<その3>



薄暗い部屋の中で閃く赤い灯火。

外の夕陽が厚手のカーテンに遮蔽されて、光はほとんど入ってこない。

ランプの蝋燭が点す、薄く赤い人工的な弱々しい光だけが照らしていた。

その横に佇む美しく妖しいチャイナドレスの若い女性を。

赤い薄明かりに反射されて、身体の線はくっきりと浮き出ち‥‥そして、その線

が造る面の陰影は、見るものの欲情を駆り立てずにはいられない‥‥

それは妖気のような雰囲気をも漂わせていた。

透けるような青みがかった瞳。

それもうっすらと赤みを帯びている。

赤い唇。

本当は薄紅色の少女のような艶やかな唇。

それが奮えるたびに、空気までもが官能するようだった。

「‥‥ふふっ‥‥欲を出すから‥‥わたしの言うこと、聞かないで‥‥」

「‥‥‥‥」

目の前にいる者は闇に溶けてはいなかった。

白いスーツ。

赤い唇。

赤い目。

銀色の髪。

女のような顔だち。

同性をも引きつけるような、妖しく魅惑的な顔。

だがそれも、その若い女性の前では貧相なものにしか見えなかった。

「‥‥神凪さんに吸い取られちゃったみたいね、あのおばかさん‥‥」

「‥‥どういう‥‥こと‥‥でしょう‥‥」

「ふふふ‥‥あなたは知らなくていいのよ‥‥はああ、いいわ‥‥はやく‥‥あ

あ‥‥」

手がその妖しく艶やかな身体をなぞる。

音がそれをひきずる。

少女のような唇が舌で濡れる。

「あああ‥‥神凪さあん‥‥あふう‥‥」

「‥‥わたしが‥‥今一度‥‥ということでは‥‥いかがでしょう‥‥」

「‥‥はああ‥‥ええ?‥‥ふふふ‥‥よしなさい‥‥ふふふ‥‥」

「‥‥ですが‥‥」

「ふふふ‥‥あなたも喰われちゃうわよ‥‥あの方には手も触れられないわ、あ

なたじゃ‥‥」

「‥‥‥‥」

「うふふ‥‥あ、そうだわ。甲冑ができたのよ‥‥魔操機兵とは雲泥の差がある

わよ‥‥あの美しい機体‥‥ふふふ、わたしの傑作だわ‥‥‥‥あの小娘とは違

う!‥‥そう、あなたには同化してもらわなくちゃ、ね‥‥ふふふ‥‥」

「‥‥!‥‥そればかりは‥‥ご容赦を‥‥」

椅子に座る女の妖しさ、美しさ、そして艶めかしさとは対照的に、銀髪のその男

は、それまで出したことのないような脅えの表情を現した。

女のような美しい表情に、亀裂が生じ始める。

「‥‥だめよ‥‥ふふふ‥‥あの美しい機体と同一になれるのよ、喜びなさい‥

‥」

「‥‥お許しを‥‥お許しを‥‥」

「うふふふ‥‥はああ‥‥はやく‥‥はやく‥‥はああ‥‥」

「‥‥うぐぐ‥‥ああ‥‥あぎぎ、あぎいぃ‥‥ぎゃっ!‥‥」

銀髪の男は悶絶して消えた。

空気に溶け込むようにして、何処かへ消え去った。

「あははは‥‥はああ‥‥あなた、運がいいわあ‥‥あれに最初に同化できるん

ですもの」

薄明かりは、もう闇になっていた。

「はああ‥‥はやく、大神くん‥‥来て、わたしの、ところへ‥‥は、や、くう

‥‥」

妖しい音だけが響いていた。

肌と肌、布と布、肌と布‥‥それが奏でる音色。

雨音が落ちるような艶やかな音。

それだけが暗い闇の中で響いていた。







休演日の帝劇の朝は遅い。

だがこの日は早かった。

明日の公演が午前から開始されることもあり、そのための裏方の準備もあったか

らだ。

休演日は都合三日間で、終りを向かえようとしていた。

朝8時。

椿は売店の品揃えを、かすみと由里は事務整理を始めていた。

「‥‥おはよう‥‥ごじゃいましゅ‥‥ちゅばきしゃん‥‥」

「あ、おはようござい‥‥げっ」

椿の前に姿を現したのは、げっそりと頬がこけた山崎だった。

二日間の徹夜修理で、表情は”愛ゆえに”と化していた。

「や、山崎さん、す、少しお休みになられたほうが‥‥」

「‥‥ふぁいい‥‥」

山崎は幽鬼のようにふらふらとサロンへの階段を上っていった。

じっと見送っていた椿に別の声がかけられた。

「おはよう、椿くん」

「あ、おはようございます、大神さん‥‥うっ」

そこに立っていたのは目を真っ赤にした青年だった。

「‥‥俺は神凪だっ」

「え?、あ、失礼しましたあ‥‥‥‥大丈夫ですか?支配人‥‥」

真っ赤な目で微笑みかける神凪。

山崎とは対照的に表情は明るく、精力もバッチリといった感じであった。

それがよけいに気色悪さを助長していた。

「‥‥朝早くからご苦労さま。明日から、またよろしく頼むっ」

「は、はいっ」

神凪はずんずんと、これもやはりサロンへの階段を上っていった。

椿はやはりじっと見送った。

「おはよう、椿くん」

「うっ」

そこにいたのは大神だった。

血色のいい、ツヤツヤとした肌で、目もキラキラとしていた。

表情も朝の太陽のように清清しいものだった。

「ほっ‥‥あ、お、おはようございます、大神さん‥‥す、素敵な朝ですよね、

ね」

「はい?‥‥あ、ああ。朝からご苦労さま。明日から、またよろしくね」

「は、はい‥‥」

大神もスタスタと、これもやはりサロンへの階段を上っていった。

椿はやっぱりじっと見送った。

「うーむ‥‥‥‥」

しばらく悩んだあと、仕事を再開した。





サロンは朝にしてはめずらしく、人込みで溢れていた。

花組の少女たちは5人ともお茶を飲んでいた。

マリア、アイリスとも、今日は花やしきには行かないらしい。

カンナも劇場内で訓練する、ということだった。

まず山崎が入ってきた。

「あ‥‥おはようごじゃいましゅ‥‥みなしゃん‥‥」

「‥‥‥‥」

お茶を嗜む、その手が一斉に停止した。

山崎はへたり込むように、開いているソファに座り、そして、ぐったりとした遠

い視線を宙に放った。

「お‥‥お茶を‥‥一杯‥‥所望‥‥したいの‥‥でしゅが‥‥」

「‥‥‥‥」

少女たちは固まったまま、山崎を見つめた。

次に神凪が入ってきた。

「おはよう、諸君っ」

「‥‥‥‥」

少女たちは固まったまま、目だけを神凪に向けた。

神凪は真っ赤な目できょろきょろし、目指すものを見つけて唸った。

「‥‥山崎‥‥‥‥てめえ‥‥いつ休んでいいっつうた!」

「‥‥今‥‥今しばらく‥‥今しばらくのご容赦を‥‥」

「たわけっ、こい!」

「ひいい‥‥た、たすけ‥‥」

神凪は山崎を引きずり起こして、そして思いだしたように言った。

「あ、そうだ、カンナ‥‥お前の機体、もうすぐ上がるからな、試験運転しろ」



「え‥‥ええっ!?」

神凪は山崎を引きずるようにして、サロンを出ていった。

少女たちはやはり固まったまま、神凪と山崎を見送った。

「‥‥はええ‥‥も、もう、出来上がるってのかよ‥‥」

最後に大神が入ってきた。

「あ、おはよう、みんな‥‥‥‥ん?どうしたの?」

「え‥‥あ、いえ、どうもわたくし、白昼夢を見たようで‥‥いけませんわ‥

‥」

「‥‥あ、そう言えば、地下格納庫になんか装置みたいなのが届いていたけど‥

‥花やしきからだね‥‥確かマリア宛てになってたと‥‥」

「‥‥え‥‥はっ、はい、すぐ行きますからっ!」

マリアはすっ飛んでサロンを出ていった。

「‥‥なんだ?‥‥あ、俺もお茶飲むか‥‥」

大神は棚の上でお茶を入れ始めた。

残された少女たちはそれをじっと見つめた。

神凪のそれとひどくだぶって見えた。

「‥‥やっぱり兄弟だね、二人は」

カンナがつぶやくように言った。

「あたいの機体、もう出来るんだって、隊長‥‥」

「‥‥ああ、そうらしいね。‥‥俺、見回りで夜も見たけど‥‥すごいよ、あの

二人は。四体バラして、それを同時に整備してたからね‥‥カンナの機体が一番

早いみたいだ」

「‥‥‥‥」

「あとはアイリスのと、俺の‥‥それに‥‥山崎の乗る機体だな」

「‥‥え‥‥ええ!、旦那も乗るのか!?」

「ああ。紅蘭のいない間、長距離攻撃がマリアだけというのは辛いし‥‥山崎の

機体も既に半分は出来上がってるみたいだな。カンナの後方支援を最初に実施す

るらしい」

「‥‥そうなんですか。ん‥‥なんか他人事みたいに言いますね、大神さん」

「え?‥‥そんなつもりは‥‥あっ、言ってなかったな‥‥」

「?」

「もし万が一、この間に出撃するようなことがあれば、俺、指揮はとれないんだ

よ」

「ええーーっ!!」

少女たちは、一斉に声を上げた。

大神が隊長としての指揮をとらない‥‥

それは少女たちの覇気をがっくりと落とすことになった。

大神がいるから‥‥自分たちは闘える‥‥

それは一年前の大戦から培われている、不変の原理だった。

「そ、そんな‥‥じゃあ、わたしたちは、いったい‥‥」

「そんな心配しないで‥‥出れないって言っても、せいぜいあと10日ぐらいだ

し‥‥その間はマリアがとるよ」

「‥‥でもマリアさんは‥‥副司令で‥‥」

「うん‥‥それでもだめなら、山崎が指揮する。だから神武が搬入された」

「‥‥‥‥」

「ほんとに大丈夫だから‥‥」

「隊長がそう言うのなら‥‥」

「そうですね‥‥」

「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」

今一つ気合いが取り戻される気配ではなかった。

大神は自分を慕ってくれることがうれしい半面、思った以上に状況は深刻である

ことを再認識させられた。

「今できることをやろうよ。それしか‥‥あの敵に対抗する方法はない!俺は‥

‥今は‥‥みんなに頼るしかない‥‥すまない‥‥」

大神は厳しい表情で言って、そして悲しい表情で言った。

それは確かに少女たちに伝わった。

「‥‥そうですわね‥‥そうでしたわね、訓練も無駄になってしまいますし」

「そうだよね‥‥うん、お兄ちゃんはアイリスが‥‥ううん、アイリスがんば

る」

「そうでした。ふふっ、やっぱり大神さん、隊長ですね。神武に乗らなくても」



大神は微笑みを取り戻した。

それはまさに額面上のものだった。

「よっしゃ、そうと決まれば特訓再開だぜ。あたいの神武、もうすぐ動けそうだ

しな」

「ああ、俺も‥‥すぐに復活するから‥‥それまで、がんばってくれ」

少女たちはサロンを後にした。



大神はじっと彼女たちを見送っていた。

そしてうつ向いた。

「‥‥く‥‥くそ‥‥くそっ‥‥俺は‥‥俺は‥‥」



‥‥あせったらあかんで‥‥

「わかってる、わかってるよ‥‥だけど‥‥」



‥‥ふふふ‥‥しっかりしなさい‥‥隊長さん‥‥

「‥‥わかってます‥‥俺が‥‥しっかりしないと‥‥」



大神は一息でお茶を飲み干し、そして訓練室へ向かった。







「よーし、ご苦労だったな、山崎。一息いれろ‥‥ん?」

山崎はカンナの機体の中で眠り始めていた。

「ふっ‥‥‥‥よくやった。とりあえず今のうちに休んどけ‥‥」

神凪はデッキを見た。

そこにはコンテナから最後の部品を取り出しているマリアがいた。

神凪の表情が少し変わった。

目を細めて、少し悲しそうに。

神凪は歩き寄った。

「‥‥受信機か」

「え?‥‥あ、はい‥‥そ、その‥‥」

「‥‥無理はするなよ、マリア。君の神武は‥‥一番最後に手を入れるから‥

‥」

「‥‥はい‥‥お願いします‥‥」

「できれば、大神の機体が終わってから‥‥‥‥そうもいかんか‥‥」

「‥‥すみません。無理をお願いして‥‥でも、わたしは‥‥」

「わかったよ‥‥がんばろな」

神凪はマリアの肩にそっと手を置き、そして再び整備に向かった。

マリアは自分のその肩に手を触れ、目を閉じた。

『‥‥大神‥‥さん‥‥』

マリアにとって、神凪は大神だった。

自分が護り、自分を護ってくれる。

マリアは少女に戻っていた。

再び目を開く。

そしてマリアは副司令の顔になった。







「じゃあ‥‥いきますよ、すみれさん」

「どうぞ‥‥」

さくらとすみれは竹林の中にいた。

中庭での手合わせは危険すぎたからだった。

昨日の神凪との鍛練で、二人はその最初に持つべき奥義をほぼ完全に修得してい

た。

今日はその実践だった。

さくらの霊力が臨界に達していた。

それはこれまでの彼女にはない大きさと強さだった。

対するすみれも同様だった。

長刀を持つ手が赤く輝き始めていた。

今にもはち切れんばかりの霊力だった。



「破邪剣征‥‥」

「神崎風塵流‥‥」

さくらの霊剣荒鷹真打が鍔元から光を発した。

すみれの長刀が柄から矛先まで真っ赤に発光していた。

二人の瞳が輝いた。



「百花昇龍塵!!」

抜刀から発生した霊力の閃光は、一直線にすみれに向かって奔った。



「真・鳳凰の舞!!」

鳳凰が誕生した。

それは‥‥まさに真の鳳凰だった。

雄々しくその巨大な鳳翼を展開する様は、それまですみれが産み出したものが子

供に思えるほどだった。



さくらから放たれた閃光は鳳凰を捉えた。

そしてその瞬間、光は水面に広がる油膜のように一瞬で周囲を覆った。

その巨大な光の円環がすみれを、そして鳳凰を囲んだ。

円環はそのまま空へ上昇して、さくら色に輝く円柱となった。

そして‥‥桜の花びらが空に舞った。

百花繚乱・裏‥‥破邪剣征・百花昇龍塵。

それは合体技でもある桜花放神・裏‥‥桜花乱舞をさらに強大にし、かつ遠距離

の群生する標的を捉えるものであった。



桜の花びらの舞う光の中で‥‥鳳凰は飛翔していた。

全ての不浄の物を焼きつくす天の使い。

さくらの造った円環をも凌ぐ広大な領域を、それは羽ばたいた。

そして桜の花びらを燃し尽くして、消えた。



「‥‥はあ、はあ‥‥す、すごいわ‥‥」

「‥‥ふう‥‥あぶなかったですわ‥‥」

二人はお互いに必殺技を放ち、それを相殺させるという、大胆な方法で訓練を締

めくくった。

無謀とも思える二人の鍛練も、行き着く先は一人の青年だった。

「あれが‥‥真の鳳凰‥‥すごい、すごいですよ‥‥すみれさんっ」

「‥‥さくらさんもね‥‥あれほどの力‥‥中和するのに手いっぱいでしたわ」



二人は再び近づいて、お互いの目を見つめ合った。

また少し頬が赤くなる。

「あ、あははは‥‥」

「お、おほほほ‥‥」

「で、でも、そう言えば‥‥司令は確か、鳳凰蓮華、でしたっけ‥‥そんな技も

あるって‥‥」

「え?‥‥あ、あれは‥‥ここでは使えませんの。かなり‥‥危ないですから」



「そ、そうなんですか!?‥‥さっきの鳳凰もすごかったのに‥‥」

「‥‥まあ、実戦では使うかもしれませんわね、最悪の時に。鳳凰の舞が完成し

た今、不足していた要素は掴めましたし‥‥」

「すごいなあ‥‥わたしなんか、これからなのに‥‥」

すみれはそっとさくらの肩に手を置いた。

「‥‥あなたの力は‥‥あんなものではありませんことよ、さくらさん。司令も

おっしゃってたでしょう‥‥あなたには、まだ会得すべき技があると。無論この

わたくしもそうですけれど。‥‥ただ、あなたの本当の力は‥‥きっとわたくし

たちが生死の際に立ったとき‥‥発動されるんですわ。わたくしたちのために‥

‥大尉のために、ね。‥‥焦ってはいけませんわ、さくらさん」

さくらはすみれを見た。

幼い頃に失った母と同じ‥‥そんな気がさくらにはしていた。

自分よりちょっと年下の母。友達のような母。そして恋人のような母。

ずっと、ずっと思い続けてきた、その気持を‥‥さくらはついに我慢できなくな

った。

「すみれ‥‥さん‥‥」

「はい?」

「あ、あの‥‥お願いがあるんですけど‥‥」

「言ってごらんなさい」

「あの‥‥」

「‥‥‥‥」

「わたしの‥‥わたしの傍にいてくれますか‥‥ずっと‥‥」

「‥‥勿論ですわ‥‥あなたは‥‥わたくしが護りますわ、さくらさん」

すみれはさくらを抱きしめた。

さくらは目を閉じ‥‥そして‥‥泣いた。

竹林の緑色の中で、すみれの紫色とさくらの桜色だけが鮮やかに映えていた。







「じゃあ‥‥かかってきな‥‥隊長」

「‥‥いいんだな?」

「‥‥こいっ」

大神は動いた。

迎え撃つのはカンナ。

大神の速度は以前のそれを遥かに上回っていた。

それは‥‥花やしきで通路を破壊しながら疾駆した白狼‥‥それを意思の力で発

動させたものに等しかった。

『はやい!?』

カンナは驚いた。

‥‥いつの間に、これほど‥‥

大神は一瞬でカンナの懐に入り込んだ。

そして昇龍のごとき颶風の上段蹴りを放った。

カンナは大神を見ていなかった。

気配だけを感じて滑らかに、最小限の動きで身体を反らせた。

あごの先を恐るべき突風が通過した。

大神の脚はそのまま旋回し、今度は左側から唸りを上げて襲ってきた。

目で追える速度ではなかった。

『す、すげえぜっ』

今度もカンナはそれを見ていなかった。

頭をすっと下げる。

赤い髪の毛がザッと音をたてて叩かれた。

カンナの防御は、まるで水流を漂う落ち葉のように、滑らかに繋げられた。

『!‥‥やるな、カンナ』

大神は瞬間、舌を巻いた。

振られた右足の反動を利用して、軸脚の左脚が下から飛び上がった。

カンナの下げた顎に突進した。

「くっ」

カンナは下げた勢いをそのまま横にずらした。

右頬を稲妻が通過したような衝撃を覚えた。

『‥‥これもか!?』

大神はその振り上げた脚の勢いで半回転し、逆立ちするような姿勢をとった。

そしてすぐさま最初の右脚をななめ下のカンナめがけて振り下ろした。

『!まだ来る』

カンナの脳裏に瞬間、神凪との手合わせが甦ってきていた。

あの時と同じ感覚。

やはり‥‥兄弟か‥‥

攻撃によどみがない。

カンナは後方に脚をのばして身体の軸線をずらした。

鼻先をまた稲妻が通過した。

大神はそのまま立ち上り、その勢いで霊力を混ぜ込んだ左の手刀を斬り下ろし

た。

カンナの右肩を襲ったそれは、躱すことができない速度と間合いだった。

カンナの目が光った。

青白い霊光が訓練室を覆った。



訓練室は元の静けさを取り戻した。



「驚いたな‥‥躱されるとは‥‥」

「‥‥司令に匹敵する攻撃だったぜ‥‥隊長。冷汗だらだら、だぜ、まったく」



「あれは今迄見せなかったんだがなあ‥‥たいしたもんだよ、カンナ」

「へへへ‥‥どうだい、少しはましになったろ」

大神は賭け値なしに驚いていた。

自らの力の増大をも認識していた大神は、それを余すことなく攻撃に注いだ。

カンナはそれを必要最小限の動きで躱したのだ。

「それに‥‥最後の手刀がまるで効かなかった。あれは煉瓦も軽く砕く威力があ

るのに‥‥いったいどうやって‥‥」

「へっへっへー、あれが今回の秘密兵器さ」

「すごいな‥‥あれから二日しか経っていないのに‥‥‥‥ふっ、ふふふ‥‥」



「な、なんだよ‥‥」

「いや‥‥やっぱり、カンナは花組の特攻隊長だよ」

「‥‥よせよ‥‥そんな‥‥自惚れっちまうぜ‥‥」

「頼りにしてるよ‥‥カンナ‥‥」

大神は優しい瞳でカンナを見つめた。

カンナは真っ赤になって恐縮していた。

「こ、これはさ、まだまだ、その、序の口で‥‥その、本格的なやつは、まだ‥

‥」

「わかってる‥‥がんばれ、カンナ」

大神はカンナの肩に手を置き、そして訓練室を出ていった。

カンナは大神の背中を見送った。

「へ、へへへ‥‥隊長‥‥あんたは‥‥このあたいが護ってやるぜっ!」

カンナは訓練を再開した。

休むことなど考えられなかった。

神凪の技に対抗する。

そして‥‥大切な人を護る。

自分に傷を負わせた敵、それを完全に叩く。

いかなる強大な敵をも迎え撃つ帝国華撃団。

桐島カンナは、その口火を切る最初の戦士だった。







「いかん、もう限界だな‥‥少し眠ろう‥‥」

神凪はアイリスと山崎の機体を並行して整備していた。

昼直前になって、さすがに疲れがでてきた。

立ち上がって入り口の階段にさしかかった。

アイリスが向かえた。

「お兄ちゃんのお兄ちゃん‥‥」

「‥‥ん?‥‥アイリスか‥‥どうした?」

「‥‥疲れてるみたい‥‥休んだほうがいいよ」

「あははは、ありがと。これからそうするよ‥‥」

神凪は踊り場まで来て、しゃがんでアイリスと向かい合った。

アイリスがじっと神凪の目を見た。

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」

「わかってるよ、お兄ちゃんのお兄ちゃんが言いたいこと‥‥アイリスがついて

るから。お兄ちゃんを‥‥一人にはしないから‥‥」

「!‥‥そうか‥‥ありがとう、アイリス」

アイリスは神凪の額に、その可憐で小さな手をおいた。

「‥‥ああ‥‥なんか、気持いい‥‥昔、こんなことしてもらったんだ‥‥」

「‥‥‥‥」

アイリスの瞳が優しく輝いた。

「‥‥ああ‥‥これは‥‥アイリスの‥‥力、か‥‥ありがとう‥‥アイリス‥

‥」

「ふふふ‥‥なんの、これしき‥‥」

アイリスの放つ癒しの浄化光‥‥彼女は今や霊子甲冑を介さずとも、その力を発

揮できるにまで成長していた。

そして、その力はさらに大きくなろうとしていた。

神凪の精神は癒された。肉体と共に。

「じゃあね‥‥元気だして、お兄ちゃんのお兄ちゃん」

アイリスは駆け出した。

自分のすべきことを行うために。

「‥‥天使‥‥だな」

神凪は支配人室へ向かった。

束の間の天使の夢を味わうために。







午後の地下格納庫。

そこを守護していた二人の青年は、一時の休息に入っていた。

代わりに少女たちがそこにいた。

「はああ‥‥こりゃ、すんげえ有様だな‥‥」

「‥‥ここまで見事に解体されていると、かえって芸術的ではありますわね」

地下格納庫発進口には、山崎機が後ろ半分のない状態で、そしてアイリス機と大

神機が、骨だけになって立っていた。

そして、その周りを構成部品が所狭しと並べられている。

「じゃあ、カンナ乗ってくれる?」

「あ、ああ‥‥」

マリアが機動試験観察を受け持った。

詳細は神凪からファイルを受け取ってある。

大神がそれをサポートした。

「‥‥少し外観が変わった気がするんだけど‥‥気のせいか?」

「いえ、変わってます。腰と腕が特に‥‥」

カンナ機の腕は以前より少し太くなっていた。

ただ、それもよく見なければわからない程度だが、もっとも変更があったのは、

手の甲にあたる部分だった。

肘から手首にかけて、滑らかに繋がる曲面で覆われた二の腕。

そしてその突出した先端部に隠されるように、さらに手の甲を覆う金色の装甲が

目についた。

「‥‥あれはなんだろうな」

「ここには示されていませんね‥‥さしずめ、神凪司令の隠し種、と言ったとこ

ろでは?」

「‥‥有り得るね‥‥‥‥腰も‥‥確かに違うな。なんだあれ‥‥」

「‥‥それも不明です。‥‥なんか、このファイル、殆ど役に立ってませんね」



「‥‥はああ」

エンジンに火を入った。

物凄い音が発生した。

そこにいた花組の面々は爆発が起きたのかと、一瞬勘違いして、伏せたほどだっ

た。

「び、びっくりしたあ‥‥カンナってば、ちゃんと言ってよ、もうっ」

アイリスが大神にしがみついて愚痴った。

「こ、腰がぬけるかと思いましたわ‥‥あ、あの猿は、まったく‥‥」

「カ、カンナ、どうなの、具合は‥‥」

「‥‥‥‥」

「おーほっほっほ、中でひっくりかえってるんじゃありませんこと」

「カンナさあん、大丈夫ですかあ」

「‥‥‥‥」

「返事がないな‥‥なんか心配になってきた‥‥‥‥ちょっと見てこよう」

大神が真紅の神武に近寄ろうとした。

「来るな、隊長っ!」

「え!?」

大神は駆け出そうとしたその態勢で停止した。

割と滑稽なスタイルにアイリスがけらけら笑いだし、つられて、さくらとすみれ

も吹き出した。

「どうなってんだあ、カンナ‥‥」

「‥‥動作確認するから、見ててくれ‥‥」

カンナは駆動部の機動試験をこなし始めた。

外で見ていた少女たちには、以前よりもかなり動きが滑らかに見えた。

「‥‥いいですね」

「ああ‥‥なかなかカンナにあってるみたいだな」



ひととおり終えたあとカンナはハッチを開けて出てきた。

それが‥‥汗でびっしょりと濡れた状態で。

「お、おい‥‥大丈夫かカンナ。久しぶりって‥‥わけではないよな‥‥」

「大丈夫ですの‥‥この人は」

「どうだったの、カンナ‥‥まあ、戦闘モードで行わないと、細かいところは‥

‥」

「‥‥格納庫を‥‥破壊しないように抑えるのが‥‥大変だったんだよ」

「!!!」

「パワーが‥‥ぜんぜん違う。まるで別ものだよ」

「‥‥‥‥」

「光武から神武に変わった時も驚いたが‥‥あれに近いものがあるぜ」

「‥‥‥‥」

「それに‥‥なんて言うか、エンジンで生まれた力が、そのまんま、きっちり各

部に伝達されているような‥‥そんな気がする。無駄がないっていうか‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥こいつはバケモンだぜ‥‥司令、とんでもないもん造りやがった」

「‥‥‥‥」

「特訓してなきゃ‥‥ここ、めちゃくちゃにしてたよ‥‥‥‥やべえぜ、もっと

マジで‥‥鍛練しなきゃ‥‥‥‥ここまですげえとは‥‥」

「‥‥じ、実戦で、見られるわけですのね、その力とやらは‥‥」

「‥‥そうだな‥‥こりゃ‥‥へっへっへ、望むところだぜ」

大神たちは、その真紅の神武をじっと見つめるしかなかった。

エンジンが停止しても、未だその霊気の余韻が格納庫を漂っている気がした。

ただ、片隅にめだたないよう置かれている、黒い神武の存在までは気がつかなか

った。

闇に溶け込むような、その漆黒の霊子甲冑‥‥

そして、真紅の神武に呼応するかのように、その単眼が閃いたことも。







休演日に限って、夕暮れが訪れるのは早い。

少女たちは常々そう感じていた。

一日があっという間に終わってしまう‥‥

今置かれている状況が、そう思わせているのかもしれなかったが。

また反面、心の奥底では、時がはやく過ぎれば‥‥との思いもあった。

はやく帰ってきて‥‥と。

大神にとっては、今ほど一日の終りを待ち望んでいる時期はなかった。

はやく帰ってきてくれ‥‥

はやく俺を解放してくれ‥‥

はやく俺を戦場に‥‥

はやく‥‥

‥‥焦ってはいけない。

その言葉がずっと、ひどく心に重くのしかかってきていた。

一昨日と同じようにベランダに立つ。

夕陽が銀座の街を美しく染めていた。



「‥‥この街が‥‥この劇場がなければ‥‥俺は、今ここにはいない‥‥」

なんとなく口にしてしまった言葉。

偶然というには、あまりにも強い結び付きだった。

運命と呼ぶには、あまりにも辛い試練だった。

優しい風が吹いた。

夕陽が柔らかくなった気がした。

視線を遠くから、ゆっくりと、近くへ‥‥劇場へ。

劇場の傍らに置いてある蒸気二輪車。

一昨日と同じ。

「‥‥あれは‥‥持ち主がいないのかな‥‥」

‥‥あせったらあかん‥‥

それは大神の心に、この時ほどじっくりと染み込んだことはなかった。

夕陽の赤‥‥紅い蘭‥‥それは焦る心を少しずつ解きほぐしていくようだった。



大神の表情もいつしか夕陽の色に似合ったものになっていた。

手摺りに身体をあずけ、もう一度街並みを見渡す。

優しい風景。

いつの時間もそうだった。

朝も。

昼も。

夕暮れも。

そして夜も。

街の雑踏も、心に染み込む優しい音色だった。

バルコニーに映る風景はいつも大神を優しく包んだ。

優しい風が吹いていた。

大神の髪を揺らす。

いつしか、心の奥底‥‥腹の下にわだかまっていた波が、ゆっくりと、ゆっくり

と消えていくような気がした。

自分の中に夕陽のあたたかさが満ちてくるようだった。



「夕陽の赤は優しいよね‥‥」

後ろから声がした。

妖精の声。

金色の髪が風に揺れられて、優しく輝いた。

蒼い瞳が夕陽に照らされて、草原の色に染まった。

「夕陽の赤は大好き‥‥お兄ちゃんの白も大好き‥‥」

アイリスが横にならんだ。

顔がちょこんと手摺りに乗るような背丈。

「‥‥アイリスのおうちはね‥‥お花に囲まれて‥‥草原に囲まれてるの」

大神は手摺りに身体をあずけたまま、アイリスを見つめた。

少しだけ身体を前に出し、アイリスの顔がよく見えるように。

「‥‥いつもお陽さまがきらきらしてて‥‥風がそよそよしてて‥‥小鳥が鳴い

てて‥‥」

アイリスの表情は眠り姫のようだった。

「ここもアイリスのおうち‥‥」

「‥‥うん」

「いつもお陽さまがきらきらしてて‥‥風がそよそよしてて‥‥蒸気の音がす

る」

「ふふふ‥‥」

「へへへ‥‥‥‥それに‥‥お兄ちゃんもいる‥‥みんなもいる‥‥」

「‥‥うん」

「お兄ちゃんはね‥‥アイリスの恋人なの‥‥」

「‥‥うん」

「でもね‥‥みんなの恋人にもなるの‥‥」

「‥‥‥‥」

「お兄ちゃんは‥‥大切な人なの‥‥」

「‥‥‥‥」

「だからね‥‥お兄ちゃんはアイリスが護るの‥‥お兄ちゃんはみんなが護るの

‥‥」

「‥‥‥‥」

「お兄ちゃんは‥‥一人じゃないの‥‥」

「‥‥‥‥」

「お兄ちゃんは‥‥一人になっちゃいけないの‥‥」

「‥‥うん」

「お兄ちゃんは‥‥お兄ちゃんなの‥‥」

「‥‥うん‥‥うん」

大神は大神に戻っていた。

神凪になる必要はなかった。

大神は身体をゆっくり起こした。

そしてアイリスの後ろにそっと移動した。

アイリスの後ろを護るように‥‥

肘を手摺りに乗せて、腕を前に組む。

アイリスの両側を大神の腕が囲む。

アイリスの金色の髪に大神の顎が触れる。

「へへへ‥‥なんか、うれしいな」

「ふふ‥‥アイリス、少し背がのびたかな‥‥」

「ほんと?‥‥えへへ‥‥」

「ふふふ‥‥‥‥アイリスの髪は、草原の香りがするね‥‥緑の‥‥かすみ草の

香りかな」

「えへへ‥‥へへへ‥‥」

「‥‥なんか、おちつく‥‥こうしてると‥‥」

「‥‥このまま‥‥時間が‥‥止ればいいのになあ‥‥」

アイリスは少しだけ背を大神にあずけた。

大神は少しだけ腕を狭くした。そして顎を頬にかえてアイリスの髪にのせた。

夕陽が二人を、いつの日かそうしたように、再び優しく包み込んだ。





二階客席口の壁から見つめる優しい瞳。

優しい黒。

もう一人の大神。

ロビーの階段から人の気配が流れてきた。

金髪の麗人。

「‥‥あら?」

神凪を認めて、そしてその壁に一つの長い影をつくる二人を見つけた。

神凪は人さし指を口にあてた。

「‥‥ふふ」

マリアは神凪のところまで、静かに歩み寄った。

赤く染まった白と金色を、優しく見つめる黒と金色‥‥

「優しい赤、か‥‥」

「‥‥黒も優しいですよ」

「そうかな‥‥」

「‥‥ええ」

マリアはじっと二人を見つめ、そして神凪を見つめた。

神凪の瞳は大神と同じ色だった。

神凪の横顔は大神と同じだった。

神凪の笑顔も大神と同じくなった。

「あなたは‥‥優しい人‥‥昔から‥‥」

「‥‥ありがとう」

二人はもう二人を見つめた。







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Uploaded 1997.11.01




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