<その2> 「や、やっと終わった‥‥」 「大神さん、お疲れ様でしたっ」 開演寸前、ぎりぎり最後の客をモギった大神は、いつものように椿から労いの言 葉をかけられた。精神的疲労がぬぐわれる一瞬でもあった。 そして思いだしたように玄関を見る。 『暁蓮さん‥‥もう会えないのかな‥‥‥‥悲しい‥‥』 ‥‥忘れないで‥‥わたしのこと‥‥お願い‥‥ 『忘れませんよ‥‥‥‥はああ‥‥会いたいなあ‥‥』 大神は気を取り直して、テーブルの上を手早く片付け、売店の横に向かった。 「椿くんは‥‥そうだよな、この後が大変なんだよな‥‥」 「いいえ、わたし慣れてますもん。それに結構好きなんですよ、お客さん相手に するの」 「へえ‥‥」 「そうだ、久しぶりにブロマイド買っていってくださいよ」 「あ‥‥そういや、ここんとこ全然‥‥どれどれ‥‥」 大神は売店の前に移動した。山崎が買った紅蘭の写真は、椿の言葉どおり3枚し かなかったため、売り切れでもう既にない。別のものが置かれていた。 「ふーむ‥‥どれにしようかなあ‥‥」 椿は微笑みながら、そんな大神を見ていた。 今だけは‥‥二人きりだった。 微笑みが、ほんの少しとろんとしたものになる。 「あ、待てよ‥‥そういや昔、あやめさんの写真を‥‥‥‥ね、ねえ‥‥」 「‥‥は?‥‥はいっ」 ぼーっとしていた椿はあわてて対応した。 「あのさ‥‥椿くんの‥‥写真はないの?」 「‥‥はい?」 「いや、あの‥‥椿くんの‥‥写真」 「そ、それは‥‥あるわけ‥‥ないですよ」 「どして?」 「どーしてって、そんな‥‥売れるわけないし‥‥」 「そんなこと‥‥ん‥‥ふっふっふっ‥‥椿くん‥‥」 「な、なんですか‥‥」 「裏で何やら商売してるだろ」 「げっ‥‥そ、それは‥‥」 「ここだけの話、実は帝劇三人娘、結構人気あるんだぜ。俺んとこにも、お客さ ん、よく来るから‥‥写真ないのかってね」 「え‥‥」 「椿くんの写真、俺も欲しいし‥‥どうだい?、少しその辺で裏取引など‥‥」 「な、何、いいい、言ってるんですかああ」 「やっぱ‥‥ないのか‥‥」 椿は顔を真っ赤にして反論した。 ほんとは‥‥うれしかった。 たとえ写真とはいえ自分を求めてくれている‥‥ 客が求めてるから? もしかしたら‥‥ 違うのかも‥‥ 本当は大神さん本人が‥‥ 椿の想像は、謙虚であるが故に暴走することはなかったが、それでも少女らしい 初々しさはあった。 ほんの一年前までは、気づきもしなかった想い。 椿が大神の写真を扱うのも‥‥ 客が求めてるから? それもある‥‥けど‥‥ 本当は‥‥ 大神さんを見ていられる、から‥‥ 大神が自分を求めた。 否定されて落ち込むこ大神の姿は、そんな椿の自尊心を優しく刺激してくれた。 「あ、あの‥‥」 「ん?」 「い、一枚だけなら‥‥」 「おっ、それ‥‥貰えないかな」 「大神さんが‥‥持っていてくださるのなら‥‥」 「あははは、絶対に売ったりしないよ‥‥心配しないで」 椿は少し躊躇いがちに、自分の懐から大きめの布袋を取り出した。 財布、にしては大きい。 「あ‥‥」 「こ、これで‥‥よかったら‥‥」 「でも‥‥」 商品、ではないようだった。大神もそんな椿を見て、少し調子に乗り過ぎたと悔 やみながら受け取った。少しよれ気味の写真。いつも身につけているためか。椿 の香りがする‥‥そんな気もした。 背景には青い‥‥たぶん真青なんだろうと思わせる、薄いセピア色の空が広がっ ていた。微笑んでいる少女たち‥‥かすみと由里、そして椿の三人。三人それぞ れの笑顔が写っていた。海で撮ったものらしい。水着だった。 「こ、これは‥‥」 「あ、あの‥‥一昨年の夏に‥‥撮った写真です‥‥」 「一昨年‥‥」 「春に大神さんが来て‥‥そして、紅蘭さんとカンナさんが戻って来て‥‥花組 のみなさんが全員そろった年の、あの夏に‥‥」 「そっか‥‥あれから‥‥もうすぐ二年に‥‥なるのか‥‥」 大神はじっと写真に魅入っていた。 椿はうつ向いて、時折少し上目づかいで大神を見る。 気のせいか‥‥写真の左側に視線が行く頻度が高い気がする‥‥ そこには‥‥自分がいる。 白い水着を着た自分が。 大神に見つめられている。 恥ずかしいから‥‥見ないで‥‥ 15になって間もない頃の自分の姿。 幼くて‥‥ 今になって、一緒に写るかすみや由里がひどく眩しく見える。 少しだけ嫉妬した。 大神に見られることなど予想していなかった。 椿は真っ赤になって目を伏せる。 そして、また大神を見る。 そんなことを椿はしばらく繰り返していた。 静かな、舞台の声だけが染み込むロビーで。 二人しかいないロビーで。 「きれいだな‥‥すごく、いい‥‥」 「ほ、ほんとですか‥‥」 「あ、でも‥‥いいのかい?大事な‥‥」 「またいつでも撮れますし‥‥大神さんが、そんな喜んでくれるなら‥‥差し上 げます」 「ありがとう‥‥大事にするよ‥‥」 「そ、そんな、見つめたら‥‥恥ずかしい‥‥」 「そうだ、お礼しなくちゃ‥‥昼、何か予定ある?」 「え‥‥いえ‥‥」 「飯奢るよ‥‥売店終わったら、煉瓦亭に行こ。じゃ、また‥‥お昼に‥‥」 大神はずっと写真に魅入りながら事務室に向かった。 椿はぼーっとして立っていた。 そして、じわじわと、顔が緩んできた。 「あのー‥‥司令‥‥」 「ん‥‥なんだい?」 「七瀬には‥‥どういう具合に手を加えるんでしょうか」 「‥‥気になる?」 「は、はい‥‥」 神凪と杏華は大神の機体をともに組ながら、手は休めずに話をしていた。いよい よ純白の装甲が一部に掛かり始めていた。 「そうだな‥‥例の5分という時間を少し延ばして‥‥それに、メインは腕と脚 だな」 「腕と‥‥脚?」 「杏華くんは見てないから、わからないだろうが‥‥機関部分と制御系統はおそ らく‥‥今のすみれくんなら問題ないだろう。ま、それなりにセッティングし直 すけどね」 「‥‥‥‥」 「脚は‥‥エンジンのパワーに負けない‥‥いや、それ以上の強度と機動力を付 加しないと‥‥」 「脚は‥‥一応強化してますけど‥‥」 「うん‥‥ただ、前回の戦闘では‥‥すみれくん、ノーマルの神武を零式なみの 機動力まで引き上げたからね。機械が人の足を引っ張ってしまった‥‥」 「!‥‥そ、それほど‥‥なんですか‥‥」 「まあ、方法はいくつか考えているけど‥‥それより問題は腕だな。新型装甲‥ ‥いや、シリスウス鋼そのものが使えないかもな‥‥」 「‥‥もしや‥‥温度と‥‥霊波が、ですか?」 「さすが‥‥その通りだよ」 シリスウス鋼は鉛と鉄の超合金。 神埼重工の鋳造部門での試作検査中、ある時、ある条件下で、合金であるはずの 物質に、結晶構造特有の光学パターンが確認された。 微視的構造に規則性を持った金属化合物の誕生。それがシリスウス鋼だった。 かつて、大陸で完成された物質。日本での開発はそれより10年以上も遅れた。 神埼重工の創始者である神埼忠義が渡米中、人型蒸気の駆動概念と共にそれを理 論修得、長い年月を経て遂に完成に至ったのだった。 固有の格子振動波形を有する構造配置は、ある方向からは霊力を高効率で伝達、 逆方向からは遮断、そして結晶構造にあるまじき柔軟で強固な巨視的性質をも実 現する。霊力波が付加されたその結晶構造は、より強固な結合を持つようにな る。しかも透過するはずの極短波・高エネルギーの物質波・放射線をも遮断す る。霊子甲冑にはまさに打って付けの材質だった。 ただし欠点も存在する。度外視できる、問題にならない問題点。神凪と杏華が指 摘したのは、その優れた性質を示すはずの結晶構造、それを成す原子固有の性質 に由来するものだった。 それは鉛。 材料全てが完全結晶を成すのは絶対に有りえず、従って欠陥部が点在するのが普 通である。欠陥部とは、微視的に結晶配置を取らない領域を指す。光武及び初期 型神武に採用されたポーラス構造などの巨視的構造のそれとは違う。つまり、 鉛、もしくは鉄の原子固有の性質が顕在化する微小領域。この欠陥部は通常使用 では、まず問題はない。鉛の溶融点、即ち400℃以上での使用‥‥それを遥か に超える温度でも問題はないと考えられてきた。結晶を構成する鉄の原子の複合 作用による温度特性の改善もある。 「まさか‥‥点欠陥が問題になるんですか?‥‥わたし、初めて聞きましたけど ‥‥」 「そうだな‥‥普通じゃ考えられないが‥‥」 「鉛の配合率を‥‥落とす、とかじゃだめですか?」 「‥‥その逆なら、花やしきが特許持ってる、あの第弐装甲板の軟化シリスウス 鋼を使うんだがな‥‥全く、世の中そうはうまくいかんか‥‥」 完全シリスウス結晶の理論的限界耐性温度は1000℃以上。装甲板に使用され るものは想定される物理的・霊的衝撃を緩和するため、積層化・ポーラス化など が施される。これは当然、筐体内部への熱の伝搬をも遮断する効果がある。従っ て、欠陥部分に起因する問題は起こりにくく、実戦上の瞬間耐性温度は200 0℃以上、花組の使用している新型装甲に至っては、3000℃以上になる。ま た、構造欠陥はそれほど微視的領域であり、しかも非常に低密度で点在するた め、巨視的な効果としては現われにくい。 しかし、超高温が長く停滞する環境下、かつシリスウス鋼の格子振動に摂動を与 えるほどの強力な霊力波が付加される条件下では、結晶構造の転移が起こり得 る。 すみれの必殺技、鳳凰蓮華がそれだった。 「利き腕には‥‥鉄を使おう」 「鋼鉄を、ですか‥‥でもそれでは霊力の‥‥」 「‥‥半減するね。もともと、すみれくんの技は基本的には甲冑の依存率は低い ‥‥つまり、個人の素霊力によるところが大きい‥‥だが媒体は必要だ」 「媒体?」 「神崎風塵流の場合、長刀がそれにあたる。ただ、間接操縦の霊子甲冑に乗る以 上、長刀とすみれくんとの間に、いかに効率よく霊力を伝達する物質が挿まれ か、が問題だけどね」 鳳凰の舞は、長刀に霊力が集中する上、超高温の鳳凰は長刀から霊力が放たれた 後出現する。鳳凰蓮華は違った。霊力の蓄積は霊子甲冑の腕部にまで浸透し、し かも巨大な蓮華を生成する媒体に長刀のみならず腕まで及ぶ。すみれの巨大な霊 力が成し得る技だった。シリスウス鋼の腕はそれに耐えられなかった。すみれ本 人の肉体が放つ場合とは違って、霊子甲冑という媒体を選んだが故に、また、す みれ本人の意志がその時暴走していたのも手伝い、制御ができなかった。 新型装甲も裏目にでた。止どなく放出される熱と霊力の奔流は、内側の第弐装甲 板である軟化シリスウス鋼管を一瞬で昇華させ、第壱装甲板の内部を介在するク ロム・モリブデン鋼を完全に融解した。そして限界ぎりぎりで耐えていたシリス ウス結晶も、欠陥で発生した相転移により、すぐさま最寄りの比較的脆い結晶面 を成す原子にまで及んだ。 点欠陥に由来する結晶の崩壊は、短時間で芋づる式に進行した。 「鋼鉄を使ったら‥‥すみれさんの力も‥‥」 「避けたいところではあるが‥‥米田の親父の土産もあるしなあ‥‥まあ、手は あるよ。フレームは残そう。ただし参型を組み込んだ上で二回りほど肉厚補強 だ。そして、フレームと腕部装甲の間には‥‥おっと、これは企業秘密だな‥ ‥」 「え‥‥な、なんですか‥‥教えてくださいよう」 「ふっふっふっ‥‥秘密だ‥‥」 「ええ〜、そんなあ」 「我ながらグッドアイデアだ‥‥ぬふふふ‥‥楽しみが増えたな」 「‥‥いぢわるっ」 神凪はニヤニヤ笑いながら、杏華は膨れっ面で仕事を続けた。 昼下がりの帝国劇場。 公演は既に終わり、ロビーから雑踏は消えていた。明日からは、また中休みに入 る。その人影のないロビーに一人の少女が姿を現した。 桜色の着物に紅色の袴。艶のある長い黒髪を、これも同じ紅色のリボンで束ねて いる。 「‥‥大神さん、どこ行ったんだろ」 さくらはいつまで経ってもサロンに来ない大神を探しにきた。 事務室にはかすみと由里、地下格納庫には神凪と杏華の二人だけ。そっと覗いた 宿直室では山崎が熟睡していた。何処にもいない。 ロビーに一人佇む。 売店‥‥もう閉店となった、その場所を見る。 地下格納庫の守護天使は、そばかすのある、おさげ髪の女の子。 売店を護るのは、こちらもそばかすのある、お河童の少女だった。 「そう言えば‥‥椿ちゃんもいないな‥‥」 さくらはピーンときた。いつぞや‥‥そう、一年半ほど前。 ‥‥さ、誘うのは、失敗したんだよ‥‥ 『うぬぬぬ‥‥煉瓦亭だわ‥‥』 あの日恐れた雷様は今、さくらの親友になっていた。さくらはすかさず玄関を出 た。早足は、いつか駆け足になっていた。 それをサロンの出窓から、すみれが目に止めた。 「あら?‥‥あれは‥‥」 「お、おいしかったです‥‥」 「ふふ‥‥そう言えば‥‥あの時はフラレちゃったもんなあ、椿ちゃんには‥ ‥」 「そ、そんなあ‥‥」 そこまで言って、大神は当時の状況を思いだした。たらーりと汗がつたう。こん なとこ‥‥さくらくんに見られたら‥‥思わず店内を見渡してしまう大神。ほ っ、大丈夫か‥‥。椿がきょとんとして大神を見つめる。 「‥‥あの後、わたし、ずっと大神さんが誘ってくれるの‥‥待ってたんです よ」 「え‥‥そ、そう?‥‥そっか‥‥じゃ、これからも、たまに一緒に飯喰おう か」 「ほ、ほんとですかあ!?」 「え?‥そ、そんな、驚くこと?」 「う、うれしい‥‥約束ですよ、絶対っ」 「あ、あははは‥‥」 杏華が銀座に赴任することになった日、杏華と座った窓際のテーブル。この日も 時間がずれていたため、店に客は少ない。 全然タイプの違う二人の少女。大神はじっと椿を見た。 椿は確かに幼く見えた。16歳‥‥もうすぐ17か‥‥その年令に相応しく、あ るいはそれよりももっと‥‥もしかしたら杏華は見かけ以上の年令なのかもしれ ない。外見は椿と同年代に思えたのだが、こうしてじっくり椿を見ていると、明 らかに違いがわかった。杏華の幼さは、彼女の生来の気質からにじみ出ているの かも‥‥大神はふとそんなことを考えていた。 しかし、そうは言っても、目の前の少女は確実に女性らしく成長していた。大神 はテーブルの下で、椿に見えないよう、もう一度写真を見た。 一年‥‥いや、もうすぐ二年。アイリスもそうだったように‥‥月日の流れは、 やはり人を変えるものなんだな‥‥特に女の人にとっては‥‥ 大神はそんなことまで考えた。モギリと売り子という、お互いずっと横で仕事を してきて‥‥お互いいつも見ていて、お互いいつも声をかけて‥‥こうしてじっ と見つめて初めて気付いた。 そんなところは、いかにも大神らしかった。 「そ、そんな‥‥見つめないで‥‥くださいよ‥‥」 杏華と同じことを言う。 「‥‥ねえ、椿ちゃん‥‥」 「は、はい‥‥」 「‥‥仕事してない時とか‥‥お休みの日は、どんなことしてるの?」 「え‥‥」 「あ、いや‥‥‥‥俺‥‥よく考えたら、椿ちゃんのこと、あんまり知らないか ら‥‥な、なんとなく知りたいなあ、なんて‥‥」 「そ、そんな‥‥そんな‥‥」 あまり物事に動じないはずの椿も、この時ばかりは胸がときめいた。 まだ写真の後遺症は残っていた。 「わ、わたしは‥‥部屋のお掃除とか‥‥‥お料理‥‥お裁縫とか‥‥た、たま に、かすみさんや由里さんが、さ、誘ってくれますから、その、お出かけしたり ‥‥」 「へえ‥‥」 大神は、何か温かいものに触れるような眼差しで椿を見ていた。女の子の日常が そこにあった。 確かに花組の少女たちとは常に身近に感じているし、ほぼ24時間、彼女たちの 行動は把握している。それは勿論隊長としての責務でもあったが‥‥なぜか、彼 女たちの日常は普通の女の子のそれとは掛け離れているような気もした。帝撃と いう使命を帯びた部隊に所属していたためでもあるし、また、舞台という華やか で厳しい仕事場を選んでいるが故に、でもあったが。 大神はそこまで考えて、自分の思いを否定した。 そう、彼女たちはどこにでもいる少女たちだった。 美しい女性たち。可憐な少女たち。‥‥そういう意味では、どこにでもいるとい う訳ではないが、ただ、彼女たちの望んでいる幸せは非常に慎ましく、謙虚なも のであった。彼女たちの幸せは、ありきたりな日常の中にあったはずだから。大 神はそんな彼女たちが大好きだった。 そんなことを考えていた大神に、今度は椿が聞き返す。 「‥‥大神さんこそ‥‥普段は‥‥何なさってるんですか?」 「俺?‥‥俺は‥‥‥‥‥俺は‥‥」 大神は真剣に考え込んだ。そう言えばいつも何かしら、花組の少女たちに関わる ことしか、してないような気がした。それしか記憶がない。 ‥‥大神さん、お掃除するんですけど‥‥ ‥‥うん、手伝うよ‥‥ ‥‥隊長、稽古に付き合ってくれねえか‥‥ ‥‥うん、付き合うよ‥‥ ‥‥お兄ちゃん、眠れないの‥‥ ‥‥うん、じゃあお話を‥‥ ‥‥隊長、これから買い出しに出かけるのですが‥‥付き合っていただけません か‥‥ ‥‥うん、わかった‥‥やはり、横浜かな‥‥ ‥‥少尉、わたくしの肩と‥‥うふふ、そうですわ、腰を揉んでくださらないこ と?‥‥ ‥‥はい‥‥‥‥ま、まだですか‥‥も、もう手が‥‥ ‥‥大神はん‥‥ちょいと実験に付き会うて貰えへん?‥‥痛いことありまへん よって‥‥ ‥‥げっ、ちょ、ちょっと‥‥わああああ、か、勘弁してええ‥‥ 「俺って‥‥一体‥‥何を‥‥やってるんだろ‥‥」 大神の顔は次第にげっそりとしていった。大神の日常など容易に想像できるだけ に、椿はくすっと笑った。 「大神さん、やっぱり帝劇には欠かせない人なんですね‥‥でも、たまには遊ば ないと」 「あ、あははは、そうだよ、ね‥‥‥‥はああ‥‥」 椿はしょんぼりする大神を微笑みながら見つめていた。 窓の外は昼下がりの暖かい陽射しが照っている。明るい銀座の街。人の歩く姿も まばらだった。 気怠げな煉瓦亭の店内‥‥天窓に飾られたステンドグラスから、七色の光が入り 込んでいた。大神の逆立った髪に柔らかく降り注ぐ。虹の神のようだった。光と 時を護る神‥‥椿はそんな気がした。 『もう少し‥‥もう少しだけ‥‥このまま‥‥時間を止めていて‥‥』 椿の願いはアイリスやマリアの願いよりも、ほんの少しだけ控えめだった。 それは確かに聞き入れられたようだった。 山崎が神凪と交代するために地下格納庫に降りてきた。杏華がいるおかげで、十 分に睡眠がとれた。プレハブに入ると、神凪からの指令が待っていた。 「お前‥‥明日、花やしきへ行ってこい」 「は?」 「これだ」 神凪は山崎に比較的大きな紙を手渡した。A3の模造紙3枚ほど。設計図のよう だった 「腕部‥‥ですね。鉄‥‥鋼鉄で造るんですか?」 「ああ。さすがにここじゃできんからな。山崎、お前が花やしきで打ってきてく れ」 「それは構いませんが‥‥なぜ鉄で‥‥」 山崎は残りの設計図をめくっていた。 「?‥‥断面が‥‥なんだ一体、これは‥‥なんか、植物の茎の断面みたいな‥ ‥」 杏華が興味津々で覗き込む。 そうして三人が並ぶと、杏華の背丈はかなり低いことがわかる。勿論神凪が長身 であるせいでもあるが、山崎も大神と殆ど変わらない背丈だった。確かに杏華は さくらと同じぐらいだった。 「ん‥‥杏華さんて‥‥結構背が‥‥」 思わず山崎が言う。 「む‥‥馬鹿にして‥‥わたしは‥‥くすん‥‥」 「あ、そ、そんな‥‥」 「山崎‥‥貴様‥‥女の子を泣かすとは‥‥許さん‥‥」 「いいっ?‥‥そんな、さ、さくらさんと同じぐらいかなあって、言おうとした のにぃ‥‥」 「弁解なんか‥‥いいです‥‥くすん‥‥」 山崎はあわてて、再び紙面に目を移した。杏華がぐずりながら覗き込む。 円に近い断面は渦巻き状の微細な襞のようだった。ポーラス型のシリスウス鋼に も見えたが、それ以上に何か海苔巻きのような成形を思わせる。内側に行くに従 ってシリスウス鋼に滑らかに変化する。 どうやって‥‥造るんだ?山崎は頭を抱えた。3枚目の設計図にその方法が記さ れていた。 それは、まさに海苔巻きだった。さすがの杏華にも理解できなかった。中央の空 洞部分にはフレームが配置するようだった。 「まあな‥‥かなり難しいが‥‥ま、お前なら大丈夫だろ」 「ま、まあ、な、なんとか‥‥」 「ふっ‥‥明後日までに造ってこいよ」 「はい‥‥えーーーっ!?、あ、明後日ですってーーっ!?」 「そうだ。アイリスの機体もあるし‥‥急ぐからな」 「そ、そんなあ‥‥搬送まで入れたら‥‥す、すいません、わたし、もう行って きますっ」 山崎は神凪との交代などすっかり念頭から消え、速攻で花やしきに向かった。 神凪と杏華はぽかんと見送った。 「‥‥あ‥‥あの野郎、交代すんのに‥‥ちっ、ま、いいか‥‥」 「はああ、大変だ‥‥わたしもがんばろうっと」 杏華は愛しい人の愛しい純白の機体に再び手を入れ始めた。 『俺は‥‥触らんほうがいいかもな‥‥』 隅々まで愛情を注ぎこむようなその姿に、神凪も苦笑するしかなかった。 「杏華くん‥‥すまんが‥‥休憩させてもらうよ、俺‥‥」 「あ、はい。お疲れさまでした」 「ふっ‥‥あ、そうだ‥‥晩ご飯食べたら、さくらくんと一緒に支配人室へ来て くれるかい」 「はい?」 「あ‥‥しまった、山崎が‥‥‥ちっ、しょうがないな‥‥大神も連れてきてく れる?」 「?‥‥さくらさんと‥‥大神さんと、一緒に、ですか?」 「ああ。じゃ、後頼むよ‥‥」 「はい‥‥?」 「うぬぬぬ、あ、あんな、仲よさそうに‥‥わ、わたしのこと、誘ってもくれな いで‥‥」 大神と椿が向かい合わせに座っている席。そこは煉瓦亭の入り口脇の窓から、ち ょうど店内を経由して真正面の位置にあった。 横向きで微笑む二人の姿を、外からじっとりと見つめるその人の名は、真宮寺さ くら。 着物の袖を噛み、千切らんばかりで歯軋りする。 「く、くやしいいい〜、こ、こうなったら‥‥」 「‥‥お待ちなさい、さくらさん」 いよいよ店内に踏み込もうとしたその時、がっしりと肩を捕まれた。 振り向くと、そこには見知った顔の揃い踏み。 「今はまずいわ‥‥後でじっくりと‥‥問い糾したほうが‥‥いいわね‥‥」 「お兄ちゃん‥‥椿ちゃんと‥‥二人っきりで‥‥」 「あたいは‥‥劇場食堂のみか‥‥‥‥いいだろう‥‥」 5人の背丈のバラついた少女たちは入り口近辺で張り込みを続行した。切れた表 情はそのままに、無言であるが故によけい始末が悪かった。 客のいない静かな煉瓦亭。大神と椿はそんな穏やかな空気の中で、たわいもない 話に華を咲かせていた。 それは入り口にたむろする、目つきの悪い方々がいたから。 煉瓦亭はしっかりと営業妨害されていたから。 「ご、ごちそうさまでした‥‥」 「いえ、いえ‥‥‥‥また、誘うから、一緒に行こうね」 「‥‥うれしい」 煉瓦亭から劇場までの道のり。かすみや由里とは何度も往復した道。椿にとっ て、これまでよりもずっと短い距離に思われた。劇場に着くと、夢は終わってし まう。 これでおしまい‥‥ 大神の言葉は、そんな椿の儚い夢を優しく紡いでくれた。椿は支配人室に向かう 大神の後姿をじっと見送った。そして、次に見る夢までの間‥‥また売り子の忙 しい毎日に戻るのだった。それも椿にとっては、夢の一部になっていた。 悠長な雰囲気ではなかったのが、花組五人衆だった。 劇場までの帰り道、まるで恋人同志のように寄り添って歩く大神と椿。尾行する 彼女たちは、気づかれないよう殺気を抑えるのに必死だった。 椿が事務室へ入ったのを境に、その均衡は破られた。一気に大神を捕獲に向か う、五人の狩人たち。 パタン‥‥ 廊下の角を曲がったところで、支配人室のドアが閉じられた。 「ちっ‥‥取り逃がしたか‥‥」 「うぬぬぬ‥‥こ、こうなったら、支配人室へ踏み込むしか‥‥」 「‥‥まだまだ、時間はありますわ‥‥じっくりと気を練り上げて‥‥」 「とりあえず‥‥サロンに戻りましょう‥‥果報は寝ていればやって来るわ‥ ‥」 「いひひひ‥‥楽しみだなあ‥‥」 耳鳴りがした。 彼女たちの想いを否定するような音が静かな劇場に鳴り響いた。 その静寂と平穏を破る警報が、束の間の安らぎの終りを告げた。 「場所が‥‥変わったな。浅草雷門か‥‥」 「‥‥敵将の存在を確認しました」 マリアが大神の言葉を受けて、状況を説明した。 一年半ほど前‥‥アイリスが暴走した時のそれと似ていた。雷門前の浅草の街並 みを破壊するのは、甲冑降魔だった。少なくとも二十匹以上いる。そして、雷門 の中に陣取る敵将‥‥どこかで見たことが‥‥ 「‥‥気のせいか?」 「‥‥とも、思えません。拡大してみます」 マリアが感じていたことを、大神が先に口にしたようだった。月組の先行偵察部 隊が撮影する、逐次状況。そこに映し出される敵将に焦点を合わせ、スクリーン を拡大する。 先に出現した、あの白い女性像とはまるで正反対だった。美しさとはまるで掛け 離れた、その異様な形態。やはり、どこかで‥‥似たような姿のそれを見たこと がある。 人には見える。少なくとも人型蒸気であるらしいことはわかった。だが、何か違 う。大神は距離を於いて映し出された、少しその焦点がぼけた像をじっと見入っ た。 「ん?」 大神はその敵将らしき‥‥魔操機兵と呼んでいいのか、それの胸にあたる部分を 凝視した。 「‥‥顔か?‥‥あの胸にあるの‥‥人間の顔じゃないか!?」 「あれは‥‥」 マリアは言葉を失った。スクリーンに映し出された顔は、幼い少年のように見え た。 おかっぱの髪形。 違う。 少年ではない。 マリアの脳裏にいやな記憶が甦った。 「刹那‥‥」 「やつは‥‥あの時に‥‥」 今度は大神が言葉を失った。 次いでアイリスが声を搾り出した。顔は胸にある、それだけではなかった。本来 顔が位置するべきところにもあった。顔は二つあった。 「あれは‥‥アイリスが‥‥」 大神たちの知らないその顔。だがアイリスには、その超感覚的知覚が教えてくれ た。 「くろのすかいの‥‥あの、ごついやつ‥‥」 大神が懸命に記憶を掘り起こす。記憶を逆登るために通らなければいけない辛い 記憶‥‥思い出したくない、苦しい記憶までもが甦る。 「‥‥羅刹とかいう、あれか?、アイリス」 「うん‥‥」 「なぜだ‥‥なぜ‥‥あいつらが‥‥」 今はそんなことを悩んでいる余裕はなかった。 帝撃の主力である花組の戦力の現状は‥‥カンナだけ。山崎は花やしきに行って いる。マリアは‥‥無理だった。防御ができないことは神凪から聞いている。個 人の霊力に合わせてある神武に、別の人間が乗ることもできない。 「いけませんわね‥‥今、出撃できるのは‥‥」 「くそ‥‥」 大神は唇を噛みしめた。地下作戦室に暗い雰囲気が漂い始めた。 カンナは、何か意を決したような表情をしていた。 先にさくらが大神に問い掛けた。 「大神さん、司令は‥‥?」 「あ、ああ‥‥さっき電話していたから‥‥なんか、帝国議会とか‥‥」 「街があそこまで破壊されている以上‥‥司令の出撃も‥‥」 「そういうこと」 マリアの問いに答えるように、背後から声が聞こえた。 神凪が姿を現した。 スーツでも軍服でもなかった。 戦闘服‥‥黒い戦闘服だった。 いつもの黒いスーツ以上に、それは喪服のようにも見えた。 不浄の物の怪をしかるべき場所へ誘う黒い死神。悪鬼羅刹を喰らう黒い破壊神。 それが今、目の前にいた。 少女たちは状況も忘れてその姿に魅入った。吸血鬼に魅入られた乙女の境地に近 いものがあった。ゆっくりと、スクリーンの前に立つ大神の横に歩いてくる。二 人が並んだその光景は、まるで光と影を思わせた。 正しい者を導く光と、悪しき者を滅ぼす影。 少女たちの口からは溜息しかでなかった。 「あ‥‥あの、司令、状況は‥‥」 マリアが慌てて説明しようとする。神凪は手でゆっくりと制した。 「ああ、電話で聞いたよ‥‥」 スクリーンを改めて見直す。 「亡霊まで取り込むようだな、あの甲冑は‥‥」 「まさか、反魂の術で‥‥」 大神は先の大戦‥‥聖魔城での戦いを思いだしていた。 「ふむ‥‥どうかな‥‥似てはいるが‥‥」 「だとしたら、妖力も当然倍化していると‥‥先の大戦でも‥‥」 辛い記憶はやはり甦っていた。神凪は少し考え込むような仕草でスクリーンに見 入っていた。二人の大神が全く同じ表情で。横でマリアが、そんな二人を複雑な 表情で見守っていた。 「しまったな‥‥今、山崎を呼び戻す訳には‥‥」 「では‥‥」 「カンナ‥‥行けるな?」 「‥‥へっ、あたりめえよ」 カンナは一人でも行くつもりでいた。今動けるのは‥‥自分しかいないのだか ら。黙って見ていることなど、カンナの内にあるものが許さなかった。 「‥‥マリア、ここでフォローしてくれ‥‥ま、必要ないだろうが」 「え?」 「俺とカンナが出る」 「!!!」 「し、司令が‥‥あたいと‥‥」 「お前たち、あのおかしなヤツとは‥‥昔やりあって終わったはずなんだろ。ま さに亡霊‥‥‥哀れだな‥‥‥‥この俺が、直々に引導を渡してくれる」 「た、たった二人で‥‥」 寝不足の赤い目でニヤっと笑みを浮かべるその神凪の顔は、まさに吸血鬼のよう にも見えた。 「任せておけ‥‥楽勝だ」 そう言って、翻った。 「帝国華撃団、出撃だっ‥‥ついてこいっ、カンナ!」 「よっしゃっ!」 カンナは奮い立った。 神凪とペアを組む‥‥あの黒い鬼神とともに戦える‥‥ 鳥肌が立っていた。 敵の群がる中に飛び込む、たった二人の戦士。 黒と赤。 帝撃司令と花組特攻隊長。 恐れどころか、喜びに身体が震える。 「へっ、へへへ‥‥やったるぜ‥‥」 「ふっ‥‥遅れるなよ、カンナ」 神凪はそう言って、黒い霊子甲冑に乗り込んだ。 単眼が輝いた。それは‥‥大神が乗った後とはまるで違っていた。漆黒の神武は まるで闇に溶け込むように、光を吸収し始めた。単眼だけが真っ赤に輝いてい た。黒い稲妻が再び甦ろうとしていた‥‥悪鬼羅刹を食らうべく。 真紅の神武がそれに呼応する。それまで見たこともない、赤い稲妻がその真紅の 両腕に閃きつつあった。カンナは、わけのわからない巨大な力が吹き出るような 感覚を覚えた。 『このあいだより‥‥すげえ‥‥』 自らの吹き上がる霊力、そして膨れ上がる、また別の力。 カンナはそれを必死で抑えた。 「は、はやく着かねえと‥‥こりゃ、つらいぜ‥‥へっ」 轟雷号に隣合わせでマウントされる、赤と黒の鋼鉄の鎧‥‥いや鬼神。鬼神に恐 れ多くも止め金が掛かる。カンナは、その漆黒の巨大な力が乗り移ったかのよう な錯覚に震撼していた。 「司令の‥‥あの力が、浅草で解放されたら‥‥」 「‥‥廃墟、だな」 大神は青ざめて言った。だが、浅草雷門前の街並みは既にそれに近い状況だっ た。今は神凪とカンナを頼るしかない。 『‥‥副司令、聞こえますか』 「え‥‥あ、山崎少尉」 花やしきで状況を追跡していた山崎が通信を送ってきた。背景はどうも工場のよ うだった。 『雪組が戦況の拡大を防いでいますが、これ以上は‥‥司令は?』 「出撃されました」 『!‥‥そうですか‥‥申し訳ありません。わたしは今ここを動くわけには‥‥ それと、敵の目的はここにある模様です』 「花やしきが?‥‥なぜ‥‥」 『‥‥こちらへ来てわかったのですが‥‥いえ、そちらに戻ってからお伝えしま す。盗聴されている恐れがありますから』 「!‥‥わかりました。いつ頃戻ってこられます?」 『すみれさんの機体を成す部品の完成を待ってから‥‥明後日です』 「?‥‥すみれの?」 『ええ‥‥では、その時に‥‥』 回線が切られたのを確認して、大神がマリアに話しかけた。 「‥‥まさか、とは思うが‥‥斥侯が?」 「恐らく。‥‥神埼重工と軍の一部には、諜報員が浸透していましたし‥‥当然 花やしきも‥‥」 「‥‥筒抜け、か」 話の大枠は既に知っていたとはいえ‥‥先の劇場へ侵入した、不貞の輩の件もあ る。 敵は思った以上に、計略的に足固めをしているように見えた。戦闘もこちらの戦 力を把握することに留めている気もする。主力が投入されるのは‥‥完全に勝利 を確信する材料を得てから、か。 大神は背中に冷汗を感じた。 確かにこちらの戦力は、それに対応して上がっている。事実、先の戦闘で示し た、カンナ、さくら、すみれ、そして加入した山崎の力は、大神を含めた残る花 組の面々を驚愕させた。それまで圧倒的だった敵に対して、逆にそれを遥かに上 回る威力でこれを殲滅した。 だが‥‥今のままでは、いけない。花組が完全な状態で‥‥7人で出撃できたこ となど、一度もなかった。 せめて自分が参戦できれば‥‥いや‥‥いや、焦ってはいけない。 心で呟いても、このような状況に直面すると、やはり苛立ちは抑えられない。 「敵の素性が‥‥もう少し詳しくわかれば‥‥」 「ええ‥‥すいません、月組の力を以てしても‥‥」 マリアも内心かなり焦っていた。相手の手の内がわからないため打つ手が全て後 手に回ってしまう。 「わたくしの機体とおっしゃっていたようですが‥‥」 そんな二人を察して、すみれが問い掛けた。敵の力は、すみれ自身にとっても身 体にしっかりと憶え込まされただけに‥‥焦っているのは、すみれも例外ではな い。 「すみれくんの機体か‥‥だけど、あの機体の様子じゃ、再生はかなり時間が‥ ‥」 「そうですね‥‥」 「それは、わたしから‥‥」 いつの間にか、杏華が司令室に来ていた。いつもの幼い表情はない。小さな手が 油にまみれていた。 紅蘭と似ている、か‥‥こんな状況でなければと、大神は内心舌打ちした。 それほど今の杏華は儚げに見えた。 「すみれさんの霊子甲冑は一新されます‥‥」 「え‥‥」 「わたしが造った機体に、神凪司令がさらに手を加えます」 「杏華さん、が?‥‥杏華さんの造った霊子甲冑が‥‥あるんですの?」 「ええ‥‥すみれさんが乗る機体は‥‥試作型弐号機‥‥即ち零式の発展型で す」 皆一様に驚き、そして杏華に見入った。 「‥‥あれほどの力を持つ神武が‥‥まだあったのですか‥‥」 「‥‥神武ではありません」 「え‥‥」 「わたしが‥‥そして、神埼会長が‥‥すみれさんのために造った霊子甲冑で す」 「杏華さんと、お祖父様が‥‥わたしの‥‥ために‥‥」 「試作卯型霊子甲冑弐号機‥‥名前を七瀬と言います」 「なな‥‥せ‥‥」 すみれは、その名前を遠い記憶の彼方から呼び起こした。 七‥‥瀬‥‥ おねえちゃん‥‥ 「わたしの娘‥‥‥それは、あなたのための機体です」 「七瀬!?」 花やしきでの事件以来、自分が妙にさくらに対して親近感を覚えるようになっ た。それは肉親として、母としての情に近いものがあった。そのわけが今何とな くわかった。 遠い記憶‥‥夢にすら出ないほど遠い‥‥遠い過去に咲いた線香花火。闇を一瞬 だけ照らす儚い灯。自分の小さな手を握り締める、それよりもさらに小さな手。 アイリスよりもずっと、ずっと小さな手‥‥自分が一人ぼっちになる前、いつも 傍にいてくれた優しい友達。優しい‥‥妹。 すみれ‥‥おねえちゃん‥‥ 神埼七瀬。 それは幼い頃にこの世を去った、すみれの妹の名前だった。 浅草雷門。 一年半前の戦闘、翔鯨丸からの砲撃で跡形もなく破壊された。その後もう一度そ れは造り直された。それが‥‥そのシリスウス鋼で固められた城壁のごとき門 が、紙屑のようになっていた。家並みは‥‥そこに家があったのか、と思わせる ような廃墟になっていた。 人の気配はない。 逃げ遅れた人々‥‥彼らは安住の地を奪われた。 安息の臨終を奪われていた。 選択の自由を奪われ、意思の自由を奪われ‥‥そして喰われる。 神は、その姿を模倣して人を創った。だが今やそれは、おぞましい姿に変貌して いた。人の尊厳は、そこにはもうなかった。生前の着物が、ボロ切れのように、 その不浄の物の怪にまとわりついていた。 甲冑をまとわない、降魔。 20体あまりの甲冑降魔に寄生し、そしてしかるべき宿主を探して放たれる。甲 冑降魔のもう一つの顔。その数は倍になっていた。 「んぬぬぬ‥‥勘弁ならねえ‥‥もう、許さねえ‥‥」 カンナが吹き上がる霊力に恐るべき怒気をも練り込んでいた。もう止められよう がなかった。敵の下劣さはカンナの怒りを激しく煽った。 二度ならず、三度まで‥‥ カンナがそれを最初に目撃したのは先の大戦中‥‥廃墟となった帝都を逃げ惑う 人々。悪鬼の如く涎を撒き散らしながら、その罪もない人々を襲う不浄の物の 怪。地獄の絵図を見ているようだった。 次は目の前で起きた。甲冑降魔との最初の戦闘となった上野。帝撃の仲間が‥‥ 戦いに傷ついた者を平気で捕食する外道の輩。 そして、今回‥‥ 戦争とはこういうものなのか‥‥弱い人々がいつも犠牲に‥‥ 弱い者は‥‥強い者に踏み潰される運命なのか? 闘いに‥‥犠牲は必要なのか? 犠牲の上に‥‥あたいたちは立っていいのか? ‥‥違う。 人一人護れないで、何が隊長だ、何が帝撃だ。 大戦中に負傷した大神。それを責めたマリア。それをドア越しに聞いていたカン ナ。 マリアの言うことも尤もだった。 マリアの部屋に行って‥‥マリアにも迷いがあることはわかった。後になって、 マリアの過去も‥‥しかしカンナには、それ以上に、大神の気持が痛いほどよく わかっていた。 自分たちは戦うためだけに‥‥ 勝利するためだけに集まったのか? 勝ちさえすればいいのか? 勝つためには何をやってもいいのか? 勝てば何でも許されるのか? ‥‥違う。 それを大神は示した。 常に背中合わせの嫌悪感とも戦っていた自分。 戦いは犠牲を伴うもの‥‥否定できないとわかってはいても。 大神の存在は、そんな自分を導いてくれる光になった。 戦いは犠牲を伴う‥‥では、自分が隊長のために‥‥礎になろう。 カンナの大神に対する想いが決定的になった瞬間でもあった。 大切な人を奪う者‥‥ 愛する人を傷つける者‥‥ぶっころすっ! 下衆野郎ども、片っ端から始末してくれるっ! 目の前の群がる敵を叩き潰す。真紅の機体は怒りで真っ赤に燃え上がるようだっ た。 桐島カンナは‥‥やはり特攻隊長だった。 「どうやら、液射と酸弾がほとんど、か‥‥学習できるようだな‥‥」 「関係ねえぜ、司令‥‥もう‥‥もう、我慢できねえ、ぜ‥‥」 我慢してきた巨大な霊力の奔流は、怒りに触発され暴走寸前だった。 「‥‥行っていいぞ、カンナ‥‥防御は俺にまかせろ」 「!」 カンナは一瞬、そこにいる人を勘違いした。 いや同じ人だと思った。カンナの背中が熱くなった。 真紅の機体は間髪入れず、降魔の群れに突っ込んだ。司令室で見ていた花組の少 女たちの目には残像しか見えなかった。その背後を、まさに影のように音もなく ぴったりと追随する漆黒の神武。 「オオリャアアアアーーーーッ!!」 液射の一体は右拳のみで消滅した。片側の甲冑降魔は左拳のみで行動不能になっ た。 それを真紅の機体の影が斬る。 傍目には、異形の者が自らの不浄さに悲観し、勝手に自滅しているようにしか見 えなかった。真紅の神の逆鱗に触れた不浄の物の怪‥‥見てる間にその数は半分 になっていた。 残るほとんどの降魔が、雷門跡に終結して行く手を阻んだ。 その先には、あのオブジェのような敵将が蹲っている。 「‥‥見てろよ、さくらくん」 『‥‥え?』 軌跡しか見えない‥‥赤と黒の稲妻が描くその軌跡だけを、司令室で追っていた 少女たち。スクリーンのフレーム周波数すら凌ぐ二体の速度。真紅の機体とその 影はここで入れ替わった。瞬間赤い神武が姿を現した。最初に立った位置から、 まるでアイリスの瞬間移動のように現れたようにしか見えなかった。 そしてさくらは、神凪の声が聞こえた瞬間、黒い神武が抜刀の構えで出現したの を見た。 黒い影の赤い目が輝いた。 「破邪剣征・百花昂龍天塵!!」 神速の抜刀から放たれた黒い光は‥‥まるで龍のように見えた。 それは固まりかけた不浄の群れの一体に喰らいついた。そして黒く輝く油膜がそ れを一瞬で覆う。 その後が見物だった。 油膜は拡散が飽和した後、ただ昇天することはなかった。まるで意思を持つかの ように、自らの勢力圏外の標的を探索し、発見するやいなや、そこに新たに黒く 輝く龍を放った。残る甲冑降魔に降り注がれた光は、また黒い油膜を造った。 そして、その油膜からさらに‥‥今度は敵将目掛けて黒い龍が放たれた。 最初の油膜から天に向かって黒く輝く円柱が立ち上がった。そして黒い花びらが 舞う。次の油膜からも、そして次も。それはまるで、龍が水面を飛び石のように 跳ね回る様を見るようだった。全ての標的を捕獲するまで、黒い龍は獲物を捜し 回った。その度に天まで届きそうな水しぶきが上がる‥‥そして全ての獲物を捕 えた後‥‥その龍は最も不浄な物へ、敵将へ舞い戻った。 不浄の物供は、存在の痕跡すら残していなかった。 さくらが会得した第拾壱奥義の裏技、百花繚乱・裏‥‥百花昇龍塵‥‥その強大 な技ですら、前駆奥義に過ぎなかった。 雷門に静寂が訪れた。 不浄の者供は二体の神の使いによって、ほとんど考える余裕もなく粛正されてい た。 敵将は‥‥ダメージを受けたものの、健在だった。 「ほう‥‥耐えたか‥‥」 神凪は、半ば喜んでいるような声色で呟いた。 黒い稲妻が漆黒の神武に引き寄せられて来ていた。 「ぶっ殺してやるぜ‥‥」 カンナの怒りは治まるどころか、吹き上がる霊力に、お互いに増長しあっている ようだった。有り余る霊力が赤い稲妻を、その真紅の機体に引き寄せていた。赤 と黒の稲妻が二対の霊子甲冑に絡み付いていた。 いつでも突貫できそうな態勢で、二人は目の前の異様なオブジェと対峙した。 二人の鬼神を止められる者など、どこにもいなかった。
Uploaded 1997.11.06
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