<その4> 「あ、杏華さん‥‥ちょっとよろしいですか」 「あ、おはようございます、かすみさん‥‥あれ?‥‥お休みじゃ‥‥」 三連休の中日の朝、食堂に向かう杏華をかすみが呼び止めた。 「あの‥‥そろそろ‥‥その、舞台のことについて‥‥打ち合わせを‥‥」 「う‥‥」 まだ半月以上あるとは言え、初心者の杏華を以て一箇月に渡って公演を続けるに は、さすがにそれなりの準備が必要だった。 杏華は花組の公演は大好きだった。特に”愛ゆえに”、そして主演のさくらのフ ァンであることは、大神への手紙に記した通りだった。 お菓子が大好きな少女。が、造る方は得意ではない。当然舞台に上がった場合も 予想はできた。 「う、う‥‥や、やっぱり‥‥わたし‥‥やるんでしょうか‥‥」 「え‥‥何、言ってるんです?‥‥もう、その線で裏方は進んでるんですよ‥ ‥」 「ひいい‥‥す、すっかり、忘れてたのにいい‥‥」 「‥‥何て言いました?‥‥ちょっと‥‥事務室まで‥‥顔、貸してもらえま す?」 「ひえええ‥‥」 杏華はかすみにがっちりと腕を捕まれ、事務室へ連行されて行った。 途中でばったり大神に会う。どうも杏華ともども支配人室から出てきたばかりの ようだった。 「‥‥おはよ‥‥かすみ、くん‥‥」 「あら‥‥大神さん‥‥顔色悪いですね」 「‥‥あはは、なんでもないよ‥‥」 少し肩を落として食堂へ向かう。 しばしじっとそれを見送る杏華とかすみ。 「あ、かすみさんに杏華さん‥‥二人して、何してんですか」 「ん?‥‥あ、おはようございます‥‥さくらさん」 微笑んで朝の挨拶をするさくら。 少し目が赤い。 「もしかして‥‥来月の舞台の打ち合わせですか?」 「ええ、まあ‥‥どうも、杏華さん‥‥自覚が足りないようなので‥‥」 「ひいい‥‥」 「あははは‥‥大丈夫ですって、杏華さん。楽しんでやりましょうよっ、ね‥‥ じゃ‥‥」 さくらは大神を追うようにして食堂に向かった。 また、しばしじっとそれを見送る。 「よう‥‥」 「ん?‥‥げげっ」 「‥‥なんだよ」 「い、いえ‥‥お、おはようございます‥‥支配人‥‥」 「‥‥打ち合わせかい?」 「え、ええ、ま、まあ‥‥」 「‥‥そう‥‥よろしくな‥‥」 神凪は青ざめた顔で、やはり食堂に向かった。 かすみは今度は凍り付いて、その後ろ姿をじっと見送った。 「い、いったい、なんでしょう、か‥‥」 「‥‥つまり‥‥こいこいが‥‥裏目に出たという‥‥」 「は?」 「いえ、実は‥‥」 昨晩の夕飯はかなり遅くなった。杏華は整備が長びいた。純白と桜色の機体を同 時に整備することにしたからだった。神凪は街の燈が消えるまで熟睡していた。 さくらとすみれは特訓に熱が入り過ぎて、気がつくと竹林は真っ暗になってい た。 二人はぴったりと寄り添って竹林をうろうろ行ったり来たりを繰り返した。 す、すみれさあん〜、こ、怖いよう‥‥ だ、大丈夫で、ですわよ、こんな‥‥ ガサッ‥‥ ひっ、だ、だれ‥‥さ、さくらさん、も、もっと傍に‥‥ ホウッ‥‥ホウウ‥‥ バサバサッ‥‥ ひいい‥‥で、出口は、ど、どこ〜 30分以上迷ったらしかった。 杏華のことは聞いていたし、地下にいることもわかっていたから大丈夫だった が、さくらとすみれの帰りが遅すぎる。大神、アイリス、マリア、そしてカンナ は、夜の銀座中を捜しまくった。 東側繁華街を探索するマリアとカンナ。 マリアは途中で何度もナンパされて‥‥ なんと美しい‥‥お嬢さん、よろしかったら、わたくしとグラスを傾けるなど‥ ‥ な、なんですか、いきなり‥‥い、急いでおりますので‥‥ つれないお人だ‥‥ますますいい‥‥どうか、このわたくしと‥‥ そ、そんな‥‥‥‥わ、わたしには、心に決めた人が‥‥い、いけません‥‥ お嬢さん‥‥ こら‥‥連れがいるんだぞ、おい‥‥ こ、これは‥‥なんという逞しい‥‥なんという凛々しい殿方だ‥‥ ぴきっ‥‥き、貴様ああ、あたいは女だああっ! ドカッ、バキッ、はあはあ、オラオラーッ、バキッ、おまけだっ、ズゴッ‥‥ 血管が浮き出るほど顔が赤くなるカンナ。 横でこちらは、ぽっと頬を染めるマリア。 ‥‥一方西側を検索する大神とアイリス。 大神は途中で何度も警官に呼び止められ‥‥ おいっ、お前っ‥‥ちょっと待て‥‥ ‥‥へ?‥‥俺? こんな時間に‥‥こんな、かわいらしい娘を連れて‥‥何してるんだ‥‥ え、え?‥‥じ、自分は‥‥ お兄ちゃあん‥‥はやく、連れてってよう‥‥楽しいこと、するんでしょ?‥‥ うひっ‥‥ な、何言ってんだよ、アイリス‥‥ うぬぬぬ‥‥き、貴様ああ‥‥交番まで来いっ! ちょ、ちょっと待って‥‥ご、誤解だあ‥‥ その度に足止めを食らった。 こ、これは失礼を‥‥いやはや、何を隠そう、わたしも花組のファンでして、あ っはっはっ‥‥ 大神は疲れが倍増していった。 アイリスは、うきうきしながら、夜の銀座の探索に魅了されていた。 銀座の夜は確かにアイリスならずとも魅力的に映った。 でも、もうすぐ燈も消える‥‥ 眠らない街ではない‥‥ 大神はふと、そんなことを考えた。 優しい街。 人の息吹が聞こえる‥‥ そして‥‥疲れ果てて帰還したら、すみれとさくらは既に夕飯をかっ食らってい た。 それこそカンナや大神のように‥‥ 馬車馬と農耕馬がそこにいた。 唖然とし、すぐに激怒して詰め寄る四人。 わ、わたしは‥‥別にそんな疲れはしなかったけど‥‥これからは注意してね。 ち、ちきしょう‥‥てめえら、門限はきっちり守りやがれっ、この大馬鹿もん っ。 アイリスは‥‥許してあげるよ‥‥‥‥でも、二人とも‥‥子供ねえ‥‥ お、俺なんて‥‥ゆ、誘拐犯と思われたんだぞ‥‥‥‥頼むよ、二人とも‥‥ さすがに二人ともしゅんとなった。そして杏華が地下から上がってきて、改めて 夕食‥‥遅い晩飯とあいなった。 食事が終る頃には、もう街の灯も消えようとしていた。自室へ戻る少女たちを見 送りながら、杏華は再び地下格納庫に向かった。神凪からは夜の整備は控えるよ う指示されていたが、杏華にしてみればそんな悠長な雰囲気ではない。帝国華撃 団の闘いぶりを目のあたりにした杏華‥‥あの二人の戦闘力は尋常ではなかっ た。神凪は言うまでもなく、カンナ‥‥花組の力があれほど強大だったとは‥ ‥。 そこまで考えて杏華は別の冷汗をかいた。司令はどうして司令になられたんです か‥‥自分が神凪に聞いた言葉。神凪が司令として赴任してこなければ、いった いどうなっていたのか。 背筋が凍る。姉のあやめが愛した、花組の少女たちが、この劇場が‥‥自分の居 場所がなくなってしまう。 杏華はあせった。純白の神武、そして桜色、新緑の神武の完成を急がなければ‥ ‥それはいつか山崎が感じた焦燥感にも似ていた。そして黒い鬼神、破壊神‥‥ 零式。その人知を超えた圧倒的な力が脳裏をよぎる。全てにおいて自分を凌駕す る存在‥‥神凪龍一。‥‥負けない、絶対に零式以上の‥‥そして、七瀬を凌ぐ 霊子甲冑を造り上げる。 それまで以上の驚異的な集中力と速度で整備に向かう杏華。 人の気配を感じた。 さくらだった。 入室禁止になってはいたが‥‥ 眠れなくて‥‥杏華さんの気配を感じたから‥‥さくらはそう言って、プレハブ に入ってきた。なぜか元気がなかった。‥‥当り前か‥‥あんな技を見せつけら れて‥‥さくらも、自分と同じ。焦りだけが心を締め付ける。 杏華はしばらくさくらと話をしていた。お互い顔を見て、話をして、そしてお互 いそこにその人がいると思うだけで‥‥そうするだけで、少しだけ気が晴れるよ うな気がした。 ふいに杏華は神凪から言われたことを思い出した。さくらくんと大神と一緒にき てくれ‥‥ 取り敢えず杏華はさくらを伴い支配人室へ向かった。 大神が支配人室の前に立っていた。その向かい、中庭に面した窓を見つめてい る。なぜか寂しげな瞳。廊下の照明が作る薄明りが、その横顔をさらに寂しいも のにしていた。光と影‥‥交わってはいけない、だが決して離れることもない。 杏華とさくらは、しばしその横顔に見とれた。大神が振り向いた。そこにはいつ もの優しい笑顔があった。大神はなぜかその窓を塞ぐように二人を支配人室側へ 導いた。そして四人は支配人室へ入っていった。 「‥‥‥‥」 「‥‥で、勝負となったわけ、ですか」 「ま、まあ‥‥」 「‥‥で、今の今迄‥‥やってたと‥‥言うわけですか」 「ま、まあ‥‥」 「ふーん‥‥結果は顔に書いてある通り、ですね‥‥」 「ま、まあ‥‥」 大神の手札は前回よりも遥かによかった。 神凪のそれも悪くなかった。 ただ、問題は‥‥こいこいのタイミングにあった。 大神と神凪は完全に足の引っ張りあいをしていた。大神の待ち札を神凪が保有。 その逆もしかり。お互いの捨て札が、さくらと杏華の待ち札となった。 ‥‥なんだ、支配人も結局この程度か‥‥ そんな‥‥不調なのかもしれませんよ、きっといつか勝てますよ‥‥ 何気なく呟くさくらと、何気なく悪気もなく励ます杏華。 怒り心頭の神凪が、 んぬぬぬ‥‥調子に乗りおって‥‥ と、気合いを入れ直しても、時間は無常に過ぎていった。 ば、馬鹿な‥‥この俺が?‥‥んぬぬぬぬ‥‥認めんっ、認めんぞーっ! という具合で、朝まで続いたが‥‥結果は変わらなかった。 元気がなかったさくらも、そして杏華自身も、少しずつ暗い気持ちが癒されてい く気がしていた。 「ふーん‥‥なるほど‥‥」 「そ、それでは、わたしも‥‥ちょ、朝食を‥‥」 「それは‥‥あ・と・でっ」 杏華とかすみは事務室へと入っていった。 そこには休日出勤でむっとしている由里が待っていた。 食堂では大神と神凪が向かい合わせで座っていた。 いつもの窓際の席。さくらが横でじっと見つめる。 休日の劇場は調理担当がいない。さくらが二人のために朝食を作った。トレーに 配置された山盛りのそれも、見る見る減っていく。二人の大神と一緒に朝食をと るのは勿論初めてだった。朝の柔らかい日差しを浴びて‥‥寝不足のさくらの目 には二人の姿も眩しすぎた。 「だいたい‥‥お前が、俺の手筋を邪魔するから‥‥くそっ、あんなはずでは‥ ‥」 「おやあ?‥‥こう言っちゃなんですが、支配人のカスみたいな手のおかげで、 自分の上がりがパアになっちまったんですよっ!?」 「貴様‥‥弱者の分際で‥‥許さんっ、許さんぞーっ、飯喰ったら表に出ろっ」 神凪が飯粒を大神の顔面に撒き散らして吼える。大神が一瞬目を閉じ、そして再 びぎらっと睨み返す。 「ほう‥‥望むところだっ」 さくらが頬を赤く染めつつ微笑みながら、大神の顔についたそれを一つずつ取っ ては‥‥自分の口に入れる。視線をお互いの目に固定しつつ、朝飯をバクバク食 らう大神と神凪。 「お二人とも、おかわりしてくださいね‥‥いっぱい作っちゃったから」 「‥‥よかろう」 「えらそうに‥‥じゃ、お言葉に甘えて‥‥」 「うふふ、はい‥‥」 さくらは二人の茶碗を持っていそいそと厨房に入った。 ありきたりの幸せが一番と思える時。 ずっと‥‥こうしていたい‥‥ いつか見た夢。子供の頃、母と一緒に‥‥母の手料理を教えてもらって‥‥ ‥‥うふふ‥‥さくらったら‥‥おませなんだから‥‥ 「‥‥いいの」 ‥‥だれかしらね‥‥さくらの傍にいてくれる人‥‥わたしもいつか会えるかな ‥‥ 「‥‥そこにいるのよ‥‥お母さん‥‥」 ‥‥あら‥‥うふふ‥‥どっちなの‥‥ 「‥‥どっちも‥‥どっちも、大切な‥‥人」 大切な人‥‥愛してる人‥‥ いつか巡り合う、大切な人‥‥愛しい人のために。 さくらは、その時のために修業をしてきた。 剣だけではなく‥‥女としても。 ‥‥すみれくんも連れてこい。 朝食を済ませた後、神凪は大神にそう言い残してさくらを連れだって地下鍛練室 に向かった‥‥すみれくんとさくらくん、その二人にも見ておいてもらったほう がいいだろう、と。 大神はその意味がよくわからなかったが‥‥いや、わかっていたかもしれない。 神凪も。 支配人室に差し掛かる。左手には支配人室、右手には‥‥中庭が見える窓。昨夜 じっと見つめていた暗い中庭にも、今は外壁に差し込む陽の光が反射して、少し 明るく目に映る。いつもはそこで身体をほぐす大神も、今は立ち止まってじっと 見つめていた。 遅い夕食が終わると、すぐに消灯時間となった昨夜の帝劇。大神は二階を一通り 見回った後、一階に降りた。舞台、舞台裏、楽屋、衣装部屋‥‥だれも人はいな い。宿直室‥‥山崎は花やしきに行っている。 薄暗い光が灯る支配人室前の廊下。いつからこんな暗くなったんだろう、と大神 は少し考えこんだが、それも気にしないことにした。その向かい側の窓。何も見 えない。だれもいないはずの中庭。 人はいた。 時折閃く銀光‥‥それは、廊下の窓から漏れる薄明りに反射されて、暗い中庭を 少し悲しく彩っていた。その銀光を発するは鍛えられた鋼鉄だった。そして、そ の鋼鉄を握るのは‥‥それとは全く正反対の傷つきやすい身体。 「‥‥すみれ、くん」 すみれの目は焦りをあらわに示していた。大神はすみれの美しい舞が好きだっ た。戦いのときも、なぜか妙に心がひかれた。不浄の者を焼き尽くす紅蓮の鳳 凰。産みの母親は美しい乙女。それも‥‥今は違っていた。大鎌を振るう死神の ようにも見えた。目がそうだった。殺して、殺して、殺しまくって‥‥ 大神は中庭にでた。 「すみれくん‥‥」 「あら‥‥大尉‥‥」 「こんな遅くまで‥‥もう、休んだほうが‥‥」 「わたくしはもう少し舞っておりますから‥‥どうぞお先に‥‥」 「‥‥焦る必要はないよ。みんなが助けて‥‥」 「だまらっしゃいっ!」 「!?」 「‥‥同じことを‥‥同じことをおっしゃって‥‥七瀬の時も‥‥」 「七、瀬‥‥?‥‥」 飾られた言葉など、今のすみれには慰めどころか怒りを煽るだけだった。 紅蘭の次は七瀬。心理的抑圧は容赦なく襲いかかった。 ‥‥おねえちゃあん‥‥すみれ、おねえ、ちゃん‥‥ ‥‥七瀬、七瀬ーっ! ‥‥すみれ‥‥ ひとりぼっちじゃないよ、すみれ‥‥みんなが助けてくれるからね。 その結果は‥‥。一人。孤独。 だれも自分の傍にはいない。一人ぼっち。当り前。 「だれも‥‥だれも助けてくれない‥‥わたくしは‥‥わたくしは、いつも一人 ‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥ふっ、何人たりとも、この神崎すみれの歩む道を阻むことなど許されない ‥‥何人たりとも、このわたくしの前を歩くことなど‥‥認められない‥‥たと え、それが花組のいずれであろうと」 「‥‥空しくないか?」 「‥‥なんですって?」 「寂しくないか?」 「‥‥たわけたことを‥‥このわたくしに意見するつもりですの?」 「そんなつもりは‥‥ないよ‥‥」 「でしたら、さっさとわたくしの前から消えなさい‥‥」 「‥‥‥‥」 「ふっ‥‥大尉‥‥あなた、現実と言うものを認識したほうがよろしくてよ‥ ‥」 「‥‥どういう意味だ?」 「‥‥司令が‥‥あなたのお兄様がいなければ‥‥今はありませんでしたのよ」 「‥‥‥‥」 「にも関わらず‥‥あなたは何をしてらっしゃるの?‥‥‥‥皆が死んでも、あ なた、それでも平気なの?それでよく隊長などと‥‥」 パシッ‥‥ 暗い中庭に乾いた音が響いた。 すみれが頬を手で抑えて‥‥ 「‥‥すま、ない」 「‥‥わた、くし、の‥‥頬を‥‥わたくしの‥‥こ、この、美しい顔を‥‥」 「‥‥‥‥」 「あなたなんか‥‥あなた、なんか‥‥‥‥だいっきらいっ!!」 すみれは中庭から去った。 大神が一人取り残された。心の奥底‥‥夕陽に染まった海原が急速に暗くなって いくような感じだった。まるで今の中庭のように。締め付けられる‥‥心が。焦 りではなく、怒りでもなく‥‥ただ、悲しくて。 ‥‥あなたは隊長失格です‥‥ あの時よりも‥‥ひどい。俺は隊長など‥‥みんなを導くことなど、できないの か‥‥ 大神はうつむいた。すみれを叩いた掌が熱い。こころが痛かった。 「七瀬‥‥か」 試作卯型霊子甲冑弐号機‥‥七瀬。零式の後継機。 「想い人の名前、なのか‥‥」 暗い中庭。そこには月明りさえも届かない。ただ、かろうじて劇場の廊下の薄明 りだけが大神の横顔を照らしていた。 劇場の中に戻って‥‥すみれの部屋には行かなかった。行けなかった。何を言う と?‥‥何を言ってほしいと? 大神はただ支配人室の前に立ち、窓の向こう側‥‥それが活動写真でもあってく れればと願うように、その暗闇を見つめていた。いつのまにか、さくらと杏華が 自分を見ている。大神は悲しみを振る切るように笑顔を浮かべた。それは成功し たようだった。支配人室へ入る‥‥そして、そんな大神の想いを察したかのよう に、神凪が笑みを浮かべて勝負を持ちかけた。 杏華が隣に座った。大神はさりげなく七瀬のことを聞いた。杏華が知っていたこ と‥‥それは”七瀬”という名前がすみれの今は亡き妹のそれであること、会長 であり祖父でもある神崎忠義が、すみれのために創った霊子甲冑、すみれを想っ てつけた名前であること。勿論神凪とさくらには聞こえないように小声で大神に 告げた。大神にはそれで十分だった。自分に一番近い人。すみれには妹、自分に は兄。そして自分の願いは適った。すみれは‥‥ 階段を上りきると、右手にサロンへのドアが見える。続く廊下から朝日がこぼれ ていた。自分の部屋、そして、あやめの部屋を照らす。 そして真正面を見る。少し暗い廊下‥‥両側が少女たちの自室‥‥窓がない廊下 ‥‥陽が入り込まない。すぐ右手には紅蘭の部屋。その横はアイリス‥‥ともに 自分を導く少女、導いてくれた少女。そして‥‥その隣‥‥ 許してもらえるとは思えない。でも言わずにはおれない。放っておくことなど、 なおさらできない。 大神はすみれの部屋の前に立った。 「いやああああああ‥‥あああ‥‥ああ‥‥あ?‥‥」 手をそのまま宙に延ばしたまま、目が覚めたすみれ 「‥‥夢、ですの‥‥」 延ばした手を開け放たれた胸元に戻す。開けた口をゆっくりと閉じて、シーツの 上にあったもう一方の手をその口元に、これもゆっくりと送る。その可憐な唇を なぞるように、本人の弁でなくとも、その白魚のような指先が動く。 「わたくしは‥‥」 七瀬‥‥儚い夢のような存在。 おねえちゃん‥‥あはは‥‥ 七瀬‥‥ ‥‥おねえちゃん‥‥やだよー‥‥おねえちゃあん‥‥ 七瀬っ‥‥七瀬ーっ‥‥ 妹である神埼七瀬はすみれが8歳になった時‥‥その5年の生涯を閉じた。 白血病。 当時はその不治の病で若くして生涯を閉じる人々が少なからずいた。 なぜ、この子が‥‥なぜ、どうして‥‥ すみれの祖父、神埼忠義は、勿論すみれに対してもそうだが、殊の外七瀬に愛情 を注いだ。七瀬が他界した後、すみれを憂い、すみれに対しても同様の愛情を注 いだ。が、会長としての立場が安らぎの時間を許すはずもなかった。すみれの両 親、その存在も手伝った。傍にいればその頑なな決意も緩められたものを。 すみれはそれ以来、誰にも媚びない、すがることなど絶対にしない、そんな人生 を歩むことを誓った。自分の道は自分で決める。だれにも邪魔はさせない。憐れ みなど不毛なだけ。 それはつい最近まで守られていた。‥‥二年前までは。 その鋼鉄の箱を包む鉄の鎖を解いたのは大神だった。 「わたくし‥‥なんてことを‥‥」 唇に触れた指先を、頬に寄せる。 「痛い‥‥こんなに‥‥痛いだなんて‥‥知らなかった‥‥」 初めて頬を叩かれた。お嬢様だから。自分をひれ伏すことができる存在などいな かったのに‥‥二年前までは。 ‥‥俺は‥‥ カンナとともに深川に出かけた時のことが脳裏に甦る。 ‥‥見守ることしかできない‥‥二人で‥‥協力して欲しいんだ‥‥ 「大尉‥‥」 そして、あやめがいなくなった。 大神には、ひどいことを言った。 少しうつ向く。 ‥‥すまん‥‥こうするしか、思いつかない‥‥ 「大尉‥‥大尉い‥‥」 そんな自分を‥‥あの人は優しく抱いてくれた。 そして、昨日‥‥ ‥‥あなたは何をしてらっしゃるの?皆が死んでも平気だと? 本当に自分が言った言葉?‥‥ ‥‥あなたなんて‥‥だいっきらい‥‥ 違うの‥‥違う‥‥わたくしは‥‥わたくしは‥‥ ‥‥帝国華撃団に‥‥絶望はない‥‥ いやああああーっ! 頬にあてた手が、胸に置いた手が、自分の耳を塞ぐ。目を閉じる。きつく‥‥何 も聞こえないように、何も見えないように。 「わかっていたの‥‥‥‥わたくしは‥‥もう‥‥もう、あなたなしでは‥‥」 ゆっくりと目を開ける。そしてゆっくりと手を今一度自分の胸の上に置く。 カーテンの隙間から日差しが零れていた。暗い部屋に一すじの光の束が創られ る。 ゆっくりと身体を起こす。いつもの乱れた風体は、さらに寝乱れて、年令以上の 色艶をすみれに与えていた。焦点の合わない目つき、ゆるくかぶさる睫も‥‥そ の人が見れば、すみれの心の奥底に眠る願いも適ったはずだった。でも、想い人 は見ることができない。 コンコン‥‥コンコン‥‥ 「大神だけど‥‥」 「‥‥は、はい‥‥い、今、開けます‥‥」 すみれは惚けたまま‥‥寝乱れたまま、ドアまで寄った。 カチャ‥‥ 「おはよう、すみれく‥‥うわっ、ご、ごめんよ」 大神が目の前にいる。 向かい合ったとたん、すぐに踵を返した。 すみれはいつ頃からか、純白の浴衣を着て寝るようになっていた。それまでの藍 色の物は、箪笥の奥にしまって。純白の‥‥それは、想い人の色。清らかな色。 それも今は寝乱れて辛うじて身体に掛かっている程度に過ぎなかった。いつもは 首につけているリボンも今はない。カチューシャも外されている。 栗色の髪がゆるく瞼にかかり、いつもはすっきりとした目元も‥‥この時は半開 きで憂いを帯びていた。少しだけ首をかしげると、滑るような白い頬を、やはり 髪が滑るように口元に寄ってきた。唇は朝露のようにしっとりと濡れていた。 恐ろしく妖艶に、でも花のような美しさを伴って見えたはずだった‥‥大神には 見えなかったが。背中だけをすみれに見せていたから。 「大尉‥‥?‥‥」 「す、すみれくん、あ、あの‥‥そ、その‥‥ゆ、浴衣のままで‥‥」 「え‥‥ああーっ!?‥‥わ、わたくし、なんて格好で‥‥」 すみれはあわててドアを閉めようとして‥‥止めた。浴衣の乱れを抑える左手、 ドアノブに延ばしかけた右手。その両手をすっと下ろす。そしてじっと大神の背 中を見る。 「あ、あのね、し、支配人が、そ、その呼んでこいって、そう言うから‥‥」 「‥‥‥‥」 「き、昨日は、そ、その‥‥」 「‥‥‥‥」 「叩いたりして‥‥ごめん‥‥」 「‥‥‥‥」 白い背中。 広い背中。 あたたかそうな‥‥背中。 ゆっくりと大神に近寄って、左手でその背中をなぞった。 「す、すみれくん‥‥く、くすぐったい、よ‥‥」 「殿方の背中、って‥‥みな、大尉のように‥‥広くて‥‥逞しいのですか‥ ‥」 「ど、どうかな‥‥俺には‥‥」 すみれは身体をその背中にあずけた。 「す、すみれ、くん‥‥」 「あたたかい‥‥ですわ‥‥」 人の温もりがすみれを癒した。いつも一人ぼっちだった。でも寂しいなんて絶対 に言えなかった。 自分は神埼すみれ、なのだから。 でも‥‥それも、もう、どうでもいい‥‥ 人を好きになるとは、そういうことのような気がした。 大神の温かく強い力が染み込んでくるようだった。温かい‥‥優しい夕陽を感じ た。淑女らしく添えていた手も、大神の前に移し広い胸で再び合わせる。自分の 全てで大神に触れていたい‥‥ 「す、すみ‥‥」 「大神、さん‥‥」 「すみれ、くん‥‥あ、あの‥‥」 「お願い‥‥しばらく‥‥このまま‥‥このままで‥‥いさせて、ください‥ ‥」 「‥‥‥‥」 すみれの熱く柔らかい肢体を背中に感じる。 大神は不思議な感覚に陥っていた。 いつか、治療室で‥‥ポットで目覚めたすみれに遭遇した、あの時とは違った。 あたたかい‥‥ こころを埋める暗闇が少しずつ薄らいでいく。 夕陽に照らされた赤い海が少しずつ蘇っていく。 大神にとって、癒しのための短い時間が過ぎた。 すみれにとって、決断のための短い時間が過ぎた。 ふいに‥‥拘束が緩んだ。 「‥‥こっちを‥‥見て」 「‥‥‥‥」 「‥‥わたくしを‥‥見て」 すみれの柔らかい手が大神の頬にかかる。 大神は、導かれるように振り返った。 「!」すみれの全貌が大神の視界を覆う。 すみれの髪が、瞳が、唇が、肌が、大神に訴えかける。 これは‥‥あなたのものだ、と。 蓮華の花びらが舞っている気がした。 ほのかな香り‥‥ 鳳凰の翼が見えた気がした。 鳳凰蓮華‥‥その白い鳳翼が。 闘いの女神が、今、闘わずしてそこに立っている。 「すみれ‥‥」 自然に身体が動き、そしてすみれを優しく抱きしめた。 「あ‥‥」 柔らかい肢体。 甘い香り。 アイリスとは違う、甘い香りがした。 花の香り。 マリアとは違う、花の香りがした。 「ああ‥‥」 「すみれ‥‥くん‥‥」 大神はすみれを抱く腕に、少しだけ力を込めた。 すみれの香りを‥‥柔らかい肢体をもっと感じていたかった。 「あ‥‥」 一年前‥‥大戦も末期になって‥‥あの人がいなくなって‥‥ その時も、こうしてすみれを抱きしめた。 すみれのために。 だが、今は別の意味を持っていた。 すみれのために‥‥ そして、自分のために。 「わた、くし、は‥‥」 「‥‥‥‥」 大神は力を込めていた腕を少しだけゆるめて、すみれの髪に埋めていた顔をゆっ くりと離した。 そして、すぐに別のところに移す‥‥ すみれの、そのしっとりと濡れた唇に。 「ん‥‥」 「‥‥‥‥」 大神は再びすみれの身体にまわした腕に力をこめた。 時間が停止したような感覚が、二人を包む。 華奢な身体。 ‥‥今日のわたくしは、あなたのために‥‥ 脳裏に、なぜか戦いの日々の記憶が鮮明に甦ってきた。 華やかな少女。 強い女性。 闘いの女神。 ‥‥何人たりとも‥‥わたくしも前を歩む者など‥‥認めませんわ‥‥ でも‥‥寂しがりやの女の子。 ‥‥わたくしは、そんな大人じゃありませんわ‥‥ 大神はゆっくりと身体を離した。 我に返った。 「ん‥‥あ、ああ‥‥」 すみれは‥‥刹那、大神の首にまわした腕に力をこめた。 再開した時間の流れを再び止めようとして‥‥ 「お、俺‥‥」 「どう、して‥‥」 どうして離れてしまうのか。 なぜ、このまま自分を‥‥ ‥‥花やしきで見た夢。 大神が離れる。 そして、自分の前から‥‥消える。 ‥‥このままでは、自分は‥‥ すみれも、やはり女だった。 大神はじっとすみれの目を見つめた。 すみれも大神の目を見ている。 「俺は‥‥俺は‥‥どうしたら‥‥」 「わた、くし、は‥‥」 「俺は‥‥」 すみれの濡れた瞳から、目を逸らすことができなかった。 すみれの濡れた唇が、大神の心をさらに駆り立てる。 すみれの白い肌が、匂い立つように大神の男性を刺激する。 自分は男、だ‥‥ すみれが‥‥欲しい‥‥ すみれを‥‥抱きたい‥‥ でも‥‥いいのか? 本当に‥‥このまま‥‥すみれくんを抱いて‥‥ 同情したからか? 違う! そんなんじゃない‥‥ 放ってなんかおけない‥‥ 一人ぼっちにしては、おけない‥‥ それを同情と言うんだろ? ‥‥違う! じゃあ好きなのか?すみれくんが。 ‥‥あたりまえだ。 大切なのか?すみれくんが? ‥‥あたりまえだ。 愛しているのか? ‥‥それは‥‥それ、は‥‥ 抱きたいほどに? ‥‥知るかっ!‥‥俺を‥‥俺をそんなに‥‥責めるなよ‥‥俺は‥‥ 大神のこころの中に激しい葛藤が渦巻いていた。 戦いに臨む大神に逡巡はない。 隊長だから。 戦士だから。 護るべき人々がいるから。 だが、今は違った。 戦士であると同時に‥‥自分は男だった。 その護るべき、大切な人々‥‥その一人の少女が、今、目の前にいる。 男としての自分を‥‥受け入れようと、している‥‥ 大神は歯をくいしばった。 下ろした手が拳になり‥‥ 血が通わなくなるほど、真白になるまで握りしめる。 俺は‥‥ どうしたら‥‥ すみれくんを‥‥傷つけることに‥‥ならないか‥‥ みんなを‥‥蔑ろにして、いいのか‥‥ 馬鹿な‥‥ そんな‥‥ できるわけが、ない‥‥ 選べる、訳が、ない‥‥ 俺は‥‥ 俺、は‥‥ 「わたくしは‥‥」 「‥‥‥‥」 「傷ついたり‥‥しません‥‥」 「!!」 「‥‥大神さんだから」 「すみれ、くん‥‥」 「お慕いしている人、ですから‥‥」 「‥‥‥‥」 「わたくしを‥‥」 「‥‥‥‥」 「わたくしを‥‥選んでください、なんて‥‥」 「!」 「そんなこと‥‥言いません‥‥」 「すみれ‥‥くん‥‥」 「言いません‥‥」 「‥‥‥‥」 「ただ‥‥」 「‥‥‥‥」 「せめて、今だけは‥‥」 「‥‥‥‥」 「今だけは、わたくしの‥‥わたくしのものに‥‥なってください」 すみれの濡れた瞳は、耐えかねて‥‥雫となって、その白い肌をつたっていっ た。 そして、それは濡れた唇をさらに濡らした。 チャリ‥‥ン‥‥ 大神は、内側で自分を拘束する何かが‥‥緩められた感触を覚えた。 腹の底にわだかまる‥‥それが消失したような‥‥ 「お願い‥‥」 「すみれ‥‥くん‥‥」 「抱いて、ください‥‥」 「すみれ‥‥」 大神はそう言い放って再びすみれを抱きしめた。 「ああ‥‥」 すみれの願いは、ついに適った。 そして‥‥大神を縛る四つの鎖‥‥その一つが外されようとしていた。 紅蘭の導きを待つ必要もなく‥‥とても自然に‥‥ そして、二人を隠すように‥‥扉は閉じられた。 「‥‥遅い」 神凪とさくらは地下鍛練室にいた。大神がすみれを伴って来るのを二人は暫く待 っていたが‥‥そのうち寄り添って壁に背を預けて座っていた。 「あの野郎、逃げたんじゃねえだろうな‥‥」 「うふふ‥‥きっと、すみれさんに捕まってるんじゃ‥‥」 「‥‥そうかな」 明るい鍛練室。蒸気機関室の音が優しく響き渡る。 さくらは、大神のことは気になったが‥‥なぜか、苛立ちはなかった。 逆に‥‥ひどく落ち着いていた。 すみれ、だから?‥‥それとも‥‥神凪が横にいるから? さくらは背をあずけた壁の、その反対側の壁を、なんとなしに見つめていた。 壁の向こうに、その人がいるかのように。 神凪のあたたかさを横に感じて。 昨夜の焦りも、既になくなっていた。 杏華と大神と、そして神凪によって。 「‥‥あまり、焦って会得しようとは、思わないことだよ‥‥さくらくん」 「‥‥はい」 「みんながいる」 「はい」 神凪は横に座るさくらを、じっと見つめた。 可憐な横顔‥‥ そうか‥‥ だれかに似てると‥‥思ったら‥‥ 母に‥‥ 母に似ている‥‥ 紅蘭が銀座を出る前日、大神が見た夢‥‥そして、大神を目覚めさせたさくら‥ ‥ そのさくらを‥‥大神は母と見間違えた。 今の神凪もそうだった。 杏華が銀座に来た日‥‥サロンで感じたあの不可解な感触は、母の持つイメージ だったのか。 「え‥‥」 さくらは視線を感じて振り向いた。神凪はさくらをじっと見つめている。 「し、支配人‥‥?」 「おふくろに‥‥似ている‥‥」 「え‥‥」 「俺の母‥‥大神の母‥‥」 「あ‥‥」 大神の持っていた銀時計、その写真の中央にいた一人の女性を、さくらは思い出 した。 なんか、さくらに似てるな‥‥カンナが言った一言。 美しい女性だった。 横に立つ若き神凪‥‥大神麗一。 そして、少年の‥‥大神一郎。 あれから‥‥何かが始まったような、気がする。 「‥‥さくらくんは‥‥大神のこと、どう想ってる?」 「え、え、そ、それは‥‥」 「ふふっ‥‥聞くまでも、ない、か‥‥」 そう言って、神凪は視線を正面の壁に戻した。 さくらは赤くなってうつ向いていた。 「あ、あの‥‥」 「‥‥昔‥‥こんな感じでね‥‥川原の土手に座って‥‥」 さくらは神凪の横顔を見た。 それは大神のそれとは‥‥違っていた。 いつもの神凪のそれとも違っていた。 「母と‥‥一郎と‥‥三人で‥‥花火を見た‥‥」 「‥‥‥‥」 「きれいだったなあ‥‥‥一郎のやつ、はしゃいで‥‥」 夢を見ているような神凪の横顔を、さくらはぼーっと見つめた。 神凪龍一‥‥大神麗一‥‥大神の兄がそこにいる。 「きれいだった‥‥‥‥でも‥‥」 「‥‥?」 「一郎‥‥次の日、熱だしてね‥‥」 「‥‥‥‥」 「おふくろ、ずっと傍に付き添ってて‥‥」 「‥‥‥‥」 「俺は‥‥身体だけは丈夫でさ‥‥‥‥ふふっ‥‥なんか、俺も‥‥」 「?」 「俺も風邪ひいたら‥‥おふくろ、看病してくれるのかな、なんて‥‥」 「‥‥‥‥」 「一郎のやつ‥‥あれから‥‥身体、どんどん弱くなっていって‥‥」 「‥‥‥‥」 「俺は‥‥俺は、家から出なくちゃ‥‥いけなかった‥‥」 「‥‥‥‥」 「ほんとは‥‥ずっと‥‥ずっと、一緒に‥‥一緒に‥‥」 「‥‥‥‥」 「ふふふ‥‥あんな大きくなって‥‥」 「神凪‥‥さん‥‥」 なぜか、名前で呼ばないと‥‥いけないような気が‥‥さくらにはした。 神凪は膝を抱えた。 「‥‥帰りたい」 「!」 悲しみの黒い鬼神。 憂いの破壊神。 さくらは目を皿のように広げて神凪を見た。 神凪は目を閉じて‥‥睫が光っているような、そんな気がした。 この人は‥‥ 大切な人‥‥ 愛している人の‥‥お兄さんだから‥‥ それだけ? 大切な、だけ? わたしは‥‥ この人は‥‥ この人には‥‥誰かが‥‥ この人の傍には‥‥誰かがついていなければ‥‥いけない。 こころの内側から叫ぶ声が聞こえる。理由などわかるはずもない。ただ、そうし なければいけないような気がした。このままでは消えてしまいそうな、そんな気 がさくらにはした。 破邪の血が‥‥さくらに伝えるのか‥‥ ‥‥違う。 そんなんじゃない‥‥ 誰かが‥‥傍にいなければ‥‥ 誰かが‥‥護らなければ‥‥ それは‥‥ ‥‥わたし? わたし‥‥なの? ‥‥どうして? わたしが‥‥愛しているのは‥‥大神さんの、はず‥‥ 違うの? わたしは‥‥ わたしが‥‥愛しているのは‥‥ 胸が高鳴る‥‥ わたしは‥‥わたしは‥‥ 神凪は‥‥子供のようだった。 目を閉じた神凪の目尻には、確かに光るものが見えた。 そこに破壊神はいなかった。 ‥‥俺と‥‥一緒に‥‥ いつか見た夢‥‥ ‥‥さくら‥‥ すみれが‥‥大神とともに自分を呼ぶ。 それは母であり、父であった。 ‥‥父の印象を抱いていたのは‥‥寧ろ神凪のほうだったはず。 なぜ‥‥ ‥‥さくらくん‥‥俺と一緒に‥‥ 神凪が呼んだ‥‥ 『わたしは‥‥』 さくらは音もなく、神凪のすぐ横にぴったりとはり付いた。 すっと神凪の目が開く。目の前にさくらがいた。 「さくらく‥‥」 声はさくらの唇で途切れた。さくらは両手で神凪の頬を抑えて、自分から離れな いようにした。 蒸気音だけが響いていた。 神凪は目を閉じて、その花の香り‥‥さくらの花びらの感触に身を委ねた。 力が‥‥暗い力が癒されていくようだった。アイリスの癒しの力とは少し違っ た。 清らかな力が‥‥自分の中に満ちてくるようだった。 閉じた瞼の裏側に満開の桜が見えた。 桜の繚乱。 これは‥‥破邪の力では、ない‥‥ さくらくんの‥‥力‥‥なのか‥‥ 違う、な‥‥ これは‥‥さくらくん、そのもの、か‥‥ あたたかい‥‥ 俺は‥‥ 俺は‥‥変われるのか‥‥ 俺は‥‥許して‥‥もらえるのか‥‥ 俺は‥‥ さくらは、自分の大胆な行動を‥‥少しも不思議に思わなかった。 大神にすら、したことがないのに‥‥でも、何かが‥‥こころの中で決まったよ うな気がした。 さくらがゆっくりと離れていく。さくらの瞳が夕陽のように優しく輝く。強い光 を放つものが埋め込まれているようだった。 そして神凪の立てた膝の上に‥‥ちょこんと頬をのせる。漆黒の長い髪が、神凪 の脚に添って流れていく。薄く開かれた目は‥‥母のそれ。 「さくら‥‥くん‥‥」 「‥‥神凪‥‥さん」 神凪はさくらの頬に手を延ばす。寸前で止った。 触れてはいけない清らかなものに‥‥触れるような気がして。 自分は‥‥触れてはいけない‥‥そんな気がして。 さくらはその神凪の手を、自らの手で自分の頬に引き寄せる。 「あ‥‥」 「‥‥名前で‥‥呼んで‥‥いいですか」 「‥‥うん」 「他に、だれか‥‥名前で呼ぶ人は‥‥いますか」 「‥‥マリア」 「マリア、さん?」 「うん‥‥昔、ロシアで助けてくれた‥‥その時に‥‥」 「‥‥なんて?」 「レイチ‥‥とか‥‥レイ、かな」 「‥‥麗一さん、って‥‥呼んでいいですか?」 「‥‥うん」 「二人でいる時は‥‥そう呼びます‥‥麗一さん‥‥」 さくらは目を閉じた。 神凪の膝と手だけを感じていた。 神凪も目を閉じた。 さくらの頬の柔らかく温かい感触だけを感じていた。 二人はいつしか穏やかな眠りについていた。 「あれ‥‥マリアだけか?」 「‥‥おはよう、カンナ」 神凪たちとは入れ違いで食堂に入ったマリア。 カンナもいつもよりも遅く食堂にやってきた。廊下で誰かの話し声が聞こえたよ うな気がしたが、ちょうど途切れた頃に目が覚めた。 「遅いわね、今日は‥‥」 「ん?‥‥ああ‥‥みんなは?」 「アイリスは、まだ寝てるみたいね‥‥あの娘、寝不足がたたってるから、最近 ‥‥」 「そっか‥‥」 「‥‥他の、みんなは‥‥見ない、わね‥‥カンナ‥‥あなた、疲れてるんじゃ ‥‥」 「え‥‥いや、そんなことは‥‥」 「‥‥‥‥」 マリアはじっとカンナを見つめた。 昨日のカンナは、まさに鬼神の娘に等しかった。神凪に引けを取るなど、とても 思えなかった。何がこの女性をそれほど駆り立てるのか‥‥考えるまでもないこ と。それはマリアも同じだったから。 疲れるのは当然‥‥か。 「大丈夫?」 「え?」 「あなた‥‥‥‥‥言っても無駄かも、ね‥‥」 「‥‥なんだよ」 「少し‥‥身体を‥‥休めたら?」 「‥‥ちぇっ‥‥そんなことか‥‥」 「カンナ、あなた‥‥暇さえがあれば‥‥身体、鍛えてるでしょ‥‥」 「‥‥‥‥」 「気持はわかるけど‥‥だめよ。‥‥あなた、女の子なのよ」 「!‥‥な、なに、言って‥‥あ、あたいは‥‥」 「不器用なのは、全然変わらないわね‥‥でも‥‥」 「う、うるせえよ‥‥」 「でも、あなた‥‥一人で‥‥大神さんを護ろうなんて‥‥だめよ、カンナ」 「!」 「あなた一人でなんて‥‥許さない‥‥」 「マ、マリア‥‥」 マリアはじっとカンナを見つめた。 絶対に渡さない‥‥そんな意思が見え隠れした瞳の色。 カンナは茫然とその瞳に魅入った。 ‥‥少し赤いような気もする。 泣いて‥‥まさか、な‥‥ マリアはすっと目を閉じた。 そしてゆっくりと席を立った。 『あたいを‥‥牽制してるのか‥‥』 「‥‥‥‥」 『あたいを‥‥女として‥‥認めてるのか‥‥マリア‥‥』 「さあ、はやくご飯食べて‥‥今日は、休むのよ‥‥カンナ‥‥」 マリアは、きっ、とカンナを一睨みして、食堂を出ていった。 カンナは視線をマリアが座っていた場所に固定したまま、ただじっとしていた。 「休め、か‥‥そんなこと‥‥そんなこと、できるかよ‥‥冗談じゃねえ‥‥」 カンナは厨房に移動した。既に誰かが調理した総菜があった。 「これは‥‥マリアか?」 口に入れると、それは違う人物のものとすぐにわかった。 「さくら、だな‥‥」 一人分ではない‥‥だれかのために作ったようだった。 だれのために作ったか、など聞くまでもない。 カンナは痕跡すら残さないよう食い尽くす。 鼻が詰まって‥‥うまく咽を通らない。 少ししょっぱい気もした。 「ちきしょう‥‥‥‥寝てる暇なんて‥‥ねえぜ‥‥」 休日のロビーは無人の静けさを放っていた。 遮音効果の高い外壁と入り口を為す厚手の木製の扉。時計の音しか聞こえてこな い。マリアは中央よりも観客席側‥‥モギリの大神がいつも立っている場所に佇 んでいた。天窓と階段の窓から差し込む朝日が眩しい。 「だれもいない‥‥」 わかりきったことを言葉にする。 「静かね‥‥」 どこを見るでもなく、ただそのロビーの空間に視線を漂わせる。 「わたしは‥‥何を‥‥してるんだろ‥‥」 マリアは‥‥大神がすみれの部屋に入っていくのを見てしまった。 大神が‥‥すみれを抱いているのを。 カンナには嘘をついた。 「わたしは‥‥なぜ、ここに‥‥いるの‥‥」 すみれの声が聞こえた。大神の声が聞こえた。 二人の声が‥‥耳に残る。 『抱いてください、か‥‥』 マリアはドアを開きかけて、凍り付いた。 「わたしには‥‥言えない‥‥」 そして‥‥二人がしかるべき場所へ連れ立って入った後‥‥逃げるように、自分 の部屋を飛び出した。 ‥‥泣いた。 悲しくて‥‥せつなくて‥‥ ‥‥恋しくて。 自分は女だった。 とっくに気づいていたはずなのに‥‥気づくのが遅かったのか。 ‥‥奪われた。 悔しくて‥‥苦しくて‥‥ いやだ‥‥いやだ‥‥ マリアは耳を塞いだ。 それでも内側から聞こえてくる。二人の声が‥‥ 「いやだ‥‥いや‥‥渡したくない‥‥だれにも‥‥だれにも、渡したくない‥ ‥」 アイリスの見た悪夢‥‥目覚めさせたのはマリア‥‥そして大神が導いた。 その夢が半ば現実と化して、今度はマリアを襲った。 目覚めさせてくれる者など、いない。 導いてくれる者など‥‥いなかった。 塞いだ手を下ろす。 紅蘭がいなくなる前日の夜‥‥自己嫌悪に陥ったマリア。 それは、大神によって救い出された。 皮肉にも、その大神によって‥‥再び元に戻ろうとしていた。 自分の身体を自らの腕で抱きしめる。 昨日のバルコニーでの風景を、すがるように思い出そうとするが‥‥うまくいか ない。 優しい夕陽に照らされた優しい笑顔‥‥その大神に抱かれている自分を想像す る。 花やしきでの、束の間の安らぎの時のように。 それは過去の幻影なのか‥‥ 「大神、さん‥‥」 「ん‥‥先客がいるのか‥‥」 鍛練室の前まできたカンナは、明かりが染みだしているのに気づいた。 ドアを開ける。 そこにいたのは‥‥神凪とさくらだった。 二人は床に蹲っていた。 「し、司令!?、さくらっ!」 カンナは駆け寄った。 二人をのぞき込む。 「な、なんだよ‥‥寝てるのか‥‥脅かしやがって‥‥」 てっきり倒れているものだと思った。 ほっとする。が、しばらく二人を見ているうち‥‥妙な感情が生まれてきた。 神凪は‥‥さくらの胸に抱かれるように眠っている。 さくらは‥‥神凪を、母のように抱きしめて眠っている。 「なんか‥‥」 来てはいけない場所に来てしまった‥‥ 見てはいけないものを‥‥見てしまった‥‥ そんな罪悪感に捕われた。 「さくらと司令、か‥‥意外だな‥‥でも‥‥不思議だ‥‥違和感が、ないな‥ ‥」 人の気配を感じて振り向いた。 そこに立っていたのは‥‥マリア。 マリアは、しゃがんだカンナの陰に横たわる二つの影に気づいた。 桜色の着物と黒い上着‥‥ 「だれ、そこにいるの‥‥ま、まさか‥‥司令‥‥さくらも!?」 駆け寄るマリア。 やはりカンナと同じような反応を示す。 しかし、最後は違った。 「ど、どうして‥‥さくらと‥‥司令、が‥‥」 「‥‥マリア?」 「どうして‥‥レイ、チ‥‥どうして、なの‥‥」 災難は立て続けにマリアを襲った。 二人の大神‥‥それは護る人と護ってくれる人。 どちらも‥‥大切な人。 その、どちらも‥‥奪われようとしている。 マリアは二人の傍にへたりこんだ。 「わたしを‥‥わたしを、護ってくれるって‥‥あれは‥‥嘘、なの?‥‥」 「マ、マリア、お、おい‥‥」 「ただ‥‥わたしを‥‥憐れんで?‥‥ただ、同情した、だけ、なの?‥‥」 「マリ‥‥ア‥‥」 「‥‥わたしは‥‥幸せ、には、なれない、の?‥‥幸せに、なっては、いけな い、の?」 「ちょっ‥‥」 「わたしは‥‥わたしは、ただの‥‥人殺し、なの?‥‥隊長‥‥」 マリアは自分がそれを口に出していることすら気づかなかった。隊長‥‥それ は、まだレジスタンスであった頃の‥‥クワッサリーと呼ばれていた頃の、自分 の隊長。その記憶の片隅にいる兄のような人に問いただす。 今のマリアよりも背が高い、カンナほどの身長の逞しい隊長がマリアを見つめ る。何も言わずに。ただ、少し悲しい目をしているような気がした。いや、あの 頃よりも優しい‥‥あたたかいものを見るような目をしている。 「‥‥‥‥」 カンナは声を詰まらせた。 神凪とのことはマリアから聞いていた。カンナにだけは打ち明けていた。 自分が救った日本人青年‥‥ 自分を救ってくれた‥‥日本から来た、優しい青年。 暗い過去の中で‥‥辛く寒い記憶の中で、ひっそりと明かりを点す優しい灯火。 最近のマリアがめっきり明るくなっていたのはそのせいだった。 まるで少女のようだった。 それが‥‥ マリアの顔からは表情が消えている。 感情の色さえ失った瞳‥‥その目からは、ただ涙だけが溢れて‥‥ 「!」 いけない。 カンナは焦った。 昔のマリアに戻ってしまう‥‥ 「な、なあ‥‥マリア‥‥」 「わた、しは‥‥」 「マリア!」 「!?」 「‥‥違うって、きっと‥‥違う‥‥きっと、二人は‥‥なんか、別の‥‥」 「同情なんて‥‥しないでよ‥‥」 「!‥‥マ、マリ‥‥」 「‥‥憐れみを受けるなんて、まっぴらよっ!」 マリアは‥‥顔を涙でぐしゃぐしゃにして、掛けだした。 「マリア!、待て、待ってくれっ!」 様子がおかしい‥‥異常だ‥‥ マリアが‥‥あんなに取り乱す? 信じられない‥‥ 司令とさくら‥‥二人のせいで? 司令だけに起因するにしては‥‥おかしい‥‥ 「!‥‥ま、まさか‥‥」 まさか‥‥隊長、も? まさかな‥‥ まさか‥‥ 目が覚めたとき‥‥なんか隊長と‥‥だれか‥‥声が聞こえたような‥‥ ‥‥まさか‥‥まさか‥‥ そんな‥‥ ‥‥マリア‥‥見てしまったのか? 隊長も‥‥そうなの、か!? ‥‥まずい。 いけない。 マリアが‥‥壊れてしまう‥‥ カンナは駆け出していた。 マリアの呪縛を解いた大神と神凪。 大神の束縛を弛めたすみれ。 神凪の心を癒したさくら。 その二人に、再び縛られることになったマリア。 少しずつ‥‥少しずつ、帝撃の少女たちの中に変化が起きつつあった。 それは必ず訪れる‥‥避けられない試練だった。
Uploaded 1997.11.06
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