<その4> 大神は竹林から帰ってすぐ、地下格納庫に足を踏み入れた。が‥‥ [神凪・山崎・藤枝以外のプレハブ入室厳禁] というお達しにより、締め出しを食らって神武搭乗口にぼけっと立っていた。杏 華はその中で既に整備を続行しているようだ。プレハブからは時折三人の笑い声 が聞こえる。 「‥‥何話してんだろ‥‥‥‥俺も‥‥技術志願しとけばよかったかなあ‥‥」 大神は、士官学校では主に指揮手法と戦術・戦略概念を学んだ。勿論、取り扱う 武器や運用機器類の構造や、整備方法は会得したものの、さすがに人型蒸気につ いては、教えてくれるはずもなかった。 神凪については士官学校は出ていない。だが、個人的に神崎重工で先端技術を短 期間で習得したようだった。山崎は、兄である山崎真之介のこともあったが、花 やしきに滞在する期間も長かったため、本人の希望も手伝い、霊子甲冑の整備に 早くから携わっている。 「はああ‥‥こんなことなら、紅蘭の仕事、手伝っていればよかった‥‥」 と、紅蘭がいれば、むっとするような言葉を呟いてしまった。 「ふーん、大神さん‥‥甲冑の整備、したいんですかあ」 「お、おやーっ!?‥‥さ、さくらくんでは、ありませんかあ」 「‥‥今の今迄‥‥整備のことなんか全然‥‥どうしたことでしょうねえ‥‥」 「あ、いやあ、そ、その‥‥うん‥‥やはり、技術を理解した上で、乗るほうが ‥‥」 「ほー‥‥」 「そ、そうだ、か、歓迎会の準備があったんだねっ、さ、さあ、行こうか、さく らくんっ」 「‥‥‥‥」 大神がさっと階段のほうに向かって歩いていく。 さくらがその後ろを背後霊のようにぴったりとくっついて出て行った。 杏華の歓迎会は楽屋でやることになった。恐るべき重量を誇る木製テーブルはカ ンナと大神、部屋の片付けをすみれとアイリス、買い出しをさくら、そして帝劇 三人娘という分担だった。 今回はケーキパーティにする、というマリアの提案により、ボルシチはおあずけ となった。甘いものが今一つ苦手な大神は暗い表情を見せたが、 「甘いのはあんまりないから、きっと大丈夫だよ」 というアイリスの言葉で、気を取り直して準備に奔った。 一通り片付き、厨房に向かうと、マリアがいた。 「‥‥何作ってんの‥‥マリア」 「え‥‥ええ、ちょっと‥‥」 マリアはそれをなるべく大神に見せないよう、背中を向ける。 「気になる‥‥」 マリアは頬を赤く染めて、横顔だけを大神に見せた。 「手伝おうか?」 「す、すみません‥‥こ、今回は、そ、その‥‥結構ですから‥‥」 「‥‥そう言われると、よけい‥‥どれどれ‥‥」 大神はマリアの肩越しに覗こうとした。 「あ、そんな‥‥いけません‥‥あ‥‥大神、さん‥‥」 大神の吐息がうなじにかかって、さすがのマリアも悶えてしまった。 「‥‥み、見えない‥‥いっ、いてててて」 背後に取り付いた紫色の亡霊、神崎すみれ。大神の耳をぐいっと引っ張り、入り 口まで連れ出す。 「‥‥わたくしの仕事、まだ終わってませんことよ‥‥あなたはわたくしの奴隷 ‥‥さあっ、ついてらっしゃいっ」 ズンズンと楽屋まで連行されていった。 「あ‥‥はあ‥‥‥‥大神さん‥‥」 なんとなく寂しそうなマリアが、一人厨房に取り残された。 杏華の持つ技術能力は、神凪をして唸らせた。神凪の持つイメージをそのまま、 杏華は完璧に表現した。しかも仕事が恐ろしく早い上、正確無比。山崎は整備専 門ではないが、それでも花やしき工場専属技師に比べても、倍は早くセンスもあ る。杏華はその山崎のさらに倍の早さを示した。センスも並々ならぬものがあっ た。 「‥‥すごい‥‥信じられない‥‥司令並み‥‥それ以上かも‥‥」 山崎は唖然として杏華の手際に魅入っていた。神凪と杏華によって、純白の霊子 甲冑はみるみる肉付きが良くなっていった。 「たいしたもんだ‥‥今にして思えば、神崎の爺さん、よく承諾してくれたよな ‥‥」 「そ、そんな‥‥」 「ふむ‥‥よし、機関部の搭載が終わったら、さくらくんの神武を並行してやろ う。それと‥‥夕方には七瀬も到着する予定だから‥‥」 「えっ!?‥‥ま、まさか‥‥七瀬を‥‥起動するんですか!?」 杏華が驚いて問いただした。 「杏華さん、七瀬のこと‥‥知ってるんですか?」 「‥‥‥‥」 「すみれくんに乗ってもらおうと思ってるんだが‥‥」 「七瀬は‥‥わたしが造ったんです‥‥」 「えっ‥‥」「‥‥‥‥」 「わたしが全てを担当した霊子甲冑です‥‥初めて。神崎会長の指示で作製した んですが‥‥でも‥‥結果としては‥‥やっぱり零式と同じで‥‥人を選ぶよう になってしまいました」 「‥‥‥‥」「‥‥ふむ」 「三色すみれ‥‥って、ご存知ですよね」 「子型霊子甲冑・桜武の試作機三体‥‥‥‥すみれくんが乗って、虎型‥‥光武 が生まれた」 「‥‥あれがべースになっています‥‥会長は、すみれさんのために作製したか ったようです。三体の子型を全解体して、機関部と制御系を成す部品を抽出して ‥‥新しく組直したんです」 「桜武の部品‥‥でも、結構古いんじゃ‥‥」 「ええ‥‥ですから、フレームと外部装甲は一新しています‥‥それはいいんで す。組み直した‥‥その、エンジンと‥‥制御系が‥‥問題なんです」 「それは‥‥」「‥‥‥‥」 「最初は‥‥量産型神武に搭載している直列型よりも、かなりコンパクトに仕上 がりました。勿論、李紅蘭女史の開発した複合型霊子動力増幅器はその時はまだ 存在してません。類似してるんですけど、わたしが試作した霊気波長フィルタと アンプを接続しました。結果的に現行型神武と同等の出力を得るに至りましたが ‥‥」 「へえ‥‥」「‥‥‥‥」 「それで‥‥わたし‥‥作り直しちゃったんです‥‥量産型とイメージが違うか ら‥‥」 「?」「‥‥外見が、かな?」 「はい‥‥そのエンジンを、量産型の寸法に合うよう‥‥拡大してしまいまし た。つまり三基直列です」 「!!」「ほう‥‥」 「寸法は量産型とほとんど同じです‥‥」 「そ、それじゃ、パワーが‥‥」 「花組のみなさんが使われている神武の‥‥少なくとも3倍はあります」 「ぜ、零式並みか‥‥」 「それに‥‥エキゾースト・マニホールドに切替可能の排気デバイス‥‥つま り、バイパスを造って、そこに超高速回転型セラミックス・タービンと、背圧制 御バルブ‥‥それに強制冷却器と連動する補助霊子力増幅器なんかも併設しまし た」 「?」「‥‥さらに上がる、か」 「はい‥‥最大出力は‥‥5分間ほどですが‥‥さらに倍化します」 「!!!」「なるほど、だが‥‥」 「5分間だけです。それ以上排気デバイスを使用するとエンジンが壊れますか ら。でも‥‥結局、ノーマルスペックでも乗りこなせる人材がいませんでした‥ ‥勿論当時の花組の方々、そして大神さんも例外ではありません‥‥でも、今の 大神さんなら多分‥‥」 「し、信じられない‥‥」 杏華はうつ向き始めた。 「それに合わせて、フレームも‥‥外部装甲も、制御系も勿論チューンしまし た。それでもう一つの問題が、その制御系なんです‥‥」 「‥‥暴走する‥‥か‥‥」 「‥‥はい」 「人を選ぶ‥‥人の霊力を吸収してしまうんだろ?」 「‥‥はい」 「‥‥それは俺がなんとかするよ‥‥俺の零式もそうだしな」 「‥‥‥‥」 「いや‥‥そこは触らないほうがいいかもな。今のすみれくんにしてみれば、 ね」 「七瀬は‥‥わたしの子供です‥‥ですが‥‥手におえなくなって‥‥しまった んです‥‥」 神武に採用された直列型蒸気併用霊子力機関は、半ば杏華の手によって実現され たものだった。杏華が試作型に使用したエンジンは結果デチューンされて量産型 に採用されることになった。山崎真之介が設計したものの実現できる技術力がな かったのだが、杏華が試作型で示したものは、その設計指針を大きく上回るもの であったのだ。その弟である山崎はもう口を開くこともできなかった。 「ま、到着してからのお楽しみってとこだな‥‥杏華くんの娘は、わたしが育て よう‥‥だから杏華くんは、この純白の機体‥‥そして、桜色と新緑の神武に集 中してくれ」 「はい‥‥」 「本格的な作業は明日以降だな‥‥とりあえず夕方まで、やれるところまでやろ う。その後は‥‥歓迎会が待っている」 「はい?」 「杏華くんの‥‥帝劇への歓迎会さ」 「そ、そんなあ‥‥わ、わたしなんか‥‥」 「ふふふ‥‥あの娘たち、相当気合が入ってたもんな‥‥殺気立っている、と言 ったほうがいいかも‥‥」 「や、やった‥‥」 「わ、わたしなんか‥‥本当に‥‥」 「ま、楽しみにしてなさいな」 「うれしいですう‥‥」 「はああ‥‥楽しみだなあ‥‥」 神凪は苦笑して作業を続けた。実際、神凪本人も楽しみではあった。外国に長く いたこともあって、神凪は大神と違って甘いものが結構好きだった。日本にいた ときは、大神同様得意ではなかったが、郷に入って郷に従いすぎた。あの芸術品 とも言えるケーキ‥‥今朝はおあずけを喰らったが‥‥ 『‥‥ふっふっふっ‥‥今度こそ喰らってやる‥‥』 と言うことだった。 歓迎会の準備は、陽が赤く色付いた頃に終わった。楽屋のテーブルの上は、それ こそ埋め尽くさんばかりの華が咲いているようだった。四季を彩るような、ケー キという名の花の群生。 最初はカンナとアイリスで食後のデザート程度に抑えようとしていたが、マリア の参入により、腕の競い合いとなってしまった。結果その数は、一人あたり最低 5つは食べないと消化しきれないほど膨れ上がった。 「わああ‥‥すごいです‥‥こんな‥‥わああ‥‥」 杏華は、やはり女の子だけあって、甘いものには目がない。時折、自分でも挑戦 するようなのだが、機械のようには‥‥だった。 「杏華ちゃん、ここに座るんだよ‥‥アイリスはその隣でーす」 「じゃあ、俺はその反対側の隣へ‥‥いてててて」 「大尉は、こ・ち・らっ!」 結局大神はすみれに再び連行され、杏華とは向かい合わせで配置した。さりげな く、マリアが大神の横に座る。 席順は、壁側に入り口から、 椿、アイリス、杏華、さくら、山崎、カンナ。 鏡側に、入り口から、 由里、かすみ、すみれ、大神、マリア、遅れて神凪。 「ほほう‥‥‥‥これは‥‥すごいな‥‥‥‥芸術品、だな‥‥うむ」 神凪が唸った。確かにすごい景観だった。 「ふっふっふっ‥‥では、さっそく‥‥」 「お待ち下さい。順番がありますから」 神凪がボキボキ指を鳴らしながら手を出そうとすると、すかさずマリアが冷たい 目で制した。 「‥‥失礼しました」 しゅんとする神凪。大神と山崎がにやにや笑う。 「そうだよ、お兄ちゃんのお兄ちゃん。それに‥‥ケーキも食べる順番があるん だよ」 「?」 「へへへ‥‥最初はアイリスでーすっ」 四季の順番で出すようだった。一番目はアイリスのレモンケーキ。 「すっごいきれい‥‥」 杏華が言うように、確かに切るにはもったいない美しさだった。アイリス自らナ イフを入れる。人数が多い分、一人あたりに割り振られる大きさはかなり小さく なるが、そこは何しろ数が半端ではないために、ちょうどよいと言えばちょうど よい大きさだった。 「‥‥これ‥‥ま、まさか‥‥アイリスが?」 「‥‥どういう意味?」 と、自分の歓迎会の時と同じ質疑応答をする神凪とアイリス。 「ど、どれ‥‥‥‥ん‥‥ん?‥‥こ、これはああ‥‥あああ‥‥素晴らしい‥ ‥素晴らしいよ、アイリス、うまい、うまいよ、アイリスーっ」 「ア、アイリス‥‥うれしい‥‥」 と、これまた全く同じ反応を示す神凪とアイリス。他の面々も驚きを隠せない。 軽い甘味、抑え目のさわやかなレモンの酸味、メレンゲの歯ごたえ、積層化され たケーキとクリームのバランス、それを際立たせるシナモンの香りと苦味。 「これは‥‥確かに‥‥俺、結構好きかも」 と、甘いものが苦手の大神も賞賛する。 「や、やるな、アイリス‥‥」 「こ、これほどとは‥‥」 と、カンナとマリア。 「負けねえぜ‥‥次はあたいだぜっ」 カンナのアップルパイもかなり小さめに切られた。 「‥‥こ、これ‥‥ま、まさか‥‥カンナ、が?」 「‥‥どーゆー意味だっ」 とまた同じ質問をする神凪。 「あ、いや‥‥どれ‥‥‥‥ん‥‥ん?‥‥こ、これはあああ‥‥すごい‥‥は あああ‥‥すごいぞーっ、カンナっ‥‥うまい、うまいぞっ、カンナーっ」 「カ、カンナ‥‥うれしい‥‥」 他の面々は口に入れる直前で一瞬硬直した‥‥が、すぐに気を取り直して口にし た。確かに素晴らしい出来栄えだった。柔らかく煮込まれた林檎の歯ごたえと、 何も足さない林檎本来の甘味。それを包むパイ生地のサクサクとした歯ごたえ が、また絶妙。 「これは‥‥確かに‥‥いいな‥‥これもいける、いけるよ、カンナ」 「ほ、ほんとか、隊長!?」 「ああ‥‥俺、甘いもの苦手なんだけど‥‥これはすごいよ」 大神は目を閉じて味を反芻した。 「‥‥アイリスのレモンケーキ‥‥春の香りと味だね。そして、カンナのアップ ルパイ。夏そのもの‥‥味といい、確かに絶妙の組み合わせだな‥‥順番がある とは、このことか」 「やったぜ‥‥」 「やったあ」 カンナとアイリスは目配せで健闘を讚えあった。 マリアの瞳がキラッと輝いた。 「次は‥‥わたしね」 マリアがリリースする次の作品は秋をイメージしたもの。ミートパイだった。も ともと小さめで、出来上がりの美しい形状は保持したまま配膳された。 形状‥‥それは楓。こんがりときつね色に焼かれたパイ生地の、その輪郭に添っ てまた楓の窪みがある。そこに配置する焦茶色に焼かれた挽肉が、紅葉を思わせ るコントラストを見せた。 「美しい‥‥こんなの初めて見る‥‥」 大神と神凪は口をそろえて言い、そして口にした。 「!」「!」 それはまさに秋の味だった。少し辛味の効いた挽肉と、パイの甘味の絶妙なバラ ンス。食欲をいやがうえにも増す、最高の前菜だった。 「‥‥こんな‥‥おいしいの‥‥わたし‥‥初めて‥‥です‥‥」 杏華が、静まりかえる楽屋でかろうじて声を出した。 「‥‥おいしい‥‥どうして‥‥こんな‥‥」 「‥‥おいしいですわ‥‥」 さくらとすみれも絶賛した。まさに春ー夏ー秋と完璧な連携に、大神と神凪はそ ろって隣に座るマリアを見つめた。 「すごいよ‥‥マリア」 と、これまた口をそろえて言う大神と神凪。 「マリア‥‥うれしい‥‥」 と、顔を真っ赤にするマリア。 「ぬぬぬ‥‥や、やるな‥‥よ、よーし、アイリス、いくぜっ」 「おーっ」 カンナとアイリスはいきなり楽屋を出ていった。 「?」 全員がぼけっと二人を見送る中、マリアの目が今度はギラリと光った。二人はし ばらくして戻ってきた。手にはそれぞれトレーを持って‥‥その上にガラスの小 皿が人数分あった。冷気が溢れてきた。 「へっへっへ‥‥四季の最後を飾るのは‥‥冬の合体技だぜっ」 「シャキーーンッ」 と、カンナとアイリスがトレーを持ちながら、合体技のポーズを取る。 「な、なんだ?」 と、神凪と大神が思わず腰を引く。配られたのは‥‥アイスクリームだった。当 然どこにも売っているはずがなく、初めて見る代物だ。 「な、なんだこれ‥‥」 「へっへっへー‥‥まあ、喰ってみなって‥‥」 それもただのアイスクリームではなかった。へらで切り取られた純白のアイスク リームの華、その下を緑色の薄い花弁が支えている。抹茶と砂糖を混ぜてお湯に 溶かし、ゼラチンで固めた、寒天よりも柔らかく、ゼリーよりも弾力のある下 地。白い花の中央には山吹色の小山‥‥それは南瓜のムース。 「‥‥!」 神凪はかなり魂消た。外国を放浪して10年近く、どこの国でもお目にかかった ことのない味と感触だった。甘く冷たい白い花びらは、口に入れると一瞬で溶け る。南瓜のムースは冷たく歯ごたえがある。下地のゼリーはそれらを巧みにサポ ートした。 「‥‥言葉もなし‥‥だな、こりゃ‥‥」 それ以上に驚いたのが杏華、そして花組の少女たち、帝劇三人娘たちだった。 「こんな‥‥こんなおいしいものが‥‥この世にあるなんて‥‥」 「‥‥‥‥」 ほとんど口がきけなかった。 「‥‥カ、カンナさん‥‥あ、あなた‥‥こ、これを、ど、どうやって作ったの です‥‥」 すみれが動揺を抑え切れず聞く。口元には溶けたアイスクリームの白い跡がつい ていた。それにも気付かずに。 「へっへー‥‥教えてほしいか、ん?」 「ぬぬぬ‥‥さ、猿の分際で‥‥こ、このような可憐な品物を‥‥」 「けっけっけっ‥‥こういう繊細な作品はあたいらにしか作れねえんだよ、な ー、アイリス」 「ひっひっひっ‥‥そういうこと‥‥教えて‥‥あげないよーーだっ」 「ん‥‥おや」 大神が微笑みながら、すみれの口元についたアイスクリームを指で軽くぬぐっ た。 「や、やだ‥‥わ、わたくし‥‥」 すみれが照れながら、それでも大神にべったりと張り付く。これを見たマリアは ますます燃え上がった。 『‥‥うぬぬぬ‥‥してやられたわ‥‥こ、紅蘭、あの娘、わたしには内緒で‥ ‥』 マリアはかなり悔しがっていた。彼女は勿論このアイデアは元からあった。だ が、牛乳をどのようにして分離すればよいか、その手法がわからなかったのだ。 生クリームを抽出さえできれば、あとは凍結する過程でゆっくり何度も撹拌すれ ば、緻密な空気穴が入った滑らかな氷菓が実現できる。 「‥‥へー‥‥おいしい‥‥けど‥‥ちょっと甘い、かな‥‥」 聞こえないように呟いた大神のその言葉を、隣にいたマリアは聞き逃さなかっ た。 『!‥‥やっぱり‥‥大神さん‥‥』 「さて‥‥マリアの対抗技っつうのを拝見したいもんだぜ」 「そういえば‥‥マリア、今朝どっか行ってたよね‥‥買い物?」 「‥‥‥‥」 マリアはすくっと立ち上がると、厨房に向かって出ていった。 「対抗‥‥技?」 「うん‥‥同じ冷凍物らしいよ‥‥マリアらしく」 「へー、なんだろな」 大神と神凪、特に大神はマリアの料理の腕はよく知っているだけに期待した。山 崎と少女たちはもう、評価する以前にその味と美しさにめろめろになっている。 マリアはカンナとアイリスの準備よりも早く、楽屋へ戻ってきた。トレーには人 数分のワイングラスが乗っていた。その中に‥‥遠目にはビー玉のような照明に 反射する物が入っている。 「これは‥‥」 非常にシンプルだった。 果物。 苺、オレンジ、パイナップル、メロン。 苺以外を一口サイズにしてワイングラスに入れたものだった。 「‥‥‥‥」 大神はじっと見つめた。 「これ‥‥凍らせてあるね」 「はい」 「へー‥‥でもガキガキになるんじゃない?」 アイリスが聞く。 大神が口に入れる。 「‥‥はああ‥‥これは‥‥いい‥‥‥‥これは、すごくいい‥‥」 「!」 マリアは顔がぱっと明るくなった。おそらく少女たちは、絶対にアイリスとカン ナの作ったアイスクリームを選ぶはず。 だが、大神は違う。マリアはそう判断し、これを作った。 「‥‥すごく‥‥おいしいよ‥‥マリア」 「うれしい‥‥」 「へー‥‥どれ」 カンナが食べる。 「!‥‥こんな‥‥馬鹿な‥‥どうして‥‥ガキガキになると思ったのに‥‥」 凍り付きながらも、シャリシャリと楽に歯が入る。非常に爽快だった。天然の果 物そのものの甘さ、果物そのものの味と風味がそこにあった。完全に凍結する一 歩手前で抜き出し、室温へ引き抜く時間を見計らって冷蔵庫へ移動させる。シン プルで古典的でありながら、何も手を加えない自然が育んだ一品だった。 「おいしい‥‥こんな食べ方もあったのかあ」 アイリスも唸る。少女たちも絶賛していた。カンナとアイリスのアイスクリーム に十分匹敵する作品‥‥雪娘の美技を垣間見た思いだった。 イントロダクションは終了した。それだけで、少女たちはもう恍惚とした表情に なっている。至福の時であった。後は自由に食することになった。とにかく、数 が尋常ではないため、それ以降は聞かれたら答える式、にせざるを得ない。 マリアがチョコレートケーキを切る。 「‥‥それ、どうやって作ったんだ、マリア」 「アイリスも知りたい‥‥諦めたのは、やっぱり、硬すぎるし、甘いし‥‥ケー キには向かないんじゃ‥‥と思って」 「ふふふ‥‥そこは工夫よ」 マリアはまずスポンジケーキになる材料にカカオを入れた。そして、薄く切ると ころはアイリスのレモンケーキと同じだった。輸入品のチョコレートは使わず に、カカオだけを使った。それは、アイリスと違って、以前から帝劇の厨房にマ リアが保管していたもの。 チョコレートクリームも自分で作る。砂糖は少なめに。それを挟み込む。積層化 した土台をチョコレートクリームで包む‥‥これはアイリスのレモンケーキと全 く同じ。そして上部に飾るチョコレートを別に作る。硬い状態の板チョコを包丁 で刻む。鉋の切りくずのような極薄のチョコをまんべんなく降りかけて‥‥出来 上がり。 「‥‥そういう方法か」 「へー‥‥」 「おいしい‥‥はああ‥‥どうしたら、こんなおいしいの作れるんですか‥‥」 自分では絶対作れる自信のない杏華が聞く。 「楽しんで作ればいいだけよ‥‥自然においしくなるわ」 「へへへ‥‥そうだよね」 「そーゆーこと」 大神もその一つを取ろうと手を延ばすと、マリアがすかさず制止させた。 「あ、あの‥‥大神さんには、そ、その‥‥別のが‥‥」 「え?」 「こっちです‥‥」 先程一人で厨房にいたときに作ったものらしかった。氷菓の時は思い至ったこと が、チョコレートケーキの段階では、すっかり失念していた。それであわてて、 マリアは別のケーキを大神のためだけに作った。 「‥‥色が違う」 やはり一口サイズのそれを、大神は口にした。 「‥‥おいしい‥‥これは‥‥珈琲か‥‥」 「は、はい‥‥」 「あ‥‥これは‥‥あの時‥‥あの時、横浜で飲んだ珈琲の‥‥珈琲の味がする ‥‥」 『!!‥‥お、憶えて‥‥いて‥‥くれた‥‥‥‥大神‥‥さん‥‥』 「俺が甘いもの苦手だって‥‥知ってたんだね‥‥だからさっきこれを‥‥」 マリアは大神にじっと見つめられて、顔を真っ赤にしてうつ向いた。 「珈琲のケーキか‥‥うん‥‥これは‥‥いい」 「ほー、どれ、俺にも一口‥‥」 と、大神の残りを奪い取ろうと、マリアを乗り越えて神凪が寄ってきた。大神が すかさず皿をすっとよける。神凪の手は空振りし、バランスをくずしてマリアの 膝にのし掛かる格好になった。 「あ」 「あ、ご、ごめん、マリア」 マリアは更に顔を赤くした。恐るべき視線を予測し、神凪と大神までが身構えた が、少女たちは目の前のご馳走から目を離せなかった模様だった。 「ほっ‥‥」「はひ‥‥」 で、大神はすかさず、神凪を睨んだ。 「‥‥これは俺の、です」 「別に減るもんじゃ‥‥」 「減るでしょーがっ」 大神は残る自分のケーキを口に放りこんだ。マリアの顔は、へらへらと緩みっぱ なしになっていた。 「くそっ‥‥一つ喰えなかったのが‥‥これで完全制覇の野望が‥‥」 と、訳のわからないことを言う神凪に、アイリスが何げなく話し掛けた。 「アイリスが‥‥お兄ちゃんのお兄ちゃんのために作ったのをあげる‥‥」 アイリスが頬を赤くして手渡した、その小皿の上には‥‥レモンケーキとは違う 山吹色のケーキがあった。 「あ、ありがとう‥‥アイリス‥‥」 「へー‥‥ずいぶんおもしろい、と言うか、きれいというか‥‥」 山吹色‥‥アイリスの色のその半球状の頂上についているのは、一目で栗とわか った。どうも栗のケーキらしい。 「マロンケーキだよ‥‥フランスではモンブランって言うの」 「へえ‥‥ん‥‥これは‥‥‥‥!」 神凪はまた思いだした‥‥シャトーブリアン家に行った折り、フォアグラのソテ ー同様、食後に出してくれた夫人自ら作ったデザートを。 「‥‥は‥‥ははは‥‥アイリス‥‥」 「うん?」 「‥‥君は‥‥もう、お嫁さんに行ってもいいんじゃないか?」 「ほ、ほんとおおっ!?」 「‥‥これは‥‥すごいな‥‥全く‥‥全く同じ味だよ、お母さんと‥‥おいし い‥‥まさか、もう一度これを食べられるなんてなあ‥‥」 「うれしいよー、アイリス、うれしいいい‥‥」 「へえ‥‥栗か、どれどれ‥‥」 と、今度は大神が神凪の手元に手を延ばした。神凪はアイリスに微笑みでお礼を しながら、皿をすっとよける。 「‥‥お前‥‥これは‥‥俺んだよ」 「ちょっとぐらい‥‥」 「‥‥お・れ・の・だ」 大神はすごすごと引き返した。今度はアイリスがへらへらと顔を緩めていた。 「おいしい?‥‥杏華ちゃん」 「うん、うん‥‥はああ‥‥わたしも、こんなの作れたらなああ‥‥」 「杏華さんは料理なんかするの?」 さりげなく大神が聞く。 「‥‥はい‥‥でも、あんまり得意じゃ‥‥」 「へええ‥‥俺、食べてみたいなあ‥‥」 杏華が真っ赤になって恐縮する。 「そ、そんな、わ、わたしなんか‥‥だ、だめですよう‥‥」 「ふーん‥‥大神さん‥‥杏華さんの作る御飯が食べたいんだ‥‥へー」 さくらがフォークをギリギリと噛みながら、じっとりと大神を真正面から見つめ る。視線を反らすとその先々には同様の視線が待機していた。たまらず下を見る 大神。 「そんな‥‥わたし‥‥‥‥うれしい‥‥」 同じく下を見る杏華。 「こ、これは、なんだろな‥‥」 大神はまだ手をつけてない焦茶色のケーキの一つを持った。 しっとりとしたそれは‥‥ 「おっ‥‥そりゃ、あたいが作ったやつだよ」 「ん‥‥ん?‥‥これ、酒が‥‥ブランデー、かい?」 「おおよ‥‥その名の通りブランデーケーキだぜっ」 「へえ‥‥あ、こりゃいいや‥‥‥‥ん?‥‥なんか‥‥いやな‥‥予感が‥ ‥」 「‥‥ひょ‥‥ひょういいいい‥‥」 大神が手に取るものを追随して口に入れていたすみれが、当然それも口にした。 反応は早かった。顔を真っ赤にして、目をとろんとさせて大神にへばりつく。” 大尉”ではなく、やはり呼び慣れた”少尉”ときた。 「き、きもひ‥‥いいれしゅわ‥‥‥‥わ、わらくひを‥‥たべてええ‥‥」 「げ‥‥やっぱし‥‥」 「あのう‥‥支配人‥‥」 「ん?‥‥なんだい‥‥かすみくん」 ケーキを口に頬張り、なおも次のケーキに手を出そうとしている神凪に、かすみ が話し掛けた。 「杏華さんは‥‥やはり、甲冑の整備専門でこちらに‥‥」 「うん‥‥杏華くんは‥‥神埼重工の‥‥社員だからね。それも‥‥無理は、さ せられないな」 「はああ‥‥そうなんですか‥‥」 「?‥‥どした?」 「そのー‥‥」 かすみは由里と目配せをしながら、話しにくそうに‥‥それでも口を開いた。 「‥‥来月の‥‥公演のことなんですけど‥‥」 「?‥‥来月は‥‥うん、えーと‥‥”愛はダイヤ”で‥‥行こうって‥‥ん ぐ」 「おひょひょひょ‥‥いよいよ‥‥わらくひの出番れしゅわ‥‥」 「よっしゃ、この間は中途半端に終わっちまったからな‥‥やったるぜっ」 アルコールも手伝って再び燃え上がるすみれとカンナとは対照的に、かすみと由 里は暗い表情を示す。 「それが‥‥問題が二つほどあって‥‥」 「?」 「背景が‥‥壊れてるんです。業者さんもつかまらないし‥‥」 「それに衣装が、なんかねずみに喰い千切られてしまっちゃって‥‥」 「な、なんれしゅって‥‥」「う、うそだろー‥‥」 神凪は口の中をぱんぱんに膨らませながら、かすみと由里を見た。 「ほ、ほえは‥‥いっはい、ほーひはは‥‥んぐ‥‥」 「愛ゆえに、でしたから、次はシンデレラ、というわけにも‥‥」 「理想的にはコメディがいいんじゃないかと思って‥‥」 「じゃあ、残るは‥‥大恐竜島、か‥‥でもなあ‥‥紅蘭がいないし‥‥」 大神も頭をかかえた。 「そ・こ・で‥‥」 由里が続ける。 「紅蘭の代役にですね‥‥杏華さんを使わせていただけないかと‥‥」 「!!」 杏華はかなり目を皿のように見開いて、驚きを現わにしていた。 「なふほほ‥‥ほえあいい‥‥ほー?、ほーはふんっ」 支配人とはとても思えない神凪の態度だった。話を聞いているときも口に詰め込 む作業は中断しない。 「アイリス、やりたーいっ、杏華ちゃんと舞台立ちたいっ」 「そそ、そんな、そんなああ‥‥わ、わわ、わた、わたしななんかかか‥‥」 「大丈夫よ、杏華さん‥‥ここにいる山崎さんだって、この間‥‥ねえ?」 「ん?」 さくらに指名された山崎の状況は神凪を凌いでいた。口を少しでも開くと、どど っと内容物が吹き出してきそうだった。 「い、いええ‥‥」 神凪とほぼ真向かいで座る山崎は、その神凪と争うようにケーキを捕獲してい た。当然神凪もそれに対抗する。 「ほいっ、やまはひっ‥‥おまえ‥‥食いふぎ‥‥」 「んむむむ‥‥」 「うーむ、それは‥‥いいかもな‥‥うん、きっといいぞ‥‥うん」 一人納得する大神。 「やろうよ、杏華さん‥‥楽しくなるよ、絶対」 「あの‥‥可憐な‥‥わらくひの‥‥舞台衣装が‥‥ねじゅみに?‥‥悪夢れし ゅわ‥‥」 「ちぇっ‥‥しょうがねえか‥‥うん‥‥よしっ、杏華、いっちょやったれ」 「そ、そそんなあああ‥‥わ、わた、わたし、ひ、人まま前に、ででるななんて ええ‥‥」 「この間は前日に配役決定で、徹夜だったからなあ‥‥今度は時間もたっぷりあ るし‥‥がんばろ、杏華さんっ」 なにげなく激励する大神。 「ひいいい‥‥そ、そんなあああ‥‥」 「よひっ‥‥‥‥神埼の‥‥爺さんには‥‥俺から‥‥言っとくからな‥‥ふっ ふっふっ、こりゃ、ダメオシだな‥‥けっけっけっ‥‥あ、いや、なんでもない ‥‥決まりだっ、よーしっ、来月は”大恐竜島”で行くぞっ。みんな、そのつも りでな‥‥むぐっ」 「おーっ」 「ひえええ‥‥」 夕陽が落ち、銀座の街に燈が点った。少女たちは片付けが終了したと同時に、就 寝についた。さすがに、徹夜が応えたらしかった。灯りが点るサロンには、司令 と副司令、そして花組隊長がいた。‥‥神凪、マリア、そして大神。 「‥‥さすがにマリアだね。すごくおいしかったよ」 「そ、そんな‥‥」 「そーそ‥‥それに、カンナとアイリス‥‥彼女たちにも驚かされたな」 「そうですね」 マリアは少し赤い目を、それ以上に赤い頬が隠しながら、うつ伏せて二人の大神 を見つめていた。三人ともソファではなく、椅子に座っていた。 神凪と大神が隣り合わせで‥‥マリアがその向かい側に。 神凪は椅子に背垂れながら。大神はテーブルに肘をついて。 『‥‥このまま‥‥時間が止れば‥‥いいのに‥‥』 マリアは、いつかアイリスがベランダで言った言葉を、心の中で呟いた。 同じ人。護る人。護ってくれる人。 音のない劇場に、銀座の街の夜の雑踏が優しく染み込んできていた。 大神がなんとなく真面目な顔つきをした。 「‥‥今日‥‥竹林にアイリスと、それに杏華さんと行ったんですが‥‥」 「ん‥‥」 「そこで‥‥おかしな子供に会いました」 「‥‥ほう」 「残りの‥‥不明とおっしゃってた、あれですか?」 「‥‥どんなやつだった?」 「対峙しただけで、なんとも‥‥あえて言うなら、外見と中身はまるで違う、ぐ らいですか」 「ふむ‥‥」「‥‥‥‥」 「ただ‥‥目的ははっきりしているようですね」 「‥‥」「?」 「杏華さん‥‥それと花組のみんなです」 「‥‥‥‥」「それは‥‥」 「どういうわけか、自分には目もくれず‥‥」 「‥‥徹夜は案外幸運だったのかもしれんな。彼女は常に俺、もしくは大神、お 前が傍にいたからな。勿論花組のみんなも一人でいることはなかった‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「素性がまだわからんから、こちらとしては動きようがないな。‥‥だが‥‥先 の白いやつの事例を考えると、親玉は失態を許せん口らしいし‥‥ふっ、次は力 で来るかもな」 「それでは‥‥」「‥‥‥‥」 「お前の神武、予定より相当早く上がりそうだ。ほんとは俺一人でやるつもりだ ったが、最強の助っ人が来てくれたし、な」 「確か、杏華さんは神武の開発初期から携わっていたと‥‥」 「その通りだよ、マリア‥‥技術的な能力だけで言えば、紅蘭をも凌いでいると 思うな」 「!」 「‥‥やはり‥‥彼女には今しばらく‥‥この件が片付くまで銀座にいてもらっ たほうが‥‥」 「‥‥そうですね」 「ああ‥‥舞台にも上がってもらうし‥‥紅蘭が戻ってきたら彼女と山崎、三人 で整備をしてもらおう。俺も本来業務に復帰できそうだな、そうしたら」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 神凪は天井を見た。 大神は腕をテーブルの上に組んで‥‥手を見つめていた。 マリアは、そんな二人を見ていた。 『‥‥わたしは‥‥わたしができることは‥‥』 ふいに大神がマリアの目を覗き込む。 「‥‥もう、休もうか、マリア‥‥俺たちも‥‥はははは、俺の場合、徹夜って 言っても、徹夜花札だったけどね」 まるで自分の考えを読まれたような気がして、マリアは大神を魅入ってしまっ た。 「‥‥お前、花札やるんか」 「さ、昨夜は不覚をとりましたが‥‥ふっ、自分の実力はあんなものでは‥‥」 「ほう‥‥で、だれが一番強いんだ?」 「うぐっ‥‥と、とりあえず‥‥昨日の時点では、さ、さくらくんと‥‥僅差で 杏華さんが‥‥」 「‥‥よーし‥‥どれ、一つ‥‥明日その二人を呼び出すか‥‥」 「えっ‥‥もしや勝負を‥‥じゃ、じゃあ、自分も‥‥」 「弱者はいらんっ!」 「がーん‥‥」 「ふっふっふっ‥‥山崎も呼ぶか‥‥咬ませ犬は必要だからな‥‥」 サロンの照明はその後すぐに消えた。 夜はその部屋のためにあったのかもしれない。 薄暗い部屋。薄暗いランプが照らす赤い人影。その人影から、陽炎のような湯気 が立ち上がっていた。濡れて見える長い髪は、事実濡れていて、いつものように 後ろで束ねてはいなかった。チャイナドレスの肩に、襟元に‥‥その繋ぎ目が開 け放たれ、そこにも流れこんでいる。 首元を滑らかに繋ぐ肩までの曲線、そして鎖骨まで‥‥濡れた髪の滴が流れ落ち た。雫はその‥‥胸の谷間まで‥‥つっ‥‥と、ひと雫く流れた。見る者が入れ ば、目を離すことなど‥‥できない光景だった。 「‥‥ずいぶん時間がかかった割には‥‥ふふふ、やっぱりお子様ねえ‥‥」 「ご、ごめんなさい‥‥だって、とげとげのお兄ちゃんが、ずっと傍に‥‥」 「‥‥どっち?」 「ど、どっちも‥‥」 その女性から立ち上る湯気が赤く色付いたようだった。 「‥‥あの‥‥女‥‥もう‥‥生かしてはおけないわ‥‥この‥‥この、わたし の‥‥大神くんを‥‥神凪さんを‥‥‥‥おのれ‥‥」 「‥‥‥‥」「こ、こわい‥‥よう‥‥」 「甲冑の‥‥ほうは‥‥どうなの‥‥」 「完成いたしました‥‥母体との融合率もなかなかで‥‥」 「ふふふ‥‥わたしの分身はじっくりやってちょうだい‥‥この子のは?」 「いつでも」「え‥‥」 「連れていきなさい」 「は‥‥」「え、え‥‥ど、どして‥‥」 「うふふふ‥‥はああ‥‥いいわあ‥‥あの女‥‥あの小娘‥‥ふふふ‥‥今の うちに‥‥楽しんでおきなさい‥‥‥‥殺してあげるから‥‥死ぬのよ‥‥あは ははは‥‥」 「や、やだよ‥‥や、やめてくれ‥‥た、助けてく‥‥んげががが‥‥」 「あははは‥‥はああ‥‥いいわあ‥‥あああ‥‥おお‥‥が‥‥み‥‥く、ん ん‥‥」 薄暗い赤いランプが照らす、少女のような唇。そしてその端から溢れ落ちる、ひ とすじの透明な雫。濡れた髪から零れ落ちる雫に混じり込んで、それは胸元まで 伝わった。空洞が影をつくる赤い舌の、その先をもランプは照らした。とめどな く流れ落ちる透明な露。 「お嬢様‥‥」 「あああ‥‥あ‥‥はやい‥‥わね‥‥」 「わたしが同化したほうが‥‥」 「うふふふ‥‥はああ‥‥あなたは、だめよ‥‥あなたは‥‥取っておきよ‥ ‥」 「しかし‥‥わたしは、お嬢様のためにあります‥‥お嬢様がお望みなら‥‥」 「あははは‥‥‥‥あなたは‥‥あの小娘や‥‥あの女には‥‥手を出せないで しょう?」 「そ、それは‥‥その通りにございますが‥‥」 「うふふふ‥‥愛してるんですものねえ‥‥あの小娘を‥‥」 「お、お戯れを‥‥」 「あんなおさげ髪のどこがいいのか‥‥ふふっ‥‥こっちにいらっしゃい‥‥」 「‥‥‥‥」 その気配は闇から生まれ出た。青いシャツに閉じ込められた屈強を絵に描いたよ うな男。身長が2メートル近くある。銀色の髪。サングラスの外された目。それ は‥‥優しい、人間の瞳のように見えた。 その男は白い艶めかしい脚の前でひざまづいた。女性はゆっくりと立ち上がっ た。そして膝をつき、男の逞しい顎を掌で掬いあげる。 「ふふふ‥‥あああ‥‥たくましいわ‥‥ふふ‥‥」 「もったいのう‥‥ございます‥‥」 「ふふふ‥‥」 その女性の濡れた唇が‥‥その男の耳を濡らした。口元が何かを呟いたように揺 れた。すると‥‥男の銀色の髪が、黒々と輝き始めた。そして、それまで漂って いた妖気が消え、霊力が‥‥黒い霊気が立ち上がる。 赤いランプが、まるで嫉妬したかのように閃くと、女性は再び立ち上がり椅子に 戻った。ランプは欲求を満たしたかのように、再び薄暗くその光を放った。 「うふふふ‥‥」 「わたしのような者を‥‥ありがたき幸せ‥‥」 「あなたは‥‥常にわたしの傍にいなさい‥‥わたしが出るまで‥‥じっとして なさい‥‥」 「身に余るお言葉‥‥‥‥おおせのままに‥‥」 男は影に溶け込んだ。気配も消えた。 ランプだけが残った。ランプだけがその女性の同伴者だった。焦点の合わないそ の女性の瞳を、ランプは赤く照らす。 「はああ‥‥も、もう‥‥一度‥‥‥‥か、神凪さあん‥‥ひっ‥‥」 音だけが薄暗い部屋に静かに響いた。かすれた声。肉と肉が擦りあう‥‥濡れた 音。布が風になびく柳のような音を奏でた。 「あああ‥‥あひいい‥‥はっ‥‥はやくう‥‥はやく、来てよ‥‥大神くうん ん‥‥」<五章終わり>
Uploaded 1997.11.06
ふみちゃんさんの大作、「花組野外公演」第五章です。 それまでと一転して、帝劇の少女達、大神達のこまごまとした出来事が綴られています。 あいかわらず大神を巡る少女達の葛藤に加えて、椿ちゃんまでも参加しそうな雰囲気です。 そして、第一章で少しだけ出てきた、藤枝杏華ちゃんの登場で、またもや大神はハーレム状態! うーむ。つくづくうらやましい奴。 それにしても、杏華ちゃんにある紅蘭の面影って、何なのでしょう? まさか・・・なのかな? 対して敵の方は、またもや不穏な動きを見せています。しかも、杏華ちゃんを狙っているみたいですね。 いったい彼女には何の秘密があるのでしょう? 謎めいた展開が続いていて、片時も目が離せなくなってきました。 では、続けて第六章もご覧下さい。そして、感想をふみちゃんさんにお送り下さい!
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