<その3>



「あ、おかえりなさい」

あやめの部屋の前に着くと、さくらが引越の準備を終えようとしていた。話は正

常に伝えられたようだ。尤も、大神は翌日神凪に呼び出されて、散々悪態を突か

れることになるのだが。

「この部屋とも‥‥お別れですね。なんか、さみしいなあ‥‥」

「結構、気に入ってたのかな、さくらくん」

「なんか、あやめさんが‥‥傍にいるみたいで‥‥大神さんも隣だし‥‥」

「あ、わたし‥‥」

「あ‥‥で、でも、やっぱり、妹さんが入ったほうが、ね、大神さん」

「う、うん‥‥」

杏華はしょんぼりしていた。自分はもしかして、招かれざる人間なのでは‥‥

と。

大神とさくらは顔を見合わせた。

「あ、そ、そうだ、杏華さん‥‥あのー、こいこいって知ってます?」

「‥‥花札の‥‥こいこい、ですか?」

「うん。やりません?」

「‥‥いいねえ、よーし、やろうやろう‥‥ふっ、俺はかなり鍛えられているか

らな‥‥ふっふっふっ、この勝負もらった!」

「おーほっほっほっほ、このわたくしを忘れてはおりませんこと?」

やはり出てくるその人、神埼すみれ。最早、驚きもしない大神とさくら。

「このわたくしを抜きに勝負を語るなど、紫の上のいない源氏物語のようなもの

‥‥」

「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」

「酒の切れた米田のクソジジイ、アイリスの服を着たカンナさんのようなもので

すわ」

「‥‥?」「‥‥?」

「このわたくしの実力、超華麗な技の数々、これまで隠しておいた究極の秘奥

義、存分に見せてさしあげてよっ‥‥ほれっ、はやくっ、入った、入った」

結局四人、あやめの部屋での勝負となった。







地下格納庫では、今日も夜を徹して整備が続けられている。さしもの神凪も疲労

の色を隠せなかった。

「‥‥司令‥‥少しお休みになったほうが‥‥」

「とりあえず、今日までは‥‥明日になれば楽になる」

「?」

「一人助っ人が来た。神埼重工の川崎研究所からな‥‥」

「えっ、ほんとですか!?」

「ああ、基本的にはエンジンが専門だが‥‥無論他もいいぜ」

「はああ、助かったあ‥‥絶対やばかったですよ‥‥もし今敵が‥‥」

「それは言うな、山崎。‥‥焦ったら、できるものもできんからな」

「はい‥‥あ、それでいったい何方が‥‥」

「見なかったか?‥‥チャイナドレスを着た、かわいらしい娘だが‥‥」

「えっ!?‥‥あの、舞台で、大神さんと‥‥”愛ゆえに”してた‥‥」

「けけけけ‥‥お前、そんなとこしか見てないんかい‥‥ま、いいがな」

「はああ‥‥あのかわいい女の子が‥‥いや、でも李主任もそうだし、人を外見

で判断してはいけないな、うん」

「ふっ‥‥」

神凪の手のみが入っている大神の機体‥‥昼前は骨しかなかったものが、少しず

つ肉付きがよくなってきている。山崎も驚嘆の表情を隠しきれない。

やはり、天才。

神凪の指示で山崎が手を下すアイリス機も、最大の難関をクリアした後、順調に

整備が進行していた。ほとんど筐体が完成し、空白部分に備品を詰め込むような

作業だ。そこまで来て、アイリス機はいよいよその形状を本格的に示し始めた。

確信の持てなかった山崎も遂に口を開いた。

「‥‥あのー、司令」

「ん‥‥なんだ?」

「もしかして‥‥アイリス機って‥‥女性に近い姿になるんじゃ‥‥」

「ふっふっふっ‥‥秘密だ」

「秘密もなにも‥‥見りゃわかりますよ、もう」

「ふっふっふっ‥‥あんの気色悪い、白いヤツとは雲泥の差だ。センスの違いと

いうものをきっちりと、まざまざと見せ付けてくれるわ‥‥‥ふっふっふっ‥け

ーけっけっけっ」

「はああ‥‥」

「ああ、あとな、向こうにプレハブ搬入したからな、明日以降の作業はそっちで

やるぞ」

「はい?」

「ここでやってると、発進のとき邪魔になるだろ‥‥‥‥それに‥‥ふっふっふ

っ、この芸術品を未完成のまま披露したくはないからな‥‥」

「はいはい‥‥」







地下でシャワーを浴びた後、マリアは事務室前の廊下を経由してロビー側の階段

に向かっていた。なんとなく、見回りを兼ねたその習慣が毎日続いていた。そう

していれば、大神にも‥‥会える、そんな健気な想いも心の片隅にあった。

二階にいって、バルコニーへ出る‥‥というルート。厨房に差しかかった時、人

の気配を感じた。

アイリスとカンナだった。意外と言えば意外、珍しいと言えば珍しすぎる組み合

わせに、マリアは一瞬たじろいだ。確かに花やしきでは‥‥だったが‥‥

「な、なにしてるのかしら‥‥二人で‥‥」

「おうっ、マリアか‥‥‥‥へへっ、今アイリスと二人でな、へへーっ、なん

と、ケーキを作ってるわけだ」

「な、なんですってーっ!?」

「‥‥失礼な」

「ふん、マリアには食べさせてあげないよーだっ」

「ご、ごめんなさい‥‥ちょ、ちょっと、覗かせてもらおうかしら‥‥」

作ろうとしているのはアップルパイとレモンケーキのようだった。確かに形とし

ては、かなりいい出来栄えを期待させる。主にカンナがアップルパイを、アイリ

スがレモンケーキを担当しているようだ。生地の作成段階では二人でやったらし

い。マリアは少し感動してしまった。それは勿論アイリス本人にであり、カンナ

本人に対してであった。

「へえ‥‥なかなか‥‥」

「へへん‥‥どうでい」「えへん‥‥どうだっ」

「すごいわね‥‥いつの間に‥‥」

「こんなこともあろうかと、密かに特訓してたのよ‥‥まっ、仕上げをごろうじ

ろってか」

「‥‥こんなこと?」

「へへ‥‥アイリスたちね、明日の杏華ちゃんの歓迎会用のケーキ作ってるん

だ。内緒だよ」

「‥‥ふふふ‥‥そうなの‥‥‥‥では、わたしも混ぜてもらおうかしら」

「ちっ、強敵が‥‥」「負けないもん‥‥」

夜のケーキ作りは三人になった。

厨房はいつしかサロンのようになっていた。







「こ、こんな‥‥馬鹿な‥‥」

「こ、これは‥‥何かの間違いですわ‥‥」

青い顔のすみれと大神。対してにこにこしている杏華とさくら。こいこいせず、

やめた時点での得点順位での勝敗決定だった。

大神はこれまで10戦中1勝1分8負。すみれに至っては‥‥全敗‥‥だった。



「‥‥こ、こんな、このわたくしが‥‥これは‥‥錯覚としか‥‥こ、今度こそ

‥‥」

「お、おかしい‥‥なぜだ?‥‥こんな‥‥こんなはずでは‥‥ろくな札が来な

い‥‥」

「えへへへ‥‥ま、こんなものでしょう‥‥でも杏華さん、すごい強いわ‥‥」



「そ、そんな‥‥わたし、友達に鍛えられてたから‥‥」

「へえ‥‥やっぱり、仕事の?」

「ええ、まあ‥‥あとは、あやめお姉さんに‥‥」

「へえ、あやめさんって、結構やるんだ‥‥わたし、知らなかったなあ」

「ちょっと、くっちゃべってないで、札をおまわしっ」

「‥‥何言ってんです、すみれさん。負・け・た・人が配るんですよ」

「んぬぬぬ‥‥こ、この、屈辱‥‥100万倍にして‥‥」

「はやくしてくださーい」







マリアが作るのはチョコレートケーキとミートパイの二本立てだった。ミートパ

イは小さめで人数分を作る。その分手間がかかるが、それはマリアの腕の見せ

所。

「ちっ、やるな‥‥」

「チョコかあ‥‥アイリス、それを選ぼうと思って、止めたんだよねえ」

「ふっ‥‥」

ミートパイはマリアにしてみれば楽勝のメニューだった。ピロシキの応用で、た

まに作っていたからだ。チョコケーキは初めての挑戦だが、いつかは作ろうと思

っていた。

「これは初めてね‥‥ちょっと緊張するわ」

「くそっ、よーし、アイリス‥‥こうなったら、もういっちょ、合体技だっ!」



「!‥‥へへへ‥‥あれかあ、アイリス、がんばるっ!」

「な、なに‥‥」

厨房には紅蘭が造った大型の冷蔵・冷凍庫が置かれてある。当然帝都中探しても

絶対ない機械だった。アイリスとカンナはその辺りをうろうろし始めた。冷却系

をどうも利用するらしい。

「な、何を‥‥作るつもり‥‥」

「ひひひ‥‥見てればわかるって」

「そーゆーこと。よーし、下はあたいにまかせろ」

「じゃ上はアイリスが作るね」

「な、なんなの‥‥」







やっと大神とすみれにいい札が回ってきた。

『こ、これはいける‥‥青短二枚、坊主に、そして、くっくっく、なんと杯まで

‥‥勝った』

『や、やりましたわ‥‥猪、鹿‥‥それに鶴、月、幕桜‥‥ぬふふふ、これまで

の借りは‥‥』

少し経過。

『‥‥なぜ‥‥菊が出ないんだ?、月も‥‥残る青短牡丹も‥‥こ、このままで

は‥‥』

『‥‥おかしいですわ‥‥蝶はいずこへ‥‥‥ぼ、牡丹がこのままでは‥‥桜も

‥‥』

また少し経過。

『‥‥や、止むを得ないな‥‥坊主を捨てよう‥‥杯は‥‥』

『ふふっ、いただきましたわ‥‥』

「いただきまーすっ」

さくらがタネ札で取る。

「げっ‥‥さ、さくらくんが‥‥」

『こ、この小娘は‥‥ぬぐぐぐ‥‥』

経過。

『く、くそ‥‥仕方ない‥‥杯を捨てるしか‥‥牡丹を捨てるわけには‥‥』

「あ、いただきーっ」

さくらが杯を取る。

「な、なにぃーっ、ま、また‥‥さ、さくらくんが‥‥持って‥‥いたのか‥

‥」

「へへへ‥‥」

山を返す。

牡丹の蝶、出現。

『やりましたわっ!‥‥このままわたくしのところへ‥‥』

「あ、いただきます‥‥」

杏華が青短牡丹で蝶を取る。

「な、なんですってーっ!」

「が、がーん‥‥きょ、杏華さんが‥‥残る青短を‥‥‥‥終わった‥‥」

『ま、まだ‥‥三光が残っていますわ‥‥むむむ‥‥』

すみれが二枚の内カス牡丹を捨てる。

大神がよたよたと牡丹を取る。

山を返す。

カス桜出現。

『やりましたわ‥‥そのまま‥‥』

「もーらいっと‥‥赤短ざんす」

さくらが赤短桜で取る。

「んがっ」

「やーめたっと‥‥へへへ‥‥赤短6、短札2‥‥計8文でーす。よろしくっ」



「わたしは‥‥タネ札2、短札1、カス3‥‥計6文です‥‥はい」

「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」

「あ、大分遅くなりましたねえ‥‥杏華さん、疲れてません?」

「え、そんな‥‥」

「‥‥か、勝ち逃げは‥‥認められませんわよ‥‥ま、まだまだですわっ!!」



「なんどやっても無駄だと思うんすけどお‥‥」

「くくく‥‥こ、このまま、終わっては‥‥た、隊長としての、め、面子が‥

‥」

「あ、わたしは大丈夫ですけど‥‥あの、みなさん、明日は‥‥」

「へーきですわっ、この程度で弱音を吐くほど‥‥」

「そのとーりっ、徹夜ごときで‥‥」

「あ、じゃ‥‥次は勝てるかもしれませんし‥‥がんばりましょう‥‥」

何げに激励する杏華。

「‥‥いい覚悟ですわね‥‥」「‥‥望むところだ‥‥」

「あーはははは‥‥無駄ですって、無駄無駄無駄無駄‥‥」

煽るさくら。

「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」

すみれと大神のこめかみには、血管が浮き出ていた。







「‥‥それ‥‥なに?」

マリアが不信に思ったそれは、アイリス曰く、電動式遠心分離器と称するものだ

った。無論造り主は紅蘭しかいない。マリアはしばし考え込む仕草を見せたが、

ふいに脳裏をあるものが過った。それは自分がかつて作ろうとして、それがない

が故に諦めた代物。

「遠心‥‥分離‥‥!‥‥そうか、牛乳をそれで‥‥」

「へへーっ、さっすがマリアだな‥‥」

「ひひひ‥‥どう?驚いたでしょ」

「うぬぬぬ‥‥ま、負けないわ、こ、こうなったら‥‥」

「ま、まさか‥‥こ、これに対抗する裏技があるってのか‥‥」

「あまく見ないでほしいわ‥‥冷凍物で負けたら、わたしの立場が‥‥」

「ちっ、こりゃ手を抜けねえぜ‥‥」

アイリスはオーブンの中に入れてある物の状態を確認していた。スポンジケーキ

はその名の通り、ふかふかに仕上がっていた。香りもレモンの酸味に合う、甘い

ものだった。マリアとカンナも覗き見る。

「すごいわね‥‥アイリス‥‥」

「へへへ‥‥もっと上手になって、お兄ちゃんに食べてもらうの‥‥楽しみだな

あ‥‥」

「へっ、あたいだって負けねえぜっ」



一番最初に出来上がったのはカンナのアップルパイだった。焼きたての林檎の甘

い香りが厨房を埋める。

「うわーっ、すっごいおいしそう‥‥」

「こ、これは‥‥色といい‥‥すごいわ‥‥」

「なははは‥‥会心の出来栄えだな」

アイリスはすかさず、台所に向かった。

「ん?‥‥アイリス、なにしてんだ?」

「メレンゲ‥‥作ってるの」

「?メレ‥‥?レモンケーキっつうから、檸檬の蜂蜜漬けでも乗せんのかと思っ

たら‥‥」

「見てればわかるわよ‥‥」

アイリスの作るレモンケーキは本人の年令とは裏腹に、甘さを控えめにしたも

の。スポンジケーキから漂う甘い香りも、スポンジ自体は飽きない程度に甘い。

アイリスの年令で作り上げること自体、驚異でもあったが。

スポンジケーキは厚さ1センチ程度の板状に切る。その表面にレモンを擦り込ん

だバターを薄く塗る。卵白を泡立てて、これも砂糖は微量しか入れない。一枚を

取り出し、これにまるで蝋燭の束でも乗せるように、上に丁寧に積み上げる‥‥

つまり柔らかい剣山のような形状だ。これをオーブンで軽く焼く。レモンバター

を塗り、もう一度焦げないように焼く。撹拌によって細かい空気穴が満遍なく行

き渡り、またタイミングも絶妙だったらしく、非常に柔らかく仕上がったメレン

ゲになった。

そして、それを頂上にするよう、先の薄く切ったスポンジケーキを積層化する。

間にはレモンクリームを挟み込む。外周部もレモンクリームで包む。頂上にシナ

モンの粉末を少しだけ降りかけ、ミントの葉で飾る‥‥終了。蜂蜜はテーブルに

添える。

「できた‥‥」

「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」

カンナは言うまでもなく、さすがのマリアも言う言葉がなかった。

鮮やかなレモンイエローの外周と、オレンジ色から茶色の小山の乱立する頂上

は、アイリスの山吹色の仲間たち。夏の太陽、そして向日葵を思わせる、カンナ

のアップルパイに対し、甘酸っぱい華やかな春の香りがする、アイリスのレモン

ケーキだった。おそらく、どの年令の女性が作ったとしても、これ以上のレモン

ケーキは作れないだろう。マリアはそう思った。試食するまでもなかった。

「やるわね‥‥チョコレートケーキは‥‥少なくともこれ以上のものにしなくて

は‥‥」

やはり、負けず嫌いのマリアだった。

 





「‥‥なんだか‥‥上から声が聞こえませんか?」

「ん?‥‥気のせいだろ」

「そっか‥‥そう言えば‥‥」

「ん‥‥なんだ」

「実は今日‥‥その‥‥」

「なんだよ」

山崎はかなり躊躇った。が、結局言うことにした。それがどういう意味を齎らす

のかは、神凪にしかわからないからだ。

「あの、大神さん‥‥その‥‥」

「‥‥おかしいぞ、お前‥‥なんだ」

「零式に‥‥」

「!‥‥乗った、のか?」

「‥‥はい」

「‥‥で」

「‥‥受け入れたようです」

「‥‥そうか‥‥ふっ‥‥そうか‥‥‥‥くっくっくっくっ‥‥」

「‥‥‥‥」

零式は漆黒の輝きを見せていた。闇に溶ける存在ではなかった。

「なるほどな‥‥光っている」

「え?」

『アイリス‥‥ありがとう、アイリス‥‥』

神凪はアイリスに心の中で頭を下げた。アイリスがいなければ‥‥もう一人の自

分が創られていた。そして、この劇場は廃墟と化していたはず。

「司令?」

「これで零式は主を二人持った‥‥だが、零式の真の力を引き出すことは大神に

はできん。その逆もな。大神と零式は背反する存在だ。大神の真の力を零式は受

け入れはしない。そのための‥‥この純白の神武だ。そして、この神武だけがあ

いつの力を受け入れる」

「この‥‥神武が‥‥」

「零式は‥‥破壊神だ。零‥‥即ち無。俺と同じで‥‥どんな美辞麗句で飾って

も‥‥」

神凪は少し悲しそうな顔で言う。

「そ、そんな‥‥司令が、そして零式がいなければ、今の帝都は、今の帝撃は‥

‥ありませんでした‥‥それが現実でしょう!?」

山崎はそんな神凪の表情は勿論初めて見た。言わずにはおれない‥‥その人の存

在価値を、山崎は吐露した。それは自分を導いた人であり、少女たちを導く人で

あったから。もう一人の大神とともに。

「‥‥必要悪、というやつかもしれないな‥‥闇を砕くには、それ以上の闇を以

て。暗い力を消すために、それ以上の暗い力でそれを喰らう‥‥」

「司令‥‥」

「だが、この純白の神武は‥‥違う。再生のための‥‥生きるための霊子甲冑

だ。何ゆえに‥‥人は生きるか‥‥それを護るために生まれたもの。それがこい

つだ」

「‥‥‥‥」

「大神は確実に進歩している。もう少しだ。そして‥‥紅蘭を待つだけだ」

「李主任を‥‥」

「もう少し‥‥あせってはいけない‥‥そう、あせっては‥‥」

神凪の表情に、兄である麗一のそれが浮かんだ。もう一人の大神‥‥光の大神と

その影の大神。

影が光を造り出そうとしていた。









帝国劇場の屋根を、柔らかい朝日が優しく照らし始めた。

新聞を配達する少年の走る足音だけが、銀座の街に木霊する。朝もやの煙る街並

み‥‥朝露で濡れる路面が、光でぼやけて見える。ほんの少し湿り気のある優し

い風が、劇場のカーテンをゆらす。

朝5時。ロビーには人影がない。当然椿もまだ売店にはいない。

地下格納庫には静寂が訪れていた。二人の青年が階段を上がってきた。

「おつかれさまでした、司令」

「お前もな‥‥昼からまた頼む」

「はい」

神凪は支配人室へ、山崎はそのまま階段を二階まで、そしてサロンに向かった。

クレーンを使う作業は、公演に重ならないような時間帯を選んで、二人は行うこ

とにした。シリスウス鋼外壁で遮断されているとは言え、多少の音は漏れてしま

う。それに振動が一番の問題だったからだ。

支配人室のドアを開けようとして、神凪は通路の向こう側に人の気配を感じた。



『‥‥だれだ‥‥こんな朝早く‥‥』

歩く。

そこは厨房。そこにいたのは‥‥アイリス、カンナ、そしてマリアだった。神凪

は言葉を掛ける前に、配膳棚に置かれた、その物にまず驚いた。それは間違いな

くケーキに見える。が、数が半端ではない。大きいものから、かなり小さめのも

のまで、少なくとも30はある。ケーキ屋でも始めるのか、と思うほどだ。

「‥‥なにやってるのかな‥‥うっ‥‥」

三人は真っ赤な目で神凪をじろっと見た。そして、すぐに彼女たちは仕事に没頭

した。神凪はなるべく、その三色のオーラに触れないよう、配膳棚に回り込ん

だ。それは‥‥店頭に並べてもおかしくない、芸術的な品々。色とりどり、四季

をも思わせる華やかさ、芳しい香り‥‥

『‥‥こ、これは‥‥素晴らしい‥‥‥‥そ、そういや、腹へったな‥‥』

迂闊にも神凪は、その中の一品に手を延ばそうとした。

「コラアーッ、触んな、支配人っ!」

「は、はい‥‥」

「‥‥後で召し上がって‥‥頂きますから」

「‥‥失礼しました」

神凪はとぼとぼと支配人室へ戻っていった。





「はああ‥‥疲れた‥‥お茶でも飲んで、と‥‥ん?」

あやめの部屋の前を通りがかって、中から聞こえてくる声で山崎は立ち止った。

部屋には杏華が寝ているはずだが、人の声が聞こえる。悲痛な呻き声らしきもの

も‥‥

『‥‥はて?』

コンコン‥‥

「‥‥おはようございます‥‥山崎ですけど‥‥」

「‥‥取り込み中だ」

『あれ‥‥大神さんの声‥‥なぜ?‥‥‥‥むうっ、まさか、こともあろうに‥

‥』

「失礼しますよっ‥‥あれ‥‥」

背中だけを見せる大神、真正面にすみれ‥‥下を向いている。横向きでさくら、

向かって同じく杏華。横顔が見えるその二人の少女は山崎に向き直った。さくら

は少し赤い目だが桜色の頬で、杏華は満開の杏の花のような‥‥二人ともそんな

柔らかい笑顔で、山崎を向かえた。

「おはようございます、山崎さん」

「お、おはよう、ございます‥‥」

「はああ‥‥あ、あの、おはようございます‥‥な、なにして‥‥」

すみれが顔を上げる。大神が振り向く。

「‥‥‥‥」

山崎の声が止った。延ばしかけた手も止った。

「‥‥さあっ、杏華さんっ、あなたの出番ですわよっ」

「は、はい‥‥」

山崎はそろりと大神の横に膝をついた。一目瞭然、徹夜花札だったが‥‥状況は

推して知るべし、だった。

大神の手札と取り札を見る。

「かーっ‥‥こりゃ、最悪‥‥」

大神がじろっと山崎を見る。

「あ、いや‥‥ども‥‥」

回り込んで、すみれの横に膝をつく。同じように手札と取り札を見る。

「げ‥‥ひっでえ‥‥」

すみれがくわっと山崎を睨む。

「し、失礼しました‥‥」

そそくさと杏華の横に膝をつく。杏華がにっこりと微笑む。

『か、かわいい‥‥こ、この娘が、一緒に手伝ってくれるのか‥‥ついてる』

「あ、改めまして‥‥藤枝杏華と申します‥‥不束者ですが‥‥よろしくお願い

します」

「そ、そんな、わたしのほうこそ‥‥あ、わたしは、山崎真也と申します‥‥今

後とも、よ、よろしくお願いします‥‥」

「‥‥おい‥‥山崎‥‥お前‥‥勝負の邪魔を‥‥しに来たのか‥‥」

目をあくまで場に向けたまま唸る大神。もう、目が完全に向こう側に行ってしま

っていた。

「あ、し、失礼しましたあ‥‥」

杏華の手札と取り札を見る。

「こ、これは‥‥す、すごい‥‥」

「そ、そんな‥‥」

三光は既に保有、そして取り札は赤短リーチ。

「なんだと‥‥」

大神の視線が絡み付く。

「やば‥‥」

さくらの横に移動する。いつものさくらの明るい笑顔。

「あははは‥‥もしかして、ぶっちぎりの勝利ですか、さくらさん」

「いえ‥‥杏華さんがぴったりと後ろについてるんで、大変ですよ」

「へえ‥‥つまり、他の二人は問題外と‥‥げっ」

すみれと大神の燃えるような視線を浴びる。さくらの手札と取り札を見る。

「な、なんと‥‥た、確かに、これでは‥‥」

「へへへ‥‥」

杯と幕桜は既に保有、取り札は短札2、そして猪鹿蝶の鹿待ち。

「なんですって‥‥」

すみれの視線が絡み付く。

「あ、あははは‥‥お邪魔しましたあ」

山崎はサロンに向かって部屋を出ていった。







朝7時30分。二時間余りの仮眠で目が覚めてしまった山崎は、ロビーに向かっ

た。椿が売店の準備をしていた。

「おはようございます、椿さん」

「あ、おはようございます、山崎さん‥‥へえ、なんか、ここ二、三日、調子よ

さそう‥‥」

「え‥‥あ、あははは、慣れてきたのかな、徹夜も‥‥」

「大変ですね‥‥なにかお手伝いできれば‥‥」

「そ、そんな‥‥椿さんこそ、こんな朝早くから‥‥いつもご苦労さまです」

「へへへ‥‥」

「‥‥ん?‥‥このブロマイドは‥‥新しいタイプですか?」

「ええ。演目が一周りする毎に変えるんですよ」

「へええ‥‥あ、李主任の‥‥‥‥これは‥‥いいな‥‥」

「お目が高い。これはレアなんですよ。”つばさ”のワンシーンを隠し取りした

もので‥‥へへへ‥‥実は3枚しかないんです」

「な、なんですって‥‥買います、買いますっ」

「山崎さんは特別ですし‥‥ほんとは100銭で売りたいんですが‥‥50銭で

結構です」

「は、はいっ」

「毎度っ」



山崎はほくほくしながら、ロビーの階段を上った。

テラスを横切る。ふと、外の景色を眺める。‥‥もう朝の雑踏が始まっていた。



バルコニーへ出る。明るい朝の陽射しが、すっかり乾いた路面を照らしていた。



街並みは朝の活気に満ち溢れていた。仕事へ出かける人々。行き交う蒸気自動

車。

山崎は初めてここから銀座の街を見下ろした。

「‥‥へええ‥‥なんか‥‥いいな‥‥」

劇場のバルコニーから見える風景は、どんな人をも魅了した。それは、花組の公

演とも似ていた。

「‥‥銀座、か‥‥」

山崎は花やしきでの出来事を思いだした。そして、それ以前のこと、それ以降の

こと。

『‥‥俺‥‥夢組に配属されたの‥‥なんで‥‥落ち込んでたんだろな‥‥』

山崎は夢組隊長として帝国華撃団に配属された。月組を希望し、霊子甲冑の整備

に携わることが夢だった。それは、花やしきでの大神との邂逅によって塗り替え

られた。そして、花組の少女たちによって、さらに上塗りされた。夢組にいなけ

れば‥‥今自分はここにいない。神凪と、マリアと、そして大神と出会わなけれ

ば‥‥自分はここにはいなかった。

運命というものを信じることがなかった山崎。それは自分の兄の存在もあった。

そして自分の能力のことでもあった。しかし、それすら今の山崎には信じられる

気がしていた。

銀座の街はいつも優しかった。

「ずっと‥‥ここにいたい‥‥‥‥俺は、もう‥‥昔には‥‥戻れない‥‥」

視線を遠くから近くへ移す。劇場の傍らに止めてある、一台の蒸気二輪車。大神

がそうしたように、山崎もその蒸気二輪車に目を止めた。

‥‥李主任‥‥まさかそのバイクで銀座へ‥‥

‥‥そうや‥‥いっちょ派手に参上したるさかいな‥‥

二年程前、大戦が始まった頃‥‥春も終わろうとしていた時期。紅蘭は花やしき

から銀座へ転任となった。仕事の合間にこつこつと造り続けていた蒸気二輪車。

赴任した後も紅蘭はよく花やしきにやってきた。来るたびに、紅蘭の顔は輝きを

増していた。

‥‥李主任‥‥銀座本部って‥‥そんな魅力的なところなんですか‥‥

‥‥うちは花やしきが大好きやで‥‥でも‥‥銀座は一番大切な場所なんや‥‥



その時の山崎には全く理解できなかった。紅蘭が機械好きである以上、花やしき

は最高の場所であるはずだった。銀座本部にそれ以上のものがあるとは、どうし

ても思えなかった‥‥

それも今の山崎にとっては、不思議でも何でもない。

『‥‥李主任が‥‥愛する場所‥‥帝国劇場、か‥‥』

一番大切な場所。

一番大切な人たち。

帝国劇場。

そして、帝国歌劇団‥‥

‥‥お前が彼女たちを護れ‥‥

「司令‥‥」

‥‥山崎‥‥山崎さん‥‥少尉‥‥旦那‥‥山崎のお兄ちゃん‥‥

「わかってますって‥‥」

‥‥がんばってや‥‥山崎はん‥‥

「‥‥お帰り、お待ちしてますよ‥‥主任」

山崎は顔を上げた。

眠りから覚めた青年はサロンに向かった。

護るべき者が集う、その場所へ。





「‥‥もしもし‥‥神凪ですが‥‥朝早くからすいません」

『ああ、わかってるよ‥‥杏華君のことだろ』

「ええ‥‥しばらくこちらにいてもらおうと‥‥ん?‥‥もしや、初めから‥

‥」

『彼女の昔からの希望もあったしな。一応出向という形にしとこう』

「ありがとうございます‥‥ところで、彼女の経歴なんか‥‥わかりますかね」



『いや‥‥あやめくんから紹介されただけで、特には‥‥腕は申し分ないから

ね、不問ということさ。米田さんの推薦でもあるしね』

「ふむ‥‥」

『‥‥ただ』

「?」

『‥‥彼女‥‥時折なにかに脅えるような仕草をすると‥‥彼女の同僚から聞い

たな。だれかに見られている‥‥と』

「‥‥‥‥」

神凪先日の川崎出張を思いだした。連れ立って歩く杏華は、確かに何かに脅えて

いたような気がした。それとなく周囲を伺ったのだが、特に気を引くような存在

は感じられなかった。

遊歩道を取り巻く緑。行き交う人もまばら。離れの公園で遊ぶ子供たち。

『まあ、そちらにいたほうが、万が一のことを考えれば安心だと思うが‥‥』

「ええ‥‥」

『もし彼女が、何か必要なものがあると言うならこちらで手配しよう。藤枝杏華

くんは神埼重工の社員だからな』

「ふっ‥‥そうですね、そうしていただきましょうか‥‥」

『七瀬は今朝搬送した。遅くとも夕方には着くはずだ。よろしくな‥‥』

「わかりました。ふふ‥‥お披露めには是非立ち会って頂きたいものですな‥

‥」

『‥‥君はどうしてもわたしを銀座に呼びたいらしいな‥‥ふっ、だが、それも

いいかな』

「そのときに、また電話しますよ‥‥ではまた‥‥」

神凪は目を閉じた。

ゆっくりと眠りに落ちていく。

『‥‥白いやつ‥‥それと黒いやつとは‥‥違う者と、考えたほうがいいか‥

‥』





モギリの準備をする大神の表情は幽鬼そのものだった。このままではまずいと判

断した椿は、なんとか宥めにかかる。

なにやら足音が聞こえてきた。振り向くとロビーの階段を‥‥立ち塞がる者は容

赦しませんわよ、と言わんばかりに、ズカズカ降りてくる女帝のごときその人、

神埼すみれ。速度を緩めることなく、一直線に椿に向かってくる。

「ひっ‥‥」

椿は思わず逃げ腰になったが、背後に取りつかれた。そのまま売店まで押し出し

を食らう。

「あ、ああ‥‥」

「‥‥例のものは‥‥どうなりました‥‥」

「は、はいい‥‥今日中に‥‥なんとか‥‥」

「‥‥来たら‥‥すぐわたくしのところへいらっしゃい‥‥よろしいわね‥‥」



「は、はいい‥‥」

そしてズカズカと食堂へ向かって去っていった。

今度は何やら楽しそうな話し声が聞こえてきた。さくらと杏華だった。

「あ、椿ちゃん、例のものは‥‥」

「あ、はい‥‥今日中には‥‥」

「よし‥‥これで全種類制覇したわ‥‥」

「あの‥‥いったい、何の‥‥」

「実はですね‥‥」

椿は大神をちらっと見た。なぜか大神は、モギリの準備そっちのけで、さくらと

杏華をじとーっと見つめていた。

「ちょっと、こちらへ‥‥」

「?」

「実は売店では‥‥このような写真も取引しているんですよ」

「こ、これは‥‥」

それは当然、大神の写真。

「どうです‥‥闇商品で、少し値が張りますが‥‥」

「い、頂きます‥‥く、下さい、欲しいですう‥‥」

「ひひひ‥‥まだまだあるんですよー‥‥見ます?」

「あああ‥‥わたし‥‥どうしたらいいの‥‥こ、こんな‥‥うれしい‥‥」

杏華は大神の写真を、その豊かな胸に押し当ててうっとりとした。椿は思わずそ

の表情、仕草に見惚れてしまった。

「‥‥なにしてんの」

大神が売店裏でしゃがんでいる三人を覗き込んだ。さくらがギラッと見返す。

「大神さんのエッチっ!」

「な、なぜゆえ‥‥」





舞台が始まった。

マリアのオンドレがいつにも増して殺気だっているような感じだった。カンナの

宮殿騎士もそう。アイリス演じる、街娘の従姉妹もなぜか気合いが入っていた。

‥‥好き‥‥好き‥‥というフレーズが、なにやら怨霊の呪歌のようにも聞こえ

た。そして、極めつけは‥‥すみれの貴婦人。さくらをいたぶるシーンが、もう

演技ではなかった。おーほっほっほ、と高らかに笑うその声が、劇場の外にも聞

こえた。



大神と椿はまた事務室に来ていた。杏華は地下格納庫へ行くと言って、二人とは

別れた。

「舞台が‥‥なんか、いつもと違う気がしますね‥‥」

「そうですか?‥‥大神さん、なんか暗いですね」

「‥‥俺‥‥今迄‥‥何やってたんだろ‥‥」

「はあ?」

「くそっ‥‥最初から特訓しなおしだっ!」

大神はお茶をぐいっと飲み干した。

「そう言えば、新しく来た、あのすっごいかわいい娘、えーと‥‥」

「藤枝杏華さんですよ」

「あ、椿はもう知ってるんだ」

「ええ、まあ‥‥」

「はああ‥‥ほんと、かわいいわよねえ‥‥あんな娘、若い男なら放っとかない

わよねえ‥‥」

「や、やっぱり‥‥そうかな」

「‥‥大神さん、心配でしょ」

「そ、そりゃ‥‥」

「ねえねえ、大神さんは‥‥杏華さんのこと、どう想ってんの?」

「ど、どう想うって、そんな、昨日会ったばかりだし、そんな‥‥」

「へええ‥‥じゃさ、マリアさんと、椿と‥‥」

「わーっ、聞かないぞっ、俺は何も聞いてないっ!」

大神は事務室を飛び出して行った。帝劇三人娘はくすくすと笑って見送った。



杏華はランチャーに固定されたままの霊子甲冑を見ていた。‥‥新緑の神武を。



プレハブから山崎がでてきた。純白と山吹色の機体はプレハブの中に収納され

て、外からは見えない。

「杏華さん‥‥この神武に‥‥何かお心あたりでも?」

「‥‥主がいないと‥‥弱くなるんですよね‥‥卯型は」

「そ、そうなんですか?」

「普通は問題ないんです。ただ、銀座に収容されている卯型には‥‥霊子力増幅

器が‥‥李紅蘭女史の開発した霊子核反応補助デバイスが基盤に直結されていま

すから」

「?‥‥それが‥‥問題なんでしょうか」

「ええ。その増幅器は特定の波長‥‥つまり運用者の霊気波長によって機能しま

すし、それを憶えているんです。それが花組の卯型が他と比べて抜きんでている

要因ですが。ただ、長いこと主が近くにいないと、増幅器は主を忘れちゃうんで

すよ」

「‥‥そ、そんな‥‥ことが‥‥あるとは‥‥」

「おそらく、李紅蘭女史は‥‥これを搭載するに能って、増幅器内部の記憶素子

に‥‥光武の補助増幅器から引き継いだ波長記録を刷り込んだと思います」

「‥‥‥‥」

「あの‥‥」

「は、はい‥‥」

「この新緑の卯型‥‥わたしが整備します」

「え?」

「神凪支配人‥‥あ、司令には、わたしから言いますから。それと‥‥あの、桜

色の機体。さくらさんの神武ですね」

「は、はい」

「それもわたしがやります‥‥基本的にはエンジンを中心に行いますが‥‥場合

によっては、それ以外も。勿論、神凪司令の指示を優先しますけど‥‥」

「は、はい」

「‥‥純白の‥‥大神さんの神武が‥‥ない、ですね‥‥」

「は、はい‥‥あ、いえ‥‥それは‥‥司令自ら手を入れてます」

「ほんとは‥‥大神さんの卯型を‥‥一番整備したいんですけど‥‥だめですか

‥‥」

「それは‥‥司令が判断することですね‥‥どうでしょう」

「‥‥相談して‥‥みようかな‥‥わたし‥‥」

山崎は目の前にいる少女がただ者ではないことを知ったが、やはり大神のことに

なると、一人の女性になるらしいこともわかった。

『‥‥ほんとに‥‥好きなんだな‥‥』

「おや‥‥二人してどうした?」

「あ、司令‥‥」

「あ、あの‥‥神凪司令‥‥そ、その‥‥」

「ん?」

「あ、あの‥‥じ、神武の、その、整備の事なんですけど‥‥」

「ああ、杏華くんには‥‥紅蘭とさくらくんの機体を頼もうと思ってるんだが‥

‥」

「は、はい‥‥それで、あの‥‥」

「ん?‥‥どうしたの?」

「あの、あの‥‥」

杏華は真っ赤になって先に進めなかった。

神凪はすぐに納得した。

「ははーん‥‥大神の神武を‥‥触りたいんだな?」

「あ、ああああ‥‥」

顔を手で抑えてしまう杏華。

「あはははは、あいつ、羨ましいやつだな。‥‥ふむ‥‥大神の機体はかなり手

間がかかるし、そうだな‥‥俺一人じゃな‥‥一緒にやろうか?」

「えっ!‥‥ほ、ほんとですか、ほんとに、わたし、あの、手伝っていいんです

か‥‥」

「ふふふふ‥‥ああ。やりながら主旨を説明するからね‥‥よし、早速プレハブ

へ行こう」

「は、はいっ」

「あ、そうだ‥‥今日は夕方までに仕事は切り上げよう。山崎、お前もな」

「は?」

神凪と杏華はプレハブに入った。山崎は茫然と見送った。

「はああ‥‥いいなあ‥‥」



舞台は幕を閉じた。

これまでにない解釈で、観客は度肝を抜かれた。きらびやかな物語の裏の愛憎に

満ちた世界。演技を超えた演技に、観客は魅了され、そして歓声を上げた。

「うーむ‥‥そうか‥‥そうだったのか‥‥」

一人納得する大神。舞台袖に帰還する少女たちを向かえる。

「おつかれさま‥‥なかなか‥‥その、おもしろかったね」

「な、なんか、つかれましたわ‥‥」

「‥‥すみれさん‥‥わたしのこと‥‥本気で‥‥やったでしょ」

「なにをおっしゃる、さっくらさん‥‥それは愛ゆえに、ですわ」

「ふーん‥‥それに、なんかマリアさんも冷たかったなあ‥‥」

「そ、そうかしら‥‥それも愛ゆえによ」

「なんかさ、みんなしてさ‥‥アイリスまで‥‥」

「‥‥そう?‥‥そうかな‥‥マリアとカンナよりはましだったと思うけどな

あ」

「ちょ、ちょっと力が入りすぎて‥‥わ、わりいな、マリア‥‥」

「‥‥いいけど‥‥わたし、女なんだから‥‥優しくしてよ」

「そりゃー、いってー、どーゆー意味でござんしょ‥‥」

「さ、さー、み、みんなっ、サロンへ行こうぢゃないか、なあ」







昼下がりの帝国劇場。

人はすっかり掃けて、ロビーは静けさを取り戻していた。昼を過ぎると、花組の

一部は劇場を抜け出した。大神とアイリス、さくらとすみれの組み合わせで。二

組とも行き先は竹林だったが、場所が少し離れている。それぞれ、以前特訓した

場所へ。

さくらとすみれは、神凪から次の奥義の伝授は日を於いて行うと言われた。意味

がよくわからなかったが、それまで通常技の鍛練をしろ、という指示だった。通

常技が効かないのにと聞き返すと、神凪は微笑んで何も言わなかった。

大神とアイリスが到着した、そのすぐ後に、やはり杏華が付いてきた。昼に休憩

をもらって、大神の鍛練を見たいという、本人の希望だった。

「あ、あの、その‥‥じゃ、邪魔にならないように、してますから‥‥」

「あはは、かまわないよ」

「へへへ‥‥アイリスもね、ほとんど見てるだけだし‥‥一緒に座ろ、杏華ちゃ

ん」

「う、うん」



大神の訓練過程は、それまでの自分を追い込むようなスタイルとは掛け離れたも

のだった。剣を用いる前に、拳‥‥身体の基本鍛練から入るようだ。それは神凪

が初日に指示したものだった。

大神が広場の中央‥‥大神が切り開いたその場所で直立の姿勢をとる。

動き始めた。

それは、アイリスと杏華にとって、まるで舞を見ているような気がした。

「中国拳法の型みたい‥‥」

「え?」

「どこかで見たことが‥‥うーん、思いだせない‥‥」

「ふーん‥‥でも、なんか‥‥きれいだなあ‥‥」

「うん‥‥」

大神の腕は白鳥の翼に似ていた。

滑らかに、大らかに、そして大気を撫でるように舞う。

しかし大神の脚は肉食獣のそれだった。

滑るように、ひっそりと、そして大胆に。

動きが変わった。

大神の脚は不動の岩のようになった。

その岩が動いた。

大地を踏むたびに音が響き渡る。

そして腕を突き出す。

大気が裂けるような音とともに拳が唸る。

突き出す方向にある樹木が悲鳴をあげるようだった。

「あれは‥‥八極拳‥‥」

「え?」

「すごい‥‥あんなの‥‥初めて見た‥‥」

「なんか、地面が揺れてるような気がするけど‥‥」

「うん‥‥」

さらに動きが変わる。

脚が柳のようにしなやかに動く。

身体が螺旋を描いているように見えた。

そして腕も舞を舞うように螺旋を描く。

拳はにぎらず、掌で。

その掌で何かをかきあつめては、ゆっくりと放つような緩やかな舞‥‥大神の霊

力が、地面から、大気から、まるで養分を吸い取るように増大する。

時折しなやかな柳が、弾かれたように宙を舞う。そして、空を駆ける。

「太極拳‥‥何か‥‥混じっている‥‥八卦掌、かな‥‥」

「‥‥それって、やっぱり中国の技なの?」

「うん‥‥でも、あんなきれい‥‥だったかなあ‥‥‥‥大神、さん‥‥」

「へへへ‥‥見惚れちゃって‥‥でも‥‥うん、きれい‥‥」

大神の中に力が沸き上がってきた。

それはかつて大神を暴走させた、全てを破壊せずにはおれない、あの暗い力では

なかった。

大地から得る。大気から集める。それを練り、霊気が立ち上がる。そして力強い

霊力が育まれる。

透明な力を大神は感じていた。周りに息づく者全ての呼吸が、手に取るようにわ

かった。

大神は意識をアイリスと杏華に向けた。暖かい気配がわかる。見ずとも、そこに

二人がいることがわかる。

大神はさらに意識を延ばした。深い樹木の向こう側‥‥さくらとすみれの気配を

感じる。二人は大神の延ばした意識に反応したようだった。気配だけとしか、感

じられていなかったようだ。

ふと何か竹林の静寂な息吹に、不可解なものが混じっているような気がした。大

神はとりあえずそこにマークだけを残して、意識を戻した。



今度は自分の中に入った。

腹の底に何かがあった。それは確かに暗い海のようだった。

ほんの少し刺激を与えると‥‥波立つ。沸き立つ破壊の衝動が、まるで他人事の

ように見える。

意識を一瞬消す。波が穏やかになった。

暗い海を潜る。

するとその底に透明な海があった。夕陽が照らす、ベルベットのような海‥‥そ

れを刺激する。

暗い海の内側を夕陽が照らした。一面に優しい赤が満ちた。大神は母体にいるよ

うな錯覚を得た。

それを表に導こうとする。

‥‥何かがひっかかる。

その海の持つ力が表に出なかった。まるで出口に不純物が詰っているかのような

感覚がある。暗い海も何か邪魔をしている気もする。取り方がわからない。



‥‥あせったらあかんで‥‥

「‥‥そういうことか‥‥」

大神は意識を元に戻した。呼吸を通常のものに戻す。

「ふむ‥‥」

大神は剣‥‥風神と雷神を手にした。

‥‥まずはこれだけを憶えろ‥‥

「はいはい‥‥」

左手の雷神に大地から吸い上げた力を集める。右手の風神に大気から集めた力を

移す。そして霊力をその先端に集中する。

無双天威の飛翔態勢とは‥‥違っていた。渦巻く霊力の波面は創られない。まる

で水面に落ちた石がつくる波紋が、逆に大神に向かってくるように見えた。

大神は跳んだ。白鳥の如く。

水辺から飛び立つように柔らかく、激しく。神凪と対峙した時よりも高く、しな

やかに‥‥

「はああ‥‥」「うわあ‥‥」

アイリスと杏華はその飛翔する若い白鳥に魅了された。

さくらとすみれが見た時よりも、遥かに美しく、遥かに力強く‥‥剣に引き込ま

れる稲妻がまるで翼のように見えた。巻き起こす風が、まるで翼の羽ばたきのよ

うに柔らかく、優しいそよ風のように‥‥それは台風の目にも似ていた。激風が

巻き起こる直前の‥‥嵐の前の静けさにも似ていた。

そして羽根のように柔らかく着水した。

剣は技が放たれる直前で停止した。

「ふっ」

軽く息を吐き、呼吸を整える。

空を見上げた。雲が少し出てきているようだった。

「‥‥こんなとこかな‥‥帰ろっか」

「あああ‥‥」「はああ‥‥」

二人は未だに余韻に浸っていた。大神は微笑みながら二人の傍に寄った。



ふと意識が鐘を鳴らしたような気がした。‥‥先にマークしておいた‥‥そのお

かしな気配がすぐ傍まで来ていた。振り向くと、そこに子供がいた。

「‥‥‥‥」

じっと大神を‥‥そしてアイリスと杏華を見ている。杏華は顔を一瞬で凍らせ

た。アイリスは、じっとその子供を見つめている‥‥子供を見ているわけではな

さそうだ。

「‥‥‥‥」

大神はなぜか無表情のまま、その子供を見た。

「お兄ちゃん‥‥」

「ん‥‥わかってる‥‥杏華さんの傍にいてあげてくれ、アイリス」

「うん」

大神は、その子供と少女たちの間を塞ぐように、ゆっくりと歩み始めた。

意識を延ばす。さくらくん‥‥すみれくん‥‥大神は意識の警鐘を鳴らした。そ

れは山崎が為す、神語りにも似た感触‥‥さくらとすみれはすかさずこれに対応

した。大神が放ったことは勿論知らずに。

そのまま意識を、今度は子供に向ける。

それは‥‥子供ではなかった。

「ねえ‥‥おにいちゃんのなまえ‥‥おおがみってんでしょ」

「‥‥‥‥」

「ぼくね、おにいちゃんじゃなくて、あっちのおねえちゃんにようじがあるの」



「‥‥‥‥」

「へへへ‥‥なんか、となりにいるこ、かわいいね」

「‥‥‥‥」

「?‥‥なんでしゃべってくれないの?‥‥ま、いいや。おにいちゃんをいじめ

ると、うちのおねえちゃんにおこられちゃうから‥‥へへへ」

子供は消えた‥‥ように見えた。アイリスと杏華の斜め前‥‥3メートルほどの

ところに現れた。アイリスが杏華の前に立つ。

子供の眼前にいきなり大神が出現した。その子供は面食らった。

「‥‥‥‥」

「ちぇっ、じゃましないでよ」

「‥‥おうちに帰りなさい」

「‥‥なんでさ」

「はやく帰りなさい」

「‥‥ふん、おにいちゃん‥‥やっぱり、いじめたほうが‥‥」

子供は凍り付いた。

大神の放つ霊気が‥‥それまでのものと桁違いに巨大になった。白い影との闘い

‥‥花やしきで解放した力、それをも遥かに凌いでいた。地下格納庫で解放した

霊力‥‥その力だった。

アイリスと、そして杏華は、初めて感じるその大きさに驚いた。しかし、恐怖は

まるで感じられない。アイリスと杏華にとって、その霊力のイメージは夕陽その

ものだった。夕陽が照らすビロードの海‥‥ベルベットのような肌触りと輝き‥

‥‥‥護られている‥‥その感覚が二人を包む。

対して、子供のほうは全く逆だった。

恐怖。消滅。死。

その虚無的結末が脳裏を過る。

「帰ったほうがいい。ママが心配してるんだろ」

「‥‥これほどとは‥‥話が違う‥‥‥‥また来るからな‥‥楽しみにしておけ

‥‥」

子供は大人の声で言い残し、背後に移動していった。

そして‥‥竹林の中へ消えていった。

大神は霊力の奔流を停止させた。



「お、大神さん‥‥」

杏華の震えは、大神の中に夕陽を見たときに消えていた。

「‥‥あれに‥‥脅えていたの?、杏華さん」

「え‥‥ど、どうして‥‥」

「夕べ‥‥街を歩いているとき、少し暗かったから‥‥」

杏華は驚いた‥‥そして感動した。あの時の自分に気付いていてくれた‥‥だか

ら‥‥手を握ってくれたんだ‥‥

「大神、さん‥‥」

「お兄ちゃんは大丈夫、なの?」

「うん‥‥あれは‥‥ほとんど、ハッタリだよ」

「え?」

「あの力‥‥まだ出せない‥‥紅蘭がアイリスに託した言葉どおりね‥‥」

「そうなんだ‥‥」

「‥‥なんかひっかかってるんだよ‥‥それを取るのが”おまじない”ってやつ

なのかな」

「そっか‥‥でも、お兄ちゃん‥‥なんか、少し変わったよね‥‥」

「え?」

「なんかね‥‥へへへ‥‥後ろにいてね‥‥夕陽を見てるみたいな気がしたよ‥

‥」

「そうなの?」

「わたしも‥‥そ、そんな気がしました‥‥そ、それに、ま、護られているって

‥‥」

「そっか‥‥ふふ‥‥」

「?‥‥どしたの、お兄ちゃん‥‥」

「ううん‥‥アイリスのおかげかなって‥‥」

「そ、そんなあ‥‥‥‥アイリス‥‥うれしい‥‥」

「さ、劇場へ帰ろう‥‥さくらくんとすみれくんも呼びにいこうか‥‥」

「うん」「はい」

さくらとすみれが途中で合流した。アイリスに導かれて歩く、こいこいの四人

組。その表情に暗さは微塵もない。

雲は無くなっていた。眩しい蒼穹が笹からにじみ出していた。

彼女たちの通った後は、優しい風が通り抜けた。







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Uploaded 1997.11.06




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