<その4>



光が届かない湿った地下牢。

アイリスはいつの間にかカンナの膝で眠っていた。

カンナは冷たい壁に背を預け、その壁の向こう側には、やはり同じように囚われ

の身となった米田がいた。

ただ時間を費やすしかない。その時に至るまでは。

「じゃあ、何か‥‥陸軍のお偉方が‥‥ほとんど寝返ったってのか‥‥」

「正確には、刷り込まれた、と言ったほうが正しいな。下士官には及んでないよ

うだ‥‥そんな暇があったとも思えんがな。それはいい。問題は‥‥」

米田は言い淀んだ。

「‥‥それはいい、なんてこたねえだろ、長官。相手にするわけにもいかねえし

‥‥いったいどうすりゃ‥‥」

「そいつはなんとでもなる。帝撃は花組だけじゃねえよ」

「‥‥そう言われりゃ‥‥そうだけど‥‥」

「それより問題は‥‥」

「?」

「‥‥お前らをアシストできなくなる」

「‥‥別に陸軍に世話になってるとは思えねえけど」

「‥‥直接的にはな。ただ、神崎重工のパスも断たれた上、花やしきまで封鎖さ

れるのも時間の問題だ。それに、陸軍の件が決着したところで‥‥だめだな。軍

の再建が優先される。長期戦は‥‥無理だ。今度の敵は短期決戦でケリ着けるし

かないな」

「な、なんだって‥‥そ、それじゃ‥‥帝撃の維持も‥‥」

「‥‥それは任せろ。それともう一つ‥‥」

「ま、まだあるのかよ‥‥」

「‥‥兵器の配置転換が‥‥決定してしまった」

米田は苦しそうに吐露した。

そのために司令職を退いたのにも関わらず‥‥

カンナには意味がわからなかった。

「なんだよ‥‥わかんねえな‥‥どういう意味だよ」

「‥‥陸軍の機動部隊‥‥つまり‥‥歩兵、だな‥‥」

「?」

「‥‥お前たちが戦った‥‥あの甲冑降魔‥‥」

「??‥‥?」

「あれが‥‥配置される」

「はあ?‥‥な、何言ってるんだ、長官、そ、そんなこと‥‥」

「お前たちが戦ったのは‥‥ダミーだ」

「い、言わねえでくれよ‥‥そ、それ以上は‥‥」

「カンナ、お前は帝撃に‥‥神凪に伝えなきゃならん」

「そ、それは‥‥」

「‥‥お前たちが戦った場所、状況‥‥おかしいと思わなかったか?」

カンナは一連の戦闘を思い起こした。

確かに戦術としては不自然だった。二度目はともかく、一度目は指揮すらない。

ただ消耗しているとしか見えなかった。三度目も‥‥捨て石としか思えない。仮

に在庫が潤択にあっても、戦術としては愚の骨頂と言える。

「‥‥試されていた、ってことか?」

「そして、デモを兼ねたアピール、だ」

「陸軍に、か?‥‥あたいら、を‥‥ダ、ダシにして、か?」

「‥‥そういうことだ」

「ち、ち、ちっっきしょーーっ、コ、コケにしやがって‥‥」

「その間、ヤツらは別に寝ていたわけではなさそうだ。しっかりと根は這ってい

たようだな‥‥結果がこれだからな。敵の真の目的がどこにあるのかはわからん

が‥‥大神がその鍵でもあるようだな」

「く、く、くっそー‥‥」

「よく聞けよ、カンナ‥‥こっからが本題だ」

「‥‥え?」

「お前、劇場に戻ったら‥‥帝撃を再編成するよう、神凪に伝えろ」

「そ、そりゃいったい‥‥」

カンナはアイリスを起こさないよう、顔だけ横向きにして耳を壁にへばり付けて

いた。劇場に戻れる保障があるとは思えないが‥‥いや、絶対仲間が助けに来て

くれる。そして米田の伝言は確実に神凪に伝えなければならない。







「な、なんとか‥‥着けたわね‥‥」

「はあ、はあ、はあ‥‥生還、した‥‥」

「気持ち‥‥悪い‥‥ですわ‥‥」

「うーん‥‥うーん‥‥うーん‥‥桜花‥‥放神‥‥うぶっ‥‥」

横浜に遠征していた三人は”可憐”を引き連れて無事帝都入りした。当然倉庫に

納車することなど出来るはずもなく、四人は人力で”鉄砲玉”車両を押し込む羽

目になった。

汗だくになって劇場に入る。支配人室に行くと‥‥神凪はいない。

「‥‥地下かしら」

マリアを先頭に地下格納庫に向かう四人組。

踊り場で神凪とばったり会った。

「お‥‥戻ったか‥‥ん?」

「あ、司令‥‥おわっ」

「大佐あああああああああああああああああああっ!」

「うわわわっ!?」

階段の途中から踊り場の神凪に向かって、それこそ飛ぶように駆け寄る”可憐

”。前にいたマリアを道連れに、まるでコテコテの恋愛モノ活動写真を見るよう

に神凪に抱きつく。それとは対照的に、マリアは”可憐”が馬乗りの状態で、神

凪の腹部に頭突きを食らわせる格好でしがみく。

「ピキッ‥‥」

取り残されたさくらとすみれのこめかみに井桁の血管が浮かび上がる。

「か、可憐か?‥‥お前、花やしきに行けって‥‥」

「もうっ、いけずっ、わたし、ずっと待っていたんだから‥‥」

「むかむかむかむかむか‥‥むかむかむかむか‥‥」

さくらとすみれの口からはそういう音しか聞こえない。

「こ、こいつ、何か欲求不満みたいだから、あははは‥‥」

「だ・か・らっ、はやく解消してえ‥‥」

「わ、わたしの、上から、退いてくれませんか‥‥」

マリア。

「むっかつくわ‥‥ゲロゲローッてやっちゃおっかなあ‥‥」

さくら。

「気分が悪いですわ‥‥司令は大神さんのお兄様‥‥つまり、この、わ・た・

く・し、のお兄様でもありますのよっ、そのような不貞、許しませんわっ」

すみれ。

「言うに事欠いて‥‥」「こ、この女狐‥‥」

「いやあん‥‥せっかく会えたのにぃ‥‥もっと、もっとぉっ‥‥そうだっ、再

会の挨拶よっ、ちゅっ、ぶちゅーっと」

可憐。擬音はそれなりの行為によるもの。

「むっっっっかーっ、なんばしよっと!?」

引き剥がしにかかるマリアとさくら。

蛸に吸引されたように神凪の頬も引っぱられる。

「い、いでででで‥‥し、仕事しようよ、な、な、な」

四人の女性は神凪を包囲するように地下司令室に向かった。





「‥‥と言う訳だ。三人とも、この劇場から一歩も外に出るなよ。それとマリ

ア、君はその間、司令代行してくれ」

マリアは副司令に着任した折り、帝国華撃団の司令系統を含む全ての運用項目を

花やしきで叩きこまれたが、まさか自分が着任して特級指令が発動されるとは思

ってもみなかった。勿論さくらとすみれは理解していない。

特令第参号‥‥帝撃主要五師団の総動員、及びこれを用いた軍事施設の制圧。

元々超法規的存在の帝撃ではあるが、何らかの要因でクーデター等の内戦が勃発

する危険性が生じた場合、戒厳令に準ずる手段としてこれを鎮圧できる権限を有

する。その場合の司令官は帝国華撃団主要五師団を指揮できる者、即ち帝撃司

令。そして帝撃司令に委任する形で最高司令官となるのが帝国議会総理。司令が

不在の場合は当然副司令が代行する。

ちなみに特級指令は第壱号から第拾号まで十段階あるが、特令第壱号については

もう二度と発動されない。つまり空中戦艦ミカサの運用。

神凪は朝の電話で米田から大神出頭の要請を受けた後、帝国議会への通達に踏み

切った。議会には花小路伯爵を通じて通達された。無論最高機密として。さすが

に議会主要閣僚は先の大戦の根源とも言える降魔の採用には一斉に反発した。了

承はあっさりと得られた訳だ。

花組は除外されたが、それは作戦行動の特色として花組にはそぐわないと神凪が

判断したからで、意図して特別扱いしたわけではない。それ以上に花組にはこの

先やるべきことがある。ここで余計な重荷を背負わせるわけにもいかない。尤も

今自由に動けるのは‥‥三人しかいないが。

「‥‥特令って、どういう事ですの?」

「‥‥何か‥‥始まるんですか」

たまらず、すみれとさくらが問いただす。

「少し風通しをよくするのさ。繰り返すが君たちは絶対にここを動くなよ。特訓

は中庭でやれ。それと‥‥明日の公演は中止するから」

「‥‥ますます‥‥わかりませんわね」

「わたしにも‥‥わかるように説明してもらえませんか?」

「心配するなって。‥‥”影”が張り付いていたそうだな。そいつの件もあるか

ら山崎もここに残す。マリア、君もそんなに堅くなることはない。みんなうまく

やってくれるさ。俺もすぐ戻るから」

「どちらに‥‥行かれるんですか?」

「横浜」

「え‥‥」

「忘れ物を‥‥取りに、な」

「忘れ物って‥‥わたしたち、別に‥‥」

「‥‥定期入れ、だ」

「?‥‥‥‥!!」

定期入れ‥‥大神が持って行った、あの定期入れのことか。

大神は青山の司令本部に向かったはず。なのに、なぜ横浜?

カンナと‥‥アイリスは?

マリアは青くなった。

「まだ昼までには少し時間があるな。山崎も今暫くは戻ってこんだろうし‥‥飯

でも食うか。食堂行こう」

何気なく言う神凪。

”可憐”が惚けたままの三人を尻目に、ここぞとばかり神凪に貼り付く。

「あ、じゃあ、わたしご飯作ります。久しぶりでしょ、わたしの作る食事は‥‥

うふふ‥‥将来のためにも、ね‥‥あ・な・たっ、うふっ」

「あの、な‥‥」

「むっかーっ、”可憐”さんはっ、お客さんですからっ、黙っていてくれません

かっ!‥‥神凪司令にはっ、わたしのっ、作ったっ、ご飯を食べてもらいますか

らっ!」

つっぱるさくらと可憐に挿まれて、神凪は食堂に連れて行かれた。

後につくマリアとすみれ。

マリアの表情は今一つすぐれなかった。

「‥‥どうかしたんですの、マリアさん」

「え‥‥いえ、なんでもないわ‥‥」

「‥‥‥‥」

カンナとアイリス‥‥もしや敵の手中に落ちたのでは?

隊長も‥‥まさか‥‥

どうなってしまうの‥‥

マリアの心中には不安材料しか生まれなかった。

司令は隊長を救出に向かう‥‥のか。

いつかの自分と同じ。

本当は‥‥自分が行きたい。

あの時の‥‥つぐないを‥‥

でもその役目を、兄である神凪は譲らないだろう。

それに特令‥‥第参号。

恐らく帝撃の主要部隊は青山と花やしきに配置されるはず。

作戦行動の詳細は現地指揮官、つまり雪組隊長に一任されている。

花やしきには別動小隊‥‥月組隊長もしくは風組隊長が指揮する、か。

本当にうまく行くんだろうか‥‥

それに、今‥‥

もし、今‥‥敵が来たら‥‥

敗北は確実。

現状の花組は‥‥戦力にならない。

マリアは真青になった。

生身で戦うしか、ない。

それも‥‥さくらとすみれ、自分‥‥三人。

たった三人の花組。

一人としてまともに動く神武もない。

最悪‥‥自分が乗るしかない。

小さく震えるマリアの肩に彼女よりも細い手が乗せられた。

「司令のおっしゃったように‥‥懸念は無用でしょう」

すみれが言う。

まるでマリアの心を読んだかのようだった。

「え‥‥」

「帝国華撃団に絶望はありませんわ」

「!!」

「それに、ここには山崎少尉も来るのでしょう‥‥わたくしとさくらさん、三人

で十分ですわ。マリアさんは副司令としての職務を遂行すればよろしくてよ」

「すみれ‥‥」

「何のために特訓したのか‥‥それはこういう時のためでもありますわ」

「そうね‥‥」

「この神埼すみれにおまかせあれ、副司令‥‥楽勝ですわ」

「‥‥ふっ、まかせるわ」

前を歩く神凪は、目を閉じて口元を綻ばせた。

確かに‥‥一人ではない。

暗闇が‥‥無の気配が薄らいでいく。

昨日の大神が放った紫光の珠が入り込んでくるかのように。

「あ、そうだ‥‥大神の部屋には入らないでくれるか」

「え?」

「‥‥改装中につき、ね」

「?」「?」「?」









「‥‥聞いていいか、長官」

「‥‥少し眠れ、カンナ」

「一つだけだよ‥‥」

「‥‥なんだ」

「ロビーで‥‥敵の副将格らしい連中に会った」

「ああ‥‥あの‥‥青いのと赤いのか」

迷いを導いてくれる人がそこにもいた。

カンナは思わず洩らした。

「‥‥敵は必ず‥‥悪、かな」

「‥‥‥‥」

「あいつら‥‥そんな匂いが‥‥しなかったんだよ」

「‥‥お前‥‥成長したな、カンナ」

「‥‥‥‥」

「これからは‥‥きっと、そんな時代になっていく‥‥悪は敵だが、敵は必ずし

も悪ではない。お互いに利害が一致しない場合もある。そんなつまらないことで

戦争は始まることもある。何も生まれんのにな。敵を知り、己を知る‥‥それが

これからの時代は必要になる。戦うためじゃねえぜ。敵を友とせよ、ってところ

だな」

「でも‥‥戦わなくちゃ、いけない‥‥」

「犠牲は避けられない‥‥嫌な話だがな。だがその犠牲は必ずむくわれるよ。‥

‥いつか産まれるお前の子供、孫の時代に、な、カンナ」

「そ、そりゃ、そりゃ‥‥そうあって欲しいけど‥‥」

「お前のように現実を理解していく人間が少しずつ増えていって‥‥それはいつ

か再生と生産に繋がるだろう‥‥破壊ではなく、破滅でもなく。そのためにも‥

‥お前はその”痛み”をしっかりと憶えておくことだ」

「‥‥‥‥」

「少なくとも今は‥‥カンナ、お前は自分の信念を貫けばいい。お前が大切にし

ているものは‥‥それは紛れもない、正義だからな」

「‥‥うん」

「お前のやるべきこと‥‥それは大神を、花組を護ること。そうだろ?」

「ああ」

「それで十分だよ」

「‥‥‥‥」

「あとは‥‥神凪と大神が導いてくれる」

「そうだよな‥‥」

「あの二人が‥‥光と影が、な‥‥」

カンナと米田の顔には、地下牢の暗闇とは不釣り合いな微笑みが浮かんでいた。



カンナの膝ですやすやと眠るアイリスと同じように、二人もいつしか穏やかな眠

りに入っていった。

待ち人の来る時まで。









その部屋は暗闇によって息を吹き返したかのようだった。

朝の陽光を浴びて綻びた姿も、闇の吐息によって再び生を受けたようだ。風化し

たはずのランプも息絶え絶えながら赤い光を放っていた。雑巾のように見えた生

地も、その表側‥‥陽光を浴びている面だけであり、裏側は艶のある闇となって

いた。

ベッドがあった。

窓から少し離れた、部屋の片隅。

闇で奥行きすら判別できないはずの部屋。

その片隅に確かに白いシーツで覆われたベッドが置かれていた。

その純白も赤いランプだけが照らすためか、薄紅色に染まって見える。

そして、その上に一人の青年が横たわっていた。

端正な横顔は淡い輝きを放っているように見えた。

光る砂のように、小さな珠の汗が赤いランプの光を反射する。

ランプの横には椅子。

そこにはその椅子の主が座っている。

めずらしくグラスを持っていた。

血の色のようなワイン。

それが少女の唇を濡らす。

「‥‥んぐ‥‥はああ‥‥」

一息で飲み込み、そしておもむろに立ち上がる。

おぼつかない足取りでゆっくりとベッドに近づくき、青年を見下ろす位置に腰掛

ける。

「‥‥あああ‥‥やっと‥‥ここまで来たのね‥‥わたしの愛しい人‥‥」

その青年の端正な顔に自らの美しい顔を接近させる。

甘い吐息が青年の睫を揺らす。

「‥‥あ‥‥ぐ‥‥」

眉を顰めて、その青年は身じろぎした。何かの痛みが身体を拘束し、その女性が

放つ吐息で増長しているかのようだった。

「なぜ‥‥どうして苦しむの?」

その女性は心底心配しているようだった。

額を手で触れる。

「熱が少し‥‥苦しそう‥‥」

群青のチャイナドレス、その女性がベッドから離れた。



コンコン‥‥

「‥‥よろしいでしょうか、お嬢様」

「‥‥入りなさい」

「失礼いたします」

いつもは闇の中に姿を溶け込ませる青い男性も、なぜかこの時はどこにあるかわ

からない扉をノックして入ってきた。群青の女性の横に立つ。

「既に‥‥横浜を発ってしまったようです」

「あの女狐が‥‥しょうがないわ、影を‥‥」

「始末されたようです‥‥侮れませんな」

「‥‥さくらちゃん、か‥‥仕方ないわ、影を追加して」

「‥‥あの三匹は?」

「銀座の真ん中で使うわけにもいかないわ‥‥劇場を破壊するつもりはないの

よ。あそこは‥‥この人の住んでいた場所‥‥大切な場所でしょ‥‥」

「お嬢様‥‥」

群青の女性は話している間も、眠る白い青年から一時も視線を外さなかった。少

し顔色がよくない。青年もその女性も。

「‥‥身体の具合がよくない、のですか‥‥大神殿は」

「‥‥‥‥」

「お藥でもお持ちいたしましょうか?」

「‥‥そうね‥‥あと、水とタオルを」

「わかりました‥‥それと‥‥」

「何?」

「‥‥こちらに向かう‥‥巨大な闇の‥‥気が感じられますが」

「もう一人の‥‥大神さん、か‥‥丁重に迎かえ入れて」

「かしこまりました」

女性は再びベッドに近寄り、そして今度は床に腰を下ろした。

眠る青年の横顔が見える位置に。

再び額に手をおく。

「‥‥やっぱり少し熱がある。無理させちゃったかな‥‥」

漆黒の瞳が涙で潤む。

それを零れないように手でぬぐった。

「こんなところに連れてきちゃって‥‥ごめんね、大神くん‥‥」



暫くして再びドアをノックする音がした。

青い男性と入れ代わりで入ってきたのは赤い青年だった。

「‥‥どうです?」

「元気がないの‥‥」

「そうですか‥‥気功でも試してみましょうか」

「‥‥できる?」

「ええ‥‥何もしないよりはいいでしょう」

皮肉が売りのその赤い青年も、この時はひどく優しい声色で女性に告げた。

対する女性も同じ。

女性が位置を譲る。

赤い青年は白い青年の白いシャツを開き、その胸に掌をあてた。

赤いランプに照らされて妖しい美しさを醸し出す二人の青年。

その美貌が瞬間歪む。

「‥‥違いますね」

「え‥‥」

「気の乱れとは‥‥違うな」

「‥‥だめなの?」

「‥‥何か‥‥足枷になって‥‥何だ、これは‥‥」

赤い青年は白い青年の胸から掌を離し、今度は額に手をあてていた。

掌と額の隙間から淡い光が漏れる。

ランプに反射しているのではなさそうだった。

「‥‥赤い、海‥‥菫色の波、か‥‥‥‥何だ?」

「‥‥‥‥」

「花の香り‥‥桜の花びら‥‥はて‥‥お心当りがおありですか?」

「桜‥‥」

「ん?‥‥これは‥‥‥‥紅蘭様、それに杏華様か?」

「なんですって!?」

「時計‥‥銀時計!?」

「!‥‥まさか‥‥”天塵”のこと?」

「そのようですね‥‥まさか、大神大尉が所有していたとは‥‥」

「‥‥それが‥‥原因なの?」

「わかりませんが‥‥”天塵”は‥‥解放されては‥‥いませんね」

「‥‥‥‥」

「いや‥‥違うな‥‥一部が解放されている‥‥どういうことだ?」

「そっか‥‥」

「?‥‥どうします」

「え?」

「”天塵”の行方を‥‥追いましょうか?」

「‥‥いいわ。あれは役には立たない。大神くんがいれば‥‥それでいい」

「‥‥‥‥」

横たわる白い青年を愛しげに見つめる群青の女性。

赤い青年はそれまで以上に優しい瞳で、その群青の女性を見つめた。

口元が少しだけ綻ぶ。

「優しいお人ですね‥‥暁蓮様は‥‥」

「‥‥う、うるさいわ」

「ふふっ‥‥ですが、あるいは”天塵”が大神大尉を拘束しているのかもしれま

せんよ。無駄とは思えませんが」

「‥‥‥‥」

ノックする音と共に青い男性が再び入ってきた。

漢方藥のような薬用紙と水差し、そして洗面器とタオルをトレーの上に乗せてい

る。

「‥‥もう下がっていいわよ」

「はい」「わかりました」

「‥‥月影」

「はい?」

「‥‥頼める?」

「‥‥ふっ、この月影におまかせあれ」

「お願い‥‥」

「必ずや」



再び静寂が二人の男女を包んだ。

横たわる青年の表情は少しだけ落ち着きを取り戻したかに見えた。

群青の女性はゆっくりと近づき、タオルで眠る青年の額に浮かぶ珠の汗を拭い

た。そのタオルを水に浸して額に乗せる。少しだけ青年の口元が緩んだ。

少女のような笑みが戻った女性は、再び青年の口元に唇を寄せた。

‥‥また苦しむ。

「なぜ?‥‥わたしが‥‥きらい、なの?」

大粒の涙が耐え切れず零れ落ちて青年の頬を濡らす。

「わたしのことを‥‥きらいになったの?‥‥そんなのいや‥‥いや‥‥」

群青の女性は白い青年に縋り付くようにして‥‥泣いた。









工場の中に戻った山崎は、いつもと違う雰囲気にすぐに気付いた。

ほんのわずかな時間、外に出ていただけで‥‥

人が少ない。

それに妙に違和感のある服装をした人間がうろついている。

軍服。陸軍の士官らしい。それに‥‥銃を持った兵士までいる。

整備士たちは‥‥あまり気にしてはいないようだ。

気付いてないのか?

まるで空気か置物のようにしか思っていないようだった。

山崎は所定の場所に戻った。そこには施錠した卯型霊子甲冑部品‥‥七瀬の右腕

が格納されている専用搬送ケースがある。

「こ、これは‥‥」

施錠が破壊されていた。

急いで中を確認する。

‥‥ない。

「し、しまった‥‥」

振り替えると‥‥

「動かないでもらおうか、山崎少尉」

銃を構える陸軍士官‥‥少佐階級のようだった。

見憶えがある。

「あ、あなたは‥‥」

士官学校在学中に模擬訓練で参加した陸軍中隊、その中隊長だった。

帝国華撃団の前身ともいえる帝国陸軍・対降魔部隊。その一員だった自分の兄、

山崎真之介の同期で、当時の兄の処遇もよく知っていた数少ない士官。その人は

当時大尉で、真之介は対降魔部隊に配属される折りに少佐に昇進した。

降魔戦争も終わり、一年前の大戦が終わる少し前に帝国華撃団に入隊した山崎。

士官学校を卒業するまでの間、軍人とは思えないほど親切にしてくれた。まるで

兄のような人だった。

それが‥‥目の色が昔と違う。

「久しぶりだな‥‥山崎。元気そうでなにより。‥‥すまんな、大人しく付いて

きてくれ。お前には怪我させたくない」

山崎は驚愕した。

人格を保持したまま洗脳する‥‥

そんなことができるのか。

そこにいたのは確かに自分の先輩と呼べる人だった。

「ど、どうして‥‥」

「‥‥そういう時代なのさ」

「それは‥‥」

「お前は俺の弟みたいなもんだ。本当は俺の下に来るはずだったんだ‥‥帝国華

撃団さえなければな。俺は帝撃は好かん。お前を奪った‥‥帝撃はな」

山崎は息を飲んだ。

まさしく自分の先輩だった。

その人は確かに当時山崎が帝撃入りすることに難色を示した。それは軍人として

は自然と言えたかもしれない。帝撃に入ったところで何の名誉も見返りもない。

ましてや戦う相手は訳のわからない魔物だ。自らの部隊を希望するよう、その人

は何度も山崎を説得した。

山崎は驚きを抑えつつ、心に入り込むことに集中した。

普通の人。普通の軍人。優しい先輩だった。

『‥‥ど、どういうことだ?‥‥何の‥‥変化も見い出せない‥‥』

昨日擦れ違った軍人は‥‥明らかにあの黒い影‥‥劇場を襲い、さくらの深層心

理に浸透した、あの黒い下衆の影がちらついていた。今回の件はあの輩が生前に

操作したと思えたが故に、夢組を総動員して汚染処理を施すつもりでいた。

違うのか?

山崎は焦った。

このままでは‥‥作戦、特令第参号は‥‥無意味になる。

夢組でも‥‥処置できない。

ただの同志討ちにしかならない。

さらに深く、深く入り込む。

『‥‥ん‥‥月、か?‥‥赤い、月‥‥何だいったい‥‥』

深層心理、そのかなり深い位置にそれはあった。

『‥‥月‥‥影‥‥‥‥月影?‥‥この男‥‥何者だ‥‥』

赤い中国服を着た長身長髪の美形。

優しい瞳。

ごく自然に深層心理に浸透している。

あの外道の黒とは‥‥わけが違う。

恐るべき力だった。

これほど完璧な精神操作を自分以外の人間が施すとは‥‥



そこまで来て、山崎は目的を思い出した。

そして探索の触手を引き戻す。

第一優先は七瀬の右腕の行方、そして帝撃作戦実行部隊への連絡。

「さ、ついてきてくれ‥‥山崎」

山崎は連行されつつ、触手をその人の部下に延ばした。

山崎の先輩とおぼしき少佐は知らないようだった。

『‥‥こいつではない』

山崎は次々と調査し続けた。

『!‥‥こいつか‥‥‥‥地下‥‥格納庫‥‥第弐、倉庫、か‥‥』

司令に‥‥だめだ、銀座には‥‥遠すぎる‥‥

山崎は視線も表情も変えずに心で叫んだ。

『‥‥舞姫‥‥舞っ、聞こえるか‥‥返事しろっ』

‥‥ここに‥‥居りまする‥‥

『お前一人か?』

‥‥銀座の百合が‥‥咲いておりまする‥‥

『ゆ、由里さん?‥‥二人で地下格納庫に行け』

‥‥それは‥‥なにゆえ‥‥

『アホッ、いいから行けっ』

‥‥わかりもうして候‥‥

『あ、待て、その前に青山の雪組隊長に伝令を出せ』

‥‥それは‥‥なにゆえ‥‥

『ドアホッ、いいから言う通りにしろっ、向こうにゃ神楽が居るんだろっ』

‥‥浜百合の‥‥闇を導き‥‥神楽坂‥‥

『イライライライライライライライライライライライライラ‥‥』

‥‥光を宿し‥‥蔦の夢殿‥‥

『イライライライラ‥‥!‥‥何だとっ!?‥‥急げっ、走れっ』

‥‥今一度‥‥

『こんの、ド・ア・ホッ!‥‥ガミガミガミガミっつうたろうがっ!』

‥‥わかりもうして候‥‥



後はいかに脱出するか、だが‥‥

強制的な精神操作を施すには危険だ。

これだけの精神操作を施した相手‥‥二重の精神負荷をかけることになる。人格

が分裂する可能性もあるし、下手をすれば崩壊してしまう。

『ちっ、神楽がいれば‥‥舞の馬鹿ったれには仕事ができちまったし‥‥』

山崎は肉体で討って出るしかないと判断した。

それも少しアレンジはするが‥‥

『こうなったら‥‥夢組隊長の‥‥裏技を披露するか‥‥』

急いで銀座に戻らないと‥‥

この調子では銀座にまで手が延びる可能性もある。

山崎は階段の踊り場に来た瞬間それを行った。







夕陽が海を照らしていた。

太平洋に山側から降り注ぐ赤い光。

湾岸道路を走る蒸気二輪車から海に向かって影が伸びる。

逆立った髪、黒いスーツも夕陽に染められて赤くラスタライズされる。それが風

に煽られて、それこそ吸血した後の蝙蝠のようにも見えた。潮風が黒い美影の鼻

孔をくすぐる。体内が潮の香りで清められていくようだった。

「‥‥なかなか‥‥いい眺めだな」

神凪は今朝マリアたちが通った湾岸道路をなぞるように横浜に向かって走ってい

た。運ぶのは”ハマイチ”。大戦終了後にさくらを引き留めるために大神が乗

り、そして今その大神を取り戻すために、その兄が乗っている。

「いい単車だ。ふふっ、そのうち、紅蘭、お前と‥‥そして一郎と三人で‥‥だ

からはやく帰ってこい。飛行機はその後だ」

大神が頭痛にうなされながらも脳裏に浮かんだ想い。

それを神凪も感じていた。

再び海を見る。

夕陽が照らす赤い海。

それを体内に持つ者。

それを取り戻すために走る。

黒い死神。

漆黒の鬼神。

無の世界に導く破壊神が走る。





<七章終わり>


NEXT

Uploaded 1997.11.25




ふみちゃんさんの大作、「花組野外公演」第七章です。



いよいよ敵が大神に手を出してきました。

暁蓮さん、けっこうマジに大神に惚れてるみたいですね。

やり方はともかく(^_^;)、結構純粋な人かもしれません。

敵も、完全なる悪人というわけではないようですし。

まあ、世の中に完全なる悪などというのは、虚構世界にしかいないかもしれませんね。

たいてい、利害が一致していないからとかいう理由で敵対することが多いですから。



それにしても、新キャラが続々登場しています。

名前だけわかってるキャラもあるし、目が離せません。



さあ、皆さん。ふみちゃんさんへ感想のメールを出しましょう!




ふみちゃんさんへのご意見、ご感想はこちらまで

(注:スパム対策のため、メールアドレスの@を▲にしています)

「花組野外公演」表紙に戻る
サクラ大戦HPへ戻る