神さんがすみれさんの部屋から出てきて、さくらさんがその場面に出くわした ‥‥という具合です。こともあろうに、大神さんが寝ているすみれさんを無理矢 理‥‥‥‥よし、それでいこう。さくらさんの中にも材料はありそうだし‥‥こ れはかなり滑らかに繋がるな‥‥」 「‥‥け、結構ですわね‥‥よ、よろしくてよ。ばっちり、かましておくんなさ いまし」 「おいっ、ちょっと‥‥」 すみれは大神の口を塞ぎ、押し倒した。 「構いませんことよ。存分にやってくださいませ。まったく大尉ったら、もう‥ ‥」 「他の方たちにも一応、口裏合わせといてもらいましょうね。よーし、けけけけ ‥‥」 山崎の表情は神凪のそれにかなり近づいていた。 影響を受けているのは明らかだった。 「ちょっ‥‥ふがふが‥‥」 「あああ、いや、わたくしの身体を‥‥なんてお人なの‥‥そんな、むさぼりつ ように‥‥いや‥‥やめて‥‥そんなことまで‥‥ひどい‥‥わたくしは、わた くしは‥‥ああ‥‥」 『汗‥‥冷汗‥‥油汗‥‥汗汗汗‥‥』 「あああ‥‥もう‥‥もう、わたくしの、可憐な身体は‥‥ううう‥‥大尉がこ んなことを‥‥なさるなんて‥‥‥もう、後戻りなんて‥‥もう好きにして‥‥ 好きなだけ、わたくしを‥‥え‥‥ま、まだ、そんなことを‥‥いや、いや‥‥ あああ、そんなに‥‥わたくしを‥‥くふっ‥‥ふっふっふっ‥‥おーほっほっ ほっほっ、地獄の底までお伴しますわよ、大尉ぃ」 「ふぎーっ!?、ふがっふんが‥‥ふがっ」 招かれざる客は消えた。 そして夜は静かに終わろうとしていた。


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Uploaded 1997.11.01




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