<その2>



舞台が始まった。午前10時を少し廻ったところ。ロビーには人影はもうなかっ

た。げっそりと疲れ果て肩をがっくりと落とすモギリの大神と、売店の一過が終

わった椿だけがそこにいた。舞台の上で舞う少女たちの声が、ここまで聞こえて

くる。整理も一通り終わった椿が、いつものように、大神に声をかける。

「お疲れ様でした、大神さん」

『‥‥暁蓮さん‥‥全然姿見せないなあ‥‥‥‥もう一度、会いたいなあ‥‥』



‥‥忘れないで‥‥‥‥次に会う時こそ‥‥わたしは‥‥あなたのもの‥‥

『はああ‥‥‥‥しゃお‥‥れん‥‥さん‥‥』

大神は、見る者がいたら鳥肌を立てるような惚気た顔をしていた。横で見ていた

椿は、当事者だけに大神が何を考えているのか一瞬で理解した。

「待っていたって来ませんよっ‥‥さあ、事務室へ行きましょっ」

椿は半ばむっとしながら、大神を引きずるようにして事務室へ向かった。お茶と

肴になる四方山話を堪能するため。



「あ、いらっしゃい、お二人さん。お茶入れますから休んでいって下さい」

事務室に行くとかすみがお茶を入れてくれた。大神はそこで、ふとおかしなこと

を考えた。そう言えば由里くんがお茶を入れてくれたことなんて‥‥ないな。湯

呑みに口をつけながら、大神は視線を由里に送った。由里はモギったチケットの

数合わせに邁進していた。なるほど‥‥と大神は納得した。仕事の早い由里は、

見てる間に大神の処遇の如何‥‥つまり、雷を落とすか否かを判定していた。大

神は口にしたお茶を音をたてて飲み込んだ。

「はい、ご苦労様でした、大神さんっ」

「ほっ‥‥」

「でも‥‥いつもながら、”愛ゆえに”の公演月はすごいですね。前売りがすぐ

になくなりますよ」

確かに”愛ゆえに”の公演月は、他の演目が開催されている時より遥かに客の出

入りが激しい。人気があるのはいいんだけど‥‥あのドバーッと切符を突き出し

てくるの、なんとかならないかなあ‥‥と、大神はその月になると決まった愚痴

を吐く。

「あはは‥‥あ、そうそう、大神さん、”愛ゆえに”と言えばマリアさんのこと

なんですけど‥‥」

「え、なに?」

「あのね‥‥実はこの間シャワー室で一緒になっちゃって‥‥」

「‥‥ゆ、由里くんも‥‥下のシャワー室使うのかい?」

「え?ええ、たまにですけどね」

『し、しまった‥‥知らなかった‥‥俺としたことが‥‥』

「?‥‥それでね、うっかり覗いちゃったんですよね、マリアさんのか・ら・

だ」

「由里ったら‥‥」

「‥‥‥‥」

困った顔のかすみ、顔が緩みきってる大神、それを見つめる椿。

「はああ‥‥すっごいきれいだったなあ‥‥胸なんかすっごい柔らかそうで。雪

のように白くて‥‥わたし、嫉妬しちゃうわ‥‥」

「ごくん‥‥」

「マリアさん、好きな人でもいるのかなあ‥‥」

「ど、どして?」

「‥‥なんか、その人に抱かれてるみたいな感じで‥‥身体抱きしめて‥‥シャ

ワー浴びてたもん‥‥いいわあ‥‥」

「へ、へえ‥‥」

「大神さん、だらしないですよっ、顔っ」

椿がむっとして訴えた。かすみは相変わらず困った表情をしている。

「椿‥‥やきもち妬いてるの?」

「ち、違いますよ‥‥」

「ふーん‥‥ちなみに大神さんて、どんな女の子が好みなの?」

「‥‥え?」

「好きな女の子のタイプですよ‥‥マリアさん?‥‥それとも椿みたいな幼い

子?」

「ちょ、ちょっと、由里さん‥‥」

「‥‥‥‥」

大神は真剣に悩んだ。悩んだというのは、どちらを選ぶという問題ではなく、そ

の場をどうやって切り抜けるか、ということだった。帝劇に赴任してすぐ‥‥

‥‥少尉はわたくしとさくらさん、どちらが好みですの‥‥

で、思わず‥‥

‥‥俺はさくらくんが好みだな‥‥

などと軽々しく答えてしまった。あの後のすみれのご機嫌の悪さと言ったら‥‥

それは普通の人だったら、そう回答してしかるべき、と大神はあの後自ら慰め

た。

わざわざ上野公園まで向かえに来て、モギリの仕事に就くまで一緒にいてくれた

さくら。対して、すみれは‥‥

‥‥そこに落ちたスプーン拾って、新しいものと取り替えてくださらないこと‥

‥

で、むっとして拒否すると‥‥

‥‥クビです!支配人に報告して、すぐにクビにしてもらいます!‥‥

と、きたもんだ。

‥‥大神さん‥‥もうっ、大神さんたら‥‥‥さくらくん、かわいいよなあ‥‥



‥‥小川少尉‥‥緒方少尉‥‥おーほっほっほ‥‥‥すみれくんってば、はああ

‥‥

さくらくんを選ぶのは、あの時点では当然でしょ?、と泣きたいところだった。

勿論すみれの魅力は、その後時を重ねるごとに如何なく発揮されたが‥‥

大神は窮地に立たされていた。ここにはマリアはいない。だから椿と答えればい

い、というわけには行かない。目の前には殆ど九官鳥の由里がいる。

『‥‥どうする‥‥どうするんだ、大神一郎‥‥‥‥くうう‥‥』

椿が頬を赤く染めて大神をじっと横目で見つめていた。朝の淡い想いがふっと首

を擡げ始めていた。



コンコン‥‥

「はい‥‥どうぞ」

「‥‥失礼します」

山崎が入ってきた。

「あ、みなさんおそろいで‥‥」

「‥‥‥‥」

大神はまだ悩んでいた。

「‥‥大神さん、ちょっといいですか?」

「‥‥‥‥」

「大神さん?」

「‥‥え?‥‥あ、山崎、どしたの?」

「ちょっと手貸してもらえませんか。司令がいないんで、二人でやるとこができ

な‥‥」

「!‥‥よーし、防御は俺にまかせろっ!」

大神は訳のわからない事を言って、速攻で事務室を出ていった。大神にしてみれ

ば山崎の到来は、天の助けに等しかったが‥‥

「ちぇっ、逃げられちゃったわね‥‥」

「あ、でも、わたし‥‥なんか‥‥うれしいです‥‥」

「は?‥‥なんで、椿」

「わたしなんかと‥‥マリアさん‥‥比べられるわけないのに‥‥あんなに悩ん

でくれて‥‥」

「ほほう‥‥なるほど、そういう見方もあるか‥‥ひひひ‥‥」

「由里ったら‥‥おかしな事言い降らしちゃだめよ」

「ひひひ‥‥」

と、いうことになってしまっていた。選択肢の中に最適解がなければ無言で答え

ればよい、という訳でもないらしい。

「あの‥‥いったい何の‥‥」

「いやいや‥‥なんでもありませんわよ、山崎さん‥‥ひっひっひ」

「?‥‥??」





「どこ‥‥持ってればいいんだ?」

「そこの黄色い部分を‥‥そのまま動かさないで‥‥」

「はいな‥‥」

大神と山崎は地下格納庫で、アイリスの機体にエンジンを取付ける作業をしてい

た。無論搬送はクレーンで行うが、位置補正を人が行う必要が当然ある。山吹色

の機体に取付けるエンジンは、ずいぶんコンパクトに仕上がっていた‥‥光武な

みだった。大神が山崎に聞くと、見かけはそうだが、中身はれっきとした直列二

基の併用エンジンとのことだった。しかも、アイリス専用のチューニングが施さ

れているらしい。

「‥‥蒸気併用機関の霊子力の割合を8割にしたと言ってましたよ」

「霊力に依存する割合が高くなってるのか‥‥」

「ええ‥‥それがどういうことなのかは‥‥結果をごろうじろってところでしょ

うね、司令の場合」

「なるほどね‥‥‥‥ん?‥‥あのさ‥‥」

「はい?」

「‥‥こいつ、なんか普通と違わないか?」

「へえ‥‥大神さん、なかなか見る目がありますね」

「からかうなよ‥‥この天辺にあるの‥‥ん‥‥なんだこれ‥‥羽でもつけるの

か?それに‥‥細いな、なんか」

山崎は舌を巻いた。今朝になって初めて自分も気付いたところを、大神は一目見

てその全てを指摘した。まだほとんど骨と臓器の一部がついているだけだという

のに。

「こりゃいったい‥‥なんか神武に見えなくなるんでは‥‥」

「‥‥わたしも‥‥そんな気がしますよ」

「うーむ‥‥でも、カンナや山崎の機体、それにあの黒い神武を見る限り、半端

ではないんだろうな」

大神が言う通り、神凪のチューニング方法‥‥つまり霊子甲冑への手の入れ方と

いうのは独特だった。まず基本的にはパワーを大幅に上げる。そして、乗り手に

合ったスタイルに仕上げる‥‥それは武装にしても、運用方法にしても。故に二

つと似通ったものがない。

「アイリス機は、司令の指示で直接はわたしが手を下してますが、詳細は司令だ

けが知るところですね。アイリスの能力‥‥たぶん開発途中の領域まで見越して

設計してるんだと思います」

「アイリスの力か‥‥」

「大神さんの機体については、わたしは全くわかりません。とりあえず、一昨日

の時点で解体まではいってますが、それ以降は司令一人だけで‥‥着任した日に

おっしゃった通りですね」

「兄さん‥‥」

「心配しないでください。なるべく早めに仕上げますから‥‥あ、もう大丈夫で

すよ。ありがとうございました」

「あ、ああ‥‥」

大神は歯切れが悪い応答をして、アイリス機を離れた。そして、自分の乗るべき

機体を見つめる。純白の装甲は影も形もない。まさに骨だけだった。ただし、そ

の骨には恐るべき補強が施されているのだけは、大神にもわかった。フレームだ

けでも戦闘ができそうな雰囲気だ。



その反対側‥‥地下格納庫はそれほど明るくはないが、特にそこだけ光が当たっ

ていないような暗闇があったために、大神は自然と目がそこに移った。カンナ機

の試験運用時には気づかなかった、漆黒の霊子甲冑。大神はふとそれに目が止っ

た。試作型神武‥‥零式と呼ばれるその黒い影の瞳が‥‥まるでそれに応じるよ

うに‥‥大神の視線を受けて閃いた。

大神はその黒い神武に向かってゆっくりと歩きだした。なぜか‥‥妙に心を惹か

れた。大神が近寄るに従い、閃きは強さを増す。そして真正面からそれを見る。

単眼は閃きではなく、もう輝いていた。

「!‥‥大神さん‥‥」

大神は目を細めて零式の瞳を見ている。零式は‥‥ゆっくりと‥‥動きだした。



「!!‥‥まさか‥‥大神さんをも‥‥選んだのか‥‥」

山崎は凍り付いてその状況を見つめていた。零式は、まるでお辞儀でもするかの

ように、膝を折ってしゃがんだ。そして‥‥ハッチを開けた。

乗ってくれ‥‥零式はそう言っているかのようだった。大神は躊躇わずに乗っ

た。コックピットの感触は、まるで自分のために造られたかのようにしっくりと

していた。シートもグリップも。兄である麗一が使っているのだから、当たり前

か‥‥とも思ったが、そこでいきなりハッチが閉まった。そして何もしなくとも

エンジンに火が入った。カンナ機の爆発的な起動音とは全く違う、静かな、楽器

を奏でるような音。計器類が点灯する。周りが見えた。スクリーンに写る格納庫

の映像は、自分の純白の神武に乗って見るそれより、何か霞がかかっているよう

にも思えた。‥‥山崎がこちらを見ている。シートに背をあずける。優しく、そ

してあたたかい‥‥母体のようなコクピットだった。

何か低音の‥‥泣き声のような音がした。

刹那、大神の身体に何か得体のしれない力が流れ込んできた。それは母体のイメ

ージとは掛け離れたものだった。かつて腹の底にわだかまっていたもの‥‥波打

っていたものが、急速に嵐のように吹き荒れてきた。身体が熱い‥‥じっとして

いられない‥‥そんな衝動が大神の中に溢れてきた。



頭の中に何かが聞こえてきた。

‥‥解放しろ‥‥‥‥倒せ‥‥‥我とともに‥‥‥

「なんだこれは‥‥」

大神は思わず声にした。

「だれだお前は‥‥」

‥‥我は主とともにある‥‥‥‥我を駆れ‥‥‥我と奔れ‥‥‥

「お前は‥‥」

‥‥我は無なり‥‥‥‥我は零‥‥‥

大神は耐えた。猛烈な衝動だった。

怒りの波動‥‥殺意の霊気‥‥破壊する力‥‥それを全て解放する。それはかつ

て花やしきで大神が放った衝動だった。愛しい人を汚す者‥‥即ち死。大切な人

を奪う者‥‥即ち滅。

‥‥殺す‥‥殺す‥‥殺す‥‥殺す‥‥殺す‥‥殺す‥‥殺す‥‥

大神の表情に葛藤の色が浮かび上がる。

怒りと喜び。殺意と保護。破壊と再生。‥‥それは帝国華撃団、そして帝国歌劇

団そのものだったのかもしれない。喜びを奪われた怒り。護るために実践する‥

‥護れなかった自分への怒り。そして生まれ変わるために破壊する。

虚無の世界。破壊することの快楽。荒涼とした死の空間。破滅。死。何も残らな

い。死の大地をまた破壊する。意思の破壊。自らの死‥滅‥滅‥滅‥滅‥滅‥滅

‥滅‥滅‥‥

大神の額に汗が浮き出てきた。恐るべき霊力の奔流が渦を巻く。破壊の霊力。零

式に黒い稲妻が引き寄せられる。それに共鳴するように、神武たちが命を吹き返

す。最早絶命したはずの紫色の機体ですらも。

身体が燃えるように熱い。

‥‥解放しなければ‥‥‥いや、まだだ‥‥‥‥解放しろ‥‥‥だめだ‥‥

身体が震える。



‥‥お兄ちゃん‥‥

「‥‥アイリス!」

‥‥お兄ちゃんは‥‥一人じゃないの‥‥

「‥‥‥‥」

‥‥お兄ちゃんは‥‥お兄ちゃんなの‥‥

「‥‥うん」



大神の心は、いつかアイリスとベランダから見た夕陽の赤で染まった。世界の終

わりを告げるような夕陽の赤。でも、優しい赤。そして世界の終りを迎えるよう

な零式の闇‥‥しかしその闇も、今は優しい闇であることのように大神には感じ

られていた。そう、身体の奥底から沸き立つ波はもう消えていた。身体から震え

が消えていった。嵐は去った。殺意が消えていった。‥‥護る。愛しい人を護

る。大切な人を護る。コクピットは母の色を取り戻した。



‥‥我は零‥‥‥‥我は主とともにある‥‥‥‥

「ああ‥‥」

‥‥我とともに行け‥‥‥‥我は主を護ろう‥‥‥‥

「ああ!」

怒りは優しさに、殺意は護る強い意思に、そして破壊は再生への喜びに変わっ

た。黒い稲妻が青白い霊光の帯となり、格納庫を照らす。

「お前は零‥‥か」

‥‥我は零‥‥‥‥主を護るためにある‥‥‥‥

「お前は‥‥俺の心がわかるのか」

‥‥我を信じよ‥‥‥‥我は主の意思に従う‥‥‥‥

「お前は‥‥みんなを護ってくれるか」

‥‥我を呼べ‥‥‥‥我は主の意思にある‥‥

「お前は優しいな」

‥‥我は‥‥主のためにある‥‥‥‥

「兄さんのことは‥‥好きか」

‥‥我は主によって創られた‥‥‥我は主となる者を受け入れる‥‥‥

「ふふ‥‥だからか‥‥」

‥‥我は主によって生まれる‥‥‥我を信じよ‥‥我を呼べ‥‥再び主を護ろう

‥‥‥



声は消えた。

大神は改めてコクピットを見渡した。やはり、いつも乗る純白の神武のそれとは

少し違う。漆黒の中で煌めく計器‥‥夜空を思わせた。今一度シートに身体をあ

ずける。体温が感じられる。このまま眠りに入ってしまいそうだ。ふいに目を擦

るように、左手を上げる意思が働く。零式の左手がすっと持ち上げられる‥‥音

もなく。大神は目を閉じた‥‥眠る意思を示す。すると‥‥零式の火は消えた。



ハッチが開く。大神は零式からゆっくりと降りた。そして、再びその漆黒の霊子

甲冑を見た。

「零式‥‥」

ハッチが閉じられた。

ゆっくりと元の場所に移動する。



「だ、大丈夫‥‥ですか‥‥」

「うん‥‥試されたのかな‥‥」

「‥‥‥‥」

「俺の神武は‥‥こいつと近い甲冑になる、と言ってたよな‥‥兄さん」

「ええ‥‥」

「零、か‥‥お前は兄さんを護れ‥‥兄さんが護る人を護れ‥‥」

零式の単眼が閃いた。‥‥主の指示に従うかのように。

「‥‥なんだか‥‥えらいものを見てしまった‥‥気がする」

「ん?‥‥なんで?」

「零式が‥‥司令以外を受け入れるなんて‥‥こんなこと、初めてですよ‥‥」



「ははは‥‥やっぱ、弟だからかな」

二人は零式を見た。闇に溶けていた霊子甲冑は、今やその漆黒の外郭を艶やかに

輝かせていた。





「‥‥どうしました、アイリス」

「えっ‥‥ううん、なんでもない‥‥」

舞台はフィナーレに差しかかった。アイリス、すみれ、カンナは舞台袖で待機。

アイリスの様子が一瞬普通ではなくなったのを、すみれが間髪入れず見抜いた。

‥‥何か遠くを見るような目つきだった。

『‥‥お兄ちゃん‥‥アイリスを呼んだ気がしたんだけど‥‥』

エンディングが流れた。もうすぐ舞台に揃い踏みだ。

「‥‥あ、ちょうどフィナーレだね」

大神が舞台袖にやってきた。

「あ、お兄ちゃん‥‥」

「ん‥‥どうした、アイリス‥‥」

アイリスは大神の目をじっと見つめた。大神は優しい瞳でアイリスを見返す。

「‥‥ううん‥‥えへへ、ちゃんとアイリスの歌、聞いててくれなきゃ‥‥だめ

だよ」

「ごめんね‥‥あ、出番だね‥‥さ、みんな、よろしく」

舞台の上は花吹雪が舞っていた。







午前の公演がある日の昼下がりのサロンは、長閑かな雰囲気で覆われる‥‥いつ

もは。この日も少女たちが集い、舞台の反省がてらお茶を嗜む一時が過ぎてい

た。和やかな時間の終焉を知らせるように、マリアが戻ってきた。無論それは大

神ただ一人にとってであるが。

「‥‥どうしたんですか、マリアさん。なんか‥‥怖いです、けど‥‥」

「マリア、怖いよー‥‥」

「‥‥怖い?‥‥わたしが?‥‥わたしの顔が?‥‥」

「げっ‥‥なんか‥‥」

大神は引き攣った。どうも‥‥最近のマリアは、思っていることがすぐ顔に現れ

る傾向がある。以前の彼女では信じられないことだが‥‥

珍しく由里が入ってきた。後ろには売店業務を終えた椿と、事務も一段落したら

しく、かすみもいた。なぜか椿は顔が赤い。サロンはあっというまに渋滞となっ

た。マリアはソファに座っていた大神のすぐ横の隙間‥‥すみれとの間にズイッ

と入り込んだ。すみれが膨れっ面で反応する。マリアはそんなすみれなどお構い

なしに大神を睨み付けた。

「‥‥どういうことでしょう、大神さん」

「は、はい?」

「わたしと椿を天秤にかけてるということですっ!」

「ええっ!?」

頭の中が真白になった。少女たちの視線が一瞬で大神に集中する。

「ほー‥‥それはまた‥‥へー‥‥ふーん‥‥さっきの手紙といい‥‥はーん?

‥‥」

「ぬぬぬ‥‥モギリと‥‥副司令と‥‥売店の売り子と‥‥悪行三昧、最早‥

‥」

「アイリス、子供じゃないもん‥‥アイリス、怒ったもん‥‥ガオオオーーッ

!」

「ち、ちっ‥‥けっ‥‥へっ‥‥あ〜あっとくらあ‥‥けっ‥‥ちぇっ‥‥くそ

っ‥‥」

「わたしなんか、わたしなんか、わたしなんか、わたしなんか、わたしなんか‥

‥」

「‥‥‥‥」

「わたし、まだ子供なのに‥‥そんな‥‥大神さん、こんな年下で‥‥いいんで

すか‥‥」

「‥‥‥‥」

「ふーん‥‥なるほどねえ‥‥へええ‥‥いいですよねえ‥‥ほほほほほ‥‥ふ

ーん‥‥」

「ぶつぶつ‥‥わたくしを玩んで‥‥ぶつぶつ‥‥呪ってやる‥‥オンキリキリ

バサラ‥‥」

「いやだもん、子供じゃないもん、あと5年たったら、大人だもん、子供じゃな

くなるもん‥‥」

「くるるっぱはあってかあ‥‥ちっ‥‥けっ‥‥そういうことかい‥‥ちぇっ‥

‥ちきしょ‥‥」

「愛とは‥‥儚いものなのか‥‥ふっ‥‥わたしなんか、わたしなんか、わたし

なんか‥‥」

「‥‥‥‥」

「やだ‥‥どうしよう‥‥あ、そうだ、いつか煉瓦亭に誘ってくれるって‥‥う

れしい‥‥」

「‥‥‥‥」

かすみと由里は入り口付近で立往生していた。さすがにこれはマズイと思ったよ

うだ。

「やばいわ‥‥これは‥‥」

「こうなると思ったのよ。大神さん、しっかりして‥‥あら、ら‥‥」

既に目がいっている。

「‥‥撤退よ、かすみさんっ」

「ちょ、ちょっと‥‥」





神凪が杏華を連れ立って帰還した。サロンに向かう広い階段を登る途中、ものす

ごい速度で由里とかすみが擦り抜けていく。杏華は神凪の真後ろにぴったろと寄

り添っていたため難を逃れたが、危うく転げ落ちそうになった。

「な、なんだよ、あの娘たちは‥‥あ、サロンに行こう、紹介するから」

「は、はい‥‥」

杏華はもじもじしながらうつ向くだけだった。

「よーっ、皆の衆、そろってるか‥‥んがっ」

むおんとした空気がすかさず神凪に降りかかった。椿は相変らずほかほかし、椅

子に腰掛けてお茶を飲んでいた。大神は勿論、瀕死の状態。朦朧としていた椿だ

が、神凪の後ろにいる少女に気付いたようだった。

「‥‥お、おう、大神、大神っ!‥‥お客さんだよっ、相手してくれ、おいっ」



「‥‥‥‥」

神凪は止むを得ず、抜き足で大神を引き抜きに移動したことによって、杏華はそ

の全貌をサロンにいる少女たちの前に現した。

「あ‥‥あなた‥‥」

「ほー‥‥‥ん?」「オンキリキリ‥‥ん?」

視線は椿のそれを追って、杏華に注がれた。

「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」

即ちドア側から、さくら、アイリス、大神を抜いてマリア、すみれ、椅子のカン

ナ、椿。‥‥杏華は、大人の身体の線と面を萎縮しつつ、顔はさらに赤くなり、

目を開くことができない。

「ほれ、大神、お前のお客さんだよ、劇場でも案内してやれ‥‥‥‥おいっ」

「は‥‥はひ‥‥‥‥あ‥‥君は‥‥」

「あ、あの、け、今朝は、あの‥‥どう、も‥‥」

「杏華‥‥さん?」

「お手紙、読んで‥‥くださったんですね‥‥うれしい‥‥」

「あ、いやあ、そんな‥‥‥‥うっ‥‥さ、さあ、劇場をご案内しましょうっ

!」

大神は杏華の手をとり、速攻でサロンを後にした。

「ふむふむ、よかった、よかった、さて‥‥がっ」

「‥‥まあ‥‥お茶でも‥‥飲んで‥‥いけや‥‥支配人‥‥」

「‥‥こちらへ‥‥いらして‥‥くださいな‥‥」

「‥‥時間はたっぷりありますから‥‥ねえ、支配人‥‥」

「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」

正面に無言で立つ、右から椿、マリア、アイリス。背後からがっしりとカンナに

肩を掴まれ、両脇をさくらとすみれに抱えられる神凪。

「わ、訳を‥‥訳を‥‥説明させてくれ‥‥た、頼む‥‥」





「ここが舞台袖だよ。ここで舞台を見ながら、次の出番の役者さんが待機するん

だ」

「へえ、客席から見るのと全然違う‥‥」

「ふふ‥‥背景裏を見てごらん」

「あ、人が入れる隙間が‥‥結構広い‥‥」

「うん。裏方の人‥‥花組の出番がない娘も入るんだけど、台詞のフォローをす

るんだ。やっぱり、長いパートは憶えるの大変だからね」

「へええ、こんなふうになってるんですね‥‥へええ」

顔いっぱいに驚きを表現する杏華を見て、大神は微笑ましくなった。舞台見学に

来た小学生のようだ。

二人は次の部屋に移動した。衣装部屋だった。衣装のサイズは花組の各役者に合

わせて造ってあるため、みんながみんな、同じ物を着れるわけではない。従って

その数は半端ではなかった。

「わああ、すごーい、素敵‥‥わああ、いいなあ‥‥」

杏華は目を輝かせて、部屋いっぱいの衣装に魅入った。大神にしてみれば、なん

だか妹ができたような気分だった。そうだ‥‥せっかく来たんだから、少しぐら

い思い出を創ってもらおう‥‥

「街娘‥‥好きなんだよね、杏華さん」

「は、はい‥‥」

「ふふふ‥‥ちょっと、着てみる?」

「え‥‥えーーーっ!?‥‥そ、そんな、そんな‥‥わたし‥‥」

「えーと、これじゃない、これ、でもない‥‥うーん‥‥おっ、これ‥‥違う‥

‥これだっ」

背丈は‥‥さくらとだいたい同じぐらいだ。

大神は街娘の衣装を持って、杏華に向いた。

そこで、大神はまじまじと杏華の全てを見計らった。

上から‥‥

『へえ‥‥短い髪形もいいなあ‥‥さらさらしてて‥‥』

『うん、かわいい‥‥かなり、かわいいな‥‥相当、かわいいぞ‥‥』

『こ、これは‥‥‥‥り、立派だ‥‥‥‥マリア‥‥並み、かも‥‥』 

『な、なんて華奢な、腰なんだ‥‥‥‥い、いかん‥‥いかんぞ‥‥大神一郎‥

‥』

『こ、これは‥‥な、なんて‥‥脚が‥‥す、素晴らしい‥‥ドレスの切れ目か

ら‥‥』

朝の肌寒さをよける上着がとられ、杏華の身体の線は銀色のチャイナドレスによ

って、少女らしからぬ艶のある装いを呈していた。チャイナドレスを着る三人の

女性‥‥紅蘭、暁蓮、そして杏華。どの一人をとっても、違う魅力を放ってい

た。共通点など見いだせない。が、なぜか‥‥雰囲気はどこか似ているところも

ある。それが何なのか、大神にはわからなかった。ただ単にチャイナドレスに起

因するものでもないような気もする。

「‥‥大神‥‥さん?」

「え‥‥あ、あははは‥‥じゃ、じゃあ、俺、外で待ってるから、着たら呼んで

ね」

「‥‥う、うれしい、です」

大神は部屋の外で待機した。杏華はしばし、その街娘の衣装をうっとりと見つめ

た。





「へー、じゃ、あの娘はあやめさんの‥‥義理?‥‥の妹さん、てことですか」



さくらの問いに神凪が答えた。

「まあね。5年ほど前かな、アメリカに渡った時に知り合ったらしい」

杏華の籍は藤枝家に入れてあるようだった。無論神凪にも詳細はわからない。

「司令は‥‥あやめさんとは付合いがあったのですか?」

マリアがそことなく尋ねた。神凪はそこで銀座に赴任してきた折り開催された歓

迎会の話の続きをすることになった。

神凪が初めてあやめ会ったのは、二度目の大陸渡航の際‥‥ロシアに足を延ば

し、そしてフランスに行った時のことだった。今から5、6年ほど前‥‥所謂、

降魔戦争が終結した後。無論神凪は参加できなかった。

「‥‥もし、司令が‥‥いてくださったら‥‥お父さんは‥‥」

「さくらくん‥‥」

「あ、わたし、なんてばかなこと‥‥すいません‥‥」

神凪はさくらをしばし見つめて‥‥不可思議な感情が沸き上がった。軽い戸惑い

を覚えたが、取敢ず説明を続けた。

当時フランスに遠征したのはシャトーブリアン伯爵家に出向く用事があったため

だが、そこで神凪はあやめと対面することになった。神凪は自分と同期に女性が

いることに驚いたが、それも会ってみて納得した。

「うち‥‥に?」

「そうだよ、アイリス‥‥実は俺、君を引抜きに行ったのさ。歓迎会では言わな

かったけど」

「えーーっ!?」

当時のシャトーブリアン夫妻は、確かにアイリスに対して距離を於いていたが、

それは愛情が欠落していたということではない。理由は勿論アイリスの能力によ

るものだった。神凪はその力が必要な旨、夫妻に何度も直訴した。しかし結果と

しては、あやめに先を越されることになった。夫妻にとっては天秤にかける、な

どというものでは勿論ない。ただ、少なくとも‥‥同じ闘いにあって、少しでも

心を満たされる場所‥‥同じ仲間たちが集う場所‥‥そこでなら、アイリスも‥

‥という願いもあった。愛する娘を手放すことに躊躇いがあることなど、当然と

言えた。

「そ、そうなんだ‥‥」

アイリスは事の真相に驚いていた。勿論あやめのことは知っていたが‥‥

当時の神凪には二人の仲間‥‥部下と呼ぶには幼すぎる、男の子と女の子が傍に

いた。アイリスと同伴することは、神凪にとって特に抵抗があるわけでもなかっ

た。当時のアイリスが聞けば怒るかもしれないが、割と子供好きだったのだ。し

かし、結果はこれでよかったはず‥‥神凪も今にして思えば納得できた。もし自

分が先にアイリスに会っていたら‥‥シャトーブリアン夫妻が自分にアイリスを

あずけていたら‥‥恐らく今はない。



「藤枝あやめ、という女性、みんなのほうがよく知ってるよね‥‥」

降魔戦争の直後ということもあって、当時のあやめには少し翳があった。まだ2

0を少し越えたばかりだというのに。神凪は初めて会ったその女性に妙に惹かれ

た。だがそれも、あまり会話をするでもなく、すぐにあやめは次の目的地に発っ

て行ったため、結局彼女のことを知ることなど出来なかった。

「‥‥その後は‥‥また転々とスカウトに奔ってたみたいだな‥‥」

神凪は再びさくらを見た。先ほど沸き上がったおかしな感情は、未だ心の片隅に

介在していた。少し頭を振って続ける。

「確か、さくらくんは違うはずだったと思うけど」

「‥‥はい」

振りきることが出来なかった‥‥無論不快ではなく、寧ろ穏やかな感情に類する

ものだったが‥‥神凪にしてみれば、それは戒めを解くようなものに思えた。神

凪はマリアを見た。

「彼女が杏華さんと知り合ったのは、たぶんマリアと会った後だったと思うな」



「‥‥そうなんですか」

あやめはその後、アメリカに渡った。フランスでのアイリス獲得に失敗した神凪

は、その後再び中国に戻った。ロシアを経由してみたものの‥‥マリアに会うこ

とは出来なかった。そして、先の戦闘で‥‥中国にいたときに見たことがある‥

‥と言った、その対象の物の怪。中国に戻って早々、その最初の戦闘に出くわし

た。それは先の黒いわだかまりで出現した、精神を食らう物の怪とは違う輩だっ

た。それを始末することが、神凪が中国に派遣された理由の一つでもあったが、

結果的に取り逃がすこととなった。そして3年前‥‥

「‥‥日本に一時帰国した時に再会してね‥‥帝国華撃団の再編成のために」

あやめは副司令、神凪は陸軍七特の指揮官と月組隊長の兼務‥‥しかし、陸軍の

仕事が優先であったため、神凪は再度大陸に渡った。当時は帝国華撃団は、まだ

立ち上げの段階に過ぎなかった。七特の仕事は待ってはくれない。そして、一年

半ほど前に大陸での仕事も一通り片付いた‥‥あのおかしな物の怪どもは結局始

末できないまま‥‥

「帰国したら、いきなり戦争してんるもんだから驚いたが‥‥ま、とりあえず日

本橋に行って‥‥」

「そ、それで‥‥あたいら‥‥助かったのかよ‥‥」

「俺は既に佐官だったが、中尉であるあやめくんは副司令だからね、俺の上司っ

てわけ。行けと言われれば何処にでも行くさ‥‥あん時は総力戦だったらしいか

らな」

「‥‥‥‥」

神凪はすこし自嘲気味に話した。階級の違いなどでは勿論なく、その時のあやめ

の態度が妙に気に入らなかった。昔会った時と‥‥何か違うような気配を感じ

た。その理由は後でわかった。神凪は、自分の勘を信じるべきだったと、あの後

何度も悔やんだ。自分のあの力は‥‥もう帰国した時点で完成されていた。何者

であろうと‥‥たとえ魔界の長であろうと、自分の力で屈服させることは容易く

出来る。それは自己欺瞞ではなく事実であった。”消す”ことに関して、神凪と

比肩しうる存在などこの世界にはなかった。世界の破滅を望めば、それも可能な

男だった。それが、優柔不断が結果的にあやめを‥‥あのような結末に導いた。

不幸か否かは別問題として。

「‥‥その後は‥‥正月までは‥‥落ち着いてたからな‥‥」

神凪の躊躇いがちな話し振りは、勿論少女たちにもよくわかった。何しろ当事者

なのだから。

「‥‥たまたま花やしきでばったり会って‥‥久しぶりに世間話をして‥‥杏華

さんの話もその時にでたのさ‥‥」



少し日差しが穏やかになってきたようだった。随分と長いこと話したような気も

する。いや、そうではなかった。寧ろ、その合間に発生する、懐古の時間が長か

ったと言うべきだった。

「‥‥でも、なんか、あの‥‥可憐な人ですよね‥‥杏華さんて」

椿が嫉妬まじりに呟く。アイリスもなんとなくそんな雰囲気だ。さくらとすみれ

に至っては、話が一区切りした後、再度炎がめらめらと立ち上がってきている。



「ははは‥‥俺も今日、初めて会ったんだけど、いや、あそこまでかわいいとは

‥‥大神ならずとも‥‥うっ」

マリアの刺すような視線で停止した。神凪はもっと重要な提案をするつもりだっ

たのだが、なかなか言い出せる雰囲気ではない。さっきの話の合間にでもすれば

よかったと‥‥と悔やんでも遅い。

「そ、それでね‥‥」

「んぬぬぬ‥‥あの小娘、大尉によからぬ影響を与えるに違いありませんわっ!

きっと身体で‥‥んぐぐぐ‥‥どうしてくれよう‥‥」

「うむむむ‥‥大神さん、あの娘に結構その気があったみたいだし‥‥くくっ、

これは‥‥放ってはおけないわっ‥‥なんとしても阻止しなければ‥‥」

「あ、あのね‥‥」

「大神さん‥‥わたしのこと‥‥幼ければ、だれでもいいのかしら‥‥でも‥‥

あの娘‥‥すごくきれいだったな‥‥はああ‥‥あきらめたほうが‥‥ううん‥

‥わたしは‥‥」

「アイリスだって、あと5年もすれば‥‥3年でも大丈夫かもしれない‥‥う

ん、アイリス絶対負けないはずだもん‥‥夢ではアイリスのほうが勝ってるもん

‥‥」

 「あのー‥‥」

「‥‥あたいは‥‥論外‥‥ってかい‥‥‥‥そーかい‥‥年増は結構ってか‥

‥どうせあたいは‥‥‥‥いや‥‥お、大人の、み、魅力を‥‥」

「‥‥わたし、なんか‥‥わたし‥‥なんか‥‥‥‥わたし、は‥‥手遅れ‥‥

なの‥‥いえ‥‥これは‥‥これは、夢だわ‥‥そうよ‥‥夢‥‥よ‥‥」

「‥‥‥‥」

神凪の背中に冷たい汗がつたった。まさか、これほどとは‥‥帝国歌劇団・花組

を侮ってはいけない。

今、言ってはいけない。

神凪は最早、無口になるしかなかった。





『杏華さん‥‥遅いな‥‥‥‥入ってみる?‥‥‥‥い、いかん‥‥』

大神は衣装部屋ー楽屋ー舞台袖と行ったり来たりを繰り返していた。

『うーむ‥‥顔はアイリス並み‥‥胸はマリア並み‥‥い、いかん‥‥』

今度は衣装部屋ー階段前ー宿直室と行ったり来たりを繰り返した。

『確か暁蓮さんと会ったのと同じ日だったよな‥‥はああ‥‥い、いかん‥‥』



「あ、あの‥‥終わりました、です」

「は、入りますよー‥‥」

大神は衣装部屋の中に入った。頬を赤くそめて含羞む、髪の短い可憐で素朴な美

少女。それはおそらく実在する街娘の姿だったに違いない。さくらとは違った魅

力を醸し出している。

「あ、あの‥‥大神‥‥さん‥‥」

「はああ‥‥いい‥‥すごく‥‥よく、似合う‥‥かわいい‥‥」

「ほんと、ですか‥‥うれしい‥‥大神さんが、そんな‥‥うれしい、です‥

‥」

「はああ‥‥‥‥あ、そうだ‥‥ね、舞台に立ってみてくれないかな」

「えっ‥‥」

「行こう」

「あ‥‥」

杏華の手を握って舞台袖までやってきた大神は、袖元にある幕引きの紐を操作し

て、その舞台を観客席に見えるようにした。誰もいない観客席‥‥まだ感動の余

韻が残っている。

スポットライトを点ける。舞台の中央に白い円卓が浮かび上がった。

杏華はぼーっと目の焦点が合わないまま、舞台を見つめている。

「さあ‥‥行こう‥‥クレモンティーヌ‥‥」

「あ‥‥‥‥‥‥は‥‥い‥‥‥‥オンドレ‥‥様‥‥」

二人の他は誰もいない、誰も見ることのない、公開されない公演。背景はフィナ

ーレのままだった。

「‥‥使命も部下も捨てて逃げ出すわたしなど‥‥最早わたしではない‥‥そん

なわたしを‥‥あなたは愛せるのか?‥‥」

「‥‥オンドレ‥‥様‥‥」

経験者だけに、台詞が淀みなく流れでる大神。そして、舞台に立っているのは、

間違いなくオンドレだった。モギリ服を着たオンドレ‥‥杏華の目の前に立つオ

ンドレ。

舞台を観客席だけで見ていた杏華。そして、舞台に立っているのは、間違いなく

街娘‥‥クレモンティーヌだった。少し幼なげな街娘‥‥大神の手の届くところ

に寄り添う街娘。

大神は杏華を優しく抱きしめた。

「‥‥クレモン‥‥ティーヌ‥‥」

「‥‥オン‥‥ドレ‥‥様‥‥」

大神の温もりが伝わってきた。この時をずっと夢見てきた。そう、これは夢では

ない‥‥わたしは今、確かに大神さんの腕の中にいる。

『大神さん‥‥』



パチパチパチ‥‥

だれもいないはずの観客席から拍手が一つ、響いてきた。

「素晴らしい‥‥さすがですね、大神さん」

「や、山崎‥‥」

「‥‥‥‥」

杏華は真っ赤になって大神から離れた。大神も真っ赤になっている。山崎は整備

を続行していたため、舞台見れなかった。せめてその余韻を味わうために、観客

席で休憩していたようだった。

「‥‥なんか、すごくよかったですよ‥‥だれもいない観客席‥‥音もない‥

‥」

山崎は舞台近くまできた。表情がなぜかうっとりとしている。

「ただ二人の声だけが‥‥聞こえる‥‥‥‥はああ‥‥ここにいた介があった‥

‥」

山崎はそこで街娘の女性が、さくらではないことに気づいた。

「あれ?‥‥ところで、そちらの方は?」

「あの‥‥藤枝杏華、と申します‥‥あの、その‥‥」

「ははーん‥‥大神さん、モギリという立場を利用して‥‥」

「な、なにを‥‥」

「そのとーりですわっ!!」

舞台袖から姿を現す帝国華撃団・花組。フィナーレは、やはり揃い踏みだった。

薄暗い舞台袖に光り輝く5組の眼光。

「こ、これは、撤退するしか‥‥」

山崎はこそこそと退出した。公演は終わったのだから。光り輝く眼光は、その強

さと大きさを増しつつ、いよいよその姿を現し始めた。

円卓を囲む5人の騎士。後ろに控えしは、劇場引き回しの刑に処された神凪。

脅える街娘。そして、脅えるオンドレ。

「‥‥どういうことでしょう」

「‥‥どういうことですの」

「‥‥どういうことですか」

「‥‥なにしてたの」

「‥‥なにしてたんだ」

とりあえず、非公開の公演は終わった。







夕陽が照らす帝劇サロン。

一通りの訊問が終了し、お茶の時間がやってきた。手を膝の上に乗せしょんぼり

とする、大神と杏華。

「‥‥まったく、油断も隙もありませんわね」

「‥‥わたしの‥‥街娘‥‥くすん」

「‥‥アイリスだって‥‥街娘‥‥やりたいもん」

「‥‥く、くそ‥‥そういう手があったとは‥‥」

「‥‥わたしは‥‥わたしの街娘‥‥もう‥‥記憶の彼方へ‥‥」

なんとか場を逃げ出し、整備をしていた神凪が、それも一段落してサロンにやっ

てきた。

やってますな‥‥という表情が顔に描かれている。

「よー、二人とも‥‥なかなか、よかったぜ‥‥今度二人でどう‥‥うげっ」

斬るような視線を浴び、神凪は言葉を確かに斬った。

「‥‥あははは、ま、まあ‥‥その、なんだ、これから一緒なんだし、仲良くや

ろうな」

「は?」

意味がまるでわからなかった少女たちは、間抜けた表情で神凪を見た。神凪は‥

‥杏華に劇場に滞在してもらう旨端的に告げた。その間あやめの部屋に住んでも

らうと‥‥

「えーーーーーーーっ!!!」

「わ、わ‥‥き、聞いてくれよ‥‥」

「ど、どういうことですか!?」

大神は面食らって、神凪を見つめた。

「だ、だから、これから言うってば‥‥」

「ぬぬぬぬ‥‥一緒に住む、しかも部屋は隣同志、これは‥‥これは、認められ

ませんわっ!」

「わたしを‥‥あやめさんの部屋から追い出して‥‥その娘と一緒に‥‥も、も

うだめ‥‥」

「お願い‥‥聞いてちょうだい‥‥」

「アイリスを‥‥アイリスを‥‥アイリスを‥‥一人にしないでえええっ!」

「あががが‥‥く、くっそーっ、やるじゃねえか‥‥ちきしょー‥‥」

「‥‥これは‥‥夢じゃないの?‥‥‥‥そんなに‥‥わたしのことが‥‥きら

いなの‥‥」

「い、いかん‥‥み、みんな、ちゃんと聞いてくれえ」

チャンス、と思った大神と杏華はすかさずサロンから逃げ出した。神凪と少女た

ちが気付いた後は、もうその二人の姿はなかった。すまん‥‥兄さん‥‥と一言

だけ残して。







「とりあえず‥‥ここまで来れば、大丈夫だよ」

「は、はい‥‥すみませんでした‥‥わたし‥‥」

大神と杏華は、煉瓦亭で夕食を取ることにした。早い時間帯のせいで、煉瓦亭の

店内は人影は割とまばらだ。

「あははは‥‥みんな、街娘やりたくって仕方ないのさ」

「そ、そうなんですか‥‥」

「でも‥‥杏華さんの街娘、すごくいいね‥‥さくらくんに匹敵するかも‥‥」



「そ、そんな、恐れ多いですう‥‥わ、わたし‥‥‥‥でも‥‥うれしい‥‥」



食事をしながら、大神はふと思う。

なぜ、俺はこんなに‥‥この人を‥‥

確かに舞台の上での事は、花組の少女たちに言われるまでもなく、前代未聞の行

為と言えた。舞台関係者以外の人間を舞台衣装を着せて、舞台に立てる‥‥冷静

に考えれば確かにおかしいが‥‥無論先の山崎のカンナの代役は例外としても。



なぜ‥‥短めの髪‥‥幼い顔だち‥‥チャイナドレス‥‥

正面から見ると、なんだか紅蘭に似てなくもない。おさげを付ければ、それ相応

に見える。勿論、顔形は違うが‥‥なぜか雰囲気が‥‥どこか似ている。衣装部

屋で感じたこと‥‥チャイナドレスもそれを助長している。

『‥‥立派だ‥‥‥‥い、いかん‥‥』

「そ、そんな‥‥見つめないで‥‥ください‥‥恥ずかしい‥‥」

尤も、この辺りが決定的に違っているが。紅蘭は割とメリハリの効いた関西人特

有の気質で‥‥

‥‥どこ見とるんや‥‥こんのスケベ‥‥

とは言うものの、別れ際の‥‥帝劇から離れる直前の紅蘭は、どちらかと言うと

杏華の仕草に似ていたかもしれない。大神はふいに‥‥そう、目の前の杏華が初

めて手紙をよこして、それを読んだ日‥‥暁蓮が大神の心と身体に、その存在を

刻み込んだあの日‥‥あの日の紅蘭を思いだした。頭痛が和らいで、じっと紅蘭

を見つめた、あの時のこと。それは、まさに今目の前にいる杏華そのものだっ

た。大神はなんとなく感傷的な気分になってしまっていた。

「‥‥なんか、夢を見てるような‥‥さっきのことも、今も‥‥」

「そ、そうかい‥‥あ、そうだ、さっき支配人が言ってたこと、帝劇に住むって

‥‥」

「はい‥‥」

杏華は食後の紅茶を口にし、初めから話し始めた。と言っても、ところどころ抜

け落ちているような感触が大神にはあったが。

「わたし‥‥あやめお姉さんに拾われて‥‥ずっと藤枝家に住んでいたんです。

勉強もさせてもらって、いろんな習い事‥‥日本語もそうです」

「日本語‥‥杏華さん、日本人じゃ‥‥」

「‥‥違います。それは‥‥いずれ‥‥」

「‥‥‥‥」



杏華は三年ほど前から、あやめの仕事を手伝うようになった。彼女は結構器用

で、無論それは日本に来てから、発覚したらしい。あやめの仕事、とは言って

も、軍に直接関係するものではなかった。技術的な部分‥‥つまり霊子核理論・

霊子力学とその応用だった。現在神埼重工の川崎研究所に席を置いている。その

中での応用分野での専門は、言うまでもなく霊子甲冑の機関部分の設計と施工、

即ち次世代蒸気併用型霊子力機関の研究開発。

「‥‥でも、これくらいしか、自慢できるものがないんです‥‥」

そんな実績とは裏腹に顔をうつ向ける杏華。

紅蘭‥‥

決定的だった。その言葉、表情‥‥一年前に見た涙の‥‥そして、別れの前日に

見た、紅蘭そのもの。日本人ではない。中国人?もしかして、血縁関係があるの

では‥‥咽まで出かかった、その言葉を大神は辛うじて堪えた。杏華が話さない

以上、自分が聞くことなど出来るものではない。

「で、でも‥‥す、すごいな‥‥そんな、かわいいのに‥‥」

「えっ、そ、そんな、か、かわいいなんて、わ、わた、わたしは、あああ‥‥」



なにげなく言った大神の誉め言葉に、顔を真っ赤にして話もできなくなった杏

華。大神のファンというのは、ハッタリではなさそうだった。

「あ、いや、あの‥‥ご、ごめん‥‥」

「う、うれしい、ですう‥‥」

大神にとって、とても気持のいい雰囲気だった。理由はよくわからない。アイリ

スと見た夕陽、その赤く染まった銀座の街並み‥‥そんな優しい感じがする。

「じゃあ、もしかして‥‥俺やみんなのことも‥‥」

「は、はい‥‥聞いてます‥‥」

「そうか‥‥あやめさんから‥‥あやめさんの意思が残っていたんだ‥‥」

「お姉さんは‥‥みなさんのこと、とても大切に思ってました。だから、わたし

も‥‥わたしも‥‥」

杏華の願いは、そんなあやめの愛した劇場で‥‥花組の少女たちと一緒に‥‥そ

して大神と一緒に生きていくこと。ささやかな願いだった。



大神は杏華を見て、そして、窓の外の街並みを見つめた。

何か‥‥意思が働いているのか‥‥

神凪がいつか地下格納庫で思ったこと、それと似た感触を大神も感じていた。

「これから‥‥一緒に住むんだから‥‥時間はたくさんあるよ」

「は、はい‥‥わたし、すごくうれしいです。神凪支配人から、そう言われたと

き、わたし、もう涙がでるぐらい、うれしくて‥‥ずっと夢だったんです‥‥」



「ふふふ‥‥」

「そ、それに‥‥お、大神さんと‥‥一緒に‥‥い、いられるなんて‥‥」

「え?‥‥あ、あの‥‥」

二人はばっちりと目が合い、真っ赤になってともに視線を逸らした。

「く、暗くなったね‥‥そ、そろそろ‥‥兄さんがうまく説明してくれてるとい

いんだけど‥‥」

「あ、やっぱり、支配人は‥‥大神さんの‥‥お兄さん、なんですか?」

「うん‥‥そう、一週間ぐらい前かな‥‥10年ぶりの再会でね‥‥」

「!‥‥そう、なんですか‥‥」

「それは、俺の夢だった‥‥それは適った。だから今度はもう一つの夢だね」

「え?」

「‥‥護るのさ」

「?」

「ううん‥‥さ、そろそろ戻ろうか。うちに、ね」

「は、はい」



大神と杏華は夕陽が落ちた黄昏時の銀座の街を歩いた。

行き交う人々。蒸気自動車。蒸気二輪車。

そして街を見ると思いだす、一人のおさげ髪の少女。

いつの時間も銀座の街並みは優しかった。

街灯が点った‥‥いつもより少し暗いような気がする。

大神はちらっと杏華を見た。ほんの少し表情が雲っているような‥‥

なんとなしに、大神は杏華の手を握った。劇場を案内した時のように。

杏華の顔は、すぐに元の明るい少女に戻った。

杏華と大神は、ともにぴったりと寄り添うように、劇場への帰路についた。









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Uploaded 1997.11.06




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