<その3> 銀座の街は黄昏時の薄明りに覆われる頃街灯を灯す。 そして、空はすぐに闇に染まる。 この日はなぜか出歩く人が少ない。 繁華街を埋めるはずの自動車も数えるほどだった。 一台の貨物運送用蒸気自動車が銀座に入る。 貨物の中身は七瀬の腕だった。 渋滞にも巻き込まれず、これならあと数分で劇場入りできる。 山崎は9割以上出来上がった七瀬の右腕を、花やしきではなく銀座で完了させる つもりだった。作戦に影響を与えるだろうし、残っているのはフレームの取り付 け部分だけだ。それに‥‥銀座に残っているのはマリアとさくら、すみれ、そし て杏華の四人だけ。 有事の際、マリアと杏華は当然戦闘には参加できない。 劇場を護るのは‥‥すみれとさくらだけ。 山崎は焦った。 原因はそれだけではなかった。 山崎は苦汁を飲んで花やしきを後にした。仲間を人質に取られて撤退する指揮官 ‥‥その辛さを初めて味わった。 ‥‥銀弓に任せるしかない。 舞姫もいるし‥‥可憐さんも合流する。 本当は昼食を済ませた後すぐに帰還するはずだった。 それが結局、花やしきを出るのが、空が赤く染まる頃にまで延びてしまった。 ‥‥昼下がり、午後の陽差しが最も強くなる時間帯。 花やしきで遊ぶ子供の声が、最も高く木霊する時間。 山崎が陸軍少佐とその部下の隠蔽工作をしていた頃、舞姫は地下格納庫第弐倉庫 を護衛する兵士を片付ける作業に邁進していた。作業と言っても、ただ舞を舞う だけだったが。その後は所望の“腕”を搬送して、初期状態に戻る‥‥つまり特 令第参号の準備へ。 「‥‥いかがでありんす?由里殿」 「んごごご‥‥ふしゅ〜‥‥んががが‥‥んんん、いやあん、大神さんたら‥‥ ぬひひひ‥‥んごごご‥‥ふしゅ〜‥‥」 「‥‥寝ておじゃる。わらわの舞は‥‥つまらぬかえ?」 舞姫が見せた白拍子の舞は、護衛の兵士を深層心理まで解放させた。むき出しに なった心を探索した結果、下士官と兵士には心理操作は及んでいないと判明し た。舞姫はすぐに兵士を深い眠りに誘った。それは物陰から覗いていた由里にま で影響を与えてしまったようだ。 廊下に倒れ込み、へらへら笑いながら熟睡する由里。由里は勿論、普段鼾などか かないし寝言も言わない。そういう要因が外部から入り込んだ、ということだっ た。 極楽にでもいる夢を見てるのか、頬は薄紅色に染まり、口の端からだらだらと涎 が滴り落ちていた。 舞姫は由里を叩き起こした。 赤いミニスカートから生える白い脚。その先端‥‥細い足首が行き着く先は、ま た赤い靴。その赤い靴の踵で、由里の滑らかな腰にドカドカ蹴りを入れる。 「‥‥な、なにすんのよ‥‥女王様はわたしよ‥‥あ、あれ?」 「わらわの舞を愚弄するとはフトドキ千万。しかも‥‥なんという破廉恥な‥‥ さっさと“勿忘草”の腕を奪還するのぢゃっ!」 「‥‥えらそうに‥‥さっきまで、ひいひい言ってたくせに‥‥」 「参るぞえっ!」 「はいはい‥‥」 舞姫と由里は、取り敢えず廊下の兵士を第弐倉庫に隠した。やはり山崎と同じよ うに。そこでも力仕事は由里の出番となった。わらわに箸より重い物を持てと言 うのかえ?という塩梅だ。 由里は溜息をついて、一人重労働を受け持った。 倉庫を漁る舞姫。 「ないのう‥‥いったい何処にあるのぢゃ‥‥お‥‥あれでは‥‥!」 舞姫はふいに姿勢を正した。 その切れ長の美しい目で倉庫の片隅をじっと見つめる。なんとか片付け終わった 由里が舞姫の傍らに歩み寄った。舞姫の横顔を見つめる由里。舞姫の視線、その 先には‥‥確かに何かいた。再び舞姫を見つめる由里。 それが舞姫の本来の姿だったに違いない。由里と同じぐらいの背丈。日の本の国 が生み出す伝統美、古典芸術がそこに息づいていた。 「‥‥どうしました?」 「すまんのう、由里殿‥‥勿忘草の腕は‥‥右の‥‥青い箱にあるようぢゃ。台 車に乗っておる。それを運んでくだされ」 「‥‥お手伝い、しましょうか?」 「助太刀は無用ぢゃ‥‥」 それは舞姫の声に促されるように姿を現わした。 黒い霞。 やはり三匹。 「こ、これは‥‥」 「ほほう‥‥久しぶりよのう、このような不浄の輩は‥‥腕が鳴るぞえ。さ、急 がれよ、由里殿」 舞姫の鋭い視線を受けて由里は言葉を失った。 黒い霞のような不浄の物の怪、それを凌ぐ霊力が舞姫から立ち上がる。隊長であ る山崎をも完全に凌いでいる。花組の少女たちにも全く引けを取っていない。そ れどころか最も高い霊的潜在能力を持つであろう、すみれやアイリスにも比肩す る力が、由里のか弱い霊的認識力を震撼した。 これが‥‥夢組副隊長の実力か‥‥ 霊力の強い女性、しかも霊子甲冑と相性のいい女性は花組に配属される。 相性がいい、とは霊子力機関とそれを制御する霊子反応基盤と霊気波長が合致す る、という意味。由里はまさか花組以外にこれほどの力を有する女性がいるとは 思わなかった。なぜ花組に抜擢されなかったのか‥‥米田が知らなかったとは、 とても思えないが‥‥ 「‥‥すぐに戻ります。山崎さんに知らせて‥‥」 「無用ぢゃっ!‥‥お館様には‥‥知らせんでたもれ‥‥」 「舞姫さん‥‥」 「わらわは‥‥お館様の足枷にはなりとうない‥‥後生ぢゃ、由里殿‥‥」 花組に配属されなかった、のではなく‥‥夢組に居たかったのか‥‥ 由里は納得した。 「‥‥では、残りますよ、わたし」 「‥‥由里殿には仕事がござろう‥‥鯨の口にての」 「‥‥‥」 「懸念は無用ぢゃて。わらわの力がわからぬ訳でもなかろうに‥‥のう、由里 殿」 頑固な由里も舞姫の目を見て、遂に従うことにした。 だが、いくら力があっても‥‥舞姫一人を残すことなど‥‥ 「‥‥わかりました。でも、助太刀するかは否かは‥‥風の神のみぞ知る、です よ‥‥舞姫さん」 「‥‥ふふ‥‥わかりもうして候」 由里は“勿忘草”の腕‥‥七瀬の右腕を乗せた台車に移動した。 影が蠢く。 その間に陽炎のようにすすっと移動する舞姫。質量を持たないかの如き身のこな し‥‥それも本来の姿なのか。 由里はちらっと舞姫の後姿を見た。 束ねて濡れたような長い髪が腰帯にかかる。そして赤いミニスカート‥‥白い脚 ‥‥細い足首‥‥赤い靴‥‥改めて見つめると、少女のような出立ちだった。少 女の中にある妖艶な美しさ。退魔の巫女。 「‥‥行きます」 由里はキッと前方を見直して格納庫の外に出た。 「‥‥華月‥‥カズキッ、居るんでしょ、出て来なさいっ!」 倉庫から20メートルも移動すれば、地下駐車場に入る。そしてその脇‥‥“廃 棄物処理用”と記された、一辺が1メートル余りの鉄の扉。そこが花やしき工場 から翔鯨丸格納庫への連絡通路の入り口だった。 由里は気配の全くない駐車場に着くなり小声で叫んだ。 由里の背後にいきなり人の影が現れた。 「ひっ‥‥」 「‥‥人を呼んどいて‥‥その幽霊でも見るような態度‥‥なんすかあ、いった い‥‥」 上下を焦茶色の装いに身を包んだ青年が立つ。 「び、びっくりした‥‥あ、あんた、早く向こうの第弐倉庫に行ってくれる?」 「‥‥舞姫様、ですか?」 「‥‥わかってたの?‥‥だったら、早く‥‥」 「大丈夫ですよ、彼女ならね‥‥山崎も来るでしょうし」 「ちょっと‥‥彼女は‥‥」 「ふっ、由里先輩‥‥少し勉強不足みたいですねえ。おしゃべりは情報に基づく もんでしょうが」 「ぬう‥‥」 「それと‥‥いいかげん“華月”って呼び捨てにするの、よしてくださいよ。そ うだな、“銀弓さん”もしくは“銀弓少尉”、あわよくば“銀弓隊長”と呼びた まえ、榊原君」 「ピキッ‥‥」 銀弓華月。帝国華撃団・第三代月組隊長。 姓は“しらゆみ”、名は“かずき”、そして徒名は“銀狐”。 紅蘭失踪当日の夜、米田が大神本人に吐露したこと‥‥大神は士官学校時代、帝 撃の監視下にあった。その大神に関する調査報告を受け取りに海軍士官学校に向 かった由里。 そこで四人の青年が由里の目に停った。海軍と陸軍の合同訓練の打ち合わせが行 われていた場所。一人は山崎。そしてもう一人が銀弓だった。もう一人‥‥これ はよくわからないが、陸軍に所属している人間らしい。褐色の肌と燃えるような 髪形が印象的だった。残る一人は勿論、大神。 他の山崎と銀弓より一つ上の大神は、この時点で既に首席終了する段階だったた めに、訓練要項のみを聞いた後すぐに打ち合わせ会議室から退出した。従って山 崎とはこの時点での面識はない。銀弓とはその後に一度だけ顔を合わせることに なる。 今一人の燃える髪形の青年も大神同様退出した。大神とは別方向に向かって歩き だす。ちらっと見つめる由里、その青年の異様な背の高さに瞬間息を飲んだが、 大神と顔を合わせないよう、そそくさと立ち去った。 大神が花組隊長として銀座に赴任した年、由里は陸軍士官学校に暫時事務方とし て兼任出向した。勿論米田の取り計らいで。由里は銀弓と接触を図った。山崎は 他の誰かにマークされているようだった。そのことは米田から聞いていた。 由里と銀弓が知己になるのに時間はかからなかった。そこに男女の情や関係など はない。由里はそういう部分については極めてドライだった。それも銀座に駐在 し、花組に混じり、大戦を経て少しずつ氷解して行くのだったが‥‥ 士官学校在籍中に付けられた“ぎんぎつね”という呼称に、銀弓は憤慨し、殊あ る毎に由里に食らい付いてきた。狐のような狡猾さと俊敏さ‥‥そして羊、では なく狐の皮を被った狼‥‥眼力のある由里はすかさず銀弓を帝撃に組み込む策を 弄した。弱みを握るという単純な方法で。 結果、銀弓はその一年後‥‥つまり大戦終了後に帝撃月組配属となった。すぐに 隊長へ昇格。 同期の山崎については‥‥由里より先にマークした人間がスカウトしたようだ。 それは神凪。神凪はまだ士官学校在籍中の山崎を花やしきへ引っ張り出し、霊子 甲冑の整備技術を伝授した。当たり前だが極秘で。バレれば軍法会議モノだった が。 零式の整備。普通の人間には無理だった。零式は光武完成の一年後試作開始され た。その後処理に山崎は必要不可欠だった。 杏華は卯型開発初期から神崎重工の川崎研究所勤務となったが、零式の完成後す ぐに七瀬の開発主任に抜擢された上、零式が帝撃預かりになったため、この時点 での神凪及び山崎との面識はない。 その後神凪はすぐに中国に舞い戻って行った。在日期間が極端に短かった神凪、 従って米田は大神が月組に監視されていたことを神凪は知らないはずだと思って いた。が、そうではなかった。神凪は既に懐刀“四季龍”、可憐、そして神楽を 擁していたからだ。 そして山崎は夢組へ‥‥山崎は銀弓同様月組に配属されるものだと思っていた が、結局銀弓よりも先に‥‥雪が降る時期に帝撃入りすることになった。山崎を 夢組に配属させたのは、他ならぬ神凪だった。 銀弓のほうは山崎と違って帝撃に特別な思い入れがあったわけではない。 ちょうど神凪が月組隊長の席を離れる時期にぶつかったため、その索敵能力をま んまと利用された形になったわけだ。神凪と重なった期間は殆どない。その当時 は、勿論由里も神凪のことは知ってはいない。由里は劇場内の噂話だけではな く、帝撃全般の情報通でもあったが、どういう訳か神凪という名の男性の情報だ けは入手できなかった。当時の帝撃の間でも有名な人物であったにも関らず。 帝撃に入ってからは、さすがに“キツネ”と呼ぶわけにもいかず、名前の“カズ キ”と呼び捨てで、由里のいい暇つぶしになっていた。それも銀弓にしてみれ ば、いい迷惑だったが。 大戦が終わったにも関らず仕事が降ってくる。 銀弓は諜報のみならず、時折戦闘要員としても動員されるハメになった。しかも 相手は外国産のようだ。 戦闘‥‥月組隊長が肉弾戦を行う。尤も銀弓にしてみれば願ったり適ったりだっ た。索敵よりもこちらのほうが性に合っていた。 それは神凪から伝統が生まれたらしい。半年前は中国にまで飛ばされた。これは 神凪の要請だった。銀弓と神凪はそこで初めての対面となった。 銀弓は既に大神のことは知っていた。 実は大神と銀弓は一度戦ったことがあった‥‥勿論それは仕合でだったが。 大神一郎と神凪龍一‥‥監視対象としては共に第一級の重要人物であるため、帝 撃でその名を知らぬ者は殆どいなかったが、なぜか神凪の写真は存在しない。な ぜここに大神隊長がいるのか‥‥銀弓は疑問に思ったが、他人の空似か、とその 時はそう理解した。 銀弓の実力は時を経ずして帝撃に知れ渡った。 特に雪組隊長の斯波との組み合わせの妙は、大戦終了の後始末に花組の稼働が係 らなかったことからも推して知ることが出来る。米田をして『俺と一馬を思わせ る』と言わせたほどだった。 だが、銀弓の返答は『飲んだくれのクソジジイと一緒にしてもらっては俺の名が すたる』、斯波の答えは『自分は死人ではない。撤回してもらおうか、中将』‥ ‥という具合だ。新時代の指揮官の誕生だった。米田は頭をかかえてしまった。 こいつら洒落が通じんのか?しかも全然俺を上官だと思っとらん‥‥まだ大神の ほうが可愛い‥‥ そして現在に至っている。 ズゴッ 「ごふっ!」 大神にかました時と同じように、銀弓のどてっ腹に由里の鉄拳が炸裂した。 「あんた‥‥あたしをコケにしてるわね‥‥士官学校時代に‥‥女子風呂覗い て、吊るし上げられて‥‥助けてあげた恩も‥‥忘れて‥‥」 「そ、そんな‥‥む、昔のこと‥‥‥だって山崎のこと、山崎さんって呼んで、 なんで俺のこと‥‥」 「だまれっ!‥‥さっさと行くのよっ!」 「ひいい‥‥わ、わかりましたよ‥‥行きゃいいんでしょ、行きゃ‥‥」 「全く‥‥少しは大神さんを見習ったらいいのよ‥‥」 「‥‥ほう‥‥意中の人は‥‥なるほどにぃ、こりゃ大神隊長の人生も終わった なあああ!?」 「貴様‥‥」 「い、行ってきまあす!」 銀弓は月組隊長ならではの俊足で第弐倉庫に向かった。 由里は銀弓が寄り道しないか、きっちりと見送ってから、七瀬の腕を移動した。 貨物用自動車を探す。 かなり離れた場所に置いてあった。 「お、重いわね‥‥ちぇっ‥‥なんかついてないなあ、今日は‥‥一人でこんな ことばっかしてさ、大神さんもどっか行っちゃったし‥‥ん‥‥」 広大な地下駐車場を挟んで、花やしき工場地下への入り口と反対側に外界との出 入り口がある。そこから一台の黒い大型蒸気自動車が入ってきた。 由里はすかさず近くの自動車の陰に隠れた。 黒い自動車‥‥政財界の大物でも乗せるような豪華な外観だ。紅蘭の手が入った “鉄砲玉”ボディが持つ肉食獣のような外観とは違う、その牛のような体躯。 工場入り口に近いところで停車した。 ドアが開く。 かなり体格のいい男が下り立った。まわりを黒ずくめの護衛が固める。 どこかで見たことがある‥‥由里は記憶の片隅にある、その人物の名をなんとか 搾り出すことに成功した。 「‥‥あれは‥‥神崎重工の社長では‥‥」 神崎重樹。 神崎重工業株式会社社長。 会長である神崎忠義が社長を退いてから、霊子甲冑‥‥特に卯型の開発から指揮 を取った人物。勿論試作の卯型二体‥‥零式と七瀬には関与していない。それら は会長直轄の最高機密事項だった。 『なぜ‥‥こんな時に‥‥あの人が‥‥』 由里は七瀬の腕を取り敢えず物陰に隠して、尾行することにした。作戦のことも 頭にあったが‥‥なぜか、無視できなかった。 「‥‥まるでボウフラのようぢゃのう‥‥汚らわしい限りぢゃ‥‥」 第弐倉庫に湧き出した三匹の黒い霞を、舞姫は殆ど瞬き一つで消滅させた。 山崎の精神操作は“影”を媒体にしても伝達される。が、先の劇場での戦いのよ うに、有効性はあるものの直接接触ほどの威力はない。 舞姫の魔眼‥‥瞬きで黒い瞳が金色に変貌するその退魔の瞳は、山崎の精神操作 における破壊と消滅の要素のみを抽出して空間を伝搬する。直接接触なみの威力 を以って。 目で殺す‥‥とは冗談ごとではなく、恐るべき所業とも言えた。まさに巫女のみ が成しえる技‥‥業かもしれなかった。 自滅の意思を刷り込む。 黒い霞はすぐに消えた。 だが‥‥どういう訳か、また浮き出た。 また消す。暫くすると、また浮き出る。 それは、改心した、やっぱり死ぬのはいやだ、だから戻ってきた‥‥という滑稽 な意思のすり替わりでもなさそうだった。始末した物の怪とは別の存在だった。 「ここは‥‥どうも龍脈のようじゃのう‥‥だれが創ったかは知らぬが‥‥」 「龍脈‥‥気脈とか地脈のことかい?」 「ん?‥‥これは、華月殿かえ」 「‥‥あのさ‥‥銀弓って呼んでくれると有難いんだけど‥‥」 「ほほほ‥‥しらゆみの‥‥月も微睡む‥‥」 「わ、わかった、か、華月でいいよ、うん」 「‥‥わらわの詠が‥‥お気に召さぬと‥‥そう申されるのぢゃな?、そうなん ぢゃな?‥‥うぬぬぬ、お館様の友と聞いておったのに‥‥冷たいお人ぢゃっ、 ひどい仕打ちぢゃっ、わらわに隠居しろと、そう申されるのぢゃなっ!?」 「‥‥‥‥」 「ううう、近頃はお館様も全然わらわを構ってくれませぬ‥‥どうしたらよかろ う‥‥のう、華月殿‥‥わらわは愛想を尽かされたのであろうか?‥‥わらわは 尼寺にでも籠ったほうがよいのでござろうか?‥‥このままでは、行かず後家に なってしまいまする‥‥わらわは悲しい‥‥」 「あ、あの〜‥‥」 「もしや‥‥ま、まさか、花組の、いずれの姫君と‥‥わ、わらわを捨てて、 は、花組に婿入りするつもりでは‥‥‥いやぢゃ‥‥いやぢゃ、いやぢゃっ!‥ ‥うぬぬぬ、お、お館様を誑かすとは‥‥度し難きかな、銀座の手弱女ども‥‥ こ、こうなったら、わらわが直々に出向いて“無口の舞”を舞ってくれようぞ‥ ‥」 「‥‥マジ?」 銀弓の額に思わずたらーりと汗がつたう。 どうも今日は厄日のようだ。 目の前にはおかしなヤツも浮き出ているし‥‥遊んでいる場合ではなさそうだ。 「‥‥こいつら、気脈から沸き出るってことか?」 「‥‥どうもそのようでおじゃる。わらわの力でも、龍脈を塞ぐのは容易ではご ざりませぬぞえ」 それでは“虫”を潰すのは意味がなくなる。 巣を先に潰さないと‥‥ただ労力を無駄にするだけか。なんとか作戦開始まで潰 せるものは潰しておかないと‥‥ 「容易ではない、か‥‥方法がない訳ではないんだな‥‥必要な物でもあるのか い?」 「そうぢゃのう‥‥ん?‥‥そう言えば、華月殿は何故このような場所におるの ぢゃ?」 銀弓の脳裏に由里の顔がちらっと浮かび上がった。 「‥‥暇だから。まだ時間あるし‥‥舞姫様の舞でも見ようかと思って来たんだ が‥‥」 「おーほっほっほっ、それを早く言うのぢゃ、華月殿、今見せて‥‥」 「あああっ、いいいって、いいっ!、それよっか考えましょう、ねっ」 「‥‥そうか?‥‥残念ぢゃのう‥‥」 舞姫は細い腕のその先端、白魚のような指先を唇にあてた。 そこだけを見れば確かに妖艶な仕草だったが‥‥如何せん、短く切った十二単モ ドキがチンドン屋の如く爆笑の渦に誘う。銀弓は渾身の力を以って耐えた。い や、そんな場合ではない。 「‥‥ん?‥‥なんじゃな?」 「い、いや‥‥か、考えててくれるかい‥‥お、俺は、その間に、あ、あれがこ っちに来ないようにしとくから‥‥」 「‥‥思わせぶりよのう、わらわを見つめて‥‥声が震えておるぞね‥‥ん?‥ ‥!‥‥ま、まさか、わらわを誑かす所存かえ!?」 「な、何故に‥‥」 「わ、わらわを手篭めにして‥‥美人局におわすつもりぢゃな!?、そうなんぢ ゃな!?‥‥おやめになってたもれ‥‥わ、わらわの身体はお館様の‥‥あ、あ あ‥‥不埒なお人ぢゃ‥‥汚らわしいお人ぢゃっ、見損ないましたぞえっ!」 「‥‥‥‥」 無視したほうがよさそうだった。 銀弓はすたすたと倉庫の片隅‥‥その黒い蟠りが蠢く領域の直前まで歩み寄っ た。よく見ると、それは実体化する直前の不安定な組成のように見てとれた。 実体化しなければ無害。ただ視界のゴミになる程度だ。 銀弓は一目でその属性を判別した。 少し屈み込んで気配を探る。 気脈‥‥舞姫が龍脈と称したそれは、地下のかなり深いところから分岐している ようだった。枝分かれしている‥‥銀弓は真面目な顔つきになった。 月組隊長ならではの索敵の触手が気脈の枝を遡る。山崎のそれとは少し違う意識 の触手‥‥気配をさぐる人間追尾装置と呼んだほうがよかった。 枝の元は太い幹線だった。地下の幹線と思しきそれは、花やしき支部を胯ぐよう に貫いている様子。 さらに遡る。 幹線のその先は‥‥巨大な空洞だった。 かつて空中戦艦ミカサが埋まっていた空洞。 幹線はそこから何処かへ向かっている‥‥場所が特定できない。星龍計画が地脈 を狂わせたのは周知の事実だが、その影響が残っているためとも思えない。 銀弓は再度幹線部分に探索の触手を戻した。枝分かれは随所にあるだろうし‥‥ 表向きの巣を潰すという考えも、これでは問題がありそうだ。 「‥‥これはまずいな‥‥出所を抑えたほうがよさそうだ」 「出所かえ?」 「うわっ!?」 いつの間にか舞姫が耳元まで接近していた。月組隊長の面目丸潰れだ。 「出所は‥‥本人に聞いてみるかえ?」 「‥‥そうだな。場合によっては‥‥作戦と並行して始末することになるか‥‥ ちっ、面倒なこった‥‥」 銀弓は席を舞姫に譲った。 而して、銀弓の希望通り、舞姫の舞が再び演じられた。 「‥‥あれは‥‥由里さんじゃ‥‥」 山崎は地下第弐倉庫に向かう途中、地下二階廊下に至る階段の踊り場から由里の 姿を認めた。廊下の向こう側‥‥離れているため確認出来ないが、どうも、だれ かを追跡しているようにも見える。 由里がここにいる、ということは舞姫のほうは問題はないようだ。 山崎は由里を追跡することにした。少なくとも今日は単独で行動するのは危険 だ。 廊下を曲がる由里。 山崎がそれを追う。 曲がった方向には‥‥花やしき地下司令室があった。 山崎が初めて大神と対面した場所。 角を曲がると‥‥由里がいない。 「!‥‥消えた?‥‥どこだ‥‥」 探索の触手を延ばす山崎‥‥それが司令室の前で途切れる。 司令室前には見るからに屈強そうな黒ずくめの男が二人立っていた。どうも中に は花やしきにあるまじき重要人物が来訪しているようだ。由里はその人間を追っ てきたのか‥‥そこに由里がいることは間違いなさそうだ。 司令室の中にまで意識を伸ばす‥‥が、入り込めない。“千里眼”の目にも不可 視のシールドが張られていた。 『‥‥結界か』 花やしきに早くから出入りしていた山崎は、その裏の裏道まで熟知していた。特 に司令室周りは有事の際、指揮官を退避させなければならないため、幾つかダク トのような抜け道が造られている。銀座の緊急出動用シューターに似ている構造 だった。 意識のプローブが遮断される以上、肉眼で判断するしかない。 山崎はそこから司令室に侵入することにした。 「‥‥どなたですかな、お嬢さん」 佐官と思しき人物が聞く。 「‥‥家事手伝いに派遣された者です」 「はあ?」「‥‥どこかでお目にかかったことが‥‥あるな」 由里はしっかりと捕獲されてしまっていた。 司令室には神崎社長以外に軍人らしき人物が三人、護衛の兵士が四人。そのうち の二人が由里を囲む。軍服を着て椅子に座る三人は、どうも将校‥‥襟章からし て、少将と大佐、そして中佐のようだった。花やしきには珍しいトップクラスの 訪問だった。 「‥‥彼女は無関係だろう。離してあげなさい」 由里を庇ったのは神崎重樹だった。 会長である神崎忠義とは面識があった由里。社長の重樹を新聞で見ただけで、実 際に会うのは今日が初めてだ。目は‥‥すみれに似ているかもしれない。逆か。 すみれの目は父親ゆずりなのか‥‥ 一方、神崎重樹は由里のことをよく知っていた。 自分の娘が世話になっている劇場のことを知らぬはずがない。そこが帝国華撃団 の本拠地であることも。 銀座に駐在する全ての仲間たちは詳細に把握しているが、特に大神‥‥大神は神 崎重樹の心を占める最重要人物だった。すみれが想いを寄せている青年であるこ とも知っている。帝国華撃団・花組を率いる、優しいモギリ。だがそれ以上に‥ ‥ 「‥‥そうはいきませんよ、神崎さん。この娘さんには一度お会いしたことがあ る‥‥二年程前かな?‥‥士官学校で‥‥確か‥‥榊原、由里君、だったな」 「‥‥わたし、そんな有名だと思わなかったな」 いつもはマリアが座っている司令官用の椅子に座る陸軍少将。 それは確かに由里の記憶の片隅に存在する人間だった。 陸軍士官学校事務方として兼任出向した折り、講師として招かれた当時の陸軍大 佐。二年で少将に昇格するとは‥‥並々ならぬ力量と言えた。 「それとも‥‥帝国華撃団・風組、榊原副隊長とお呼びした方がよろしいかな ?」 「!!」 「月村隊長とは‥‥ご無沙汰しているだろう」 「‥‥‥」 「‥‥彼は‥‥我々に賛同してくれるようだよ、榊原君」 「!?」 「!!!」 司令室の物陰に到着した山崎は驚愕した。 風組隊長が‥‥取り込まれた!? 「な、何をおっしゃってるのか‥‥」 「何故、君がここにいるのかは不問にしよう‥‥それよりも‥‥」 「‥‥‥」 か、風組隊長が‥‥帝撃の、仲間が、裏切る、と‥‥言うのか‥‥ そんな‥‥ 待て‥‥何かおかしい‥‥ 山崎は必死で思考を巡らせた。 そう言えば‥‥風組隊長とは面識がない。 月村、と言ったか?‥‥ 確かに自分が入隊したのは一年ほど前だが‥‥それ以前から花やしきには出入り している。それなのに風組隊長とは一度も面会していないし、噂も聞かない。 月村‥‥ 待て‥‥待てよ‥‥何かひっかかる‥‥ 司令は知っているのか?‥‥いや、司令が月組隊長だった頃にも‥‥話は聞いて いないはずだ。待てよ‥‥特令第参号‥‥風組隊長には周知されていないぞ。司 令はかすみさんと由里さんに直接‥‥なぜだ‥‥司令は何か知っていたのか? いや、違うな‥‥やはり連絡がつかないからか‥‥月村、か‥‥ 米田前司令はどうだ‥‥知らないか‥‥ いや、五師団の指揮官は‥‥米田前司令と花小路伯爵が選定したはず。 知らないはずはない‥‥しかし‥‥どうする‥‥ 今となっては確認しようがない‥‥ 月村‥‥だれなんだ‥‥ 「ふふっ、君も我々の仲間に入らんか?‥‥君はなかなか優秀だからな。しかも 美しい。偶像は必要だ‥‥ジャンヌ・ダルクのようにね」 「仲間?」 風組隊長‥‥風組‥‥ミカサの航行も‥‥ かすみさんと‥‥由里さん‥‥椿さん‥‥他に、いたか? 知らない‥‥知らない?‥‥そんなはずは‥‥ ちょっと待て。 風組は‥‥銀座と花やしきに固定して駐在するのが‥‥ だ、だれだ‥‥いったい‥‥ 月村‥‥ ‥‥月? 赤い月‥‥その麗しい美影が山崎の脳裏に去来する。先輩である陸軍少佐を虜に した、あの赤い月。顔は知っても、記憶に残さない程度の操作は簡単に施してし まうだろう。そして、帝撃に何食わぬ顔で入り込むことも。 「ふふ‥‥君は本当に美しい‥‥事務整理のお嬢さんで終わってしまうのは‥‥ 余りにも不毛と言うものだ」 「ほ、ほっといてくださいよ‥‥」 月村‥‥月影か!? まさか‥‥俺が帝劇に入る以前から入り込んでいたのか!? 情報が漏れていたのは‥‥そいつの‥‥所為だったのか!? 山崎の額と背中にどっと冷たい汗が浮き出した。 月影が姿を消した‥‥それは神凪が支配人として赴任してきたが故なのか。 仇敵同士が上官と部下になる。実現すれば、米田がカンナに言った言葉も真実味 を帯びてくると言うものだが。 『な、なんて、こと、だ‥‥これでは‥‥作戦は‥‥』 「‥‥榊原君‥‥君は今の生活に満足しているのかね?」 「おっしゃる意味が‥‥わたしには理解しかねますが‥‥」 「ふふ‥‥大神大尉か‥‥彼も間も無く合流してくれるはずだ」 「!?」「!!」 ば、馬鹿なっ‥‥大神さんが‥‥大神隊長が、て、敵に廻ると!? 舞姫が俺に言ったのと違う‥‥‥‥ま、まさか既に洗脳されて‥‥ し、司令は間に合うのか‥‥ 待て‥‥では指揮はタチバナ副司令が? ぎ、銀座には、だれが残っているんだ?‥‥今、敵が来たら‥‥ 「大神さんが‥‥いったい、なんだと言うんですかっ!?」 「大戦の英雄が‥‥我々と共に、新たなるミレニアムを築くのだ‥‥」 「な、何を言って‥‥」 「君は‥‥想い人を孤独にしていいのかね‥‥‥君が来てくれたら‥‥その傍ら で共に夢を見ることが出来ると言うのに、常しえにね」 「な、何を‥‥」 訳もわからず拘束された由里。 何かが起っている‥‥目の前の陸軍将校が、神凪の示唆した危機の象徴なのか‥ ‥ その訳のわからない脅威が‥‥大神という餌を由里の前に突き付けた。 「‥‥ふふ‥‥決して離れることはない‥‥どうかね?」 「な‥‥」 「彼の心は‥‥君のことで埋め尽くされている‥‥彼は君のことしか考えていな いのだよ‥‥」 「そん、な‥‥」 「想い人は‥‥君を欲している。君を求めているのだ‥‥君の全てを‥‥それな のに、君は彼を一人にするのかね?」 「う‥‥うう‥‥」 「悩むことはない‥‥彼に抱かれるがいい‥‥彼に愛されるがいい‥‥‥彼は君 を待っている‥‥彼は君だけを望んでいる‥‥」 「うう‥‥わ、わたしは‥‥わたしは‥‥」 甘い言葉。 甘い餌だった。 天上からの呼び声に等しかった。 絶対に‥‥絶対に言えない‥‥ 心の奥底に埋めたはずの‥‥だれにも言えない想い‥‥無言の叫び声。 それをいとも容易く釣り上げてしまう。 大神が微笑みかける‥‥ ‥‥わたしはただの事務屋さん‥‥‥振り向いてもらおうなんて、そんな‥‥あ なたは、違う世界の人‥‥花組の‥‥王子様‥‥ 大神は少し悲しそうな表情をした。 由里は‥‥さらに悲しそうに‥‥ 手を差し伸べる大神。 大神の顔に笑顔が戻っていた。少し照れくさそうに微笑んで。 ‥‥わたしを、選んでくれるの?‥‥わたしを‥‥愛して‥くれるの?‥‥わた しを‥‥わたしなんかを‥‥ 甘い罠。 手招きをする天使には黒い尾ビレがついていた。 天上の香りの向こう側は‥‥破壊。破滅。死の平原が広がっていた。 由里の目には見えなかった。 霞がかかって‥‥目が曇って向こう側の景色はよく見えなかった。 ただ、大神の微笑みだけが由里を包んでいた。 その少将にも月影の操作が施されているのを山崎は即座に見抜いた。しかも‥‥ 恐るべきことに、残留効果まで波及させるほど深く取り込まれている。状況は先 の陸軍少佐を凌いでいる。二次感染させるとは‥‥山崎は冷汗で濡れた顔を真っ 青にして聞き入った。このままでは由里まで汚染されてしまう‥‥ 司令室に突入して‥‥だめだ、相手が多すぎる。しかも、神崎社長と由里‥‥二 人を保護して戦闘を行うのも‥‥無理だ。 「‥‥待ちたまえ。話を反らしてもらっては困るな。榊原君も‥‥疲れているよ うだし、休ませて欲しいものだな。私の要件はそれからだよ、少将」 「‥‥ふっ、わかりましたよ、神崎さん」 由里の顔は山崎とは違って赤く染められていた。 自ら抱きしめるように床に蹲る由里。 そして‥‥気の強いはずの、その瞳は潤んで、いつの間にか涙が零れ落ちてい た。 由里の涙。 白百合の朝露にも似て、それは儚げに床を濡らした。 『‥‥くっ‥‥一時‥‥退却、か‥‥く、くそ‥‥』 由里への精神操作は出来なかった。距離もある。神語りさえ出来ない‥‥司令室 に施された結界は山崎の意思の触手を空回りさせるだけだった。 山崎は拳を握りしめ‥‥唇を噛みしめ、司令室を後にした。 神崎社長がそこにいる理由も気になるが‥‥それよりも速攻で伝令を出さないと ‥‥間に合わない。また作戦の変更だ。青山には神楽はいない‥‥意思の伝達は 出来ない。先の様子だと、舞姫もまだ伝令は発していないだろう‥‥脚で連絡す るしかない‥‥ 由里が拘束された。大神の話も出た。 手は銀座にまで確実に伸びている。中止は論外、今日この日を逃したら‥‥もう 後はない。二度目はない。些細な失敗も許されない。 『‥‥必ず‥‥助けます‥‥それまで‥‥耐えていて‥‥ください‥‥由里さん ‥‥』 月影‥‥ 何者かは知らんが‥‥ もう、勘弁ならん‥‥ 先輩を‥‥由里さんを‥‥ 帝撃を蝕んで‥‥癌細胞がっ! ‥‥許さん‥‥絶対に許さんっ! ‥‥殺して、やる‥‥貴様は、貴様は俺が殺してやるっ! 山崎が去った後の隠し通路‥‥そこには血の跡があった。 山崎の唇から流れた血だった。 銀弓と舞姫は第弐倉庫を後にして、地下駐車場に向かった。 取り敢えず、巣から沸きだすその出口の一個所は仮止めの“蓋”をした。 何れにしても長くは持たない。元から絶たなければだめだった。 舞姫の舞は、不浄の黒い霞を実体化に導いた。そしてその肉がかすれたような声 から得られた言葉‥‥ 「‥‥やはり作戦と並行で実施、だな。今やったら‥‥バレる可能性がある」 「わらわは如何すればよろしかろう?」 「そうだな‥‥ん?」 山崎の姿が見えた。 駐車場方面とは反対側‥‥つまり第弐倉庫が右手に見える廊下の向こう側。登り 階段に向かっているように見えた。 一瞬‥‥かなり急いでいる様子だったが‥‥ 「どうされた?」 「‥‥いや、舞姫様は所定の場所にいてくれ。じき可憐さんも来る。俺は用事を 思い出したから‥‥少し離れるけど、時間には間に合うように戻る」 「‥‥わらわを一人にするのかえ?」 妙に寂しげに呟く舞姫。 無頼漢の如き銀弓も少しばかりグラっときた。 「“朧”が配置しているよ。それと“村雨”君もさっき到着したから‥‥」 「‥‥朧月‥‥村雨けむる花野辺の‥‥‥はあ、わらわは華月殿に傍にいてほし いのう‥‥」 「ふふ、身に余る光栄。月と雪の面倒、よろしく‥‥では」 銀弓は音もなく消えた。 本当に消えたようにしか見えなかった。 舞姫はぽつんと一人駐車場に残った。 なぜ駐車場に向かったのか。それは由里の残した仕事を銀弓が気にしたからだっ た。つまり七瀬の右腕。銀弓は舞姫にその探索を預けた形で去って行った。 「‥‥ひとりぼっちは寂しい‥‥由里殿は鯨の口へ向かわれたのぢゃろか‥‥は あ、お館様に会いたい‥‥」 実際、山崎は舞姫のみならず、他の夢組隊員とも三カ月余り顔を合わせていなか った。 花やしきでの整備士としての仕事が多かった上、ここ数週間は花組と行動を共に しての任務が主だったからだ。尤も暫時花組隊員としての任務のほうが、山崎自 身、夢組隊長としての自分よりも充実していたことは確かだった。 神凪の傍で‥‥花組と共にある。そこに霊子甲冑がある。自分を必要とする人が いる。 そして舞台。初めて見た舞台、そこは自ら立った舞台。 それこそが全ての力の源だった。それを護る。護るために‥‥戦う。舞台を、そ して花組を‥‥護るために‥‥ ‥‥そんなことは隊長として夢組のメンバーに言えるはずもない。 「‥‥おい‥‥どこ行くんだ?」 「はっ、銀弓か‥‥丁度いい、お前、今、暇か?」 「‥‥暇じゃねえよ。お前を見掛けたから来たんだよ」 「頼みがあるんだが‥‥」 「?」 花やしきの裏玄関。先の花やしき騒動で、アイリスと大神によって破壊された場 所‥‥銀弓はそこで山崎を捕まえた。大神が破壊した床と壁にはまだ生々しい傷 が残っていた。裏玄関は人が通れる程度には修理されていたが、仮補修では済ま ない、まるで爆撃でも受けたような破壊の跡が見てとれた。 「こ、この、俺が‥‥知らなかったなどと‥‥お、おのれ‥‥」 「お前、速攻で青山行ってくれ。斯波隊長に‥‥お前のほうが早い」 「な、なめた真似しやがって‥‥ゆ、由里先輩まで‥‥月、影‥‥と言ったか、 その下衆野郎は‥‥」 「そいつは俺がやる。伝えたらすぐに戻って来てくれ‥‥時間がない」 「‥‥‥‥」 「頼む」 「‥‥わかったよ。どっちにしろ‥‥青山には向かうつもりだった」 「?」 「‥‥地下に行け。舞姫様が待っている‥‥勿忘草の腕もな」 「‥‥すまん」 山崎は地下へ戻り、銀弓は青山へ走った。 風が出てきた。 花やしきの昼下がりはすぐに夕暮れに変わっていった。 子供たちの声も赤い空と共にフェードアウトしていく‥‥ そして静寂が覆った。 赤い空‥‥暖かい赤い夕陽が花やしきを染める。 しかし、優しい赤はすぐに眠りに誘う色に変わる‥‥ 銀弓は一時間足らずで花やしきに戻ってきた。 山崎と舞姫は由里が隠した七瀬の腕を発見するのに大分手間取ったが、銀弓が顔 を見せる頃には搬送用自動車に積み込んでいた。 花やしきでの準備は整った。 山崎は銀弓に花やしきの全てを託して銀座に戻って行った。 悲しげに見送る舞姫‥‥それも我慢できるぐらいの自制心は持っていた。由里を 庇ったぐらいだ。山崎に嫌われたくない、その一心であることも銀弓には痛いほ どよくわかった。夢組の副隊長‥‥花組の少女に比肩する霊力があっても、類い 稀な退魔の力を持っていても‥‥彼女はまだ少女と呼べる年頃だった。 「仮そめの‥‥宿に佇み‥‥舞さして‥‥ただ待ち侘びし‥‥花噤む人‥‥」 華やかな舞を舞う舞姫‥‥そして悲しい詠を奏でる舞姫‥‥ この作戦は‥‥本当に意味があるのか? 神凪司令ともあろう者が‥‥外道に哀れみを与えるのか? ヤツらの心を洗い流して‥‥それが何の役に立つ? あらぬ欲望を抱くから‥‥下衆に付け込まれるのだ‥‥ 殲滅。それが一番簡単だ。 汚染された軍人諸とも‥‥存在の抹消。連中を暗殺するぐらい簡単なことはない ‥‥なんの憂いも残らん‥‥下衆野郎しかいねえからな。 あんな連中はいないほうが‥‥そのほうがいい‥‥そのほうが‥‥俺のためだ‥ ‥みんなのためだ‥‥ なんで、こんな少女たちが‥‥手を汚さなきゃならん? ヤツらは決して明るい未来を与えてはくれない‥‥ 破滅しか齎さない‥‥ 絶望しか‥‥ 銀弓の心の葛藤は、若き日の神凪のそれに似ていた。 それは破壊神の憂い。破壊に駆り立てる矛盾の世界。全てを無に帰す‥‥そして 憂いは消える‥‥ 銀弓は自らの破滅的な思考を振り払うように頭を振った。 舞姫が悲しそうに見る。それは彼女自身の境遇ではなく、銀弓の心を哀れんで‥ ‥そして銀弓の手を取って微笑んだ。 銀弓も微笑み返す。 悩むのは後だ。 最優先事項は‥‥とりもなおさず、由里の奪還だった。 軍の上層部の人間であろうと‥‥それが洗脳下にあろうが、邪魔立てするなら抹 殺するつもりでいた。自分の最も大切な人を奪われたのだから。その人がいなけ れば今の自分はないのだから。帝撃には未練はない、が、導いてくれた人は別 だ。 指令を出すのは、神凪大佐ではなく‥‥タチバナ副司令か‥‥ふんっ、俺の知っ たことか。現場を仕切るのは自分だ。花組の実績を買われたらしいが‥‥ポッと 出の副司令などお呼びではないわっ! 風組隊長として入り込んだ月影という男の存在‥‥そして由里を奪われた銀弓の 怒りは、指令を下すマリアにまでその矛先を向けられていた。やり場のない怒り だと‥‥筋違いだとわかっていても。 舞姫の手のぬくもりは、銀弓の心までも暖めることはなかった。 静かな銀座。 眠らない街ではないが、人が絶える街でもない。 人の息吹が聞こえる街。 それが妙に静かだ‥‥ 自動車を運転していても、それが感じ取れる。 山崎は繁華街を経由しながら感じていた。 「もうすぐ‥‥ん?」 夢組隊長の意識が警報を鳴らす。 それは記憶に新しい警報だった。 「き、消えた‥‥さ、さくらさん!?」 山崎がさくらの深層心理に施した四重のガード。 それは山崎の意識の片隅と結合し、さくらの心理に負荷がかかった場合にすかさ ず警報を鳴らすようにプログラムしておいた。 それが一瞬にして消えた。 先の黒い不浄の輩、そいつが壊しかけた時の状況とは違う。 内側から“消えた”。 壊れた、のではなく、まるで吸収されるように消えた。 さくらとのリンクは途切れた。 山崎は劇場に着くなり、自動車を横付けして中に走っていった。 外に漏れる劇場の灯も、いつもより薄暗い。 生きる喜びを与える帝国劇場も、この夜は違った。 行き交う人々は振り向かなかった。 夜の帝国劇場を。
Uploaded 1998.1.16
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