「おいしい?‥‥さくら」

「うん」

「ははは‥‥さくらの大好物だもんな、それ」

「わたしにも作り方教えて、お母さん」

「ええ?ま、まださくらには早いと思うけど‥‥」

「いやっ、絶対憶えるんだもん」

「‥‥しょうがないわね‥‥じゃ、台所に行きましょうか」

「えへへへ‥‥」

「ふふふ‥‥さくらも女の子だな、やっぱり‥‥」



「ただいまあ‥‥あれ、お客さん?」

「おかえりなさい。どこ行って遊んでたの?」

「えへへ‥‥たけしくんとね、裏の神社で‥‥」

「おじゃましてます‥‥さくらちゃん、だね」

「あ、こんにちは‥‥えと、お兄ちゃんは‥‥」

「お父さんのお友達で‥‥いちと言うんだ。よろしくね、さくらちゃん」

「は、はあい」



「お母さん‥‥どこ行ったの?」

「‥‥遠いところ‥‥さくらが、もう少し大きくなったら、教えてあげるよ‥

‥」

「もう‥‥帰って‥‥こないの?」

「‥‥お父さんが一緒じゃ、いやか‥‥さくら」

「‥‥ううん‥‥ううん‥‥わたし‥‥お母さんと同じ料理作れるもん」

「‥‥さくら」



「お父さん?‥‥お父さん‥‥どこいるの?‥‥」

卓袱台の上に手紙があった。

‥‥さくらへ‥‥

お父さんは三週間ほど、東京という所に行ってくる。

来月には帰ってくるから、留守番しててくれ。

お土産、楽しみに待ってなさい。

父より‥‥

「‥‥一人ぼっち‥‥か」

「さくらあ‥‥」

「あれ‥‥どうしたの?」

「‥‥道場に行かないと‥‥忘れたのかい?」

「あ‥‥そうだった。行こう、行こう」



「‥‥こんにちは」

「え‥‥わたし、ですか?」

「うむ‥‥君は、真宮寺さくらくん、だろ」

「は、はい‥‥」

「わしは米田一基というもんだ。お父さんの仕事友達ってとこだな」

「‥‥お父さん、の?」

「うむ‥‥これを預かってきた」

赤い鞘‥‥

霊剣荒鷹。

「‥‥どうして‥‥」

「手紙も預かっている‥‥もし‥‥君がその気なら、わたしの所に来なさい。東

京の銀座という場所にいるから‥‥これが連絡先だ」

「あ‥‥」

その軍人は立ち去った。

「‥‥東京」



わたしは‥‥泣いた。

その後も米田さんはちょくちょく仙台に来てくれた。

5年後‥‥



「真宮寺さくらと申します。よろしくお願いします」

「マリア・タチバナです‥‥よろしく」

『‥‥はああ‥‥きれいな人‥‥』

「あなた‥‥ずいぶん田舎くさいですわね‥‥ま、わたくしが指導すれば大丈夫

でしょうけど」

『むっ?』

「ほほほ‥‥わたくしはこの帝劇のトップスター、神崎すみれですわ」

「は、はい、よろしくお願いします」

「えへへ‥‥アイリスでーす。よろしくね、おねえちゃん」

『か、かわいい‥‥』



「‥‥さくら‥‥ちょっくら用事を頼まれてくれっか」

「はい?‥‥なんでしょう」

「上野公園に迎えに行ってほしいんだよ」

「は?」

「今度新しく配属される、海軍少尉さんをな」

「え!?‥‥男の方、ですか‥‥」

「おお、劇場ではモギリをしてもらうが‥‥戦闘では隊長だ」

「!‥‥わかりました。お名前は‥‥」

「大神一郎という。白い海軍服を着てるはずだから、わかると思うがな。それと

‥‥華撃団のことは伏せておいてくれ」

「?‥‥それは‥‥」



「‥‥えーと‥‥あれ、ここは‥‥上野‥‥公園じゃない‥‥あれ?」



「‥‥あれれ‥‥ここ‥‥がび〜ん、花やしきに来てしまった‥‥」 



「はひ‥‥やっと着いた‥‥ん?あ、あの人かな‥‥‥‥あの、すいません‥

‥」

「なあに、お嬢さん‥‥」

「あの‥‥」

「いひひひ‥‥なあに?」

「い、いええ‥‥し、失礼しましたあっ」



「あ、あの人かな‥‥‥‥うっ、違う」



「あ、あれかな‥‥‥‥げっ、ち、違うっ」



「はあはあ、はあ‥‥‥‥あの人は‥‥うっ、すんげえいい男‥‥おそるおそ

る、と‥‥」

「ん?」

「あ、あの‥‥大神‥‥一郎、少尉‥‥ですか?」

「ええ‥‥そうですが‥‥あなたは?」

『‥‥や、やったわ‥‥はああ、近くで見ると、ますますいいわあ‥‥』

「?」

「あ、あの、わたし‥‥」



「はああ‥‥わたしって、どうして‥‥こうドジなんだろ‥‥」

「‥‥でもさくらくんは、がんばってるじゃないか‥‥昨日も見たよ、稽古して

るとこ‥‥」

「え‥‥‥‥うれしいです‥‥大神さんが見ていてくれたなんて‥‥」



「‥‥え」

「一緒に初もうでに行こうか」

「いいんですか‥‥わたしと一緒で‥‥」

「うん‥‥あとで部屋に迎えに行くから」

「絶対ですよ」



「帝国華撃団・出撃だ!」



「大神さんが頼りです」



「俺はさくらくんを護る‥‥」

「‥‥ありがとうございます、大神さん」



「‥‥振り向くなっ、さくらくん」

「で、でも‥‥」

「まだ終わっちゃいないんだ」

「‥‥‥‥」

「みんなの想い‥‥決して無駄にはしない!」



‥‥お立ちなさい‥‥自分のその脚で‥‥

「自分は‥‥大切な仲間を‥‥失ってしまいました‥‥」

「‥‥なんだよ、その面‥‥」

「み、みんな‥‥」

「行きましょう、大神さん」

「みんな‥‥‥‥よーしっ、帝国華撃団、出撃せよっ!」

「了解!」



‥‥さよなら‥‥大神くん‥‥

「いいんですか‥‥大神さん‥‥」

「ああ‥‥俺にはみんながいる‥‥大切なみんながね‥‥」

「大神さん‥‥」



ボーッ

プシューッ

『‥‥みんな‥‥大神さん‥‥』

「さくらくんっ!」

「‥‥えっ‥‥大神さんっ!?」

「‥‥さくらくん」

「ごめんなさい‥‥」



大神さん‥‥



「さくら‥‥」

「‥‥え?」

「さくら‥‥」

「‥‥お、母さん‥‥お母さん?」

「さくら‥‥」

「お父さん!」

「ふふふ‥‥大きくなったね、さくら」

「お母さあん‥‥お父さああんっ」

「ふふふ‥‥」

「お母‥‥え‥‥す、すみれ‥‥さん?」

「さくらさん‥‥わたくしのかわいい娘‥‥」

「すみれ‥‥さん‥‥」

「ふふ‥‥さくら‥‥」

「お父さん、いったい‥‥あ、れ‥‥大神さん‥‥」

「ふふふ‥‥」

「うふふふ‥‥」



「さくらくん‥‥」

「‥‥え‥‥あ、大神さん‥‥あ‥‥え‥‥神凪‥‥司令?‥‥」

「俺と‥‥一緒に‥‥」

「え‥‥」

「さくらくん‥‥」

「あ‥‥神、凪‥さん‥‥‥‥おお‥が‥‥み‥‥‥さ‥‥‥‥ん‥‥」



プシューッ

ブオーーン



チュン‥‥チュン、チュン‥‥



「‥‥おお‥‥が‥‥み‥‥さあん‥‥‥‥あ‥‥ああ‥‥あ?‥‥夢‥‥」



チュン‥‥チュン‥‥

「夢‥‥か‥‥はああ‥‥」



わたしは久しぶりに長い‥‥長い夢を見ました。

子供の頃‥‥お父さんとお母さんのいた頃の‥‥杜の都にいた頃の。

そして‥‥お母さんがいなくなって‥‥

お父さんがいなくなって‥‥



お父さんがその昔いた東京。

上京して、入った帝国劇場。

今のわたしのうち。



大神さん‥‥



海軍少尉さん。

今は大尉さん。

帝国劇場のモギリさん。

そして‥‥

帝国華撃団・花組の隊長‥‥

わたしたちを率いる人。

わたしたちを導く人。



一番‥‥大切な人。



一年前‥‥闘いが終わって、わたしは帝劇を去ろうと決心しました。

やっぱり、甘えてたと思ったから‥‥

でも、大神さんが引き止めて‥‥くれて‥‥

そして‥‥



「はああ‥‥大神‥‥さん‥‥」



進展があるかなあ、なんて期待してたんだけど‥‥

やっぱり大神さんは、大神さんでした。

でも、わたしはそんな大神さんが‥‥好きです。



「‥‥すみれさんが‥‥お母さん、か‥‥なんか、いいなあ‥‥」

‥‥あなたは‥‥わたくしが護りますわ‥‥

「えへへ‥‥へへへ‥‥‥‥すみれ、さん‥‥」

わたしは布団の中で思わずにやにやしてしまいました。

でも‥‥最後に‥‥支配人が‥‥

あれはいったい‥‥



朝6時。

今日の公演も午前から。

愛ゆえに‥‥

わたしはふと、現実に戻りました。

「はああ‥‥大神さんとマリアさん‥‥素敵だったなあ‥‥」

そして、先月の公演変更で生じた、大神さんの突然の舞台投入を思い出しまし

た。

オンドレ役の大神さん。

街娘役のマリアさん。

すごく素敵だった。

大神さん‥‥とても凛々しくて、男らしくて‥‥マリアさんとはちょっと違って

‥‥

マリアさん‥‥はああ‥‥すごくきれいで‥‥天使、ううん、聖母みたいで‥‥



わたしは‥‥

わたしの街娘は‥‥



「はああ‥‥起きよっと‥‥」



わたしはあやめさんの部屋に寝泊まりしてます。

自分の部屋は、今日中で修理は終わるみたいだけど‥‥

でも、あやめさんの部屋‥‥慣れたのかな、すごく居心地がいいんです。

なんか、離れるのが‥‥淋しいなあ。



いつもの桜色の普段着を着る。

姿見で確認。

「よし‥‥かわいい、かな‥‥」

髪をリボンで纏めて。



姿見のすぐ横に二本の刀を立て掛けています。

一本は父の片身‥‥霊剣荒鷹。

もう一本は神凪支配人から‥‥霊剣荒鷹‥‥真打。

‥‥お父さんの刀は大切にとっておきなさい‥‥真打こそ君の刀だ‥‥

「ありがとうございます、支配人‥‥」

‥‥さくらくん‥‥俺と一緒に‥‥

「‥‥うーん‥‥あれは、いったい‥‥‥‥夢、だよね‥‥」



わたしは霊剣荒鷹真打を抜いてみました。

いつも朝はそうしてるんです。

なんか、そうしたほうがいいような気がして‥‥

輝く霊光‥‥そして剣気。

それが、なぜか心を癒すのが不思議‥‥



再び鞘に戻し、わたしは洗面所へ向かいました。



『‥‥だれか‥‥いる』

「ん?‥‥あ、おはよう、さくらくん」

「‥‥あ、おはようございます、大神さん」

わたしはこの頃には、もう大神さんと神凪支配人の区別はつくようになっていま

した。

心に訴えるものがある‥‥そんな感じ。



大神さん‥‥一番大切な人‥‥一番大好きな人‥‥‥‥‥愛‥‥してる‥‥人。



神凪支配人‥‥大好きな人のお兄さん‥‥きっとお父さんの生まれ変わった人‥

‥だから大切な人。



「今日も午前からだけど、まだ早いんじゃ‥‥」

「え‥‥あ、あはははは‥‥なんか、目が醒めちゃって‥‥」

「ふふふ‥‥愛ゆえに、か‥‥主演だもんね」

「は‥い‥‥」

「それに‥‥さくらくん、やっぱり街娘役が一番似合うからね」

「え‥‥」

「マリアの街娘も素敵だったけど‥‥でもオンドレ役はマリアしかいないしね。

さくらくんの街娘‥‥俺、すごく好きだよ」

「ほんと‥‥ですか‥‥」

大神さん‥‥わたしが悩んでいたことが、わかっていたみたいに‥‥

一言一言、しっかりと、そして優しく、わたしに語りかけてくれました。

「確かにマリアの街娘はすごく素敵だった。観客の反応は凄かったなあ。横に立

ってても俺、自分が自分でないような気がした‥‥あれはオンドレというより‥

‥いや、わかんないな。ただ‥‥何か違う‥‥‥‥そう、マリアは美しすぎたん

だ‥‥‥‥彼女は、まるで‥‥聖母のようだったから。だから、舞台の上に立っ

ていたのは‥‥街娘ではなかったんだ」

「それは‥‥」

「きっと女役のマリアは、他にあるような‥‥そんな気がする。街娘ではないと

思う。なんか、わかったようなこと言ってるけどね‥‥はははは‥‥‥‥ただね

‥‥ただ‥‥少なくとも、俺は‥‥俺は、街娘はさくらくんしかいない、そう思

ってることも確かだよ」

「‥‥‥‥」

「マリアは‥‥街娘に‥‥なるべきでは、ない‥‥」

「‥‥?」

「街娘は、きっと聖母にはなれなかった‥‥そう思うんだ。街娘は、明るくて、

可憐で、優しい人。そして強い人。でも‥‥儚い人‥‥そして、悲しい人‥‥‥

‥愛ゆえに、ね。‥‥人であるがゆえに‥‥女であるがゆえに‥‥‥それを演じ

れるのは、さくらくんだけだよ」

「‥‥大神‥‥さん‥‥」

「がんばって、さくらくん‥‥‥‥俺、いつも見てるから」

大神さんはロビーに向かって去っていきました。

‥‥街娘はさくらくんしかいないよ‥‥

「‥‥大神さん‥‥大神‥‥さん‥‥」

わたしは‥‥胸が熱くなっていました。

うれしくて‥‥せつなくて‥‥

「マリアさんは‥‥美しすぎる‥‥か」

でも、やっぱりマリアさんは素敵だった。

それは大神さんもわかってる。

「‥‥負けないわ」



わたしは自分の迷いを振り切るように、顔をばっちりと洗いました。

鏡を見る。

いつものわたしの顔。

そんなきれいでもないし‥‥どこにでもいる、普通の女の子。

「負け、ない‥‥‥‥はああ」

勝てるかな‥‥

‥‥がんばって‥‥俺‥いつも見てるから‥‥

「そうよ‥‥わたしは‥‥真宮寺さくら‥‥‥‥負けはしない」






五章.想い人来たりぬ
<その1> 公演日の帝国劇場は、朝早くからロビーを解放する。外観とは違い、貴族然とし た衒いもなく、それが庶民受けする魅力でもあった。 8時を廻って、もう既に正面玄関は開かれていた。入場制限用のロープは張られ ていたが、開場待ちの熱狂的なファンがちらほら立っていた。開場は公演開始の 30分前、午前9時30分。ちなみに売店は開演前後1時間ずつ。つまり午前の 部の場合は、朝9時に、午後の場合は昼1時に営業を開始する。ごく稀に夜の部 というのも行い、その場合は夕方5時から店を開く。椿が朝早いのはそのため で、午前の公演がある日は、遅くとも朝7時頃には店開きの準備を始めなくては ならない。この日もその真っ最中だった。 舞台袖ー支配人室ー事務室ー食堂と続く通路から、白と黒の二人連れがロビーに 歩いてきた。二人とも髪形は逆立っている。全く同じと言っていい、端正で凛々 しい顔立ち。背丈だけが違う。 ロビーにいた女性ファンの一部が、その二人を見て呆然と立ち尽くした。一部と いうのは、大神の隠れファンである。 椿の売り出すブロマイドの中には、表には出さないものの、要望に応じて裏にあ るストックから客に売るものもある。実は、その中に大神の写真もあった。いつ 写したのか、本人ですら気づかないような微妙な角度からの写真もあり、種類は 花組の少女たちに匹敵するぐらいの数があった。それだけ、人気がある、という 証明でもあったし、先のオンドレ抜擢とその評判も理解できるというものだっ た。とにかく、椿のところには、人がいなくなったのを見計らって、若い女性が 三々五々訪れてくるのだ。 大神さんが二人もいる‥‥どうしたらいいの‥‥という相変わらずの反応。彼女 たちの顔にその文字が見えるかのように浮かんでいた。 「朝早くからのご来場ありがとうございます。当劇場の支配人、神凪龍一と申し ます」 めずらしく神凪が接客に向かった。 「開演までまだ時間がありますが、ご用の際はご遠慮なくお申し付け下さいま せ。普段は支配人室におりますから、いつでもお気軽にお立ち寄り下さい」 「はああ‥‥はいい‥‥」 「万全を記しておりますが、万が一不都合がございましたら、是非とも‥‥‥‥ こちらの大神に申し伝えて頂いても結構ですので、なにとぞご鞭撻のほどを。‥ ‥あ‥‥顔が似てるのは親戚だからです。どうぞ、今後ともごひいきください」 「はああ‥‥はいい‥‥」 神凪は大神に小声で伝言を残し、玄関から表に出ていった。大神は、まだモギリ の仕事に就くには時間があったため、そのままロビーを横切ってサロンへの階段 を上ろうとした‥‥ところで呼び止められた。 「あの、あの‥‥これ、受け取って‥‥いただけますか‥‥」 「えっ‥‥わたしに、ですか?」 「は、はい‥‥あの、あの‥‥し、失礼しますっ」 「あ‥‥‥‥あれ?‥‥あの娘‥‥確か‥‥あの時の‥‥」 その少女は、大神に話し掛けたと思いきや、いきなり脱兎のごとく劇場を後にし た。上着を羽織っていたが、その下はドレスだったらしく、かなり走りにくそう だった。モギリに立って、何度か見かけたことがある‥‥それに、確か‥‥以前 手紙を‥‥もらったような記憶も‥‥そうだ、暁蓮さんに会った‥‥あの日‥‥ 大神は、走り去って行ったその少女の外見を、もう一度復習することに努めた。 決して不純な理由ではない。記憶にないなどと、帝撃ファンの娘を粗略に扱うこ とは、窓口ともいえるモギリにあるまじき失態だった。16歳前後の幼い顔だち の少女‥‥割と短めの髪形、背丈はさくらぐらい。椿とほとんど変わらない歳に しか見えない、かなり可憐な美少女。 大神はしばらく呆然としていたが、受け取った‥‥その手紙を見て、こちらはか なり間の抜けた表情になった。結局、不純な結果に行き着いてしまった。 「はああ‥‥かわいい‥‥」 へらへら笑みを浮かべて、大神は階段を上った。 売店から成り行きをじっと見つめていた椿。 「‥‥大神さんて‥‥もしかして‥‥もしかして‥‥すごい年下が、好きなのか な‥‥」 そう呟いてすかさず顔が赤くなる。 「‥‥もしかして‥‥わたしにも‥‥チャンスが‥‥」 そこはさすがに売店の売り子だけあって、すぐに仕事に復帰する。ブロマイドを 整理しつつ、先程の神凪の対応を思い出した。 『‥‥さすがに支配人よね‥‥大人だわ‥‥素敵‥‥‥‥ん‥‥そうだ!』 またまた実は、大神の隠しブロマイドというのは正規品ではなく、椿個人が裏で 販売する闇商品だった。よってマージンは全て椿に還元される。つまり、椿はこ こで収入源である売れ筋タイトルを、もう一つ手に入れたということだった。 「‥‥いひひひ‥‥よーし、あとで支配人の写真とらしてもらおっと‥‥‥‥げ っ!」 通路側を振り向いて、そこにいたのは‥‥さくらとすみれ。まっすぐとロビーの 階段を凝視していた。なぜゆえに、と問われるまでもないこと。 「‥‥死刑だわ‥‥刀の錆にしてくれる‥‥」 「‥‥モギリという立場を利用した悪行の数々、最早‥‥」 「‥‥‥‥ひえぇ〜」 「‥‥ときに椿ちゃん‥‥」 その燃え上がる熱視線を階段に保持したまま椿に話し掛ける。熱が言葉と共に流 れ込んでくるような気がした‥‥横向きで。 「ひっ‥‥は、はいい」 「‥‥例のものは入荷したかしら」 「は、はい‥‥あ、いいえ、すみません、実はまだ‥‥」 「なんですって‥‥椿さん、あなた‥‥この不始末、どう埋め合わせて頂けるの かしら‥‥」 「ひ、ひい‥‥す、すみませ〜ん‥‥取り急ぎ手配しますので‥‥お許しを‥ ‥」 「‥‥まあいいでしょう‥‥今はそれどころではありませんわ‥‥」 二人はずんずんと階段目指してロビーを横切った。ファンもこの時ばかりは、か き分けられた波のように道を譲った。 さくらが言った”例のもの”とは、オンドレ役で舞台に立ったときの大神の写真 のこと。これは絶対売れる、と判断した椿は禁断の舞台撮影を敢行、10種類以 上を現像、裏で販売した。既に椿の顧客だった何人かは、この情報をいち早く入 手、口コミであっと言う間に広がり、二日と経たずして完売とあいなった。さく らとすみれは当然その全種類を購入していた。当たり前だが開店前に強引に。 二人が今回望んだのは、椿の隠し種。こういう類いを必ず保有する椿は、売値の 10倍ほどのプレミアが着いた頃合いに、再度リリースする。これをまたぞろ、 さくらとすみれは強引に口を割らせ、現像を急がせていたのだった。 しかし、椿には他にもう一枚、秘蔵品が存在した。 さくらとすみれには内緒で、一人の女性のためだけに取った一枚の写真。オンド レと街娘‥‥最後の出会いのシーンを写したもの。それをマリアに手渡した時の ことを‥‥マリアの顔を‥‥椿は一生忘れないと誓った。マリアさんは‥‥やっ ぱり街娘だったんだ‥‥と。それは大神の解釈とは違うが、元を辿れば同じとこ ろに行き着いた。 「‥‥道のりは遠い‥‥それに険しいわ‥‥‥‥愛ゆえに、か‥‥」 椿は気を取り直して、整理を続けた。心に浮かんだ少女の淡い恋は、いつしか仕 事に埋もれていった。 絢爛な建物の地下は鋼鉄で覆われている。 おさげ髪の守護天使が住む優しい地下牢も、今は二人の青年がその守護神の任を 受け継いでいた。山崎は一人地下格納庫にいた。舞台は見たかったが、それを我 慢しての整備続行。今の状態で敵が現れたら、それこそ洒落にならない。起動で きるのは、赤と青、カンナ機と山崎機しかない。司令と副司令は当然除いて。新 緑の機体は‥‥主がいない。 神凪は川崎にある神崎重工の研究所に出向いていた。すみれの新しい機体の確認 と、搬入手続のため、ということだった。山崎は零式のことは知っていたが、よ もや試作型がもう一機存在するとは思いもよらなかった。試作卯型霊子甲冑、そ の弐号機‥‥神武という名称は付けられず”七瀬”と命名されている‥‥神凪は それだけ言って出ていった。 「七瀬、か‥‥どんな機体なんだ‥‥」 山崎は、格納庫の片隅にひっそりと置かれてある漆黒の霊子甲冑を見た。闇に溶 け込むようであっても、人が乗っていなくとも‥‥その黒い神武は火が入ってい るかのように見えた。命があるように見えた。まるで生きているように‥‥まる で呼吸をしているように。 「あいつと同じなのかな‥‥司令が手を入れているとしたら‥‥」 七瀬には、神凪の手が全く入っていなかった。完全な神崎重工純正の試作機。た だ、山崎真之介の書き起こした初期設計とは、基本部分が異なっていたらしく、 試作型壱号機である零式を改良・発展させた機体でもあるらしい。試作型であり ながら、量産型とは掛け離れた機体である可能性も高い。神崎重工総帥である神 崎忠義自ら指示を下したものらしい‥‥思い入れがあったのだろうか。 神凪としては七瀬をさらに改良する腹積もりのようだった。その下見を兼ねて の、川崎出張‥‥ 「確かに、昨日のすみれさんの力では‥‥零式並みの受け皿がないと、きついな ‥‥」 山崎には、なんとなく”七瀬”という名前も、すみれには合っているような気が した。 そこまで考えて、山崎は整備に集中し直した。山吹色の神武は、当初は10日を 要する修理内容だったが、完全分解に変更された。それでも、あと3日もすれば 完成しそうな勢いだ。夕べはフレームのみだった機体も、外部の筐体を形成しつ つある。 ここに至って山崎は、ふと思い始めた。 新生するアイリスの機体が、今迄の神武と全く異なる外観を示すのではないか、 と。何か‥‥普通の人型蒸気には‥‥見えないんじゃ‥‥ まず、脚が違う。半ば骨格だけだが、あの高速移動用ユニットの取り付ける場所 がない‥‥必要ないからか?脚全体が細いような気もする。身体を構成する筐体 も細身だ‥‥なんか女性を彷彿させる‥‥勿論あの白い不愉快な化物とは全然違 うが。ハッチの部分が‥‥それではなく、別の部品が取付けられるような‥‥接 続面がある。 「てっぺんになんか付けるのかな?‥‥頭だったりして‥‥」 搭乗に要する部分‥‥それは前面の装甲が開閉するような筐体になっている。そ れは従来と変わりはないのだが‥‥全面が一体となって開閉するような構造では ない。サイズがアイリスの体形に合っている。何か‥‥その、女性の胸部だけが 開くような‥‥そんな感じにも見えた。かなりコンパクトだ。カンナは言うまで もなく、大神では絶対入れない。紅蘭ならなんとか、というぐらいの間口の大き さだった。また、それほど全体的に細身になっていた。 「‥‥まさかとは思うが‥‥女性像でもつくるつもりかな‥‥」 最初に組んだフレームも、かなり破天荒であった。骨格は従来どうりなのだが、 その骨髄にあたる部分に弐型霊子核フレームをはさみ込む。さらに霊子核フレー ムと通常骨格との隙間に、壱型シリスウス硬化溶剤を埋め込む。これが時間がか かった理由だった。弐型フレームはカンナ機に組み込んだ参型とは違い、完全な 失敗作だったはずだが‥‥動作しないはずの材料をなぜ?いったいなんのために ‥‥わかならい。神凪の作品である以上、運用者によっては機能する可能性もあ るが‥‥ それと‥‥なんと言っても背中。エンジンはかなりコンパクトに取り付けるらし い。それはいい‥‥だが、あの両脇にあるのはなんだ‥‥主機関部マウント用フ ランジと、肩ー腕部関節ユニットの間にある、あの紡錘形断面の突出部‥‥可動 するように組んだのだが‥‥ 「‥‥羽でもつけるのかな‥‥まさかね‥‥」 作業を再開しようと、アイリス機の足元の部品を手にとる。 「‥‥いや、有りえるな‥‥あの人のことだ‥‥」 今度こそ、山崎は整備を再開した。 冬をイメージさせる部屋。 女性の部屋らしくなく、備え付けの家具と、身の回りの品々を入れるような小さ な棚しかない。マリアの部屋は他の少女たちと比べると、質素を通り越して寒く 感じる部屋だった。マリアは、自分自身、そして自分の部屋の装いに、それほど 興味を示す女性ではないが‥‥過去が過去だけに、と言ってしまえば、あまりに も悲しすぎた。 そんな彼女の部屋の一角に、一段と寒くさせるような、冷たい機械類が置かれて いた。花やしきでの霊気波長の位相変換訓練に使用した、その携帯型の受信器。 携帯型とは言っても、洋服棚ぐらいのサイズはある。 椅子を向かい合わせで配置し、マリアはそこに座っていた。戦闘服ではないの で、こめかみ以外は、チューブを身体に直に接着させて行った。朝起きてから2 時間ほど、昼前後に2時間、そして、寝る前に2時間。 朝8時。恐るべき集中力で、マリアの波長変換は、その第一段階が完全に制御で きるまでになっていた。攻撃波長は従来と変動なし。防御波長を外装障壁用に。 残るは外装障壁形成後の、その霊子力を外部に解放する‥‥即ち、攻撃モードに 変換する操作。そして‥‥必殺技との連係。これがさらに難しい。護る意思を、 発散させるに等しい意思転換‥‥普通の精神構造では為しえない。 「‥‥‥‥ふう」 マリアはチューブをはずした。そろそろ休まないと、舞台に影響がでる。そのあ とは‥‥副司令の自分に戻らないといけない。 ‥‥無理はするなよ‥‥ 神凪の言葉が染みいる。辛い日常だった。神凪には全てお見通しだったのだ。だ が止めることなど、マリアにはできるはずもない。もう引き返すことなどできな かった。止めることは、即ち今以上に‥‥遥かに辛い過去への回帰そのものだっ たから。自分だけではない。それもあった。みんな‥‥がんばっている。 あの人のため‥‥あの人を護るため‥‥マリアの脳裏に照れくさい笑顔の青年が 浮かび上がる。すぐに辛いことなど忘れさせてくれる。それに自分を護ってくれ る人もいる。 あの人が‥‥あの人が護ってくれる‥‥同じ青年。でもマリアの過去にもいる青 年。辛い過去を照らす優しく儚い灯火。マリアの表情は部屋の寒さとは関係な く、いつも温かいものだった。どんなに辛いことがあっても‥‥嫉妬しても‥‥ 落ち込んでも‥‥あの優しい笑顔で、すぐに心が満たされた。 「わたしは‥‥あなたが‥‥好きです」 マリアはチューブをはずした後、必ずこの言葉を唱えていた。もし聞いている者 がいたら、それは舞台稽古の台詞としか思えなかったかもしれない。露出した肌 からチューブが零れる。自分を抱きしめる。それは鎖の呪縛から解放された天使 だったに違いない。もし想い人がその場にいたら、決して放ってはおかないだろ う‥‥そんな女性がいた。 「わたしは‥‥あなたを‥‥護ります」 いつも同じ言葉が続けて唱えられた。 「だから‥‥わたしを‥‥護って‥‥ください」 そうすれば、想いが適うかのように‥‥だがマリアはすぐに思い直すのだった。 自分一人の人ではないことは、始めからわかっていた。自分だけが必要としてい る人ではない。わかっていた。けど、自分は女なのだと‥‥気付いてしまったか ら。そして、同じ仕草を繰り返す‥‥毎日。朝ごと。夜ごと。身体に触れ、唇に 触れ、‥‥そして、ベッドに横たわる。身体を丸める‥‥赤子のように。 花の香り‥‥ それはマリアの香り。 ‥‥花の香りがする‥‥香水?‥‥ 給湯室で大神が寄り添って言った言葉。あの日以来、あやめの香水は必ず毎日つ けていた。それが‥‥毎日唱える言葉に必要な聖水のような気がしたから。寒い 部屋にマリアの香りだけが、暖かく漂っていた。目を閉じれば、そこは冬ではな く、間違いなく春だった。 そして‥‥マリアは立ち上がる。今は夜ではなかった。舞台が待っていたから。 「ぬぬぬ、大神さ‥‥あれ?」 てっきりサロンにいるものとばかり思っていた二人は、肩透かしを食らった。さ くらはロビーを出て、すかさず大神の部屋へと向かった。すみれも後を追おうと したが、窓際に何やら気配を感じて立ち止まった。どうもソファの裏側から感じ とれる。その窓際のソファ裏に廻って‥‥ 「‥‥見ぃぃつっけたっ‥‥ありゃ?」 そこにいたのはカンナだった。2メートルあまりの長身を、狭い窓際の壁とソフ ァの間に挟み込ませて、何やら探し物でもしていたようだ。 「ちっ、猿か‥‥」 「‥‥あんだよ‥‥たしか、隊長はここいらだったと‥‥」 「‥‥今なんと?」 カンナの弁によると、大神がこのあたりで何か落とし物をしたらしい。銀時計と いい、よく物を落とす人だ、とすみれは可笑しくなった。今度は少し小さいもの だった。カフスらしい。カンナが真面目に捜しまくっているのを、妙に不信に思 ったすみれが問い詰めると、発見した暁には煉瓦亭で御馳走して貰えるというご 褒美付きによるものっだった。 「なんとか開演前までに‥‥」 「‥‥デートの権利は‥‥この、わたくしが頂きましたわっ!」 すみれは這い蹲って探し始めた。 ドンドン‥‥ドンドン‥‥ 「‥‥大神さん‥‥いるのはわかってるんですっ。開けてください」 「ちょっと待って‥‥」 「むむむ‥‥あの手紙を‥‥隠してるんだわ‥‥」 「お待たせ‥‥‥‥こ、怖い‥‥」 「怖い?‥‥わたしが?‥‥わたしの顔が怖い?‥‥このわたしが?‥‥」 「な、なぜゆえ‥‥」 「‥‥‥‥」 「あ、あの‥‥入らないかい?‥‥か、開演には時間があると‥‥思うし‥‥」 「‥‥‥‥」 さくらはずかずかと大神の部屋へ入っていった。顔色の変わる大神を尻目に、さ くらは部屋を物色することに努めた。じっと見回す。机の上。ベッド。‥‥な い。 「な、なんかさ‥‥は、初めてここに来たときも‥‥こ、こうしたような気がす るよね‥‥」 「‥‥‥‥」 「さ、さくらくんのことを、き、聞きたいな‥‥なーんて‥‥‥‥ひいぃ」 さくらは振り返った。標的を発見した模様だ。 「‥‥あれ‥‥なんですかあ」 「は、はい?」 「なあんか‥‥机の引きだしから‥‥はみ出してますけどお」 「い、いや、あれはね、あれは‥‥」 「うふふ‥‥わたしが入れといてあげますねえ‥‥」 「わーっ、ま、待って‥‥」 さくらは自らの身体でもって大神を遮断した。大神が必死になって、さくらの背 後から所望の物件を奪い返そうとする。 「いやあん‥‥大神さんのエッチ‥‥ふふっ、どれどれ‥‥」 怯んだ大神を傍目に、じっくりと閲覧に入るさくら。 拝啓 大神一郎様。 突然のお手紙、ご迷惑でしたでしょうか。 先だっての手紙では、名乗らずにご無礼しました。 わたしは藤枝杏華と申します。名前は、きょうか、と読みます。 わたしは舞台が好きで、花組の方たちの公演をいつも拝見してます。 一番好きなのは”愛ゆえに”です。 真宮寺さくらさんの街娘、わたし大好きです。 大神さんはさくらさんとは仲がよろしいのですか? あ、すいません、こんなこと書いて‥‥ わたし、さくらさんのファンです。 でも、やっぱり‥‥わたし、モギリの大神さんが‥‥一番好きです。 あの、もしよろしかったら、一度会って頂けませんか。 大神さんのこと、もっとよく知りたいのです。 また、劇場に伺います。 その時に‥‥返事をください。 わたし、楽しみにしてます。                かしこ 「ふーん‥‥」 「あは、あはははは‥‥な、なんか、さくらくんのま、街娘、すごく好きみたい だね。いやあ、結構気が合うかも‥‥うっ」 「ほー‥‥」 「お、俺とさくらくんが、その、な、仲がいいなんてねえ、そんなこと‥‥が っ」 「‥‥‥‥」 「あ、ああ、あの‥‥そ、そろそろモギらないと‥‥」 「‥‥‥‥」 「あ、あの‥‥」 「‥‥わたしが舞台に立っている間に‥‥密会する、ってことは‥‥?」 「‥‥ないです」 「よしっ。じゃあ、わたしも舞台に行こうっと」 「はひぃ‥‥」 大神はロビーに、さくらは舞台袖に向かった。 「み、見つかりませんわ‥‥ほ、ほんとにカフスですの、カンナさん」 「おっかしいなあ‥‥ここじゃねえのかなあ‥‥」 「むむむ‥‥先を越されては‥‥」 「‥‥あれ‥‥おーい、二人とも、もうそろそろ舞台に行かないと‥‥」 「あ、隊長‥‥だめだよ、見つかんねえ」 「は?」 「た、大尉のカフス‥‥み、見つけたら‥‥デ、デー‥‥」 「カフス‥‥あ、あれか。マリアが見つけてくれた。悪かったね、二人とも‥ ‥」 大神はあっさりと言ってロビーに向かって歩いていった。すみれとカンナは汗だ くになった格好でぽかんと見送る。 「くっそー、先越されたか‥‥もっと早く起きてりゃ‥‥」 「な、なんて‥‥ことですの‥‥」 舞台は表幕が引かれ、内側にスポットライトの一部が焚かれていた。そのスポッ トにアイリスが立っていた。アイリスも”愛ゆえに”が一番好きな演目だった。 紅蘭との主役共演である”大恐竜島”も好きだが、”愛ゆえに”の配役が大のお 気に入りだったからだ。 ‥‥ふふふ‥‥妖精のようだったな‥‥ 初めて舞台を見た神凪の評価。それはアイリスにとって、未だ残る幼心をいたく 刺激した。大神の言葉とは少し違って、そこはお兄ちゃんのお兄ちゃん、という 位置付けがモノを言った。大神には女性として見てもらいたい。神凪には娘、妹 として見てもらいたい。あえて言えばそのような感覚。そして、神凪の評価はそ れにぴったりとはまった。 「あら‥‥アイリス、ここにいたの。いつもは楽屋にいるのに‥‥」 「あ、マリア‥‥へへへ、歌の練習」 「ふふ‥‥」 「‥‥アイリスも‥‥街娘、やってみたいな‥‥」 「‥‥焦らなくても、その時はくるわよ。わたしなんかアイリスの役、やりたく てもできないもの‥‥みんなもね」 「‥‥うん。そうだよね‥‥アイリス、がんばる」 「ふふふ‥‥」 マリアとアイリスは連れ立って楽屋に戻っていった。 「‥‥すぐにでも起動できそうだな」 「わざわざ司令自ら視察かな‥‥」 「ん?‥‥これはこれは‥‥お久しぶりですね」 「元気そうでなにより‥‥君からの電話の後、米田さんからも連絡があってね」 神崎重工・川崎研究所。試作品保管倉庫のさらに奥、10メートル四方を二重防 護壁で囲んだ大型コンテナのような建物がある。神凪は、そこに労るように置か れてある紫色の霊子甲冑を見ていた。総帥である神崎忠義が来たのも、神凪が着 いて間も無くのことだった。二人はしばらく、その甲冑を見つめてから、会話を 続けた。 「‥‥先の失態は申し開きもできんな。外部に漏洩するとは‥‥醜態だよ」 「まあ、ここだけではありませんから。これまでの技術は全て向こうの手中にあ る‥‥そう思っていいでしょうね。無論わたしの試作品に関しても、です」 「ふむ‥‥」 「そこで‥‥この娘さんを預かるにあたって‥‥少し、手の込んだ化粧をしたい な、と」 「‥‥あまり、派手にせんでくれよ」 「ふっ‥‥お孫さんによく似合う装いにしましょう」 「‥‥できれば動かしたくはなかったがね‥‥そうだ、米田さんからの電話の件 なんだが、先の贈り物はもう‥‥」 「ええ。青い機体と一緒に‥‥」 「それとは別に、もう一つ送ろう。その依頼があってね」 「ほう‥‥」 「李紅蘭女史、そして、大神君のための、な」 「‥‥紅蘭の?」 「大神君のほうは察しがついてると思うが、李紅蘭女史については、以前彼女か ら預かっておいたものがあるんだよ。その時は、使わない、と言っていたが‥‥ それも、七瀬とともに送るよ」 「わかりました」 「それと‥‥」 「?」 「もしかしたら‥‥客人が銀座に伺うやもしれん‥‥その折りはよろしく‥‥」 「はあ?」 「‥‥これは個人的なことだが」 神崎忠義は再び七瀬を見つめた。目の色が神埼重工の会長としてのそれではなく なっていた。察しがついた神凪が、先取りして言葉にした。 「すみれくんは元気でやっていますよ‥‥ふふふ‥‥彼女の存在なくして、花組 は語れませんからね」 「そうか‥‥」 「一度劇場のほうへいらしてみては?」 「以前同じことを米田さんからも言われたよ‥‥」 「‥‥劇場は‥‥舞台はいいですよ。できれば‥‥ずっと支配人でいたいもので すね‥‥」 「ほう‥‥‥‥ふふふ‥‥」 「ん?」 「いや、失敬‥‥君にそんな顔をさせるとは‥‥確かに一度会ってみたいもんだ な。すみれのこともあるし‥‥特に大神くんにはね」 「‥‥見てて楽しいですよ、あの娘たちは。大神が絡むと特に」 「ふっ‥‥やはり、あれかね‥‥すみれは大神君のこと‥‥」 「‥‥なかなか前途多難のようですよ。まわりも黙って見ている訳がないですし ね」 「そうだろうな‥‥すみれの応援はしてやりたいが‥‥親馬鹿かな」 「いえ‥‥」 蒸気音が響いていた。研究所の敷地内を行き交う人はいない。明るい蒼穹と柔ら かい風、路にその影を落とす白い建物。敷地は広く、所々、木々の緑が無機質な 建築物の群れを彩るように植え込まれている。おかげで差し込む陽光も随分と柔 らかい。神凪は神崎と別れた後、その木々の緑を堪能するように、ゆっくりと帰 宅の途についた。 門の前まで来ると、一人の女性が守衛所に立っていた。白い‥‥いや銀色のチャ イナドレスを着た髪が短めの女性。15、6歳前後の少女のようだった。普通の 洋服を着れば、それ相応の可憐さを醸し出すのであろうが‥‥そのチャイナドレ スは熟成した女性の匂いを、その少女に転写していた。 「あの‥‥」 「はい?‥‥あれ‥‥君は‥‥さっき劇場で見掛けたような‥‥」 「わたし‥‥藤枝杏華と申します‥‥」 「ふじえだ‥‥きょうか、さん‥‥」 「はい‥‥」 「‥‥あ‥‥そう言えば、あやめくん‥‥」 「妹です。血はつながっていませんけど‥‥」 「そうか‥‥聞いたことがあるな‥‥‥‥わたしを待っていたのかい?」 「はい‥‥」 「‥‥随分若く見えるけど‥‥歳は違うでしょ?」 「‥‥はい」 その少女は頬を赤くしてうつ向いた。手をドレスの前でもじもじさせて‥‥匂い 立つ艶やかな外見とは裏腹に、表情と仕草は少女そのもの。あやめの妹と称した その少女は、血はつながっていない、と言うだけあって、顔立ちはあやめとはま るで違う。寧ろ‥‥そのチャイナドレスからも、何か紅蘭とどこか似ている。話 し方や身体全体から漂う色艶は全く違うが。 「‥‥これから‥‥劇場に戻るんだけど‥‥いっしょにどう?」 「いいんですか?」 「話は歩きながらしようか。ほんとは大神にも会いたいんでしょ」 「そ、そんな‥‥」 「ふふ‥‥では、参りましょうか、杏華さん」 「は、はい」 晴れた蒼穹に少し雲がかかってきた。風も少し強くなる。木々の緑も‥‥どうい うわけか瞬間色あせて見えた。その少女‥‥杏華の表情も少しだけ暗くなっいる ように見える。日差しの光量の低下によるものではなさそうだ。まるで、何かに 怯えているかのようだった。


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Uploaded 1997.11.06




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