<その2>



今日は特に外来の船が多いようだ。

拾隻以上の貨物船が岸壁に横付けされている。

‥‥横浜・関内。

日本の近代文化を成す様式はここで発祥したものが多い。

神戸と並ぶ日本を代表する貿易港であり、封建制度が破綻する以前から西洋の文

化や文明の利器がいち早く横浜に流れ込んだ。

内側に向かって歩くと“馬車道”にぶつかる‥‥そこにはもう一つの銀座があっ

た。

銀座よりも少し小さめで、風情のある建物が立ち並ぶ街。

少し横に歩くと広い敷地にぶつかる。

現在の横浜公園。

花が咲き誇るこの公園は、在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づいて、

“遊廓”の跡地に造られた。開園は明治9年。横浜でも数少ない、一般市民にも

解放されている“彼我(ひが)”公園と言う名の広場。



街の灯が点いた。銀座よりも柔らかい街灯が石畳の路面を照らす。

行き交う人々の顔は、どれもみな活力に満ちていた。黄昏時でも。



街並みからはずれ、海岸線に沿って南下すると、荒れ果てた広大な敷地が視界を

覆う。

関東大震災‥‥銀座崩壊を招いた六破星降魔陣は横浜にもその爪痕を残した。

広大な破壊痕は大正14年、つまり大戦終結一年後から、緑と海が見える公園へ

と再生させるべく、帝国の復興事業として埋め立て工事が行われた。

そして4年の月日を経て基礎工事が完了、現在の山下公園へと生まれ変わる。

夕陽が沈もうとするその時間でも、その荒れ果てた場所には子供たちの声が響き

渡っていた。

そこは子供の格好の遊び場だったに違いない。

たまりかねて一人の母親が向かえに来たようだ‥‥その女性は他の子供にも、早

く帰りなさい、と優しく声をかけた。早く帰らないと、異人さんに連れて行かれ

るわよ‥‥と。その女性は微笑んで我が子の手をとり、街並みの雑踏に消えてい

った。

そして、子供たちも波が引くかのように、一斉に消えていった。



神凪はそんな子供たちを横目で見て、少しだけ微笑んだ。

暗くなった海から優しく吹き付ける潮風が逆立った髪の毛を揺らす。

海を見る。

水平線の向こう側の世界は、既に夜だ。

神凪は少しだけ感傷的な気分になった。

「‥‥昔を思い出しましたか?」

「ん?‥‥ちょっとな」

「わたしは‥‥帝都のほうが好きですよ。特に‥‥日本橋が」

「ほう‥‥」

「あなたと初めて、共に戦った場所ですからね」

「‥‥光栄だな」

「行きましょうか、大佐」

「お前は戻っていいよ、神楽」

「‥‥聞こえません」

「司令としての命令だ」

「今のわたしは、夢組の神楽ではありません。あなたを‥‥お慕いする者です」



「あのな‥‥」

「‥‥氷室君は帰しました。青山での戦闘に彼は必要ですから」

神凪の横に少女‥‥紅蘭ほどの背丈の女性が立っていた。金髪だった。

すみれほどの長さの髪は眉の少し下で切り揃えられている‥‥マリアやアイリス

とは違った色の髪。

潮風がその柔らかくしっとりとした金髪を揺らす様は、凍てついた塵が光に散ら

されて輝く‥‥ダイヤモンドダストのようでもあった。

能面のような無表情な顔‥‥笑ったことがないような顔。笑えばそれなりの可愛

らしさを示すはずの幼げな美形。舞姫とは対照的な美があった。

幼い顔を彩る円らな瞳。それは銀色の瞳。

それは雪のような白い肌と相まって、まるで人形のようにも見えた。

そして、それとは対照的に、男性の欲望をそのまま形にしたような妖艶な唇。

どこか人間離れした美しさもあった。

世捨て人か、神に仕える巫女のように。あるいは‥‥人の精を喰らう夢魔のよう

に。

白い和服に赤い袴‥‥それも巫女のような出立ちだった。

‥‥金髪に銀色の瞳の巫女。

港街にはいかにも不釣り合いの気もするが‥‥荒れ果てた地を鎮魂するかのよう

に、神聖な雰囲気を以ってその風景に溶け込んでいた。



「わたしの代りに“夜叉姫”を配置させました。斯波さんには伝えてあります。

“無明妃”もそのまま青山待機です。山崎隊長には無断ですが‥‥許してくださ

るでしょうね。あなたを一人にするぐらいなら」

「‥‥俺はそんなに信頼出来ないかね」

「ご冗談を‥‥ただ、“かぐら”は常に“かんなぎ”と共にありますから‥‥万

が一、ですよ。あなたの“身代わり”は必要ですから」

「‥‥本気で言ってるのか?」

「ええ」

「‥‥可愛い顔してクールだな」

「‥‥‥」

神楽の無表情な白い顔が少しだけ赤く染まった。

銀色の瞳が瞼に半分だけ隠されて潤んでいた。

神凪は彼女の顔色を変えられる唯一の人物らしかった。

「しかも大胆だ‥‥マリアとそっくりだよ」

すぐに神楽の顔は元に戻った。

マリア、という言葉を聞いて。

「副司令、ですか‥‥比べられるのは、些か不愉快ですね」

「‥‥なあ‥‥なんでマリアのこと、そんな嫌うんだよ」

「‥‥‥‥」

「副司令なんだからな、彼女の‥‥」

「承知しております。それはそれで割り切ってますよ」

「‥‥はああ‥‥‥忘れ物を取りに行くか‥‥」

「‥‥もうすぐ始まりますね」

「夢の扉が開く音、か‥‥」

神凪は舗装道路の脇に置いていたハマイチまで戻った。神楽を後ろに乗せ、海沿

いを南下する。

神凪より30センチほど背の低い神楽。

はた目は親子か兄妹にしか見えないが‥‥能面のような無表情な神楽の顔に、再

び赤みが挿していることからも、本人にしてみれば不当な評価だったろう。

あなたをお慕いする者‥‥その言葉は飾りではなさそうだった。



今朝マリアたちが寄ったポーシュリンという酒場、そしてマリアの知人が経営す

る店は、関内の北側から距離をおいた場所‥‥現在の桜木町弁天橋付近にある。

神凪たちが向かう方向とは反対側だった。

現在の山下公園南端から歩いてすぐ小さな川にぶつかる。

その向こう‥‥左手は現在の本牧埠頭、右手には山手の丘が見える。

丘の中腹は外人墓地。横浜に定住した外国人が眠る場所。

そして、“港のみえる丘”公園。

目的の場所は、港のみえる丘公園の手前にあった。

この山手の丘一帯はイギリスとフランスの駐屯地域になっていて、この時代、一

般人が入ることはできない。

それがなぜ、中国産と思われる敵の本拠地になっているのか。

尤も神凪にしてみれば、そんなことは取るに足らない事象ではあったが。

神凪はいずれの国にも知己はいたため、大手を振って山手の丘に入り込んだ。

神楽の先行探索は勿論隠密に。

‥‥“かぐら”は常に“かんなぎ”と共にある‥‥“四季龍”が紅蘭の護衛につ

いてからは、その神楽の言葉どおり、神凪への情報伝達は神楽が担当していた。

月組も舌を捲く斥候能力‥‥赤い月光下の花やしきでの騒動も、全て神楽の監視

下にあった。そして、蠢く白い輩の裏に見え隠れする赤い月‥‥それは‥‥



神凪と神楽は蔦のからまる建物、その広い敷地を包む刑務所のような外塀の前に

立っていた。

急な上り坂が続く路‥‥ハマイチは苦もなく登った。

ハマイチを少し離れた路上に駐車する。神凪は神楽は少し汗ばんでいることに気

付いた。

「?‥‥お前、単車苦手だったか?」

「い、いえ‥‥そうでは‥‥なくて‥‥」

「?」

陽が落ちた後の黄昏時。夕陽の赤は消えたはずだが、神楽の頬はさらに赤く染ま

った。ハマイチから降りた神楽は、ついさっきまで自分の身体を暖めていた広い

背中を、名残惜しそうに見つめた。ほんの数分間のタンデムだった。

薄明かりがにじむ空と、街灯が照らす歩道。

ただ、この建物のまわりだけは闇に覆われていた。



「‥‥かなり強力な結界が張ってあります。途中で見失ったんですが‥‥“定期

入れ”が導いてくれました」

「‥‥侵入者の方向感覚を狂わせる結界‥‥この丘全体を覆っているようだな」



「ええ‥‥それと‥‥」

「?」

「‥‥先程建物から一人、外出した者がおります」

「‥‥‥」

「長い黒髪の美少年‥‥赤い中国服を着ていました。大佐が以前、中国で取り逃

がしたという、その青年ではないかと‥‥」

「‥‥月影、か」

「断言はできませんが‥‥恐ろしく強大な気を感じました。山崎隊長のそれを遥

かに凌いでます‥‥それどころか、今の大神隊長をも凌駕して‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥わたしの存在に気づいても、特に気にするでもなく‥‥どうも、帝都に向

かったようですね、主を残して」

「‥‥急いだほうがいいな」



神凪は記憶の片隅に焼き付いている、その宿敵を思い起こした。

中国に派遣された、その目的の一つ‥‥初期の帝国陸軍第七特殊部隊偵察班が命

を落としてつきとめた、辛亥戦争を煽った人物‥‥いや、物の怪。

銀色の長髪を女性のように優雅に振り乱し、駆け抜けた魔界の者。

それを粛正する。

神凪は二度、月影と戦った。

すみれと山崎には“一度見たことがある”と言った、その相手。一度ではなく、

実は二度だった。そして、見たことがある、ではなく、戦ったことがある、だっ

た。

誰の働き掛けがあったのか、わずか15で旧制中学を卒業した神凪。

帝都に上京した折りに出会った米田少将と真宮寺少佐。陸軍に入り、一年後中国

へ渡った。そして出会った‥‥その赤光の影。

わずか16歳の神凪と、悪魔のような力を振るう月影は、互角の戦いを演じた。

いや、寧ろ神凪のほうが押され気味にあった。父から伝授された技の殆どが無効

化されてしまう。無敗の技が‥‥通じない。月読を放つ余裕などなかった。当然

と言えば当然か‥‥16という年齢が、経験不足が戦いの状況を読むことを疎か

にしたのも事実だった。それでも‥‥五分に近い戦闘を繰り広げただけでも、神

凪の天才が図り知れた。そしてお互い満身創痍に至って、決着が付かないまま勝

負はお預けとなった。

神凪は傷の療養も兼ねて日本に戻った。

この頃から自らを“神凪龍一”と名乗るようになった。

二度目は、中国−ロシア−フランスと、それぞれ紅蘭、マリア、アイリスとあや

めに出会い、再び中国に戻って来た後。アイリスとの面会は間接的なものだった

が。

21歳になって自分の力が完全なものとなった神凪。5年の月日は神凪を別世界

の鬼神へと変貌させた。

神凪は月影を圧倒した。

悪魔をも喰らう黒い死神‥‥存在すら認めさせない破壊神の技。月読を遥かに超

える技を会得するに至った神凪は、この時点で大神家歴代最強の地位にのし上が

った。それはとりもなおさず‥‥“破壊”と“消去”という視点で比肩できる者

はこの世には存在しない、ということだった。

虚無的結末が脳裏に過る‥‥月影は生まれて初めて恐怖を覚えた。

敵などないと過信していた。先の戦いでは自分のほうが優勢。しかも5年の月日

は月影自身をも強大にしたはずだった。それが‥‥

月影は即断した。この男と戦ってはいけない、と。それが月影を救った。

月影は神凪の放った無双天威・月読から、“肉体”を犠牲にして逃亡した。肉体

はダミーだった。月影は黒いわだかまり‥‥腐肉の塊をダミーとして捨てた。そ

れは銀座で神凪が始末した、あの黒い不浄の物の怪と同一の構造を持つ者だっ

た。

逃亡出来ただけでも賞賛に値した。

一方の神凪は月影を取り逃がしたことをそれほど問題視しなかった‥‥と言うよ

り、寧ろ敵である月影を称えた。手加減したとは言え、月読から逃れられた者な

ど‥‥古今東西、月影が初めてだったからだ。



『‥‥銀座に向かうとなると‥‥まずいな、彼女ら三人では手におえん‥‥』

魔界の者だったはずだが‥‥心を入れ換えたか?

改心することで、更に強大に成長したか‥‥

銀色の髪の毛が黒く染め上がって‥‥

だれか知らんが余計な入れ知恵をしたようだな‥‥

『山崎がいても‥‥だめだな‥‥ちっ、あの時に始末しておくべきだった‥‥』



神凪の端正な眉に皺が寄る。

闇が彩る破壊の霊力が神凪の周囲に立ち上がる。

「大佐‥‥」

神楽の銀色の瞳に感情の色が現れた。

悲哀に満ちた色。

神楽はその子供のような細い手を神凪の腕に延ばした。

閉じられた外壁の門‥‥頑丈そのものの門を、神凪は確かめることもせず粉々に

破壊して中に入った。元月組隊長とは思えない、正面からの来訪だった。







「あ‥‥すみれさん‥‥」

「あら‥‥お茶でもいかが?」

「は、はい‥‥」

さくらはまだ赤い目をこすりながらサロンに入った。少し汗ばんだ肌を手で扇ぎ

ながら、すみれがお茶を入れようとしていた。

すみれは横目でさくらを見て‥‥そして湯のみを二つ棚から取り出してテーブル

に向かった。さくらは少しぼけっとしながら、そんなすみれの動作を眺めてい

た。

「‥‥泣いてても、何も解決しませんわよ」

「!!」

「欲しければ‥‥実践あるのみ」

すみれはそこでさくらに向き直った。

さくらは赤い目を皿のように広げてすみれを見つめた。

汗ばんだ肌は殊更にすみれの妖艶さを際立たせていたが、それ以上に、内側から

にじみ出る強烈な母性が、さくらのまだ幼さの残る心に深々と突き刺さった。

すみれが微笑む。

少女の笑みではなかった。

「あなたの欲しいものが‥‥わたくしのそれと違うなら、わたくしはあなたの味

方。同じでも‥‥わたくしはあなたの敵にはなりませんわ」

「え‥‥」

「‥‥今のあなたは、わたくしの敵には値しませんから」

「!」

「ふふふ‥‥あなたは‥‥女であることを自覚していないでしょう、さくらさ

ん」

「そ、そんなこと‥‥」

「いいえ。あなたは‥‥ただ、今の生活に満足しているだけ」

「そんな‥‥」

「ただ、今の状態が‥‥ずっと続けばいいと、そう願っているだけ」

「‥‥‥」

すみれはそこで再び棚に移動した。

ポットから急須にお湯を注ぎ、テーブルに移動する。

二つの湯のみにお茶を注いで、そして腰掛けた。入り口に立つ‥‥下を向いたま

まのさくらに背を向けるように。

「お茶が入りましたわよ」

「わたしは‥‥わたしは‥‥」

「‥‥全ての人が幸せになれるなんて‥‥それは夢の中の話ですわ」

「‥‥‥」

「ふふ‥‥まあ、そういうわたくしも、“魔法”というものは信じていましたわ

‥‥でもね、それはいずれ解けてしまう」

「魔法‥‥」

「12時の魔法‥‥ふっ、シンデレラなんて、ここにはいないのよ‥‥」

「‥‥‥」

「‥‥違いますわね。みんながシンデレラ、か‥‥‥だから想い人は、黙ってい

ても追いかけて来てはくれない‥‥こちらが手招きをしなければ‥‥」

「‥‥‥」

「そう‥‥あなたの幸せが、他のだれかの幸せを奪うとしても‥‥それは運命で

あって、あなたが気にすることではないのよ、さくらさん」

「でも‥‥」

すみれはただ背を向けたまま、さくらに話し掛ける。

時折、お茶を優雅に嗜みながら。

さくらは顔を振り上げて、すみれの背中を見た。

柔らかい栗色の髪がかかる、肩の柔肌。

紫色の着物が輪郭を作る、細く淫靡な腰つき‥‥

さくらは女でありながら、そんなすみれの後姿に魅入った。

さくらの視線に気づいたのか‥‥すみれは横を向き、そして横目で後方のさくら

を見た。

開け放たれた胸元が、もう限界まで開ききって‥‥そこにいる者を性別を問わず

虜にするような妖しいオーラが取り巻いていた。それに引きずられるように‥‥

脚を隠すはずの合わせ目までもが後退する。白い脚‥‥さくらは女であるにも関

らず、目が離せなかった。恐ろしく妖艶な仕草だった。

「‥‥わたくしは‥‥美しいでしょう?」

「!」

洒落にならない台詞だった。

「‥‥わたくしのようになりたいでしょう?」

「す、すみれ、さん‥‥」

「では、あなたの成すべきことは一つ‥‥」

「!!‥‥そ、そんな、そんな‥‥」

「それは、あなたのためでもあるのよ、さくらさん」

「そんな、そんな‥‥わたしは‥‥」

すみれは再度テーブルに向き直り、そして立ち上がった。

入り口に立つさくらに向かってゆっくりと歩み寄ってくる。

またもや下を向いたさくらの横に立ち、そして耳元で囁いた。

「‥‥いつまでも迷ってらっしゃい。大尉は‥‥わたくしのもの。そして大佐は

‥‥ふふ、そうね、マリアさんのものかしら?‥‥あなたはいつまでも、お子様

のままでいなさい。わたくしの娘としてね‥‥おほほほほ‥‥」

そう言ってすみれはサロンを後にした。

再び中庭へ‥‥護るべき人のために。

さくらは‥‥

何処を見るでもなく、ただすみれの座っていたあたりに視線を固定して立ち尽く

すだけだった。

「わたしは‥‥わたしは子供じゃない‥‥わたしは、わたしは‥‥」

そう言いながらも、さくらは拳を握り締めて、またもやうつむくしかなかった。







すみれは大神の部屋の前を通りかかって、ふいに立ち止まった。

入室禁止の札。

「‥‥改装中って、司令が言ってたけど‥‥」

人の気配がする。

大神は青山に向かったはずだが‥‥気配は勿論大神ではない。

「‥‥司令?‥‥おかしいですわね、司令は横浜に‥‥」

神凪の気配は札から発せられていた。

そして中からも‥‥それに上乗せするように別の気配。

「‥‥これは‥‥まさか‥‥杏華さん、では‥‥」

すみれはドアノブに手を掛けた。

が、なぜか思い直してドアから離れた。

開ける意思が根こそぎ奪われたような感覚だった。

‥‥大神の部屋には入らないでくれるか‥‥

「‥‥お呼びでない、と‥‥そういうことですのね」

すみれの目がギラッと輝いた。

「‥‥ふふん、まあいいでしょう」

そして図書室脇の階段から一階へ降りる。

支配人室脇に長刀を立て掛けておいた。その支配人室のドアを見つめる。

「これしきで挫けるほど‥‥わたくしは柔ではありませんわよ、“大神”大佐」



そして中庭へ降りる。

すっかり暗くなった中庭を、一昨日のように窓から染み出す劇場の明かりを受け

て銀光が奔った。それはやはり先程と同じように、悲哀や焦りなど微塵もない強

い意志を持った光だった。

「‥‥強敵は多いほど、勝利した後の快感は格別‥‥ふふふ‥‥だれにも‥‥だ

れにも渡しませんわ‥‥あの人はわたくしのもの‥‥わたくしの‥‥」





さくらは居所がなくなったような面持ちで、今度は地下に向かった。

地下司令室に明かりが点っている。

マリアがいた。

「さくら?‥‥もうすぐ作戦が開始されるから、あなたは部屋にいなさい」

「作戦って‥‥」

「司令が言ってたでしょ。花組は本件とは無関係だって」

「‥‥‥」

「‥‥じっとしていられない?‥‥なら、すみれと手合わせすることね」

マリアは冷たく言い放った。副司令としての冷徹な女性がそこにいた。

さくらはしょんぼりとして立ち去ろうとした。

何処にも‥‥居場所がなかった。

ふいにマリアの足下に光を吸収するような黒い棒が見えた。

棒ではなく、鞘、だった。

「それは‥‥」

「‥‥ん?‥‥どうしたの?」

「いえ‥‥なんでも、ないです‥‥」

神凪の刀‥‥霊剣修羅王。

‥‥これは、荒鷹の兄貴みたいなもんだよ‥‥大神と俺に似てるかもな‥‥

さくらは司令室を後にした。

『なんでマリアさんが‥‥麗一さんの刀を‥‥』

さくらは駆け出した。そのまま地下格納庫へ向かう‥‥だれもいない所へ。

『‥‥もう、やだっ』

また涙が自然に零れてきた。

やり場のない悲しみがさくらを襲った。



カンカンカンカン‥‥



地下格納庫への階段だけは鉄で出来ていた。

さくらの足音が乾いた空気に空しく響く。



カン‥カン‥‥カン‥‥‥



「‥‥グス‥‥‥ひっく‥‥ひっく‥‥」

涙でぐしょぐしょになった顔を手でぬぐう。

なぜ泣くのか?

‥‥悲しいから。

なぜ悲しいのか?

‥‥だれも‥‥だれもわたしの傍に‥‥いて、くれない‥‥

だれか、傍にいてよ‥‥

寂しいよ‥‥

さくらは潤んだ瞳で格納庫を見渡した。右手にプレハブが置いてある。

さくらが乗る神武はプレハブの中で補修中で、格納庫入口からは見えない。

神凪の指示で杏華が手を加えていた。

‥‥心配しないで、さくらさん‥‥あなたの機体は、きっとあなたを護ってくれ

るから‥‥そして、大神さんを、ね‥‥

真夜中の格納庫、その入室禁止のプレハブに入ったさくらに杏華が言った。

「グスッ‥‥さみしいよ、杏華さん‥‥何処行ったの‥‥」

プレハプの外、カタパルトデッキには今は四機の神武が立っていた。

赤、青、ガングレー、新緑の機体。

片隅に生を終えた紫色の機体‥‥殆ど骨だけになっている。使用できる部品は全

て神凪と山崎によってバラされていた。

‥‥さくらくんの神武には‥‥すみれくんの機体の左腕をつける‥‥

二度目の戦闘の後、左腕を失ったさくらの機体。すみれの機体は右腕を失った

上、もう動くこともできない。神凪は、試作型弐号機をすみれの新しい機体とし

て再調整し、今傍らに蹲っている死んだ機体の左腕をさくらの機体に再生させる

つもりだと、そうさくらに告げた。

「‥‥グス‥‥すみれさん‥‥すみれさああん‥‥ひっく‥‥」

‥‥泣いてても‥‥何も解決しませんわよ‥‥

さくらはその紫色の機体‥‥もう紫色の装甲もほんのわずかしか覆っていない、

その機体の傍にやってきた。

泣いているような気がした。

「‥‥グスッ‥‥あなたも‥‥悲しいの?‥‥グスッ‥‥」



‥‥カタッ‥‥

「!‥‥だれっ!?」

さくらは涙目のまま振り向いた。

だれもいない。

「‥‥グスッ」



‥‥キン‥‥キ−ン‥‥

「だ、だれよ‥‥」

さくらは格納庫の隅々まで見渡した。

荒鷹は手元にない。

さくらはそれでも無手の構えで気配を探った。



‥‥オ−−ン‥‥

さくらは音の方向に身体を向けた。

無手でも‥‥奥義は放てる。

左手の手刀を前面に、右手の拳を胸にあてる。



その方向には‥‥闇があった。

光を吸収する黒い鬼神。

零式神武の音‥‥悲鳴だった。

「‥‥黒い神武‥‥麗一さんの‥‥片身‥‥」



さくらはゆっくりと零式の前まで歩み寄った。いつかの大神と同じように。

零式と真正面で対峙するさくら。

零式の単眼が、ゆらっと閃く。

「‥‥わたしの声を‥‥聞いたの?」

零式の単眼が再びゆらめいた。

「‥‥わたしが泣いていたから?」

零式は大神の前でそうしたように、ハッチを開いた。

さくらも同じように、零式に乗った。



グリップを握ると‥‥ハッチは閉じた。

漆黒のコクピット。計器は夜空の星のようだった。

「‥‥きれい‥‥それに‥‥」

さくらはグリップを離し、背もたれに身体を預けた。

「お母さんに抱かれてるみたい‥‥」

さくらの目からはいつしか涙は途切れていた。代わって穏やかな笑みが口元に創

られる。

目を閉じる。神凪と‥‥なぜか大神の匂いがした。

「‥‥麗一さんと‥‥大神さんに‥‥抱かれてる‥‥」

声がした。

それは大神が聞いた声とは違っていた。

声は神凪のそれに似ていた。そして大神のそれに。

二人の声と、吐息、体温がさくらを包む。

それに呼応するように目に見えない黒い触手がさくらを取り巻く。神凪と大神の

波動を以って。

「あ‥‥」

まるで本当に触れられているかのような感触だった。

「‥‥んあ‥‥んん」

それはさくらの全身に絡み付いた。

さくらの身体の全て‥‥髪に、耳に、唇に、手に、胸に、脚に‥‥女であるさく

らの全てに。

「‥‥んん、ん‥‥ああ‥‥」

恐ろしいほどの快感がさくらの肉体を、精神を支配した。

意思の制御も効かず、身体に宛ら断末魔の痙攣が奔る。悲しみも、寂しさも、迷

いも‥‥もう記憶の彼方に消えてしまっていた。

「れ、れいいち‥さん‥‥‥‥お、おお‥が‥‥み‥‥‥ひっ」

さくらは、二人の大神に愛されて‥‥声にならない声を上げて失神した。

それは更にさくらの奥まで入り込んだ。

肉体を超え、心の奥底まで‥‥

さくらの最も深いところで眠る‥‥力の源泉。

そこまで零式の触手は延びた。

さくらは夢を見ていた。二人の大神とともにある夢。大神と神凪が‥‥自分の体

内にいる。傍にいるのではなく、肉体の一部と化す。精神の一部と化す。決して

離れることはない。

『‥‥わたしの中に‥‥大神さんがいる‥‥麗一さんがいる‥‥』

失神したさくらの顔は、肉体が得られる快感を超えた‥‥天女のような恍惚とし

た笑みを浮かべていた。

零式の単眼が‥‥猛烈な輝きを見せる。

真紅の目がまさに血の色を呈していた。

黒い触手は、山崎の施したシールドに染み込んで‥‥その禁断の力と接続した。







「‥‥ふう」

すみれは長刀を下ろした。

気の流れ、霊力の配分‥‥随分よくなった。

勿論特訓だけによるものではなかった。大神に抱かれたこと‥‥それは、すみれ

に更なる向上を促したようだった。

これなら鳳凰蓮華を放っても後に影響は出ないだろう。

「後は司令からの伝授、か‥‥ふふっ、楽しみですわね」

すみれはふいに空を見上げた。

星は見えない。今日は曇り空のようだ。

昼は明るい陽差しが照り付けていたのに‥‥夜になって雲が出てきたのか。

月は見えない。

だが、しばらくすると‥‥それは現れた。

‥‥赤い月、だった。

「‥‥ふんっ、月の分際で赤く染まるなど‥‥ん?」

すみれは見上げていた顔を横の劇場の方向に戻した。

一瞬、劇場の廊下の灯が遮蔽されたような気がした。

「招かれざる客か‥‥」

すみれは速やかに劇場の中に戻った。







「‥‥三人は?」

『建物は判明。場所の特定と保護は汚染処理と並行して行う』

「‥‥“夢枕”と“勿忘草”の手は?」

『そっちに向かってるよ』

「そう‥‥」

マリアは少しだけ俯いた。

モニターには暗い夜が写る。そして二人の青年。

『‥‥まだかい?』

「‥‥“月見草”は5メートル先行して侵入、その後方、“夢の扉を開ける者”

は“雪を散らす者”の直後に配置、三人一組で潜行。青き山は朱雀と青龍の方角

より、花の畑は白虎と玄武の方向より」



『‥‥それで?』『‥‥勝手にやっていいんだな?』

意外に素っ気ない反応。



「‥‥朱雀から出でし青き山で狩る七つの光は、不浄の獣と物の怪を駆逐せよ。

青龍から迎えし者は、癒しの巫女と戦いの女神を守護せよ‥‥“宵待草”の指示

に従え。しかる後に鬼の眠る間に侵攻、これを拘束すべし」

『方角を司る神‥‥その意思を狂わす物の怪あり』

「‥‥朱雀から出でし者、雪化粧でそれを消せ」

『“星龍”の墓に埋もれし闇の骸は如何いたす?』

「?‥‥何のこと?」

『‥‥知らずんば黙視されよ、花の姫君‥‥我が処置いたす故』

スクリーンに写る金色の長髪‥‥如何なる辺境に於ても変わることのない雄々し

き髦、そして、その同じ金色の瞳が光を放つ。

マリア自身も辛い青春を過ごしてきたが、それを更に凌ぐであろう過去をにじま

せる青年がそこにいた。

金色の瞳は氷のようだった。スクリーン越しにも見る者を凍結させてしまいそう

な気合が感じ取れる。まさに雪組隊長だった。

‥‥君だけではない‥‥君以上に辛い過去を持つ者もいる‥‥

彼も‥‥その一人なのか‥‥

自分が恥ずかしい‥‥マリアは少しだけ自己嫌悪に陥った。勿論、銀幕の向こう

に佇む青年は男だが‥‥そんなところに性別の違いを出しても無意味だ。

「わたし、ほんと馬鹿みたい‥‥」

『?‥‥何か?』

「いえ‥‥」

マリアは気を取り直して傍らの分割画面に写るもう一人の青年を向いた。



「‥‥玄武から来たりし花の畑で噤む者たちは、物の怪を引き付け、これを殲

滅。この間、白虎から忍びし者たちは、速やかに鯨の口に向かえ。風の知らせが

待つ」

『風の踊り子、次女は岬の絶壁にある』

「!」

『ついでに、神の衣を創りし者も、な』

「!!‥‥そ、そんな‥‥どうして‥‥」

『‥‥おたくは結果待ちしてりゃいいっ!』

「‥‥‥」

またもや‥‥こちらの黒髪の青年は少し違った。

目が怒りを露にしている。一瞬マリアは見当違いの指令を出したかと悩んだほど

だった。



話には聞いていたが‥‥これほど扱いにくい人間だとは思わなかった。

月組と雪組の花やしき待機要員には指令を下したことはある。が、隊長に面と向

かうのは勿論初めてだ。

‥‥ああ、そうそう、雪と月の頭は大神とは全然違うからな‥‥

米田はそう言い残して司令職を去った。

‥‥あの二人を引き付けられるようなら‥‥ふっ、お前は本物だよ、マリア‥‥

けけけ、そんときゃ、神凪をクビにしてくれる‥‥

だが、それ以上に二人を駆り立てるものがありそうだった。

星龍の墓‥‥青龍ではなく星龍‥‥方角を示すものではないのか?

星龍‥‥星龍計画のことか?‥‥ミカサの跡地のことか?

花やしきでは‥‥“風の踊り子”の“次女”は、身動きがとれない状況下にある

のか?‥‥しかし、あれほど憤慨するほど‥‥いったい何が‥‥それに“神の衣

を創りし者”、即ち‥‥



「‥‥以降は現場にて判断。緊急時以外の無線連絡は禁止。以上」

『承知している』『当たり前だ』

二人は捨て台詞を残して緊急用無線を切った。

マリアは溜め息をついて椅子に座った。

「司令がいれば‥‥」

弱音など決して吐いたことのないマリア。そんな彼女をも圧倒する雰囲気を、あ

の二人の青年は発していた。

準備に問題でもあったのか?‥‥それとも‥‥

何れにしても、後は現場を指揮する雪組隊長と月組隊長の二人に任せるしかな

い。連絡がないことを祈るしか‥‥知らせがないのは良い知らせ、だった。終了

後は花やしきから花火を上げることになっている。

マリアは椅子に腰を下ろした。

傍らに置いていた霊剣修羅王を手にする。

少しだけ見つめて‥‥そして抱きしめた。

神凪の帰還は間に合わなかった。

「‥‥レイチ‥‥早く、早く帰ってきて‥‥」

またしても不安がマリアを襲う。失敗は許されない。失敗は‥‥帝国華撃団の壊

滅を意味している。

いつの間にかマリアの後ろに人がいた。

「はっ‥‥す、すみれ‥‥」

「‥‥ここには来ていないようですわね」

「え?」

「‥‥いえ‥‥さくらさんは?」

「さっき来たけど‥‥部屋には?」

「‥‥まずいですわね」

「‥‥どういうこと?」

すみれはちらっとマリアを見た。

黒いコートの胸に埋められた漆黒の鞘。マリアに抱かれ、その霊気が乗り移った

かのような剣気を放つ。黒い霊力と冷気を伴って。

「‥‥マリアさんは‥‥心配いりませんわね。でも気配にだけは注意していてく

ださいまし」

「?」

すみれは速やかに司令室を後にした。

手には長刀を持って。

「わたくしとしたことが‥‥言い過ぎたわね‥‥何処へ行ったの、さくらさん」



すみれの目に少し悲しい色が浮かび上がった。

娘を突き放すにも‥‥もっと言葉を選ぶべきだった。

不浄の気配は時を経ずして移動していた。すみれの霊的認識力が察知した影はさ

っきまで地下から発せられていた。今度は一階に上がったようだった。ロビーか

ら感じる。しかも動く気配がない。待っているかのようだ。

「わたくしを誘っているのか‥‥ふっ、生意気な物の怪よ。お待ちになっていな

さいっ!」







さくらが涙している頃、やはり同じように泣いていた女性がいた。

泣きやんで乾いた涙の跡が頬に残る。そして乾いてはまた涙する。

暗闇を照らす赤いランプ。

この日のランプはいつもよりも更に暗かった。

光を放つ気力を失ったかのようだった。

ベッドに横たわる白い青年。その横に佇む青い女性。白い青年‥‥大神の額に浮

かんだ汗をタオルで拭き取り、その度に唇を寄せる青い女性‥‥李暁蓮。その少

女のような唇も触れることはなかった。触れる寸前に大神が苦痛の吐息を漏ら

す。

「‥‥ひっく‥‥どうしたら‥‥ひっく‥‥いいの‥‥」

目が覚めない大神。

暁蓮は、苦痛を催さないぎりぎりの距離まで近づいて、ただ眠る大神を見つめる

しかなかった。



ズズ−−ンンン‥‥

「‥‥ひっく‥‥あ‥‥」

暁蓮は顔を振り上げ、そして立ち上がった。

再び付いた涙の跡を不器用に拭って、窓際に移動した。

カーテンを少しだけ横にずらして窓の外を見る。

「‥‥来ちゃった‥‥神凪さん‥‥‥大神、少尉‥‥あの頃のまま‥‥」

暁蓮は遠い記憶を呼び起こすような顔つきをした。

そこには青山で見せた顔、白・黒・赤の不浄の物の怪に見せた顔、月影や龍塵に

見せる顔、大神に示す顔、のいずれでもない、本当の素顔が介間見えた。初恋の

相手を前に見せる、そんな可憐な少女の表情だった。どこか‥‥杏華や、失踪す

る直前の紅蘭にも似ていた。



コンコン‥‥

「お見えになったようです‥‥門が破壊されてしまいましたが」

「‥‥開けておけばよかったわね。暫くしたら行くから‥‥粗相のないようにし

て」

「わかりました。付き添いの方もご一緒のようですが‥‥」

「‥‥女?」

「はい」

「始末していいわ」

「それは‥‥」

「始末していいわ、と言ったのよ」

「‥‥わかりました。ですが、お嬢様‥‥神凪殿が傍に居るよう指示した場合

は、よろしいですね?」

「‥‥わかったわよ」

「では‥‥」

声の主はドアから離れて行った。

窓の外は既に暗闇が覆っていた。暁蓮のいる建物の敷地、かなり広いその敷地の

中には灯りを形成するものは一つもない。

暗闇だけが覆う、暗い敷地を歩く二人。

暁蓮はその背の高い人影に魅入った。

そして、その横の巫女のような少女‥‥暁蓮の目つきが変わる。

「‥‥なんなの、あの女は‥‥どいつもこいつも‥‥わたしの欲しいものを‥‥

奪おうとして‥‥」

暁蓮の目が、窓に反射する赤いランプの光を受けて真紅に輝いた。

それは‥‥戦場に向かう神凪のそれと全く同じ色を呈していた。





「‥‥とてもセンスがあるとは思えんな、この屋敷は」

「人の気配はしませんね。あるいは‥‥遮蔽されている、か‥‥」

神楽は屋敷の外観を隅々まで値踏みした。

一個所、うっすらと‥‥本当にうっすらと光が漏れる場所を見い出す。

窓のカーテンからにじんでいるようだ。

赤い光。

人が立っているのがわかった。

「‥‥‥」

「どうした?」

「哀れな人‥‥失った過去の代償に‥‥人の意思を束縛するのか‥‥」

「神楽‥‥“遠見”はやめろと言ったろ。お前の‥‥命を削る」

「‥‥身に余るお言葉‥‥神楽はそれだけで‥‥」

「アホッ‥‥行くぞ」

神凪はやはりノックもせず玄関の扉を開け放った。

土足でずかずかと入り込む。

「大佐‥‥いくらなんでも‥‥」

「そんなこと、気にするほど綺麗な屋敷か?」

「‥‥いらっしゃいませ」

出迎えがいた。

玄関をまっすぐ走る廊下、その10メートルほど先が、どうも客間のようだっ

た。

その男‥‥龍塵は客間の扉を開けて、神凪と神楽を出迎えた。

「私は龍塵と申します‥‥」

「出迎えご苦労。だが俺は忙しい」

神凪はまたも、ずかずかと客間に入っていった。

神楽は、神凪の背中を見る龍塵に、ぺこっと頭を下げて追随した。

「ご容赦ください‥‥些か機嫌が悪いもので‥‥」

「‥‥そのようですね。よろしければ何かお飲み物でも‥‥」

「いらねえよ」

客間の中央できょろきょろと視線を動かす神凪が言った。厚手のカーテンで窓の

外からは見えないが、それでも明かりは点いていた。この屋敷で唯一灯が点る場

所かもしれない。

龍塵は溜め息をついた。取り付くしまがない。

「‥‥あの」

「はい」

「紅茶を‥‥所望したいのですが‥‥」

「はい、ただいまお持ちいたします」

龍塵はこれまた珍しく微笑んで客間を後にした。

「いらねえっつうただろうがっ!」

「まあまあ‥‥大佐、座りましょう」

「お前なあ‥‥」

「ソファは革張りですね」

「あ?‥‥ちっ、ボロ屋敷のくせして、家具はいいもの使ってるじゃねえか」

神凪はドカッとソファに腰を下ろした。

神楽が横にぴったりと寄り添うように腰を下ろす。

勿論背もたれには背をつけない。

女性らしく、と言えばそれまでだが、神楽の場合、背もたれに背をつけたら神凪

の腕に絡まれる格好になる。

それを想像しただけで神楽の顔は赤く染まった。

「‥‥お前、さっきからなんか変だな、神楽‥‥熱でもあんのか?」

「そんなことは‥‥」

「どれどれ‥‥」

神凪は神楽の肩を抱き寄せて、額に、頬に手をあてた。

想像を上回る結果を神楽は得ることになってしまった。

「あ‥‥」

「‥‥少しあるな。風邪ひいたか?‥‥単車で来るんじゃなかったか」

目の前に神凪の顔がある。

神楽は一瞬硬直して、そして耐えきれず目を閉じた。

「い、いえ、そんな‥‥もう、わたし、単車、大好きですから」

「お前‥‥ほんと、変だぞ、今日‥‥」

神凪は暫くそのまま神楽の肩を抱いていた。神楽の華奢な肩から震えが伝わって

くる。やはり風邪をひいたのか‥‥神凪は殊更に神楽を自分の身体に密着させ

た。

神楽は今度こそ完璧に顔を真っ赤にして俯いてしまった。



「お待たせしました」

龍塵が二人分のティーカップをトレーに乗せて客間に現れた。

床に膝をつき、丁重に神凪と神楽の前に置く。

「お、お前‥‥異様だな、そんなデカイ成りで‥‥」

「大佐っ‥‥申し訳ありません、無粋で‥‥」

「ふふっ‥‥いいえ‥‥」

龍塵はついに声に出して笑ってしまった。

神凪龍一‥‥帝国華撃団・花組隊長、大神一郎の兄‥‥本名、大神麗一。帝国陸

軍第七特殊部隊・隊長。そして第二代帝国華撃団・総司令長官。孤高の戦士にし

て希代の戦略・戦術士。神凪の履歴が調査できたのは三年前まで。それはマリア

と同じだった。龍塵が今まで邂逅した人間では間違いなく最強。それに、なぜか

月影を彷彿させる。

「‥‥俺の顔になんかついてるか?‥‥龍‥塵、とか言ったな」

「いえ‥‥」

「‥‥お前も座れよ」

「は?」

「お前も座れって言ってる」

「‥‥いえ、私は‥‥主を迎えなければ‥‥」

「別に構わんだろ。主はすぐに来るんだろ?‥‥座って待ってりゃいい」

「で、では‥‥」

龍塵は仕方なく神楽の前に座った。

神凪の真向かいは主が座るべき場所。

無音‥‥いや、規則的な音が聞こえた。

時を刻む音。

客間には時計があった。

帝劇ロビーの壁に架けられているような、大型の古時計だった。これも大きな振

り子が往復する。

神凪がそれを暫く見つめていると、横で神楽がカップに口をつけようとした。

「ちょっと待て、神楽」

「え‥‥」

きょとんと、それこそ人形のように振り向く神楽。

神凪は神楽の小さな手に包まれたティーカップをがばっと奪い取った。

「な、なんです?」

神凪はその中身を飲んだ。

「‥‥ふん、問題ないようだな」

「失礼ですよ‥‥大佐」

なぜか神楽は最初に龍塵と目が合ってから、裏表のない人物、と判断した。それ

は勘もあったが、それ以上に夢組隊長の側近としての認識力がモノを言った。

「‥‥仕方ありません。ですが、私としては歓迎しているだけで、他意はないこ

とは‥‥理解していただけないでしょうか」

「けっ‥‥神楽、俺の口がついたところから飲めよ」

「え‥‥」

「いいから」

「は、はい‥‥で、では、その‥‥いただきます‥‥」

神楽はまたしても真っ赤になりながら‥‥手が震えながら紅茶をすすった。

すすった後も暫く唇は離れなかった。

「‥‥主はまだか?‥‥さっき言ったように俺は暇ではない。来なければ頂くも

のを頂いて行くだけだ」

「戴く、とは?」

「‥‥お前が確認する必要はないよ‥‥龍塵とやら」

神凪の目が真紅に染まる。そしてその内側に吹き荒れる闇の結晶流。口を開ける

とそれは目の前にあるものを全て飲み込んでしまいそうだった。

龍塵は震撼した。

まさか、これほどとは‥‥

「今暫く。主はただいま‥‥然るお人を‥‥介添っております故‥‥」

「ほう‥‥それはまさか、白い海軍服を着た色男ではあるまいな?」

「‥‥私にはわかりかねます。入室は罷り成らん、ということなので」

「‥‥‥‥」

神凪の目がさらに赤く輝く。

皮膚のその下は血液ではなく、闇が流れているのでは、と思えるほどだった。限

界まで我慢しているようだ。

龍塵の額に生まれて初めて汗というものが浮かび上がった。敵対するには‥‥相

当の覚悟がいる。だが‥‥矛を交えてみたい、という想いもまた否定できない。

戦場で相対する敵としては至高の相手だ。龍塵は胆に気を流しこんだ。

「‥‥申し訳ありません。今暫く‥‥今暫くお待ちください。主は‥‥お客様の

前に姿を見せるには‥‥些か‥‥取り乱して、おります故‥‥」

龍塵はかなり言いにくそうに吐露した。

主の痴態を暴露するなど‥‥龍塵にしてみれば不貞もいいところだった。

それでも、神凪を抑えるには、本当のことを話すしかない。

「‥‥拐かされて‥‥そいつを好きになる人間がいるかね?」

神凪の霊力は、それこそ人の形を作るように凝縮した。つまり‥‥自分の輪郭に

沿って。

もうこれ以上抑え込むのも限界だった。



「‥‥お待たせいたしました」

神凪らが入ってきた入り口からの扉、その反対側にある扉が開いた。

「わたくしが‥‥この屋敷の主、李暁蓮、と申します」

神凪は座っているソファの右手にあるその扉、そこに佇む群青色のチャイナドレ

スの女性を不動の姿勢のまま横目で見た。

神楽は無言のまま暁蓮の目だけを見つめた。

暁蓮は神凪と神楽を交互に見て、ソファに向かった。勿論向ける視線の質には明

らかな差異があった。

神凪の前に座る暁蓮。涙の跡は綺麗に拭い去られていたが、目はまだ赤みを帯び

たままだった。

チャイナドレスが、脚を組んだ瞬間傍らにずり下がる。

正面に座る者が男であれば‥‥完全に理性を失うような光景だった。

「‥‥神凪さん、ですわね」

「名乗った覚えはないが‥‥では用件は承知しているな?」

「ふふ‥‥龍塵‥‥」

「はい」

暁蓮が入室したと同時に龍塵は立ち上がっていた。

「こちらの‥‥美しいお嬢さんを別室へご案内して。わたしは‥‥神凪さんとお

話することがあるから」

「‥‥かしこまりました」

「気遣いは無用に願う。俺の用件には会話も不要だ」

神凪は一瞬たりとも暁蓮の目から視線を離さなかった。目の前に座る女性を見て

いるわけでもなさそうだった。

「‥‥なぜ?」

「それに、“かぐら”は常に“かんなぎ”と共にある」

神楽は、はっと神凪を見つめた。

神凪はそれに応じるように神楽を抱き寄せる。

「あ‥‥」

神楽の人形のような顔が再度真っ赤に染まった。

対照的に暁蓮のこめかみには不釣り合いな血管が浮き出る。

それでも、自制して神凪を説得する暁蓮‥‥大神とは勝手が違う。

「本題に移ろうか‥‥奪ったものを返してもらおう」

「‥‥こうして‥‥また、お会い出来たのに‥‥」

「は?‥‥記憶にないな。いつ?どこで?‥‥‥俺はお前が奪ったものを‥‥取

り返しに来ただけなんだがな‥‥何度も言わせるな」

「‥‥‥‥」

まさに取り付くしまがなかった。

今の神凪の目には、優柔不断や躊躇い、戸惑い、迷い、憂い、哀れみ‥‥そんな

人間的な感情が、一切欠落していた。ただ‥‥見えない氷の蓋で隠された殺意と

破壊の霊気が、氷山の一角、その一角の粉雪のように、暁蓮に降りかかってくる

だけだった。粉雪で‥‥殺されそうな気合いだった。相手が死人であろうと、魔

界の者であろうと、天の使いであろうと‥‥女であろうが、子供であろうが、老

人であろうが‥‥御構いなし。

記憶を呼び覚そうにも‥‥大神を手に入れることで、神凪の来訪を招くのには成

功したものの、その逆鱗に触れることになるとは‥‥暁蓮は後悔した。タイミン

グが悪かった。順番を間違えた。

暁蓮は俯いた。顔には少し悲しい色の翳が創られた。

初恋の相手に、自分の嫌なところだけを見せてしまった‥‥そんな想いだった。



殺意だけが自分に降りかかる‥‥

なんとも想われないよりは‥‥まし、か‥‥

気にも止めないような存在になるぐらいなら、いっそ嫌われたほうがいい‥‥記

憶の片隅に埋もれてしまうぐらいなら、その手にかかって死んだほうが‥‥

それが逆に意図せず、暁蓮の想いは神凪に伝達された。



「‥‥顔をあげろ」

「え?」

「もっとよく‥‥顔を見せろ」

「‥‥はい」

神凪はゆっくりと身体を前に差し出した。目を細める‥‥帝国劇場で大神と再会

した折りに見せた神凪独特の表情。大神にはない、その大人びた表情で、少し頬

を赤く染めた暁蓮を見つめた。

暁蓮はますます顔を赤く染めた。

顔をよく見せろ、と言われても、まっすぐに自分を見つめる神凪の目を見て、暁

蓮は再び俯くしかなかった。

組んだ脚も‥‥元に戻して、そろえられた膝の上に、同じように手もそろえる。



龍塵は目を瞠った。このような主の姿を見るのは初めてだった。

「‥‥李‥‥暁蓮‥‥と言ったな‥‥」

「はい‥‥」

「それは‥‥偽名だな?」

「‥‥はい」

「本名は?」

「‥‥‥」

「‥‥言えないかね」

「‥‥‥‥それは‥‥‥あの‥‥‥」

神凪はじっと暁蓮を見つめたまま、横にいる神楽の手を握った。

神楽の銀色の瞳が輝く。

すっと立ち上がり、暁蓮が入ってきた扉に向かった。

「あ‥‥」

暁蓮が追おうとする。

「動くな!」

再び神凪の視線の拘束を受けた。

まさに拘束‥‥暁蓮の身体は少女のように固まってしまった。

龍塵が代わって神楽の後についた。

「龍塵とやら‥‥」

「‥‥私はご案内するだけです‥‥約束いたします。決して付き添いのご婦人に

手出しはしないと‥‥」

「約束の反故は‥‥即ち無の世界への帰化と知れ」

「‥‥わかっております」

龍塵は丁重に神楽を案内した。暁蓮の閨に。

暁蓮はただ、神凪の視線を受けて‥‥じっと俯いているだけだった。

顔だけではなく、肩からむきだしの腕、そしてチャイナドレスの切れ目から覗く

白い脚もが赤みを帯びて。

神楽と龍塵が客間から消えた。

‥‥遠い記憶‥‥遠い過去の思い出にある一人の少女が、今目の前にいる女性と

一致するのか‥‥神凪はそれを確認するべく、暁蓮の膝の上に組まれた手を取

り、そして自分の横に招き寄せた。









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