ここは‥‥どこだろ‥‥ お陽さまがきらきらしてて‥‥ 風がそよそよしてて‥‥ 「‥‥イリス」 「‥‥え?」 「アイリス‥‥」 「‥‥お兄、ちゃん?」 「アイリス‥‥こっちへおいで‥‥アイリス」 「お兄ちゃん‥‥お兄ちゃああん‥‥」 「アイリス‥‥」 あ‥‥アイリスの身体が‥‥大人に‥‥なってる‥‥ 「待ってたんだよ‥‥アイリス‥‥」 アイリスの顔が‥‥お兄ちゃんの胸に‥‥抱かれて、る‥‥ 「好きだよ‥‥アイリス‥‥」 「おにい‥‥大神さん‥‥あ‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥ん‥‥」 「‥‥アイリス‥‥俺の大切な‥‥人‥‥」 「‥‥ああ‥‥うれしい‥‥‥大神、さん‥‥」 小鳥が鳴いてる‥‥ うちに帰ってきたんだ‥‥ お兄ちゃんと‥‥一緒に‥‥ 「待って‥‥アイリス‥‥」 「え?」 「わたしも‥‥大神さんが好きなのよ‥‥」 風がそよそよしてて‥‥ お花が‥‥花びらが、舞っている‥‥ 桜だ‥‥ ここは‥‥日本‥‥上野かな‥‥ 「だれ?‥‥だれ、なの‥‥」 「わたしだって‥‥大神さんが、欲しいの‥‥」 「‥‥さくら‥‥さくら、なの?」 「わたしは、大神さんを‥‥愛してるの」 さくら‥‥きれい‥‥すごく、きれいになってる‥‥ 「わたしには‥‥大神さんが、必要なの‥‥」 アイリスが大きくなっても‥‥さくらは‥‥もっときれいになってる‥‥ 「アイリス、あなたには‥‥大神さんを奪ってほしくない‥‥」 負けちゃう‥‥このままじゃ、おにい‥‥大神さん、取られちゃう‥‥ 「お願い‥‥諦めて、アイリス‥‥」 「そ、そんな‥‥わたしだって‥‥大神、さんを‥‥」 「アイリス、お願い‥‥大神さんを、わたしに‥‥あっ‥‥」 「さくら?」 「ふふ‥‥」 「いや‥‥わたしは、大神さんの‥‥こ、来ないで‥‥」 「さくら‥‥だれ、その人‥‥」 「‥‥いや、だれか助けて‥‥大神さ‥‥」 「さくらっ‥‥だれか、さくらを‥‥お兄ちゃああん‥‥」 風が止んだ。 さくらの花びらが‥‥白くなってる。 なんか‥‥寒い‥‥ 雪の華‥‥ 「アイリス‥‥」 「だ、だれか‥‥え‥‥だれっ!?」 「あなたは‥‥大神さんの傍にいなさい‥‥」 マリ、ア?‥‥え‥‥あやめ‥‥おねえちゃん? 「大神さんの傍に‥‥」「大神くんの傍に‥‥」 「え、え?」 「大神はんの傍に‥‥」「大神の傍に‥‥」 紅蘭‥‥お兄ちゃんの、お兄ちゃん‥‥ 「大神の傍にいてくれ‥‥アイリス‥‥」 「ど、どこ行くの‥‥お兄ちゃんのお兄ちゃん‥‥」 「さくらくんを助ける‥‥‥‥君は‥‥マリアと大神の傍に‥‥」 「そんな‥‥一人で行っちゃ、だめっ‥‥待って、お兄ちゃんのお兄ちゃんっ」 「アイリス‥‥」 マリア‥‥あやめ、おねえちゃん‥‥同じ‥‥ 「大神さんを‥‥護って‥‥」 「え‥‥あ‥‥お兄ちゃんが‥‥」 「アイ‥‥リス‥‥」 「お兄ちゃんが‥‥消えちゃう?‥‥いやっ、お兄ちゃんっ」 「まだ‥‥大丈夫よ‥‥」 「え‥‥きょう、か、ちゃん?‥‥杏華ちゃんなの?」 「はやく‥‥はやく来て‥‥」 「うんっ」 脚が‥‥重いよ‥‥どうして‥‥ 「はやく‥‥アイリス‥‥はやく来て‥‥」 重い‥‥だれかが‥‥わたしを‥‥ 「だめよ‥‥大神くんは‥‥わたしのもの‥‥ふふふ‥‥」 「だれ‥‥だれよ‥‥」 「うふふふ‥‥お子様は引っ込んでいなさい‥‥」 「ア、アイリスは子供じゃないっ、もう大人だもんっ」 「へえ‥‥そんな成りで?‥‥あはははは‥‥」 あ、アイリスの身体‥‥もとに戻ってる‥‥ 違う、これ‥‥7歳の時の‥‥ や、やだ‥‥ 「うふふ‥‥わたしぐらい、美しくなってから‥‥出直してらっしゃい‥‥」 「いや‥‥お兄ちゃんは‥‥わたさない‥‥」 「ふふふ‥‥あそこの二人みたいになりたいの?」 「え‥‥す、すみれ?‥‥カンナ‥‥ど、どうして‥‥」 「うふふ‥‥聞こえないわよ‥‥死んでるんだから‥‥あはははは‥‥」 「いや‥‥やだ‥‥‥‥あ‥‥だめ‥‥行っちゃだめ‥‥杏華ちゃん、逃げて」 「お、大神さんは‥‥わ、わたさない‥‥」 「あなたは‥‥目障りなのよ、邪魔なのよ、いらいらするのよ」 「お、大神さんは‥‥わたしの‥‥」 「この女‥‥死ぬがいいわっ」 「あ、ああ‥‥‥‥大‥‥神‥‥さん‥‥」 「きょ、杏華ちゃああん」 「うふふふ‥‥さあ、大神くん‥‥いらっしゃい‥‥」 「あ、あああ‥‥俺は‥‥」 「まだよっ‥‥大神さんは‥‥わたさない‥‥」 「ふっ‥‥あなたも‥‥邪魔ね‥‥‥‥消えなさい、お嬢さん‥‥」 「おお‥‥が、み‥‥さん‥‥」 「マ、マリアーっ」 「俺、は‥‥」 「やだあ‥‥お兄ちゃんっ、行っちゃだめーっ」 やだ‥‥お兄ちゃんが、あんな‥‥いや、だ‥‥ 知らない人に、とられちゃう‥‥ 「うふふ‥‥そこでじっくりと見物してなさい‥‥将来のためにね‥‥ふふふ‥ ‥」 「いや‥‥やめてよ‥‥」 足が‥‥動かない‥‥ 「あ、あああ‥‥」 「こんな‥‥大神くううん‥‥はああ‥‥大神く、ううん‥‥んああ‥‥」 「俺は‥‥俺は、もう‥‥あなたしか‥‥」 「うれしい‥‥大好きよ、大神くん‥‥もっと、もっとわたしを‥‥愛して‥ ‥」 「だ、だめえーっ」 「ふふふ‥‥」 お兄ちゃんが‥‥薄れていく‥‥ 「アイリスを‥‥一人ぼっちに‥‥しないで‥‥」 「お兄‥‥ちゃあ‥‥あん」 コン‥‥コンコン‥‥ 「‥‥お兄ちゃ‥‥あ‥‥‥‥え‥‥‥‥あれ‥‥‥‥夢か‥‥‥‥」 コンコン‥‥ 「アイリス‥‥起きてる?‥‥マリアだけど‥‥」 「う、うん‥‥」 「入るわよ‥‥」 怖い夢‥‥ あやめお姉ちゃんが‥‥いなくなった‥‥あの時と、なんか似てる。 やだなあ‥‥ みんな、お兄ちゃんが好き。 さくら、きれいだったなあ‥‥ あんな風になるんだ‥‥なんか、あやめお姉ちゃんに似てるかも‥‥ お兄ちゃんが必要‥‥ お兄ちゃんを‥‥愛してる、って‥‥ 諦めて、なんて‥‥やっぱり夢だからだよね。 紅蘭は‥‥悪い結末にはならないって、言ってたけど‥‥ ほんとに‥‥ほんとに、大丈夫なのかな‥‥ さくら、どっか連れてかれて‥‥ みんな、いなくなって‥‥ お兄ちゃんも‥‥ アイリスは‥‥ 一人ぼっち‥‥ やだなあ‥‥ あの人だれ? きれいな人だったけど‥‥怖い人。 名前‥‥わかんない。 お兄ちゃん、知ってるのかな‥‥なわけないか。 夢だもんね。 夢だ‥‥けど‥‥ みんなを‥‥ ひどい。 みんなを‥‥あんな‥‥ ひどい。 お兄ちゃんを誘惑して‥‥ お兄ちゃんを‥虜にして‥‥ お兄ちゃんに‥‥あんな‥‥こと‥‥して‥‥ アイリスに‥‥見てろって‥‥ アイリスが‥‥子供だって‥‥ アイリスを‥‥ お兄ちゃんを‥‥ やだな‥‥ 「アイリス‥‥どうかしたの?」 「あ‥‥ううん」 「今日の舞台で‥‥」 なんであんな夢見たのかな‥‥ アイリス‥‥もしかして‥‥みんなにやきもち妬いてたのかな‥‥ みんな大人だし‥‥ お兄ちゃん‥‥アイリスのこと、やっぱり大人としては見てくれないよね‥‥ 子供‥‥だもん。 くすん‥‥ アイリスに‥‥キスしてくれたのは‥‥気まぐれだった、のかな‥‥ ううん‥‥違う、お兄ちゃんは‥‥ アイリスが大人になるまで‥‥お兄ちゃん、待っててくれるのかな‥‥ ううん、もし、あの夢みたいに‥‥ だれかきっと、お兄ちゃんを‥‥ きっと、先に‥‥ やだよー‥‥ やだよー‥‥ 「‥‥アイリス‥‥具合でも悪いの?」 「‥‥‥‥」 マリア、かな‥‥ マリア‥‥なんか、すごく変わった。 お兄ちゃんを見る目が‥‥前と全然違うもん。 なんか、前よりきれいになった、気もする‥‥ やだな‥‥ さくらかな‥‥ さくら、きれいになってた‥‥夢だけど‥‥ 杏華ちゃん、かも‥‥ 杏華ちゃん‥‥すごくかわいいし‥‥大人だし‥‥ やだな‥‥ やだ‥‥ 胸が‥‥苦しい‥‥ 気持悪いよー‥‥ 「‥‥アイリス‥‥あなた‥‥顔色よくないわ。ちょっと地下に行きましょ‥‥ ね」 「大丈夫だよ‥‥すぐ、よくなる‥‥」 「アイリス‥‥」 やだよー‥‥ やだよー‥‥ コンコン‥‥ 「はい?」 「あれ?‥‥マリア、かい?」 「あ‥‥」 「大神さん?」 「うん、裏方の変更があるみたいなんだ‥‥ちょっとアイリスに‥‥入っていい かな」 「‥‥待ってください」 マリアがアイリスを見る。 「‥‥いいよ」 「どうぞ‥‥」 「‥‥失礼します」 お兄ちゃん‥‥だ。 大好きな、お兄ちゃん‥‥ 大好き‥‥だけ? ‥‥違う。 大切な、人‥‥ 大切な‥‥だけ? ‥‥違う。 何か‥‥違う、気がする。 ‥‥お兄ちゃん。 ‥‥お兄ちゃん‥‥が‥‥ お兄ちゃんにずっと‥‥傍にいてほしい。 ‥‥アイリスだけを、見ていて、ほしい。 お兄ちゃんが‥‥欲しい。 欲しい。 だれにも‥‥だれにも、とられたくない。 だれにも‥‥譲れない。 だれにも‥‥わたしたくない。 アイリスは‥‥お兄ちゃんを‥‥ そうだ‥‥そうなんだ‥‥ 「‥‥アイリス?‥‥なんか、元気ないな」 「‥‥‥‥」 「‥‥ちょっとごめんね」 「あ‥‥」 お兄ちゃんがおでこを‥‥アイリスのおでこにつけて‥‥ は、恥ずかしいよー‥‥ でも‥‥ お兄ちゃん‥‥ もっと‥‥傍にきて‥‥ アイリスを‥‥ お兄ちゃん‥‥ 「少し‥‥熱があるかな‥‥顔も赤い‥‥」 「だ、大丈夫だよ‥‥」 「アイリス‥‥」 お兄ちゃんがアイリスのこと‥‥じっと見つめてる。 アイリスは‥‥ カーテンの隙間から、お陽さまの光がキラッと輝いたのが見えた。 「‥‥‥‥」 「まだ‥‥あと一時間程猶予はあるから‥‥その時に判断しよう‥‥」 「‥‥そうですね」 「なに‥‥なんのこと?」 「無理して身体こわしちゃったら‥‥元も子もないだろ?‥‥公演を中止するっ てこと」 「そ、そんな、だめ‥‥」 「アイリスの代わりは‥‥だれもいない」 「!」 「アイリス、君は‥‥君が思っている以上に‥‥大切な人なんだよ。‥‥みんな にとって、そして俺にとって‥‥舞台だけじゃないよ、勿論。だから‥‥こうい う時は俺の言うことを聞いて欲しいんだ‥‥アイリス‥‥」 「あ‥‥」 アイリスは‥‥ お兄ちゃんを‥‥ お兄ちゃんを‥‥ 「‥‥アイリス」 「‥‥え?」 「あ‥‥‥いや、なんでもない。一時間ほどしたら、もう一度来るから‥‥寝て ていいからね。‥‥マリア‥‥行こうか」 お兄ちゃんの手が‥‥アイリスの肩から‥‥離れて‥‥いく‥‥ 「え?‥‥は、はい‥‥じゃ、ね‥‥アイリス」 バタン‥‥ アイリスは‥‥ わた、し‥‥わたし、は‥‥ お兄ちゃん‥‥ お兄ちゃん‥‥じゃ、ない‥‥ もう‥‥お兄ちゃん、なんて‥‥呼べない‥‥ お‥‥ お、おお‥‥が、み‥‥さん。 大神、さん。 大神さん。 深呼吸をしよ。 窓のカーテンを開けると‥‥今日もいい天気‥‥ まぶしいなあ。 大神さん、みたい。 中庭は、まだ影が覆っている。 わたし、みたい、だ‥‥ ん‥‥ だれか、池の前で‥‥ 舞を‥‥舞っている。 白鳥が水辺に降りてるみたい。 杏華ちゃんが言ってた‥‥中国の‥‥技。 少し暗い中庭で、青い光が波みたいに集まって‥‥ そこが‥‥まるで海みたいに見えた。 こっちを見て‥‥笑った。 「アイリスーっ、寝てなきゃだめだぞっ」 わたしも‥‥ちょっぴり笑った。 「わたしは‥‥」 パジャマの裾をぎゅっと握り締めた。 「大神さんが‥‥大好き、です‥‥」
六章.光と影の詩
<その1> 今日の公演がはねれば、明日からまた中休みに入る。いつもその週の終わりの公 演は人入りが多くなる。 朝7時30分。大神は中庭で身体をほぐした後、ロビーにやってきた。いつもの ように、椿が売店の準備をしている。 「あ‥‥椿ちゃん‥‥」 「おはようございます、大神さん‥‥日舞でもやってるんですか?」 「え?」 「さっき食堂を通りかかった時、中庭の窓から見えたから‥‥舞を踊ってるみた いな‥‥」 「ああ、あれは‥‥まあ、中国の舞かな?‥‥あ、そうだ‥‥」 大神は売店の脇までやってきた。椿と並んで話す。言いにくそうに口を開く大神 に対して、椿が先に話し掛けた。アイリスのことは、椿は既にマリアから聞かさ れていた。開演の是非は当然売店にも及ぶために。 「でも‥‥一応、念の為に準備だけはしときます。きっと‥‥よくなると思うか ら」 「うん、そうだね‥‥よろしく頼むよ‥‥」 大神はサロンへ向かった。椿は大神の後姿をしばらく目で追った。いつもの椿の 目の色とは違っていた。 『わたしも‥‥あんなふうに‥‥心配されてみたいな‥‥‥』 店頭に並んだブロマイドに目を移す。 『なーんてね‥‥』 その中の、アイリスの‥‥花畑に佇むアイリスの写真をじっと見つめる。 『わたし‥‥馬鹿みたい‥‥』 売店の売り子は、売る時も、売らない時も忙しかった。 それはこの時ばかりは、少しだけ救いだったかもしれない。 椿は唇をかみしめて、いつものように仕事を再開した。 「おはようございます‥‥」 「お‥‥よし、山崎‥‥お前最初に上がれ‥‥」 「は、い‥‥はあ‥‥つ、疲れた‥‥」 「大丈夫ですか‥‥山崎さん‥‥」 「あ、あははは‥‥な、なんのこれしき‥‥じゃ、がんばってくださいね、杏華 さん」 「は、はい‥‥お疲れ様でした」 杏華が参入して、霊子甲冑の整備は交代制を用いることが出来るようになった。 三人でやるより、二人が入り、一人が休む。そうしたほうが効率的だった。 さすがに杏華を夜にまわすことはできないため、夜の燈が点る頃から明け方まで は神凪と山崎がプレハブに入る。しかし、効果は十分に期待できる。なにしろ杏 華の整備技術は神凪のそれに優るとも劣らない。スピードだけで言ったら確実に 上回っている。しかも正確無比。 狭いプレハブに四体寄り添うように置かれている霊子甲冑たち。心があるなら、 さぞや満足だろうと思えるほどだった。 杏華は入室してすぐ、紫色の霊子甲冑に魅入った。 神武、という名を冠さない卯型‥‥七瀬。 「‥‥‥‥」 「‥‥久しぶりの対面かな」 「え‥‥あ、はい‥‥七瀬の置かれていたコンテナは‥‥会長の了承がなければ 入ることが、出来ませんでしたから‥‥わたしでも」 「昔と‥‥変わったかな?」 「いえ‥‥」 「神埼の爺さんには言ったが‥‥一応、産みの親にも了承を取っておかないと‥ ‥」 「‥‥‥‥」 「そろそろ‥‥化粧を憶えてもいいと思う。‥‥いいかな?」 「‥‥はい‥‥一番大切なのは‥‥花組のみなさんですから」 「‥‥ありがとう」 「司令は‥‥どうして‥‥その、司令になられたんですか‥‥」 「‥‥‥‥」 「あ‥‥わ、わたし、あ、あの‥‥す、すいません‥‥」 杏華は、神凪の目の焦点合わなくなったのに気付いた。なんとなく言った自分の 言葉で、もしかして‥‥ 杏華はやはりしょんぼりと、落ち込む時の独特の仕草をした。 「あ、あははは‥‥違う違う‥‥なんか、かわいいよな、杏華くん、て‥‥」 「そそそ、そん、そんなあ、そんなあああ‥‥」 一転して顔を真っ赤にするあたりも杏華らしかった。 「俺が司令になった理由は‥‥単純だよ。‥‥それなりの脅威が迫ってきた、そ のためさ。‥‥風来坊みたいな生活をしてて‥‥まあ、それも結構性に合ってた けどね‥‥いよいよ、年貢の納め時って感じで、米田の親父から‥‥」 「‥‥‥‥」 神凪は作業を続けながら、杏華に語り続けた。 「‥‥先の大戦では、俺が表舞台に出る必要は殆どなかった。残務処理ぐらいだ ね。あやめくんもいたし‥‥それに、花組のみんなもがんばったから‥‥」 「‥‥‥‥」 「辛いこともあったはずだが‥‥今こうして劇場はある。みんながいる。花が咲 いてる‥‥」 「‥‥はい」 「俺も‥‥支配人としてここに来れたことは‥‥幸運だった」 「‥‥‥‥」 「弟にも会えた‥‥優しい人たちが迎えてくれて‥‥なんか、柄にもなく‥‥」 「大‥‥神‥‥さん?」 神凪の少し照れた笑顔は‥‥大神そのものだった。杏華はそこにいる人が神凪で はなく、大神にしか見えなかった。 「だが、それを奪おうとしている者が‥‥いる‥‥」 神凪の目が一瞬恐るべき光を放った。 「大切な場所を壊す者‥‥大切な人を奪う者‥‥‥‥断じて許さんっ!」 杏華は‥‥そこに神凪の切実な想いを見た気がした。 もう一人の大神‥‥そこにいたのは、やはり大神だった。 「‥‥あ‥‥ご、ごめんよ‥‥なんか‥‥変だよな、俺‥‥」 「いえ‥‥いえ‥‥」 「杏華くんが‥‥ここに来ることが夢だったって言ったの、よくわかるよ‥‥」 「わたし、わたし‥‥」 「ふふ‥‥まあ、一番の理由は‥‥大神だろうけど、ね」 「そ、そそそ、そん、そんな、そんなあああ、ああああ‥‥」 「あはははは‥‥‥‥はああ‥‥‥‥ここは‥‥いいよなあ‥‥なんか、暖かい ‥‥花咲く舞台を支える‥‥優しい地下牢って、感じだな‥‥」 「‥‥し、れい?」 「なんか‥‥守護天使の香りもする‥‥おさげ髪の‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥がんばろな、もう少しだよ」 「は、はいい‥‥」 なぜか杏華は、まだ会ったこともない一人のおさげ髪の少女を想った。破壊と混 乱そして絶望の中でも、花を咲かせることを願った少女。華やかで、でも熾烈で 辛い表舞台に立っていた、華奢な少女。 李紅蘭。なぜか‥‥自分と比較してしまう。彼女の名前を聞くと‥‥彼女のこと を考えると‥‥なぜか胸が苦しくなる。 光と影。陰と陽。それは大神と神凪にも似ているかもしれない。いや、寧ろ彼ら よりも、もっと光と影が混じり合ったものかもしれなかった。交わることのない もの‥‥交わってはいけないもの‥‥風水の理り。そんな気もするが‥‥しか し、いつも背中にその存在を感じていた。 辛い路を歩んできた二人の少女。そしてともに、あやめという、一人の女性に導 かれた者。 杏華は少し頭を振って、純白の神武に向かった。 それこそ、自分がここにいる理由だったから。 サロンには既に四人の少女たちが待機していた。お茶を嗜む‥‥という雰囲気か らは少しずれていた。 大神が入ると、既に事情はマリアから伝達されていたらしく、少し暗い視線を送 ってきた。 「アイリス‥‥大丈夫なんでしょうか‥‥」 「‥‥‥‥」 「わたくしが‥‥様子を‥‥」 「待ってくれ、すみれくん‥‥」 「え‥‥」 「‥‥なんか、よくわからないけど‥‥俺が行ったほうがいいような‥‥気がす る」 「‥‥‥‥」 「‥‥そうですね‥‥大神さんにお願いしましょう」 マリアがフォローした。が、どことなく悲哀めいた色が、その青い瞳にちらつい ている。わかっていても、認めたくない。言いたくても、言えない。そんなジレ ンマが見え隠れするような色だった。 「ああ‥‥なんか‥‥無理させちまったかなあ‥‥ちくしょう‥‥すまねえ、隊 長‥‥」 「何言ってるんだよ‥‥昨日は楽しかった。カンナとマリア、そしてアイリスの おかげさ」 「‥‥そう言ってもらうと‥‥助かるよ‥‥」 大神がアイリスの額に触れた時、何かこころに流れ込んできたような感じがし た。よく掴み取れなかったが‥‥いずれにしても、自分を求めているような気が した。時を経る毎に変化してきたアイリスの、そのこころを知っていた大神には ‥‥それまでと、まるで別の意味を持つような気もした。 鈍い大神にもそれぐらいは感じ取れた。アイリスは確かに一年前の大戦を経て大 きく成長した。紅蘭の不在は‥‥それをさらに育むことになった。そして、先の 戦いで‥‥大神を庇うことで、それは完全に開花した。今のアイリスの不調は、 それの反動なのかもしれない‥‥大神はそう思うしかなかった。 「たぶん原因は違うんじゃないかな‥‥‥肉体的なものじゃないような気がする ‥‥」 「‥‥‥‥」 ‥‥夢はこころの奥底に潜むものを刺激する‥‥そういうことさ‥‥ さくらの深層心理を犯した、不浄の輩‥‥それを始末した神凪が言った言葉。マ リアはそれを思いだしていた。成長したとは言っても、アイリスはまだ幼すぎ る。だが‥‥アイリスの気持もわかる。アイリスがじっと我慢していたことが、 夢によってついに破られてしまったのか‥‥ 大神を求めている。それを悪いことだと、どうして言えるのか‥‥。同じ立場に 立つ自分を省みて、マリアはことさらにジレンマに押し潰されそうになってい た。 「みんなはここで‥‥待ってて‥‥心配はいらないと思うから」 その言葉は尚更、そこにいた少女たちの胸に突き刺さった。それはアイリスの見 た夢、そのもの。今度は自分が主人公になってしまった。その悪夢が今、少女た ちにも共有されているようだった。 そのことは大神にわかるはずもなかった。 コン‥‥コンコン‥‥ 「アイリス‥‥起きてる?」 「‥‥うん」 「入っても‥‥いいかい?」 「‥‥うん」 大神はドアノブに手をかけ、そして似たようなことが以前あったのを思い出し た。 一年と少し前‥‥浅草に初めてデートした後。 勿論、あの時とは状況が違う。 カチャ‥‥ 大神はアイリスの部屋に入った。アイリスは既に着替えて、鏡台の前に座ってい た。 顔色はよくなっている。ただ‥‥態度が明らかに今迄と違う。花組の他の少女た ちとも、どこか違う。おそらく‥‥普通の、ごく普通の10代の少女が始めて遭 遇する‥‥そんな不安定な表情を見せていた。 大神はアイリスの前まで来て、膝を折って座った。アイリスを見上げるような姿 勢で。 「‥‥ちょっとごめんね」 大神は手でアイリスの額を、そして頬を掌で触れた。熱はなかった。が、すぐに 熱を帯びるのがわかった。顔はすぐに赤くなった。 「あ、ご、ごめんよ‥‥アイリス‥‥」 「ううん‥‥ううん‥‥」 一年前のあの時とは違う。しかし、大神にとって言うべきことは同じだった。 「アイリス‥‥」 「‥‥うん」 「もしかして‥‥夢を見たの?」 「うん‥‥」 「悲しい‥‥夢?」 「うん‥‥」 「そっか‥‥」 「お‥‥おお‥‥」 アイリスの口から出ようとした言葉は、大神によって遮られた。 「アイリス」 「は、はいっ」 「朝も言ったけど‥‥俺にとって、アイリスはとても大切な人だよ‥‥」 「!‥‥わ、わたしも‥‥」 「ただ、それを‥‥形にすることなんて‥‥難しいよ‥‥」 「え‥‥」 「でも‥‥これだけは憶えていて‥‥」 「‥‥‥‥」 「俺は君といると‥‥楽しいし‥‥あたたかくなる‥‥」 「え‥‥」 「夕陽の赤は優しい、か‥‥‥‥俺の白は、まだ好きかい?‥‥」 「うん‥‥」 「俺も‥‥アイリスの山吹色は、大好きだよ」 「うれ、しい‥‥」 「今、別の色に染める必要は‥‥ないんじゃないかな‥‥」 「あ‥‥」 「先のこと‥‥将来のことなんて、だれにもわからないから、さ」 「あ、あ‥‥」 「たとえ、アイリスの夢の中で何があっても、ね」 「うん‥‥うん‥‥」 「これからも俺のこと‥‥お兄ちゃんって、呼んでくれるかい?」 「!‥‥うん‥‥うんっ、お兄ちゃんっ」 アイリスは‥‥夢から覚めた。 治療室で見た夢。夢ではない、現実の夢。 あの時はお兄ちゃんは夢のままでいさせてくれた‥‥ でも、今度は‥‥夢から目覚めさせてくれた‥‥ アイリスは大神にしがみついて、そしてうっすらと涙ぐんだ。大神は優しく背中 を撫でた。 少しだけ時間が経った。 アイリスがゆっくりと離れた。顔だけ‥‥鼻先から1センチほど。いつもの、そ して新しいアイリスの笑顔だった。 大神はしばし見惚れた。 「お礼をしたいの‥‥受け取って‥‥」 そう言って、アイリスは大神の唇に口づけをした。 「あ‥‥」 「こ、この間の、お礼でもあるの‥‥ア、アイリス、サロンに行くから‥‥」 アイリスは顔を真っ赤にして部屋を出て行った。 大神はぽかんとしたまま、一人アイリスの部屋にいた。ぼーっとしたまま主のい ないその部屋を見つめる。いつの間にか、ぬいぐるみの山はなかった。代わりに 鏡台の片隅に立て掛けた写真入れ。向かい合わせで、二枚の写真が入っている。 一枚はアイリスと自分が写っている‥‥セピア色の写真。紅蘭に撮ってもらっ た、花やしきでのワンシーン。大神はそれを手に取って‥‥優しい笑顔を浮かべ た。 もう一枚は勿論、あやめがいた頃に劇場前でみんなで撮った、あの写真だった。 「アイリス、あなた‥‥大丈夫なの?」 マリアがそれでも心配して、アイリスに声をかけた。アイリスは慢心の笑顔で‥ ‥そしてマリアとさくらを、きっ、と見つめた。 「あと‥‥5年‥‥お兄ちゃんには手を出さないでっ!」 「はあ?」「へ?」 「アイリスが‥‥結婚できる歳になるまで‥‥」 そして、アイリスはとろんとした表情になった。 「何を言ってるの、アイリス‥‥」 「わたしにそれまで待てと言うの‥‥」 マリアとさくらが柄にもなく、むっとした表情でアイリスを見つめる。それ以上 に黙ってられなかったのは、ほとんど無視されたカンナとすみれだった。 「こら‥‥あたいは‥‥論外だってのか」 「ぬぬぬ‥‥こ、このわたくしを差し置いて‥‥お子様という立場を利用した‥ ‥」 「べーっ」 「くうおんぬおおお‥‥あ、あたいだって‥‥」 「あと‥‥5年ですって‥‥ぬぬぬ‥‥わたくしは‥‥22歳‥‥‥‥ん?‥‥ 待てよ‥‥マリアさんとカンナさんに比べれば、ましですわね‥‥ふっふふ‥‥ 完成された大人の‥‥」 「わたしが‥‥わたしが何だって言うのよ?」 「あたいより‥‥マシって‥‥どういう意味‥‥」 「何を今更‥‥5年後っつうたら、あなたがた、適齢期をすっかりカッ飛んでし まっているではあーりませんの、おーほっほっほっほ‥‥ほとんど出戻りの如き ご夫人が、大尉に擦り寄ろうなど‥‥100万年遅いですわっ」 淀みなく言い放つすみれの言葉に、マリアとカンナはしばし茫然としたが、すぐ にその意味は自らの自尊心をぐさぐさっと引き裂いた。 「で、ででででもどりですってーーーっ!?」 「こここここ、こんんののの‥‥も、もももうゆゆゆゆるさねええええっ!!」 禁断の‥‥まさに触れてはいけない事柄に触れてしまわれた、マリアとカンナ。 ‥‥料理してあげるわ‥‥チェーストオオッ‥‥おほほのほーっ‥‥ 理性も吹っ飛び、放つ言葉も言葉にならないほどに激怒してしまった、最高年令 層の二人。 ‥‥わたしなんか‥‥なんのこれしきーっ‥‥どういうことですの‥‥ 戦場と化したサロンをするりと抜け出した、さくらとアイリス。 「そっか‥‥5年後というと‥‥わたしは23か‥‥ふむ、悪くないわ‥‥」 「ア、アイリスだって16だもん‥‥負けないもん‥‥」 「うふふふ‥‥大神さんが‥‥26‥‥今の司令みたいな感じかあ‥‥」 「き、聞いてよー‥‥」 「はああ‥‥いいわあ‥‥大神さああん‥‥いい‥‥すごく‥‥いいわあ‥‥」 「ぬぬぬぬ‥‥これは‥‥まずいかも‥‥」 「ん?‥‥なんだ?」 「はい?」 「気のせいかな‥‥今、声が‥‥」 「?」 「あ、いや‥‥どう、大神の機体は‥‥」 「はい‥‥とりあえず筐体は組み終わりました。エンジンの取付けはできますが ‥‥」 「よーし、それじゃ、舞台が始まる前にマウントしよう」 「はい」 神凪と杏華はクレーンを、狭いプレハブの天井を開け放して導入した。杏華がク レーンを動かし、神凪が接続する。大神ユニットに関係する大物は一通り終了し た。 「は‥‥よし‥‥こりゃ、二、三日中に上がるかもな‥‥」 「そうですね‥‥あ‥‥」 杏華は専門ならではの眼力で、今取付けたばかりの大神ユニットの機関部を検分 した。目つきが普段の杏華とは別人のようだ。 『ほう‥‥』 「これ‥‥もしや、一体型では‥‥」 「‥‥そうだよ‥‥零式の機関部の仕様と全く同一だ」 「一体型は‥‥神埼重工ではどうしてもパワーアップが望めませんでした。コン パクトにできても‥‥理論上は‥‥いったいどうすれば‥‥」 「そうだな‥‥ただ単に並列に接続するようなものだ‥‥普通に考えればね‥ ‥」 「‥‥!‥‥まさか、内部で直結しているのでは‥‥そんな、それだと熱が‥ ‥」 「まったく‥‥ほんとに神埼の爺さん、よく君を手放したよな‥‥」 「ま、まさか‥‥まさか、そうなんですか?」 「そうだよ‥‥そのエンジンの熱量は君の想像通り、直列型の8倍はある‥‥」 「そ、それでは‥‥すぐブローして‥‥」 「ふっふっふっ‥‥」 「ど、どうやって‥‥わ、わからない‥‥」 杏華はなんとしても独力で解を見い出そうと、機関部周辺をしらみつぶしに調査 した。今迄自分が触れた大神ユニットの部品の構成を、頭の中で目まぐるしく組 み替えながら。杏華の唯一の拠り所、その最も得意でもある機関部分において、 自分を凌駕する存在‥‥神凪龍一。師事を乞うなど杏華のプライドが許さなかっ た。 二基直列型併用エンジン最大の利点は、カムシャフトを中心部に配置し、エンジ ン重量と回転モーメントをそれぞれバランスが取れた形で配置でき、しかもこれ が倍化した発生出力を中心部に集約する担い手にもなること。そして、隠れたメ リットが冷却だった。 併用エンジンはその名の通り、基本的に蒸気機関部と霊子力機関部の独立したユ ニットから成る。霊子力ユニット単体では霊子甲冑を機動させるなど、巨視的な 駆動力を発生することはない。つまり、霊子力は微視的なエネルギー源、例えば 光源等、には成り得ても、それを機動力まで拡張することは、物理量が異なるた め不可能に近い‥‥無論ここではアイリスに関しては除外する。 そこで蒸気機関部がその役割を担う。蒸気機関部のさらに内燃機関部に組み込ま れる燃焼炭‥‥これは通常の化石燃料とは異なる物が使用される。神埼重工の燃 料部門のみが精製し得る、超高重合度炭化水素。室温で気化もしくは液化する通 常の炭化水素と違い、分子量が極度に高いため固体のまま保持される。 そして熱分解時に発生する熱量は通常の化石燃料‥‥所謂石炭の10000倍以 上。石炭1トンに対してわずか100グラムで同等の熱量を発生する。しかも体 積が小さいために、超高密度の熱源となる。 この燃焼炭を使うために必要であり、そして燃焼効率を飛躍的に拡大させるため に必要なのが霊子力だった。燃焼炭が産み出する超高温を、そのまま蒸気変換出 来るほどの燃焼室材料がない。シリンダが融解してしまう。そこで、霊子反応基 盤が燃焼室の制御も受け持つ。燃焼室に配分された霊子力は、燃焼室内壁に一種 の霊力障壁を形成する。これは霊子力機関部によって初期増幅される。霊力障壁 は熱量を消すのではなく、基盤によって定められた一定量にそれを保持する役割 を持つ。一定量とは即ち、燃焼室材料変質限界値以下のそれであり、霊子甲冑の 出力を決める値でもある。 しかも一度発生した熱量をある程度保持し得るため、次の燃焼ステップまで原料 の消費を抑えられる。これが運用時間を決める。そして熱量を緩和された燃焼室 は、その熱量の8割以上を蒸気変換することができる。 ちなみに山崎の機体に使用されている強化型蒸気専用機関部は、元々熱量を抑え られているが、燃焼室セルを小型化、積層化することにより、併用エンジンの8 割まで引き上げられたもの。しかし、単体の場合蒸気変換効率が3割程度しか稼 げないため、結果的には併用エンジンの3割ほどの出力しか得られない。神凪の 手が入り込んだ、その蒸気専用機関部は並列された併用機関部の霊子力機関ユニ ットから霊子力分配を行う。従って専用エンジン部はノーマル神武の8割まで回 復する。そして、並列された併用エンジンが出力をアップさせ、結果的に5割増 ということになっている。 「カムシャフトじゃ‥‥ないよなあ‥‥」 杏華は背面下部に回り込んだ。 「うーん‥‥違うなあ‥‥」 蒸気駆動するカムシャフト‥‥ここには驚くべきことに潤滑油は使われていな い。潤滑油と蒸気の整合性もある。その代わりになるのが、またもや霊子力だっ た。 巨視的物理量を持たない霊子力だが‥‥例えばよく比較される分野で、量子力学 が存在する。光を波と粒子に切り分け、電磁気学も組み込み、その両者を辻褄が 合うように形成された物理学。光の粒子としての属性は質量を持つものの、古典 的には適用できないほどの超微小量。そして、波の属性に付随する電子状態と古 典的な電磁気学を加味することによって決まる磁気特性‥‥ 霊子はこのような量子と類似した属性をも持つ。運用者固有の波形は、量子論に おける電子による磁気と類似した効果を産み出す。それは金属等の強磁性体にの み働くものではないこと、そして、磁性体に影響されないことに決定的な違いが ある。霊子反応基盤はエンジンに搭載された補助基盤に霊力分配の命令を発し、 そしてこの補助基盤の一回路は各カムシャフトがお互いに弾かれる‥‥正負の霊 子効果を与えるように変換する。よってカムシャフトは接触することなく、動摩 擦抵抗”零”で駆動することになる。 そしてカムシャフトを駆動する蒸気、その蒸気配管にも霊子力が分配される。気 体であるが、高密度になるため配管中では通常の蒸気機関より粘性流体の性質が 顕著になる。つまり流速の低下と、末端での圧力低下が起こり得る。そこで配管 の内側は逆向きのシリスウス配管‥‥つまり中へ霊力を導き、外には出ないよう な結晶配置‥‥を使用し、内壁を霊子力で保護、壁の抵抗をこれまた”零”にす る。よって、エンジンから生まれたパワーは、ほとんどそのまま末端まで伝達さ れる。 卯型霊子甲冑には、先の燃焼炭をさらに精製したものが用いられ、そして反応基 盤もさらに高機能化したものが搭載されている。エンジンのスープアップに伴う もので、これにより虎型の8倍の出力と3倍の運用時間が保証されている。 が、その過程で生じた問題が、そのスープアップに伴う熱量の拡大だった。虎型 のエンジン容量がほぼ限界値であり、従って容積は拡大できない。しかし熱量は 霊子力の拡大によりあと2〜3倍は稼ぐことが可能。そこで同一の筐体を二基直 結することが考案された。片肺のエンジンから発生する出力を各々倍化、そして 挟み込まれるように配置するカムシャフトでさらに増幅‥‥つまり2倍の3乗‥ ‥結果8倍と言う単純計算になる。 「特種な‥‥燃焼炭かな‥‥違うなあ‥‥うーん、うーん‥‥」 さらに杏華はわずかに開いた隙間に身体をねじ込んだ‥‥が、今度はその豊かな 胸が引っ掛かって出るに出られない。 「あ、ああ‥‥す、すいませ〜ん、し、司令‥‥」 「‥‥ん?」 「ひ、引っ張って‥‥もらえますう?」 「‥‥はああ」 神凪はどこに手を置いていいか思案した後、 『‥‥やはり、腰、だろうな』 ということで、杏華の腰に手をつけた。 「あ、そ、そんな‥‥ところを‥‥触っては‥‥あ‥‥」 「こ、これは‥‥す、素晴らしい‥‥」 七瀬に搭載された三基直列はカムシャフトが3段になっている‥‥つまり、三つ の機関から任意に選べる対は三通り‥‥従って2倍の3乗の3倍、となる。そし て短時間運用の排気デバイスにより、吸入効率を倍化、エンジンの限界値まで引 き上げることで、さらにパワーが上がる。5分という運用時間は燃焼室材料の耐 性限界時間でもある。 これら直列型は仕切板がヒートシンクとしての冷却効果をも有するため、一体形 成よりも遥かに容易に造ることが可能だった。しかも横置にすることで巨大な冷 却ファンがカムシャフトを介して接続できる。勿論一体形成できる技術と材料が あれば、それに越したことはないが。 杏華が悩んだのは、その一体形成が可能である上限が、虎型のそれが限界である ことを知っていたからで、そのサイズではとても量産型の卯型にすら及ばない‥ ‥どんなにカリカリにチューンしても‥‥限界値を以てしても、1/2程度にも ならない、と思っていたからだ。霊子核機関でも使えば別だろうが‥‥まだ実用 化には程遠い。 それが、なぜ零式がその3倍もの出力を得ることが出来るか、ということにつき た。単体の3倍化エンジンと直列型ノーマルエンジンを比較して、単純に見積っ ても熱量は神武の最低8倍以上に跳ね上がる。とても燃焼室が持つわけがない。 「うーん、うーん‥‥」 『ふふ‥‥確かに紅蘭並み、もしくはそれ以上かもな‥‥』 「わからないよう‥‥ええ?‥‥どうすれば、そんな‥‥ん?‥‥これは‥‥違 うっ」 「ふふ‥‥」 「うーん‥‥わからないよう‥‥うーん、うーん、うん?‥‥何これ‥‥」 「‥‥‥‥」 「ヒート、パイプ、かな‥‥背中と‥‥腰まで来てる‥‥ここには‥‥浮遊動力 源が来る‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥でも、あれ、原理がわからないしなあ‥‥うーん」 「ふっ‥‥‥‥なあ、杏華くん‥‥」 「うーん‥‥は、はい?」 「‥‥君さえよかったら‥‥ここに転職しないか?」 「うーん‥‥へ?‥‥えーーーーーっ!?」 神凪は冗談ぬきで言った。 神埼重工は確かに環境としては恵まれている。恐らく杏華にとってもあらゆる意 味において、ベターな就職口であろう。だが神凪には、杏華がそれで本当に幸せ になれるとも思えなかった。杏華の過去は知らない‥‥だが、それが仕事という 捌け口で満たされるのは悲しすぎる。 勿論仕事は楽しくなければいけない。杏華も紅蘭も、そして、山崎もそうだ。‥ ‥それはいい。でも、なんのために?自分のため?それは当たり前‥‥もっと他 にあるだろう‥‥ 紅蘭は、そして山崎はそれを実現した。次は杏華‥‥杏華の願いが決して今以上 に不幸になるものではないことは、紅蘭と山崎が示している。それには答えなく てはいけない。 「勿論今すぐにとは言わないよ‥‥神埼の爺さんには‥‥お互い借りもあるし ね」 「わ、わわわたしが‥‥こ、ここ、ここにい?」 「ああ‥‥設備は、ここは貧弱だけど、花やしきがあるしね。‥‥無論軍籍にな んか入れない。普段は‥‥そうだな、かすみくんや由里くん、それに椿くん、あ んな感じだけど‥‥どう?」 「わわわ、わわたしがああっ!?」 「いやかい?」 「いいいいやや、いやだだなんて、そ、そんな、そんな‥‥わた、わたしみたい な‥‥」 「俺としては‥‥君にはずっと、いてもらいたいんだよ」 「どうしよう、うれしいよう、どうしよう、うれしいよう、どうしよう、うれし いよう‥‥」 「ふふ‥‥神埼の爺さんには‥‥俺から取り成すよ‥‥‥‥じっくり、考えて‥ ‥聞いてる?」 「うれしいよう‥‥うれしすぎるよう‥‥お姉ちゃあん‥‥あやめお姉ちゃああ ん‥‥」 「うーむ‥‥‥‥優るとも劣らないな、彼女たちに‥‥」 もう殆ど仕事にならない状態だった。半泣きの杏華が大神の神武に再び手を入れ 始めるのは、それから10分ほどたった後だった。神凪は微笑みながら仕事を続 けた。 大神はアイリスの部屋を出たあと、事務室に立ち寄ってから、サロンにやってき た。 朝8時30分。 「そろそろ‥‥たぶん大丈夫だと思うけどな、アイリス‥‥‥‥げっ、こ、これ は‥‥」 サロンには三人しかいなかった。即ち、マリア、カンナ、すみれ。ぼろぼろにな った状態で。すみれとカンナはいざ知らず、マリアのこのような姿を見るのは衝 撃的でもあった。ぼけっとしていると、いつの間にか、後ろに残りの二人‥‥さ くらとアイリスも来ていた。 「中に入ろうよ‥‥お兄ちゃん」 「‥‥え?‥‥あ、アイリスか‥‥う、うん‥‥で、では、失礼しまあす‥‥」 「大神さんっ!」 「な、なんだい‥‥マリア‥‥うわっ」 マリアが大神の胸倉を掴んで脅迫する。 「わたしはっ、わたしは5年も待てませんっ。せめて、3年‥‥いえ2年が限界 ですっ!」 「あたいもだぜっ‥‥5年なんて‥‥26、いや、27じゃねえかよっ」 「な、なに‥‥いったいなんなんですかあ?」 「おーほっほっほっ‥‥大尉は‥‥やはり22ー23あたりがお気に召すのでし ょう?このわたくしの美貌も、その頃には、ま・さ・に・絶頂期を迎えますわ っ」 「わたしも‥‥23でーす。へへへ‥‥大神さんは26で‥‥ぬふふふ、まーさ に、最高の組み合わせですよね」 「あのー、いったい何の話を‥‥」 「うぬぬぬ‥‥やっぱり、10年ぐらい待ってっ」 「な、なんだと?‥‥それじゃ、あ、あたいは‥‥30超えるじゃ‥‥ねえ‥‥ かよ‥‥」 「やっぱり‥‥わたし、なんか‥‥‥‥も、もう‥‥だめ‥‥‥さ、寒い‥‥寒 いわ‥‥」 「だ、だから、何の話でしょうか‥‥」 「お兄ちゃんはっ、何歳ぐらいで結婚するつもりなのっ!?」 「はあ?‥‥そ、そんな、結婚だなんて、俺、全然考えてないってば‥‥うげげ っ」 そこまで言って少女たちの視線が一斉に大神に降ってきた。 「わ、わたしでは、だ、だめだと、言うんですかっ、大神さんっ」 「わたくしを‥‥袖に?‥‥そんなこと、認められませんわよっ」 「アイリスを‥‥アイリスを、一人にしちゃうのーっ!?」 「あたいは‥‥やっぱし‥‥だめ?‥‥なの?‥‥かい?‥‥」 「わたしの‥‥人生って‥‥寒い‥‥寒すぎるわ‥‥寒い‥‥寒い‥‥」 「‥‥‥‥はっ‥‥あ、あの‥‥そ、そろそろ‥‥舞台の‥‥」 反応なし。 「そ、そうだっ、お、俺‥‥け、結構‥‥そ、その‥‥20代中盤っていいと思 うけどなあ。あやめさんもそうだったし‥‥‥‥しゃ、しゃおれん‥‥はっ、い かん‥‥」 一部に反応あり。 「‥‥そ、そうか‥‥そう言えば、あやめさん‥‥なるほど、そうだよなっ」 「‥‥な、なんか‥‥陽射しが‥‥出てきたわね‥‥‥‥暖かいわ‥‥」 カンナとマリアが納得しあう。 「5、5年後と言う線も‥‥ま、まあ‥‥悪くないかもな、あ、あはははは‥ ‥」 「そ、そうね‥‥そうかもね‥‥わ、わたしは‥‥別に2年じゃなくても‥‥」 その他は違う。 「‥‥23では‥‥だめなの?‥‥い、いや、大して変わらないはずだわ‥‥」 「‥‥ぬぬぬぬ‥‥と、年増の分際で‥‥わ、わたくしは認めませんわよっ」 「16じゃ‥‥だめなの‥‥‥‥ん?‥‥そうだっ、年増の中に入れば、きっと ‥‥」 大神にとって、状況が一時好転する。 矛先がずれたからには、あとは来るべき一瞬の好機を逃してはいけない。 「気のせいか‥‥さっきから‥‥やけに‥‥耳障りな‥‥言葉が聞こえるんだが な‥‥」 「嫉妬でしょ‥‥ふっ‥‥大神さんには、大人の魅力を存分に味わって‥‥は っ、わたし、なんてことを‥‥で、でも、わたし‥‥りょ、料理してもらいたい ‥‥や、やだ‥‥」 「‥‥23って、微妙よね‥‥はああ‥‥」 「そうよ‥‥みんな年増になるんだから‥‥アイリスのピチピチした‥‥ひひひ ‥‥」 「年増やガキの魅力など、たかが知れてよっ。このわたくしのように、若々し く、そして、艶に充ち溢れた身体こそ、大尉にふさわしくってよっ‥‥‥‥あ、 そんな‥‥いや、むさぼりつくように‥‥ひどい‥‥‥‥うふふふ‥‥大尉い い、そうですわよね?」 今しかない。 「さ‥‥さあ、みんなっ、舞台に行こうかあ、なあっ」 大神はすかさずサロンを後にした。当然ぞろぞろと離れずに付いてくる。 少し早足ぎみでロビーに向かう。当然早足で付いてくる。 ロビーを横切る時には既に走りだしていた。既に玄関は開けられていたため、客 もちらほら見えた。 「や、やあ、椿くんっ」 客は、何事か、という表情で彼女たちを茫然と見た。 なぜか暗い表情をしていた椿も、それを見て一遍に目が覚めた。 「お、おお!?」 「す、すぐ戻る‥‥か、ら‥‥ねぇ‥‥」 舞台裏方面へ走り去っていく大神の、その最後の言葉は少女たちの足音で消され た。椿はまたもじっと大神の後ろ姿に魅入った。それも、追う少女たちがすぐに 隠した。 『わたしも‥‥あんな風に‥‥追ってみたいな』 「あの‥‥すいません‥‥」 「はああ‥‥はっ、はいっ、ただいまっ」 大人しそうな、気弱そうな、可憐な女の子の呼びかけに、椿は現実に戻った。 「あ、あの‥‥あれ‥‥欲しいんですけど‥‥」 「はい?‥‥‥‥!、はいはい、少々お待ちを‥‥」 今度は唇を噛みしめることはしなかった。自分だけではない。 でも、先のことなんて‥‥だれにもわからない。 その表情にはいつもの椿ならではの、明るく、人懐こい笑顔が創られていた。
Uploaded 1997.11.06
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