<その3>



コンコン‥‥

「‥‥大神か?」

「はい」

「入れ」

「失礼します」

カチャ‥‥

陸軍司令本部の一角にある米田の自室。大神はそこに呼び出された。入ってみる

と、室内は帝劇の支配人室にも似ている。正面に机があり、そこに米田が座って

いた。勿論劇場でいつも見ていた酔っ払いの体ではない。その後ろは窓。カーテ

ンと窓が開け放たれ、爽やかな風が入りこんでくる。

ふと左手のほうに人の気配を感じて大神は視線を移した。ソファがある。それも

支配人室に似ていた。人が座っている。後ろ向きで‥‥だが女性とはっきりわか

る、ある種の”匂い”を感じさせる。髪の毛も長い。後ろで束ねている。そし

て、その髪の毛の行き着く先は‥‥チャイナドレスだった。

群青のチャイナドレス。

襟元から匂立つような艶が発散されていた。

「‥‥‥‥」

「‥‥そこに座れ‥‥大神」

「‥‥はい」

大神はその女性の前に廻り込むように移動した。

「!‥‥しゃ、暁蓮、さん」

「うふふ‥‥お久しぶりね‥‥大神さん‥‥」

「‥‥知り合いか?」

米田が机から立ち上がり、大神の横に移動してきた。

大神はまだ呆然としたまま立ち尽くしていた。

暁蓮がゆっくりと立ち上がる‥‥そして、大神の横に音もなく移動した。

「‥‥ほんとは、もっと早く‥‥劇場に伺うつもりでしたの‥‥」

「あ、あの、どうして‥‥」

「ずっと、ずっと‥‥会いたかったの‥‥わたし‥‥」

「そ、それは‥‥じ、自分もです‥‥」

初めて会った日と同じように、暁蓮は大神にぴったりと接着した。

「ほんとに?‥‥うれしい‥‥」

「あ、あの、しゃ、暁蓮さん‥‥」

「あの時の約束‥‥おぼえてる?」

「約束?」

「もう‥‥ばか‥‥」

「え、え?」

「‥‥今度会う時こそ‥‥わたしは‥‥あなたのもの‥‥でしょ?」

「あ、ああ、あの、あの‥‥」

「うふふ‥‥その約束を‥‥果たす時が来たの‥‥」

「ゴホン‥‥」

米田が咳払いをした。

さすがに大神も吾に返る。

「ふふっ‥‥じゃあ取り敢えず‥‥再会の挨拶だけ‥‥」

そう言って、暁蓮は二度目に会った時と同じことを大神に施した。脳が溶けるよ

うな甘い香りと共に、濡れた唇が大神のそれを塞ぐ。

『んんんんんんんなななななななななな!!????』

「‥‥ん?」

暁蓮は怪訝な表情を顔に浮かべて大神から離れた。唇と唇が1センチ程度の距離

で。腕はしっかりと大神の首に絡ませたままで。

「‥‥何か‥‥入り込んでるわ‥‥」

ズキン‥‥

頭が‥‥痛い‥‥

「‥‥先を‥‥越された?」

「‥‥‥‥」

「すみれ、色‥‥すみれ、ちゃん?」

「‥‥ん‥‥ぎ‥‥」

ズキンッ‥‥ズキン、ズキン‥‥

あ、頭が、わ、割れる‥‥

「‥‥そうなの‥‥そういう事なの‥‥」

大神は目を伏せていた。顔も下を向いたまま。

暁蓮は暫し大神をじっと見つめていたが、ふいに離れてソファに腰を降ろした。



目が恐るべき光を発していた。大神はまだ目を閉じたまま‥‥

「‥‥おい‥‥大神‥‥おめえ、大丈夫か?」

「は、はい‥‥んぎぎ‥‥な、なんとか‥‥う、うぎぎ‥‥」

「‥‥こちらにいらっしゃいな‥‥大神さん‥‥」

暁蓮が自分の横に手招きをする。

見えない力が働いたかのように、それが自然であるかのように、大神は暁蓮の横

に倒れ込むように座った。背持たれでは支えきれず、頭が暁蓮の肩に寄りかか

る。

「大丈夫?‥‥大神さん‥‥」

ズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキ‥‥

が、我慢でき、ない‥‥

「大神‥‥おめえ‥‥ほんとに大丈夫か?‥‥顔色‥‥真っ青だぞ‥‥」

「あぐぐ‥‥」

「もっと、わたしに‥‥身体を預けて‥‥」

「だ、大丈、夫‥‥で‥‥んぎぎ‥‥」

「‥‥話の続きをしましょうか‥‥米田大将」

「‥‥日を改めてお願いできませんかな‥‥大神もこんな調子ですし‥‥」

「はあはあ、はあ‥‥」

「すぐに終わりますわ‥‥」

ズキズキズキズキズキズキズキズキズキ、ズキズキ、ズキ、ズキ‥‥ズキ‥‥

頭が‥‥俺の頭じゃ‥‥ないみたいだ‥‥

もう‥‥何も‥‥感じることが‥‥できない‥‥

死‥‥

兄さん‥‥

ああ‥‥

あれは‥‥

蓮華の‥‥華が‥‥見える‥‥

‥‥すみれ‥‥くん‥‥

桜の花びらが‥‥舞って、いる‥‥

極楽浄土って、ヤツか‥‥

‥‥花の‥‥香り‥‥

あやめの、花の‥‥香り、だ‥‥

マリア、か‥‥

‥‥何か‥‥聞こえる‥‥

暁蓮さん、か‥‥

甘い‥‥香り‥‥

花の香りが‥‥消える‥‥

「‥‥採用が正式決定した上での提案ですわ。‥‥わたくしどもに‥‥大神大尉

を預からせていただく‥‥というのは?」

「ご冗談でしょう」

「無償で、とは言いませんわよ‥‥米田大将」

「はあ、はあ、はあ‥‥んぐ‥‥」

「‥‥責任を持って対処させて頂きますわよ。それに大尉の力があれば‥‥制御

など容易く出来るというもの。万が一の事が起きた場合でも、ね」

「‥‥受け入れかねますな」

「それでは‥‥提案を撤回する、という事ではいかが?」

「‥‥‥‥」

「大神大尉をわたくしどもに‥‥いただけるのでしたら‥‥全ての提案は白紙に

戻しますわ。いかがかしら?」

「‥‥それは大神が決めることでしょう」

「そのために‥‥大神大尉をお呼びしていただいたのに‥‥」

「ですから‥‥大神はそんな体裁ですし‥‥本人の判断については保留にしてい

ただきたいと‥‥」

「‥‥いい条件だと思ったのにね。まあよろしいですわ。いずれにしても‥‥こ

の人はわたしのものになる‥‥わたしだけのものに‥‥」

暁蓮はそう言って肩に寄りかかる大神を膝の上に導いた。

艶かしい腕、その先の蝋燭のような白い指先が大神の頬を撫でる。

大神の頬を、唇を、その輪郭全てをなぞるように。

「うぐ‥‥うう‥‥」

「どうしたのかしら‥‥大神さん、やはり気分が優れないようですわね‥‥」



カチャ‥‥

入室してきたのは陸軍将校だった。襟章からして准将らしい。後ろにやはり5人

ほど、下士官クラスの軍人が控えている。

「‥‥だれが入室を許可した?」

「米田大将‥‥わたくしどもと同行してもらえますかな」

「‥‥誑かされおって‥‥未熟者どもがっ!」

「ふふっ‥‥大神大尉はわたくしが介抱いたしますわ‥‥ん?」

暁蓮は大神の襟に目が行った。普通の襟章ではない。少し青みがかった、七宝焼

きのような色を呈した飾りが付けられていた。暁蓮は大神の頬に触れ、そしてそ

のまま指を襟に移動し襟章を毟り取った。そしてまた大神の顔に指先を戻した。



「ふっ、小賢しい真似を‥‥この人はわたしのものよ」

暁蓮はゆっくりと立ち上がった。同じ背丈の大神に肩を貸すようにして、そして

常に大神の顔が自分の顔のすぐ傍に位置するように抱きながら。

「うふふふ‥‥わたしのもの‥‥わたしだけのもの‥‥あはははは‥‥」

「待てっ‥‥」

「動かないでもらおうか‥‥米田大将」

准将が銃口を米田の胸にぴたりとあてる。

暁蓮は愛しそうに大神を抱えて退出していった。

笑い声だけが廊下に響き渡った。





米田が連行されていったのは地下室らしい暗い部屋だった。今にも消えそうなラ

ンプが3メートル間隔で壁から生えている。その情けない光量の灯りだけが暗い

廊下を照らしていた。地下室は無論灯りなどない。覗き窓から入り込むそのラン

プの薄明りだけが内部を判別する手がかりだった。

「狭いですが‥‥まあ、そのうち居心地はよくなるでしょうな、米田大将」

「貴様ら‥‥」

「よ、米田長官か‥‥」

壁越しに声が聞こえる。

隣の地下牢にも誰かいるようだ。

「その声‥‥カンナか?‥‥怪我ねえか?」

「ああ、アイリスもいる」

「ではごゆっくり‥‥」

地下室ならぬ地下牢の扉が音を立てて閉じた。

再び暗闇が覆う。

視界が全く効かない闇。霊視すら効かない。

「すまねえな‥‥こんなとこに招いちまって」

「気にすんなって‥‥それよっか、いったいどういう事なんだよ」

「話すと長くなるからな‥‥」

「‥‥アイリスも知りたいよ‥‥なんだか‥‥変だよ、みんな‥‥」

「その前に‥‥アイリス、何とかならんか?」

「さっきから試してみてるんだけど‥‥だめ‥‥力が逃げていくの」

「‥‥結界、か」

「おまけに、やたらと堅い壁だしな‥‥神凪司令がいりゃ‥‥」

「ちっ、こうなりゃヤツだけが頼りだな‥‥」

「はっ、そ、そうだっ、隊長は?隊長はどうなった、米田長官っ!」

「‥‥すまねえ」

「ち、ちっきしょーっ、あ、あいつら‥‥」

「怪我はねえよ‥‥ただ‥‥連れてかれちまった‥‥」

「くっそー‥‥」

「どこに!?、お兄ちゃん、どこ行っちゃったの!?‥‥もしかして‥‥もしか

して、知らないお姉ちゃんが、お兄ちゃんを‥‥」

「アイリス‥‥おめえ、知って‥‥」

「そうなの!?‥‥やだよ、アイリス、一人ぼっちはいや‥‥」

アイリスの心の中の不安、それまで押し殺していた不安が急速に拡大していく。



いつか見た夢‥‥大神が見ず知らずの女性に連れ去られていく‥‥

みんな死ぬ。

いやだ‥‥

「アイリス」

カンナがアイリスを抱く。

暖かく強い意志が、今度はアイリスの中に充ちてくる。

「‥‥心配すんな、あたいがついてる」

「‥‥夜を待とう」

「‥‥え?」

「夜になりゃ‥‥なんとかなる」

「‥‥きっと‥‥みんなが助けに来てくれるよね」

「ああ」

「お兄ちゃんを、助けてくれるよねっ!?」

「あたりめえだ」





「‥‥おや‥‥説得は成功したようですな、暁蓮様は」

「お嬢様‥‥」

表玄関に暁蓮が現れた。白い海軍服を着た青年を肩に抱きかかえている。

すぐ脇に停車していた蒸気自動車から青いシャツの男‥‥龍塵が下り立ち、すか

さず暁蓮から大神を受け取ろうとした。

「‥‥いいから。この人はわたしが介抱するから。一瞬たりとも‥‥わたしの傍

から離さないわ‥‥もう二度と‥‥絶対に‥‥」

「お嬢様‥‥」

「‥‥あああ‥‥やっと‥‥やっと、わたしのものに‥‥」

既に意識のない大神を後部座席に連れ込む。暁蓮はそのまま傍らにぴったりと寄

り添い、すぐに大神を自らの胸に抱いた。恍惚とした表情は夢を見ていると言う

より、薬物を使用しているかのような淫靡な色合いを放っていた。大神の身体を

隅々まで愛しむように撫で回す。

ブオオオン‥‥

車のエンジンに火が入る。

‥‥何か‥‥音が‥‥聞こえる‥‥

‥‥時計の、音?

ロビーの‥‥時計の音、か?

あの時‥‥兄さんと‥‥兄さんと会えたんだ‥‥

ああ‥‥あ‥‥

あの‥‥銀時計は‥‥どうなったんだろ‥‥

紅蘭が‥‥持って行った‥‥

紅蘭‥‥

おさげ、髪の‥‥天使‥‥

紅‥‥蘭‥‥

子供、みたいな‥‥優しい‥‥瞳‥‥

声が聞きたい‥‥

関西弁が‥‥聞きたいよ‥‥

紅蘭‥‥

帰って、きたら‥‥デートしよう、よ‥‥

あ、はは‥‥ドライブ、さ‥‥

紅蘭の‥‥ハマイチと‥‥

あの‥‥蒸気、二輪車‥‥劇場の脇の‥‥

俺‥‥直して、みるかな‥‥

あはは‥‥俺じゃ‥‥無理か‥‥

無理か、な‥‥

兄さんにも‥‥会わせたい、な‥‥

そうだ‥‥

三人で‥‥三人で、飛行機‥‥乗ろう‥‥

三人乗りの‥‥飛行機‥‥

ふふ‥‥だめかな‥‥

紅蘭‥‥

はやく‥‥はやく帰って‥‥きて‥‥くれ‥‥

俺のことは、いいから‥‥

時計は‥‥もう、いいよ‥‥

みんな‥‥待ってる‥‥

俺も‥‥

兄さんも‥‥

杏華さんも‥‥待ってる‥‥

杏華‥‥さん‥‥も‥‥

はやく‥‥帰ってきて、くれ‥‥

会いたい‥‥

会いたいよ‥‥紅、蘭‥‥

ああ‥‥

なんか‥‥あたたかい、な‥‥

苦痛を取り越した大神の表情には子供のような笑みが浮かんでいた。

暁蓮が大神の額に浮かんだ汗の珠を優しく拭う。

「かわいい人‥‥これからは、ずっとわたしの傍で‥‥ん‥‥そうだわ‥‥」

暁蓮の気配の変化に触発されたかのように龍塵が振り向く。

「‥‥あの三匹‥‥早速使いなさい」

「いかように」

「‥‥紫色の女‥‥すみれという女を‥‥消すのよっ!」

「‥‥すみれ殿、ですか‥‥既に”影”はつけてありますが」

「その程度では済まさないわ‥‥‥わたしの、わたしの大切な人を奪って‥‥」



「‥‥‥‥」

「八裂きにしてくれるわ‥‥髪の毛一本たりとも‥‥残さずに‥‥消してやる‥

‥殺してやる‥‥絶対に、絶対に殺してやるっ!」

「‥‥これ、は‥‥女の妄執とは、かくも恐ろしいものか‥‥」

視線を前に固定したまま月影が唸る。

龍塵は少し悲しそうな目で暁蓮を見つめる。

「だまれっ!‥‥いつか、いつか殺してやろうと思っていたのよ‥‥いつも‥‥

いつもいつもいつも、わたしの大神くんにべったりと‥‥んぐぐぐ‥‥」

暁蓮は殊更に大神をきつく抱きしめた。

「‥‥わかりました。到着次第‥‥派遣するよう手配いたします。場所は‥‥確

か横浜に移動していたと思います。すぐに接触できるかと‥‥」

「心を蝕んでやったのに‥‥汚らわしい女‥‥」

「お嬢様‥‥」

「生きているのが嫌になるほど‥‥辱めてくれる‥‥あの、あの薄汚い女めが‥

‥百万回殺しても足りない‥‥そうだわ、生かしたまま殺してやる‥‥」

「な、なんと言うことを‥‥」

「お嬢様っ、わかりました故、どうかお心穏やかに‥‥」

「わたしに指図するなっ!」

「お嬢様は崇高なお人‥‥自ら落としめるようなお言葉を吐かれますな」

「‥‥悔しい‥‥悔しいよう‥‥‥大神くううん‥‥‥‥好き‥‥大好きなの‥

‥愛してるの‥‥だから、わたしを‥‥わたしだけを愛して‥‥大神、くん‥

‥」

大神の頬に唇を寄せる暁蓮、その目に‥‥涙が浮かんでいた。

悔し涙か‥‥愛しいと想うが故なのか。

歪んだ愛が為す業なのか。





「‥‥行きましょか」

「ええ」

暁蓮と大神を乗せた車が出てすぐ、一台の黒い蒸気二輪車が、恋人同士としか見

えない若い男女を乗せて司令本部を後にした。









風が強くなった。

潮風に混じり込むように、桜の花びらが舞っているように見えた。

桜の花びらが、ぼやけた三つの黒い影を取り囲む。

そしてその花びらは、いつしか白い橘になっていた。

「橘の乱舞‥‥」

「これは‥‥」

「真の破邪剣征奥義をこの目で‥‥」

「‥‥‥‥」

さくらはじっと黒い影を見つめていた。

ただじっと。

霊剣荒鷹の鍔元から、真打の刃のみが放つ霊光がにじみ出ていた。

急激に冷気が増す‥‥そして、舞う風華。

白い橘はまるで雪のようだった。

しんしんと舞うささめ雪。

先が見えない程に降り続く雪。

純白の雪‥‥

一面が純白に覆われる。

黒い影が動く意志を示す‥‥が、凍り付いて動けない。

さくらの目が輝いた。

瞬間、マリア、すみれ、”可憐”の三人はさくらの後方に移動した。



「‥‥破邪剣征‥‥雪華風神!」



二陣の風が巻き起こった。

雪が散らされる‥‥

白い風‥‥そして、後を追うように黒い風。

白い風が凍り付いた黒い影を襲う。

それは人ではなかった。

白い風が凪いだ影の衣は‥‥異形の物の怪、人の形だけをとった、肉の固まりで

しかなかった。寄せ集めの肉片に、闇から引っ張りだした魂の残骸を詰め込んだ

‥‥生きる屍、死霊だった。

そして、黒い風がその生きる屍を喰らう。

横走りに襲う一すじの黒い線に吸収されるかのように、肉片は二次元平面に圧縮

され、そして一次元の線に収束、零次元の点となって実空間から姿を消した。実

体化する以前の、さらにその前‥‥生まれ出ずる前に。無の世界へ。

雪が舞う。

不浄な痕跡を残さず洗礼してくれるかのように。



雪が止んだ。

潮風が流れ込んできた。

爽やかな夏の香りがする、その暖かい風。



「わたしより‥‥上かも、ね‥‥」

「これが‥‥雪華風神‥‥」

戦場で神凪と対面することとなったマリアとすみれ‥‥その神凪が放った最初の

技を、奇しくも再び目の当たりにすることになった。そして神凪がさくらに言っ

た言葉‥‥本来の技とは違う気がするんだよ‥‥確かにその通りだった。

まるで事もなげに‥‥静かな終了。

雪の舞う静かな路地の、静かな戦い。

橘花風神、別名、雪華風神‥‥破邪剣征・第八奥義。



「さ、さくらさん‥‥いったい、いつの間に‥‥」

「なんか‥‥自然に‥‥真打の力、なのかな‥‥」

「‥‥なるほど、ね‥‥大佐とは‥‥違うわ」

”可憐”も唸った。

以前見たことでもあるのか、品定めするような目で再びさくらを見る。

「これが‥‥破邪の血統が生み出す力、か‥‥」

「‥‥どういう意味でしょう」

横にいたマリアが聞き返す。

”可憐”はすみれがさくらの傍に寄って行ったのを確認して小声で言った。

「裏御三家の話は‥‥知ってる?」

「破邪の血を受け継ぐ家系‥‥でも、今は真宮寺家だけだと‥‥」

「‥‥では、その上に位置する家系のことは?」

「裏御三家の‥‥上?」

「正確には‥‥裏御三家の、そのまた”裏”だけどね‥‥」

「‥‥なんの、ことです?」

「‥‥知らなければ‥‥そのほうがいいわ」

「‥‥‥‥」

「裏の裏が表、なんてオチはないわよ、ふふっ‥‥」

「神凪司令や‥‥大神隊長に関係しているわけでは‥‥ありませんよね?」

「‥‥なかなか‥‥さすがは副司令‥‥」

「!?‥‥」

「とにかく‥‥はやく移動したほうがよさそうだわ」

「‥‥それもそうですね」

マリアの”可憐”に対して抱いていたある種の疑惑は”副司令”という言葉で確

信を得たが、それを確認する余裕はなさそうだった。神凪の指令のこともある‥

‥すぐに戻れ、という。

敵にも遭遇した。つまり自分たちは監視されていたのだ。それが何を意味するの

かは‥‥容易に想像がつく。大神たち、そして劇場に滞在する神凪たちにも、隙

あればいつでも手は延ばされる。

四人はマリアの知人の経営する喫茶店へと急いだ。

そこに車が置いてある。

あの車を以ってすれば、帰りも30分程度で着けるだろう。

昼前には劇場入り出来そうだ。



「こ、これ?」

「そうです」「そうですわ」「そうですよ」

「こ、こいこ〜い?」

「そうです」「そうですわ」「そうですよ」

「ど、どついたるで、って‥‥」

「そうです」「そうですわ」「そうですよ」

「‥‥‥‥」

「じゃ、お願いしますね、”可憐”さん‥‥わたしナビしますから」

「また後ろかあ‥‥」

「あ、あの‥‥さ、さくらさん、だ、大丈夫ですわよね?」

「わたし、結構飲んだからなあ‥‥ゲロゲロって、やっちゃうかも‥‥」

「‥‥そ、そんなあ」

「くっちゃべってないで、さっさと乗れっ、すばやく乗れっ、直ちに乗れっ」

マリアは喫茶店の知人に窓越しで挨拶をした後、まるで今迄の憂さ晴らしのよう

に、さくらとすみれの尻に蹴りを入れて後部座席に押し込んだ。

「い、いくわよ‥‥」

「どうぞ」「はーい」「よろしくてよ」

”いっちょトバシたるで・うちのハマジ<そりゃないで>改”エンジンは、けた

たましい音を立てて後部車輪に命を与えた。駐車場と周辺部の石畳の路面に物凄

いブラックマークを残して。”シリスウス鉄砲玉<どついたるで>参号”ボディ

が看板や煉瓦壁を粉砕しつつ、瞬く間に幹線道路に突入する。

横浜との別れ。光が創る風景だけが見送った。

「‥‥また来たいな」

「そうですわね‥‥」

「今度はゆっくりと‥‥旅行がてら来ましょう」

「‥‥また店に寄ってくれるかしら」

「勿論」「無論ですわ」「‥‥ええ」





片道一車線だが、広い道路。

川崎に入る手前。

対向車線を一台の車が通り過ぎる。



「‥‥ずいぶんと飛ばしてるな‥‥あの車」

「私の好みだな‥‥何かペンキで塗ってたような気も‥‥」

「‥‥うーん‥‥‥‥なによ‥‥寝てるんだから‥‥邪魔しないでよ」

「これは失礼しました‥‥」

「いいご身分ですなあ、”お嬢様”は‥‥」

「‥‥何か言った?‥‥あん‥‥ごめんね、一人にしちゃって‥‥さみしかっ

た?‥‥わたしのかわいい人‥‥横浜についたら、たっぷりと‥‥うふふ‥‥」



「そうくるか‥‥」「うむ‥‥」



お互いに気付かない‥‥



「今の車‥‥速かったわね‥‥あ、そりゃこっちか」

「な、何か、言いましたかっ!?」

「‥‥ナビ、では?」

「ぬはははは‥‥うはははは‥‥うっ‥‥ゲロゲローッ」

「うわっ、な、なんてことですのっ!?‥‥うぶっ、もらいゲロ‥‥」



‥‥そこに目的の人がいるのに。

しばらくして、一台の蒸気二輪車。



「‥‥ん?‥‥今の‥‥」

「なんすかあ!?」

「‥‥なんでもないわ」









「う‥‥」

「ん?‥‥!‥‥危ないっ」

「あ‥‥す、すいません‥‥司令‥‥」

「少し休もう‥‥」

丁度七瀬の足回りに手を入れようと神凪が紫色の機体から降りた途端、杏華が純

白の機体から崩れ落ちてきた。新生する大神ユニットはまさに完成に近づきつつ

あった。純白の装甲で覆われていない場所を探したほうが早い。杏華は桜色の機

体と並行して殆ど終夜で作業を続けてきた。その結果がそれだった。

「で、でも‥‥」

「だめだって‥‥寝てないだろ‥‥」

「‥‥‥‥」

神凪は杏華を抱いてプレハブを出た。

「あ、あの、わたし‥‥」

「少しは甘えてもいいんだよ、杏華くん‥‥」

「そ、そそ、そん、そんな、そんな‥‥」

神凪は誰にも言ったことがないような、限りなく優しい声で杏華に告げた。対す

る杏華もこれまで見たことがないほど顔を真っ赤にした後、抱きかかえる神凪に

その顔を見られないようにしがみつく。

「ほんと‥‥かわいいよな‥‥杏華くんは‥‥」

「‥‥‥‥」

勿論答えることなど出来ない。

神凪はしがみつく杏華の手を見つめた。

子供のような肌は荒れて所々罅割れが入っている。華奢な手に痣が、瘤ができて

いる。細い指先が所々血がにじんで‥‥それが処置されないまま、腫れあがって

いる。

神凪は思わず目を伏せた。

ここにいることが‥‥幸せ、か‥‥

ほんとか?‥‥

俺はもしかして、この娘を‥‥不幸にしてしまったのではないか?

杏華に与えた道の是非に悩む神凪。戦いが生み出すものは所詮その程度でしかな

い。はやく、はやく決着を着けなければ‥‥そして、迷いは焦りへと導く。

「‥‥わたし‥‥幸せです」

「!‥‥杏、華、くん‥‥」

胸の鼓動がそのまま意志となって伝わったかのように、杏華が呟いた。

「わたしは、ここにいるだけで‥‥幸せ‥‥」

「‥‥ここは君の家だよ‥‥そして、俺は君たちの兄であり父親だ」

「‥‥‥‥」

「ま、米田のクソジジイという爺さんもいるけど」

「クスッ‥‥」

「悩みがあったら言いなさい。俺に出来ることなら何だってするさ」

「‥‥‥‥」

「君には感謝してる‥‥言葉では言い尽せない程に、ね‥‥」

「‥‥一つだけ」

「言ってごらん」

「‥‥大神さんと‥‥大神さんと、一緒に‥‥」

「‥‥‥‥」

「わたし、大神さんと‥‥」

「‥‥大神に言っておくよ‥‥でも‥‥杏華くん‥‥」

「‥‥‥‥」

「このことは‥‥みんなに言う必要はないからね」

「え‥‥」

「みんな‥‥大神が好きなんだよ」

「‥‥はい」

「知らなくていいことを‥‥知ると‥‥悲しいから、さ‥‥」

「‥‥はい」

「認めてもらえるかどうかは‥‥後の話。それも大神が決めることだから」

「‥‥‥‥」

「‥‥君にも資格はあるんだよ‥‥君は、今や家族の一員だからね」

「はい‥‥はい‥‥はい‥‥」

杏華は泣いた。

神凪にしがみついたまま、泣いた。

一人ではない。

一人ぼっちではなかった。

ここにいるだけで幸せ、ではない。

ここにいることが幸せ、だった。

ずっと溜めていた涙が絶え間なく流れて、神凪の胸を濡らした。

それは神凪の心をも潤した。





神凪は杏華を抱いて二階まで上がった。すぐ右手にあやめの部屋、今の杏華の部

屋がある。神凪は階段を上り切ったところで立ち止り、少し考え込む仕草をし

た。

「‥‥杏華くん」

「‥‥はい?」

杏華は真っ赤な目で神凪を見上げた。

確かに‥‥だれが見ても放っておけるような女性ではなかった。

「‥‥別の部屋でも構わないか?」

「‥‥?」

「大神の部屋で寝てくれる?」

「え!?」

「‥‥そうしよう」

「そ、そそ、そんな、そんな‥‥」

「いいから‥‥」

神凪はそのまま杏華の部屋を通り過ぎて、大神の部屋の扉を開けた。

すみれの残り香が漂う。

泣いた後の詰まり気味の鼻、その杏華には勿論感じ取れない。

神凪は杏華を優しくベッドの上に下ろして、窓を開けた。

風が入り込む。

すぐに中の空気は入れ替わった。

そして、窓を閉めた。

「あ‥‥」

神凪はすぐに杏華の手に触れた。

傍らに置いた救急箱から消毒液と包帯を出す。杏華の傷ついた手を、荒れた手を

丹念に拭く。そうすれば元の美しい手に戻る‥‥そんな健気な想いだけが神凪の

心を埋める。自分の巨大な霊力も惜しげもなく投入する。

「‥‥っ」

「痛い?‥‥もう少し我慢して」

‥‥元に戻らない。

‥‥おかしい。

なぜ、だ?

腫れがひかない。

神凪は焦った。

どうして‥‥

傷ついた手は癒されることはなかった。

くそっ、なんで腫れがとれないんだ?

こんな‥‥こんなはずはない‥‥

こんなはずは‥‥

「‥‥神凪‥‥司令‥‥」

「も、もうすぐ、き、綺麗になるから‥‥ちょ、ちょっと待って‥‥」

なぜ、だ‥‥

なぜ‥‥直らない?

あれだけ‥‥破壊出来る力がありながら‥‥

全てを消し去る、無双の破壊力が‥‥ありながら‥‥

破壊‥‥

消去、か‥‥

やはり‥‥俺には‥‥再生させる力は‥‥ない、の、か‥‥

「‥‥‥‥」

杏華はじっと神凪を見ていた。

まだ涙の名残りが残る赤い目で。

神凪は泣きそうな顔をしていた。

眉をひそめ、目を細めて、唇を噛みしめ‥‥

涙脆い杏華は、そんな神凪を見て思わず貰い泣きしてしまう。

神凪はよけいに焦った。

「あ、あ‥‥ま、待って、すぐに元に戻るから‥‥」

「違うの‥‥大神、さん‥‥」

「え、え?」

杏華は残った手で、自分の片手を拭く神凪の手を優しく覆った。

「‥‥子供みたいな手だけど‥‥少しは働き者に見えるかな‥‥」

「‥‥‥‥」

何と答えればよいのかわからず、神凪は口をぱくぱくさせるだけだった。

「へへへ‥‥やっぱり‥‥大神さん、だ‥‥」

「あ‥‥も、もう少し拭いて、包帯捲くから‥‥」

「傍にいて‥‥大神さん‥‥」

ベッドに横になったままじっと神凪を見る、その涙で濡れた円らな瞳。

神凪は手早く包帯を捲いた。

このままでいると、よくない‥‥神凪は先ほどとは別の焦りを覚えた。

「にゅ、入室禁止の札を掛けておくから、今日はゆっくり寝てて‥‥」

「あ‥‥待って‥‥」

「‥‥そのまま‥‥目が覚めたら、きっといいことがあるよ」

懐から何か紙切れのようなものを出して、杏華の頭‥‥枕の下に差し込み、その

まま髪を優しく撫でて杏華から離れた。まるで風邪を拗らせた妹か娘を介添うよ

うに。そうしなければいけないような気がして。

そして言葉通り、扉の内側に掛けてある‥‥大神は一度も使ったことがない”入

室禁止”の札を表に吊るす。その札の後ろに神凪はペンで文字を書き込んだ。梵

語のような数珠繋ぎの文字列。暫くその札をじっと手で触れる。そして大神の部

屋から離れていった。

「‥‥大神さんの‥‥ベッド、だ‥‥」

杏華はすみれがそうしたように、枕に顔を埋めた。

「大神さん‥‥二人の‥‥大神さん‥‥」

泣いた顔はいつしか夢のような表情に変わっていった。

そして、ゆっくりと夢の世界に入っていった。





「どうしちまったんだろ‥‥俺‥‥」

階段を下りながら、神凪は独り言を呟いていた。

「‥‥マリア‥‥さくらくん‥‥」

雪の降る街。

極寒の街‥‥廃虚の街で出会った聖母‥‥天使。

破壊神の憂い。

悲しみの闇を埋めた桜の僚乱‥‥やはり、天使。

「そして、杏華くん、か‥‥」

孤独の果てに得た束の間の幸せ。

失った過去は‥‥光で埋めるしかないのに‥‥

「俺には、眩しすぎる‥‥‥‥闇には‥‥似合わないよな‥‥」

神凪は少ししょんぼりしながら地下まで階段を下りた。

地下格納庫に戻る前に、作戦司令室に立ち寄る。

まるでタイミングを合わせたように無線が鳴った。

「ん?‥‥タイムリーだな‥‥」

『‥‥舞姫の』

「‥‥おや」

『夢の扉が開く折り‥‥月に微睡む‥‥想い人かな』

「お洒落だな‥‥!‥‥神無、月‥‥」

『‥‥闇に染まりし‥‥若草と‥‥』

「‥‥我もゆきけり、月満ちて後」

『‥‥それには及ばず』

「ん?」

『浜百合の‥‥磯の香りが夢殿は‥‥蔦に神楽が‥‥舞いまするゆえ‥‥』

「‥‥!!‥‥あいわかった」

神凪は無線を切った。

表情が一転して悪魔のような笑みに変わる。

「‥‥やってくれたな」

立ち上がる黒い霊力‥‥光すら閉じ込める異次元の闇。

出口のない亜空間。

死の淵。

無。

「横浜、か‥‥俺が行くべきだったな‥‥手間が省けたのに‥‥」

無の世界から生まれる漆黒の稲妻。

それは無の世界に取り込む黒い触手。

一瞬、杏華の濡れた瞳が脳裏に過るが‥‥

「所詮、俺は破壊神、か‥‥」

戦いとは無縁であるべき少女たち‥‥それを駆り立てる者がいる。

花を愛でる手が罅割れて‥‥

敵は悪とは限らない。

しかし‥‥

「俺の、弟を‥‥拐かすとは‥‥いい度胸だ‥‥」

最早‥‥これまで。

消すしかない。

存在の抹消。

神凪の表情が一段と変化を示す。

それは闇より生まれ出ずる者‥‥闇の化身。

全てを無に帰すために生まれる闇の権化。

吸血鬼の目が真紅に輝く。

口元が吸血鬼の微笑みを形作る。

それを彩る血の色の唇。

吸血鬼の‥‥犬歯。

だれもいない司令室。

一人の無の世界への使者によって、一寸先も見えない闇に覆われる。

「‥‥今のうちに楽しんでおけ‥‥‥その後は‥‥こころゆくまで喰らってやる

‥‥痕跡すら残さん‥‥」

浜百合が彩る、夢の扉の向こう側‥‥そこは無の世界だった。







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Uploaded 1997.11.25




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