闇に生を受けた者は闇の中では不死の存在。だが陽の光によって塵に還る。いつ

もは薄暗いその部屋も、太陽の浄化光によってその真実の姿を現したようだ。

畳まれた厚手のカーテンも雑巾に使うような生地にしか見えない。ただ窓は開け

放たれてはいるものの空気が動く気配はない。朝の清清しさも入り込めない、見

えない壁があるかのようだ。

出る幕のなくなった赤いランプ、それは廃墟の街の酒場にあるような風化した姿

だった。その隣にある椅子。それだけが座り主のために艶のある光を放ってい

る。赤いランプは、自分が照らすべきその美しい人を朝日によって奪われたが故

に、その嫉妬の末に風化したかのようだった。

「‥‥さて、と‥‥そろそろ行きましょうか‥‥」

「はい‥‥ところであの三匹はいかがいたしましょう」

「そのうち使いましょ‥‥そんなに急がなくても平気よ」

「わかりました」

陽光の浄化能力がそのまま淫靡な輝きに変換されたような雰囲気が漂う群青のチ

ャイナドレス。光と影が創る妖しい造形‥‥神話の彫刻のような顔だちの中に、

成熟した女性の濡れた瞳と少女のような唇が創る異次元の美‥‥李暁蓮。

傍らに従う、やはり青いシャツに身を包む屈強な男‥‥かつての銀色の髪と空気

すら淀む妖気は、今や漆黒に染まり、そして同じように黒い霊気となって放出さ

れている。

「あなたは贋作ではないわ‥‥わたしを護る四神獣の一人‥‥ふふふ‥‥」

「‥‥あのお二人は‥‥やはり必要なのですか?」

「あたりまえよ‥‥うふふ‥‥四神獣を超える神そのもの‥‥そうよ、わたしの

伴侶となる運命にある‥‥二人の騎士‥‥二人ともよ‥‥大切な人‥‥」

「‥‥今一人が‥‥わかりませぬが‥‥」

「ええ?‥‥あははは‥‥‥‥もう来てるわよ‥‥」

「‥‥‥‥」

二人は玄関を出た。

その建物は古びた洋館だった。煉瓦造りの外壁に血管のように絡まる蔦、まるで

陽光を遮蔽するかのように周囲には鬱蒼とした樹木と背の高い雑草が生い茂って

いる。さらにその周りには侵入者など入り込めないほどに高い城壁‥‥刑務所の

城壁のようにも見える。その城門と建物の玄関の間は石畳の歩道が20メートル

ほど続く。

城門の前に一台の蒸気自動車が停っていた。

暁蓮と青いシャツの男が近づくとドアが開き、中から赤い中国服を着た男が降り

立った。髪がかなり長い。艶のある漆黒の髪の毛を暁蓮と同じように後ろで束ね

三編みにしている。背も高い。青いシャツの男ほどではないが、暁蓮よりも頭一

つ分ほど高い。鍛えられた体躯が中国服の上からでもわかるほどだった。

顔だちは、美少年そのもの。かつての従者であった白い影‥‥それをも凌ぐ美し

さがあった。暁蓮と並んでも何の遜色もない。

「‥‥この‥‥かた、ですか?」

「そうよ‥‥うふふ‥‥」

「初めまして。”月影”と申します。あなたは‥‥”龍塵”殿、でしたか‥‥」



「‥‥‥‥」

「龍塵殿は‥‥確か、紅蘭様の‥‥」

「おだまりなさいっ!」

「‥‥”暁蓮”様、とお呼びすればよろしいのでしたね。言っておきますが、わ

たしはあなたの従者ではありませんよ。わたしの目的は、あのお方‥‥今は”杏

華”様というお名前でしたか‥‥」

「だまれと言っているのよ‥‥」

「‥‥まあ、いいでしょう。わたしにしてみれば、あのお方さえご健在であれば

よろしいのです‥‥」

「あなた‥‥」

「‥‥手にかけようとなさいましたね?」

「このわたしに口答えするの?‥‥だれがあなたを解放してあげた?」

「感謝してますよ‥‥こうして人間の身体を得られて‥‥あのお方にもいずれ会

えると思うと‥‥ふふっ、感謝の証は、暁蓮様、あなたの望みを適えることで‥

‥」

「‥‥わかればいいのよ」

「貴殿は‥‥」

「龍塵殿とは気が合いそうですな。下衆の類とは違うようだ」

「‥‥はやく出しなさい」

「ふっ‥‥おおせのままに‥‥」

赤い美少年が運転する蒸気自動車は建物を後にした。月影と名乗るその青年から

は妖気も霊気も感じられない。青い男‥‥龍塵と呼ばれた男には、月影という青

年がまるで普通の人間のように思えた。不快でもない。かつてともにしていた白

と黒そして赤い子供に感じていた不愉快さがまるでない。気が合う、と言われば

確かにそうかもしれない。龍塵は助手席に座ってそんなことを考えていた。

「帝都に向かえばよろしいのでしたね」

「そうよ」

「帝都に、ですか‥‥結論が出るにはまだ早いのでは?」

「ふふっ‥‥多数決の勝利、よ‥‥米田大将がいくら抵抗したところで‥‥行き

着く先は決まってるわ‥‥‥‥この街はわたしの‥‥大神くんと神凪さんの‥‥

ふふふ‥‥」

「‥‥‥‥」「先走らないほうがよろしいのでは?」

「‥‥あなた‥‥いちいち口答えするのね」

「これは無礼を‥‥ふっ」

「まったく‥‥」

月影は龍塵に目配せをして、そして苦笑する仕草を見せた。龍塵はどういうわけ

か、この月影という青年を気に入り始めていた。紅蘭を想う龍塵と同じように、

杏華を想うその青年。生まれてこのかた笑みというものを浮かべたことのない龍

塵も、いつしか自然に口元が緩んでいた。



 


七章.暗夜航路(前編)
<その1> コン‥‥コンコン‥‥ 「‥‥ん‥‥あ、れ‥‥朝?‥‥あ、はい、今開けます‥‥」 大神は昨日の神凪との鍛練‥‥鍛練と呼ぶには激しすぎる闘いではあったが、そ の後またもや冬眠するかの如く深い眠りについた。紅蘭が失踪する前日のように ‥‥そして、その時と同じように、多くの夢を見たような気もした。眠りが断続 的に浅くなり、意識が現実に近づくにつれ、自分の傍に人の気配を感じた。いろ んな人がいたような気がする‥‥花の香り‥‥甘い香り‥‥春の若草のような香 り。人の温もりも感じた。額に、頬に、唇に、首筋に、胸に‥‥そしてまた深い 眠りに入る。自分の中にあるものが眠りによってじっくりと確実に育まれていく ように。目覚めると翌日になっていた。 寝間着姿のままドアを開けると、そこには‥‥ 「あ‥‥お、おはようございます‥‥大尉‥‥」 「お、おはよう、す、すみれ、くん‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 「ね、寝てらっしゃったのに、す、すいません、あ、あの‥‥」 「い、いや、も、もう、起きなきゃって‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 「い、いい天気ですわね、お、おほ、おほほ‥‥」 「そ、そうだね、あ、あははは‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 「あ、あの‥‥」 「そ、その‥‥」 「‥‥‥‥」 「あの‥‥そ、その‥‥」 「は、はい‥‥」 「な、なんか、さ‥‥」 「な、なんでございましょう」 「き、昨日と逆だね、俺、寝間着のままで、あははは、はは‥‥は‥‥」 「‥‥‥‥」 すみれは返事どころか顔も上げられない程に真っ赤になってうつ向いていた。自 分で言っておきながら、やはり同じように顔が真っ赤になってしまう大神。しば らくうつ向く。 ちらっと目線を上げると、すみれはまだ顔を下に向けている。手をもじもじさせ るあたりは、いつものすみれとは違った可愛らしさがあった。 『か、かわいい‥‥‥‥はっ‥‥い、いかん‥‥』 大神に少しだけすみれを見る余裕が生まれた。いつものすみれの着物。紫色が優 しく目に映る。しかし、そのうつ向いた先に見える艶やかなうなじが、そして開 け放たれた胸元が、いつにも益してやけに刺激的に見えてしまう。 『い、いかん、いかんぞ、大神一郎っ!‥‥な、何考えてるんだ、俺は‥‥』 「あ、あの‥‥大尉‥‥」 「は、はいっ、なんでございましょう」 「よ、よろしかったら、その‥‥お、お散歩でも‥‥ご一緒にと‥‥」 「そ、そうだねっ、うん、それはいい考えだ」 「それはどうかしらっ!?」 いきなり視界に飛び込む漆黒のコート。まるですみれの背後から細胞分裂するか の如き出現過程を見せる白色の麗人、マリア・タチバナ。‥‥目が怖い。 「わーっ!?」「ひっ」 さすがにびびりまくる、大神とすみれ。 「‥‥何をそんなに驚くの?‥‥大神さん、司令がお呼びです。支配人室へいら してください‥‥さあ、早くっ」 「ちょ、ちょっと待って、お、俺まだ寝間着‥‥」 「いいからっ、ついてらっしゃいっ!」 「わーーー‥‥」 マリアは大神の両手を後ろに組ませ、それを右手で掴んで押し出すように連行し ていった。すみれがぽつんと一人部屋の前に佇む。杏華の歓迎会の時とは配役が 逆転していた。 「‥‥はあ‥‥だめ、か‥‥」 すみれはドアが開け放たれたままの大神の部屋を見た。いつもと変わらない部 屋。質素で温かみの感じる部屋だった。ドアノブに手をかけ、閉めようとする‥ ‥が、止めた。昨日の自分の部屋での、自分がしたのと同じように。少し憂いを 帯びた表情で、部屋の中に入る。カーテンから差し込む朝の日差しが眩しい。 すみれは大神の部屋に入ったままドアを閉めた。ドアにしばらく寄りかかる。目 を閉じて、ついさっきまでそこにいた人、その人が呼吸していたのと同じ空気を 吸い込む。 「大尉の‥‥大神さんの‥‥匂いがする‥‥」 ベッドに移動して、ゆっくりと腰掛ける。いつかと同じように‥‥ 「‥‥紅蘭がいなくなっちゃった日と、同じ、か‥‥」 そして、やはり同じように、すみれはベッドに横になった。微睡みの美少女‥‥ その華奢な身体には少し大きめのベッド。枕に顔を埋める。 「大神さんの‥‥匂いがする‥‥」 すみれは大神の部屋で穏やかな眠りに入った。 「お前なあ‥‥公私混同するなって、着任した日に言っただろうが‥‥何考えて んだ?」 「‥‥すんません」 「寝間着姿で司令の前に立つアホウが何処の世界にいる?‥‥まったく‥‥ん? ‥‥!!‥‥お前、まさか、すみれくんと‥‥また‥‥」 「な、なんば言うとですっ!?」 「うぬぬぬ‥‥ゆ、許さん、許さんぞっ、昨日あれだけ叩きのめしたのに‥‥懲 りてねえな、てめえ‥‥‥‥ほ、ほんとは俺だって‥‥うっ」 神凪はマリアの猛烈な視線を浴びて言葉を切った。マリアは大神の背後にぴった りと寄り添って立っていたが、雰囲気としては死刑執行人に近いものがあった。 対する大神は、カイシャクを〜とでも叫びそうな雰囲気まで醸し出している。裁 判官にまで執行が及びそうになって、さすがに神凪は呼び出した目的に話題を移 した。 「と、とにかく、だ、大神、お前、その、あれだ、あ、青山に行ってこい」 「‥‥はい?」 「米田の親父が呼んでるんだよ、お前を‥‥」 神凪がそこで急に真面目な顔つきをした。席を立ち二人の傍まで歩み寄る。大神 とマリアも少し神妙な顔つきになった。神凪は小声で二人に告げた。 「どうやら‥‥敵の大将が直々にお前を指名してきたらしい‥‥」 「!!」「!!」 「‥‥心あたりあるか?、大神」 「まさか‥‥いったい、なぜ‥‥」 「どういうつもりでしょう‥‥」 神凪は思い出したように苦い表情を見せた。 「先の戦闘で‥‥あのクソガキ、女の主らしいことを言ってたがな」 「そう言えば‥‥」 「確かに‥‥」 「待てよ‥‥杏華くんと花組のみんなを狙って‥‥俺を‥‥なぜだ?」 「‥‥今のお前なら心配することもないが‥‥念のために護衛を付けよう」 「では、わたしが‥‥」 進言するマリアを神凪が制した。 「マリア、君にはやってもらうことがある。カンナとアイリスを連れていけ、大 神」 「カンナと‥‥アイリスを?」 「ああ‥‥あの二人がいい」 「?」「?」 神凪は机に戻り、そして引き出しから宝石のようなものと定期入れのようなもの を取り出して、大神に手渡した。 「これを持って行け」 「これは?」 神凪が渡したものは、群青の七宝焼が形作る襟章のようなもの。そして、やはり 定期入れだった。 「服につけろ‥‥”定期入れ”は無くすなよ。俺がまた使うからな」 「?」 大神は訳がわからなかったが、神凪の表情がいつもと違うことにすぐに気づい た。 大神が支配人室を出ると神凪は机に戻り、紙に筆を入れ始めた。日本語ではない ‥‥外国語、英語でもロシア語でもない。暗号?マリアはしばらくそれを見つめ ていたが、神凪が筆を置くのを見て傍まで歩み寄った。 「‥‥なんでしょう」 「君はこれを持って横浜に行け」 「横浜?」 神凪は封書とともに一枚の地図をマリアに渡した。マークがしてある場所は酒場 のようだった。その場所、見覚えがある。マリアの知人が経営する喫茶店から1 00メートルと離れていない。 「ここは‥‥」 「そこは朝からやってる。中に入ったら壁際のカウンターに座ってドライマティ ーニをオーダーしろ」 「マティーニ、を?」 「そうだ。レシピを聞かれたら、ジンを5、ドライベルモットを1、そして‥‥ 忘れるなよ、オリーブは入れないでくれ、と言え」 「?‥‥??」 「バーテンが”いかがでしょうか”と聞いてきたら、そこで”可憐”という名の 女性を指名するんだ」 「?‥‥可憐?」 「バーテンが聞き返したら”可憐さんの作るカクテルが飲みたい”と答えろ」 「?‥‥??」 神凪はマリアのすぐ横まで、身体が密着するほどの距離まで接近した。 さすがのマリアもドキッとしたが‥‥ 「‥‥七特への連絡合図だ」 「!‥‥解体になる、という噂では‥‥」 「ふっ‥‥その後の合言葉がこれだ‥‥」 神凪はマリアの耳元で囁いた。こんな状況でなければと、マリアは一瞬悲しくな ったが、すぐに副司令の顔に戻った。 「大神と同じぐらいの身長、髪の長さは杏華くん程の25歳前後の眼鏡をかけた 美人が対応するはずだ。その女性に封書を渡せ。俺の名前ではなく、”零”から の伝言だ、と言え」 「零‥‥わかりました」 「そうだな、君一人ではなく‥‥すみれくんとさくらくんも連れていけ」 「すみれと‥‥さくら、を?」 「接見が完了したら、すぐに戻って来い」 「い、いったい‥‥」 「急げ」 「は、はいっ」 マリアが支配人室を出た後、神凪はしばらく窓に映る銀座の街並みを見つめてい た。ついさっきまで照りつけていた眩しすぎるほどの日差しがふいに和らぐ。灰 色の雲が銀座の街に降り注ぐ陽光を遮る。行き交う人々も、オーケストラの指揮 者が指示したかのように一斉に空を見上げるが、また流れは再開した。いつもと 変わらない街の風景。神凪は想いを振り切るような仕草で受話器を取った。 「‥‥山崎か?」 『はい。この回線なら‥‥大丈夫です』 「‥‥花やしきは‥‥どうだ?」 『いけません』 「‥‥山崎」 『はい?』 「夢組を招集しろ」 『!』 「対象は‥‥わかってるな?」 『‥‥勿論』 「よし。お前の側近‥‥”舞姫”と”神楽”も使え」 『!!』 「それと、俺の後任‥‥今の月組隊長はお前の同期だったな」 『ええ、そうですが‥‥!』 「ヤツから、次は雪組に連絡させろ」 『まさか‥‥』 「‥‥司令権限に基づき帝国華撃団特級指令第参号を発動する。他の仕事は一時 棚上げさせろ‥‥総動員だ」 『!!‥‥了解しました!』 「花組は除外する。主力の指揮は雪組隊長にとらせろ。お前は二人と接触するだ けでいい。ただし花やしき以外の場所でやれ」 『はい』 「それと助っ人を送る。七瀬の部品が完成次第、お前は速攻でこっちに戻って来 い‥‥いいな」 『わかりました』 神凪は受話器を置くと、すぐに立ち上がり隣接する事務室に入った。 かすみと由里は明日以降の舞台の事務整理に着手している。二人はぽかんとしな がら神凪を迎かえ入れた。そのまま事務カウンターの内側まで入り、二人の間に 割り込む神凪。かすみと由里は一瞬どぎまぎしたが、神凪の顔を見るとすぐに表 情を引き締めた。‥‥いつもと違う。 神凪はかすみと由里の顔を自分のそれにぐっと引き寄せた。 引き締まったはずの表情がまたもや緩んでしまった二人。 「し、支配人!?」 「風を起こせ」 「!」「!」 「椿くんは?」 「‥‥もうすぐ来ると思います」 「椿くんが来たら三人で花やしきに向かえ」 「い、いったい‥‥」 「翔鯨丸を死守しろ」 「!!」「!!」 神凪はそれだけ言って地下格納庫に向かった。 プレハブに入ると既に杏華が整備を開始していた。睡眠時間は必要最小限しかと っていないのが、見てすぐわかるほどの顔色。神凪は少し眉をひそめたが、それ でもなるべく明るい顔で挨拶をする。杏華もにっこりと微笑む。 『‥‥はやく‥‥はやく戻って来いっ、紅蘭‥‥』 焦ってはいけない‥‥神凪は大神に、そして自分に言い聞かせても、知らず知ら ずに拠り所を求めてしまっていた。思い直して心の内で舌打ちしつつ七瀬に化粧 を施す。昨日の、そして今の杏華のように、恐るべき集中力で。 自室に戻る途中、大神は食堂の前でカンナと会った。相変らず朝の鍛練後の朝食 の量は、一般成人男性の三倍ほどある。大神も腹の虫が鳴ったが、指令を思い出 して声をかけた。カンナは寝間着姿の大神を見て一瞬慌てふためいたが、大神の 表情が少し険しいのに気づき、やはり真面目な顔で聞き入った。 「‥‥米田のおっさんが?」 「悪いけどアイリスも呼んできてくれるか?」 「ああ‥‥なんだ、いったい‥‥」 「30分後にロビーで待ち合わせよう」 マリアは自室にいないさくらとすみれを捜して、劇場を走り回っていた。 さくらは舞台にいた。明日からまた公演が始まる。いつものように一人で稽古を 続けるさくらを見て、マリアは一瞬自分を省みるような表情を見せた。 いつもと変わらない‥‥そう、きっとこれからも‥‥ そこまで思って、やはり指令を思いだしてさくらを引き連れて残るすみれを捜し た。 「‥‥もしかして‥‥大神さんの部屋じゃ‥‥」 「ま、まさか‥‥」 「‥‥きっとそうだわ‥‥うぬぬぬ‥‥すみれのやつ、やっぱり‥‥」 「嘘、そんなあ‥‥こ、こうしちゃいられないわっ」 で、二人とも外見からは想像もできない俊足で廊下を走り、そして階段を駆け上 がった。 そこにはまだ寝間着姿の大神が立っていた。 「あ‥‥」 「大神さんっ、そ、そんな姿で‥‥す、すみれさんを‥‥」 「大神さんっ、あ、あなた、また‥‥」 「ち、違うよ〜、お、俺を、そ、そんな、犯罪者を見るみたいな目で‥‥」 「犯罪でしょうがっ」「死刑よっ」 「ひ、ひどい‥‥」 「ん?‥‥隊長、まだそんな格好で‥‥あたいら、もういつでも‥‥」 「へへへ‥‥お兄ちゃんとお出かけかあ‥‥ん‥‥何してんの?」 大神の前に一通りのメンバーが揃ってしまった。こめかみにつーっと汗がつた う。言うべきか?いや、待て、ここで言ったらまずい‥‥しかし、うう‥‥ど、 どうする‥‥ カンナと別れた後、あまりにも腹が減って厨房で立ち食いをしてしまった、そし て部屋に戻った。勿論着替えるために。自室のドアを開けると、なんと、すみれ がベッドの上ですやすやと眠っているではないか。起こす間も無く、階段をドカ ドカと駆け上がってくる足音‥‥大神は真青になってドアを閉めた。で、今に至 っている。 「‥‥‥‥」 「すみれを知りませんかっ!?、まさか大神さんの部屋の中にいるってことはあ りませんよねっ!?、どうなんですっ、ええっ!?」 「う、うう‥‥」 「なんだと‥‥隊長‥‥てめえ‥‥」 「ち、違うんだよ、こ、これには深い訳が‥‥」 「ぬうっ‥‥問答無用っ、弁解無用っ、真打の力をとくと味わうがいいわっ」 「ひいい、ちょ、ちょっと待って‥‥」 「なあに?‥‥なんのこと?」 一人状況を把握できないアイリスが無邪気に聞く。 さすがに他の三人の少女たちはアイリスに事の詳細を告げるわけにもいかず、む むむ、と口をへの字にしながら大神を睨みつけるしかなかった。 短い沈黙の末に、緊張の糸はドアの開く音によって破られた。 「‥‥なんですの‥‥さわがしいですわね‥‥」 「ひっ」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「あれ‥‥」 即ち、大神、マリア、さくら、カンナ、そしてアイリス。 「‥‥どうしたんですの?」 「‥‥なんですみれがお兄ちゃんの部屋にいるの?」 「ち、違うんだよ、アイリス、そ、それはね‥‥」 「た、大尉‥‥わ、わたくし、怖い‥‥」 と言いつつ大神の背後にぴったりと寄り添うすみれ。 『汗‥‥汗汗‥‥汗汗汗‥‥』 大神。 「‥‥怒」「‥‥怒怒」「‥‥怒怒怒」 マリア、さくら、カンナ。 「あ、あのー」 「死、あるのみっ!」「闇に還れっ!」「塵となれっ!」 「あああ‥‥」 「さあ、ついてらっしゃい、すみれ」 「え、ええ‥‥しばしのお別れですわ‥‥大尉‥‥」 「寝ぼけたこと言ってないで‥‥早く着替えるのよ」 「は?」「着替えるって‥‥」 「二人ともそんな格好じゃ目立つから‥‥」 横浜に出かけるに能っては、場所が場所だけに普段の二人、特にすみれの格好は 人目を引きすぎる。おかしな手合いに絡まれる可能性もあるし、なるべく目立た ない成りに変装したほうが無難だ。 さくらは黒い和服と袴、すみれは黒のスーツでそれぞれ男装した。‥‥返って目 立つかもしれないが。 「‥‥なかなか‥‥似合う、わね」 「えへへ‥‥ありがとうございます、マリアさん」 「ふっ‥‥わたくしにかかれば、どのような衣装であろうと‥‥」 「じゃ、行きましょうか」 黒いコート、黒の和服、そして黒のスーツ‥‥黒い三人は劇場を後にした。 「‥‥さあ、あたいらも行こうか、隊長」 「‥‥は‥‥い‥‥」 大神は取り敢えず着替えることは許された。が、髪形はボサボサ、逆立っている という表現はできない。顔はところどころ痣になって腫れている場所もある。当 然と言えば当然だが、袋叩きに合ったのがまざまざと見てとれる様相だった。 「‥‥山崎少尉。そろそろお昼ですが‥‥どうです、ご一緒に」 「あ、すいません。さっき友人から電話もらって‥‥外で食べようかって約束し ちゃったんですよ。午後一番には戻りますから」 「そうですか‥‥じゃ、また‥‥」 正午直前になって山崎は花やしき工場に従事する整備員に声をかけられた。かつ て零式が格納されていた場所。山崎は専任技師ではないが、整備員の間では顔の 知られた存在であったため、しばしば食事を共にすることも多かった。 山崎は9割以上完了した七瀬の腕部を、シリスウス鋼で形成された専用搬送ケー スに格納し施錠してから工場の外へ出た。 花やしきの周囲は緑に囲まれている。子どもたちの遊び場としても、大人たちの 憩の場としても楽しめる、庶民のための施設だった。その名の通り冬を除いてい つも花が咲き乱れている。春には桜が咲き、夏には向日葵、そして秋にはコスモ ス。その季節を示す花々の途切れる合間には、また別の花が咲く。 山崎は春の花やしきが好きだった。 桜の繚乱。薄紅色に染まる花やしき‥‥雪のように舞う桜の花びら、桜花乱舞。 石畳の散歩道に雪のように積もる薄紅色の花びら‥‥そこは夢の回廊。 今は桜の季節ではない。 一面、命の息吹が聞こえるような、そんな新緑に包まれている花やしきだった。 花やしきの敷地からは少し離れた散歩道、その一角にあるベンチに腰掛け、山崎 は青い包みを開けた。食堂で作ってもらった弁当。おにぎりを三つ、沢庵、そし て卵焼。 「‥‥うまそうだな、山崎」 「ん?‥‥よう‥‥」 茶色のシャツとそれよりも濃い焦茶色のズボンを履いた、少し痩せぎすだが整っ た顔だちの青年。それがいつの間にか山崎の背後に立っていた。その隣に腰掛け る。意識しなければ、そこにいるのがわからないような、存在感のない青年だっ た。 「俺にも一つくれ」 「‥‥お前‥‥飯、食って来なかったのか?」 「あのな‥‥いきなり呼び出しやがって‥‥そんな暇あるか」 「‥‥彼は?」 「‥‥ほら、来た」 暖かい陽光、そして新緑の樹木が作る影‥‥その風景画のような散歩道を歩いて くる、これも若い青年。絵になる、とはまさにこのことだったかもしれない。顔 だちはかなり凛々しく、精悍さも醸し出している。いかなる場所、場面、状況に おいても表情が変わらないような無表情さもある。背も高い。身体つきは神凪と いい勝負だ。白いシャツはどこか大神に似た雰囲気もあった。そして何よりも特 徴的なのは、髪の毛。少し赤みがかった金髪‥‥日本人ではなさそうだ。 その青年も山崎の隣に腰掛けた。 「‥‥いい天気だな」 その青年は何気なく言った。 「ええ‥‥」「そうだな‥‥」 と山崎と茶色のシャツの男が返事をする。 新緑が覆う風景画。穏やかな風が髪を揺らす。小鳥のさえずる声も時折聞こえて くる。 三人はそんな優しい空気にしばし浸っていた。 「お前‥‥神武に乗ってんだって?」 ‥‥総動員をかける以上‥‥事態は深刻なんだろうな‥‥ 「最初はビビったけど、そこは司令の命令とあらば」 ‥‥まずい‥‥寄生虫の掃討、そして癌細胞の摘出、が必要だ‥‥手遅れになら んうちに‥‥‥‥もう、遅いかもしれんが、最低限、伝染を抑えないと‥‥ 「君は確か、銀座に腰を据えていると聞いたが」 ‥‥特令第参号か‥‥穏やかじゃないな‥‥ 「まあ、その、気に入ってしまいましてね、銀座が」 ‥‥今や信頼できるのは帝撃五部隊、司令の”七特”と”四季龍”だけです‥‥ 「米田のおっさん、劇場追い出されて‥‥隠居かい?」 ‥‥やはり‥‥大将は抑えきれなかったのか?‥‥ 「うーん‥‥でも神凪司令、支配人の椅子、譲る気ないみたいだしなあ」 ‥‥花やしきは5割以上が蝕まれている‥‥神崎重工も似たようなもんだろ‥‥ 陸軍‥‥司令部についてはこれ以上だろうな‥‥おそらく8割以上は既に‥‥ 「それは‥‥たいへんだ、な‥‥」 ‥‥軍司令部‥‥人間を、仲間を相手にするのか?‥‥陸軍が敵にまわると?‥ ‥ 「まあ‥‥」 ‥‥花やしきにも、既に陸軍の上位階級職が入り込んでいます‥‥勿論、連中の 息がかかった者たちですがね‥‥仕事どころか迂闊に電話もできない‥‥ 「なるほど、ね‥‥」 ‥‥確かにそんな気配はあったな‥‥偵察も容易でなくなってきている‥‥ 「まあ‥‥わたしとしては今の生活を護ることを優先しないと‥‥」 ‥‥汚染は夢組と月組で対応しよう‥‥雪組には”虫”を潰してもらいたい‥‥ 「‥‥そうだな」 ‥‥了解した‥‥俺が指揮すればいいんだな?‥‥ 「どうです?一度劇場にいらしてみては」 ‥‥軍司令部と花やしき、二手に別れて同時に行動してください‥‥ 「俺も一度銀座には行こうと思ってたからな、ちょうどいい」 ‥‥今回は‥‥潜行偵察だけじゃ済みそうにないな‥‥ 「みんなで来てくれよ」 ‥‥ああ‥‥月組には戦闘にも参加してもらう‥‥月・雪・夢の混合チームを作 ろう‥‥お前は花やしきの方を指揮してくれ‥‥夢組の参謀を預ける‥‥ 「そんな、いいところかい‥‥」 ‥‥”舞姫”様か?‥‥身に余る光栄だな‥‥ 「あたりまえだ」 ‥‥花やしきを潰されたら帝撃は終わりだ‥‥それに‥‥花組に負担が掛からな いようにしないと‥‥この先かなり辛そうだし‥‥ 「じゃあ雪組の連中も連れて行くとするか‥‥」 ‥‥そうだな‥‥よし、じゃあウチの副隊長も預けよう‥‥今は横浜にいるが、 彼女にも伝令が行ってるはずだ‥‥おそらく司令からな‥‥ 「!‥‥席空いてるのか?俺の”妹”も銀座に行きたいって言ってたし‥‥」 ‥‥”可憐”さんまで?‥‥こりゃ気合い入れんと‥‥それじゃ俺んとこの特攻 隊長を司令部に連れてってくんさい‥‥前から青山行きたいとか言ってたから‥ ‥ 「ほう‥‥エスコート役には、是非とも、くくっ‥‥この俺を指名して‥‥」 ‥‥月組の特攻隊長‥‥‥‥も、もしや‥‥”十六夜”ちゃんか?‥‥げげっ、 俺、ちゃんと指揮できるかな‥‥ 「お待ちしてますよ‥‥わたしもそろそろ舞台裏に回されそうですし、ね」 ‥‥敵のアジトと首領の目的さえ抑えられれば、花組の出番‥‥ですから網をか ける必要もあります‥‥司令部のほうには”神楽”を配置させますから‥‥ 「!‥‥そうなのか‥‥たいへんだ、そりゃ‥‥」 ‥‥”神楽”さん?‥‥一年前の大戦で‥‥日本橋で失踪したと聞いていたが‥ ‥なるほど、隠れ蓑のハッタリだったわけだ‥‥ 「向こうは忙しくなりそうですからね」 ‥‥青山担当はかなり苦しくなると思いますが、よろしくお願いします‥‥ 「では‥‥俺はそろそろ行くよ‥‥」 ‥‥わかった‥‥花組のために一つ花道でも作ってやるか‥‥ん‥‥そうだ、確 か今日、司令部に大神隊長が出頭すると聞いたぞ‥‥‥まさか、連中、先手を打 ってきたんじゃあるまいな‥‥ 「!‥‥そうですか、ゆっくりしていけばよろしいのに」 ‥‥まずいな‥‥‥夢組は既に所定の場所に配置させてあります‥‥遅れるかも しれませんが、七特も合流するはずです‥‥”夢の扉が開く音”で行動開始です ‥‥ 「俺も行くわ‥‥山崎‥‥お前、あんま無理すんなよ‥‥」 ‥‥了解だ‥‥傍目にはクーデターに見えるな‥‥だが、これだけ稼働をかけて も、制圧できる保証はない、か‥‥‥ま、風組のお嬢さんらも来るみたいだし‥ ‥とりあえず吉報を期待してな‥‥ 白いシャツを着た青年は、またも風景画に溶け込むように歩き去って行った。茶 色の青年の方は空気に溶け込むように。 山崎はベンチに残って握り飯をほおばった。 少し塩味が強すぎるか‥‥沢庵も‥‥うーん、今いちだなあ‥‥やっぱ、銀座の 食堂のほうがいい。 鳥の声がさえずる木陰で、山崎は一人劇場のことを想った。 花咲く舞台。優しい少女たち。それを護る光と影‥‥ 「‥‥やっぱり、銀座の飯のほうが美味しい」 残る握り飯を口に放り込み、山崎は工場に戻った。 優しい風が吹いていた。陽光は相変わらず眩しいが、新緑に照り返される光は不 安をかき消してくれるようだった。光が創る影‥‥それすらも。


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Uploaded 1997.11.25




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